なわ・ふみひとさんのサイトより
http://www.h2.dion.ne.jp/~apo.2012/browse1311-14.html
<転載開始>
超人ピタゴラスの音楽魔術
   
斉藤啓一・著  学研
 音楽は魂を調律し、覚醒させる!

  音楽には、人の心を操るような、非常に強い力が宿っている。それはしばしば人格さえも変えてしまう力である。しかしこのことは、もし使い方を誤るなら、とんでもないことにもなるということだ。たとえば、ヒトラーが軍隊や民衆を扇動するために、ワーグナーの序曲を用いていたことは周知のとおりだ。ヒトラーはオカルトの研究家でもあり、音楽や色彩がいかに人の心を操るかをよく把握していたのだ。もしもワーグナーの音楽の力がなかったら、ヒトラーの野望もあそこまで拡大しなかったかもしれない。
  ピタゴラスの影響を受けたプラトンなどは、こうした音楽の力に早くから気づいており、理想国家の建設にとって、音楽は厳重に統制されねばならないと語っていた。「音楽が誤って扱われると、知らぬ間に人々の心に忍び込み、ついには国家を滅ぼすことになるだろう」と、彼は強く警告している。
  このように考えてくると、音楽はある種の“催眠術”であるといえそうだ。ヒトラーはワーグナーの音楽で大衆を催眠術にかけたのだ。その暗示効果は、1~2回聴いてもすぐに現れるが、何回も繰り返し聴くことで、性格や運命を支配するほど深くて永続的なものとなるのだろう。
  こうした音楽の特性について、ピタゴラスも「音楽は魂を調律する」と言っている。いったいどういう意味だろうか。
  調律とは、狂った楽器の音程を本来の状態に戻すことだ。だから「魂の調律」とは、魂を本来の状態に戻すことである。つまりピタゴラスは、「音楽は魂を本来の姿に戻す」と言っているわけだ。
  ピタゴラス教団の目的は“肉体という牢獄”から解放されることであった。ピタゴラスは「人間の本当の姿は、永遠の至福と自由に満ちた“魂”である」と考えたのである。魂は調和であり、魂の故郷である霊的世界も調和そのものであると。
  ところが、肉体という牢獄に閉じ込められてしまった魂は、その事実を忘れ、輪廻転生を繰り返し、地上の苦悩を味わいつづけているというわけだ。それは宮殿で暮らしていた王様が記憶喪失となり、自分自身がだれであるかを忘れ、スラム街でみすぼらしく生活しているのと同じである。われわれは“場違いなところ”にいるのだ。
  そこでピタゴラスは、本当の自分の姿が魂であることに目覚め、肉体から解放されて、故郷である調和の世界へ“帰還”しようと、弟子たちを導いたのである。もちろん、これは単純に自殺してしまえばいいということではなく、魂が自らの調和に目覚めれば、肉体や地上にまつわる出来事に煩わされなくなるという意味である。これがピタゴラスのいう“肉体からの解放”なのだ。
  では、いかにしたら魂の調和を覚醒させられるのか?
  それには「調和を本性とするものに接すればいい」というのがピタゴラスの考えだ。すなわちそれが音楽なのである。われわれは稀なことではあるが、非常に美しい音楽を聴いたとき、心が洗われる思いがし、懐かしさに胸が高鳴り、すべての人を愛せるかのような、そんな愛と調和の経験をすることがある。そのときは、死ぬことさえあまり恐ろしいとは思わない。むしろ、愛する人のためなら喜んで死んでもいいという気さえ起きる。求めるものなど何もなく、ただ生きていること自体が喜びとなっている。
  音楽による魂の調律とは、まさにこういうことだ。そしてピタゴラスが求めていたのは、そんな音楽だったのである。
  このように、魂を調律させるような音楽を「調律音楽」と呼ぶことにする。これは、一種の共鳴現象である。同じ振動数を持つ音叉同士が共鳴し合うように、また似たような考えや信条を持つ者同士が共鳴し合うように、魂は調和に接することで共鳴し、それによって自分自身も同じ調和であることに目覚めるのである。これは「共鳴の原則」である。共鳴の原則とは、共鳴し合うもの同士はお互いに似ているということ、そして自分と似たものに接することで、自分自身の本当の姿に目覚めるということだ。

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フツーの人が書いた黙示録 〈 希望編 〉

「光の子」を目指すための、あっと驚く確かな処方箋。
縄 文人 (なわ・ふみひと)
☆ 「光の子」になるための条件とは
☆ 「光の子」になれないのはどんな人か
☆ 仏教は最先端科学の内容をすでに知っていた
☆ 人間の意識がモノの波動に影響を与える
☆ 「波動の法則」が人生を左右する
☆ 食べ物の波動も肉体や心に影響している
☆ 朱に交われば赤くなる
☆ 「夢が実現する」という成功哲学には要注意
☆ 潜在意識の中身は普段は認識できない
☆ 水に書いた文字、砂に書いた文字、岩に書いた文字
☆ カルマは気づきのために表面化する
☆ 病気の原因は潜在意識にため込まれた心の癖
☆ 健康に執着するのは病気願望と同じことになる
☆ 自分で蒔いた種はすべて自分で刈り取れる
☆ 見ざる、言わざる、聞かざる
☆ 波長を高めるための秘訣は「与える」こと
☆ 動物は人間の食べ物として準備されたのか
☆ 他者の喜ぶ顔を見ることができる幸せこそ富
☆ 自分がしてほしいと思うことを隣人に施す
☆ 「向上心」も波長を高めていくうえで欠かせない
☆ 同じアホなら踊らな損、損
☆ 愛とは見返りを求めずに与え続けること
☆ 与えたものは必ず返ってくる
☆ 個は全体のために 全体は個のために
☆ これから人のカルマに基づいて選別が始まる
なわ・ふみひとからのお知らせ
「光の子」になる
  「光の子」になるための条件とは  [TOP]

 いま既に始まっていると思われる終末現象のなかで、これから私たち人類は「光の子」と「獣」に分けられると予言されています。我欲に満ち、物質世界の享楽を手放すことのできない人は、獣的人間となって、次元アップした新しい地球には住むことができないといわれています。
 そのことをよしとする人は、いまさら新しい気づきを得るために努力をする必要はありません。もし、そのような人たちがいるとすれば、これからの終末現象の中では、身の回りに権力やお金、財産、地位を引き寄せるだけでは不十分で、天変地異や戦争などに備えて強固なシェルターなどをこしらえ、身を守る努力をする必要があるでしょう。
 しかし、今回の終末のカタストロフィーでは、物質で固めた強固な城がまたたく間に崩壊していく姿を目にすることになります。備える内容が違っているのです。その時に気づき、反省しても、もう遅いかもしれません。それまでに気づきのチャンスはくり返し与えられているはずですから‥‥。
 というわけで、ほとんどの人が「光の子」として選ばれることを願っていると思われますが、そのときに大切なことは「これまでどんな生き方をしてきたか」より、「今どんな生き方をしているか」ということです。私たちのこれまでの生き方が慣性となって、現在の生き方に大きく影響しているのは確かですが、ここで勇気を持って価値観の転換をはかるならば、「過去」は「現在」を束縛することはできないのです。なぜなら、私たちには「今」という時間しかないからです。「今」を変える決意されあれば、「過去」は私たちの生き方に干渉することはないのです。
 ただし、過去に犯してきた過ちに気づき、その過ちを軌道修正する決断は必要です。無反省であってはいけないわけです。
  たとえば、習慣的な喫煙癖をやめようと思う場合、これまで喫煙してきた期間の長さはまったく関係ありません。20年も飲み続けたからやめにくくて、5年しか飲んでないからすぐやめられる、ということはないのです。今、喫煙癖とさよならすることを決断すれば済むことなのです。ただし、これまでなぜタバコをやめられなかったのかということについての反省がなければ、一度やめたとしても、喫煙癖はすぐに復活します。
 私はこれを「1本の誘惑」と呼んでいます。
 タバコをやめることにチャレンジした人たちが、1カ月あるいは1年後に、再びタバコを吸い始めるようになる一種のパターンがあるのです。それは、「1本ぐらいすっても、もう大丈夫だろう」という気持ちで心を許してしまうことです。これが「1本の誘惑」です。
 確かに、1カ月もタバコをやめた人が、途中で1本をすったとしても、翌日からすぐに喫煙癖が復活するわけではありません。それから1カ月くらいは無理なく禁煙が続けられるのです。そうやって安心させておいて、またしばらく経つと今度は「2本目の誘惑」がやってきます。このときは、前回成功した経験もありますので「1本くらいすっても‥‥」という安心感はさらに強くなっています。つまり、誘惑に対するガードが甘くなっているということです。こうやって、2本が3本に、そして、いつの日か元に戻ってしまうというパターンが巧妙に準備されているのです。こういう形で、私たちが「誘惑に強いか、弱いか」ということについての判定がなされてしまいます。
 「タバコ」を「ケーキなどの甘い食べもの」「お酒」「異性とのセックス」「ショッピング癖」など、その他のものに置き換えてみてください。あなたにも何か当てはまるものがありませんか?
 そのような物質次元のさまざまな誘惑にうち克つ心を持てるかどうかが、新しい時代行きの切符を手にできるかどうかを判断する基準になるのです。
「光の子」となれるのは
 「光の子」になれないのはどんな人か  [TOP]

