ねずさんのひとりごとさんのサイトより
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<転載開始>
昨日に引き続き、ねずブロメルマガからの転載です。

藤原岩市参謀
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怪傑ハリマオ(1/3)
怪傑ハリマオ(2/3)

※昨日からの続き

さて、神本の説得に応じた豊のもとには、藤原機関から多額の軍資金が出るようになりました。
けれど豊は、受け取った軍資金をまるごと近隣の村人たちのために使いました。

昭和十六(1941)年、日本との開戦を予期していた英国軍は、日本軍がタイからマレー半島を縦断して進撃してくると想定していました。
そしてこのための防御基地として、マレー北部でタイ国境から三十キロ南にある小さな集落ジットラに、防禦陣地を建設していました。
この基地を中心とした英国のシンガポール防衛のための防衛ラインをジットラ・ラインといいます。
なかでもジットラ要塞は、その防衛戦の要(かなめ)でした。

ところが、この陣地建設現場に、ひそかに現地人としてハリマオの一党が浸透していたのです。

一党は、同じく防御陣地建設に狩り出されたマレー人労働者に協力をよびかけて、仕事に微妙に手を抜きました。
さらにトーチカの場所や地形などを調査し、精密な地図を日本軍に送りました。

このジットラ要塞について英国軍は「いかなる攻撃でも三ヵ月は持ちこたえる」と豪語していました。
しかしどんなに立派でも、中の工事が手抜き、内部の情報まで筒抜けになっていたら、張り子の虎です。

最近、お隣の某国では、北側にある国が休戦中(戦争継続中)の国であり、本当の敵であるにもかかわらず、それへの対策のための陸軍の増強ではなくて、なぜか南側にある日本を仮想敵国とした海軍の護衛艦やイージス艦の増強を図っていますが、こちらは、日本から何の工作もないので、やはり張り子の虎にもなっていません。
実は国民はちゃんとわかっているのです。
政府の酔っぱらったような日本非難は、一部の国内のお金持ちのフトコロを肥やすためだけのものであり、国民には何の利益ももたらさないことをです。
だから自然と増艦も整備も手抜きになる。張り子の虎になる。

さて、いざ戦端が開かれると、難攻不落のはずのジットラ要塞は、わずか二日で陥落してしまいました。
日本陸軍が強かった。もちろんそれもあります。
けれど同時にその勝利は、谷豊のハリマオ団の見事な工作と調査の賜物でもあったのです。

他にも英国軍には、大東亜戦争開戦に先立ってタイ南部から上陸する日本軍を水際で阻止するためのマタドール計画という作戦もありました。
これは英軍の精鋭部隊が密かに国境を越えて、日本軍がやってくるのを待ち伏せ、上陸する日本軍を一気にせん滅しようという作戦です。
この作戦もハリマオ団によって、事前に詳細が洩れていました。
おかげで日本軍は、開戦後、英軍を避けて悠々と上陸を果たしています。

ちなみに、この作戦にも明らかなように、大東亜戦争は「日本の一方的な真珠湾攻撃によってまるで騙しうちのように始まった」という左翼や反日の宣伝は、まるで嘘八百です。
英米豪は、ABCD包囲網を作り、日本がもはや開戦以外に選択の余地がなくなるように仕向け、開戦と同時に、徹底的にこれを粉砕しようと事前に十分に体制をとっていただけでなく、まさに「手ぐすねをひいて」待ち構えていたのです。

先の大東亜戦争について、日本の東亜諸国に対する侵略戦争だという人がいます。
けれど、日本が東亜諸国を侵略したというのなら、日本が現地で戦った相手はどこの国だったのでしょう。
それはビルマでしょうか。タイでしょうか。シンガポールでしょうか。マレーシアでしょう。
いいえ違います。
日本は、東南アジアで、英国、オランダなどと戦っているのです。
では、なぜ、そのとき、英国やオランダなどが東南アジアにいたのでしょうか。
東亜諸国を侵略したのは、誰だったのでしょうか。

ちょっと引用します。
藤岡信勝先生の日本史検定講座の講義からです。
「侵略」のことです。
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「侵略」というのは、英語でいったら「aggression」です。
「aggression」の意味は、「unprovoked attack」のことです。
「attack」は、攻撃です。
「provoke」というのは、挑発のことで、これに「un」がついて「un-provoked」ですから、「挑発されていないのに行った攻撃」のことが、「aggression=侵略」です。

