tacodayoのブログさんのサイトより
http://blog.livedoor.jp/tacodayo/archives/6843777.html
<転載開始>
[図と写真はクリックで拡大]

銀行の仕組み【信用創造】を説明した教科書などで、このような図を目にしたことがあると思います。
計算を簡単にする為に、法定(支払い)準備率を10%とすると
スサノヲさんの100万年を元手に
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無限にループしていくと
100万円+90万+81万+72.9万+65.61万+59.049万 …… ∞ =1.000万円が、預金総額となります。

つまり100万円を元手に900万までお金を貸し出すことが出来るのです。=信用創造 -①

上は教科書に書いてある例です。

ところが、実際の運用は、このように行われるそうです。
スサノヲさんの100万はそのまま日銀当座預金に入金され
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900万までお金を貸し出すことが出来るのです。=信用創造 -②

あれ? ①と②の 結果は一緒ですね。

すると、Aに貸した900万円を元に別に会社に810万円を貸して、またそれを元に…

あれ?れれレれレ…???【第3図】
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以下無限にループすると、なんと百万円を元手に9千万円も貸し出す事が出来ます。=預金総額は9100万円になります。
ムムム…教科書の説明とは違います???

もう少し詳しく見ていきましょう。
親切な教科書ではこのように詳しく説明しています。【第4図】
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以下無限ループ…(略)

さて、この飛龍銀行、瑞鶴銀行、加賀銀行(何で空母の名前?!というのは置いといて)が、アマテラス銀行の北海道支店、東京本店、沖縄支店、大阪、名古屋…(以下 ∞…)
と置き換えたらどうでしょう?【第5図】
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どうです?先の図1、2、3でも問題なさそうですね。
これだけ銀行の統廃合や持ち株会社制が進んでいるのですから、紙面のスペースと説明の簡略化のため、以後は簡単バージョンで行きます。

ここで、金融や経済に少し詳しい方の反論が来そうです。
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「この第2図はおかしいぞ!!」という反論です。

1.何で、法定準備率が10%なのに100%丸々預けなければならないのか?!
2.日銀当座預金には利子がつかないのを知らないのか?!・・・トリックその➊

でも、ちょっと待ってください。
紙幣(日銀券)には、『匿名性』という、性質があります。
第6図
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つまり天照銀行が法定(支払い)準備金として日銀に預けた100万円は、

スサノヲさんが預けた全額の100万円?
天智さんが預けた1000万円の内の100万円?

かどうかは、日銀にはわからないのです(何故か?というと、接待やゴルフに忙しいからです。・・・・ウソ(~_~;)オイオイ)。

いや、実は、第6図の説明は嘘です(…こらこら)。
皆さんに理解していただく為の方便です。

真実を言えば、
銀行というのは『営利企業』なのです。
簡単に言えば、
利益を最大限に追求するのがその使命なのです。

故に、貸出可能額が多ければ多いほど、より多くの利息を稼ぐことが出来ます。
企業に貸し付けるだけでなく、例えば途中を国債や社債に置換えても無限ループは続きます。

ここまでくれば解りましたね?

法定準備率10%云々と言うのは一般大衆をだます為の一種の目眩(くら)ましなのです。
貸し出し額を増やすために
100%預けても良いのです。
           ・・・トリックその❷

さて、第2図を発展、整理すると第7図になります。
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以下、無限にループしていくと最終的な貸出可能額=9000万円になります。

つまり、準備率が10%の場合
市中銀行は100万の預け入りに対し、
最終的に9倍の900万を日銀に預け入れることで、
その10倍の9000万円までの貸し出しが
(単行で)出来ることが理解できるでしょうか?

最初の預け入れに対して90倍です。

ここで、「公式」にご登場していただくとしましょう。
無限等比級数の公式(むげんとうひきゅうすうのこうしき)
からの引用です。

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

【無限等比級数の公式】
信用創造によって預金がいくらに増えるのか、または何倍に膨らむのかが簡単に計算できる。

ただし、【r】<1のとき、

   a  
S= ━━━
  1-r

貸出(可能)額=S-a  -公式①

S=合計(預金総額)、a=初項(最初の預金)、r=公比(貸出率)、1-r=法定準備率

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

とりあえず、第7図を公式 ① に当てはめてみると

       元の預金100万円
 預金総額S= ━━━━━━━━ =1000万円
         準備率0.1

 貸出(可能)額=1000万円-100万円=900万円

あれれ???
桁が1桁違います!?


そうですね。
公式 ①は間違っています。

準備率10%のこの場合

a  
S=10× ━━━  -公式②
1-r  

(ただし、【r】<1)
が正解です。・・トリックその❸


まぁ、丸々預け入れするのですから当然と言えば当然の結果なんですが…。
しかし、信用創造を学ぶ人を騙しているのには違いがありませんね。

さて、ここで日銀のホームページから実際の法定準備率を調べてみましょう
準備預金制度における準備率 公表データ
預金に
【預金についての準備率】
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【金銭信託(貸付信託を含む)元本の残高についての準備率】
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(以下略)
※超過累進制に注意

ありゃりゃ・・・10%どころか0%から2%台じゃないですか!?
ということは、金利を仮に1%として 公式 ② で計算してみると

     100万円      
S=10× ━━━━━ =10億円
       0.01      

貸出し可能額=10億円-100万円=9億9900万円
になります。

あれれ???
桁が違います!?


正しくは9900万円にならなければなりません。

ということは
     a       
S=10× ━━━  -公式②
    1-r      
前に訂正した公式②は間違いで、
   a      
 S=━━━  -公式①
  1-r     

最初の公式①がこの場合、正しい公式になります。

オイオイ(;つД`)
準備率が違うと
使えない公式ってなに?


これではいけませんね

ちゃんと使える本物の公式を持ってきました(引用したサイトがちょっと見つかりませんが…)。

現金歩留(ぶど)まり率(μ:ミュー)と法定準備率(β:ベータ)として

X=100aμ(1-β)

 貸出(可能)額X=100×元の預金a×μ(1-β)

が正しい公式です。

しかし、100% 現金で日銀に預けるのですから現金歩留まり率は1です。
よって

貸出(可能)額X=100×元の預金a×(1-法定準備率)

 X=100a(1-β) -公式③

になります。

この正しい公式に当てはめると

100×100万円×(1-0.01)=9900万円

つまり、最初の元金aとあわせると(法定準備率が1%の場合)
100万円から1億円の預金を生み出すことが出来るのです。
 ・・・トリックその❹

また、スサノヲさんの預金ではなく、天照銀行の元手でも同じように、100万円で億の預金を作り出すことも出来ます。 ・・・トリックその❺
(更に国債と現金の組合せなどを、皆さんで計算してみてください。 ・・・トリックその❻)
(表には預金の残高と記しています。そう預金残高=貸出残高が真相。 ・・トリックその❼)

何故、このようなトリックというか
煙幕を張って、信用創造の実態を隠蔽するのでしょう?

それは、

中央銀行が信用創造を
コントロール(信用配分)
することで、
業種毎の
消費の増減、資産バブル、
好景気・不景気を
自在に操作できること
を、
政治家や知識人、一般大衆
から隠すためなのです。


以下は
信用創造に仕掛けられた何重にもわたるトリックについて
からの引用です。

中央銀行は信用創造を
一般人に対しては
信用創造という言葉の意味をできるだけ伝えない。
信用創造が起きるのは
預金時ではなく、
銀行が貸し出した時である
ことを伝えない。

(銀行貸出を行うことで同額の預金を貸借対照表【バランスシート B/S】上で同時に作り出す。)
銀行貸出しがもたらす影響力について答えない。
各業種に対し銀行貸し出しが増減することが、
各業種の消費の増減につながることを伝えない。


また専門家に対しては
銀行貸し出しの指数より
他の指数を重視させる。

金利の操作で信用創造をコントロールできると思わせる。
銀行貸出ではなく
預金額を重視させる。

というようにミス・リード(誤誘導)します。

以上引用終わり。

□トリックのおさらい
さて、もう一度日銀のホームページから実際の法定準備率を見てみましょう。
【預金についての準備率】
a88749ba.jpg
(以下略)

実は黄色く網掛けしている部分は、タコが勝手に付け足したものです。(・・・こらこら)
つまり、本物では省略されているわけですね。

もう既に気付いているかもしれませんが、日銀のホームページで以下のように説明している
“準備預金制度”の説明からして『真っ赤な嘘』なのです。

ホーム>教えて!にちぎん>>準備預金制度とは何ですか?教えて!にちぎん
Q.準備預金制度とは何ですか?
A. 準備預金制度とは金融機関に対して、受け入れている預金等の一定比率(準備率)以上の金額を日本銀行に預け入れることを義務付ける制度です。預け入れなければならない最低金額を「法定準備預金額」あるいは「所要準備額」といいます。準備預金制度は、昭和32年(1957年)に施行された「準備預金制度に関する法律」により、金融政策の手段として導入されました。

以上引用終わり。

どこが、どう『真っ赤な嘘』なのか、さっぱりわからん!?
という方のために、図にしてみました。(というより、文章で説明するのは大変面倒。)
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スサノオさんが100万円を預けなくても、
500億円以下なら
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準備金は不要だという事を、彼らは我々に知られたくないのです。
現行では5百億円未満なら、お金を無から創造できるのです。
(ただし最近ではBIS規制バーゼルⅡ総量規制などもありますが・・・)

ゆえに、タコの今までの説明は全て嘘ということになります。
なぜなら、最初の第1図からして、大衆を欺く為の大嘘なのですから。
『詐欺、ここに極まれり』と、言ったとこですか?