 各予言の内容から判断しますと、「光の子」となって新しい次元に行けるのは人類の1割~3割程度かも知れません。預言によっては1%ぐらいだと言っているものもあります。特に、次のような人は「光の子」になれない可能性が高いと思われます。

① 「人生は一回限りだから、好きなことをやって、楽しんで死ななきゃ損」という考え方
  で生きている人。
② 霊界や異次元などの神秘な世界の存在を認めず、科学ですべてが解決・解釈でき
  ると考えている人。(そういう人は死後の世界を信じることができないので、死ぬこ
  とを非常に恐れる)
③ お金や権力、名誉などに対する執着心が強い人。
④ 何事に対しても感謝の気持ちが少なく、いつも不平不満を口にし、他人や世の中
  の悪口ばかり言っている人。
⑤ 自分の健康状態を異常に気にし、すぐに病院や薬を頼りにする人。


  それから、これは私個人の見解ではありますが、「⑥習慣的に肉食をしている人」も波動が大変粗くなっていますので、新しい次元の世界に行くことはむずかしいと思っています。多分、体内に蓄積された牛や豚など高等動物の波動は、終末ぎりぎりの次元アップのときには体を内側から焼くような熱となって、大変な苦しみの原因となるはずです。
 牛や豚も人間と同じように意識を持っていて、自分たちが殺される前にそのことを察知しているといわれます。ですから、殺されるときの恐怖の念が体内に蓄積されているのです。その肉を習慣的に食べる人には同じ恐怖心の波動が身に付き、蓄積されていくことになります。
 日月神示が肉食を強く戒めているのはそのためだと思います。
 「感謝をして食べれば、悪い波動も消える」という人もいますが、それは食べることを前提とした身勝手な理屈です。食べられる側の立場を全く考慮に入れていない考え方と言うべきでしょう。
 予言の中にも「火水伝文(ひみつつたえふみ)」のように肉食を容認するものもあります。私はこの予言そのものがいかがわしいと見ています。そもそも出口王仁三郎が「自分が死んだ後にとどめの予言が出てくる」と予言して出てきた日月神示のそのまた後から、よく似た内容の予言がのこのこ出されてくるのが不自然なのです。
  この予言は、1990年代のある日、東京杉並区に住む我空徳生と名乗る人物の目の前の空間に、本人にしか見えない文字が突然浮かび始め、やむなくそれを書き留めたものだと言われています。私もこの予言の解説書に目を通しましたが、採用する気になれませんでした。
 この章の結論として、やはり「肉食は戒めるべきである」というのが私の考えです。
仏教は最先端科学
 仏教は最先端科学の内容をすでに知っていた  [TOP]

 宇宙は波動で構成されていて、異なる振動数(周波数)の世界が何層にも重なり合って存在しているということでした。そのことは今日の最先端科学が明らかにしていますので、ここで素人の私が解説するまでもありません。
 驚くべきことに、それと全く同じ意味のことが、仏教のエッセンスといわれる般若心経にしっかり述べられているのです。私は仏教に関しては解説書をかじった程度の知識しかありませんが、般若心経の解釈については、「これしかない」という確信を持つに至りました。
 般若心経のなかで最も有名なのは「色即是空、空即是色」という言葉です。この「色」は物質や現象のことを意味しています。しかし、たとえば「物質は空である。空が物質である」と解釈しても、何のことか理解できないと思います。仏教の世界にいる人たちの解説は、ここでつまずいてしまうのです。「空」を「無」に近いものと解釈しているからです。「物質はあるようにみえるけど、時間が経つとなくなる不安定なものだ。だから執着してはいけない」といわれれば、何となくわかったようで、それでも釈然としない気持ちが残ります。
 現代物理学は、この「空」の存在を立派に証明してくれました。ひところ、この空間には「エーテル状」のものが充満している、との考え方があったのをアインシュタインが否定したといわれています。いま、その考え方が再び復活し、「量子真空」という言葉で再定義されています。(『魂の記憶』喰代栄一・著/日本教文社)
 この空間は目に見えない粒子、波動で満ち満ちているということです。その波動に一定の力が加わることによってエネルギーが発生し、「無」と思われたところにさまざまな「物質」が生み出されるというわけです。(『空間からの物質化』ジョン・デビッドソン・著/たま出版)
 そこで、「色即是空、空即是色」を「色即是波動、波動即是色」というふうに置き換えて解釈してみてください。つまり、「物質は波動でできている。また、波動に一定の力が加わると物質に変化するんだよ」ということです。これが仏教の真髄なのです。2500年前に、お釈迦様はこの最先端科学の発見を完璧に理解しておられたということです。すごいと思いませんか。
 般若心経はこの「空即是色」の後に「受想行識亦復如是」という言葉が続きます。「受想行識」はセットになった言葉で、物質的現象を意味するする「色」に対して「精神的作用」を総称したものです。「受」は感覚、「想」は想念、「行」は意志、「識」は認識、と理解したらよいと思います。「亦復如是」は、「~もまた同じものだよ」と言う意味です。つまり、私たちの感覚も想念も意志も認識も、みんな波動だといっているのです。これも最先端の現代科学がいっていることとまったく同じです。
 この理解を得ると、難解な仏教もフツーの人の頭で解釈できるようになります。
 私たちは死ぬと、魂が物質としての肉体から離れ、波動の違う別次元に行くのです(正確には、魂はもともと別次元にも同時に存在しているのですが、そのことがこの物質次元からでは認識されないだけのことです)。ですから、魂は死滅することはありません。別次元のことは「幽界」とか「霊界」とか呼ばれていますが、その世界も波長の違いにより更に細かな階層に分かれているようです。
人間の意識が
 人間の意識がモノの波動に影響を与える  [TOP]

  人間の肉体も波動であることを理解していただけましたか。この宇宙に存在するものはすべて波動でできており、その周波数の違いが特徴をつくっているのです。石には石の周波数、花には花の周波数、水にも水特有の周波数があるのです。もちろん、そういう目に見える物質だけでなく、音や色、匂いから人の言葉や気持ちに至るまで、すべて波動だということです。言葉の場合はわが国では早くから「言霊」と呼ばれ、その波動性に関心が持たれてきました。神道で唱えられる祝詞は、言葉の波動に音の波動が合わさって、神霊界にも届くほどの精妙な波長になっているということでしょう。
  つまり、人の使う言葉は、それを耳にする本人はもちろんのこと、周りのモノの波動に影響を与えるというわけです。「ありがとう」といわれた水と、「ばかやろう」といわれた水の結晶が全然違うものになるという実験結果もあります。(『水は答えを知っている』江本勝・著/サンマーク出版)
  植物も、優しい言葉をかけられて育てられたものと、ののしられながら育てられたものでは発育度合いに違いが生まれ、また花や実の付け方も変わるといわれています。クラシック音楽を聴かせるか、やかましいビート音楽を聴かせるかでも違いが生じることが報告されています。
  このように、言葉や音などの波動が対象に影響を及ぼすということですから、私たちは、普段何気なく使っている言葉の力にもっと注意を払うべきでしょう。
  「疲れた」「悲しい」「憎い」「畜生」「辛い」などといったマイナス波長の言葉を習慣的に使うことが、いかに恐ろしいことかがわかります。
  しかし、言葉以上に私たちが注意しなくてはいけないのは、私たちの想念、すなわち心の持ち方なのです。これを仏教的にいえば「念」といい、心理学的には「意識」といっています。ここでも仏教と現代科学(心理学)は全く同じことをいっているのです。
  まず心理学では、意識には「顕在意識」と「潜在意識」があり、さらにその深層には人類の「集合的無意識」があると分析しています。そして、仏教でも全く同じ内容を、「眼耳鼻舌身」の五感と、「意」としての「マナ識」、「アラヤ識」という言葉で表現しているのです。
  少し学問臭い内容になりましたので、このあたりで元に戻して、「私たちの言葉や心が、まわりにどのような影響を及ぼすのか」という点に絞って考えてみましょう。これを便宜上「波動の法則」と呼ぶことにします。
「波動の法則」が
 「波動の法則」が人生を左右する  [TOP]

