高度自給自足時代の夜明け 【先進国の未来像】さんのサイトより
http://jfcoach.blog49.fc2.com/blog-entry-264.html
<転載開始>
こんにちは、

最初に、今回からいちいちWikipediaから転載したというお断りを割愛させていただきます。

今回はジョリー・ロジャー(Jolly Roger)について。

直訳すると、愉快なロジャー。

これは海賊船であることを表示する有名なマークです。

どくろ

有力な説の一つにフランス語の「joli rouge(きれいな赤)」という言葉を、エリザベス朝時代に乞食や「学者もどき」、転じて英仏海峡で活動した私掠船を指したスラング「ロジャー」とかけて海賊旗になまらせたのではというものがある。

もう一つの説は、「joli rouge」がテンプル騎士団の船団が用いていた四角と十字架の組み合わせのデザインに由来するというものであるが、この説には信憑性がほとんどない。

海賊の歴史より


歴史的に海賊の存在有無はある国家の統治権の有効性を示す指標として見なすことが可能である。すなわちある国家が覇権を握ったことを内外に示す場合、どれだけ海賊を根絶、取り締まれたかを示すことになる。例えば、パクス・ロマーナは、ローマ帝国海軍が地中海の覇権を掌握したとき成立し、それを維持できない段階で消滅した。日本においても、織田、豊臣、徳川政権は、海賊の取り締まりを重視し、これによって中世から近世への扉が開かれた。ヨーロッパでは、イーリアスやオデュッセイアなど古代伝説にも登場し、アリストテレスの『政治学』には海賊は猟師などと同様に職業の一つとして数えられていた。8世紀には北欧のノルマン人ヴァイキングの活動があった。中世においてはヴェネツィア共和国・ジェノヴァ共和国といった通商国家の商船が自国の商圏を防衛するために武装化して競争相手の船舶を攻撃・略奪することがあった。

中世日本の海賊の話としては、13世紀前半成立の『宇治拾遺物語』に、元海賊の老僧侶(海賊時代は「淡路の六郎追捕使」と称した)の話があり、瀬戸内海での無慈悲な行為が語られている(最終的には改心し出家した回顧話)。

16世紀後半に始まるイギリスとスペインの抗争では、ヨーロッパやカリブ海では交戦相手国の船を略奪してもよいという国王の私掠免許が出され、私掠船が横行した。また東アジアの倭寇や中国海賊、ペルシア湾のアラブ海賊、北アフリカ沿岸のバルバリア海賊など、海あるところには海賊の姿があった。「降伏すれば命は保証、抵抗すれば皆殺し」の印である海賊旗(ジョリー・ロジャー)は18世紀になってから使われだしたものである。

専門の海賊職以外にも、半商半賊とでもいうような、商売にやってきてそれが不調だったら海賊になって街を襲うというような形態、あるいは普段は商人だが、他の海賊に対抗するために武力を持ち、たまにそれを使って海賊をするといったような場合もあった。後者の例は海禁が引かれ私貿易が制限された明後期の16世紀後半に横行し、清に抵抗運動を続けた事で有名な鄭成功の出た鄭一族などが活躍した。

なお、近年の日本国内でも、第二次世界大戦後の連合国軍の占領下で治安が悪化していた混乱期に、イギリス軍とアメリカ軍の占領地域となった瀬戸内海で海賊事件が続発した事がある。例として1948年12月-1949年2月の3ヶ月間だけでも、1948年12月19日に香川県の高見島付近で、12月21日には岡山県の児島市で、1949年1月29日には香川県の粟島付近で、2月1日には岡山県の石島で、2月4日には岡山県の牛窓町付近で、それぞれ船舶が襲われるなど、この時期の瀬戸内海では海賊事件が続発していた。

瀬戸内海同様、米軍占領下の横浜港でも海賊行為が横行していた。横浜では海賊行為は「荷抜き」あるいは「抜荷」と呼ばれた。これは船の荷のほんの一部だけを強奪するという手口に由来している。なぜ船ごと奪わずこうした方法をとったかといえば、横浜での海賊行為は港の検数員を抱き込んでいる場合が多く、積み荷全体の二割までであれば海上保険が適用されたため、大事に至らずに済んだためだと考えられる。横浜港の接収解除が進んだのが昭和30年頃だったせいもあり、「荷抜き」は昭和30年代初頭までつづいた。


