なわ・ふみひとさんのサイトより
http://www.h2.dion.ne.jp/~apo.2012/browse1310-05.html
<転載開始>
●人間の心に、何かの観念が出ると、その観念の型のとおりに宇宙本体から微妙な力が働き出し、その観念の型が、良ければ良いように、悪ければ悪いように、思い方が積極的であれば積極的なものができ、消極的なら消極的なものができる。
●人間の心で行なう思考は、人生の一切を創る。
●人間の心のあり方が、結局人生を支配する法則の根本である。
●実在意識が直接に行なった動作は、そのいかなることも問わず、それを数多く繰り返していると、いつかその動作が、今度は潜在意識の支配で行なわれるようになる。すると、その後の動作は半意識的にか、または無意識的に行なえるようになり、実在意識は、以前のように直接監督の努力をしなくて済むようになる。(中略)
だから、習慣的行動というものは、自分の潜在意識に働かされてなすところの行ないなのである。(中略)潜在意識こそは、肉体の建設者で、また広い意味においての人生の建設者であるということである。
●潜在意識というものは、肉体にも精神にも驚くべき影響を与えている。
●何でもないと思っていて、それが直接的には自分の心の態度を、そして結果において自分の人生や生命に大きな影響を与えるものとは、それはいったい何であろう。それは、諸君が日常便利に使っている「言葉」というものである。
●だからいやしくも人を傷つける言葉、勇気を挫(くじ)くような言葉、あるいは人を失望させるような言葉、憎しみ、悲しみ、嫉(ねた)みの言葉を遠慮なく使っている人間は、悪魔の加勢をしているようなものだ。そういう人間は、哲学的にいえば、自他の運命を破壊することを平気でしゃべっている。だから、人々の心に勇気を与える言葉、喜びを与える言葉、人生を朗らかに感じるような言葉を、お互いに使うようにしよう。
●あなた方の愛情は偏った愛情である。すなわち、自分の気に入ったものだけ可愛がって、気に入らないものは可愛がりはしない。そういうのは本当の愛情ではない。太陽があれこれ選ばずに照らすように、普遍的な気持ちで愛さねばだめである。
●感情というものは、その種類がいかなるものであろうと、我々の肉体や人格に影響せずにはいられないようにできているのである。だから、常に感謝と歓喜という積極的な感情を持っていれば、肉体や人格に積極的な、非常に大きな、良い影響を与えるけれども、反対に、怒ったり、怖れたり、悲しんだりする消極的な感情や情念は、実に悪い影響を持ってくる。
中でも、恐怖というものは一番恐ろしいほどの印象力をもっている。
●結局、やたらと物事を、恐怖観念で考えるのは、宇宙霊と人間との関係を強く信ずるという信念が欠けているからである。
●習慣は第二の天性というが、まことに恐るべきことである。心配や悲観をする癖がつくと、悪い習慣だけど、何を考えるときでも、やたらと取り越し苦労をする。
●もっととぼけた滑稽な人間になると、他人の言葉や行為にまで自分の心が影響され、あるいは同情して、自分まで心配して不愉快になったり、悲観して不機嫌になってしまう馬鹿者がいる。
<転載終了>
http://www.h2.dion.ne.jp/~apo.2012/browse1310-05.html
<転載開始>
運命を拓く――天風瞑想録 | ||
中村天風・著 講談社 | ||
●恐怖への戒め 今日は、人生、人として生きていくときに、何をおいても一番戒めなければならない重大なことを語ることにしよう。それは“恐怖”ということである。 恐怖観念、詳しくいえば、病はもちろん、人事世事一切の出来事に対して、物を怖れるという気持ちくらい、価値のない結果を人生にもたらすものはない。ところが、今までのあなた方は、ちょっとでも体が悪いとすぐ戦(おのの)き、怖れている。わずかな運命に見舞われても、それがとてもどえらい運命になってしまうように怖れてしまう。毎日の人生一切の出来事に対して、この恐怖観念で応接しているという場合が多い。 このくらい、人生というものを哀れな状態にするものはない。なぜかというと、恐怖すればするほど、価値のない結果が人生にくるからである。因果律の法則で、どうしても、そうなるように宇宙真理が出来ているのである。 ベーコンという哲学者がいった言葉に、「人の大いに怖るるところのものは必ず、遂に襲い来るべし」というのがある。これは正に、このコンペンセーション(報償)の法則が必然的のものであるという信念で人生を考えている偉大な哲学者の言葉である。 宇宙霊という生ける大きな生命は、常に我々人間の心で思ったり、考えたりする事柄の中で、特に観念が集中して注がれると、咄嵯にそれを「現実のすがた」に表現しようとする自然作用があるのである。 瞬間的でも、観念が集中されたとすると、宇宙霊の力を受け入れる“鋳型”が用意されたことになる。そうすると、その恐怖している事柄が、やがて事実となって現実化してくる。感情というものは、その種類がいかなるものであろうと、我々の肉体や人格に影響せずにはいられないように出来ているのである。 