本山よろずや本舗さんのサイトより
http://homepage2.nifty.com/motoyama/info_9.htm#info_940
<転載開始>
明治時代に俳句や短歌を中心として、近代文学の世界に新風を巻き起こした文学者として正岡子規の名を知る人は多いと思います。
理系の私としては、正岡子規の名前を聞いて遠い昔の学生時代に習った記憶として、ホトトギスとかアララギという言葉が浮かんでくる程度です。数年前ですが、NHKがテレビドラマとして制作した司馬遼太郎原作の「坂の上の雲」で、香川照之さんが正岡子規を熱演していたのが記憶に新しいところです。
その正岡子規ですが、脊椎(せきつい)カリエスを患い、若干35才という若さで逝っています。
なぜ天才と言われた若き文学者が、これほど早く逝かなければならなかったかという点に関し、(私にとって)衝撃的な記事に出会ったので、今回はそれを紹介したいと思います。
子規の名を知る人は多いと思いますが、子規が人並み外れた大食漢だったことを知る人は少ないと思います。
天才文学者と大食漢というのは、なんともミスマッチな感じを受けます。
「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」
実に有名な子規の歌ですが、子規は柿を食うとき一気に10個食べていたと聞くと、ちょっと驚く人もいると思います。
さらに子規が重い脊椎カリエスを患い、病床に伏しているときも10個食べていたと聞くと、さらに驚く人は増えると思います。
子規が元々大食いの素養を持っていたのは事実だと思われますが、生命の危険がある重い病気を患っているなかで大食いしていたのは、よほどの理由があったはずです。
それは「重い病気を患っているからこそ、滋養のある栄養価の高いものをたくさん食べるべき」という固定観念です。
まず最初に、西洋文明がどっと押し寄せた明治という時代に、子規がどういう栄養学の価値観を取り入れていったかという話から紹介します。
『「長生き」したければ、食べてはいけない』(船瀬俊介著、徳間書店)から抜粋します。
http://homepage2.nifty.com/motoyama/info_9.htm#info_940
<転載開始>
明治時代に俳句や短歌を中心として、近代文学の世界に新風を巻き起こした文学者として正岡子規の名を知る人は多いと思います。
理系の私としては、正岡子規の名前を聞いて遠い昔の学生時代に習った記憶として、ホトトギスとかアララギという言葉が浮かんでくる程度です。数年前ですが、NHKがテレビドラマとして制作した司馬遼太郎原作の「坂の上の雲」で、香川照之さんが正岡子規を熱演していたのが記憶に新しいところです。
その正岡子規ですが、脊椎(せきつい)カリエスを患い、若干35才という若さで逝っています。
なぜ天才と言われた若き文学者が、これほど早く逝かなければならなかったかという点に関し、(私にとって)衝撃的な記事に出会ったので、今回はそれを紹介したいと思います。
子規の名を知る人は多いと思いますが、子規が人並み外れた大食漢だったことを知る人は少ないと思います。
天才文学者と大食漢というのは、なんともミスマッチな感じを受けます。
「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」
実に有名な子規の歌ですが、子規は柿を食うとき一気に10個食べていたと聞くと、ちょっと驚く人もいると思います。
さらに子規が重い脊椎カリエスを患い、病床に伏しているときも10個食べていたと聞くと、さらに驚く人は増えると思います。
子規が元々大食いの素養を持っていたのは事実だと思われますが、生命の危険がある重い病気を患っているなかで大食いしていたのは、よほどの理由があったはずです。
それは「重い病気を患っているからこそ、滋養のある栄養価の高いものをたくさん食べるべき」という固定観念です。
まず最初に、西洋文明がどっと押し寄せた明治という時代に、子規がどういう栄養学の価値観を取り入れていったかという話から紹介します。
『「長生き」したければ、食べてはいけない』(船瀬俊介著、徳間書店)から抜粋します。
・・・<『「長生き」したければ、食べてはいけない』、p48~p50から抜粋開始>・・・
”肉食信仰”は食品産業と軍国主義がでっちあげた
●フォイト栄養学は個人の”妄想”
現代栄養学は根本的に過(あやま)っている。その過ちのルーツは、ドイツ栄養学者カール・フォン・フォイト(C.V.Voit)に帰する。1863年から45年間、ミュンヘン大学生理学教授を務めた。ドイツ生理学界の重鎮であり、”近代栄養学の父”として君臨してきた。
フォイトはドイツの首都ベルリンで育った。それは北緯50度。よって、彼の栄養学は別名”北緯50度の栄養学”とも呼ばれる。
フォイトは徹底した肉食礼賛主義者だった。動物たんぱくを礼賛し「炭水化物は栄養が乏しいので摂取を控えるように」と平然と唱えた。東京帝国大学の秀才であった正岡子規が盲信したのも、このフォイト栄養学である。
フォイトは高カロリー・高脂肪・高たんぱくの動物食を推奨し、炭水化物など植物食を否定したのだ。彼にとってたんぱく質とは「肉」のことだった。フォイトは「良いものは、とりすぎるということはない」と考えていた。この”偉大”な学者は「過ぎたるは及ばざるがごとし」という単純な真理すら知らなかった!
それでも彼は”近代栄養学の父”として栄光の座に鎮座して今日に至る。彼を否定することは、人類が100年以上も信じ、伝えてきた”近代栄養学”を否定することにつながる。
では”栄養学の開祖”の主張にはどのような学問的根拠があったのか?