挑発されて、つまり相手が刃を突きつけてきたので、身が危ないからと反撃する。
これは「un」のつかない「provoked attack」です。
ですから「provoked attack」は、全然「侵略」ではありません。
日露戦争も、日本が先に攻撃していますけれど、あれも「provoke」されているから日本に正当性があるのです。
「provoke」されていないのに「attack」したら、これは「侵略」です。
そうすると、上海事変で国民党が行った日本に対する戦闘行為は、まさに「侵略」です。
ですから、日本が支那を侵略したのではなくて、支那が日本に対して侵略して始まったのが、支那事変だということです。
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おわかりいただけますでしょうか。
挑発されてい攻撃するのは、侵略ではないのです。
まして、挑発され、準備万端整えられて、そこへやむなく攻撃することは、正当な国家主権の行使です。

さて、昭和十六年十二月の大東亜戦争開戦からちょうど一ヶ月が経った頃、日本陸軍の藤原岩市参謀は、マレー北部の小さな村で、ようやく豊に会うことができました。
藤原参謀は、そのときのことを著書「F機関」に次のように書いています。
すごく感動的です。

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「なに。谷君が待っているのか。おれも会いたかった。どこだ谷君は」
私は重い使命を背負わせ、大きな期待をかけている私の部下の谷君に、今日の今までついに会う機会がなかったのである。
数百名の子分を擁して荒し廻ったというマレイのハリマオは、私の想像とは全く反対の色白な柔和な小柄の青年だった。

私は谷君の挨拶を待つ間ももどかしく、
「谷君。藤原だよ。よいところで会ったなあ。御苦労。御苦労。ほんとうに苦労だった」と、彼の肩に手をかけて呼びかけた。谷君は深く腰を折り、敬けんなお辞儀をして容易に頭を上げないのであった。

私がダム破壊工作の成功を称えると、谷君はこう答えた。
「いいえ。大したことはありません。ペクラ河の橋梁の爆破装置の撤去は一日違いで手遅れとなって相済みませんでした。それから山づたいに英軍の背後に出て参りましたが、日本軍の進撃が余りに早いので遅れがちになって思う存分働けなかったのが残念です。この付近では英軍の電線を切ったり、ゴム林の中に潜んでいるマレイ人に宣伝したり致しましたが、日本軍のためにどれだけお役に立てたことでしょうか」

「君のこのたびの働きは、戦場に闘っている将校や、兵にも優る功績なんだよ」というと、谷君は私の顔を見上げて眼に涙を浮かべながら、

「有り難うございます。豊は一生懸命働きます。私の命は死んでも惜しくない命です。機関長の部下となり、立派な日本男児になって死ねるなら、これ以上の本望はございません」としみじみ述懐した。
(F機関一七六~一七七頁)
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マレーにおける特務機関の長である藤原は、当然、豊の過去の悲劇を知っています。
それだけの悲しみを得ながら、それでも復讐のために人を殺さず、どこまでも義賊を貫き、弱い者を助け、そしていま、こうして藤原参謀の前に立っても、どこまでも謙虚でいじましい。
そんな豊の態度は、藤原参謀の心にさえも、涙を誘いました。

しかしこのとき豊の体は、すでにマラリアにおかされていたのです。

初めての対面からおよそ一週間経った頃、藤原参謀のもとに「谷豊がマラリアを再発し危篤です」という報せが届きました。
藤原参謀は、豊と行動を共にしている神本に、すぐに豊をジョホールバルの陸軍病院に移すよう命令しました。
藤原は語ります。

「一人として大切でない部下はいない。しかし、わけてハリマオは、同君の数奇な過去の運命と、このたびの悲壮な御奉公とを思うと、何としても病気で殺したくなかった。敵弾に倒れるなら私もあきらめきれる。けれども病死させたのではあきらめきれない。私は無理なことを神本氏に命じた。『絶対に病死させるな』と」(同二四七頁)