このブログの読者の方なら、イギリスが海賊国家であったという事は常識です。

大航海時代、海賊船を含む航海にかかる費用を貴族が投資家として出資していました。

そして略奪品から得られる利益がこの頃の経済を回していいて、保険のロイズが生まれたのもこういった「賭け」に失敗した時の保証を確保する必要性から生まれた物でした。


もちろん、それ以前の時代にも同じように海賊が存在し、貿易、投資というものはありましたが、現代の商社、投資、貿易、船舶、保険といった様々な産業がこの海賊国家から生まれました。

国家が海賊の免許を発行していたのですから。


私掠免許をはじめて発行したのはイングランドであり、起源は海賊を捕える私兵のための拿捕許可状といわれる。私掠免許は戦争に際して何度か発行された。代表的なものとしてはイングランドの女王であるエリザベス1世(1533 - 1603)がキャプテンドレークに発行した免許が挙げられる。

免許状を発行する国家は1792年のフランス憲法制定会議や1865年のパリ条約を経て徐々に減少し、1909年のアメリカ合衆国の発行停止をもって事実上廃止された。

事実上廃止された・・・

シーシェパードはどうなんでしょうか?

思いっきり公認海賊集団では無いですか。

現代の海賊は表向き金品略奪を目的にとせず、最もらしい正義で世論を味方に巧妙に集金する手法になったようです。

スペイン・ポルトガルが世界を支配していた当時、なんとか覇権を奪おうとオランダ・イギリスによる攻撃が激しくなります。


まだ大国では無かったイギリスが、スペイン・ポルトガルに代わって日の沈まぬ国になったのは海賊の活躍のおかげ。

まあ、現代の軍隊もそうじゃないですか?結局は海賊と同様の行為に至るのが人間です。


さて、少々長くなってしまいますが、下記のWikipedia記事を読めば、ほとんど私の説明等必要ないと思います。


「海賊の黄金時代」は後世になってから使われるようになった言葉で、初出は1894年である。広義には1650年から1730年までをいい、3つの時代に分けられる。

1. バッカニーア時代(1650年 - 1680年頃) - イギリス人やフランス人の船乗りがジャマイカ島やトルトゥーガ島を拠点に、カリブ海や東太平洋を周航しスペイン植民地を攻撃した時代。
2. 海賊周航時代(Pirate Round, 1690年代) - バミューダ諸島や南北アメリカ大陸から長距離航路に乗り出し、インド洋と紅海のムスリム商船や東インド会社の船を襲った時代。
3. スペイン継承戦争以降の時代(1716年 - 1726年) - スペイン継承戦争が終結して職を失ったイギリス人、アメリカ人の水夫や私掠船員が海賊に転じ、カリブ海、アメリカ大陸東岸部、アフリカ西岸を襲撃した時代。

狭義では3番目の時代のみを指し、1番目と2番目はしばしば除外される。現代人の海賊のイメージの多くは、あまり正確でない場合もあるが、これら海賊の黄金時代に由来するものである。

この時代に海賊行為が発生した要因としては、各海域からヨーロッパへ輸送された高価な貨物の量が増加したこと、ヨーロッパ諸国の海軍が特定の海域で減少したこと、船乗りたちが海軍(特に英国海軍)で訓練を受けて経験を積んだこと、海外植民地の統治体制が非効率だったことなどが挙げられる。この時代、植民地の軍隊は海賊と絶えず交戦しており、いくつもの著名な戦闘や関連する事件に巻き込まれた。

歴史

海賊行為はイギリス、スペイン、オランダ、ポルトガル、フランスといった、当時のヨーロッパ列強による交易や植民地を巡る衝突の結果、その縮小版として主に生じたものである。海賊のほとんどはイギリス、オランダ、フランスに起源を持つ人物だった。


数名の歴史家は海賊の黄金時代を1650年頃に始まるとしている。その頃、宗教戦争が終結したことでヨーロッパ諸国は各々の植民地開発を再開し、それによって海上交易が盛んになった。そして新大陸の植民地から大量の富が生み出され(言い換えれば収奪され)、その多くが船で運搬された。

