HNなしさんより
http://blog.livedoor.jp/genkimaru1/archives/1878027.html#comments
<転載開始>
  • ウイルスについて、セスは語る
    http://www.sethnetworkjapan.org/q-albums/virus1
    http://www.sethnetworkjapan.org/q-albums/virus2
    http://www.sethnetworkjapan.org/q-albums/thoughts-and-health


  • <リンク先より>リンク以外にも載せました。他にもいろいろあります。

    ウイルス

    個人、そして群衆現象の本質
    セッション 840

    マサ 訳

     (勢いのある声で)ウイルスがいなかったら、君達は生きることもできないし、君達の知っている、君達自身の生物学的な現状も存在し得ない。

     (休止)ウイルス達は「悪者」であるように見えるし、君達は決まって、例えば「天然痘ウイルス」というように分けて考える。しかし、(実際は)至る所でウイルス達が関与して生物学的に微妙なバランスが保たれているのだ。誰の身体にも無数のウイルスがいて、特定の条件下では、いつでも、その人間を死に至らしめる可能性を孕(はら)んでいる。極めて単純化して言えば、この両者(身体のためになる状態と身体を害する状態)が、身体の総合的な条件に従ってオンになったりオフになったり切り替わるのだ。ある期間には「致命的」であっても、別の期間には、そうではない。その(安全な)期間では、至って有益な形で生物学的に反応し、例えば、細胞の活動 ── それが一定量であれば身体にとって有益な活動 ── を起こすのに必要な変化をもたらし、身体をより安定させてくれる。すると、その変化がまた、細胞レベルで他の、同様に有益な変化を引き起こすのだ。

     他の分野での例を挙げるなら「毒」がある。ベラドンナ(毒草の一種)は、すこぶる「致命的」になり得るが、少量であれば、病気になった身体を助けてくれることが昔から知られている。

     (9 時 38 分)少し待ってくれ…。身体の中にいるウイルス達の生態には社会的、協同的な側面がある。彼等に致命的な効果が生じるのは、特定の条件下に置かれた場合でしかない。ウイルス達を破壊的な活動へと導くための引き金が引かれなくてはならないのだ。そして、その引き金は特定のポイントでしか引かれることはない。それは、該当する人間が、死か、または生物学的に危機的な状況を自ら求めている場合だ。

     こうしたケースにおいて、一番の発端となる「感染」は常に感情や心のレベルで始まり、通常、社会的な条件が関係している。例えば、ある(感染することになる)一個人が貧しい社会環境の中でも底辺にいて、その環境の犠牲者であるかのように見えたり、または、社会の一員としての価値がひどく軽んじられていたりするわけだ。

     さて、こうした社会の一員が道を誤り、自暴自棄に陥って社会から脱落し、反社会的な行動を取るようになることがあるのと同じ理屈で、誰かがそうした行動の代わりにウイルスの引き金を引くこともあり得る。その人間がウイルス達の生物学的、社会的な秩序を破壊することで、ウイルス達の一部が突然、致死的な性格を帯びたり、暴走したりするのだ。その結果として引き起こされるのは当然、感染性の病気になる。その限りでは、それは社会的な疾患だ。それはウイルスが突然、破壊的なものに変身するというよりは ── まあ、実際、変身するわけだが ── 全てのウイルス達が関わっている協同的な枠組み全体が不安定になり、脅(おびや)かされることからくるのだ。(次のページへ続く)

     私はウイルス達が突然変異を起こすと(プライベートのセッション 836 で)言った。そうした突然変異はよくあることだ。こういう危険な疾病に対する接種(予防接種の妥当性)を信じるのは誠にもって科学的であるように見える。そして確かに、接種は科学的に、その役目を果たしているように見える。例えば、今現在、君達の時代には天然痘で悩む人々はいない。(だが、その一方で)病気は悪霊の仕業だと信じる文化もあった。祈祷師が特定の儀式を行うことで身体に取り付いた悪霊を追い払おうとするわけだが、それはそれで役目を果たしていたのだ。その観念体系は堅固であり、人々もそれを受け入れていたからこそ、そうした社会が「文明的な物の見方」に遭遇するまで、その枠組みが揺らぐことはなかった。

