セス・ネットワーク・ジャパンさんのサイトより
http://www.sethnetworkjapan.org/q-albums/flu-season1
<転載開始>

インフルエンザの季節

個人、そして群衆現象の本質
セッション 814 1977/10/08

マサ 訳

 …ルバートは何冊か(並行して)本を書いているが、2、3日前、そのうちの一つに取り組んでいた時、(ラジオで)公共機関からの広報(お知らせ)を聞いた。ラジオの聴取者全てに向けて当局担当者が発表したところによると、公にインフルエンザのシーズンが始まったという。高齢者、そして特定の疾患に罹(かか)っている人々は今すぐインフルエンザの予防接種の予約をするように、と彼(担当者)は厳しい口調で勧めた。

 ところで、その担当者によれば、過去においてインフルエンザ・ワクチンの接種を受けた人々の中にはかなり奇妙な疾患に罹る人々がいたが、その接種と疾患の繋(つな)がりを示す直接の証拠はないとのことだった。全体としてとても興味深い広報で、生物学、宗教、経済にまで跨(またが)った意味合いが含まれていた。「インフルエンザのシーズン」はある意味、心理的に仕立て上げられたパターンの一例であり、それが時折、(人工的に)作られた(病気などの)蔓延(まんえん)を引き起こす。

 こうした告知の背後には医療従事者の権威があり、君達のコミュニケーション・システム自体の権威がある。(だから)君達はラジオから聞こえてくるその声を疑うことができない。話し手の姿は見えず、その話し手は何でも知っていることになってしまうのだ。

 繰り返しになるが、高齢者が(インフルエンザにかかりやすい者の例として)選び出されていた。彼らが病気に罹りやすいのは明らかだということらしい。その罹りやすさは人生における医学的な事実だというわけだ。しかし、その「事実」には人間の生物的な実体の真実に関する基本的な土台がない。それは示唆によって生じた事実なのだ。医師達は身体的な結果を見る。結果は極めて明確だ。そうなると、その結果が「証拠」とみなされてしまうのだ。

 世界でも、少数の孤立した地域では、今日でさえ、老人だからといって病気に悩まされるわけでもなく、生命の徴候が弱まるわけでもない。彼等は死ぬ時まですこぶる健康であり続けるのだ。

 という訳で、君達も認めざるを得ないことだが、彼等の観念体系は至って実用的だ。また、彼等は医療に携わる人々に囲まれて暮らしているわけでもない。本書では後に、再び、このテーマに戻ってくるつもりだ。ただ、ここで話していることは殆ど「病気になるための社会的なプログラム」とでも言えるだろう。「インフルエンザのシーズン」というプログラムだ。それは群衆的な瞑想(自己暗示)であり、その背後には経済的な構造がある。また、科学的および医学的な土台が関与している。しかし、それだけではない。経済的な利害関係、それは最大クラスの薬局(チェーン)から、吹けば飛ぶようなドラッグストアまで、スーパーも近所の食料雑貨店も、そうした全ての要素が拘(かかわ)っているのだ。(次のページへ続く)

 (風邪や)インフルエンザに立ち向かうための錠剤、飲み薬、注射薬は目立つ場所に陳列される(注射薬も?)。それは、苦難の時期がやってくるのだと、(前述の)広報を聞き逃した人々にも気づかせる役目を果たす。(そこへ)テレビのコマーシャルが新たな集中砲火を浴びせる。だから(愉快そうに)花粉症の季節からインフルエンザの季節まで途切れることなく自分の薬を摂り続けていけるわけだ(痛烈な皮肉)

 6 月なら咳(せき)をしても笑ってすぐに忘れてしまうかもしれない。しかし、それがインフルエンザの季節になると咳一つでも遙(はる)かに疑わしくなる。そして、そういった状況の下で、今週はどうも調子がさえないなどという場合などはとりわけ、こんな風に考えることもあるだろう:「明日は外出しないでうちにいた方がいいんじゃないかな?」

 こうなるともうすっかりインフルエンザにかかると決まっているようなものだ。これは何種類もの問題に向かい合わないための言い訳として重宝することになる。多くの人々は自分のしていること(自分からインフルエンザにかかろうとしていること)を殆ど意識的に自覚している。彼等はただ、社会からそれだけ湯水のごとく与えられている暗示群に目を向けさえすればいいのだ。すると、体温は実際に上がってくる。心配すると喉(のど)が乾いてくる。そして、潜伏している ―― たった今まで何の害もなかった ―― ウイルスが実際に活性化されるわけだ。

