ジャーナリスト・翻訳家、「ケイ・ミズモリ」の公式ホームページ さんのサイトより
http://keimizumori.com/articles/toko.html
<転載開始>
キリストは既に再臨していた !?
学研「ムー」2003年4月号掲載(一部改定)
アフリカに再臨のイエス現る!?
これから紹介する話は、イエスの再臨と呼ばれた人物がアフリカに存在していたことを報告するものである。イエスの再臨と呼ばれた人物は、過去にも現在にも複数存在したとも言われ、ある説では、常に地球上に9人存在するなど諸説ある。しかし、20世紀末という時代に注目した場合、この人物ほど多くの人々を驚愕させ、熱烈に支持された人物は居ないとも思われる。群集の前で堂々と数々の奇跡を行い、それらを目の当たりにしてきた証人達が今なお数千人、いや数万人は居るかもしれない。
では、それだけ騒がれた人物をどうして我々は知らずに来たのかと皆さんは不思議がられるかもしれない。確かに、日本ばかりか諸外国のメディアがその人物に関して取り上げることはほとんどなかったと言って良いだろう。また、その人物の活動は常に厳重に監視、妨害されてきた事実もある。そして、何よりもその人物が現れた国は、紛争の絶えない辺境の発展途上国であり、一般人が入国可能な土地ではないことが挙げられる。
そのような国とは一体どこだろうか? 答えはアフリカのアンゴラである。アフリカ大陸の南西岸に位置して、ザイール、ザンビア、ナミビアと国境を接している。以前は、コンゴ王国の一部であった場所で、遡ればポルトガルの植民地であった。1956年アンゴラ解放人民軍(MPLA)が結成。1962年アンゴラ民族解放戦線(FNLA)が、1965年から同戦線から分かれたアンゴラ全面独立民族同盟(UNITA)が結成された。そして、長い闘争の末に1975年11月に独立を果たした。しかし、その後3派の抗争は激化し、1977年にソ連の軍事援助とキューバー兵の直接支援を受けて、MPLAが内戦に勝利した。今でも政情は不安定であり、世界中で最も地雷の多い国と言われている。NGOのメンバーでもない限り、外国人の入国は極めて難しいと思われる土地である。そのため、ここで紹介する話の多くは、他のジャーナリストからの情報を元にまとめたものであり、特にアリゾナ州在住のトム・ダーク氏、そして『The True Third Secret of Fatima Revealed』(絶版)の著者パスター・メロ・N・ヨシアス氏のレポートによるところが大きいことをお断りしておく。
また、同じくかつてはコンゴ王国であった隣国ザイールに関しても触れねばならない。ザイールはベルギーの植民地であったが、1960年に独立。1971年から国名をコンゴからザイールに変えている。これから紹介する話は、まさに植民地からの独立と内戦最中の出来事であり、主にアンゴラとコンゴを舞台として、ベルギー植民地政府、ポルトガル植民地政府という言葉が登場する。また、15世紀以来、キリスト教各派の使節団が存在しており、改宗しなければ残忍な殺戮が行われたことから、アフリカ人達は強制的にキリスト教を受け入れざるを得なかった背景がある。そのような状況で、植民地政府から派遣された宣教師や指導者ではなく、黒人指導者が自らの土地から現れたことの意味は大きいことをご理解頂きたい。

預言者サイモン・キンバングー
本題となる、イエスの再臨と呼ばれた人物を紹介する前に、彼がアンゴラに現れることを予言していた預言者サイモン・キンバングー(1887-1951)について少し触れておきたい。中央アフリカにおいては、非常に有名な預言者であり、現在でも彼のことをよく覚えている人々も多い。キンバングーは、バプティスト会系キリスト教徒であり、植民地支配下のアフリカにおいては、初めての黒人宗教家・預言者として地元の黒人達に圧倒的な支持を得た。
