第二章 八正道と中道

     心は一念三千、さまざまに変化する。
    運命は心という想念行為がつくり、今の
    あなたを生かしている。善を生かすかどう
    かはあなた自身にかかっている。

   八正道こそ中道の道

 仏教の言葉の中に、苦集減道というのがあります。これはどういう意味かと申しますと、苦とは
生老病死を指し、集とは、その原因、減とはその原因を滅すること、そうしてそれには道を行ずる、
つまり中道であり、八正道を行ずる以外にない、ということをいっています。

 集である原因とは何かといえば、日常生活において人を非難したり、ぐちったり、そしったり、ある
いは自我我欲におぼれ、人を人とみない我執の虜となること、人間として中道の道を失うことをいいます。

 地位や名誉が高くなりますと、つい人を見下したり、俺は偉いのだ、といった気分になります。お金が
あると、たいていのことは自由になりますから。ぜいたくをする。二号、三号さんを囲うようにもなります。

 その反対に、下積みの生活が続きますと、みんな自分に敵対しているようにみえてきて、あいつが悪い、
こいつが面白くないといって人を呪(のろ)ったり、自分をいじめたりして、小さな自分をつくりあげてしまい
ます。

 このように、金がありすぎても、なくても、地位が高すぎても、低すぎても、とにかく、人間は、その生活
環境が右によっても、左にかたよっても、それに、心まで動かされてしまいがちです。

 そこで、何事も腹八分のたとえのように、中道を歩むことが大切なのです。

 しかし、ここで間違えては困ることは、中道とは地位が高いからよくない、貧乏だから心が貧しいという
ことではありません。地位が高いのは、それだけ、その人の努力の結果であり、貧乏といっても、それは
その人にたいして、天がある修行を命じている場合もあるのです。ですから、自分の環境が、現在たとえ
その両極端におかれていたとしても、自分は中道を歩いていない、俺はダメだ、というように悲観する必要
はさらさらありません。

 中道を歩むということ、その本来の意味は、人間はとかく、目や耳や鼻、あるいは舌や身、意(自己保存)
に左右されがちなので、こういうものに、心を動かされるな、ということをなのです。

 話は前に戻りますが、苦の原因は、そのように、増長慢や自己卑下、自我我欲、愚痴ったり、そしったりして、
自分自身の心を縛ってしまうところにあります。こうした状態がいつまでも続くと、自分の意識まで腐らせて
しまい、それはそのまま地獄界に通じてしまうということをいっているのです。

 地獄は、自分を見失った世界です。なぜかといいますと、人間は、本来、神の子、仏の子であり、その住む
世界は光り輝く、調和された天上界であるからです。その神の子、仏の子が、暗い、陰惨な、火炎地獄や
阿修羅界、餓鬼界に堕ちるということは、心の神性、仏性お傷つけ、自己を滅したことになるわけです。

 地獄界に堕ちますと、その苦しみから、なかなか抜けられず、何十年、何百年という長い間、そこに
とどまることが多いのです。

 そこで、これではいけない、人間は、人間らしく、神の子、仏の子として、その神性を保ってゆかなければ
いけない、そして、神仏の理想とされているこの世の理想社会、つまり、仏国土、ユートピアの世界をつくり
あげていかなければいけない、というわけなのです。

 それには、各人が、神の子、仏の子としての自覚、つまり、こうした苦の原因である五官に左右されず、
仏教でいう悟りを得ることが大切であるというのです。

 そこで、苦集減のあとに、道という言葉が出てまいります。つまり、苦海からぬけ出し、己自身を救うには、
さきほどの、中道の道を歩むしか、人間には救いがないといっているわけなのです。

 それが、かつてインドで説かれた釈迦のいう八正道です。

 八正道は、人間として、中道を歩ませる規範であります。天国につながるかけ橋です。左にかたよらず、
右に曲がらぬ中道への道、つまり、神性、仏性への道、正覚への道なのです。

 すなわち、一、正しく見ること、一、正しく思うこと、一、正しく語ること、一、正しく仕事をなすこと、
一、正しく生活をすること、一、正しく道に精進すること、一、正しく念じること、一、正しく定に入ること、
の八つです。

 この八つの規範の一つが欠けても、中道の道は歩めないし、正覚を得ることも、不可能であると説い
ています。また、これ以上であってもいけない。たとえば、戒を守れとか、瞑想のみの生活を送れとか、
苦行せよ、といったものです。