  波動の法則の一つとして「類は友を呼ぶ」という大法則があります。同じような振動数(周波数)のものは引き寄せ合うという性質があるのです。わが国には「笑う門には福来る」「泣き面に蜂」といった諺がありますが、これらはその大法則をうまく表現しています。
  いつも笑っている人には、ますます笑うような嬉しい出来事が起こり、泣き面をしているとますます泣きたくなるような出来事が降りかかってくるという意味です。最近では「プラス思考」「マイナス思考」という言葉を使ってこの法則を解説している書籍がたくさん出されていますから、ご存じの方も多いと思います。
  ここでまた仏教の話になりますが、仏教でも「身・口・意(しん・く・い)をコントロールすることが大切である」と説いているのです。「身」とは体、すなわち私たちの行動(行為)です。いつも病人のように弱々しく振る舞っている人はますます病気に好かれ、社長が事業の不振を嘆いて肩を落としていると、ますます業績が悪くなる、といった内容です。
  次の「口」は言葉です。どんな言葉を使うかで、自分の周りに起こることに影響が出るということを仏教は教えているのです。波動の法則によってその意味が理解しやすくなりました。「自分にはできない」「自分はだめな人間だ」などという言葉を常に発していると、ますますそのような自分になっていくということです。また、他人の悪口を言っても、その言葉は自分が聞いていますので、自分自身がそのような波長となり、悪い状態を作り出してしまうことになります。このように、言葉の使い方は大変難しいものがありますので、項を変えて詳しく説明したいと思います。
  最後が「意」すなわち意識(想念、思考)です。言葉以上にコントロールしにくいのが意識、つまり心の動きなのです。「心はコロコロ変わるからこころという名がついた」とまでいわれるほど、人の心は定まりません。あの親鸞ほどの人でも、他人に施したのに全くお礼の言葉がないためにむっとすることがあった、と述懐しています。(『なぜ生きる』高森顕徹・監修/1万年堂出版)
  死ぬほど好きだと思っていた恋人に裏切られて、逆に鬼のような憎む心になってしまったという話もよく聞きます。そして、言葉と同じように、私たちの心の波動は私たち自身に影響を与えるのです。
  「人を呪わば穴二つ」という諺がありますが、この「穴」というのは人を埋葬する穴、つまり棺桶のことです。殺したいほど憎い人のわら人形を作って、丑三つ時に呪いをかけるという風習がありますが、そのことによって呪われた相手が死んだとしても、発信された呪いは発信者にも同じ影響を与えますので、自分も死んでしまうということです。つまり、棺桶が二つ必要になるわけです。
  このように、私たちの普段の心をどのように調律するかは非常に大切なことなのです。終末現象のあとに生まれる新しい地球では、人の心がすぐに周りに伝わり、影響が現れるといいますから、もし人を呪うようなマイナス波長の人がいると大変です。そういう意味では、やはり心の調律のできない人は新しい地球行きの切符は手にできないということになりそうです。
食べ物の波動も
 食べ物の波動も肉体や心に影響している  [TOP]

  その人が普段口にしている食べ物も、人の波長に大きな影響を及ぼします。食べ物の持つ波動は肉体の細胞を変えていくからです。何を食べるかということは私たちの波長を高める上で非常に大きな意味を持っています。(『魂の記憶』喰代栄一・著/日本教文社)
  また、「類は友を呼ぶ」の大法則によって、私たちは自分の波長に合った食べ物を嗜好するということが言えるのです。甘い物に目がない人はますます甘い物を求めるようになり、肉食中心の生活をしていると、ますます肉が食べたくなるというわけです。その悪循環を断ち切るためにはどちらを先にするかということになりますが、まず食べる物をコントロールすることに挑戦するべきでしょう。
  心の調律ができて、使う言葉もプラス思考のものになっていけば、自然と食の好みも変わるかも知れませんが、食べ物の嗜好は簡単には変わらないものです。タバコの喫煙癖の例と同じで、「1本の誘惑」に弱い人は、この終末の選別で合格できない可能性が高いということです。
  今日では、肉食は私たちの健康面からみてもよくない食べ物であることがわかっていますが、私は、人の波長を粗くするという側面を問題視しています。
  そういう観点から、みなさんにぜひお勧めしたいのは「穀物菜食」です。つまり、米、大豆、野菜など、畑や田んぼでつくられる作物、および椎茸などのキノコ類、そしてヒジキや昆布、海苔などの海藻類がベストでしょう。西洋の誤った栄養学に洗脳されて、どうしても動物性蛋白質をとらないと不安になる方は、魚を、それも丸ごと食べられる小魚を食べるようにした方がいいと思います。この辺のところは日月神示に大変詳しく述べられています。その解説書が中矢伸一氏の執筆によって何冊も世に出されていますので、関心のある方は手に入れて読んでいただくことをお勧めします。
  ここでは、「終末時代の私たちに最も適した食べ物は穀物菜食である」という点を強調しておきます。
朱に交われば
 朱に交われば赤くなる  [TOP]

  「類は友を呼ぶ」と並ぶ波動の法則の二つ目に「共鳴の法則」があります。わが国の「朱に交われば赤くなる」という諺がその性質をうまく表現しています。つまり、ある特定の波動の影響を連続して受けていると、それと似たような波動になってしまうということです。
  音の波動で考えていただくとわかりやすいと思います。2つの音叉を並べて、その片方を叩いて音を出すと、やがてもう一つの方も同じように音を出し始め、共鳴するようになります。波動はすべからくこのように同調する性質を持っているのです。つまり、強い波動が他に影響を与え、同調させるということです。
  人も波動ですから、マイナス思考の人、あるいは悪想念に満たされた人たちのなかに入っていると、やがて自分もその人たちの影響を受け、マイナス思考、悪想念に染まってしまうということになります。昔から「付き合う友だちを選びなさい」といわれるのは、波動が影響を受けるからです。
  しかしながら、もう一つの波動の法則である「類は友を呼ぶ」という性質によって、なぜか気の合う仲間は自分と同じような波長の人間になってしまいがちです。お互いのキズをなめ合ったり、他人の悪口を言ったり、世の中を批判する人たちが、不思議と群をなすのはそういう理由からです。
  死んで肉体を離れたとき、霊界で地獄的世界に行く魂は、何も生前の行為の罰を受けて、エンマ様からそこに行かされるのではなく、自分の持つ波長に同調する世界に引きつけられるということです。同じように、終末においても人は自らの波動の状態で、自動的に行く世界が決まるということでしょう。
  しかしながら、終末現象のなかでは地球そのものの波動がレベルアップしますので、人の波動は今のまま留まるのではなく、より同調しやすい方に引っ張られることになります。二極分化が起こるといわれているのはそのことです。
  サタンが望む粗い波動に引き寄せられ「朱に染まる」か、それとも次元アップした高い周波数の波動に引き寄せられるか、どちらかを強制的に選ばされることになるのです。これまでは再び人間に生まれ変わってきて、新たな気づきを得て周波数を高めることができましたが、新しい地球では生まれ変わることができなくなるといわれていますので、そのチャンスもありません。
  場合によっては、この人生で出会った多くの仲間とは別次元に行ってしまって、進化のサイクルが遅れてしまうということになるでしょう。ちょっと辛い話ですね。終末現象をノホホンと受け止めて、高をくくることはやめた方がいいと思います。
「夢が実現する」
 「夢が実現する」という成功哲学には要注意  [TOP]

