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<転載開始>
理想家と狂信者
個人、そして群衆現象の本質
セッション 856 1979/05/24
マサ 訳
ここまで、怯(おび)えた人々、理想主義、それから善と悪の解釈について述べてきたが、本書のこのセクション(第3部)を終える前に触れておきたい話がもう一つある。それはウォーターゲート事件だ。昨夜、ルバートとジョーゼフは(テレビ)映画を観た。ウォーターゲートの一件を創作ドラマ化したものだ。普通ならセッションを開くはずだったのだが、ルバートはその映画に興味があったし、私は私でその番組に対するルバートとジョーゼフの反応に興味があった(のでセッションはやめた)。
私はある程度、我々の友(バッツ夫妻)と一緒にその番組を見た。実際には、専(もっぱ)ら、映画を観ているルバートの知覚を認識させてもらった。不思議な偶然によって、といっても、これは決して偶然などではないのだが、同じウォーターゲート事件を違った解釈でドラマティックに描いた番組が同じ時間帯に別のチャンネルで放送されていた。そちらは、大統領の配下にある精鋭チームの一人がスピリチュアルに生まれ変わる様子を描いたものだった。
ここで、この事件全体をざっと眺めながら、これまでに出てきた問いのいくつかを思い出してみよう。すなわち、「理想主義者はどんな時にどうやって狂信者に変わるのか」、そして「善い行いをしたいという願望がどうやったら悲惨な結果を招くことになり得るのか」という問いだ。
(ニクソン)大統領は当時もそれまでの人生においてもずっと(休止)、心の奥底では、抑圧された「厳格な理想主義者」であり、相当、昔ながらの宗教性を備えていた。彼は理念としての「善」を信じてはいたものの、(大きな声で)同時に、人間とは宿命的に欠点があるものだと強く確信していた。人間とは悪に満たされたものであって、生まれながらにして善意よりは悪意の方を授かっているというわけだ。彼は力(権力)というものが絶対に必要だと思いながらも、自分にはその力がないと信じて疑わなかった。さらに彼は、根本的な意味で個人というものは無力だと信じていた。つまり、自分が目にしてきた米国内においても世界の他のあらゆる国々においても悪と汚職が破壊的に進行しているのであって、それを改めるような力など個人にはないということだ。自分がどれほどの力を手に入れようとも他の連中はそれを上回る力を持っている。彼にはそう思えた。「他の連中」とは、他の人々であり、他の集団であり、他の国々だ。そういった「奴らの力」を彼は「悪」だと見なしていた。というのも、彼は理想化された「善」の存在を信じる一方で、「悪党は強力だが善人はひ弱で勢いがない」と感じていたからだ。
(8 時 38 分)その「理想化された善」と、その「現実的で絶えず蔓延(まんえん)する不正」とを隔てているように見える深遠な溝に彼は(意識を)集中した。自分はどこも間違っていないと思っていた。そして、自分の意見に賛同しない連中を道義的な敵と見なしていた。挙げ句の果てには、自分の周りは不正だらけであるように思えた。そして、大統領の地位や国家を脅かしかねない者達を倒すには、利用できる如何なる手段も正当化されるように見えた。(次のページへ続く)
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理想家と狂信者 2
確証もないのに、自分は宇宙からの生物なり地球上の敵なり、あるいは邪悪な霊的パワーなりに追われているような気がしてならない男または女がいるとしよう。この大統領は正にそんな憐(あわ)れな、勘違いした人間と同じように被害妄想を抱いていた。こういった気の毒な人々は数々の出来事から成る論理的な帰結を自分自身に対して組み立てあげようとする。それは、全く害のない出会いが「恐るべき脅威」に変貌(へんぼう)してしまうような形でだ(「一見、何でもない、この選択が、取り返しのつかない結果へと導くのだ」というような、恐怖心をあおる論法)。彼等はその怖れを外側に向かって投影することになる。そしてついには、自分が出会う全ての人々の中にその怖れが存在するように見えるまでに至るのだ。
他の殆どの人々から見れば、こんな偏執狂的なものの見方は集合的な事実に基づいたものでないことなど明らかだ。(休止)しかし、君達の当時の大統領は膨大な量の情報を利用できたので、自分の政策に賛同しない多数の集団や組織のことを知っていた。別の状況の話だが、警察なり FBI なりに追われているという被害妄想を抱いている者は、パトカーを見かけると、その(追われているという)確信を深めるものだ。大統領は、そうした情報を、その「パトカー」と同じように捉えていたのだ。彼は脅(おびや)かされていると感じた。それも自分個人だけではない。彼は自分の中で「善」のために闘ってきた。(熱心な口調で)その「善」までもが危険に曝(さら)されているというわけだ。そしてまた、理想化された善はあまりにも遠く、到達するのは難しすぎた。よって、如何なる手段も正当化された。内閣などで大統領に従った者達には、程度の差こそあれ同じような特徴があった。
(休止)独善的な者ほど狂信的な人間はいないし、独りよがりな者ほど残酷になれる人間はいない。こうした者達にとっては、この手の(ウォーターゲートのような)エピソードの後で「改宗」するのはお安い御用だ。もう一度「善」の側に整列し、「共同体のパワー」を探し求め、政府ではなく教会へと向かい、何らかの形で神の声を聴けばいい。
では、善意の理想家は、自分の善良な意図が実現するかどうか、どうしたら知ることができるだろうか?彼あるいは彼女は、この善良な意図が実際のところ、破滅的な状態へと通じているのか、どうやったらわかるのか?その理想家は、いつ狂信者へと変身するのか?
こう考えてみよう。もし誰かが「快楽は間違っている。寛容とは弱さである」と語り、君達に対して、これこれの教義にただ黙って従うようにと告げ、理想化された善へと向かうには、それが唯一の正しい道だと言ったとしたら、君達はまず、狂信者を相手にしていると考えていい。また、平和のために人を殺すよう命じられたとしたら、その(殺人を命じた)相手は平和や正義というものを理解していない。君達の自由意思を放棄するよう告げられたとしたら、君達の拘(かか)わっている相手は狂信者だ。
<転載終了>
善と悪に対する考え方とか、悲観的な終末論で終わらないでミロクの世とか嬉し嬉しとかポジティブに目標をセットしてるところとか、楽観的ながらちゃんと身魂磨きを推奨するとか、まさに模範解答だ
これを逆にひっくり返したら記事みたいに自分で恐怖を創る話になる