というのも、キンバングーは、歩けなかった人を歩けるようにさせ、眼の見えない人に視界を蘇らせ、口の聞けない人に聴覚を蘇らせるなど、病人や障害者を癒す数々の奇跡を行ったからだ。また、2・3日前に死んだ子供達を蘇らせる奇跡も起こした。噂を聞いた多くの人々が遠方から病人を連れてキンバングーのところへやってきたが、キンバングーに出会える前に病人の子供を死なせてしまったケースもしばしばであった。しかし、キンバングーは死んだ子供達に向かって、「イエス・キリストの御名において、目を覚まし、起き上がりなさい!」と声を掛けると、瞬く間に死んだ子供達が次々と目を開いて立ち上がっていった。これらの奇跡は1921年の5月から9月まで行われ、キンバングーに近づく事すら不可能と思われる大群衆の前で行われた。そのため、彼のことを研究した学者で、彼の奇跡に関して疑う者は居なかった。単に、あまりにも多くの証言が有り過ぎたからである。
1921年9月10日、キンバングーは人々の前で演説行った。そこで、植民地政府が自分を逮捕し、「自分の肉体に長い沈黙の期間を課す」ことになると言った。実際、その2日後、キンバングーは植民地政府に逮捕され、死刑判決を受けた。ローマ教会も他のキリスト教使節団もその判決を支持した。学者として名高いアラン・アンダーソン博士によると、バプティスト使節団のみがその判決に抗議した。そもそも彼は、5ヶ月間、村の人々を癒し、慰め、活力を与えただけであったからだ。彼はキリスト教使節団にとって嫉妬の対象であり、動乱扇動の廉で捕まり、その刑罰は死であった。
キンバングーは、自ら「自分の肉体に長い沈黙の期間を課す」と予言したように、無期限で拘留され、死期が早まるよう、毎朝冷たい塩水の桶に体を漬けさせられた。彼はまた、アフリカは「長期間酷い迫害に曝される」と予言していたが、その通り、その後40年間、恐ろしい宗教的迫害を受けることになった。数十万人の人々が投獄・追放され、拷問に掛けられたり、改宗を余儀なくされたのだ。
人々に奇跡を与えてきた期間はわずかであったが、キンバングーはアフリカの英雄と称されるまでに知れ渡り、彼のことを研究する学者達は跡を絶たず、今後も世界的に彼の知名度は向上していくものと考えられている。
キンバングーは、1951年に死ぬまで30年間獄中で過ごした。獄中から、自分の姉妹に送った手紙の中で、彼は次のように言っている。
「私が行ったことと同じことを行う若い男が北部アンゴラから現れるのを見たら、彼こそが主であることを悟るだろう」

シメオン・トコ
1918年2月24日、アンゴラ北部である男の子が誕生した。その男の子が、のちにキンバングーの後継者となり、イエスの再臨とも称されることになるシメオン・トコである。1872年から1921年の約50年間、この地域は、長引く旱魃と、天然痘・腸チフス・マラリア等の伝染病が猛威を振るっており、多くの人々が命を失っていった。このような状況でのシメオン・トコの誕生は聖書の予言にも現れているという。
「竜は子を産もうとしている女の前に立っていた。彼女が子を産んだとき、その子を食い尽くすためである」(黙示録12:4)
赤子のトコはすぐに天然痘に掛かった。彼は酷く感染し、顔は傷で荒れてしまっていた。全能の主のみが彼の命を救えると村人達は考えた。
「多くの人が彼に驚いたように --- 彼の顔だちは、そこなわれて人と異なり、その姿は人の子と異なっていたからである --- 」(イザヤ書52:14)
トコが生まれてまもなく、アンゴラに来ていたバプティスト宣教師協会の宣教師が、ある夢を見た。それは、自分の管轄内で偉大な王が生まれたことを示す夢であった。それで、彼はその赤子を探しに行く決心をした。
彼は聖霊の指示に従い、シメオン・トコを見つけ出した。あまりにも痛々しく、弱弱しい小さな顔を見て、彼は首を横に振った。そして、一つ二つ質問をして、悪夢に襲われただけだと感じて、彼はその場を立ち去った。

立ち上がるシメオン・トコ