  ここでおさらいをしておきましょう。私たちの言葉や想念(心、意識)は、私たち自身に対して、あるいは私たちの周りの人やその他の生き物、物質などに対して影響を与えるということです。また、食べ物や行動も私たち自身の波動に影響を及ぼします。行動のことを「~らしく振る舞う」というふうに考えてみてください。
 「自分は寒さに弱い」という意識を持っている人は、冬になると「厚着をする」という行動をとります。あるいはまた「暖房器具に頼る」という行動をとるでしょう。つまり、「寒さに弱い人らしく振る舞う」のです。意識が行動を左右しているということです。
 逆に、行動も波動ですから、意識に働きかける力を持っています。寒さに弱い人のように振る舞えば、ますます寒さに弱くなり、「自分は寒さに弱いのだ」という意識を強化することになります。「悲しいから泣くのでなく、泣くから悲しくなるのだ」という考え方があるように、行動が意識を形成していく一面も見逃せない事実です。
 最近では、この心の力を教える成功哲学の本もたくさん出されていますから、そのあたりのメカニズムを理解されている方も多いと思います。聖書でもイエスキリストが「強く信じることは実現する」と教えています。強く信じるためには、実現した姿を思い浮かべ、「実現してしまったように振る舞うこと」が大事な要素となっています。
 しかしながら、「信念の力」とでもいうべき心の法則を誤って使用すると、大変悲惨な結果になる場合があります。たとえば、どうしてもまとまったお金がほしいということで、「1千万円を手に入れる」という信念を強めていると、願いは実現しても、そのお金は愛する我が子が交通事故で死亡し、その保険金として手に入ったということにもなりかねないのです。このように、「こうすればお金持ちになれる」とか「こうすれば夢が実現する」という成功哲学の本は、その理解が不十分であると大変な落とし穴があることだけは心に留めておいてください。
 そもそも、この世で成功するとか、お金持ちになるとかいうことに執着する心の持ち方は、そろそろ卒業しなくてはいけないということです。新しい時代にはこの世的な成功の姿はないわけですから、いまだにそのような成功の姿に憧れる人の波動は、けっして高い周波数とは言えないのです。
普段の心の調律
 潜在意識の中身は普段は認識できない  [TOP]

  意識が、人の波長に大きな影響を与えることはご理解いただけたでしょうか。私たちの心の持ち方、つまり意識のコントロールはなかなか難しいものです。仏教では座禅を組んで、心に浮かんでくる雑念を第三者の目で静かに見つめる訓練をします。その雑念によって心を動かすと、また新しい雑念を生み出すことになりますので、心を動かさない訓練ということができるでしょう。
 私たちの心の奥底にあるもの、つまり潜在意識の中身は普段は認識できないものです。しかし、終末の極限的状況では、この潜在意識に埋め込まれていたものが表面に現れてしまいますから、私たちは自分でも想像できなかったもう一人の自分の姿を見ることになるかも知れません。
 潜在意識の中には、私たちの普段の心の傾向が蓄積されています。ある種の劣等感や、人をうらやむ気持ち、憎む気持ち、恐れる気持ちなどがため込まれている場合も多いでしょう。あるいは不安や怒りが蓄積されて、それぞれが大きな塊になっている場合もあると思います。
 座禅を組み、瞑想することによって、潜在意識の扉が開かれ、中のものが一度に出てくることになると、私たちの顕在意識の許容量を上回り、発狂してしまう場合もあると言われています。座禅や瞑想はよき指導者の下で行なわないと危険だ、と言われる理由はそこにあるのです。
  しかしながら、終末のカタストロフィーの中では、私たちの潜在意識の中身が強制的に表面に出されることになります。それは恐怖心や呪いの気持ち、後悔の念、自暴自棄の気持ちなどとなって表面化するに違いありません。備えのない人は取り乱し、多くの人たちと一緒に阿鼻叫喚のおぞましい姿を披露することになるでしょう。
 そういう事態を避けるためにも、普段から心の調律をしておくことがとても大切になってきます。
水に書いた文字
 水に書いた文字、砂に書いた文字、岩に書いた文字  [TOP]

 潜在意識の奥深くにため込まれた内容は、カルマとなって私たちの人生にさまざまな影響を及ぼします。俗にいう不幸な出来事として表面化する場合と、恵まれた幸せな境遇として、この世的にはラッキーと思われるような幸運をもたらすこともあります。仏教で言う「善因善果、悪因悪果」ということです。神様や仏様が勧善懲悪をされるというわけではなく、いずれも因果の法則を理解させるために仕組まれた現象なのです。「善果」に有頂天になり、努力を怠ると、悪いカルマをつくり、いずれは「悪果」となって返ってきます。このように波動の法則は大変奥深いものがあるのです。
 過去にため込んだ悪因の結果は甘んじて受けとめなくてはなりませんが、そのことによって新しい悪因をつくらないようにするにはどうすればよいのでしょうか。
 そのことを仏教では「水に書いた文字(よくやった)」「砂に書いた文字(よかろう)」「岩に書いた文字(避けよ)」に例えて教えています。悟りを開いていない私たち人間が、この人生で直面する様々な出来事によって、瞬間的によくない波動を発信してしまうことは避けられないことでしょう。たとえば、通勤電車の中で足を踏みつけた相手が、わびることもなく涼しい顔をして降りていくとき、「こら、ひとこと謝れ!」という気持ちが起こるのは自然な感情でしょう。あるいは勤務先の上司から些細なことで厳しく叱られたときに、「この野郎。覚えとけ!」という気持ちを持つことがあるかもしれません。
 水に書いた文字というのは、そのような気持ちを持ったとしてもすぐに思い直して、相手に対して悪い波動を発信したことを、心の中でわびなさいという意味です。そうすれば、マイナスの波動が中和され、あたかも水の上に書いた文字のように、書くそばから消えていって、潜在意識に刻まれることはないというわけです。
 砂に書いた文字というのは、風が吹くと砂の上の文字が徐々に形をなくし、やがて消えてしまうことを表しています。それは、人を恨んだとしても、夜寝るまでにその対象となる人を許し、逆に恨みの念を発信したことをわびなさいという教えです。
 夜眠りにつくと、潜在意識の扉が開くと言われています。そのとき、私たちが心に残していた恨みの気持ちや不安な気持ちなどが、まとめて潜在意識の中に畳み込まれるのです。しかも、潜在意識の中に入った心の傾向は、睡眠中にどんどん成長していくと言われています。それはちょうど車のハンドルに例えられていて、私たちが寝る前に切ったハンドルの状態は、睡眠後もそのまま固定され、車はその方向に進んで行くのです。
 恨みや不安、怒りなどの気持ちを抱いたまま眠りにつくと、その気持ちはますます強化され、目が覚めたときにはさらに強い恨み、不安、怒りなどの気持ちとして意識されることになります。そして、「類は友を呼ぶ」の法則の通り、現実の世界でもさらにそのような気持ちにさせる出来事を引き寄せてくることになり、それはまた潜在意識にため込まれ、成長していくという悪循環に陥ることになります。
 このように、眠りにつくときにまだ気持ちの整理がつかないものを残しておきますと、その気持ちは潜在意識にしっかり刻まれることになります。ここまでくると消すことのできないカルマとなり、病気や事故といった現象として形を現してきます。これを、岩に書いた文字と表現しているのです。
 夜寝るときに、その日の出来事を振り返り、人を恨む気持ちがあればその人を許し、また恨みの気持ちを抱いたことを反省し、わびることです。また、このような気づきを与えてもらったことを感謝し、「ありがとうございました」とお礼が言えれば悟りの境地と言えるでしょう。もちろん、最初は「ありがとうございました」を何十回も唱えてから寝るというふうに、形から入ってもらえばいいのです。
 同じように、不安な気持ちが心を占領しているときは、「大丈夫」「きっとうまくいく」「もう解決した」といった言葉を何度も口ずさんだあとで眠りについていただくことをお勧めします。これは宗教が教えている内容ではありません。潜在意識がどのような働きをするかという科学的理解に基づいた処方箋で、私自身も実践してきたことです。
悪いカルマ
 カルマは気づきのために表面化する  [TOP]