後の研究者たちが、フォイト栄養学をこう批判していることに驚いた。
「それは、何等(なんら)の医学的、科学的、統計的な検証も経ていない」と……。そして「強(し)いて言うなら、それはフォイトの個人的な空想の産物にすぎない」。
医学的、科学的、統計的な検証を経なければ、まさにそれは個人の空想どころか”妄想”にすぎない。
●たんばく推奨値2.5倍にねつ造
一人の学者の”妄想”が、どうして近代栄養学として確立してしまったのか?
わたしはフォイトを歴史上、極めて犯罪的なエセ学者だと断じる。
その根拠は、彼は研究発表において悪質な操作を行っているからだ。早くいえばねつ造である。フォイトは当時ドイツ国民の健康状態を調査して成人一人当たりたんばく質摂取量は48.5グラムで十分であることを確認していた。ところが彼は論文にはこう記載し発表したのだ。「必要なたんばく質摂取量は1日118グラムである」。なんと約2.5倍増である。彼はどうして、このような露骨なねつ造を行ったのか?
おそらく、彼は食品業界と深く癒着していたことはまちがいない。たんぱく摂取推奨値48.5グラムと118グラムの2.5倍格差は、そのまま食肉産業、酪農産業などの市場規模となりかねない。後者を推奨値とすれば、食肉産業など2.5倍の市場拡大がみこめる。
1885年まで、世界のすべての栄養学研究は、西ヨーロッパで行われていた。その中心はドイツであり、拠点はミュンヘン大学であった。その研究室の中枢にいたのがフォイトなのだ。彼が唱える栄養摂取の推奨値は、即、世界の栄養学の推奨値となる--。その事実を知っていた欧州どころか世界の食品業界がフォイトに”政治的”に働きかけたであろうことは想像に難くない。それは”経済的”な働きかけもあったはずだ。
こうしてフォイトは、”かれら”の意向を受けて、たんぱく質推奨値を2.5倍も膨らませて公表したのである。それ以外の理由は考えられない。
・・・<抜粋終了>・・・
このフォイトが説いた肉食礼賛の風潮は現代日本でもまったく払拭されていないと思います。
卑近な私の体験で言えば、夏の暑い盛りに私の知人が夏バテ防止に肉を食べようと仲間に呼びかけたとき、皆大きく頷いていました。
私は心の中で、「肉を食べればスタミナが付くという科学的データなど一つもないのに・・」とつぶやいていましたが、口にしませんでした。そんなことを口にしても、場の雰囲気が壊れるだけということがわかっていたからです。肉=スタミナ、というのは多くの日本人に頑強に刷り込まれた固定観念として確立してしまっています。
明治時代の正岡子規は、こうした固定観念をいち早く取り入れた先駆者と言えるかもしれません。
子規が患った脊椎カリエスとは、骨がスカスカになる病気です。
身体が極端に酸性に傾くとアシドーシス(酸血症)となり、死に至ります。
継続的に身体を酸性に傾かせるような食生活を続けると、体内のアルカリ分では酸性を中和できなくなります。すると身体の自然な防衛反応として、骨に蓄えられたアルカリ性のカルシウム分を溶かして酸性を中和しようとします。最初は身体の端の骨からカルシウムを取り出しますが、間に合わなくなると身体の最重要部分である脊椎からカルシウムを取り出さざるを得なくなります。子規が患った脊椎カリエスとは、まさに脊椎の部分がスカスカになったもので、当然ながら立って歩くこともできなくなりです。
では身体を酸性に傾かせるような食生活とは何かですが、その代表格が肉であり、現代では精製された白砂糖です。
明治は牛鍋を食べることが「文明開化の味」と言われた時代で、肉食が一般の家庭に入り始めます。
とはいっても当時は牛肉は大変高価なものであり、一般庶民が普通に食べれるものではありませんでした。もちろん子規も牛肉を食べていたわけではありません。子規は大の甘党で、砂糖や果糖を毎日大量に摂っていたのです。これが子規の身体を極端な酸性に傾けていたのは、想像に難くありません。
・・・<『「長生き」したければ、食べてはいけない』、p29~p31から抜粋開始>・・・
●糖分の大量摂取でカリエスも当然
わたしは子規が「カリエスで病床に伏した」ということを子規記念館で知って「ああ……やはり」と独り嘆じた。
その原因が一瞬で、判ったからだ。
子規は一度に菓子パンを十数個、柿や梨なども十個前後も貪(むさぼ)る大の甘党であった。菓子パンには砂糖が、果物には果糖が含まれる。その糖分の異常なまでの過剰摂取が脊椎カリエスという業病を若き天才にもたらしたのだ。なぜか?
とりわけ白砂糖は、近年の栄養学では”エンプティ・カロリー(空の熱量)”と呼ばれる。
ふつう砂糖黍(きび)などから生産するき黍糖はミネラル分、ビタミン類など微量栄養素を含んでいる。しかし近代食品工業は、これらを”不純物”と呼んで排除する方式を採用した。つまり、食品精製工業である。砂糖分を純化して雪のような白砂糖とする工程を近代食品工業として誇ったのである(『カルシウム欠乏症ーー砂糖の副作用』田村豊幸著 参照)。
これらピュアな白砂糖を体内に取り込むと、どういう生理反応が起こるか?
これら”空の熱量”を燃やすと、大量の酸化物(酸性物質)が体内に生成される。すると血液・リンパ液などの体液が酸性に傾く。すると身体はさまざまな症状に襲われる。これを酸血症(アシドーシス)と呼ぶ。この体液酸性化が進行すると、やがて死にいたる。
それを防ぐためには、その酸性を中和しなければならない。
その中和としてカルシウム・イオンが使われる。カルシウムはどこから血液に供給されるか?