1949年、シメオン・トコはレオポルドビル(現在のキンシャサ)で行われたプロテスタント国際会議に参加した。このイベントにおいて、式典のマスターは、アンゴラからやってきた3人のアフリカ人に祈りを捧げるように求めた。その3人の中にシメオン・トコが含まれており、彼は、植民者によるアフリカでの圧制が終わるよう、聖霊が人々の前に現れることを祈った。
トコは、イタガのバプティスト教会の専属メンバーとなった。彼は12人で構成する聖歌隊を作った。その聖歌隊はすぐに有名となり、数百人ものメンバーを抱えるようになった。どこの教会に出掛けて歌っても、物凄い力で聖霊が現れ、白人宣教師達は若いトコが黒魔術を操ると疑った。そして、妬みから、宣教師達はトコを呼んで、魔術を使わぬように忠告した。すると、トコは次のように答えた。
「しかし、もし私達が同じ神に祈るのなら、どうして私が祈る時に聖霊が現れることに対して、あなた方は私を魔術の廉で責めるのですか? それは、祈りが叶えられる筈がないアフリカ人だからですか? 聖霊はアフリカ人に対しても差別するのでしょうか?」
結局、宣教師達は教会からトコを破門することにした。ところが、トコを支持する教会員達は皆こぞって教会を辞めてしまったのだ。そして、彼らはトコに着いて行くことにした。トコは悩んだが、いずれにしても厳しい将来が待ち受けていることに変わりはないと考え、彼らと伴に行動することに決めた。そして、過去3年間捧げてきた祈りを繰り返し、彼は再び主へ祈りを捧げることを決意した。

奇跡の始まり
1949年7月25日、トコと35人の聖歌隊のメンバーは、マエンゲと呼ばれる通りにある、ヴァンガ・アンブロシオという男の家に集まった。祈りの時間が来るの待ち、聖歌隊は歌い始めた。夜12時少し前であったが、まもなくして、シメオン・トコは目を空に向けて、主に対する祈りを口にした。「主よ、あなたはいつも私の祈りに答えてくれることを私は知っています。あなたが私に送られたこの子羊たちのことをお考えください。この任務はあまりにも大きな事で、聖霊の助け無しでは、あなたの意図することを私達は達成することができないでしょう。3年前、私があなたに捧げた祈りをお聞き届け頂いたでしょうか?」
12時丁度、強い風が家を揺すり、聖歌隊のリーダーであるアンサオ・アルフォンセ以外の全員に聖霊が取りついた。神は、彼には冷静な心の状態を保たせて、目の前で起こる奇跡を証人として書き留めさせるように意図したのだ。多くの人々は不明な言葉を口にしていた。ある者は天国のような光を目にし、ある者は天使の声を聞いた。また他の者達は、そこから数キロも離れた場所に居る人々と、はっきりと交信することができた。
この聖霊降臨節における奇跡に対する興奮は、シメオン・トコの支持者を町中に広め、人々は次々と祈りを捧げるようになっていった。これは動乱を引き起こしそうな危険な活動として、ベルギー植民地政府の注意を引いた。3ヶ月もしないで、警察は伝道者達を次々と投獄していった。ある者は、斬首され、家ごと焼き殺されたり、川で溺死させられたり、射殺されたりした。そして、植民地政府は、彼らを追放する決定を下した。妻、夫、子供達と引き離され、彼らは数百キロから数千キロ離れた土地に追放された。
キンバングーの新しい支持者、シメオン・トコの周りで次々と奇跡が起こり始めると、ベルギー政府は一気に彼らの息の根を止めようと試みた。
1949年10月22日、シメオン・トコと3000人の仲間達は、オフィルトラとノロの2箇所の刑務所に投獄された。そして、3ヶ月後に彼らは国外追放の判決を言い渡された。
その時から、シメオン・トコは、その正体を現す事になった。
ノロ刑務所のベルギー人所長は、ピロテという名の男であった。彼は刑務所内のトコ支持者達を差別的言葉で罵り、虐待した。彼はいつも次のような言葉を吐いた。「不潔なニグロ! お前達はニグロの国、アンゴラに帰れ!」
虐待に疲れたシメオン・トコは鋭くピロテに答えた。