そしてシンガポール陥落から数日経ったある日、藤原参謀は豊を見舞いました。

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私は生花を携えて病院にハリマオを見舞った。見舞いと慰労の言葉を述べると、ハリマオは、
「充分な働きが出来ないうちに、こんな病気になってしまって申し訳がありません」と謙虚に詫びた。
私は、「いやいやあまりに無理をし過ぎたからだ。お母さんのお手紙を読んでもらったか。よかったね」というと、ハリマオはうなづいて胸一杯の感激を示した。両眼から玉のような涙があふれるようにほほを伝わってながれた。
私は更に、「谷君、今日軍政監部の馬奈木少将に君のことを話して、病気が治ったら、軍政監部の官吏に起用してもらうことに話が決まったぞ」と伝えると、ハリマオはきっと私の視線を見つめつつ、
「私が! 谷が! 日本の官吏さんになれますんですか。官吏さんに!」と叫ぶようにいった。
ハリマオの余りの喜びに、むしろ私が驚き入った。
(前掲書二六九頁)
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官吏というのは、今の国家公務員です。盗賊として日本人から白眼視されていた豊にとって、その処遇は夢にさえ見ることのないものでした。
開戦の一ヵ月前、豊は九州の母親宛に一通の手紙を書いています。日本を離れて長い年月を過ごした豊の手紙は、たどたどしいカタカナで綴られています。

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お母さん。豊の長い間の不幸をお許し下さい。
豊は毎日遠い祖国のお母さんをしのんで御安否を心配しております。
お母さん。日本と英国の間は、近いうちに戦争が始まるかも知れないほどに緊張しております。
豊は日本軍参謀本部田村大佐や藤原少佐の命令を受けて、大事な使命を帯びて日本のために働くこととなりました。
お母さん喜んで下さい。
豊は真の日本男児として更生し、祖国のために一身を捧げるときが参りました。
豊は近いうちに単身英軍の中に入って行ってマレイ人を味方に思う存分働きます。
生きて再びお目にかかる機会も、またお手紙を差し上げる機会もないと思います。
お母さん。豊が死ぬ前にたった一言、いままでの親不幸を許す、お国のためにしっかり働け、とお励まし下さい。
お母さん。どうか豊のこの願いを聞き届けて下さい。
そしてお母さん。長く長くお達者にお暮らし下さい。
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母と子の絆、そして妹のあの悲惨な悲劇に遭いながら、そして盗賊にまで身をやつしながら、それでもどこまでも立派な日本人でいようとした、このハリマオの心は、日本人の一般がもつ心です。

昭和十七年三月十七日、怪傑ハリマオとして名を馳せた谷豊は永眠しました。
三十歳の若さでした。

臨終を見守っていた配下のマレー人たちが、日本軍に求めたのは、たった二枚の白い布だけだったそうです。
それはイスラム葬で遺体を包むのに必要なものでした。
豊の棺は、部下たちに担がれて病院を後にし、シンガポールのイスラム墓地にひっそりと埋葬されました。

そのとき、藤原参謀はINA(インド国民軍)幹部をともなって東京で重要な会談を開いていました。
そこで豊の訃報を受け取りました。

「北部マレーの虎として泣く子も恐れさせた彼は、マライの戦雲が急を告げるころ、翻然発心して純誠な愛国の志士に還った。彼は私の厳命を遵守した。彼は勿論その部下も、私腹を肥やすことも、一物の略奪も、現住民に対する一回の暴行も犯すことがなかった。」(前掲書)

近年マレーシアのテレビ局が、ハリマオ=谷豊の特集を放映したそうです。
その番組の最後には、次のような言葉が流れたそうです。

「イギリス軍も日本軍も武器ではマレーシアの心を捉えられなかった。心を捉えたのは、 マレーを愛した一人の日本人だった」

写真は、豊の家族の写真です。左端が豊。左から三番目が亡くなられた妹さんです。
谷豊の御霊は、いまも英霊として靖国に祀られています。

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いかがでしたか?
3日間にわたってハリマオの物語を連載させていただきました。

妹を残酷な仕打ちで殺された悲しさから、谷豊青年は日本人を捨ててハリマオとなりました。
そのハリマオを、陸軍の藤原岩市参謀や神本利男が拾い上げ、彼に再び日本人としての誇りを取り戻させました。
ハリマオは、その喜びの胸の内を、母への手紙にしたためました。
けれどそのとき、すでに豊の胸はマラリアにおかされていた。
そしてハリマオは、マレーの仲間たちに看取られながら、30歳の若い命を散らせました。

まるでドラマのような物語ですが、実話です。
こんなことを言うと、おかしな人と思われてしまうかもしれませんが、私は、日本人というものは、やはり八百万の神々と何らかの関わりを持って生かされている人々なのではないかと思います。
だから、生きることも、死ぬことも、なにか意味があってのことなのかもしれないと思うのです。