いうまでもなく骨から供給される。すると全身の骨格はスカス力に脆(もろ)くなる。そして病原菌に侵され始める。これがカリエスである。最悪は身体を支える屋台骨である脊椎骨まで侵される。すると、もはや立つことすらかなわぬ。病床に伏せたままの日常を余儀なくされる。
これが、子規が菓子や果物の狂気ともいえる大暴食で脊椎力リエスという業病に陥ったメカ二ズムである。子規はその変質狂的とも言える偏食癖で、なるべくして脊椎カリエスとなったのではないか。
・・・<抜粋終了>・・・
子規は、病床に伏したとき『仰臥漫録(ぎょうがまんろく)』という毎日の食生活を克明に記した日記を書いていました。
仰臥とは仰向けのことで、子規は独りでは寝返りもままならぬ病床で、仰向けに俳句や作歌に励むとともに、この『仰臥漫録』綴ったのです。この『仰臥漫録』に記した日々食した食べ物の記述は、栄養学の第一級の資料と言えるものだといいます。
野生動物は怪我をしたり病気になったりすると、エサを食べずにじっと座り込んでしまいます。
ペットを飼われた経験のある方はご存じだと思いますが、動物は具合が悪くなると大好きな餌をあげても食べず、静かな場所に横たわり、体力の回復に努めるようにじっと何もしないで過ごします。これは動物が病気になったとき、何が病気や怪我を治すのに一番適切な方法か本能的に知っているからだと言えます。船瀬氏の言葉を借りれば、それは「食うな」「動くな」「寝てろ」です。
しかし私たち(現代の)人間は、病気になると市販薬を飲んだり、病院に行って手術や投薬をしたり、家に帰ると栄養のあるものをたくさん食べるよう指導されたりします。野生動物のやり方とは、180度逆の方法です。
では重症の脊椎力リエスで生命の危機に瀕した子規が、どのような食生活をしていたか見てみましょう。
・・・<『「長生き」したければ、食べてはいけない』、p33~p38から抜粋開始>・・・
天才を殺した「栄養学の無知」、過食、美食、暴食……
●「食うな」「動くな」「寝てろ」
こうして野生動物に、現代人を悩ませている生活習慣病や精神病がいっさい見当たらない謎も解ける。野生の叡智とは宇宙の叡智ーーすなわち神仏の理法であった。
それなら、われわれ人類はく先覚者>である野生動物たちを見習うべきであろう。古代ヨガ行者たちは、その真理を識り、真理を会得するために、野生動物たちを観察し、それに習ったのである。病気のときも然り。それは、かんたんにいえば「食うな」「動くな」「寝てろ」である。
--さて、これら真理を踏まえて冒頭の『仰臥漫録』を読み返してほしい。
あなたは、もはや絶句して声も出ないはずだ。
わたしは大食癖のあった子規も、さすがに病床に伏してからは、その悪癖も改まったとばかり思っていた。
しかし……の日記を一読、ただただ唖然呆然(あぜんぼうぜん)である。
朝 粥四椀、昼 粥四椀、夕 奈良茶飯四椀……と三食を完食し、さらに四杯飯を喰らっている。さらに牛乳一合、煎餅菓子パン十個、昼飯後 梨二つ、夕飯後 梨一つ……と間食も半端ではない。わたしは、ほぼ一日一食から一・五食で過ごしている。だから、子規の食卓のメニューを読んでいるうちに気持ちが悪くなってきた。
この頑健なわたしですら、これでは「一日で病気になる!」「死んでしまう!」と確信した。それを末期の脊椎カリエス患者の子規が毎日、毎日三食、腹這いで食い尽くすのである。その鬼気迫る光景を想像するだに、胃の辺りが重苦しくなってくる。
「食う」から「苦しい」のだ。「食わなければ」、「楽になる」。そんな、簡単なことに気づかなかったのか……。
●呼吸苦しく寝られず、煩悶を極む
さすがの子規も「この頃食ひ過ぎて食後いつも吐きかへす」「大食のためにや左下腹痛くてたまらず」と記(しる)している。あたりまえだ。なら、食わなければいい。子どもでもわかるリクツである。
しかし、この”天才”は、頓(とん)と理解にはいたらぬ。
それどころか、この日(9月2日)の『仰臥漫録』には、次の記述が続く。
「松山木屋町法界寺の 鰌施餓鬼(どじょうせがき)とは路端(みちばた)に鰌汁商(どじょうじるあきな)ふ者出るなりと 母なども幼き時祖父どのにつれられ弁当持て往(い)てその川端にて食はれたりと 尤(もっとも)旧暦廿六日頃の闇の夜の事なりといふ」と、母の思い出話からドジョウ汁への食欲をたぎらせている。
そして、次の一句を綴っている。
--餓鬼も食へ闇の夜中の鰌汁--
なんとまあ、魂消(たまげ)る食欲であろうか! もはや、その食欲は餓鬼のレベルというしかない。
午後八時腹の筋(すじ)痛みてたまらず鎖痛剤を呑む 薬いまだ利(き)かぬ内筋ややゆるむ
母も妹も我枕元(わがまくらもと)にて裁縫などす 三人にて松山の話殊(こと)に長町の店屋の沿革話(えんかくばなし)いと面白