「もしここによそ者が居るとしたら、それはあなたである事を知りなさい。私が家であることを示すために、あなたが不正を行ってベルギー領コンゴから私を追放する日、私はあなたを側に従えて、私の荷物を運ばせるでしょう」
シメオン・トコは両手を上げて、指を広げて、ピロテに数えるように言った。「この国から立ち去るのに、私はベルギー人に10年与える。それ以上でもそれ未満でもない」
当時、誰もトコの言葉を理解できなかった。しかし、トコの弟子達は後に理解することになった。トコの予言は正確には当たらなかったが、ピロテに降りかかることになる災難がもっと厳しい形で現れてしまったのである。彼らが追放された日、ピロテは倒れた。彼はオフィスで仕事中に心臓発作を起こし、銃で撃たれたぐらい突然に死亡したのだ。
また、10年後の1960年、ベルギーはコンゴから撤退を余儀なくされた。しかし、この出来事を推進したのは、シメオン・トコがベルギー軍の統制を解体させたことにある。この信じがたい話は中央アフリカでは誰もが知っている。
1959年1月4日、レオポルドビル(現キンシャサ)の街に、ケルビム(丸まる太り、バラ色の頬をした、翼を持つ美しい子供の姿の天使)とセラフィム(6つの翼を持った天使)の集団が現れ、ベルギー植民地軍に立ちはだかったのだ。レオポルドビルの市民達は、筋肉たくましく、子供の背丈(1メートル以下)で、堂々とした約1000人もの小人を目撃した。彼らは皆、小柄な人間に似た生命体で、強力な強さを発揮した。例えば、彼らは片腕で5トン・トラックを放り投げたのが目撃されている。ベルギー兵達は小柄な茶色の天使達に発砲したが、まったく効果が無かった。恐れをなした植民地軍は混乱に陥り、撤退した。そして、その天使達は、現れたときと同じように、突然姿を消した。
この1年後の1960年、コンゴは独立を果たした。因みに、この日、数千人のレオポルドビル市民がこの出来事を目撃し、今なおこの出来事を覚えている証人達がいる。そして、1月4日はキンシャサ(旧レオポルドビル)では祝日となっている。

奇跡は続く
追放されて、アンゴラに戻ってきたシメオン・トコに休まる時間は与えられなかった。その後、9回追放処分を受けた。もちろん、その間、何度も命を狙われた。度重なる追放処分の目的は、シメオン・トコの影響力を弱め、シメオン・トコ教会を解体することであった。ところが、トコやトコ支持者達がどこの土地に送られても、ポルトガル人が「トコイズム」と呼ぶ信念を持つメンバーを増やしていく結果となった。最終的に、ポルトガル殖民地政府は、シメオン・トコを殺害する決断を下した。
トコがアンゴラ南部のコカンダの農場で奴隷として送られていた時、彼の首に賞金が掛けられた。二人のポルトガル人農場長は、報酬を求めて、トコ殺害を企てた。
以下は、当時トコが奴隷として働かされていた時に農場でコックをしていたパスター・アデリノ・カンハンディ氏が1994年に証言した内容である。
カンハンディが忙しく料理をしていた時、彼は自分を呼ぶ声を聞いた。
「カンハンディ、カンハンディ、ここに来なさい」
シメオン・トコであった。トコは彼に告げた。
「ここに立って、注意を払いなさい。今一度、人の子が試されるでしょう」
カンハンディは、キリスト教徒でもなく、何の事やら判らなかったが、何が起きるのか見届ける事にした。
1人のポルトガル人農場長が現れて、トコを呼んだ。
「おい、シメオン。あそこのトラクターが見えるだろ。雑草が詰まって、あの種蒔き器が動かなくなっている。奇麗に取り除くんだ!」
素直にトコは機械の下に潜り込んで雑草を取り除こうとした。その時、農場長は運転席に座り込んで、エンジンを掛けた。自動的に種蒔き器の刃が回転を始めて、トコの体はたちまち粉砕された。
その光景を見たカンハンディは、恐れ立ち尽くした。農場長は少しトラクターをバックさせて、トコが死んだことを確認した。そして、もう1人の農場長は、トコ殺害に成功したことでVサインを送った。