【準備預金の実際】
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上図が、『準備預金制度』の真実の姿なのです。
準備預金=罰金制度と捉えれば、この詐欺システムをすぐに理解できます。

預金者から預金をあずかっても、企業やお店に資金を貸し出しても同じように準備金を積み立てなければならないということに注目してみましょう!!
(我々一般人は100万円預かって100万円貸し出せば財布の中身は0円ですが、銀行は100万円+100万円で200万円になるわけです。)

□コール市場
コール市場とは“和製英語”で、「呼べば戻ってくるお金=money at call」に由来します。

[コール市場の位置づけ]
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[コール市場の仕組み]
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銀行などの民間金融機関は預金の受け払いや貸出しがあり、また国債や株、為替市場で売買も行っており、日々短期的な手元資金の余裕や不足(おもに準備預金制度に起因する)が生じるため、金融機関同士で資金の調整をする必要があります。
そのための取引の場が、短資会社を仲介したコール市場と呼ばれるものです。ただしその取引は電話で行われる為、証券取引所のような建物があるわけではありません。
コール市場での運用調達期間は、翌日物から1年後の応答日以内であれば、どの日でも自由に設定可能となっています。その中で中心となるのは、翌日物(オーバーナイト)で、当日から翌日にかけての必要資金を調達運用する取引です。
また「政策金利」とも呼ばれるその翌日物の金利は「無担保コールレート」と呼ばれます。

【うっかり銀行さんの一日】
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※最低売買単位が5億円なので端数は切り上げます。また、この場合でも現金が動いていないことに注目!!

このように、日々の営業で必要な準備預金は増減しますし、また準備預金が足りない金融機関に対し貸し出せば利息が手に入るので、各金融機関は可能な限り準備預金をたくさん日銀に預け入れます。

では頭の体操ということで図13を挙げてみます。(準備率1パーセントの場合)

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以下無限にループしていくと・・・・・。

100万円の預け入れに対して
無限大の貸し出し(預金)を増やすことが出来ます。


これがバブルのときの金余り現象のカラクリです。(^o^;)/

もちろん、このA,B,C銀行が一つの銀行だったとしても同じことが出来ます。
現金が足りなくてもコール市場から借りればよいわけですから。
そしてア工業、イ商店、ウ会社の支払いはコンピュターのキイを叩くだけですから現金は必要ありませんね(振り込み伝票、小切手、手形etc.)。

以下は
円の支配者-誰が日本経済を崩壊させたのか」99p
からの引用です。

中央銀行の業務を研究した戦時の経済学者は、自分達がようやく気付いたことを、セントラル・バンカーはとっくの昔に知っていたのだと悟った。
銀行の信用創造が経済成長を決定し、通貨の配分が経済の姿を変えるということだ。
そこで、彼らはセントラル・バンカーがどのように銀行を監視しているかを調べた。
中央銀行の中には、預金準備率を政策の道具として活用していると主張する者もあった。あるいは、公定歩合の設定によって信用創造を促進したり抑制したりすると言う者もあった。
だが、実際はどちらもあまり有効な道具ではなかった。
公定歩合や短期金利は、必ずしも経済活動と連動していなかった。
それに、預金準備率という道具は厳格に使えるほど切れ味が良くない。
多くの銀行が預金準備率を維持できなくなれば、中央銀行が充分な資金を融通してやらなければならない。これでは目的に反してしまう。だが、銀行が必要な資金を互いに貸し借りするのを傍観していれば、短期金利が急上昇して、経済が混乱する。だからこそ、中央銀行の幹部はよく、「通貨供給」をコントロールすることはできないと言う。しかし、銀行が創造する購買力の量をコントロールする方法はある。貸出高の伸びの目標値を銀行に示すだけでいい。

-秘密の道具-
これはドイツの中央銀行ライヒスバンクが考え出した方法だった。ライヒスバックは第一次世界大戦から1920年代に、信用創造の伸び全体を好ましい水準に抑制しつつ、新たに創造された通貨をこれも好ましい生産的な分野に振り向けるという貴重な実績をあげていた。一九二〇年代、ライヒスバックはヒヤルマールーシヤハト総裁のもとで、銀行の融資額に厳しい「指導」をおこなっていた。公定歩合はあいかわらず発表されていたが、どちらかといえば貸出「指導」という真の支配手段から目をそらさせるためのPRの道具になっていた。
手続きは簡単だった。各銀行は中央銀行に次期の「貸出枠」を申請する。それから、その貸出枠を借り手に配分する。貸出枠いっぱいの融資がおこなわれてしまえば、中央銀行はその銀行の手形割引を拒否し、それ以上の信用創造に制裁を加える。この信用統制には法的根拠がなかったから、ライヒスバンクは「道徳的説得」に頼った。
つまり、言うことをきかないと銀行は高いコストを支払わされるぞと罰をちらつかせる非公式の行政圧力である。
1924年に書かれたあるライヒスバンク関係者のメモには、中央銀行が「圧力をかける効果的な手段」を握っており、「それを使うことをためらわない」とはっきりと記されている。

以下は
「INTEC JAPAN / BLOG:円の支配者日銀|異文化研修のインテックジャパン」
からの引用です。

短期金融市場はどういう市場か(EJ第654号)-
1997年11月17日に北海道拓殖銀行が、26日には德陽シティ銀行が破綻したのですが、直後に取り付け騒ぎが起こっています。
が実は、その破綻の前にコール市場というプロの市場で取引停止が起こっていたのです。コール市場で破綻した両行は企業としての信用を失い、資金繰りがつかなくなり、それが破綻の直接の原因となったのです。
(中略)
日銀による金融調整には、公定歩合での「日銀貸出し」という手段もあります。この「銀行貸し出し」は、銀行が金融市場から調達するコールレートよりも公定歩合が低いときは銀行としてはうまみがあったのです。例えば、公定歩合がコールレートよりも1%低いとき、1千億円の貸出しを受けると、年間10億円儲かるのです。これは銀行の収益支援となります。
日銀はそういう意味で銀行の生殺与奪の力を握っており、日銀に協力的でない銀行は
「日銀貸出し」が受けられなかったり、
「日銀貸出し」を引き上げられたり、
準備預金が積み立て不足のときに貸してくれないなど、いろいろ意地悪をされることがあるそうです。
こういうギリギリの嫌がらせのことを、日銀内部では「焼き鳥」と呼んでいるのです。
たとえば「東海銀行を焼き鳥にする」などというのです。
こういうところが日銀の不正の温床となっているのです。また、日銀と短資会社の癒着も取り沙汰されています。
(中略)
さて、北海道拓殖銀行破綻の際の日銀の行動をチェックしてみます。
1997年11月15日が土曜日であったこともあり、14日の金曜日が日銀への準備預金の積み上げ最終日に当たっていたのです。ところが拓銀は資金の調達が出来ず、1千億円を越す積み不足が生じていました。普通ならコール市場で金融機関から融通できるのですが、すでにこの時点で、コール市場において拓銀向けに資金を出す金融機関はなくなっていたのです。
しかし、日銀は14日の時点で拓銀が実質上債務超過にあることが分かっていたのですが、日銀は何もせず、翌15日に拓銀経営陣は自力再建を断念するのです。拓銀が破綻を発表したのは17日のことです。拓銀は既にコール市場において破綻を宣告されていたのです。