バッカニーア(buccaneer)はカリブ海を中心にスペインの植民地および商船に攻撃を加えた無法者集団で、「バッカニーア」という言葉は、狩った獲物の干し肉を作るのに彼らが用いた道具「ブカン」に由来するという。本人達は「沿岸の義兄弟」を称していた。早くも1625年に、フランス人のバッカニーア達が当時ほぼ無人だったイスパニョーラ島北部(現在のハイチ)に根城を築いたが、当初彼らは盗賊というより猟師として生活していた。彼らが徐々に職業海賊に転身していったのは、バッカニーアと彼らの獲物である野生化した牛や豚を根絶しようと、スペイン人がイスパニョーラ島に攻撃を仕掛けたからだった。バッカニーア達はイスパニョーラ本島からもっと守りやすい沖合のトルトゥーガ島へ移住したが、そこは資源が不足していた。生きるため、そして恨みを晴らすためにバッカニーアはスペイン人に対し略奪に乗り出したのである。アレクサンドル・エスケメラン(バッカニーアであると同時に歴史家で、彼の記録はこの時代の海賊の貴重な史料となっている)によると、スペインへ帰る途上のガレオン船を初めて攻撃したのはピエール・ル・グランだという。トルトゥーガ島には一種の海賊共和国が築かれ、独自のルールで海賊たちは島を統治した。トルトゥーガ島の評判が広がると、フランス人のみならずカリブ海から様々な国籍、人種のならず者どもが集まるようになった。スペイン軍はたびたび大艦隊を派遣してバッカニーアを追い散らしたが、艦隊が帰ると彼らはすぐに島に戻ってしまった。

1655年にイギリスがジャマイカ島を占領すると、トルトゥーガ島を拠点とする海賊行為はさらに増加した。初期のジャマイカ総督達はトルトゥーガ島のバッカニーアやイギリス人に進んで私掠免許を発行した。また、ジャマイカ島の当時の首都ポートロイヤルは戦利品を売り払うのに非常に都合が良かった。ポートロイヤルには酒場や娼館などが立ちならび、海賊たちは稼いだ金の大半をそこで浪費した。1660年代には、新たなトルトゥーガ島総督ベルトラン・ドジェロンが同様の委任状をフランス人植民者やポートロイヤルのイギリス人の殺人犯に与えた。これらの条件によってカリブ海における海賊行為はピークを迎えたのである。この時代に活躍した海賊には、1666年にマラカイボを襲撃したフランソワ・ロロネー、一介のバッカニーアからジャマイカ副総督に上り詰めたヘンリー・モーガンなどがいる。



1690年代が始まると同時に、バッカニーア時代の終わりに苦杯を舐めたイギリス人やアメリカ人の海賊の多くが財宝を求めてカリブ海の外に目を向け始めた。バッカニーアの没落には多くの理由があった。イギリスでスチュアート朝が崩壊したことで昔ながらの英仏の対立が再燃し、英領ジャマイカと仏領トルトゥーガの共同関係が崩れたこと、1692年の地震でポートロイヤルが壊滅し、略奪品を捌く市場が失われたこと、カリブ海植民地の総督たちがそれまでの「(トルデシリャス条約で引かれた)本経線を越えて平和なし(No peace beyond the Line)」という政策を放棄しはじめたこと(この政策がとられているうちは、ヨーロッパで平和条約が締結されていても新大陸では戦争が続いていると考えられていた。そのため私掠免許状が発行されていたのだが、これ以降は免許状の発行はヨーロッパでの戦争中に限られるようになり、締め付けは徐々に強まっていった)などがあげられる。これらの理由に加えて、単純にスペイン領の主要植民地が消耗しきってしまっていたことも大きかった。1667年から1678年にかけて、マラカイボだけで3回、リオデラアチャは5回、トル(現コロンビア)にいたっては8回も略奪を受けていたのである。