     しかし、君達がここで、その悪霊を「否定的な観念」と呼んだとしたら、大きく前進したことになる。病で命を落とす人は後を絶たない。接種を含めて、君達の科学的な方法の多くは、それ自体が新しい疾病を「引き起こす」のだ。ある患者が自らの否定的な観念の生み出した結果として(最終的には)癌で死亡するのであれば、その患者に天然痘や小児麻痺の接種をしたところで何の役にも立たない。

     (9 時 55 分)少し待ってくれ…。私がウイルスについて言ったことは生物学的に全ての生物に当てはまる。ウイルス達は「かなり賢い」── これは、彼等が刺激に対して素早く反応するという意味でだ。彼等は感情の状態に感応する。彼等は群れとして活動する。彼等の寿命には途轍(とてつ)もない幅がある。何世紀にも亘(わた)ってじっとしていた後に蘇(よみがえ)るものもあるのだ。彼等には広大な記憶のパターンがいくつもある。それらは生物学的に刻み込まれるのだ。秒単位の時間で数万倍にまで増殖できるものもある。彼等は多くの意味で生物学的な生命の基盤なのだが、君達は彼等が「殺し屋」としての顔を覗(のぞ)かせた時しか気づかないのだ。

     君達は自分の身体の中にいるウイルスの大群が、その身体を始終、守ってくれていることに気づいていない。宿主(人間)とウイルスは互いに相手を必要とし、ライフサイクル(生活環)の一部を共有しているのだ。



    想念と健康

    健康への道
    セッション 1984/01/28

    マサ 訳

     さて、君達に新たな、よい午後を。
     (「こんにちは、セス」)
     口述だ。(休止)君達の多くにとっては、溢れるほどの生命力、健康、活気に関する、これまでの話は、どれもこれも本題から外(はず)れているように思われるかもしれない。(長い休止)世界は、そういったことではなく、不幸や病(やまい)に満ちているように見えることもあるだろう。確かに、それが実状であるように見えることは私も認めよう。

     読者の君達には(ここで)私が、基本的に病気などというものはないと言ったら、かなりのショックでもあるだろう。しかし(実際に)存在するのは、病気ではなくプロセス(生理的な過程)だけだ。君達が「病気」と考えているものは ──

     (午後 3 時 56 分。ドアをノックする音がして、人(おそらく看護師)が病室に飛び込んできたかと思うと、白い敷物(シーツの下に敷くシート?)を一山(ひとやま)テーブルの上に置き、そのまま、走り出ていった)

     ── 完全に正常な身体的プロセス(免疫反応など)が過敏、あるいは過剰に現れたものだ。例えば、君達はウイルスに「襲われる」わけではない。ありとあらゆる種類のウイルスが普段から身体の中に存在するのだ。また、致命的なウイルスなどというものもない。(状況によって)通常の「ボーダーライン」を超えるウイルスがあるというだけのことだ。これについては本書の後の方でもっと詳しく話すことにしよう。特定の感情や観念は実際に健康を促進するが、その一方で、別の感情や観念が、具合の悪いことに、全く正常な身体的プロセスを過敏、過剰にしたり、ウイルスの活動を促進したりする。その仕組みを君達に紹介できたらと思う。

     これは、もちろん、君達が病気の「犠牲」になったり、ウイルスに罹(かか)ったりするわけではないことを意味している。どんな理由にせよ、君達自身の感情、想念、観念が自ら病気になるように事を運ぶのだ。ピリオド。

     多くの読者にとって、こういった考え方は、まず、医学的には「異端」である感じがすると思う。しかし、健康と“病気”をこうした新しい目で見るようになるのが早ければ早いほど、君達はそれだけ健康かつ幸福になるだろう。(長い休止)健康を損なう引き金を引くのは君達の想念と感情なのだから、君達は君達、病気は病気というわけではないのだ。この点がつかめたら、君達は、怖れ、不信、“病気”などではなく、溢れる生命力と活気を促進するための行動を起こせるようになる。