短資会社は日銀の天下り業界(EJ第655号)-
(中略)
1995年12月のことです。かねてから三和銀行は、他行の準備預金の積み立てが終わり、コールレートが下がった頃を見計らって、資金調達を繰り返していました。そのことで他行から「金融村の秩序を乱す」とクレームがきているので、日銀は三和銀行を「焼き鳥」にしたことがあるのです。散々意地悪をして「日銀貸出し」をしたのですが、貸出しに際して“担保の積み増し”という制裁を貸したのです。 
三和側は、制裁の早期解除を目指して接待を繰り返し、その見返りとして何とか早期解除を認めてもらったそうです。
1991年、東海銀行の不祥事に絡んで日銀OBの幹部が処分されたのを不満に思った日銀が「日銀貸出し」を1千億円程度回収した例もあるのです。

旧大蔵省といい、日銀といい、外務省といい、この国は本当におかしくなっていると思います。(以下略)

以上引用終わり。

□日銀は「窓口指導」を本当に廃止したのか?
以下は
「ポケット図解 日本銀行の基本と仕組みがわかる本」
からの引用です。

日銀は金融システムの安定化を図るための手段として、金融機関に対して考査やモニタリングを行い、個別金融機関の経営状態を把握し経営の健全性維持を促しています。

1.何をチェックしているのか
日銀の考査とは、当座預金を通じて取引する相手方である金融機関等の経営実態を把握するために行っているものです。日銀は金融機関等に実際に立ち入って、その資産内容をチェックし、リスク管理等の経営実態を調査しています。
リスク管理体制としては信用リスクや市場リスク、決済・流動性リスク、業務リスクなどをチェックしています。
金融機関に対する考査は日銀が金融機関との契約に基づいて行っており、行政権限の行使として行われている金融庁の検査とは法的な位置づけが異なっています。

2.金融庁検査との違い
考査結果については、日銀は考査に関する契約および日銀法第29条によって守秘義務を負っているため公表されません。また、考査は金融庁検査と異なり行政権限の行使ではないため、金融機関に対する法律上の罰則はありません。しかし、金融機関に対して、業務改善に関する指導や要請を行っています。
また考査先金融機関が正当な理由なく考査や情報提供を拒絶した場合などには、日銀がその事実を公表することがあります。さらに、日銀がその金融機関との当座預金取引を解約することもあります。

以上引用終わり。

以上のように「窓口指導廃止」は真っ赤な嘘だということがわかります。
新日銀法”で更に強力な権限を手に入れたのですから。

信用リスクや市場リスク、決済・流動性リスク、業務リスクなどをチェックしています。=窓口指導とほぼ同じ

当座預金取引を解約。

決済不能。

即倒産です。


こんな強力な権限を持つ日銀に対して銀行は一切逆らえない訳ですが、
選挙で選ばれたわけでもないただの官僚に何故?こんな強い権限を持たせなければならないのでしょう?


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旧ライヒスバンク(帝国銀行)現ドイツ連邦共和国外務省

以下は
円の支配者-誰が日本経済を崩壊させたのか
からの引用です。

□日本に信用統制を導入
日本では、戦時の官僚がライヒスバンクの方式を研究し、銀行システムに対する中央銀行の信用統制には非常に大きな可能性が存在することに気づいた。彼らはベルリンの日本大使館やライヒスバンクに直接、人員を派遣した。その一人は次章で登場する一万田尚登である。
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(一万田尚登)

アメリカの株式市場の崩壊後まもなく、アメリカの銀行はとつぜん世界各地から資金を引き上げだした。日本で新しい信用統制体制を実行する時期が到来した。
戦時の統制経済の始まりを画した最初の法律は、外国への資金の移動を防止することを目的とし、同時に輸入を規制するものだった(1932年の資本逃避防止法)。1937年、中国とのあいだで戦火が開かれると同時に権力を握った革新官僚は、臨時資金調整法を制定して、通貨の配分の統制に動いた。
この法律で、銀行とその投融資決定は、中央銀行と大蔵省の厳しい統制下に置かれることになった。株式市場を通じた資金調達は雀の涙ほどになり、資源の配分は銀行システムを頼りにおこなわれた。1942年、戦時の指導者はヒトラーの1939年:新ライヒスバンク法を翻訳して(ヒトラーは1933年にシャハトを再任命し、四年後にまた追い出して、中央銀行への支配を強めた)新しい日本銀行法を成立させ、中央銀行を直接、政府と大蔵省の支配下に入れた。資本の流れと外貨を規制する法律とあわせて、金融支配のシステムが完成した。
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(ヒャルマル・シャハト)
1942年の日銀法には、日本銀行の役割が明確に規定されている。日本銀行は、生産高の伸びを最大にするため資源の総動員に務めなければならない。同法第一条は「日本銀行ハ国家経済総カノ適切ナル発揮ヲ図ル為国家ノ政策二即シ通貨ノ調節、金融ノ調整及信用制度ノ保持育成二任ズルヲ以テ目的トス」と定めていた。第二条には「日本銀行ハ専ラ国家目的ノ達成ヲ使命トシテ運営セラルベシ」と記されている。
信用配分体制を簡素化するため、銀行数が急激に削減され、1920年代末には1400あったものが、第二次世界大戦終了時にはわずか64になっていた。各種産業の「統制会」と同じように、銀行も「全国金融統制会」の傘下に「金融統制会」を組織した。ほかの産業と同様、これも戦後は全国銀行協会として残っている。

□操縦悍を握った日銀
銀行は官僚の資源配分の道具としては理想的だった。必要なのは、銀行貸出について細かいガイドラインを示し、銀行にしたがわせることだけだった。優先的でない投資プロジェクトをもつ企業が、株式市場で資金を調達して稀少な資源を奪い合うことがないように、株式と社債発行を抑制するさまざまな行政施策が実施された。
日本銀行は購買力の創出と配分のコントロールーセンターとして活動した。日銀総裁は全国金融統制会の会長を兼務し、統制会は日銀のもとで活動して、企画院が作成した物資動員計画を実行に移した。
計画はトップダウンでつくりあげられた。まず、必要な生産高が決定される。つぎに製造業、下請け、原材料輸入者の階層構造が決まる。最後に銀行は、関係企業がすべて、生産プロセスヘのインプットに必要な購買力を確保できるようはからう。株主の影響力は払拭されていたが、あらゆるレベルで確実に競争がおこなわれた。企業の従業員も、銀行の従業員も、昇進その他の報酬をめぐって階層構造のなかのランキングを争ったからだ。
彼らのおかげで、資源は戦略的な重要性をもつ産業に配分された。戦争中は軍需産業、戦後は輸出部門である。計画された全体の生産高に応じて、借り手は三つに分類された。Aは武器弾薬や原材料など戦争に必要な物資を供給する業者、Bは中程度の優先度の借り手、Cは優先度が低い借り手で、これは国内消費物資や「贅沢品」の生産者だった。B部門への資金配分は抑制され、C部門は融資を受けることがほぼ不可能だった。Aに分類された製造業者には「メインバンク」が割り当てられ、メイッバックは企業が生産目標を達成するために必要な資金を充分、確保することが任務となった。企業自身が下請けや関連企業で形成する階層構造の一部で、割り当てられた生産目標を迅速かつ効率的に達成できるよう、企業グループが編成された。
このシステムはたちまち経済地図を塗り替えた。優先的な製造業だけが新たに創出された購買力を与えられた。優先度の低い企業や産業は弱体化し、戦略的な企業や産業部門は急成長した。贅沢品の製造業者は軍需生産に転換しなければ(ピアノを製作していたヤマハはプロペラの生産を拡大した。この戦争の遺産を、バイクーファンがいまも享受している)外部から資金を調達することはまったくできなかった。不必要な部門や非生産的な目的のために使われる購買力はなかった。融資は好ましい種類の生産を最大化するという戦時経済の目標を達成するために配分された。当時でいえば、軍需生産である。