 それは、釈迦自身が、いろいろな経験を通して得た中道への道は、八正道以外にないと悟ったのであり、
八正道こそ、神理につながり、この世に人間が生存するかぎり、その神理は生き続けていくものであるから
なのです。

 もしも、釈迦の説いた八正道が、一つでも欠けてたり、一つでも、二つでも多くあったとすれば、二千五百
有余年にわたる仏教の歴史は、今日以上に大きな変化が、あるいはその教えはある地域の人びとのみに
とどまっていたかも知れません。

 それでは、その八つの規範、八正道について一つ一つ、解説を試みてみましょう。



     正見(正しく見ること)
 ものを正しく見るのは、まず、自己の立場を捨て第三者の立場でモノを眺めることです。
私たちは普通、他人の問題については比較的正確な判断が下せます。ところが、自分の問題
となり、利害関係が伴ってくると、是非の判断がつかなくなり、しばしば悔いが残るような結果
になるようです。

 これは、自分の問題になると、知らぬ間に自己保存が働き、我欲に左右されるからです。
正しい判断、正しい見方は、自分を切り離し、いわば第三者の立場でモノを見ることから
始まるのです。

 そうしてやがてその見方は、心の内面にまで掘り下げられ、これまで正しいと思ったこと
が、まったく反対であったことがわかります。

 たとえば、つい百年前、二百年前まで親の仇討ちは正しいものとされました。仇討ちと聞く
と、武士も、町人も、百姓も、その仇討ちに加勢したものです。

 現代では仇討ちは人殺しになり、殺人罪に問われます。百年前より、ものの見方が前進し
たといえましょう。

 なぜ仇討ちはいけないか。殺人は神の理に反するからです。

 神の理は地上の調和であり、人々の目的は、調和の中に生かされているからです。

 殺人の繰り返しは、不調和を助長します。つまり、作用反作用の振り子は、いつまでたっても
止まることがないからです。

 今日、個人間のこうした問題は、国が裁いています。ところが国と国の問題になると、調停や、
裁くものがないために、戦争にまで発展してしまいます。

 第四次中東戦争は、昔の個人間の仇討ちにも似た怨念戦争であり、争いは、怨念が消える
まで半永久的に続くでしょう。

 戦争が絶えないということは不幸です。多くの人命が失われ、一家は離散します。

 なぜこうなるのでしょうか。戦争や争いというものは、自分のこと、自国の問題となると、自己保存
が働き、自分を守ろう、相手はどうでも自分さえよければ、という考え、見方に傾いてしまうからです。

 正見の尺度は神の心なのです。その出発点は、第三者の立場で、自分を見、相手をながめる
ことです。

 現象の姿だけをとらえて判断を下しては、間違いのモトになります。

 現象の奥にかくされた原因を見きわめ、そうして、その原因を取り除く努力が必要なのです。

 原因を見出すには反省しかありません。客観的立場に立った反省を通して、その原因をつかみ、
捨て去ることです。

 正しい見方は、やがて正しい見解をつくってゆくでしょう。そうすると、この現れの世界の、めまぐる
しい動きに、いちいち私たちの心を振り回されることがなく、心をいつも平静にしていられるでしょう。

 この現象界で起こった、あるいは起こりつつある現象は、すべて原因があって結果として現れてくる
ものですから、正しい見方が養われてくるにしたがって、現象の奥にかくされた原因をつかむことが
容易になるでしょう。

 正しい見方は、こうした心の眼を養うことによって高められ、やがて、神の心につながっていくものです。


     正思(正しく思うこと)
 思うとは、考えることです。見る、聞く、語る、の行為の中には、正しい中道の神理をもとにした
考えがなくてはなりません。自己本位の考え方は身を滅します。すべては相互に作用し、循環の
法にしたがっているため、自己保存の想念は自分にかえってくるからです。

 思う、考えることは、行為につながりますから不調和な思いは、想念のフィルムに抵抗をつくり、
その抵抗は、自分の意識や脳細胞までも狂わせてしまいます。

 私たちは、毎日の生活の中で、自分だけよく思われよう、楽をしようと考え、他人のことを考えな
かったりしますが、これは自己保存の我欲につながっていることを知るべきです。

 自己主張も自分にもどるのです。競争相手をケ落とそうなどという思いは、あの山彦に似て、
己にかえってきます。「馬鹿野郎」といえば、山彦も「馬鹿野郎」と、自分の声で帰っててきます。