かりき十時半頃蚊帳(かや)を釣り寝(しん)につかんとす 呼吸苦しく心臓鼓動強く眠られず 煩悶(はんもん)を
極む 心気(しんき)やや静まる 頭脳苦しくなる 明方(あけがた)少し眠る
つききりで看病するのは母親と妹(律)。ささやかな団欒(だんらん)の様も伝わってくる。しかし、夜半の煩悶は「食べ過ぎ」によるもの以外の何ものでもない。
わたしも経験があるが、食い過ぎの苦しみは、半端ではない。それに比べれば空腹は、腹が減るほど心身は清澄となっていき、恍惚(こうこつ)感すら感じるほどだ。しかし、世人は逆だ。空腹を恐れ、満腹を喜ぶ。秀才かつ天才の子規なら、この辺の理智に気付きそうなものだ。みずから「食い過ぎで吐き返し」「大食のため腹痛し」と記述しているのだ。
●延々と続く毎日、三食、三杯飯
明けて翌九月三日、この日は節食して、胃腸を休めるか……と思いきや。
朝 ぬく飯二椀 佃煮 梅干
牛乳五勺(しゃく)ココア交 菓子パン数個
昼 粥三椀 鰹のさしみ……(略)味噌汁一椀 煎餅三枚 氷レモン一杯?む
夕 粥二椀 わらさ煮 旨(うま)からず 三度豆(さんどまめ) 芋二、三 鮓(すし)少し 糸蒟蒻(いとこんにゃく)
これには、ただ?然……。性懲りもなくとは、まさにこのことか。寝たきりで一日布団からまったく動けぬ病人が、よくぞこれだけ喰えるものだ。餓鬼のごとき食欲というほかなし。子規はさらに記す。「総(すべ)て旨からず 佃煮にてくふ 梨一つ」。それもあたりまえ。「なら食うなョ……」と思わず口に出そうになる。それでも「梨一つ」食う食欲は、信じがたい。「今日は昨夜来のつづきにて何となく苦し 歯茎の膿を押出すに昼夜絶えず出る 昨日も今日も同じ」。
膿は歯茎が炎症を起こしていることの証し。それは、過剰な栄養摂取から起こる。膿は身体が、それを必死で”排毒”しているともいえる。ここに至っても、子規は自らの病状が、食い過ぎに由来するものであることに、まったく気付いていない。
九月二一日、午後、「間食 餅菓子一、二個 菓子パン 塩せんべい」などを食べ、「食過(くいすぎ)のためか苦し」と記しておきながら「? きすの魚田(ぎょでん)二尾 ふきなます二椀 なら漬 さしみの残り粥三椀 梨一つ 葡萄(ぶどう)一房(!)」と、まったく懲りていない。
●給料の半分が子規の食費に消えた!
こうして、延々とまた毎日、毎日、三食、三杯飯が続くのである。
わたしは、そこに子規の食欲だけでなく、強迫観念を強く感じ取る。
子規記念館で知ったことだが、彼は日本新聞社の社員として、病床に伏して後も俳句欄の添削、選句、作句、執筆などで給料を得ている。
「その給料の半分が子規の食費に消えた」と記録にある。
九月四日の食卓を見ると「牛乳一合ココア入」「菓子パン二個」「鰹のさしみ」「梨二つ」「葡萄酒一杯」「芋坂団子 あん付三本焼一本」「なまり節」……などの副食、間食。とくに刺身は、ほとんど毎日欠かさない。これらは当時としては、極めて贅沢な食事メニューといえる。
・・・<抜粋終了>・・・
船瀬氏は、子規の食生活を「鬼気迫る」光景と表現しましたが、私もこの記述を読んでいて震撼としてしまいました。
子規は食べ過ぎによる苦しみだと知りつつも、食べることによって病魔を克服できると頑なに信じ続けていたことに間違いありません。刷り込まれた固定観念の恐ろしさというものを、まざまざと感じます。
もちろんそうした固定観念は、子規だけではなく当時の一般的な認識だったようです。
子規の弟子たちもまた、そうでした。
・・・<『「長生き」したければ、食べてはいけない』、p45~p46から抜粋開始>・・・
●弟子の土産、食ってはいかぬ物ばかり
年が明けて、子規の病状は悪化の一途を、辿(たど)った。
三月十一日の日記には「腰背痛俄(いたみにわか)に烈(はげ)しく麻痺剤(モルヒネ)を?む (門弟の)種竹山人(しゅちくさんじん)来る 直(ただちに)に去る」とある。弟子たちも、その病勢に動揺している様がうかがえる。「十一時過また痛烈しく起る 麻痺剤を服す」「この頃は一日の牛乳三合必ずココアを交ぜる」。翌十二日、「午後四時、(高浜)虚子来る ハム、口ーフ(ス?)をくれる。六時 ぬく飯二わん さしみの残り 談話 牛乳 十時 まひ剤を?む 虚子去る」
師匠を慮(おもんばか)ってのことだろうが、弟子たちも、病人が食べてはいけないものばかりを持参してくる。ハム、ロースなど肉類は体質を酸性化するので、病人には厳禁というべき食物だ。また、動物たんぱくは「史上最悪の発ガン物質」であることが判明している(『葬られた「第二のマクガバン報告」』グスコー出版65ページ参照)。
げんに動物実験では植物たんぱくにくらべて動物たんぱくは、八倍も多く発ガンしている。肉食する人は、しない人にくらべて大腸ガン死亡率は五倍である!