だから、常に感謝と歓喜という積極的な感情を持っていれば、肉体や人格に良い影響を与えるけれども、反対に、怒ったり、怖れたり、悲しんだりする消極的な感情や情念は、実に悪い影響を持ってくる。中でも、この恐怖というものは、一番の印象力をもっているのであるから、早晩、その怖れている事柄が現実になって、形象化されるのが当然である。 嘘でない証拠に、回復のはかばかしくない病人をジッと見ていると、誰でも、思ったり考えたりしている事柄がすべて消極的である。わずかなことにもビクビクして、ちょうど水の上を、重い荷物を持って歩いているような気持ちで生きている。「到底一生、健康なんかになれるはずがない。一生こうして苦しめられ続けて死んでしまうんだ」というように、人生を極めて消極的に独り決めし、何事に対しても、少しも安心していない。因果律の法則は、そういう考え方をしている人に、不健康や、不運命を、最も“苦い”形で作り上げてしまうのである。 反対に、一切の雑念妄念を統制し、自分の人生を積極的に断定して生きる人は、よしや健康を損じたときでも、不運に直面しても、そのことを恐怖で考えない。だから、因果律の法則によって、より良い事柄が現実に姿を現わしてくれる。 結局、やたらと物事を恐怖観念で考えるのは、「宇宙霊と人間との関係を強く信ずる」という信念が欠けているからである。だから、人間を弱い方面からのみ考えずに、もっともっと強い方面から考え直すことである。つまり「自分の生命の背後には、見えないけれども宇宙霊が、自分を抱き締めるように、自分と共に在るんだ!」というようにだ。 ちょっと何か恐怖的に物を考えるような観念が出たら、積極的言葉で吹き消してしまいなさい。「自分の尊い生命を守ってくれる心の王座には、恐怖というような悪魔は入れないのだ!」と。 ★ 同じ本からこちらもどうぞ → 『運命を拓く』 | ||
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●人間の心に、何かの観念が出ると、その観念の型のとおりに宇宙本体から微妙な力が働き出し、その観念の型が、良ければ良いように、悪ければ悪いように、思い方が積極的であれば積極的なものができ、消極的なら消極的なものができる。
●人間の心で行なう思考は、人生の一切を創る。
●人間の心のあり方が、結局人生を支配する法則の根本である。
●実在意識が直接に行なった動作は、そのいかなることも問わず、それを数多く繰り返していると、いつかその動作が、今度は潜在意識の支配で行なわれるようになる。すると、その後の動作は半意識的にか、または無意識的に行なえるようになり、実在意識は、以前のように直接監督の努力をしなくて済むようになる。(中略)
だから、習慣的行動というものは、自分の潜在意識に働かされてなすところの行ないなのである。(中略)潜在意識こそは、肉体の建設者で、また広い意味においての人生の建設者であるということである。
●潜在意識というものは、肉体にも精神にも驚くべき影響を与えている。
●何でもないと思っていて、それが直接的には自分の心の態度を、そして結果において自分の人生や生命に大きな影響を与えるものとは、それはいったい何であろう。それは、諸君が日常便利に使っている「言葉」というものである。
●だからいやしくも人を傷つける言葉、勇気を挫(くじ)くような言葉、あるいは人を失望させるような言葉、憎しみ、悲しみ、嫉(ねた)みの言葉を遠慮なく使っている人間は、悪魔の加勢をしているようなものだ。そういう人間は、哲学的にいえば、自他の運命を破壊することを平気でしゃべっている。だから、人々の心に勇気を与える言葉、喜びを与える言葉、人生を朗らかに感じるような言葉を、お互いに使うようにしよう。
●あなた方の愛情は偏った愛情である。すなわち、自分の気に入ったものだけ可愛がって、気に入らないものは可愛がりはしない。そういうのは本当の愛情ではない。太陽があれこれ選ばずに照らすように、普遍的な気持ちで愛さねばだめである。
●感情というものは、その種類がいかなるものであろうと、我々の肉体や人格に影響せずにはいられないようにできているのである。だから、常に感謝と歓喜という積極的な感情を持っていれば、肉体や人格に積極的な、非常に大きな、良い影響を与えるけれども、反対に、怒ったり、怖れたり、悲しんだりする消極的な感情や情念は、実に悪い影響を持ってくる。
中でも、恐怖というものは一番恐ろしいほどの印象力をもっている。
●結局、やたらと物事を、恐怖観念で考えるのは、宇宙霊と人間との関係を強く信ずるという信念が欠けているからである。
●習慣は第二の天性というが、まことに恐るべきことである。心配や悲観をする癖がつくと、悪い習慣だけど、何を考えるときでも、やたらと取り越し苦労をする。
●もっととぼけた滑稽な人間になると、他人の言葉や行為にまで自分の心が影響され、あるいは同情して、自分まで心配して不愉快になったり、悲観して不機嫌になってしまう馬鹿者がいる。
<転載終了>