□信用統制は戦後も続く
戦後は、輸出用製造業の生産高の最大化が目標になった。コントロールーシステムは非常に効率的で、戦後も完璧に引き継がれた。現在の各種ビジネスーグループのつながりのほとんどは、戦時中の信用配分システムのもとで生まれた下請けやメインバンクがもとになっている。
官僚の融資ガイドラインを銀行に確実に守らせることは難しくなかった。戦時中は総動員法で民間部門は官僚の指示にしたがわなければならないと定めており、不服従には重い罰が科された。戦後は、官僚の意図にしたがわせるためにべつのインセンティブが使われた。だが、こうした策略がなくても、戦後も銀行は言われたとおりにしなければならなかった。戦時中に始まる法律のあいまいさのために、官僚には絶大な権限が与えられていたからだ。これをもとに、官僚は戦時中の勅令と同じような行政命令や通達を出すことができた。民間部門は官僚に反論できるような立場ではなかった。企業が銀行に依存したように、銀行は官僚に依存していた。
自由市場政策では、戦後日本が経験したような高度成長は実現できなかっただろう。たとえば、戦後のまだ時期尚早な段階で資本取引が自由化されていたら(1990年代のタイや韓国のように)資本逃避が起こった可能性がある。さらに、金利を人為的に低く抑え、好ましい産業に補助を与えることもできなかったはずだ。最後に、戦後経済の豊富な労働力を考えれば、自由市場経済システムが機能していたら資源配分は労働集約的な産業にかたより、日本は重工業を発展させることが難しかったにちがいない。信用統制がなければ、多くの金が不動産投機や贅沢品の消費といったきわめて非生産的な用途に使われただろう。戦後日本の経済発展は主として金融統制のおかげであり、それは戦時経済体制を最も効率よく動かしたものだった。金融部門は「高度成長という第二の『総力戦』において、陰の参謀本部」だったのである。

第6章 窓口指導と日本の覇権をめぐる争い
□錬金術師、一万田
1946年、占領軍の承認を得て、一万田尚登という若手日銀幹部が日本銀行総裁に任命された。彼はややこしい信用創造にかけては傑出した教育を受けていた。日銀中枢の営業局で経験を積んだあと、1924年から26年までベルリンに派遣され、ヒャルマール・シャハトの信用統制政策を学び、若年にもかかわらず、信用創造の偉大なる権威者となった。
彼はシャハトの率いるきわめて独立性の強いライヒスバックを日本銀行の手本にした。両者の仲は非常にうまくいっていたようだ。戦後、一万田が日本銀行総裁だったころ、シャハトは日本に一万田を訪ねてもいる(ただし、シャハトは長居はできなかった。ドイツで戦争犯罪裁判所の捜査の対象となっていたからだ)。
戦時中の一万田は、1942年に創設されて日銀が運営していた日本の金融統制会の役員を務めた。統制会の仕事は、全力を尽くして優先産業に資金を提供することだった。そのなかには銀行合併、日銀資金の役人、それにもちろん当時は「融資斡旋」と呼ばれていた信用配分も含まれていた。重要な大阪支店の支店長を経て、一万田は終戦直前の1944年に日銀の理事に昇格し、新しく創設されたが短命に終わった、信用配分を業務とする統制局の局長に就任した。

□50年後にそっくりな不良債権
戦争が終わったとき、銀行の貸出帳簿は惨愉たるありさまになっていた。戦争末期の絶望的な日々に、銀行はさらに軍需産業への融資を強化するよう命じられていた。非生産的な目的のための融資は結局、不良債権になる。戦いに負けたばかりの国の戦費融資は最悪の不良債権になる。銀行のほかの主要な資産は「大東亜戦争国庫債券」その他の戦時国債だった。これらの国債はその後、闇市で記念品として叩き売られるしかなかった。
銀行の大半の資産は無価値だったが、負債は依然として残った。個人預金者の貯蓄である。資産は負債よりも少なく、銀行システム全体が事実上破綻していた。しかも、民間銀行は財閥解体への動きによってさらに打撃を受けた。貸出など考えられなかったし、現実にできる状況ではなかった。だが銀行の信用創造がなければ、充分な通貨が流通しない。したがって、経済は行き詰まって、深刻な不況に陥った。

□信用収縮(クレジットークランチ)の解決法-国家の銀行家としての日銀
ひどい状況に見えたが、実際には解決は簡単だった。会計の問題にすぎなかったからだ。一万田と腹心の部下たちは、迅速な回復を実現しなければならないと考えた。そこで、打つべき手を打った。日銀は印刷機のスイッチを入れた。
一万田は二方向の浮揚策を採用した。第一に、銀行は不良債権を抱えて麻蝉状態にあったから、日本銀行を国家の銀行家に変えた。企業は直接、あるいは取引銀行を通じて、日銀営業局に融資を申し込む。
日銀では一万田が、戦時中から機能していた融資斡旋部を継続させており、日銀の信用を配分した。彼はどの部門に金を流すべきかを決定した。借り入れが認められた企業は手形を発行し、それを日銀が新しく印刷した現金で買い取る。日銀のお墨付きを得た企業が銀行に手形を売るようになり、銀行業務はふたたび徐々に軌道に乗りはじめた。銀行はその手形を日銀に売却し、日銀が新しい通貨を発行する。
新しく創造された通貨が生産的に使われているかぎり、上昇するのは生産高で物価ではない。経済成長は潜在成長率をはるかに下回っていたから、インフレの危険は小さかった。

□信用統制
一万田の第二の戦略は、銀行に融資ビジネスを再開させることだった。そのためには、バランスシートを改善させなければならない。これも、じつは簡単だった。要するに、紙切れ同然の戦時国債を日銀が高く買い取ってやればいい。通貨を発行できる中央銀行は、不良債権を心配する必要はない。紙幣を印刷して、帳消しにすればいい。援助してもらうかわりに、銀行はリストラや合併をしなければならなかった。簡単に言えば、一万田の日銀の言うなりになるということだった。したがえば資産は保証される。日銀は必要ならいくらでも資金を提供することができる。
自分の指導で銀行貸出が息を吹き返したところで、一万田は新規の銀行貸出の量と部門別の配分を決定するため、戦時の信用統制メカニズムを再度、導入した。今度は軍需産業ではなく石炭、鉄鋼、造船、電力、鉄道、工作機械、輸送業などの輸出関連産業が「A」に区分された。優先度中位のBには、Aに入らなかったほとんどの製造業と小売業、農業、教育、それにケースーバイーケースで建設業が含まれた。国内消費関連の産業は最も優先度の低いCで、ここには不動産業、デパート、ホテル、レストラッ、証券業、出版業、アルコール飲料などが入った。Cの産業には資金獲得の見通しはほとんどなかった。
一万田は、日本はそんな贅沢をしている余裕はないと考えていた。

□トップヘのパイプ
一万田総裁は信用配分に強い関心を抱いていた。彼はどのプロジェクトを認め、どれを拒否するかをみずから決定した。その結果、工業、商業、金融業の最高指導者たちは、投資計画に一万田の同意を得るため、足繁く日銀に通わなければならなかった。二つある総飲用の会議室は訪ねてくる産業界の総帥たちでつねに使用中で、一万田は部屋から部屋へと走りまわった。
産業界の多くの指導者にとって、これは屈辱的な事態だった。信用配分は法的根拠のない「非公式」のものだったが、彼らは一万田とその部下たちの顔色をうかがうしかなかった。委員会もなければ議論もなく、苦情申し立ての権利もなかった。すべては日銀総裁の一存で決まり、彼は融資拒否をためらわなかった。そんなケースのひとつが報道されたことがある。一万田が千葉に高炉を新設したいという業界トップの川崎製鉄会長の要請を退けたというのだ。伝えられるところによれば、一万田は「日本にはこれ以上、鉄鋼は必要ない」と断り、川崎製鉄の西山会長に「ペンペン草を生やしてみせる」と言ったという。
一万田はたちまち、経済界に恐れられるようになった。彼のツルの一声で、ビジネス・プロジェクトの成否が決まる。そのために彼は「法王」という渾名をたてまつられた。訪問者はカノッサヘの巡礼さながら、土下座せんばかりだった。1984年の死去にともなう追悼の談話のなかで、近しい部下で後継者の佐々木直は、彼の時代は「行政府より中央銀行の方が強く、これが法王と呼ばれたゆえん」であると述べた。
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(佐々木直)
法王の決定に逆らうことは不可能だった。彼の退任を図った者は失敗した。彼はさらに高い権力、つまり占領軍の「信頼」を得ている、だから神聖不可侵なのだ、と噂された。事実、彼は占領軍司令部に強力なコネをもっており、占領軍は重要な金融問題で彼の助言に耳を傾けた。いっぽう、一万田のほうでも占領軍への影響力を利用して、日銀の金融政策に対する支配力を維持した。彼の個人的な尽力によって、占領軍が計画していた日銀法改正はトーンダウンした。
占領軍の企画担当者は新たに政策委員会を設置し、日銀の政策に対するチェックーアンドーバランスが効くもっと民主的な機構をつくろうとしていた。政策委員会の設置は1949年の日銀法改正で実現した。1998年の改正まで。
1942年の戦時下の法律が変更されたのはこの一点だけだった。しかも、一万田は占領軍当局を説得して、政策委員会を日銀内部に置き、自分でコントロールできるようにしたのである。政策委員会は「お飾り委員会」になり、一万田とその後継者に大幅な独立性を許した。一万田には舞台裏に強力な支後者がいたことはまちがいない。
彼は八年半という記録的な長期間、日銀総裁の地位にあった。その後はさらに出世し、前例のないことながら、鳩山内閣と岸内閣の蔵相に就任した。