むろん当時は、肉食信仰が真っ盛りでロースハムなど極めて高価だったろう。
そこで、虚子は無理をして、気を利かせて土産に提げて来たのだろう。
かくして、子規の壮絶な病床日記『仰臥漫録』は、この日を持って途絶える。
六月二〇日から、突然、筆が入るが、それはもう「麻痺剤服用日記」でしかない。体温とモルヒネを投与した時刻のみが、連日、無機的に記されていくのみ。もはや、麻薬を服用せねば痛みは堪え難いものとなっていたのだ。
・・・<抜粋終了>・・・
子規の『仰臥漫録』が私たちに教えるものは、とても貴重なものだと思います。子規が命を掛けて、私たちに残した遺産と言えるかもしれません。
フォイトの栄養学は肉食を礼賛し、高脂肪・高たんぱくの動物食を中心とした食べ物を栄養価が高いとして「良いものは、とりすぎるということはない」という理屈で、(病気になってさえも)摂取するよう指導します。そして日本社会においては、こうした固定観念がいまだに主流となっています。その最大の原因は、真実の情報が人々に伝わってこなかったことに尽きます。
フォイトの栄養学は、なんら科学的な根拠のない個人の妄想です。このフォイトの栄養学を完全に否定する2つのリポート(研究報告)があります。
1977年の「マクガバン報告」と1983年に始められた「チャイナ・スタディ」(注)です。これらは(アメリカ)政府の肝いりで、十分な予算を取り、実証データを積み上げた巨大研究プロジェクトでした。この2つのレポートの結論は、フォイト栄養学を180度否定するものでした。
このレポートの名さえ、多くの日本人は聞いたこともないと思います。日本には完全な情報統制が敷かれたとしか思えないほど、見事に情報が伝わることがなかったからです。
私はこうした真実の情報を、そろそろ日本人は知っても良い時期に来ていると思えてなりません。
ナッ、なんてことだ! 僕たちは騙されていたんだ・・・
(注)
「マクガバン報告」に関しては、『いまの食生活では早死にする』(今村光一監訳、RYUBOOKS)を紹介します。
「チャイナ・スタディ」に関しては、DVD『FORKS OVER KNIVES(フォークス・オーバー・ナイブズ)』の中で紹介されていて、このDVDを推薦したいと思います。
<転載終了>
”肉食信仰”は食品産業と軍国主義がでっちあげた
●フォイト栄養学は個人の”妄想”
現代栄養学は根本的に過(あやま)っている。その過ちのルーツは、ドイツ栄養学者カール・フォン・フォイト(C.V.Voit)に帰する。1863年から45年間、ミュンヘン大学生理学教授を務めた。ドイツ生理学界の重鎮であり、”近代栄養学の父”として君臨してきた。
フォイトはドイツの首都ベルリンで育った。それは北緯50度。よって、彼の栄養学は別名”北緯50度の栄養学”とも呼ばれる。
フォイトは徹底した肉食礼賛主義者だった。動物たんぱくを礼賛し「炭水化物は栄養が乏しいので摂取を控えるように」と平然と唱えた。東京帝国大学の秀才であった正岡子規が盲信したのも、このフォイト栄養学である。
フォイトは高カロリー・高脂肪・高たんぱくの動物食を推奨し、炭水化物など植物食を否定したのだ。彼にとってたんぱく質とは「肉」のことだった。フォイトは「良いものは、とりすぎるということはない」と考えていた。この”偉大”な学者は「過ぎたるは及ばざるがごとし」という単純な真理すら知らなかった!
それでも彼は”近代栄養学の父”として栄光の座に鎮座して今日に至る。彼を否定することは、人類が100年以上も信じ、伝えてきた”近代栄養学”を否定することにつながる。
では”栄養学の開祖”の主張にはどのような学問的根拠があったのか?
後の研究者たちが、フォイト栄養学をこう批判していることに驚いた。
「それは、何等(なんら)の医学的、科学的、統計的な検証も経ていない」と……。そして「強(し)いて言うなら、それはフォイトの個人的な空想の産物にすぎない」。
医学的、科学的、統計的な検証を経なければ、まさにそれは個人の空想どころか”妄想”にすぎない。
●たんばく推奨値2.5倍にねつ造
一人の学者の”妄想”が、どうして近代栄養学として確立してしまったのか?
わたしはフォイトを歴史上、極めて犯罪的なエセ学者だと断じる。
その根拠は、彼は研究発表において悪質な操作を行っているからだ。早くいえばねつ造である。フォイトは当時ドイツ国民の健康状態を調査して成人一人当たりたんばく質摂取量は48.5グラムで十分であることを確認していた。ところが彼は論文にはこう記載し発表したのだ。「必要なたんばく質摂取量は1日118グラムである」。なんと約2.5倍増である。彼はどうして、このような露骨なねつ造を行ったのか?