同時に、イギリス本国は数度にわたり航海法を公布したため、イギリスの植民地(バーミューダ、ニューヨーク、ロードアイランドなど)は金欠状態に陥っていた。財貨に飢えた商人や総督は、海賊を見過ごすばかりでなく、彼らの航海に保険を与えたりした。とある植民地の役人は「領内に金をもたらす人々の縄に首を掛けるのは残酷な所業である」として海賊を保護したほどである。これらの海賊のなかには1690年代以降も北米のニューイングランドや中部植民地(ニューヨーク、ニュージャージー、ペンシルヴェニア、デラウェアの四州)から出発して、遠く離れたスペインの太平洋の植民地を標的にする者もいたが、彼らの多くはインド洋に獲物を求めた。この時代、インドの生産力はヨーロッパのそれを大きく上回っており、とくに絹やキャラコなどは高価で取引されたため、それらが海賊の理想の略奪品になった。加えてインド洋には目立った海軍勢力が存在せず、ムガル帝国の船舶や各国の東インド会社の商船は襲撃に弱かった。また、アフリカ東岸のマダガスカル島は前の時代におけるトルトゥーガ島に相当する役割を果たした。これらを背景に、トマス・テュー、ヘンリー・エイヴリー、ロバート・カリフォード、そしてウィリアム・キッドなどの有名な海賊が活躍した。しかし、1697年にフランス軍・バッカニーア連合軍がカルタヘナを占領したの最後に、バッカニーア時代から続いた海賊の活動も徐々に下火になっていった。


スペイン継承戦争(新世界ではアン女王戦争)は1713年から1714年にかけて平和条約が締結されて終結した。これにともない、イギリスの非正規戦闘員だった私掠船員は軍務を解かれた。その結果、本国・植民地間の交易がふたたび活発になりはじめた大西洋上に、数千の仕事を失った訓練済みの水兵が放り出されたのである。さらに、本国で職を失い、船乗りや兵士になって奴隷取引に手を出していたヨーロッパ諸国のならず者たちもしばしば喜んで海賊に転じた。彼らは西アフリカの海域や沿岸で活動する海賊船長に長年にわたって新しい人員を供給した。

1715年、フロリダ付近で沈没船から銀を回収しようとしていたスペイン人潜水員が海賊によって大規模な襲撃を受けた。この略奪に参加した海賊のうち、一番数が多かったのは元私掠船乗組員のイギリス人の一団で、彼らの全員が後に悪名を馳せることになる。ヘンリー・ジェニングズ(英語版)、チャールズ・ヴェイン、サミュエル・ベラミー(英語版)、エドワード・イングランド(英語版)である。攻撃は成功したが、ジェニングズ一味の期待に反してジャマイカ総督は彼らの上陸を拒否した。一味はそのときキングストン(現在のジャマイカの首都)や当時没落しつつあったポートロイヤルの近くにいたが、代わりに戦時中に放棄されていたニュープロビデンス島のナッソー(現在のバハマの首都)に新しい海賊の基地を建設することにした。3年後に元私掠船長ウッズ・ロジャーズが総督として到着するまで、ナッソーは多くのなりたての海賊の拠点になった。

この時代に海賊の狙い目となったのは、アフリカ、カリブ海、そしてヨーロッパ間で急増した海運取引、いわゆる三角貿易に従事する商船である。三角貿易では、まずヨーロッパからアフリカ沿岸へ航行し、工業品や武器を奴隷と交換する。次に奴隷を売りにカリブ海へ向かい、砂糖やタバコやカカオを積んでヨーロッパへ帰っていくのである。もうひとつの三角貿易(砂糖貿易)では、まずニューイングランドの農産物や保存食のタラをカリブ海に運び、砂糖や糖蜜と交換する。それらをイギリスへ運び、工業製品やラム酒と交換し、ニューイングランドへ向かう。どちらの三角貿易も一つの地点を通過するたびに利鞘が発生した[12][13]。

戦争の結果、イギリスはアシエント(スペイン植民地での奴隷供給権)を獲得した。これにより、それまで閉じられていた新大陸のスペイン市場にイギリスの商船や密輸船が介入していった[14]。また、この協約は西大西洋の海賊行為の拡大にも大きく貢献した。戦争後に仕事を失った海兵が溢れたことも、植民地の取引の急速な拡大を促した。船主は労働力の供給過剰を盾に船乗りの賃金を切り詰め、可能な限り節約して利益を最大化しようとした。これにより船上は劣悪な環境に陥り、乗組員は運ばれる奴隷と同じかそれ以上に非人道的な待遇を受けたという。あまりに過酷な環境だったため、多くの船乗りが自由な海賊稼業に手を染めるようになっていった。