 思う、考えることは、創造行為でもあり、自己の運命をよくしたいと思うなら、まず、正しく思う
ことをしなければなりません。

 不調和な思いを持てば、黒い想念の抵抗を自らつくり、苦しみを多くするだけです。相手を陥れ
て不幸にしようと思う心は、自分の落ち込む穴を掘っているようなもの。「策士、策士におぼれる」
の類であり、「人を呪わば穴二つ」であります。

 また情欲の連想は、心の中で、行為につながります。夢とかあの世の生活では、思ったこと、
考えたことが、その結果として、ただちに現われます。現象界においても、心の中で思ったことは、
形に現れずにはおかないものです。思うことは行為の前提であるが、実は、行為そのものである、
ということを知らなくてはなりません。

 昔から姑と嫁の争いを聞きます。姑が嫁にきびしいことをいうと、嫁はたび重なる叱言に心から
嫌な姑だ、早く死んでしまえばよいと思うようになってきて、そうなると心の黒い想念は現象化され、
表面は姑に合わせ、口ではうまいことをいっても、嫁の心にひびくものは、姑に対する憎しみとなり、
やがて爆発し、争いになってきます。

 子でない、親でないという、お互いのそうした感情が、姑と嫁の関係をいっそう面倒にしています。
それというのも、双方の腹の底で、たがいに、よく思われたい、思う通りに家の中をしてゆきたい
という自己保存から抜けきれないために、諸々の問題を引き起こしてしまうのです。

 正思の重要なことは、正見と同じように、第三者の立場に立って考え、思うことなのです。

 相手の立場相手の幸せを考え、調和を目的とした思いが大事なのです。

 誤解や行き過ぎはあらためればいい。話し合って、理解し合うことが調和の大きな前提なのです。

 話し合ってもうまくゆかず、自分の非がどうしても認められない場合は、相手のために祈ってやる
広い心が必要です。

 正道の目的は”心の安らぎ”であり、心の中が、思いが、いつも不安でジメジメしてはなんにもなり
ません。

 相手に通じなければ、広い心で相手を包んでやることです。

 もう一つ大事なことは、我慢と忍辱です。この両者は似ているようで大いにちがいます。我慢とは
苦しみ、悲しみを腹の中につめこむことです。自分さえ我慢すれば家の中がまるく収まる、として
我慢に我慢を重ねてしまう。我慢は病気を作ります。

 忍辱とは、耐え忍ぶことですが、苦しいことを腹につめこまない、話しても相手がわからなければ、
相手の心の安らぎを、調和を神に祈るという、広く、高い心をいうのです。

 私たちは忍辱を学び、我慢を捨てることです。

 正思を養うには、これまた反省です。今日一日の考え、思いは正しかったか、正しくなかったかを
反省し、過失があれば訂正してゆくことです。

 こうしてやがて、中道に適った正思を、心の中に確立することが出来ます。 


     正語(正しく語ること)
 言葉は言魂といって、相手に伝わります。ですから表現された私たちの言葉は、相手の耳を
通して不調和か、調和か、いずれかの現象を生じさせるものです。

 言魂とは、光と音の波動を意味します。

 私たちの心、肉体は光から出来ています。音の波動も、また、光の波として空間に振動して
行きます。

 心からの言葉は、そのまま、光の波動となって伝わってゆきますが、すぎたお世辞や、横暴な
語り方は、光の波動に黒い塊りを付着させているため、相手の心を傷つけます。傷つけた結果
は、自分にはねかえってくるのです。

 ですから、言葉は、素直な心で、相手の心になって語り合うことが大切です。語調の強い言葉
は、相手の心に不調和を与えるだけです。

 売り言葉に買い言葉で、町中や電車の中で口論している人がよくあります。たがいに、黒い塊り
を発散させ、それを食べ合っている。心に黒い塊りをつくり出し、拡大させています。こうしたことを
年中やっていますと、病気や怪我をします。心が不安定になっているからです。

 相手が怒鳴っても、決して反発をしてはいけません。反発は自己保存であり、反発する前に、自分
を第三者の立場で見、考えてから結論を出しても遅くはないからです。

 怒った心は怒った人の心に帰って行くものであり、これに心を動かしてはなりません。

 第三者の立場に立って反省し、いわれなきものであれば「哀れな人だ」と相手を思いやればよい
のです。そして、「神よ、あの人の心に安らぎを与えてください」と祈ることです。