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鳩山一郎
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池田勇人)

□窓口指導
一万田のもとの日銀中枢「融資斡旋部」は彼の直属で、ほかの部門から独立していた。このために中央銀行のなかではきわめて評判が悪く、一万田の反対派はこの部局の廃止を画策した。批判をかわすため、1954年に同部の廃止が発表された。だが、信用統制の権力はすべて営業局がそのまま引き継いでおり、営業局は一万田の意向だけを忠実に聞いて、銀行信用をコントロールしつづけた。
1950年代はじめには、経済は二桁成長しており、融資の申し込みは莫大になっていた。営業局による銀行信用の配分システムが最終的なかたちをとったのは、この時期だった。総裁はまず融資総額の伸び率を決め、それから腹心の部下である佐々本直営業局長と二人で増加分を各銀行に融資割り当てとして配分する。
銀行は大口の借り手の名前にいたるまで細かい融資計画を毎月日銀に提出するよう求められていた。東京の銀行は日本橋の日銀本店に、その他の銀行は33の日銀の支店に報告をおこなった。
つぎに日銀は、信用配分計画に合うように融資計画を「調整」する。日銀に赴いた銀行幹部は、文字どおり日銀のカウンター(窓口)で融資割当枠を告げられたので、この手続きは「窓口指導」という名で知られるようになった。
企業と同じで、日本の銀行も市場シェアの拡大を追求する経営者によって運営されている。そこで、放置しておけば銀行間の市場シェア争いが過熱し、商品、つまり銀行融資の行き過ぎたダンピングが起こっただろう。それを窓口指導が解決した。これは競争を制限する典型的な産業カルテルだったからだ。
それに都合のよいことに、トップダウンの業界統制まで可能になった。銀行は成長志向だったから、業界でのランキングを維持するため必ず割当枠いっぱいの融資をおこなった。実際、この仕組みのもとでは、銀行のランキングは、合併時以外は戦後を通じて変化しなかった。
日銀はまず、大手都市銀行の融資割り当てを決定する。それから、ほかの銀行への配分が決まる。銀行は割り当てられた枠を全国の数百の支店に配分し、支店ではさらに細分して個々の融資担当者に割り当てる。窓口指導を頂点とする総合的な融資額割り当てのピラミッドができあがって、経済全体を支配していた。
このシステムはうまく機能し、非生産的な信用創造が回避されて、新たに創造された通貨は生産活動に注ぎ込まれた。1955年に若干手直しされて、区分AとBは平等な扱いを受けるようになった。軍需品生産と違って輸出は外貨を稼いでくれる。外為規制が続いていたから、外貨は原材料その他のインプットなど、必要な輸入に割り当てられた。時代とともに変化する優先部門の決定には通産省が力を貸した。最初は繊維産業、つぎに造船業と鉄鋼業、その後は自動車産業とエレクトロニクス産業が優先的に購買力の配分を受けた。窓口指導はコントロールーセンターで、経済に通貨という弾薬を供給した。
その結果、日本は1960年代、10%以上の実質成長率を達成し、識者はこの「奇跡」をめぐって論議するようになった。

□日銀支配への挑戦
ただし、ひとつ困ったことがあった。戦争直後、大蔵省は信用配分をおこなう日銀の権力をほうっておくつもりはなかった。戦時中の1942年の日銀法改正で、それまでは民間株式会社だった日銀は大蔵省に属する政府機関に変わった。占領軍は1949年に日銀法を多少改正し、政策委員会を設置したが、金融政策は大蔵省に残された。占領軍にいた多くの「ニューデイーラー」たちは、独立の中央銀行は非民主的であり、不必要だと考えていた。
日本銀行は経済企画庁や通産省を出し抜くことはできた。しかし大蔵省はもっと手強かった。戦時中、大蔵省は軍部と企画院への報告義務を負っていた。そのうえ、さらに強力な内務省によって、大蔵省の力は制約されていた。しかし戦後、軍は消滅し、内務省は解体され、企画院は経済企画庁という下位官庁になった。大蔵省は権力の空白にたちまち割り込んだ。徴税、関税、国際金融、金融機関の監督、財政政策、金融政策を司る大蔵省は、政府機関のなかで最高の切り札を握っていた。そして、その切り札を使うのをためらわなかった。そこで、戦争直後には信用配分にも関心を抱きつづけていたのである。
しかし、一万田は日銀を大蔵省の手綱から解放しようと決意していた。当初、事態は好調に運んでいた。1947年、信用配分臨時措置法によって、起債会が中央銀行に移され、債券発行業務をおこなうことになった。だが、1947年、戦時の融資区分システムの見直しで主導権を握ったのは大蔵省だった。1949年に大蔵省は、金融緊急措置令によって民間部門の債券発行監督業務を取り戻し、証券局の許認可の対象とすることに成功する。
これより先の1947年、大蔵省は均衡予算と長期国債禁止の原則を盛り込んだ厳しい財政法を成立させた。均衡予算を維持すれば、大蔵省は民間部門の資金を枯渇させること(クラウディング・アウト)は避けられる。
国債は発行されず、
株式市場は添え物にすぎなかったから、
金融システムは事実上、
日銀と銀行の信用創造のみで
できあがっていた。

これは効率的だった。
債券市場も株式市場も通貨を創造しない。

だが、日銀としては安閑としてはいられなかった。別個の独立したオペレーションという隠れみのがなく、衆人環視のもとで行動しなければならないからだ。
たとえば、日銀は国債の売買による資金の引き上げや注入ができなかった。
国債そのものがなかったからである。

□日銀の反撃
一万田は、大蔵省に金利をコントロールさせればおとなしくなるかもしれないと踏んだ。しぶしぶながら、彼は大蔵省に金利の裁量権をゆだねた。大蔵省はとびついた。
大蔵省が日銀に信用の量あるいは配分に関する政策について尋ねると、一万田もその部下も
専門用語を並べ立てて、素人にはわからないプロセスだと印象づけようとした。
実際、日銀スタッフにさえわかりにくい事柄だったのだが、それも営業局がカードをしまいこんで明かさなかったためだった。これ以後、日銀は金利こそ主要な政策的手段だと世間にむかって主張しはじめた。
一万田はこう述べた。
「中央銀行にゆだねるべきことは、何といっても公定歩合の問題である。これは日本銀行に任せ、政治的な介入があってはならないと思う。また、準備預金制度についての、これは市場資金量の調節操作でもあり、技術的な点が多いので、日本銀行に任せるほうがよいと考える」。
一万田の威信によって、日銀の政策運用は独立性を脅かされる心配がなくなった。だが、彼はさらに多くを望んだ。そこで、彼はまもなく、完全に技術的な機関として日銀には法的独立が認められるべきだと主張しだした。
1954年、在任最長記録を樹立した一万田は蔵相に就任した。金融政策に対する合法的な支配力を握ったのだ。この異例の人事ののち、彼は自分に忠誠をつくす日銀幹部に力を与えた。大蔵省を動かせる立場になった一万田は、さっそく、みずから所管する省の権限の削減と、日本銀行の権限強化を画策しはじめた。この動きは、彼の人気を高めるというわけにはいかなかった。だが、一万田は角を隠そうとはしなかった。
大蔵官僚と中央銀行のあいだで、おおっぴらな権力闘争が始まった。獲物は大きかった。これは日本経済の支配力をかけた闘いだった。

□日銀法の見直し
一万田と日銀にいる仲間たちは、政治家に日銀法の見直しを働きかけた。彼らはまず、銀行業界の支援をとりつけた。銀行家たちは「とらわれの聴衆」であって、中央銀行を支持しなければ、非公式ながら打撃の大きい制裁を覚悟しなければならなかった。同時に、中央銀行が独立すれば、ますます自分たちの利益を代表してくれると期待していたのかもしれない。
1956年、自民党政権は日銀法改正のための調査委員会を設置した。大蔵省は、委員会にみずからの陣営の人間の席を確保した。結局、学者、銀行家、評論家、それに大蔵省と日銀の代表45人からなる委員会ができた。いっぽう、1956年12月には首相が交代し、それとともに閣僚も一新された。
一万田は蔵相の地位を去り、池田が蔵相に就任した。つぎに起こったことは、一万田と日銀にとって幸運だった。1957年、景気の過熱によって国際収支が危機的状況に陥ったのだ。政治家は経済を落ち着かせるには誰に頼んだらいいかを知っていた。とつぜん、一万田が蔵相に返り咲いた。厳しい窓口指導により、景気は後退した。こうして、一万田は三次にわたる鳩山政権と第一次岸政権で引き続き蔵相を務めた。