それから、信じがたいことが起こった。カンハンディと2人のポルトガル人の前で、トコの体は元に戻り、立ち上がったのだ! カンハンディは自分の目を疑った。ポルトガル人は、恐怖のあまり逃げ出してしまった。その日以来、カンハンディは主を信じ、家族全員でシメオン・トコ教に改宗した。
「父は、わたしが自分の命を捨てるから、わたしを愛して下さるのである。命を捨てるのは、それを再び得るためである。だれかが、わたしからそれを取り去るのではない。わたしが、自分からそれを捨てるのである。わたしにはそれを捨てる力があり、またそれを受ける力もある。これはわたしの父から授かった定めである」(ヨハネによる福音書:10:17-18)
キリストは自分のことを「人の子」と呼んだ。日頃、シメオン・トコは主イエス・キリストのことを良く口にして、他の者達と同様に、自分のことをキリストの使用人であると言っていた。ところが、カンハンディによれば、自分のことをキリスト同様に「人の子」と呼んだことが分かる。
彼の周りで様々な奇跡が起こったにもかかわらず、彼は影のような存在で、一体彼が本当は何者なのか誰も知らなかった。

バチカンからの使者
シメオン・トコの話はバチカンにも届いた。教皇ヨハネ23世は、シメオン・トコにメッセージを伝えるため、2人の高位の使者をアンゴラに送った。不幸にも1人はルアンダで赤痢で倒れ、病院に収容された。しかし、もう1人は、シメオン・トコに会うことが出来た。
「私は教皇ヨハネ23世から個人的に遣わされた使者で、あなたに1つの質問をするためにやってきました。あなたは誰ですか?」
シメオン・トコは答えた。
「教皇のような高位の方が私の存在に興味を示され、あなたは私に会うためだけに8000キロも旅してきたことに驚きました。あなたが教皇に与えるべき答えは、聖書のマタイによる福音書、第11章2~6節です。」
「さて、獄中でキリストのみわざについて聞いたヨハネは、その弟子たちに託して、イエスにこう言い送った。「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、私たちは別の方を待つべきでしょうか。」イエスは答えて、彼らに言われた。「あなたがたは行って、自分たちの聞いたり見たりしていることをヨハネに報告しなさい。盲人が見、足なえが歩き、らい病人がきよめられ、つんぼの人が聞こえ、死人が行き返り、貧しい者には福音が宣べ伝えられているのです。だれでも、わたしにつまずかない者は幸いです」

ポルトガルへの国外追放
1962年7月18日、シメオン・トコは逮捕され、今度はポルトガルに国外追放された。ポルトガルへの移動に際し、ポルトガル空軍機が用意された。その空軍機は最新の通信・ナビゲーション機能を備えたものであった。空軍機の中では、カトリックの牧師、サラザール政権の秘密警察パイド(PIDE)のメンバー達が居た。彼らの使命は、大西洋を1時間飛行後、トコを海に沈めることであった。パイドのエージェントがシメオン・トコを威圧するように立ち上がり、殺人を実行しようとした瞬間、トコは立ち上がり、空軍機に停まるよう命令した。すると、その空軍機は空中で停止してしまったのだ。空軍機は落下することも無く、ただ空中に停止してしまったのである。乗組員達はパニックに陥った。牧師はほとんど呼吸もできず、必死に祈りを捧げた。彼らはトコに慈悲を嘆願した。トコは上を見上げ、天に手を向けて、しばしの祈りの後、空軍機に再び動き出すように命じた。すると、すぐに空軍機は飛行を再開した。
これで、ポルトガルの秘密警察パイドによるシメオン・トコ殺害計画は失敗に終わった。

不死身のシメオン・トコ
国外追放になった政治犯として、シメオン・トコは人間としてのすべての権利を奪われた。これから紹介する話は、トコがアゾレス諸島のポンタ・デルガダに連れて行かれた際、企てられた殺人(未遂?)事件に関してである。この事件は、トコの支持者であり、霊媒のドナ・ロウリンダ・ザザが目撃し、以下はその証言をまとめたものである。