 言葉は自分と相手の意志の交流です。

 それだけに、常に調和ある言葉を心掛け、調和ある対人関係をつくるようにしなければなりません。

 言葉は、人によって受け取り方がちがって来ます。お年寄りに英語を交えたり、若い人に古い話を
持ち出し、長々と語られると戸惑ってしまいます。

 「人を見て法を説け」なのです。


     正業(正しく仕事をすること)
 私たちのこの地上での目的は、魂を磨くことと、仏国土ユートピアを造ることです。

 正業とは、この目的に適ったものでなければなりません。

 感謝と奉仕、そして、より大きく、豊かな心と魂をつくる場が仕事のはずです。

 こう考えますと、正業の在り方はまず心を豊かにすることにあり、仕事は己の魂の経験の範囲を
広げてゆくことになります。

 ペテロはイエス、キリストの第一の弟子として後世に名を遺しましたが、そのペテロは、当時は
漁師でありました。学問に縁が薄かったために、伝道には随分と苦労しました。そこで今世は学問
をみっちりと学び、魂の経験を広げてゆこうと、今世は学者の道を志したのです。

 元東大総長の故矢内原忠雄氏が、かつてのペテロであったのです。

 こういうと人はそんな馬鹿なと、いうかもしれませんが、同氏が書き遺した「イエス伝」を見れば、
当時の経験がなければ書けないような箇所が随所に見られます。

 このほか現代の著名人の中には歴史上に名をつらねた人がおり、あの人がこんな仕事をという
例が非常に多い。

 普通は前世の職業が今世につながっている人もありますが、百八十度ちがった職業を持って
今世を送る人も多いのです。

 このように職業を通して、己の魂の経験をより豊かにし、広い心を養うことが正業の第一の目的なのです。

 第二の在り方は、職業を通して、人びととの調和をはかることです。自分を含め、人々の生活を
守ってゆくことにあります。

 南方の原住民のように、一から十まで自給自足をする時代は過ぎました。しかし原住民でさえ、
男女の役割は決まっており、男は狩りに、女は子供と食事の用意をするように、やはりそれぞれ
の分担があるようです。何もかも一人で生きることは、事実上不可能ですし、社会生活という永続性
を持った生活は一人では期待できません。それぞれが持ち場を守り、その分を果たすことによって
自分も生かされ、他をも生かすことになるのです。

 職業に就くということは、自分を生かすばかりか、他の人びととの共同生活に欠かせない役割なのです。

 私たちの肉体の機能を見ても、心臓は心臓として、胃腸は胃腸の働きを果たすことによって体は
維持されます。心臓や胃腸が勝手に動き、持ち場を放棄すれば、私たちの肉体は一日として保つ
ことは出来ません。

 職業とはこのように、自分を生かし、他をも生かす大事な場です。

 第三の在り方は、奉仕です。

 私たちが健康で働ける環境にあるということは、自分を生かし、さらに他をも生かす原動力と
なるものです。

 職業の第一の目的が魂の経験の範囲を広げてゆくことにあれば、健康で働けることは神の
偉大な慈悲があるからであり、感謝と報恩の行為こそ正業の第三の在り方のはずです。

 こうみてまいりますと、職業の在り方、仕事の目的がハッキリしてきたと思います。

 ところが現実はどうでしょうか。利益のためなら人を押しのけても無理押しする。公害が出ようが、
人が苦しもうが、最少の費用で最大の利益を挙げる。それが企業目的になっています。

 消費は最大の美徳とかいって、地球資源の乱獲に狂奔し、将来の人類の生存のことなどあまり
考えずに、儲かればいい、自分さえよければよいというのがこれまでの企業精神のようでした。

 さらに労使の争い。労働者も人の子、食えるだけよこせと経営者に迫る。賃金と物価は
ニワトリ・卵の論議のごとく、年々エスカレートし、労働者の生活福祉を目的とした組合運動は、
ここへ来てようやく反省期に入ろうとしています。

 経営者と労働者の対立は、やがて経済全体のバランスを失う要因をはらんでいます。

 企業エゴ、個人エゴが正業からみた場合、いかに人類全体の破壊行為につながるか、魂の
前進にブレーキをかけているかが、これで明らかになるでしょう。

 物を主体にしたものの考え方は、必ず破壊につながってゆきます。

 心を中心とした物心両面の考え方こそ、私たち人類の調和の基礎でなければなりませんし、
人類が永遠の平和を望みたいならば、ウソのいえないその心を大事にし、その心をもとにした
生活が大事なのです。