□物価安定だけでなく
日銀シンパは、独立をあからさまには要求しなかった。多くの政治家が、政府に従属する中央銀行という戦時中の経験から、選挙の洗礼を経ていない機関である日銀に独立権限を与えることはできないと感じていた。そこで日銀は穏健路線をとって、金融政策実施について裁量の余地を求め、日銀法に定める中央銀行の政策目標を、政府の政策の維持と経済成長の維持から物価安定維持に変更すべきだと主張した。事実、1942年と49年の日銀法改正では、物価安定が盛り込まれていなかった。第一条には、日本銀行は「国家経済総力」の適切な発揮を目的として、金融政策を実施すると記されていた。日銀は、政策目標の変更は事実上の独立を意味すると考えた。そうすれば、大蔵省や政府の政策が気に入らなければ、物価安定の維持に反すると主張して拒絶することができる。
政府の金融制度調査会は日銀の主張をのんだ。1958年、調査会は日銀に金融政策決定の自由を与え、大蔵省は日銀の決定の延期を要請できるだけにすべきだと勧告した。さらに、物価安定を日銀政策の主要な目標にすべきだとも述べた。経済界のロビイスト団体の総元締めである経団連は、1959年、60年とこの勧告に賛成した。経団連のポジション・ペーパーを作成したのは銀行協会だった。

□評決不能
だが、大蔵省と同省に肩入れする政治家は策略を見通していた。元通産官僚のアライ・シンジや高度成長論者で大蔵省出身の下村治、それに戦時経済体制を評価してきた高橋亀吉ら経済評論家は、勧告に強硬に反対した。
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(下村治)
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彼らは信用統制システムが戦時経済体制成功の核心で、同時にインフレなき高度成長の鍵でもあると見ていた。彼らに言わせれば、これほど強力で重要なツールを政府以外の者の手に渡すわけにはいかなかった。政府は独自の課題を追求するかもしれない中央銀行に依存せずに、高度成長政策と金融安定政策を実行できなければならない、と彼らは考えていた。千年前の中国の宋王朝の皇帝たちと同じく、彼らにとっても、通貨の創造と配分をコントロールできる政府だけがほんとうの支配者であることは明白だった。
彼らの働きかけは奏功した。1958年6月、一万田蔵相は更迭された。
1959年、小委員会は、日銀の最終的な指揮権は大蔵省に残すべきだと答申した。
一万田の右腕で日銀副総裁だった佐々木直は、公然とこの結論を批判した。
金融制度調査会は大蔵省派と日銀派にまっぷたつに分かれたままだった。

翌年も議論は対立したままだったので、調査会は最終答申でも結論が出せず、両論併記のかたちにならざるをえなかった。A案は金融政策に関する最終的な意志決定権を大蔵省にゆだねるというもので、B案は日銀の独立を認め、蔵相には日銀の決定を延期させる権限のみを与えるというものだった。

□日銀、緒戦で敗れる
1960年4月、岸信介首相の弟である佐藤栄作新蔵相は、両論併記の答申では日銀法改正はおこなえないと発表した。
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(佐藤栄作)
佐藤は大蔵省出身ではなく、自民党への大企業からの献金の恩恵を受けている立場だったが、岸の弟であり、また戦時経済下の外交官で満鉄総裁だった松岡洋右の姪が妻だったこともあり、信用配分システムの力を理解しており、政府が操縦悍を手放すのには賛成しなかった。

日銀法は改正されなかった。大蔵省は日本の覇権をめぐる最初の闘いで勝利した。だが、これはむなしい勝利だった。
1963年、日本のOECD加盟に向けた自由化政策の一環として、金融緊急措置令が廃止された。同時に、同措置令に基づいておこなわれていた融資配分システムヘの大蔵省の関与も消えたのである。
大蔵省は当初、大蔵省、日銀、銀行出身者をメンバーとする金融機関資金審議会を通じて、民間部門の銀行融資の配分に影響力を行使しようとしていた。この審議会はだいたい、通産省から提出される資金配分計画を実施していた。通産省の産業金融小委員会と政策企画部が資金配分計画をつくっていたが、その実施については直接日銀と議論することが多くなっていった。
1968年に、金融機関資金審議会が廃止されると、大蔵省は金融政策の技術的詳細を日銀にゆだねてしまい、その後は信用の量や配分についてはほとんど影響力をもたなくなった。どの産業に資金を注入すべきかを通産省が日銀の営業局と議論しているあいだ、大蔵省は詳細には立ち入らなかった。
そこで研究者は、1960年代には窓口指導が「大蔵省の介入なしに自由に実施されていた。なぜなら、上限設定のプロセスには多くの技術的な問題があり、運用の詳細は極秘とされていたからだ」と見ている。
その結果、日銀は完璧に経済を支配していたから、1960年代から70年代の景気変動の責任はあげて日銀にあった。しかし、日銀は貨幣の創造と配分に圧倒的な影響力をふるっていたとはいえ、立場は不安定だった。(なぜなら)法的には大蔵省が権限を握り、その気になればいつでも信用政策に介入し、決定権を行使することができたからである。

□神出鬼没
少なからぬ敵をつくった日銀の指導者たちは、しばらくは目立たないほうがいいと判断した。1958年10月、金融制度調査会が日銀法改正案を作成しているとき、日銀は窓口指導は効果がないという口実で廃止し、これを世間の目から隠していた。公式には、日銀はそれまでは積極的な政策手段ではなかった民間銀行の預金準備を監視、監督するだけになった。
しかし実際には、預金準備はシステム全体で好ましい信用拡大が確実になるように設定されていた。言い換えれば、窓口指導は事実上、続いていた。
日本はOECD加盟を申請し、OECDの加盟規約で経済の自由化を迫られた。日銀はこのチャンスにとびつき、金融市場と直接規制を自由化しなければならないと主張した。大蔵省はろくに反論できなかった。1963年の金融緊急措置令の撤廃によって、大蔵省の信用配分への直接介入の法的根拠が失われた。

□捲土重来(けんどちょうらい)を期した日銀
1960年、池田勇人が首相に就任した。池田政権は「所得倍増計画」を主要な政策として掲げ、財政支出は年25%以上も増加した。これが可能だったのは、高度成長によって誰も期待しなかつたほど大きく税収が伸びたからだ。
だが高度成長は、日銀の信用拡大政策のおかげだった。
窓口指導を廃止していた日本銀行は、1964年、佐々木副総裁のもとでとつぜん信用統制をふたたび導入し、その範囲を信託銀行、地方銀行、相互銀行にまで広げて、経済成長を鈍化させるために利用した。
その後の事態を、佐々木は予測していただろう。経済成長は落ち込んだ。64年には11%を記録した経済成長率は、65年には5.8%に低下した。財政収入は急減した。長年のあいだではじめて、歳入は見通しを下回った。
巨額の財政赤字の不安が浮上したが、
依然として財政法によって
国債発行は禁止されていた。

政治家があわてふためいて法改正にとりかかるのを、佐々木は満足げに眺めた。
しかし、収益低下を受けて株式市場が崩壊し、事態は手に負えない段階に入ったかに見えた。一般投資家が市場から資金を引き上げ、業界第四位の証券会社山一證券で取り付け騒ぎが起こった。
田中角栄首相はすばやく適切な行動を起こした。
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彼は日本銀行に乗り込んで、山一證券への無制限かつ
無期限の融資と、

信用創造の増強を命じた。

日本銀行は財政政策を緩和すべきだと反論したものの、こうした明確で正当な要求をつきつけられては、政府に従属する立場上、公然と拒絶するわけにはいかなかった。
日銀は必要なお金を注入せざるをえなかった。窓口指導の融資割当額は引き上げられた。

ふたたび、世論の注目を集めた窓口指導は、1965年7月、再度廃止された。それとも、窓口指導は任務を終えたのだろうか?
田中のエネルギッシュな介入にしてやられた日本銀行は、いっぽうで政治家と大蔵省から大きな譲歩を引き出していた。
財政法を改正して、国債発行を可能にすることに田中が同意したのだ(タコ注:消費税が上がったら日銀職員の所得税を60%にしましょう!!)。
1965年11月、
最初の国債が
市場に出回った。