おそらく、彼は食品業界と深く癒着していたことはまちがいない。たんぱく摂取推奨値48.5グラムと118グラムの2.5倍格差は、そのまま食肉産業、酪農産業などの市場規模となりかねない。後者を推奨値とすれば、食肉産業など2.5倍の市場拡大がみこめる。
1885年まで、世界のすべての栄養学研究は、西ヨーロッパで行われていた。その中心はドイツであり、拠点はミュンヘン大学であった。その研究室の中枢にいたのがフォイトなのだ。彼が唱える栄養摂取の推奨値は、即、世界の栄養学の推奨値となる--。その事実を知っていた欧州どころか世界の食品業界がフォイトに”政治的”に働きかけたであろうことは想像に難くない。それは”経済的”な働きかけもあったはずだ。
こうしてフォイトは、”かれら”の意向を受けて、たんぱく質推奨値を2.5倍も膨らませて公表したのである。それ以外の理由は考えられない。
・・・<抜粋終了>・・・
このフォイトが説いた肉食礼賛の風潮は現代日本でもまったく払拭されていないと思います。
卑近な私の体験で言えば、夏の暑い盛りに私の知人が夏バテ防止に肉を食べようと仲間に呼びかけたとき、皆大きく頷いていました。
私は心の中で、「肉を食べればスタミナが付くという科学的データなど一つもないのに・・」とつぶやいていましたが、口にしませんでした。そんなことを口にしても、場の雰囲気が壊れるだけということがわかっていたからです。肉=スタミナ、というのは多くの日本人に頑強に刷り込まれた固定観念として確立してしまっています。
明治時代の正岡子規は、こうした固定観念をいち早く取り入れた先駆者と言えるかもしれません。
子規が患った脊椎カリエスとは、骨がスカスカになる病気です。
身体が極端に酸性に傾くとアシドーシス(酸血症)となり、死に至ります。
継続的に身体を酸性に傾かせるような食生活を続けると、体内のアルカリ分では酸性を中和できなくなります。すると身体の自然な防衛反応として、骨に蓄えられたアルカリ性のカルシウム分を溶かして酸性を中和しようとします。最初は身体の端の骨からカルシウムを取り出しますが、間に合わなくなると身体の最重要部分である脊椎からカルシウムを取り出さざるを得なくなります。子規が患った脊椎カリエスとは、まさに脊椎の部分がスカスカになったもので、当然ながら立って歩くこともできなくなりです。
では身体を酸性に傾かせるような食生活とは何かですが、その代表格が肉であり、現代では精製された白砂糖です。
明治は牛鍋を食べることが「文明開化の味」と言われた時代で、肉食が一般の家庭に入り始めます。
とはいっても当時は牛肉は大変高価なものであり、一般庶民が普通に食べれるものではありませんでした。もちろん子規も牛肉を食べていたわけではありません。子規は大の甘党で、砂糖や果糖を毎日大量に摂っていたのです。これが子規の身体を極端な酸性に傾けていたのは、想像に難くありません。
・・・<『「長生き」したければ、食べてはいけない』、p29~p31から抜粋開始>・・・
●糖分の大量摂取でカリエスも当然
わたしは子規が「カリエスで病床に伏した」ということを子規記念館で知って「ああ……やはり」と独り嘆じた。
その原因が一瞬で、判ったからだ。
子規は一度に菓子パンを十数個、柿や梨なども十個前後も貪(むさぼ)る大の甘党であった。菓子パンには砂糖が、果物には果糖が含まれる。その糖分の異常なまでの過剰摂取が脊椎カリエスという業病を若き天才にもたらしたのだ。なぜか?
とりわけ白砂糖は、近年の栄養学では”エンプティ・カロリー(空の熱量)”と呼ばれる。
ふつう砂糖黍(きび)などから生産するき黍糖はミネラル分、ビタミン類など微量栄養素を含んでいる。しかし近代食品工業は、これらを”不純物”と呼んで排除する方式を採用した。つまり、食品精製工業である。砂糖分を純化して雪のような白砂糖とする工程を近代食品工業として誇ったのである(『カルシウム欠乏症ーー砂糖の副作用』田村豊幸著 参照)。
これらピュアな白砂糖を体内に取り込むと、どういう生理反応が起こるか?
これら”空の熱量”を燃やすと、大量の酸化物(酸性物質)が体内に生成される。すると血液・リンパ液などの体液が酸性に傾く。すると身体はさまざまな症状に襲われる。これを酸血症(アシドーシス)と呼ぶ。この体液酸性化が進行すると、やがて死にいたる。
それを防ぐためには、その酸性を中和しなければならない。
その中和としてカルシウム・イオンが使われる。カルシウムはどこから血液に供給されるか?
いうまでもなく骨から供給される。すると全身の骨格はスカス力に脆(もろ)くなる。そして病原菌に侵され始める。これがカリエスである。最悪は身体を支える屋台骨である脊椎骨まで侵される。すると、もはや立つことすらかなわぬ。病床に伏せたままの日常を余儀なくされる。
これが、子規が菓子や果物の狂気ともいえる大暴食で脊椎力リエスという業病に陥ったメカ二ズムである。子規はその変質狂的とも言える偏食癖で、なるべくして脊椎カリエスとなったのではないか。
・・・<抜粋終了>・・・
子規は、病床に伏したとき『仰臥漫録(ぎょうがまんろく)』という毎日の食生活を克明に記した日記を書いていました。
仰臥とは仰向けのことで、子規は独りでは寝返りもままならぬ病床で、仰向けに俳句や作歌に励むとともに、この『仰臥漫録』綴ったのです。この『仰臥漫録』に記した日々食した食べ物の記述は、栄養学の第一級の資料と言えるものだといいます。
野生動物は怪我をしたり病気になったりすると、エサを食べずにじっと座り込んでしまいます。
ペットを飼われた経験のある方はご存じだと思いますが、動物は具合が悪くなると大好きな餌をあげても食べず、静かな場所に横たわり、体力の回復に努めるようにじっと何もしないで過ごします。これは動物が病気になったとき、何が病気や怪我を治すのに一番適切な方法か本能的に知っているからだと言えます。船瀬氏の言葉を借りれば、それは「食うな」「動くな」「寝てろ」です。