     正命(正しく生活すること)
 正命とは文字通り、正しく生活することです。正しい生活を送るには、まず自身の業(カルマ)
の修正、短所を改めることです。

 人間は誰しも、長所と短所の両面を持っています。長所と短所というものは、光と影のような
もので、性格が片寄ったときに、長所が短所になり、短所が長所に変化します。

 信長は非常に気短な男だったようです。しかしその短気が決断となって現れたときには、神出鬼没
の戦術に変化し、戦国の世を生き抜く絶大なエネルギーになったようです。

 このたとえはあまり感心しませんが、長所と短所というものは紙一重であり、それは紙の表と裏
のようなものといえるでしょう。

 そうした紙一重の性格をどうすれば長所に変えることが出来るか、あるいは長所とは何か、短所
とはどういうものか、となりますと、短所は自分の心をさわがし、人の心をも傷つけるものであり、
長所は、自他ともに調和をもたらす性格といえるでしょう。

 長所を伸ばし、欠点を修正することによって、自身の想念と行為はもとより、自分の周囲を明るく
導くことができるでしょう。

 私たちのこの世の目的は、この地上に仏国土・ユートピアをつくることです。それには正しい生活
を営まねばなりません。正しい生活は、まず自分自身の調和からはじめねばなりません。自身が
調和を保たなければ、自分の周囲も調和に導くことは出来ません。

 欠点を修正するにはどうするか。それには第三者の立場から、自分の心を、毎日の思うこと
考えること、行為を、反省することです。


     正進(正しく道に精進すること)
 私たちの人生は、いくら長生きしても八十年から九十年、その短い一生を目先の利益のために
過ごしてしまうことは惜しいかぎりです。意識の一〇%しか働かないとすればそれも仕方ないかも
しれませんが、しかしそうした環境だからこそ修行が出来るといえます。何もかもわかったならば、
この世に生まれた意義はありません。

 正進の目的は、対人関係と地上の環境を整備し、調和させることです。

 人は単独では生きられないし、また生まれてもきません。必ず両親がおり、そして兄弟姉妹、
夫婦、隣人、友人、先輩、後輩というように、そうした環境の中で生活しています。

 そして、そうした関係の中で、己自身の心が練磨され、尊重し合う心がつくられてゆくのです。

 最近のように物質オンリーの風潮が強くなりますと、親子でも心は他人であり、夫婦は享楽
の手段としか考えぬ人も出てきます。友人は利益追求の手段であり、自分以外はすべて他人
というようになってきます。恐ろしかぎりです。

 親子といえども魂はちがいますが。しかし、自分を生み、育て、今この世に在るということは、
両親の賜です。もし、その両親があの世(出生する前に親子の約束を交わす)の約束を果たさず、
放蕩したり、あるいは胎児をおろしたりするようなことがあれば、話は別ですが、そうでなければ、
この世に生まれ、魂の修行の機会を与えてくれた両親を安心させるような自分自身に成長する
ことが、人の道に適った生き方でしょう

 夫婦にしても、大抵は前世で夫婦であるという場合が多く、そうだとすれば互いに助け合う、
愛の環境をつくることが大事なのです。

 兄弟姉妹、友人、隣人にしても、それぞれが助け合い、補い合い、話し合える愛の行為が
出来るように励むことが、人の道です。

 正進の目的は、人の道、神の道を具現してゆくことです。

 第二の目的は、私たちの共同生活が末長く続けられるように、動物、植物、鉱物資源を整備し
活用してゆくことです。

 私たちの生活は、こうした動・植・鉱物の資源を活用しなければ生きてゆけません。

 そのため、こうした資源が循環の法則にそうように、大切に保存しながら、そして、それらを
生活の上に活用してゆくことです。

 神は私たちが平穏に生活できるよう、大地と、資源と、生きる環境とを与えてくれました。
これを、半永久的に保存し、活用してゆくためには、私たちは、資源の再生産が常に可能に
なるよう、それらを大切に扱ってゆかねばなりません。

 つい最近まで、鳥や獣を見ると勝手放題に殺してしあっていました。必要なものなら許され
ますが、面白半分に動物を殺傷することは、植物資源の枯渇にも影響してきます。

 石油や石炭も今日のように使い放題、掘り放題にしてゆきますと、これに代わる動力資源
ができる前に、ガスや電気はとまり、再び原始時代がやってくるでしょう。

 こうした自然の資源は大切に活用し、科学の進歩と歩調を合わせて使ってゆかなければいけ
ないものです。

 資源を大切にする、ものを大切にすることも、道に適った生き方なのです。

 私たちは常に反省し、行き過ぎや怠惰にならないよう、自戒してゆかなければなりません。


     正念(正しく念じること)
 念とは、思い願う、エネルギーのことです。

 あれが欲しい、これが得たい。あの人と結婚したい、こういう仕事をしたい・・・・・、というように。

 つまり、念には常に目的意識が内在されています。

 目的のない人生は、漂流した船が大洋にさまよっているようなものです。

 思うこと、願うことは誰しも抱くものであり、そしてそれは自由ですが、足もとをみつめた
目的をもつことが大切です。

 正念の在り方は、調和にあります。就職、結婚、育児、仕事、諸事全般にわたって、常に
己を知り、その目的が、神の心である調和、愛の行為に適ったものであるかどうかを、正しく
見ることです。