     (午後 4 時 7 分)(そして)君達は、いわゆる“病気”が特定の働きをすることに気づくだろう。病気の果たす役割は他の方法では決して達成できないと(まで)思うかもしれない。また、こうした病気の理由(複数)は潜在意識に深く埋(うず)もれているとも思うかもしれないが(実際は)ずっと顕在意識に近いところにある。(そうした理由は)通常、何年もの間に自分が決めてきた(選んできた)、一見、無害な事柄が重なってできているものだ(たとえば生活習慣病などの場合)。もちろん、それ以外にも、生活の中で起きた特定の出来事に対する反応として、急に決めた事柄が引き起こす病気もあるだろう。

     (長い休止)みんな、こんな風に教わってきた:身体とは「戦場」のようなものであり、病魔がふいに襲ってくるかもしれない。だから、得体の知れない黴菌(ばいきん)やウイルスに攻撃されたり病気に蝕(むしば)まれたりすることのないよう、片時も気を抜かずに用心しなくてはいけないのだと。

     間もなく、健康を害する他のネガティブな観念についての話に入るつもりだが、ここでは、こうした(人間に)生まれつきのポジティブな姿勢、気持ち、観念に焦点を合わせておこう。それらは、我々が元気で力強く、充足している、その感覚を絶えず増進してくれるのだ。


    意識と形態

    セス、夢、そして意識の投射
    (第 19 章「夢の状態からの幽体離脱体験」より)

    マサ 訳

    (最初の段落のみ、ロバーツの解説)

     わたしが心霊(ESP)クラスを開くようになると、クラスの中には独自に実験を始める生徒達も出てきました。その記録の中からいくつかの例をご紹介する前に、そのころ、セスが投射(プロジェクション。幽体/体外離脱)について語った資料をご覧ください。離脱時の解説や役に立つ知識、離脱した時に自分がいることになるかもしれない、さまざまな現実界の描写などが語られています。


    “夢の中の身体”

    (セッション 261 1966/05/23)

     幽体離脱の体験では、もちろん、実際のところ、君達には通常、身体らしき形があるだろう。それは必要不可欠なカムフラージュだ。というのも、君達はまだ、何らかの身体なしには自分を自分と捉えることができないからだ。それ故、そうした姿で投射することになるわけだが、それは君達の能力によって違ってくる。また、その姿がなければ、君達は実際、途方に暮れてしまうことだろう。その形態自体は重要ではないのだが、君達の体験している次元に関することを君達に伝えられるのだ。

     夢の中の身体は(いくつもの種類がある中で)君達が一番、馴染んでいるもので、「幽体」astral body、星状体、星気体とも)と呼ばれてきた。幽体をまとっていると、自分に肉体があるような感じがするが、「普通」ではできないようなこともできる。例えば、宙に浮かぶといったようなことだ。もっとも、一般には、この幽体で壁を通り抜けたりすることはない。君達が通常の夢で使うのは、この身体だ。宙に浮くことはできるものの、基本的に限られた範囲での話だ。

     (これとは)違う次元に入ると身体形態の能力は変わる。実質的に別の形態だ。ここでは、これを「精神形態mind form」と呼ぼう。外見上はまだ肉体と似たような姿をしているが、物質を通り抜けることができる。宙に浮くこともずっと自由にできるようになるし、太陽系を旅することもできるのだが、それ以上は進めない。

     最初に挙げた形態(幽体)では、一定枠の中で過去、現在、未来を知覚できるが、次の形態では、その知覚能力が増し、意識の範囲が拡張される。君達が他の者達と夢の中で待ち合わせする場合に使うことになるのが、この2番目の形態だ。

     3番目は「真投射形態true projection form」とでも呼ぶのがいいだろう。その形態では君達の太陽系を超えて旅行できるし、君達自身のだけではなく、他の系(システム)の過去、現在、未来を知覚することもできる。しかし、君達の利用する、この様々な形態によって君達の経験が左右されることはない。ある形態で始めて別の形態へと変わったり、最初のから3番目のへと移行したりして構わないわけだ。そういった場合、(戻る際には)逆方向に(逆の順序で)通り抜けなくてはならない。こうした形態は単に意識の段階を示しているに過ぎない。