しかし私たち(現代の)人間は、病気になると市販薬を飲んだり、病院に行って手術や投薬をしたり、家に帰ると栄養のあるものをたくさん食べるよう指導されたりします。野生動物のやり方とは、180度逆の方法です。
では重症の脊椎力リエスで生命の危機に瀕した子規が、どのような食生活をしていたか見てみましょう。
・・・<『「長生き」したければ、食べてはいけない』、p33~p38から抜粋開始>・・・
天才を殺した「栄養学の無知」、過食、美食、暴食……
●「食うな」「動くな」「寝てろ」
こうして野生動物に、現代人を悩ませている生活習慣病や精神病がいっさい見当たらない謎も解ける。野生の叡智とは宇宙の叡智ーーすなわち神仏の理法であった。
それなら、われわれ人類はく先覚者>である野生動物たちを見習うべきであろう。古代ヨガ行者たちは、その真理を識り、真理を会得するために、野生動物たちを観察し、それに習ったのである。病気のときも然り。それは、かんたんにいえば「食うな」「動くな」「寝てろ」である。
--さて、これら真理を踏まえて冒頭の『仰臥漫録』を読み返してほしい。
あなたは、もはや絶句して声も出ないはずだ。
わたしは大食癖のあった子規も、さすがに病床に伏してからは、その悪癖も改まったとばかり思っていた。
しかし……の日記を一読、ただただ唖然呆然(あぜんぼうぜん)である。
朝 粥四椀、昼 粥四椀、夕 奈良茶飯四椀……と三食を完食し、さらに四杯飯を喰らっている。さらに牛乳一合、煎餅菓子パン十個、昼飯後 梨二つ、夕飯後 梨一つ……と間食も半端ではない。わたしは、ほぼ一日一食から一・五食で過ごしている。だから、子規の食卓のメニューを読んでいるうちに気持ちが悪くなってきた。
この頑健なわたしですら、これでは「一日で病気になる!」「死んでしまう!」と確信した。それを末期の脊椎カリエス患者の子規が毎日、毎日三食、腹這いで食い尽くすのである。その鬼気迫る光景を想像するだに、胃の辺りが重苦しくなってくる。
「食う」から「苦しい」のだ。「食わなければ」、「楽になる」。そんな、簡単なことに気づかなかったのか……。
●呼吸苦しく寝られず、煩悶を極む
さすがの子規も「この頃食ひ過ぎて食後いつも吐きかへす」「大食のためにや左下腹痛くてたまらず」と記(しる)している。あたりまえだ。なら、食わなければいい。子どもでもわかるリクツである。
しかし、この”天才”は、頓(とん)と理解にはいたらぬ。
それどころか、この日(9月2日)の『仰臥漫録』には、次の記述が続く。
「松山木屋町法界寺の 鰌施餓鬼(どじょうせがき)とは路端(みちばた)に鰌汁商(どじょうじるあきな)ふ者出るなりと 母なども幼き時祖父どのにつれられ弁当持て往(い)てその川端にて食はれたりと 尤(もっとも)旧暦廿六日頃の闇の夜の事なりといふ」と、母の思い出話からドジョウ汁への食欲をたぎらせている。
そして、次の一句を綴っている。
--餓鬼も食へ闇の夜中の鰌汁--
なんとまあ、魂消(たまげ)る食欲であろうか! もはや、その食欲は餓鬼のレベルというしかない。
午後八時腹の筋(すじ)痛みてたまらず鎖痛剤を呑む 薬いまだ利(き)かぬ内筋ややゆるむ
母も妹も我枕元(わがまくらもと)にて裁縫などす 三人にて松山の話殊(こと)に長町の店屋の沿革話(えんかくばなし)いと面白
かりき十時半頃蚊帳(かや)を釣り寝(しん)につかんとす 呼吸苦しく心臓鼓動強く眠られず 煩悶(はんもん)を
極む 心気(しんき)やや静まる 頭脳苦しくなる 明方(あけがた)少し眠る
つききりで看病するのは母親と妹(律)。ささやかな団欒(だんらん)の様も伝わってくる。しかし、夜半の煩悶は「食べ過ぎ」によるもの以外の何ものでもない。
わたしも経験があるが、食い過ぎの苦しみは、半端ではない。それに比べれば空腹は、腹が減るほど心身は清澄となっていき、恍惚(こうこつ)感すら感じるほどだ。しかし、世人は逆だ。空腹を恐れ、満腹を喜ぶ。秀才かつ天才の子規なら、この辺の理智に気付きそうなものだ。みずから「食い過ぎで吐き返し」「大食のため腹痛し」と記述しているのだ。
●延々と続く毎日、三食、三杯飯
明けて翌九月三日、この日は節食して、胃腸を休めるか……と思いきや。
朝 ぬく飯二椀 佃煮 梅干
牛乳五勺(しゃく)ココア交 菓子パン数個
昼 粥三椀 鰹のさしみ……(略)味噌汁一椀 煎餅三枚 氷レモン一杯?む
夕 粥二椀 わらさ煮 旨(うま)からず 三度豆(さんどまめ) 芋二、三 鮓(すし)少し 糸蒟蒻(いとこんにゃく)
これには、ただ?然……。性懲りもなくとは、まさにこのことか。寝たきりで一日布団からまったく動けぬ病人が、よくぞこれだけ喰えるものだ。餓鬼のごとき食欲というほかなし。子規はさらに記す。「総(すべ)て旨からず 佃煮にてくふ 梨一つ」。それもあたりまえ。「なら食うなョ……」と思わず口に出そうになる。それでも「梨一つ」食う食欲は、信じがたい。「今日は昨夜来のつづきにて何となく苦し 歯茎の膿を押出すに昼夜絶えず出る 昨日も今日も同じ」。
膿は歯茎が炎症を起こしていることの証し。それは、過剰な栄養摂取から起こる。膿は身体が、それを必死で”排毒”しているともいえる。ここに至っても、子規は自らの病状が、食い過ぎに由来するものであることに、まったく気付いていない。
九月二一日、午後、「間食 餅菓子一、二個 菓子パン 塩せんべい」などを食べ、「食過(くいすぎ)のためか苦し」と記しておきながら「? きすの魚田(ぎょでん)二尾 ふきなます二椀 なら漬 さしみの残り粥三椀 梨一つ 葡萄(ぶどう)一房(!)」と、まったく懲りていない。
●給料の半分が子規の食費に消えた!