 (10 時 10 分)コート、手袋、ブーツのメーカーも自分達の製品を売り込もうとする。ただ、これらのカテゴリーはもっとまともだ。というのも、彼等の広告は、楽しくスキーをする人、冬の森を抜けてハイキングする人を描くなど、健全な活動を強調することがよくあるからだ。しかし、時には、彼等の製品なら君達をインフルエンザや風邪から守ってくれる、また、君達の本質的な傷つきやすさから保護してくれる、などと示唆することもある。

 予防接種自体、全般的に言って、ためになることは殆どない。とりわけ、実際にはまだ生じていない伝染病を予防するために行われた場合、潜在的に危険をもたらす可能性がある。特定の価値がある場合もあるかもしれないが、全体として見れば予防接種は有害だ。身体のメカニズムは混乱するし、本来なら当分、現れることはなかったであろう他の生物学的な数々の反応が引き起こされることになるからだ。

 インフルエンザの季節はもちろん、クリスマスシーズンと重なる。クリスチャン達は陽気であれと告げられ、仲間達には、少なくとも想いの中では、子供時代の自然な不思議(の世界)への幸せな里帰りを願う。神に敬意を払うように(とも彼らは告げられる)。しかし、キリスト教は密着性が大きく失われ、もつれたお粗末な物語に成り果ててしまった。こういった宗教は日常生活から隔絶したものになる。多くの人は自分の観念と気持ちの様々な分野を一つにまとめることができずにいる。彼等はクリスマスの時、自分の科学的な観念と宗教的な観念の間に途轍(とてつ)もなく大きな隔たりがあることを部分的に認識する。(次のページへ続く)

こんな心的、精神的なジレンマをどうすることもできない自分に気がつくのだ。精神的な落ち込みはよく次のようなことになる。すなわち、クリスマスの音楽と商業的な陳列物(クリスマスのデコレーションやクリスマス向け商品など)によってその落ち込みがさらに強くなり、「神は自らの姿に似せて人間をつくりたもうた」という宗教的な連想によっても強まるということだ。また、そうやって(神から)与えられた身体にはどうやら自分で自分の面倒を見る能力がなく、最初から病気や災害の犠牲になるものと決まっているといった、また別の連想群によってもさらに憂鬱(ゆううつ)が深まる。

 そんなわけで、クリスマスシーズンは君達の社会における人間の希望を抱き、インフルエンザのシーズンは人間の不安を反映し、(同時に)両者の隔たりを示すことになる。

 医師というものはプライベートな人間でもあるわけだが、ここではその職業的な能力のみについて話そう。というのも、彼(医師)は普通、自分の仲間達と共有する観念体系の中で最善を尽くすものだからだ。こうした観念群は単独で存在するわけではなく、もちろん、宗教的、科学的な観念群と絡み合っている。たとえ、それらが別々であるように見えたとしてもだ。キリスト教は慣例的に病気を神の処罰、または神の遣(つか)わされた試練と見なし、慎んで受け入れるべきものとしてきた。また、人間は罪深い生き物であり、原罪という欠陥を抱えており、(だから)額に汗して働くことを強いられるのだと捉(とら)えてきた。

 (これに対して)科学は人間を冷淡無情な宇宙から生じた偶然の産物だと見なしてきた。それは、その中心に意義などない(存在する意味はない)生き物であり、意識というものは単にたまたま生じた物理的なメカニズムの結果に過ぎない。また、その構造の外側に現実などというものはない、というわけだ。少なくともその点において言えば、科学には一貫性があった。ところが、キリスト教は、悲嘆に暮れる人間に向かって「喜びに満ちなさい」、罪深い人々には「子供のような純粋さを見出しなさい」と公に要求する。神を愛せと言うが、その神はいつか世界を破壊すると言い、自分を崇拝しなければ地獄行きを命じるぞと言うのだ。

 多くの人々はこんな矛盾した観念の間に挟まり、とりわけクリスマスシーズン中、病気にかかる。教会や病院は大抵、どんな町でもそこで一番大きな建物だ。また、市の条例に頼らなくても(法的な手続きを踏まなくても)日曜日に開いている唯一の建物であることも多い(欧米では飲食店など一部を除いて日曜日の営業は禁止されていることが多かった)(誰でも)自分の個人的な価値体系と健康とを切り離して考えることはできない。だから、病院は宗教が信者達にじわじわと染み込ませた罪(の観念)から利益を得ることになるわけだ。

 私が今、話しているのは、宗教というものが社会的な生活や地域社会の事業とあまりにも深く絡み合っているため、宗教の基本的な統合性という感覚がすっかり失われてしまったということだ。人間は生まれながらにして宗教的な生物なのだ。

<転載終了>