 適ったものであれば、それに向かって努力することです。

 念を抱くと、たいていの場合、それに応じたものが返ってきます。

 念は、物を引き寄せるエネルギーを持っているからです。

 しかし、不相応な願いや、しっとや、憎しみ、足ることを知らぬ欲望を抱くと、目的が適う
前に反動がやって来ます。

 念はエネルギーであり、そのエネルギーは、必ず自分自身に返ってくるのです。正しい目的
ならばいいが、そうでないと大変なことになります。

 念は魔術師です。

 科学が未発達の時代には、祈りや念によって、敵を倒すということが行われました。事実、
そうしたことが流行したものです。

 念の力で大石を空中に持ち上げ、大木を倒す。風を呼び、雨を降らせるといったような術が
行われていたようですが、こうしたことは本来、邪道です。しかし、人間の中にたくわえられた
エネルギーは、大きな山を動かすことも可能ですし、それは、神が大宇宙を創造されたように、
人間もまたそうしたことが出来るように仕組まれています。

 それほど人間は偉大なのですが、反面、邪の道に念力を使うと地獄に堕ちるしかありません。
私たちは常に、念を正しく使うことが大切であり、そうしたときに、守護・指導霊が力を貸し、より
偉大な、平和な仕事が成就できるようになるのです。


     正定(正しく定すること)
 正定の在り方は、日常生活における正しい想念で生活が行えることを意味します。

 つまり、八正道の神理に適った生活行為なのです。

 それにはまず、八正道の正見、正思、正業、正命、正進、正念について、反省をする
ことから始まります。

 今日一日をふりかえり、八正道の正しさに反した行為がなかったかどうか。あったとしたら、
どこに、なぜ・・・・・というように、静かに反省し、思念と行為について検討することです。
そして、 正道に反したことは、神に詫び、明日からは、二度と再び同じ過失をくりかえさない
よう努力することです。

 こうして、日常生活が神理に適った生活行為が出来るように、毎日の努力をつみ重ねてゆく
ことです。

 正定は、反省から始まり、そうして、神の心である調和の心と自分の心が一体になることです。
しかもそうした神の心を、日常の生活の中に具現出来るようになることです。

 つまり、正定の第一歩は、禅定という反省的瞑想から始まり、やがて、守護・指導霊との対話と
なり、菩薩の心である慈悲と愛の行為が出来るようになることが第一の目的。

 第二の目的は、禅定の心が、そのまま日常生活に生かされてゆくことです。

 禅定は、日常生活をより豊かに、自己の心がより大きく、広く、神理に適った生活が出来るように
なるためのものですから、禅定のための禅定、つまり、反省のための反省では、本当の反省には
ならない、ということです。

 一日中禅定しているわけにはゆきません。私たちは仕事を持ち、家庭を持ち、そして、社会の一員
として生活してゆくのですから、禅定は、一日の一部であり、一日の活動の動力源としなければなり
ません。

 そうした意味から、正定の在り方は、禅定そのものではなく、反省そのものでもなく、一日の生活行為
が八正道に適ったものでなければならないわけです。

 こうして、私たちは、正定を日常生活のものとすることによって、はじめて、如心(にょしん)という
段階に到達します。

 如心とは、己の心がある程度理解できたことであり、それはまた相手の心をも見通せる能力を備えた
状態をいいます。

 普通は、人の心とか、性格というものは長いこと交際してみないとわからないものです。あの男とは
二十年もつき合ってきたが、あんな男とは知らなかった、という話をしばしば耳にします。

 ところが、如心の心を体得すると、未知の相手でも、名前さえわかれば、その人の意識の程度、性格、
生活態度がわかってしまうのです。

 同時にまた、日常生活が安定して送れるようになります。

 こういうように、八正道の功徳というものは、普通では考えられないようなすばらしいものが
あるわけです。


     八正道は行ずること
 一休みです