こうして、延々とまた毎日、毎日、三食、三杯飯が続くのである。
わたしは、そこに子規の食欲だけでなく、強迫観念を強く感じ取る。
子規記念館で知ったことだが、彼は日本新聞社の社員として、病床に伏して後も俳句欄の添削、選句、作句、執筆などで給料を得ている。
「その給料の半分が子規の食費に消えた」と記録にある。
九月四日の食卓を見ると「牛乳一合ココア入」「菓子パン二個」「鰹のさしみ」「梨二つ」「葡萄酒一杯」「芋坂団子 あん付三本焼一本」「なまり節」……などの副食、間食。とくに刺身は、ほとんど毎日欠かさない。これらは当時としては、極めて贅沢な食事メニューといえる。
・・・<抜粋終了>・・・
船瀬氏は、子規の食生活を「鬼気迫る」光景と表現しましたが、私もこの記述を読んでいて震撼としてしまいました。
子規は食べ過ぎによる苦しみだと知りつつも、食べることによって病魔を克服できると頑なに信じ続けていたことに間違いありません。刷り込まれた固定観念の恐ろしさというものを、まざまざと感じます。
もちろんそうした固定観念は、子規だけではなく当時の一般的な認識だったようです。
子規の弟子たちもまた、そうでした。
・・・<『「長生き」したければ、食べてはいけない』、p45~p46から抜粋開始>・・・
●弟子の土産、食ってはいかぬ物ばかり
年が明けて、子規の病状は悪化の一途を、辿(たど)った。
三月十一日の日記には「腰背痛俄(いたみにわか)に烈(はげ)しく麻痺剤(モルヒネ)を?む (門弟の)種竹山人(しゅちくさんじん)来る 直(ただちに)に去る」とある。弟子たちも、その病勢に動揺している様がうかがえる。「十一時過また痛烈しく起る 麻痺剤を服す」「この頃は一日の牛乳三合必ずココアを交ぜる」。翌十二日、「午後四時、(高浜)虚子来る ハム、口ーフ(ス?)をくれる。六時 ぬく飯二わん さしみの残り 談話 牛乳 十時 まひ剤を?む 虚子去る」
師匠を慮(おもんばか)ってのことだろうが、弟子たちも、病人が食べてはいけないものばかりを持参してくる。ハム、ロースなど肉類は体質を酸性化するので、病人には厳禁というべき食物だ。また、動物たんぱくは「史上最悪の発ガン物質」であることが判明している(『葬られた「第二のマクガバン報告」』グスコー出版65ページ参照)。
げんに動物実験では植物たんぱくにくらべて動物たんぱくは、八倍も多く発ガンしている。肉食する人は、しない人にくらべて大腸ガン死亡率は五倍である!
むろん当時は、肉食信仰が真っ盛りでロースハムなど極めて高価だったろう。
そこで、虚子は無理をして、気を利かせて土産に提げて来たのだろう。
かくして、子規の壮絶な病床日記『仰臥漫録』は、この日を持って途絶える。
六月二〇日から、突然、筆が入るが、それはもう「麻痺剤服用日記」でしかない。体温とモルヒネを投与した時刻のみが、連日、無機的に記されていくのみ。もはや、麻薬を服用せねば痛みは堪え難いものとなっていたのだ。
・・・<抜粋終了>・・・
子規の『仰臥漫録』が私たちに教えるものは、とても貴重なものだと思います。子規が命を掛けて、私たちに残した遺産と言えるかもしれません。
フォイトの栄養学は肉食を礼賛し、高脂肪・高たんぱくの動物食を中心とした食べ物を栄養価が高いとして「良いものは、とりすぎるということはない」という理屈で、(病気になってさえも)摂取するよう指導します。そして日本社会においては、こうした固定観念がいまだに主流となっています。その最大の原因は、真実の情報が人々に伝わってこなかったことに尽きます。
フォイトの栄養学は、なんら科学的な根拠のない個人の妄想です。このフォイトの栄養学を完全に否定する2つのリポート(研究報告)があります。
1977年の「マクガバン報告」と1983年に始められた「チャイナ・スタディ」(注)です。これらは(アメリカ)政府の肝いりで、十分な予算を取り、実証データを積み上げた巨大研究プロジェクトでした。この2つのレポートの結論は、フォイト栄養学を180度否定するものでした。
このレポートの名さえ、多くの日本人は聞いたこともないと思います。日本には完全な情報統制が敷かれたとしか思えないほど、見事に情報が伝わることがなかったからです。
私はこうした真実の情報を、そろそろ日本人は知っても良い時期に来ていると思えてなりません。

(注)
「マクガバン報告」に関しては、『いまの食生活では早死にする』(今村光一監訳、RYUBOOKS)を紹介します。
「チャイナ・スタディ」に関しては、DVD『FORKS OVER KNIVES(フォークス・オーバー・ナイブズ)』の中で紹介されていて、このDVDを推薦したいと思います。
<転載終了>
僕も以前はものすごい肉食でしたが、瞬発力はあったものの疲れやすく、朝が辛かったです。あるきっかけで、現在菜食主義になり、生まれて初めて清々しい朝を日の出とともに毎日むかえられてます。肉食を止めると酒も飲みたいと思わなくなり、どんどん健康になってます。食べる内容に気をつかってるので健康になったのもあり、発酵食品や豆類や海藻のミネラルなど、なるべく日本人に合った食事をしています。
身体の声に敏感になり、一日ほぼ一食ランチのみで、身体がとても軽く楽になりました。あと、若返ったとよく言われます。
ただ、十人十色、それぞれの身体に合った食事があると思いますので、自分の身体に聴くのが一番いいですね。