セス・ネットワーク・ジャパンさんのサイトより
http://www.sethnetworkjapan.org/q-albums/experiencing-all-that-is
<転載開始>

在るもの総てを体験する

セスは語る
セッション 561

マサ 訳

セッション 561 1970 年 11 月 25 日 水曜日
午後 9 時 55 分

 (9 時 15 分、正にセッションが始まろうとした時、ジェーンは、何か邪魔が入るか、人が訪ねてくると思う、と言った。すると、15 秒も経たないうちにドアをノックする音がした。カール・ジョーンズだった。彼はコネチカット州の小さな町にあるハイスクールで「内的空間と外的空間」と題した授業を行なっていて、教材としてジェーンの本「セス資料」を使っている。カールは感謝祭の連休を利用してニューヨーク州ナイアガラ・フォールズ(ナイアガラの滝がある都市)の近くに行く途中、ここに立ち寄ったのだった)

 さて。こんばんは。
(「こんばんは、セス」)

 また、ここにいる我々の友人にも、こんばんは。君(カール)が今夜、微笑んでいることによく留意しておくつもりだ。さて、本の口述を再開しよう。そうすれば(カールに向かってユーモラスに)君は作者 ── あるいは、本物のゴーストライターと言う方がよければ、それでもいい ── の仕事ぶりが見られるわけだ。

 キリストの第三のパーソナリティーについては、また折を見て、その人物を明らかにしようと思っているが、今は、在るもの総ての多次元に亘(わた)る側面に取り組むことにする。こういった現実は体験を通してのみ知り得るものだ。在るもの総ての特質を多少なりとも忠実に描写できるような事実(特定の事例やデータなど)はない。

 この現実とその特質は、あらゆる体系のカムフラージュ・データと調和しながら、様々な現実性の体系の中に現れるだろう(在るもの総ての存在とその特徴は、どんな生存体系でも、その中にある表面的な要素に融け込んだ形で現れるだろう)。その多次元の神を内的に体験することは、主に二つの分野で可能だ。その一つは、君達が感覚器官を通して知覚できる、あらゆるものの中には、この根源的な動力があるのを悟る(実感する)こと。もう一つは、この原動力には、外見的な世界との繋がりとは別個に(独自の)現実(世界)があるのを悟ることだ。

 多次元の神との直接的な接触、本物の神秘体験の瞬間には全て、必ず一体化する効果がある。それ故(体験する)本人が孤立してしまうのではなく、その現実と、そこに備わる他の側面の独自性と実体を目一杯に体験できるところまで、本人の知覚が拡がるのだ。

 (10 時 5 分)そのため、本人は孤立感、隔絶感が減り、その体験をしたことで自分が他の者達に勝(まさ)っているなどとは考えない。むしろ、逆に、自分が理解したことの全貌に圧倒され、そこで、在るもの総てと自分との一体性を実感するだろう。

 現実界には君達が意識的に知覚しない部分があり、また、君達が意識的に気づいていない、他の蓋然的な体系もある。それと同じように、現時点の君達には理解できない、根源的な神格の側面も数々ある。それ故、蓋然的な神々があり、そのそれぞれが独自のやり方で、一つの根本的な自己性に備わる、数々の多次元的な側面を壮麗かつ目映(まばゆ)いばかりに反映しているのだ。それは、一つの現実形態や決まった種類の存在(形態)には到底、収まりきらないからだ。


http://www.sethnetworkjapan.org/q-albums/revenge

報復

セスは語る
セッション 550

マサ 訳

 (9 時 45 分)さて、君達が拠り所としている視点からでは、全ての出来事が創造性を実現するべく起こっているということに気づくのは、しばしば難しいものだ。また、本来的な意味で君達自身に備わっている自由奔放な創造性を信じることも同じように難しい。君達の(社会的な)体系において(人を)「殺す」ということは倫理上、明らかな犯罪だ。しかし、刑罰として他の人間を殺すことは、元の過ちに輪を掛けた過ちを犯すことにしかならない。1つの教派 ── 「文明」と呼ぶ方がよければ、それでもいい ── を設立した、非常に有名な人(おそらくユーモアを込めた表現)は、かつて(片方の頬を)「打たれたら、もう片方の頬を向けなさい」と言った。ただ、彼の言った元々の意味を理解するべきだ。つまり、頬を打つ者は基本的に自分自身を打っているに過ぎないということを心得ているから、もう片方の頬を向けるのだ。

 そういうことであれば、君達は(相手の観念などから)自由であり(君たちのとった)そのリアクションはいいリアクションだ。しかし、こうした理解なしに、憤(いきどお)りを感じたり、似非(えせ)道徳的な優越感から、もう一方の頬を向けたりしたのだとしたら、それは「適切」と呼べる対応からは程遠い。

 さて、これは全て君達の生まれ変わりの人生における人間関係にも当てはまることであり、もちろん、現在の日常的な経験にも直結していることだ。他人を憎めば、その憎しみが君達自身をその相手に縛り付けることになる。そのままにしておく限り、その憎しみはいくつもの人生に亘(わた)って君達を消耗させ続けることになるかもしれない。この人生でも他のどの人生でも、君達が特定の性質に意識を集中すれば、その性質が君達の許(もと)に引き寄せられるのだ。(たとえば)自分の受けた不当な扱いの数々をまざまざと思い描いて気にかけているのだとしたら、そうした体験をもっと引き寄せることになる。そして、それがそのまま続けば、次の人生(来世)にもそれが反映されるだろう。(もっとも)人生と人生の間には(そうした事柄も含めて)理解し、熟考するための「時間」があるというのも確かだ。

 この人生でこうした機会を利用しない者達はよく、人生が終わってからも(やっぱり)利用しない。(しかし)意識は拡がろうとするものだ。創造しようとするのだ。そうするために自ら内から外へと裏返しになろうとするのだ。こうした論点を君達が理解したり直視したりするよう強制するものは君達自身の外側にはない(君達自身がそうしようとしないかぎり、その先へは進まない)

 だから、「この人生が終わったら、自分の体験を振り返って素行を改めよう」などと言ったところで何の役にも立たない。それは若者が「年をとって引退したら、自分が今、伸ばしていない全ての能力を使うんだ」と言うようなものだ。君達は「次の人生」の舞台を今、整えているのだ。君達が今日、考えている想念が何らかの形で次の人生の骨組みになる。(唱えるだけで)君達を賢くしたり、理解と(他者に対する)憐れみの気持ちで満たしたり君達の意識を拡げたりする魔法のおまじないなどないのだ。


<転載終了>