 カルマ(仏教では「業」と表現します)は私たちが人生において身・口・意によって発信した波動の反作用だということができます。カルマが表面化するときに、私たちの発信したものがどういうものであったかを知ることができるのです。聖書の表現を借りれば、「蒔いた種を刈り取る」ということになります。刈り取る時になって、蒔いた種がどういうものであったかを気づかされるのです。
 ですから、カルマはすべて私たちの気づきのために表面化するのです。たとえば、病気という形で現れたカルマは、その原因となった心の使い方がどういうものだったかを気づかせる働きをします。原因がわかり、次からその原因となる種を蒔かないようにすれば、同じカルマをつくらずに済むことになります。そのような経験を重ねるなかで、私たちは気づきを得て波動の修正を行ない、周波数を高めていくのです。
  しかし、私たちのカルマは必ずしも現人生でつくったものだけとは限らないと言われています。私たちの前世においてつくったカルマや、あるいは私たちの先祖がつくり出したカルマについても、刈り取る責任を負わされるということです。ここまでくると大変難しくなりますので、カルマを解消するゴールデンルールを明らかにして、この項は終わりにしたいと思います。
 カルマを解消するゴールデンルールの一つは、すでに述べてきましたように、「新しいカルマをつくらないこと」です。そのためには、普段から最低でも「砂に書いた文字」をきっちり実践していただくことが大切です。
 つぎに、それでも現れてくるカルマ(嬉しくない出来事)については、それは私たちに気づきを与えるための神の配慮(天の配剤)だと思って、むしろ感謝して受けとめることです。病気に感謝し、自分や身内の不幸と思える出来事にも感謝するのです。大変ムゴい話のように思われるかもしれませんが、これこそが新しいカルマをつくらないためのとっておきの秘訣なのです。
 要するに、私たちの回りで起きるできごとはすべて、自分の魂の進化のために必要なことなのだ、と理解することです。「だからありがたいことなのだ」と理屈ぬきに感謝してしまうのです。そして、お礼を言うのです。そのことによって、潜在意識の中に畳み込まれていたよくない心の習慣は次第に浄化されていきます。
病気の原因は
 病気の原因は潜在意識にため込まれた心の癖  [TOP]

 健康ということを例に取って考えてみましょう。いまの日本人は病院や薬と大変仲良しになっています。そのことを批判するわけではありませんが、それは西洋医学の間違った考え方に毒された結果なのです。西洋医学の一番の間違いは、人体の病気を部品の欠陥と捉えている点です。胃が悪ければ、胃の調子を整える薬を与えるか、極端な場合は胃を切開して悪い部分を除去すれば良くなるという思想に基づいています。
 部品の故障を修復する力のある薬は、その副作用として他の部品または全体に対しては悪い働きをする場合がほとんどです。今日では副作用が全くない薬はないとも言われています。
 西洋医学が問題なのは、病気の原因を単に悪い物質の作用、または部品の機能低下によるものと考えている点です。確かに、現象としてはウイルスなどの病原菌によって発症するケースもたくさんあるでしょう。しかし、その病原菌は「原因」ではなく「媒介」でしかないのです。病気の原因は心の中、つまり潜在意識に蓄積された“よくない心の習慣”にあり、その「因」がウイルスという「縁(きっかけ)」によって「果」としての症状を現すのです。
 ですから、「縁」を退治しても、「因」が残っているかぎり、再び体の他の部分に「果」としての症状を現してくることになります。癌などの難病が、手術によって悪い細胞を除去しても再発するケースが多いのはそのためです。潜在意識の中にあるよくない波動が、同じ波長の病気を引き寄せ、症状を体に現わしているということを理解しないと、病気の予防も、本当の治療もできません。
 これだけ医学が発達したと言われながら、さまざまな難病にかかる人の数は増える一方であること、そして、医療費として病院や薬品メーカーに支払われる金額(保険も含めて)が天文学的にふくらみ続けていることを疑問に思いませんか。
 薬や手術に依存するということは、外の力を頼りにするということです。本当に病気を治す力は私たちの体の中に備わっているのに、それが活用されないのです。私たちの体の中に常駐している「自然治癒力」という名の“病気を退治してしまう部隊”が、いざ自分たちの出番だと思って出動すると、いつのまにか“薬品投下班”という外人部隊が出てきて、病気を症状もろとも追い払ってしまうのです。
 出番が少なく、実戦経験を積むことができなかった「自然治癒力」部隊は、そのうち戦闘能力を低下させてしまうことになります。そして、病原菌に侵略されるたびに、ますます外人部隊に頼らざるを得なくなっているというのが、現代の平均的な日本人の姿ではないでしょうか。
「健康になりたい」
 健康に執着するのは病気願望と同じこと  [TOP]

  「健康になりたい」と願う気持ちの裏には、「いまが健康でないから」という心が隠されています。いま健康な人はけっして「健康になりたい」とは思わないからです。私たちが健康にあこがれる気持ちは、「いまが健康でない」ことを潜在意識に繰り返し記憶させているようなものです。そして、ますます健康でない状態を作り出すのです。
 この心の習慣から脱却する方法は、病気そのものに感謝するか、「すでに健康になりました。ありがとうございます」と、自分が健康になって何かやりたいことに没頭している姿を思い浮かべ、感謝の気持ちで胸をいっぱいにふくらませることです。
 健康に限らず、私たちが「欲しい」と何かを求める気持ちの裏には「不足している」という気持ちが隠されています。私たちの潜在意識はその気持ちを感じ取ってしまうのです。ですから、私たちが何かを望むときは、既にそれが与えられたと考え、感謝することです。そうやって感謝の波動を発信すると、「類は友を呼ぶ」という波動の法則によって感謝の波動を引き寄せ、必要なものが与えられるというわけです。
 健康の問題に限らず、一番大切なことは、常に満足と感謝の波動を発信することです。すでに必要なものが与えられ、満たされているという気持ちから、常に感謝の気持ちをもつことが大切です。身の回りに起こることはすべて私たちにとって必要なことであり、それがベストの形で与えられたと考えることができるようになれば、私たちが「あれをください、これをください」といちいち指図をしなくても、スーパーパワー(宇宙創造神)はすべてをお見通しで、必要な時に必要なものをちゃんと与えてくださるのです。
自分で蒔いた種
 自分で蒔いた種はすべて自分で刈り取れる  [TOP]

 聖書の中に「自分で蒔いた種は自分で刈り取らなくてはならない」という教えがあります。「悪いことをしたことの責任は自分でとれ!」というニュアンスに聞こえます。しかし、本来の意味はそうではないのです。「自分が蒔いた種はすべて自分で刈り取ることができるよ」ということを言っているのです。
 ですから、よい種を蒔けばよい芽が出て、よい花が咲き、よい実を採り入れることができるのです。せっかくの自分の努力の成果が他人に奪われることがないように保証されているということです。この宇宙を創造し、運行されている神様は、大変ありがたいルールをつくってくださったのです。
 しかし、私たちがもし悪い種を蒔くならば、その結果としての悪い実は、当然私たち自身で収穫しなくてはなりません。そこには神様の特別の配慮が入り込む余地はないのです。カルマの清算はすべて自分でするというのが宇宙のきまりなのです。
 私たちはこれまで、普段自分がどのような種を蒔いているかということについて無頓着でした。私たちの「身(行動)・口(言葉)・意(想念)」が波動として潜在意識に蓄積されるという事実を知らなかったからです。いまはそのメカニズムがわかりましたから、私たちはよりよき人生を生きるために、普段からよい種を蒔くように心がけなくてはいけません。
カルマをつくらない
 見ざる、言わざる、聞かざる  [TOP]