これで、大蔵省と日本銀行の勢力バランスは、日本銀行に有利に変化した。日本銀行は最初の勝利をおさめた。
政府支出を国債でまかなうことが可能になれば、政治家も大蔵省も、日銀の信用統制にちょっかいをださなくなるだろう。
同時に、財政法のもとでは新規発行国債の日本銀行引受は禁止されていた。したがって、日本銀行はそう簡単に国債引受による財政政策支援を要求されないですむ。
これは、日銀が信用創造によって財政政策を支援するかどうかを決定でき、場合によっては財政政策を骨抜きにする力をもつことを意味した。
金融政策と財政政策の
ずれが生じたのである。


実際には、
政府が国債を発行して市場から資金を借り入れる必要はなかった。
そんなことをしなくても、
新たなお金を創造して、インフレの心配のない生産的な支出をまかなうように日銀に要求すればいい。
そうすれば、財政政策は
信用創造に支えられて効果をあげる。
しかし、そういう時代は終わった。


政府は景気刺激のための財政政策を国債発行による借金で実施しなければならなくなり、経済への負担が増すことになった。
紙幣を印刷するのはタダだが
、国債を発行すれば数世代にわたって、金利が金利を生むという複利のくびきにつながれることになる。

したがって、
新財政法はほころびの始まりだった。
大蔵省の健全財政の黄金時代は終わった。

以後、政治家は投資家や大手金融機関から借金して財政支出をおこなうことができる。この選択肢を得た以上、政治家は必ず実行を迫るだろう。とりわけ、日銀の信用統制で景気が低迷したときはなおさらだ。したがって、政治家が財政支出を増加させたいと思えば、日銀ではなく大蔵省に圧力をかける。結局、大蔵省は膨大な国家債務の山を抱え込むことになる。これは、大蔵省の名声や立場にとってけっして好ましいことではない。

□「魔法使いの弟子」
いっぽう、
日本銀行は信用統制という権力をもてあそんでいた。彼らはこれを利用すれば、一万田のような強権的な手段を使わなくても、銀行貸出の微調整をおこなえることに気づいた。
戦時経済機構がうまく回転していた。
銀行もほかの大企業と同じで、株主の圧力から事実上解放されており、利潤ではなく市場シェア拡大を追求している。ほうっておけば、銀行は市場シェアをめぐって互いに熾烈な闘いを繰り広げるだろう。そのために、彼らは商品のダンピングをおこなうにちがいない。商品とは信用である。その結果は、過剰な貸出になる。ほかの産業と同じく、窓口指導のコントロールは過当競争を抑制するために必要なカルテルだった。
このことは、日本銀行が簡単に銀行の貸出を増やせるということでもあった。融資枠の伸びを大きくすればいい。あるいは一時的に窓口指導は廃止されたと言えばいい。
たとえば、1960年代半ば、財政法改正ののちに日銀が景気を加速させたいと考えたときに、このような事態が起こった。
▽日銀は銀行に、もう窓口指導はしないと言った。信用創造は増大し、民間部門の購買力が急増して、その結果、資産価格が上昇し、国内需要が拡大して、輸入が増加した。
▲窓口指導は1967年9月にふたたび導入され、69年には、民間部門の信用創出部門のすべてに対象が拡大された。
▽75年4月、窓口指導はふたたび「廃止」され、日銀は、銀行の貸出計画をすべて受け入れると述べた。
▲77年6月、日銀は「新しい手続き」を導入したと語った。78年、ふたたび厳しい融資割り当てがおこなわれた。
▽79年3月、「新しい手続き」はまたも廃止された。
▲79年、日銀はとくに住宅ローンと不動産関連融資を減少させることを目的に、窓口指導をおこなった。80年、厳しい窓口指導が続き、銀行は企業に融資の繰り上げ返済を要求した。
▽80年末に、窓口指導の上限は、前年比の伸び率を上回る方式に復帰した。

日銀は自由市場の信奉者を自認しているので、信用統制をしていると知られるのは具合のよいものではなかった。それに、法的根拠もない。そこで公的な刊行物では窓口指導に触れず、触れても、したがうかどうかは「任意」であるとその役割を小さくみせるようにしていた。
(しかし)「廃止」と再施行の繰り返しは、戦後を通じてずっとおこなわれてきた。
このおかげで、コントロールはあいまいにされていたが、実際には毎月および四半期ごとのヒアリングは一度も廃止されなかったし、その場で非公式の力が発揮されて信用の配分が強制されてきた。
銀行はつねに、貸出計画の承認を取りつけなければならなかった。
そうしないと営業局が貸出の伸びを縮小するといった制裁をちらつかせたから、銀行の「計画」は日銀の計画と同一だった。

□日銀の煙幕
一万田は体験から後輩たちに訓戒した。
「日銀は鎮守の森のように静かで目立たないほうがいい」。
あいまいな法的立場と、したがうかどうかは純粋に「任意」であるという主張によって、窓口指導の役割はうまく過小評価されてきた。
研究者たちは、さまざまな煙幕でごまかされた。
①ひとつは、窓口指導は融資の上限を決めるもので、産業別の量的資金配分には口出ししないという主張だった。だが実際には、融資割り当てが使われずに残るということはなかった。すべての貸出は部門別に(個人向け、卸小売り向け、不動産向け、建設業向けというように)振り分けられたばかりでなく、もっと細かい業種に(鉄鋼、化学など)分けられたし、同時に企業規模(中小企業と大企業)でも区分され、使途(設備資金運転資金)まで指定された。大口の借り手は名称まで具体的にあげられた。
②日銀スタッフのもうひとつの主張は、いずれにしてもコントロールは効果がなかった、だから重要ではない、というものだ。
だが、割り当てられた貸出の伸びを超えたり下回ったりした銀行は罰を受けた。
手形再割引の割当量を削減するとか、銀行間の取引に不利な条件を押しつける、窓口指導の割当額を引き下げるといった制裁や懲罰を科すことのできる中央銀行の独占力によって、指導の遵守は確保されていた。これらのすべては、銀行に重い負担となってのしかかった。競争に遅れをとらないためには、ゲームに参加して、つねに割り当てを達成するしかなかった。
したがって、当時の研究者たちはみな、銀行はつねに窓口指導にしたがってきたと考えている。
(しかし)日銀は、戦後まもなくはコントロールの効果があったかもしれないが、その後、経済が高度化して影響力は失われた、と反論する。
だが、戦争直後には、ほかに金融政策の道具がなかったために、とりわけ目立つたというのがほんとうのところだ。
日銀がその後政策手段を増やしたからといって、もとからあった手段の重要性が薄れたことにはならない。
1970年代まで、日銀の政策を研究する者は、実際には窓口指導がおもな政策手段だという結論を出さざるをえない。
窓口指導はそれほど強力で、ほかの政策手段はこれを
サポートするメカニズムにすぎなかった。


窓口指導はそれほど重要ではないと世界に思い込ませるために、日銀は金融研究所や調査統計局で作成した「調査」報告書の公表に力をいれた。
1970年代以降、ほとんどの文書は、理論上も実行上も窓口指導の重要性は少ないと明言している。
73年の金融政策に関する説明の英語版には、日銀は正統的な中央銀行の政策にしたがっている、と書かれている。
「窓口指導は、その性格上、市中金利、公開市場操作、預金準備という正統的な金融政策の補完的なツールである。これは、どちらかというと金融抑制に使われている……また、道徳的説得というかたちであり、金融機関の側の協力が前提であることを強調しておかなければならない。」
日銀の種々の刊行物は、徐々に金利を主役に押し上げ、中央銀行の金融政策は公定歩合とコールレー卜を操作しておこなわれると主張した。世論の関心をかわすために、日本銀行はしだいに公開市場操作を導入して強化し、日銀が売買をおこなって介入することのできる短期金融市場を発展させた。