衰退

18世紀はじめまでには、すべての国家が私掠船を容認しなくなっていた。1713年にユトレヒト条約が締結され、仕事のない水兵が増加したことは海賊にとって幸運をもたらしたが同時に不運ももたらした。海賊が劇的に増加し多くの船が略奪を受けるようになったが、これに脅威を感じたヨーロッパ諸国は商船を保護するため海軍を強化し、最終的に海賊を撃退するまでになった。熟練の水兵が増えたことは、海賊だけでなく海軍にも多くの人材を提供することになったのである。

1718年の黒髭エドワード・ティーチの死は海賊の歴史の転換点になった。安全な拠点を失い、同時に増大する海軍の圧力を受け、海賊達はその勢いを失っていった。商船が運ぶ財宝の持つ魅力も次第に薄れていき、獲物を狩る狩人は徐々に狩られる立場に変わった。1719年のはじめまでに生き残った海賊もカリブ海から逃げ出した。その多くは西アフリカを目指し、守りの手薄な奴隷商人を襲った[15]。スペイン継承戦争以後に発生した(狭義の)「海賊の黄金時代」は、結局10年も続かなかったのである。


海賊の黄金時代には現在でもよく知られている多くの海賊が活躍した。17世紀のバッカニーアについてはアレクサンドル・エスケメランの『アメリカのバッカニーア』に、17世紀末から18世紀の海賊についてはチャールズ・ジョンソンの『悪名高き海賊たちの強奪と殺人の歴史』に各人の伝記が詳細に記されている。

* ヘンリー・モーガン - パナマ市を陥れた偉大なバッカニーア。イギリス本国で処刑されるはずだったが逆に騎士叙任を受けてジャマイカ副総督に就任した。元海賊船長としては珍しく、1688年に自然死した。

* ヘンリー・エイヴリー(英語版) - 捕まったり戦死したりすることなく、財宝を手に引退できた数少ない著名な海賊船長の一人。財宝を満載したムガル皇帝アウラングゼーブの持ち船ガンズウェイ号を拿捕したことでも有名。

* ウィリアム・キッド - 通称"キャプテン・キッド"。1701年、海賊行為の罪でロンドンの海賊処刑場(英語版)で処刑された。ただし、彼の罪状については今でも議論されている。彼が隠したとされる「キャプテンキッドの財宝」で有名。

* サミュエル・ベラミー(英語版) - 通称"ブラック・サム"ベラミー。海賊船「ウィダーガリー」号船長。1717年の嵐で消息を絶った。

* スティード・ボネット(英語版) - バルバドスの裕福な土地所有者だったが、冒険心から海賊に転向した。1717年に砲10門を備えたスループ船「リヴェンジ」号の船長になり、ヴァージニア沿岸を荒らし回った。1718年に捕まり絞首刑に処された。

* "黒髭"エドワード・ティーチ - 1716年から1718年にかけて鉄の爪でいくつもの海を支配した、おそらく史上もっとも有名な海賊。彼の一番有名な乗艦はアン女王戦争にちなんで名付けられた「クイーン・アンズ・リヴェンジ」号である。1718年にロバート・メイナード大尉の部下の一人によって殺された。

* ジョン・ラカム - 通称"キャラコ・ジャック"。1720年に捕まり、絞首刑に処されポートロイヤルに死体を晒された。

* アン・ボニーとメアリ・リード - ジョン・ラカムの海賊船に男性と偽って乗船していた二人の有名な女海賊。

* バーソロミュー・ロバーツ - 通称"ブラック・バート"。20隻もの海賊艦隊を率い、1719年から3年間で400隻の船を拿捕した、歴史上最も成功したと言われる海賊。1722年、アフリカ沿岸で殺された。