 カルマを作り出す悪い種とは、悪い振る舞い(身)、悪い言葉(口)、悪い想い(意)であることを述べてきました。悪いことを見ても、聞いても、言っても、その波動はすべて私たちに影響を与えるのです。「見ざる、聞かざる、言わざる」という言葉がありますが、人から悪口を聞かされたり、人を不幸に陥れるような行為を目撃したりすることによっても、私たちの波動は影響を受けてしまうおそれがあります。まして、同じ内容を何回も見たり聞いたりすれば、そこに共鳴の法則が働いて、いつしか私たちの波動が同調してしまうのです。
 最近のテレビ番組やテレビゲームなどで、人を簡単に殺してしまう内容を頻繁に見せられている子供たちは、誰もが本来持っている“命を大切にする気持ち”がだんだん薄らいでいくのではないかと気になります。大人でも、同じような内容のテレビ番組を受動的に見ている人は波動に影響を受け、いつしか潜在意識に蓄積されていくおそれがあります。
 特に、感動する、ショックを受ける、夢中になる、といった一種の放心状態のときは、私たちのその時の気持ちがそのまま潜在意識の中に取り込まれていきます。そして、おまけにその気持ちを言葉で表現するならば、さらにその波動は強化されるのです。
 そういう意味では、どういう時に悪い波動になるかを知っていることはとても大切なことなのです。その上で、心(感情)と言葉をコントロールしなければなりません。コントロールする方法としては、「砂に書いた文字」の手法が最も効果があるでしょう。つまり、「大丈夫」「ありがとう」といった言葉を連発することです。
 しかし、最初からそのようなマイナスの波動につながるものを「見ざる、聞かざる、言わざる」がもっとも賢明でしょう。潜在意識は「これはフィクションだ」とか「自分とは関係ないドラマの世界のできごとだ」という判断はできないのです。映像も言葉も波動として、すべて受け入れ、蓄積されることになります。そして、いつの日か、その波動に近い出来事をあなたの周りに引き寄せてくるかもしれません。
「よい種を蒔く」
 波長を高めるための秘訣は「与える」こと  [TOP]

 よい種を蒔き、波長を高めるために必要な最初のキーワードは「与える」ということです。人は誰でもまず身近な人に何かを与えることから始めます。母親は我が子に母乳を与えます。父親は仕事を通じて家庭に生活の糧を持ち帰り、家族に与えます。どちらも家族に対して「愛情」を与えています。それは家族が自分の分身だからです。自分と同じ価値ある存在だから、自分を愛するのと同じように、愛情をたっぷりと注ぐことができるのです。
 しかし、見ず知らずの他人の赤ちゃんのことになると意外と無関心になります。たとえば、戦争や内乱などによって家を失い、食料も十分に手に入らない人たちのことについては、自分の問題とは考えません。ある母親が衰弱した子供を抱きかかえながら、取材のカメラに向かって「食べ物をください!」と悲痛な叫びをあげていても、「可哀想だけど、自分の力ではどうしようもないから」と、テレビのチャンネルを、出場者がクイズに全問正解すると1,000万円がもらえる番組などに変えてしまいます。
 しかし、実はこのときでも私たちには与えるものがあるのです。それは「この母と子に食べ物が与えられますように」という強い願いを持つことであったり、祈ることであったりします。これを「愛を与える」と表現してもよいでしょう。同じ地球に生を受けた人間として、同胞の悲しみを自分のものとし、その幸せを望み、祈る気持ちをもつことが、よい種を蒔くということなのです。
 他者の幸せを祈る気持ちは波動となって、この宇宙に刻まれ、やがて同種の波動を引き寄せ、大きなうねりを作っていきます。それが、これまで何度か説明してきた「100匹目のサル」現象を生み出し、私たちのこの地球を美しい星に生まれ変わらせる力を強めてくれるのです。
  波長を高めるための第一の秘訣は「他者の幸せを願う」と表現しておきましょう。
人間以外の生き物
 動物は人間の食べ物として準備されたのか  [TOP]

 「他者の幸せを願う」と言いましたが、他者とは人間だけに限っているわけではありません。最近では犬や猫などのペットを飼う人が増えていますが、自分が飼っているペットはまるで自分の分身のように大事にします。巣立っていった子供の代わりに、たっぷり愛情を注ぎ、そのペットが怪我でもしようものなら、大変心を痛めることでしょう。
 しかし、ペットとはいえなくても、私たちの食卓にハンバーグや肉だんごという形で出されてくるお肉の原料となっているのは、同じ地球に住む牛や豚などの生き物であることは頭に浮かびません。その牛や豚たちがどのような(悲惨な)飼われ方をして、どのような(残酷な)方法で殺され、処理されているのかは知る必要はないと思っているのです。
 だから、たとえば子供がそのハンバーグを食べ残しても、そこに牛の命が犠牲になっていることを教える親は少なくなりました。というより、親である大人自身がそのような感覚を持てなくなっているのです。
 「牛や豚などの動物は、神様が人間に食べ物として準備してくださったものだ」という考え方が、旧約聖書の誤った解釈に基づく西欧文明の基調となっています。その考え方を日本も取り入れて、世界第二位の経済大国にまで発展したのでした。しかし、これは人間が蒔いてきた最もよくない種だったのです。それが人類のカルマとなって、これから終末現象のなかで清算されることになるわけです。
 そのことにできるだけ早く気づくこと――それが私たち一人ひとりに今求められているのです。気づきのない人は、人類のカルマをそのまま払わされることになってしまいます。つまり、大天変地異に遭遇するという形で、牛や豚たちと同じような恐怖を味わうことになるのです。
 それを避けるためにも、自分の家で飼っているペットを愛するのと同じ気持ちで、食料となってくれている牛や豚の命に対して、哀れみとお詫びと感謝の気持ちを持つことが必要です。
 また、牛や豚などのように人間の食料として利用されている動物以外に、医学や科学の研究のためにその命を提供させられているモルモットなどの小さな生き物に対しても、同じような気持ちをもたなくてはならないと思います。かのガンジーは、「実験動物を残酷な形で取り扱っていることが人類最大の罪である」とまで言っています。
他者の喜ぶ顔
 他者の喜ぶ顔を見ることができる幸せこそ富  [TOP]

 聖書には「右手がしたことを左手にも教えてはならない」という戒めの言葉が記されています。これは、自分がしたよき行為であっても、そのことを人に自慢してはいけない、ということを意味しています。日本でいう「陰徳を積め」ということと同義でしょう。
 「他者に与える」というよき行為をしても、「与えてやった」「よいことをした」と思う気持ちは、既に「満足感」という見返りをもらっているわけです。それでは、せっかくのよき行為が中和されてしまって、潜在意識の中に蓄積されないのです。だから、右手がしたよき行為は、左手にも報せてはならないということなのです。
 たとえ私たちが他者に示したよき行為に対して、どこからも感謝の表明や賞賛の言葉がなかったとしても、そのことを不満に思ってはいけないということです。逆に、誰にも気づかれなかったということは、それはそのまま「天の蔵」に貯蔵されることになります。そして、それには大きな利息がついていくのです。
 手柄話をしたり、美談化したり、うぬぼれたり、優越感を持ったりする行為は、その天の蔵から富を引き出すことになります。むしろ、「こんないい役割をさせていただいて、ありがとうございます」と感謝するべきでしょう。他者の喜ぶ顔を見ることができる幸せこそ富なのです。それが自然にできるようになると、私たちの波長は何ランクもアップすることになります。
与えても見返りを
 自分がしてほしいと思うことを隣人に施す  [TOP]