□煙幕としてのマネタリズム
法律上はともかく、少なくとも実際には金融政策を自分たちの手に握って、独立して運用するため、日銀は世間に金融政策の主役は金利のコントロールだと思わせる以外のこともした。
日本銀行の刊行物は、一見、金融政策の決定要因かと思わせる枠組みを説明、周知する舞台でもあった。マネタリズムである。
1975年に日本銀行が発表した記事は、適切な水準のマネーサプライの重要性を強調した。78年、日銀は公式にマネーサプライの目標値を導入した。中央銀行がM2十CDといったいわゆるマネーサプライの測定方法を選び、同時に、たとえばつぎの半年に達成すべき具体的な伸び率を発表するという手順だ。
マネーサプライの目標値を導入したほとんどの国は達成に失敗している。イングランド銀行はさまざまな目標値を設定したがうまくいかず、結局80年代半ばには完全にあきらめてしまった。
ところが、日本銀行は大成功した。きわめて正確に通貨目標値を達成し、全世界のマネタリストを賛嘆させたのだ。
ミルトンーフリードマンのような国際的なマネタリストは狂喜した。日銀は彼らの信念の生きた証に見えたのだ。当時、日銀のスタッフはセントラル・バンカーの国際会議で鼻高々だった。
だが、もちろん、彼らの小さな秘密は、彼らの政策はマネタリズムと何の関係もないということだった。窓口指導を通じて信用創造を正確にコントロールする副産物として、M2十CDのような預金量の目標値も達成されたのである。
日銀にとつての利点は、マネタリズムにしたがえば、中央銀行は物価安定だけを目的にマネーサプライの目標伸び率を設定すべきだということだった。
マネタリズムは
「こうして、中央銀行の独立を支持する強力な理論になる。したがって、中央銀行の独立を侵食する種々の政治的圧力に対する自衛策として、セントラル・バンカーがマネタリズムを掲げることには何の不思議もない。
日銀幹部がマネタリズムに真剣な関心を寄せているのは、この理論が正しいと信じているからではなく、通貨コントロールの独立を冒そうとする外部の圧力をかわすのに役立つかもしれないからである。
要するに、日銀のマネタリズムは政治的策略だ。
日銀の独立は、1970年代後半に大きく強化された……。70年半ば以降に日銀が強調した『マネタリズム』は、政治的圧力から日銀の独立を守ろうとするセントラル・バンカーの術策と考えるべきである(堀内昭義:「Monetary Policies」“Japan”in Chapter 3 )」。
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(堀内昭義)

時と共に、ますます多くのエコノミスト、評論家、官僚が、窓口指導による信用統制が果たす重要な役割を忘れた。
事実、1980年代はじめには、まったく陰に隠れてしまった。フビライカン支配下の中国の時代と同じく、
国家の絶対的支配者とは購買力を創造し、
配分する者だった。

だからこそ日本では、彼らは舞台裏で行動するのである。

以上引用終わり。

仕組まれた大不況
以下は同じ
円の支配者-誰が日本経済を崩壊させたのか
の前書からの引用です。

□背後にうごめく黒い影
戦後55年間に日本の首相は26人を数える。
だが日本の通貨を支配し、したがって経済の核心を握ってきた人たちの数はずっと少ない。日銀の奥にいるのは、同僚たちから「プリンス」と呼ばれるこの人たちである。
黒ずくめで後ろから人形を操る文楽の黒子のように、人に知られることの少ないこれらセントラルバンカーたちが、日本の戦後史を画する重大な出来事をかたちづくってきた。
政治家も政府も官僚も、強力な大蔵省さえも、知らず知らずのうちに彼らのマネーゲームに登場する人形になっていたのだった。

大蔵省が戦後の経済体制(日銀は大蔵省に対して従属的な地位にあった。)を維持しようと心を砕いているとき、中央銀行は1920年代の日本に広く見られたアメリカ流の自由市場体制を復活させて、大蔵省の手綱(たずな)から自由になろうと画策(かくさく)していた。
(中略)
プリンスたちは、大蔵省の強大な法的権力を覆すには大規模な危機しかないと考えた。
大蔵省の責任だと非難が集中するような危機だ。

そこで秘密の日本改造「10年計画」を立案し、1986年から実行した。
そのために日銀のプリンスたちは、貸し出しを大幅に増加せよと銀行に命じた。(=窓口指導)
中央銀行の厳しい処罰という脅しにあっては、銀行は嫌々ながらでも従うしかなかった。

後になってバブル生成の責任を問われたのは、不動産投機家と銀行、大蔵省である。
1989年、プリンスたちはバブルが充分大きくなったと考え、信用統制をきつくした。トランプの家は崩れ落ちた。1990年代、プリンスたちは景気回復を図る政府のあらゆる政策を妨害し、1930年以来という深刻な不況を長引かせる政策を積極的に展開した。
プリンスは失業の増加も、不況のせいで記録的な高さになった自殺率も意に介さなかった。
彼らの計画は見事に成果を上げたのだ。
長期不況のおかげで、彼らの目標は「10年計画」にわずかに2年遅れただけで達成された。
1998年、大蔵省は解体されて力を失った。
日銀は独立を果たし、その強大な秘密の権力がついに合法的になった。
(中略)
本書をきっかけに、中央銀行の役割に対する幅広い議論が起こり、日銀の過去の政策と意思決定について、司法関係者を含めた独立した委員会による精査が行われることを願っている。

また、
立法府の議員たちには日銀法改正が過ちだったと気づいて欲しい。
ただちに日銀法を再改正して、国民から選出された代表者が金融政策の舵取りを行うようにすべきなのだ。
そうすれば日銀がやったように意図的に不況を長引かせたりはしないはずだ。
暫定的な施策として、議会は日銀が達成すべき国内総生産の名目成長率を(たとえば3パーセントというように)設定すべきだろう。
日銀がこの目標成長率を達成できなかったら、日銀のトップ三分の一をクビにする。この点では、速水総裁の言葉はあたっている。終身雇用を廃止し、実績にもとづく労働市場を導入する構造改革を日銀で実現すれば、目本の経済成長率は高まる。一年もたたないうちに、3%成長を達成できるだろう。
プリンスたちは大幅な構造改革を実現し、みずからの法的権限を拡大するために経済を大混乱に陥れた。だが彼らが仕組んだ構造改革は必ずしも国民の利益にはならない。
アメリカ流の経済体制だけが、経済を成功裏に運営する方法ではない。公的な議論がつくされ、プリンスたちが公明正大に行動していれば、なくさないですむ多くの長所が日本の経済体制にはあった。だが、彼らは闇の中で画策した。(2001年3月、東京)

以下は
エリートはさらなる権力を志向する
からの引用です。

バブルが発生する直前から崩壊する直前まで日銀総裁を務めたのは澄田智氏でした。
(中略)
一貫して金融政策の最高責任者として君臨し、日本経済を不良債権づくしにした澄田氏。
金融自由化を行って「アメリカ金融界の日本上陸」を許し、バブル崩壊後に格安となった株券を外資に買い占められる状況を作り出した澄田氏。
その澄田氏が平成元年12月16日に日銀総裁を辞任すると、翌年3月にはロスチャイルド系フランスの投資銀行ラザール・フレールの顧問に就任しました。
日本国民のための経済政策としては明らかな失策を続けた日銀総裁の澄田氏が、なにゆえ生き馬の目を抜く金融界の名門ラザール・フレールの顧問になれたのでしょうか?
国際金融資本の要請に応えた、ご褒美?と思ってしまうのは、うがった見方でしょうか?

以下は同じ
円の支配者-誰が日本経済を崩壊させたのか
最終ページからの引用です。

彼らの論理からすれば、
究極の目標は、通貨圏をつないで世界通貨同盟を作り出すことだろう。
それが実現すれば、マネーのプリンスたちの権力は頂点に達する。

ヨーロッパ人は参加を拒否しないだろう。すでに、各国通貨を捨てている。
アジア人たちは説得すれば参加するだろう。だがアメリカ人はどうか?
(中略)
セントラル・バンカーたちは、
頑固なアメリカ人に単一通貨を採用するように
説得する事は難しいと思っているかもしれない。ただし、

ドルが崩壊して深刻な不況に見舞われれば話は別である。
危機は時には、驚くほどの効果を生むものだから・・・。


以上引用終わり。

リチャード・A・ヴェルナー
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1967年ドイツ・バイエルン州に生まれる。
オックスフォード大学大学院博士課程を経て、東京大学大学院で経済学を専攻。
ドイツ銀行証券会社(1989)
野村総合研究所経済調査部(1990)
日本開発銀行設備投資研究所(1991)では初の「下村フェロー」に。
91年末から93年までオックスフォード大学経済統計研究所研究員として日本銀行金融研究所および大蔵省財政金融研究所で研究を重ねる。
94年から98年までジャーディン・フレミング(アジア)のチーフ・エコノミスト。
97年より上智大学講師。(以上 書籍裏表紙から 現在は英国在住。投資会社を経営。)

当ブログの
アベノミクスでも景気がよくならないなら日銀幹部を吊るせ!! 吊るせ!! 1」から4
人類の敵 中央銀行 1」から11
ヨハネの黙示録の白い馬 中央銀行 1」から10
日銀のウソ
日銀のウソに騙されるな
財務省の大ウソ 2」から3
もどうぞ。

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