* エドワード・ロー(英語版) - 1721年から1724年に活動した。捕虜を殺す前に拷問を行ったことで有名。

* ウィリアム・フライ(英語版) - 1726年に処刑された。歴史家マーカス・レディカーによると、彼の処刑が海賊の黄金時代の終焉となった。


ちなみに上の著名な海賊は、すべてイギリス人です。

なんといっても、サー・フランシス・ドレークですね。


海賊=犯罪者なのにサーの称号付いちゃってます・・・


サー・フランシス・ドレーク(Sir Francis Drake, 1543年頃 - 1596年1月28日)は、エリザベス朝のイングランドの航海者、海賊(私掠船船長)、海軍提督。イングランド人として初めて世界一周を達成し、アルマダの海戦では艦隊の司令官としてスペインの無敵艦隊を撃破した。

ドレークはその功績から、イングランド人には英雄とみなされる一方、海賊行為で苦しめられていたスペイン人からは、悪魔の化身であるドラゴンを指す「ドラコ」の呼び名で知られた(ラテン語名フランキスクス・ドラコ (Franciscus Draco) から)。


ユニオンジャック

ユニオンジャック

これはイングランド、スコットランド、アイルランドの当時の旗を組み合わせた物ですが、どれもこれも単なる十字軍にみられる、キリスト教を掲げての世界侵略の印でしかない訳です。

こうして、グレートブリテンは世界の4分の一を自国の領土とし、英語を世界中に普及させています。

社内公用語を英語に使用という動きも、アングロサクソンによるグローバリズムの流れなのです。

パクス・アメリカーナの時代と言われていますが、いまだに大英帝国は世界の基準になっています。

十字軍、イエズス会、東インド会社、現代の戦争における各国の軍隊の一部が海賊であったことを知っても、もう驚きません(笑)。

人間とはこのように略奪を繰り返してきたわけで、現在もそれが起きているという事は、少しも不思議では無いからです。

最初は刺激が有ったのですが、いまではそれが常識となり、不感症になってしまったようです。

この海賊根性(笑)はそもそもどこから来たかというと、紀元前まで遡るハメになるので、軽く書きます。


スカンジナビア半島南部を中心にBC2500年頃からヤぺテ系の海洋族がいました。

イギリスは、この民族の影響を古代から受けて いたでしょう。

イギリスはアイリッシュ、ウェールズ、ブリトンが、ケルト系とゲルマン系でせめぎ合うように乗っ取られました。

後のバイキング等もこの一部です。

ストーンヘンジのような巨石文明を残したグループです。

彼らが南部で基地にしていたのがサルディーニャ島です。

大陸内のエジプト、バビロニア、カナン、アッシリア等の都市国家の狭間に居住した人間達が、BC1500年頃この海洋族に合流しフェニキア人を形成したようです。


この海洋族は巨石文明の『ドルイド教』が鍵です。

キリスト教をはじめとする宗教を大前提に好き勝手にやる。

この手法のルーツです。

神様の振りをした奴らが、途中から処女の生贄が必要だとか、自己の欲に任せて、こじつけ始めた。


そして権威、地位の為、自分に逆らう者を罪人と定め、罰を与える為、裏工作部隊を組織するようになった。

それがMI6。

日本のヤタガラスも同様です。

これらの原型がドルイドにあるようです。

起源を一般には、エジプト魔術からとしていますが、スカンジナビア南部、ケルト(ガリア)地域にはBC5000年頃の巨石文明時にその痕跡が発見されます。

この流れは日本も同じ事。

縄文人という言葉は教科書にしか出てきませんが、縄文時代の支配者血族も未だ続いていて、後継順位3位の宮家です。

ここは緑カラスですよ。

彼らの古代における都は仙台。

青森の十港を交易の中心地にして、黒曜石(矢じりの材料)を全国に送っていました。

原産地は中国側ですから、当時からそうした海洋ネットワークがあった訳です。

F1種の農業支配、農協等はここの利権です。

追記:この、皇位継承順位3位のお方の奥様の写真をWikipediaでご覧ください。

写真を見れば、本当だ!!と思うはずです。


ここまで書いても、宗教の本質が理解されないことは、今までの経験で分かっていますので、そのようなコメントはしないでくださいね。

それでは

<転載終了>