    想念と健康

    健康への道
    セッション 1984/01/28

    マサ 訳

     さて、君達に新たな、よい午後を。
     (「こんにちは、セス」)
     口述だ。(休止)君達の多くにとっては、溢れるほどの生命力、健康、活気に関する、これまでの話は、どれもこれも本題から外(はず)れているように思われるかもしれない。(長い休止)世界は、そういったことではなく、不幸や病(やまい)に満ちているように見えることもあるだろう。確かに、それが実状であるように見えることは私も認めよう。

     読者の君達には(ここで)私が、基本的に病気などというものはないと言ったら、かなりのショックでもあるだろう。しかし(実際に)存在するのは、病気ではなくプロセス(生理的な過程)だけだ。君達が「病気」と考えているものは ──

     (午後 3 時 56 分。ドアをノックする音がして、人(おそらく看護師)が病室に飛び込んできたかと思うと、白い敷物(シーツの下に敷くシート?)を一山(ひとやま)テーブルの上に置き、そのまま、走り出ていった)

     ── 完全に正常な身体的プロセス(免疫反応など)が過敏、あるいは過剰に現れたものだ。例えば、君達はウイルスに「襲われる」わけではない。ありとあらゆる種類のウイルスが普段から身体の中に存在するのだ。また、致命的なウイルスなどというものもない。(状況によって)通常の「ボーダーライン」を超えるウイルスがあるというだけのことだ。これについては本書の後の方でもっと詳しく話すことにしよう。特定の感情や観念は実際に健康を促進するが、その一方で、別の感情や観念が、具合の悪いことに、全く正常な身体的プロセスを過敏、過剰にしたり、ウイルスの活動を促進したりする。その仕組みを君達に紹介できたらと思う。

     これは、もちろん、君達が病気の「犠牲」になったり、ウイルスに罹(かか)ったりするわけではないことを意味している。どんな理由にせよ、君達自身の感情、想念、観念が自ら病気になるように事を運ぶのだ。ピリオド。

     多くの読者にとって、こういった考え方は、まず、医学的には「異端」である感じがすると思う。しかし、健康と“病気”をこうした新しい目で見るようになるのが早ければ早いほど、君達はそれだけ健康かつ幸福になるだろう。(長い休止)健康を損なう引き金を引くのは君達の想念と感情なのだから、君達は君達、病気は病気というわけではないのだ。この点がつかめたら、君達は、怖れ、不信、“病気”などではなく、溢れる生命力と活気を促進するための行動を起こせるようになる。

     (午後 4 時 7 分)(そして)君達は、いわゆる“病気”が特定の働きをすることに気づくだろう。病気の果たす役割は他の方法では決して達成できないと(まで)思うかもしれない。また、こうした病気の理由(複数)は潜在意識に深く埋(うず)もれているとも思うかもしれないが(実際は)ずっと顕在意識に近いところにある。(そうした理由は)通常、何年もの間に自分が決めてきた(選んできた)、一見、無害な事柄が重なってできているものだ(たとえば生活習慣病などの場合)。もちろん、それ以外にも、生活の中で起きた特定の出来事に対する反応として、急に決めた事柄が引き起こす病気もあるだろう。

     (長い休止)みんな、こんな風に教わってきた:身体とは「戦場」のようなものであり、病魔がふいに襲ってくるかもしれない。だから、得体の知れない黴菌(ばいきん)やウイルスに攻撃されたり病気に蝕(むしば)まれたりすることのないよう、片時も気を抜かずに用心しなくてはいけないのだと。

     間もなく、健康を害する他のネガティブな観念についての話に入るつもりだが、ここでは、こうした(人間に)生まれつきのポジティブな姿勢、気持ち、観念に焦点を合わせておこう。それらは、我々が元気で力強く、充足している、その感覚を絶えず増進してくれるのだ。



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