そして谷豊の生涯は、戦時中や、戦後の焼け野原からの復興期、あるいは怪傑ハリマオが放送された高度成長期以上に、日本人が日本の心を取り戻そうとする時代にこそ、あたらめて光彩を放つものとなるのではないかと思っています。
なぜならハリマオの生涯は、兄弟姉妹への愛、母への愛、民衆への愛そのものの生涯でもあったからです。
そして、マレーシアの放送局の最後の言葉です。
私たちは、そういう日本人であることを、いま取り戻そうとしているのではないか。
そのように思えるのです。

それともうひとつ。
もし、みなさんのご家族、それも幼い妹が、生首をねじ切られて殺害されるという凶行に、もしみなさんの身に起こったら、みなさんはどうお感じになり、どのように行動されるでしょうか。

心の中では、犯人は絶対に赦せない。ありとあらゆる拷問の限りを尽くして殺してやりたいという殺意にもちろん駆られるであろうことと思います。
けれど、では、実際に、殺人事件の被害者となり、家族を無惨に殺された日本人の家族たちは、どうだったでしょうか。

米国で以前、娘が離れの納屋で強姦されそうになったとき、その強姦魔を銃で殺害した父親のことが話題になりました。当然のことだ、というのが米国の世論でした。
けれど日本ではどうでしょう。
日本人はどこまでも官憲である警察を信頼し、警察に捜査を委ね、私的報復はせずに、あくまで公的な処分に委ねる。
犯人を殺したいくらいの怒りと悲しみがあっても、日本人はどこまでも公的機関による裁きを信頼し、私的報復はどこまでも控える。

殺したいと思うことと、実際に殺すこととは、意味が違います。
いかなる悲しみがあっても、どこまでも公正な裁きを信頼してきたのが日本人です。
日本人は、そういう社会を古来、築いてきました。

けれど、戦後はどうでしょう。
被害者や被害者の遺族よりも、いつのまにか加害者の側が幾重にも手厚く護られ、保護されています。
果たして、それが公正な社会といえるものなのでしょうか。
麻原に殺された坂本弁護士一家は、もう還りません。
ところが、殺した麻原は、いまも刑務所の中でのうのうと生きている。
それが果たして、本当の意味での公正な社会といえるのでしょうか。

谷豊青年は、立派な軍人になって祖国のお役に立とうと、日本に帰ってきました。
残念ながら、兵役には不合格となってしまいました。
そしてマレーで犯人逮捕のために運動した彼は、祖国の領事館にも撥ね付けられ、祖国に捨てられたという孤独を感じていました。
そしれ彼は、ハリマオとなりました。
けれど、そのハリマオは、けっして「殺し」はしませんでした。
盗みはしました。
けれどそれは、現地の民から収奪して蓄財した連中の冨を奪い、マレーの民衆にそのお金をバラまくというものでした。
そしてハリマオは、日本の軍のためにはたらき、そのことをたいへん嬉しく思ってお母さんに手紙を書いています。

日本人とは、そういう民なのです。
そのハリマオと同じ日本人の血が、私たちひとりひとりに流れています。
だからこそ、東日本大震災のときにも、あれだけの被害にあいながら、みんなが整然と行動したのです。

戦後、加害者の人権がどうのと言ってさわいできたのは、いったいどういう人たちでしょう。
結局、左翼や共産主義者、一部の不逞な在日などの、不届きな連中だったのではないでしょうか。
このままでは、国民の政府・政治対する信頼はまったくなくなってしまう。
まさに、共産主義革命のための、社会内部の対立をあおるという手口に、まるごと乗せられてきたのが、戦後の日本だったといえるのではないでしょうか。

ひとつの時代を、精一杯、力の限り生き抜いた谷豊、ハリマオ。
私たちが、批判するのではなく、そこから何かを学ぼうという気持ちをもったとき、ハリマオの主題歌の歌詞も、また違った歌に聞こえて来るのではないでしょうか。

快傑ハリマオの歌
作詞:加藤省吾 作曲:小川寛興
歌:三橋美智也

♪まっかな太陽 燃えている
 果てない南の 大空に
 とどろきわたる 雄叫びは
 正しい者に 味方する
 ハリマオ ハリマオ
 ぼくらのハリマオ


快傑ハリマオ  三橋美智也



<転載終了>