それは、1974年、ポルトガルの独裁者サラザールの命令で企てられたトコ殺害で、第1級殺人と言えるものであった。ポルトガルの医者達はシメオン・トコの無敵ぶりに関して記録を読んでおり、ヨーロッパ中から数人の医者が彼の解剖を行うために召集されていた。トコの胸から腫瘍を摘出するという口実で・・・。彼らはトコを市民病院に連れていき、手術台に乗せた。そして、彼は左胸を切り開かれると、大動脈と他の動脈はメスで切断され、まだ鼓動を続ける心臓が取り出された。トコは、心臓と胸から飛び散った暖かい血にまみれて、横たわっていた。
トコの心臓は金属製の皿に取り出され、別の部屋の実験室に移された。医者達は、何か特別なことが発見されることを期待して、様々な検査を行った。しかし、トコの心臓からは特別異常は認められなかった。そして、医者達は彼の無敵ぶりは取り出された心臓から生まれているものではないという結論を下した。
医者達は疑いも無くトコを殺害した。しかし、恐ろしいことに、心臓の無いシメオン・トコが目を開き、起き上がり、医者たちを見つめたのだ。胸は切り開かれたままの死骸が動き出したのだ。そして、トコは口を開いた。
「どうしてあなた方は私にこのような仕打ちをするのですか? 私の心臓を返したまえ!」
信じがたいことに、トコは自分の心臓を取り戻し、蘇ったのだった。
のちに、トコ自身が自分の体に付けられた生生しい傷を人々に見せており、実際の出来事であったことに保証を与えている。また、事件後の数年間で、数千人もの人々がトコの胸に付けられた傷を目撃している。ザザによれば、その傷を通して心臓の鼓動が見えるぐらいのもので、見るに耐えがたいものであった。


シメオン・トコは殺せない
シメオン・トコはアンゴラを支配するポルトガル殖民地政府に最後の一撃を加える事を決心した。1974年8月31日、彼はアンゴラに戻り、彼の言葉は成就した。1年後の1975年11月11日、アンゴラはポルトガルから独立を果たした。
しかし、アンゴラは独立しても、政情が安定することは無かった。シメオン・トコへの弾圧も変わり無かった。1977年、ネトー大統領の側近で、陸軍の指揮官パイバは、シメオン・トコの殺害を命じた。トコは誘拐され、秘密の場所に連れていかれると、彼は食肉加工されるがごとく切り刻まれた。トコの頭、腕、足が切断され、胸部と腹部も分離された。そして、大きな袋の中に詰め込まれ、ある場所に隠された。3日後、その袋を取り出し、海のサメにエサとして与えるつもりであった。
しかし、袋は無くなっていた。それが分かると、大騒ぎになった。すると、突然、水が流れるような音に似た声が聞こえてきた。
「誰を探しているんですか? 私はここに居ますよ」
それはシメオン・トコであり、しっかりと肉体を持って、堂々と立っていた。軍人達は叫びながら逃げ去っていった。
「彼は神だ! 彼は神だ!」

シメオン・トコの死
1983年12月下旬の日曜日、シメオン・トコは一万人の人々の前で演説を行った。
「最愛なる皆様、鳥が停まっていた木の枝から飛び立つ時、何が起こるか分かるでしょうね。さよならの印として枝の葉が揺れます。さあ皆さん、ハンカチか布切れを出して、私にそれを振って下さい」
まもなくして、皆がハンカチを振りはじめ、シメオン・トコもお返しに自らハンカチを振った。
1週間後の1983年12月31日から1984年1月1日の夜の間、シメオン・トコが心不全で死亡したことが報道された。66年の人生であった。同時に、数年間雨が降らなかったルアンダに豪雨がやってきた。気象学者達は不思議がった。雨は3日間降り続き、それは偉大なる預言者の死のためであると囁かれた。
シメオン・トコが死亡したというニュースを聞いて、その死体を確認に掛けつけた男が居た。それは、トコの殺害を命令した陸軍の指揮官パイバであった。トコの死体は一般に公開され、周囲には数万人の群集が集まっていた。パイバはその群集を掻き分けて、トコの死体の前にたどり着いた。パイバは、トコが死んでいる姿に驚き、立ち尽くし、口を開くように求めた。そして、叫んだ。