 わが国には「情けは人のためならず」という言葉があります。最近の若い人たちの解釈では「情けをかけることはその人のためにならないからやめなさい」という意味になっているようです。本来の意味は「人に情けをかけたようにみえても、それは回り回って自分に返ってくるんだよ。だから人には情けをかけなさい」という逆の意味になります。
 これは大変すばらしい教えのように見えますが、実はちょっとした落とし穴があるのです。どこからか見返りがあることを打算して行なう行為は、必ずしも純粋なものではないからです。自分に返ってくる利益を期待して他人に尽くす時、それは不純な行為となってしまいます。常に無私であることが大切なのです。
 なぜなら、人はみな同根であり、いわば「地球」という同じ樹木の葉っぱだからです。別々のように見えても、一つの幹から分かれた枝を通じてつながっているのです。ですから、他者に与えたものは自分自身に与えたということになります。人に限らず、万物はみな同根、神の分け身霊であると考えることが大切です。
 「一人は万人のために。万人は一人のために」という言葉があります。その「万人」とは、神様が姿を変えて現れたもの、つまり神の顕現です。聖書にも書かれているように、自分がしてほしいと思うことを隣人に施す利他の心を持つことが、新しい時代の生き方となります。隣人とは万人、つまり不特定多数のことであり、施しても直接的な見返りが期待できない存在のことを意味します。自分とは直接利害関係がないと思われる人たちのことです。そのように、普通なら愛情の対象となりにくい隣人にさえ愛を示すのが神の心なのです。
 その結果は、「万人は一人のために」となります。神の顕現としての万人は、見返りを期待せずに尽くしてくれたその一人を高く評価し、無私の愛にたくさんのおつりをつけて返してくれるのです。
  「他者に与えよ」という聖書や仏教の教えを、私たちはこれまで宗教的倫理観として受けとめていましたが、波動の法則を知ってみると、非常に科学的、合理的な行動原則であることがわかります。つまり、「隣人に与えたものは必ず自分のところに返ってくる」という法則があるわけですから、感謝を与えれば感謝が、呪いを与えれば呪いが、宇宙のどこからか返ってくるということです。ただ、時間に束縛されたこの物質世界では、それが返ってくるまでに一定のタイムラグがあるために、普通の人にはその因果関係が理解しにくかっただけなのです。それにしても、スーパーパワー(宇宙創造神)は、人の進化のために本当に素晴らしい法則を準備されたものです。
自ら学び
 「向上心」も波長を高めていくうえで欠かせない  [TOP]

 波長を高めるために必要なキーワードの2つ目は「学ぶ」ということです。
 各預言(予言)が教える人類進化の方向は、一つは「愛」ということですが、もう一つ大切なものとして「智恵」をあげています。この2つの心のベクトルが一つになったとき、人は本当の進化を実現できるのです。
 この点で、一般の宗教団体の人たちが教えることとこれから述べる内容は、少し違っているかもしれません。「愛に満たされた優しき人になれ」ということだけならば、アメリカのネイティブ・インディアンの本来の生き方が最も素晴らしいものだったでしょう。地球を大切にし、狩りをするときも自分たちが必要とする以上の無駄な殺生はしませんでした。自然との調和をはかり、長老の知恵に従って平和に生き、科学や文明の発達ということからは無縁の、平穏な暮らしができただろうと思います。
 しかし、そこに科学と文明の発達を手にした人種が登場してきて、その平和な暮らしを破壊してしまったのです。その後、その侵略者たちの一味が築き上げた文明は、より便利で快適な暮らしをするためにさまざまな発見と発明を繰り返し、今日の物質文明を築き上げてきました。
 自動車や航空機、電話、テレビなどの文明の利器は、今では私たちの暮らしに欠かすことができないものとなっています。残念なことに、その結果として地球は破壊され、無惨な姿になってはしまいましたが‥‥。飽くなき探求心によって、私たちの文明は地球を病気にしてしまったのです。
 しかしながら、そのような大きな犠牲を払いながらも、私たちは宇宙の仕組みやミクロの世界を動かしている法則について、いろいろと学び、知ることができました。もし印刷や輸送、通信の手段が発達していなければ、これだけたくさんの人がこの世界の全体像を知ることはできなかったでしょう。科学の発達は、私たち人類の未知の世界への探求心から生まれたものです。ここに、大きい意味での神の計画があるような気がします。
 そして、この地球が病気の状態にあることを知ることによって、私たちはまた新しい生き方、本来の大切な生き方を学びつつあるのです。それは、人が病気を経験することによって初めて健康の大切さを自覚し、日々の暮らし方を改めるのとよく似た働きです。
 大切なことは、私たちがこの世界を動かしている仕組みやメカニズムに対する関心を持つこともせずにただノホホンと生きるのでなく、自ら探求心を持って学び、気づきを得ていくことなのです。
  波長を高めるための2つ目のキーワードは「向上心」としておきます。
同じアホなら
 同じアホなら踊らな損、損  [TOP]

 「与える」「学ぶ」に続き、私たちの波長を高めるための3つ目のキーワード、それは「楽しむ」です。ただし、いまの社会で多くの人が体験しているような、娯楽や刹那的な快楽のことをいってるのではありません。
  もちろん、私たちがこれまでの人生において、「仕事を楽しむ」「映画を楽しむ」「料理を楽しむ」など様々な楽しみを経験してきたことには、それなりの意味があるでしょう。しかしながら、これからの時代に「楽しむ」べき分野とは、やはり芸術性のある世界だろうと思います。簡単にいえば「美の探求」ということです。
 芸術というと絵画や音楽が頭に浮かびますが、必ずしもそういうジャンルに限定しているわけではありません。たとえばスポーツの世界でも、プロ野球のイチロー選手の磨き上げられたバッティング技術などは、まさに芸術の域に達していると思います。
 ただ、ここでいっている「楽しむ」の意味は、「鑑賞する」という受け身の形というよりも、自らが演ずる側、制作する側、プレーする側に参加する形での楽しみ方が中心になると考えています。たとえば音楽であれば、一般の人が年末にベートーベンの交響曲第9番を歌う企画が大変人気がありますが、あのような参加型の楽しみ方が主流になっていくでしょう。テレビが発達したことによって、今は見るスポーツとしてのプロスポーツが全盛ですが、スポーツも本来は自らプレーして楽しむものです。
 プロスポーツはスポーツの振興という意味では一定の役割を果たしていますが、今日ではお金儲けの手段として利用されるようになり、野球やサッカーの人気選手たちが何億円という契約金をもらってスターのようにちやほやされる姿は、私は現文明の断末魔現象の一つだと見ています。
 「楽しむ」の原点は日本の祭りにあります。御輿を担いだり、山車を引いたりと、お祭りではたくさんの人が演ずる側に回ります。それが本来の楽しみ方なのです。徳島の阿波踊りは「踊る阿呆に見る阿呆。同じアホなら踊らな損、損」と歌いながら踊りますが、このように「踊り」に参加する形で楽しむことが新しい時代の楽しみ方なのです。それも、お金や見栄、健康維持など、別の目的のための手段としてやるのでなく、文字通り踊りそのものを楽しむことが大切です。
 肉体を極限まで酷使するマラソンの高橋尚子選手が、「走ることが楽しい」と語っているのはまさに新しい時代のスポーツの楽しみ方を先取りしていると言えるでしょう。もちろん、普通の人は他者と競い合って記録をねらう必要はありません。自ら楽しみながら技術を高めることで、さらに奥の深さがわかり、楽しみのレベルが高くなっていくという形が理想なのです。
 そこで、波長を高めるための3つ目のキーワードは「阿呆になって踊りを楽しむこと」としておきましょう。
見返りを求めずに
 愛とは見返りを求めずに与え続けること  [TOP]

 ここで、波動を高めるための生き方についてまとめをしておきましょう。
 「与える」「学ぶ」「楽しむ」が大事なキーワードであると申しあげてきました。それは、多くの預言(予言)にもありますように、波動でつくられたこの世界の大切な要素(つまり創造主の意志)が「愛」であり、「智恵」であり、「真・善・美」ということだからです。
 イギリスで初めての女性首相となったサッチャーさんは、在任中に「あなたの人生で大切なものはなんですか」と問われて、「それは愛です。愛とは、見返りを求めずに与え続けることです」と即座に答えたと言われています。「鉄の女」と呼ばれ、仕事の中では妥協を許さない厳しい方だったようですが、その心の哲学は「他者への愛」ということだったのです。
 宇宙の法則となっている「愛」とは「見返りを求めずに与え続けること」――頭では理解しているつもりでしたが、この言葉には、改めて目を洗われる思いがいたしました。
 私たちはこれまでの人生で、常に何かを手に入れる努力を続けてきました。お金をはじめ、高価でかっこいい車、広い敷地に立てられた庭付きの立派な家、他者からの賞賛やよい評価、社会的な地位・名誉、安定した生活、などなどを、私たちの心を豊かにしてくれるものと考えて求めてきたのです。自分自身と、自分が愛する少数の身近な人たちのために‥‥。
 しかしながら、これからの時代はその生き方は通用しなくなりました。この地球上のすべての存在に対して、私たちは「愛」を示す必要があるのです。なぜなら、それらすべての存在は一つにつながっていることがわかったからです。他者に与えることは自分に与えること――多くの宗教が教えてくれたことが、いま科学的にも証明され、普通の人の頭で理解できるようになりました。
 「愛」が形をとるとき、それは「与える」行為となります。仏教ではそれを「慈悲」と呼び、与えることを「布施」と呼んでいますが、これはお金や物を与えることです。しかし、そういう形のあるものでなくても、私たちは他者に与えることができると説いています。それを「無財の七施」といって、「和顔(にこやかな表情)施」「言辞(優しい言葉)施」など7つが「他者に与えるべきもの」として説かれているのです。この中には含まれていませんが、一番価値があるのは「法施」であり、「真理」を教えることだとされています。つまり、人に気づきのきっかけを与えるということです。
 神の意志が人の進化である以上、私たちはつねに向上心を持って学び、真理や美の世界の探求を続け、それを楽しみ、喜びとすることが望まれているのです。
与えたものは
 与えたものは必ず返ってくる  [TOP]

 「与える」という行為も波動として見ることができます。その波動は「類は友を呼ぶ」という法則によって、与えた側にも同じ波動を引き寄せます。つまり、私たちが見返りを求めなくても、与えたものは返ってくるということです。
 私たちが他者の幸せを願って与えたものは、今度は私たち自身が他者の立場となり、私たちの幸せを願う波動として返ってくるのです。というより、同じ波動を引き寄せるというほうが正しいかも知れませんが‥‥。
 ですから、前に述べた「情けは人のためならず」という諺は、波動の法則から見ても真理を語っているのです。「人を呪わば穴二つ」も同様です。他者に「死ね!」という強い念を与えた結果、その同じ念が返ってきて、自分も死ぬことになるわけです。この宇宙はさまざまな波動で満たされていますから、私たちが発信した波動と同じものが必ず返ってくることになります。
 幸か不幸か、この物質世界は時間という枠に縛られているため、返ってきた波動がすぐに形をとるわけでなく、一定の時間の間隔がおかれます。そのために、因果関係がわかりにくいという欠点にもなってきました。しかし、これからは時間のスピードもますます速くなっていきますから、その時間のスピードに合う形で波長を高められない人は、潜在意識にため込まれた悪い波動が表面化するチャンスを失い、終末のカタストロフィーのときに一度に吹き出してしまうことになるでしょう。それは大変悲惨な形をとるのではないかと思われます。
 風邪などのちょっとした病気にかかりやすい人は、その時点でマイナスの波動を小出しにしていますから、大病を患うことがないと言われています。既に潜在意識の中にため込まれたカルマ(よくない心の習慣)は、早く形をとってくれる方がありがたいのです。
 風邪で熱がでたら、「ああ、これでカルマが一つ消えていく」と喜んでいただいく方がよいのです。ところが大半の人は、病気の症状を見て心を動揺させ、病院に足を運びます。そして、医者からもらった“症状を和らげる薬”を飲むのです。「痛み」や「熱」という形でカルマの解消ができるのに、そのチャンスを自ら摘んでいるのです。
 おまけに、「健康を回復するには薬の力に頼るしかない」という波動が強化されることになり、せっかく備わっている自然治癒力を弱めてしまうことにもなっていきます。
個は全体のため
 個は全体のために 全体は個のために  [TOP]

 Each for All. All for Each.
 既に説明してきました「一人は万人のために。万人は一人のために」という言葉の英文はこのようになっています。大元はラテン語だと言われていますが、定かではありません。 私はこの日本語訳に多少異論を持っています。西洋から来た言葉ですから、本来の意味はそれでいいのかもしれませんが、この表現のなかのどこにも「人(People)」という言葉がないことにこだわっているのです。
 というわけで、私は「個は全体のために、そのとき全体は個のために。(個を大切にする。個に感謝する。個を守る)」という意味ではないかと思っています。「個(Each)」も「全体(All)」も必ずしも「人間(People)」に限定するものではないと思うからです。
 全体の幸せのために、一人が貢献する。「愛する祖国のために」というのもそのひとつでしょう。敗色濃厚となった太平洋戦争の末期に、特攻を命じられて戦地に赴き、花と散っていった当時の若者たちの気持ちを思うと、戦後生まれの私でも胸が痛みます。
 この国の美しい自然、温かい人の営み、秩序を保つための社会機構、目に見えない規範、道徳、――戦地に赴いた若者たちがアメリカという国から守ろうとしたのはそういうものだったでしょう。決して「国家体制を守るため」に命を捧げたのではないはずです。故郷の海や山、川、愛する家族や同胞と、彼らの住むこの国土を守りたいという純粋で崇高な気持ちだったに違いありません。
 まさに「みんなのために(for all)」命を捧げたのです。「天皇のために(for one)」ではありません。みんなのために捧げられたその命に対して、はたして私たちは感謝し、崇敬する気持ちを持っているでしょうか。その人たちのことを戦争犯罪者の一部であるかのように考えているとすれば、大変な考え違いをしています。
 全体(All=日本の国民)のために尊い命を捧げてくれた人たち(Each=戦争で亡くなった人たち)なのに、その人たちに対する感謝の気持ちを意識しない、表明しないということであれば、私たち日本国民は宇宙の法則に反していると言うべきでしょう。
 戦後教育の中で思想的な呪縛に陥り、そういう尊い犠牲者に対する感謝の気持ちも表現できなくなった哀れなこの国の波動がカルマとなって、自分のことしか考えられない人間を大量生産し、殺伐とした社会を生み出す結果になってしまったと言わざるを得ません。これは、戦後の日本人が生み出した新しいカルマだということができます。
これからカルマに
 これから人のカルマに基づいて選別が始まる  [TOP]

 波動の法則とカルマの関係はご理解いただけましたか。
 私たちはいま「終末」というゴールに向かってラストスパートをしようとしています。競馬に例えるならば、第四コーナーを回って直線コースに入ってきた状態と言えるかもしれません。これからは脇見をしたり、力を抜いたりすることは許されません。ゴールへ向かって一直線に全力疾走しなくてはならないのです。
 私自身のこれまでの人生を振り返ってみますと、物欲は普通の人より少なかったと思いますが、人間関係においては煩悩にまみれた人生を歩いてきました。田舎育ちで人間音痴だったため、意図せずして、あるいは自覚のないままに、多くの人を傷つけてきたことと思っています。深く反省しています。そのことが私自身のカルマとなって、この人生を作り上げてきたのだと理解しています。清算すべきカルマは、まだまだたくさん残っていることでしょう。
 いま終末というゴールを目の前にして、はたしてこれからの新しい時代に、新しい地球とともに生きることのできる人間として選ばれるのかどうかは、私にもわかりません。ただ、これまでの人生で得た(与えていただいた)多くの気づきをもとに、大切だと思う真理の一つひとつを実践していきたいと思っています。もちろん、それは「助かりたい」「選ばれる側になりたい」という浅はかな気持ちからではありません。(もしそんなことを思ったとしても、神様はすべてお見通しですからまったく意味のないことです)
 私がたびたび感じる神の意志は、「楽しみながら自分を磨け!」「他人様(世の中)の役に立て!」「この地球を何よりも大切に考えよ!」ということです。そして、「先のことをいろいろ思い悩まず、今を大切に生きよ!」という声が聞こえてきます。
 それは、ひょっとしたら母なる地球の声を、私を導く霊的な存在が耳打ちしてくれているのかも知れません。
 ここで、私の好きな俳句を紹介しましょう。

 浜までは 海女も簑着る 時雨かな

 終末を前にして、人類社会に冷たい雨が降り注いでいます。私たちが愛する母なる地球も、やがては生まれ変わりのための大きなカタストロフィーの中で、人類の英知が築いてきた文明そのものを破壊してしまうことになるのでしょうか。その予感は十分にしています。その時が本当に2012年なのかはわかりません。しかし、けっして遠くないと思っています。現文明は間もなく壊れてしまうでしょう。
 ‥‥が、最後のその時まで、私は今のこの地球を大切にし、人間はもちろんそこに息づく多くの生き物、小動物や植物、山や海や川といった自然にいたるまで、大切に大切にしていきたいと考えています。精いっぱいの感謝の波動で返していきたいのです。
 海にもぐればどうせ濡れるとわかっていても、その体に簑をかけて雨から守る海女さんの気持ち――その気持ちを見習っていきたいと思っています。

<転載終了>