「シメオン・トコが死んだのは嘘だ! 彼は無敵なんだ!」

ファチマの予言
アフリカは人類発祥の地と言われている。しかし、聖書においては、それがアフリカであったのか不明であり、ローマ教会では、もともとのユダヤ人が有色人種であったとはいえ、イエスを白人として扱ってきた。そして、次回イエスが再臨する際には、白人以外の人種として現れ、約2000年前にできなかったことの1つとして、家族を持つことが実現されると研究者達に囁かれてきた(他の情報源で、イエス・キリストが日本を訪れ、結婚して2人の娘を持った説もあり、シメオン・トコの場合と同じである)。
これまで言及しなかったが、シメオン・トコは非常に背が高く、妻と2人の娘を持っている。妻は現在70歳を過ぎたところである。そして、シメオン・トコは黒人としてこの世に生まれてきた。もちろん、再臨主と呼ばれるのにふさわしい人生を送ってきた。イエスの再臨というシナリオとしては、シメオン・トコ以上にぴったり当てはまる人物は居ないとも言える。
ところで、1917年、ホルトガルの寒村ファチマで聖母マリアが出現して、人類の未来について語るという奇跡が起こった。奇跡は計5回起こったと言われ、最後の奇跡の際には、7万人の大観衆が超自然的な光の乱舞を10分以上に渡って目撃した。聖母マリアを見たのは、当時10歳の少女ルシア・ドス・サントスと、彼女の従兄妹のマルトー兄妹(9歳と7歳)。聖母マリアの予言を聞いたのは、ルシア1人であった。
初めて聖母マリアが出現した時、それは大きな光る球体で、次第に女性の姿に変わっていったという。出現した聖母マリアは、3つの予言をルシアに授けた。第1の予言は、第1次世界大戦が間もなく終結するという内容だった。第2の予言は、前兆を幾つか提示して、第2次世界大戦が勃発するという内容であった。そして、第3の予言は、1960年以降に公開されるべきと言われて、その内容は教皇ヨハネ23世に渡されたが、その後40年も公開されなかった。教皇ヨハネ23世が第3の予言を見た時、あまりに驚くべき内容で、卒倒したと言われており、1960年の公開を見送ってしまった。そのため、その公開を求めてハイジャック事件が起きた程、誰もがその内容を知りたがっていた。
しかし、バチカンは2000年6月26日に、ついに第3番目の予言は、1981年5月13日の法王暗殺未遂事件を予言したものであったと公表した。ところが、その予言の内容は偽りであると考える人々も多かった。第3次世界大戦や地球規模の危機等が予言されていたと考えるのが妥当と思われたからである。
しかし一方では、実は教会が歪めてきた歴史や過去に行ってきた悪行を暴露し、さらに再臨主は黒人シメオン・トコの名で現れるという内容であったとも囁かれている。というのも、ローマ教会がシメオン・トコの殺害を支持していた1960年2月に、ルシアからの手紙に書かれた第3の予言を見せつけられ、教皇ヨハネ23世は卒倒した。そして、その公開を封じることに決めた。しかし、シメオン・トコへの関心は無視できない。そこで1962年、個人的にシメオン・トコのところに使者を送って、トコの正体を確認しようとした・・・。
そんなシナリオが現実ではなかったのかと、シメオン・トコの存在を知った人々は考えるようになってきたのだ。それを裏付けるような情報が、トム・ダーク氏が信頼できる筋から得ている。ルシアは既に1996年に死亡しており、遺族はカナダのモントリオールに住んでいるという。ルシアと遺族は、そもそもファチマの予言の著作権はバチカンのものではなく、世間にありのままを伝えなかったことで、バチカンに対して訴訟を起こすつもりでいた。ルシアが聖母マリアから受け取った情報には、やはり教会が過去に行ってきた悪行を暴くものが含まれていたらしい。当然バチカン側はそれを公表したくない。それで、最終的に数千万ドルの和解金で示談が成立したというのだ。
もちろん、ルシアの遺族をはじめ、バチカン、ベルギー政府、ポルトガル政府等から、真実が公開されぬ限りは、ファチマの予言においてシメオン・トコについて言及されていたかどうかに関しても、まったくの憶測に過ぎない。また、ルシアが教皇ヨハネ23世以外にフェンテス司祭に第3の予言の一部を語っているが、そこではロシアの動きが鍵となっており、シメオン・トコとの繋がりは薄い。ただ、教会側が行ってきた迫害に対して罰を受けることになるという点にも触れられていたため、シメオン・トコに対する教会側の対応に躊躇を与えるものであったことは間違い無いだろう。
今からおよそ4000年前から2000年前まで、ユダヤ人はメシア到来を待ちわびてきた。そして、ついに現れたイエス・キリストを疑い、メシアと認めることが出来ずに終わった。その後、今度はキリスト教徒が約2000年間メシアの到来を待ちわびてきた訳だが、キリスト教の本家本元であるバチカンは、シメオン・トコ殺害を支持し、彼をメシアと認めることが出来なかった。この重い意味を考えると、ファチマの第3の予言がローマ教会の態度を戒め、シメオン・トコがメシアであったことを言及していたとする説も、確かにローマ法王が卒倒するに値する内容である点から、まんざらでもないと言えるかもしれない。事実、シメオン・トコは、「教会を正すためにやってきた」と生前に語っている。中央アフリカでは、今なお「洗礼を受けていないニグロは、怠惰で残忍な異教徒である」と公言するカトリックの高僧が居る。辺境地での出来事は、世界に広まる事は無いと考える教会側の奢りは存在する。我々はあまりにもローマ教会の影の現実を知らない。シメオン・トコに関してレポートしたトム・ダーク氏は、教会関係者から脅迫を受けたことがあるという。
残念ながら、現時点ではシメオン・トコという人物自体の情報があまりにも不足している。今なお、アンゴラの政情は不安定である。現在のザイールでも、シメオン・トコの奇跡を目撃した多くの証人が居ながら、西側に伝えられる情報自体が限られている。また、トコの活動に深く関わってきた体制側は容易に情報公開を行わないことが予想され、トコの側に仕えた弟子達の多くは既に命を落としてきている。そのため、詳細な情報の入手が極めて難しい状況がある。
しかし、今後アンゴラの政情が安定し、教会が自らを反省する態度が現れるなど、シメオン・トコの人生に関してさらに証言が集まることに期待したい。
2001年7月、25万人ものトコ支持者達がアンゴラのルアンダに集まり、シメオン・トコが1949年に行った奇跡を祝うセレモニーが行われた。人口1000万人程度のアンゴラで、25万人もの人々が集結するイベントは異例の出来事である。統計によれば、アンゴラ国民の97%はカトリック教徒である。しかし、その数字は、トコ教会を閉め出すための偽りの数字で、現実的には70%以下で、かなり多くの人々がトコ支持者であると言われている。また、ザイールにもトコ支持者は多く存在すると言われている。今後、シメオン・トコ支持者は世界的に増えていく事も有り得るかもしれない。
シメオン・トコは自分がイエスの生れ変わりだとは明確に認めなかった。彼が本当にメシアであったのかは分からない。しかし、自分はまた近いうちに戻ってくると言い残している。既にシメオン・トコ(次のメシア)はこの地球のどこかに新しい生を得て戻ってきているかもしれない。その存在が確認される時、真実は明らかになるのだろうか・・・。

※当記事は最初に断ったように、二人の情報源からシメオン・トコという人物が現地の人々にどのように思われ、扱われてきたのかをレポートしたものであり、基本的に筆者の私見は入っていない。もちろん、現時点で特定人物の生まれ変わり現象を科学的に検証することはほぼ不可能で、ましてはイエスの再臨に関して、いかなる宗教にも属さない筆者が支持・不支持するものでもないことは言うまでもない。

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