セス・ネットワーク・ジャパンさんのサイトより
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<転載開始>

時間と蓋然性

初期セッション集 第5巻
セッション 226

マサ 訳

 先日の話に出た「反転した時間の体系」について、今夜はもう少し話したいと思う。その体系がどう機能しているか理解すれば、それをもっと進んで利用できるようになるからだ。

 ジョーゼフ、もし私が速すぎる場合は遮(さえぎ)って構わないから、そう言ってくれ。

 反転した時間の体系をそのまま(歪めることなしに)理解できれば、いわゆる過去に得た経験にも同時に接することができるし、まだ君達の現在に生じるまでには至っていない出来事を利用することもできる。もっとも、これは未来の出来事を意識的に知るようになることを意味しているわけではない。思い出してみれば、そうした出来事はいつでも変えてしまうことができるからだ。人は常に自分自身の体験を作っている。現在や未来の出来事と同様、人は過去の出来事をも常に形作っているのだ。

 多くの意味で、人は過去に起きた出来事の為(な)すがままになっている(過去によってすべてが決まり、それに対して何もできない)わけではない。それは、自分がその出来事(自体)を常に変化させているからだ。それ故、人は未来に起きる出来事の為すがままになっているわけでもない。それは、そうした出来事が起きる前だけでなく、起きた後でも、自分がそれを変えているからだ。私達の友、フィリップ(セッションに同席したジョン・ブラッドリーの自己本体、エンティティーの名前)には、この論議にきちんとついてくるだけの予備知識がないのが残念だ。

 さて、いわゆる「虫の知らせ」とは、実際、ある特定の出来事が起こるかもしれないという内的な知覚によって、よく引き起こされる。知ってのとおり、君達が理解しているような「因果」(原因と結果)というものはないが、蓋然性があるのだ。ある人間の決定は、その人間自身の過去における具体的な出来事をベースとして下される、というのは基本的に間違っている。同様に、人間は大方、自分の過去に囚われているとか、人が未来にとる行動は、その人の過去の体験によって予め決まっているなどというのも誤りだ。それは、君達も今は理解できるように、過去は未来以上でも以下でもなく、未来と同様に現実的(リアル)なものだからだ。個々の人間に関する限り、過去とは、脳内における電磁波の流れのパターンとして存在するものであり、その繋がり方は常時、変化する。

 前回のセッションで触れた限界の範囲内で、人間は過去の行動を変えられる。よって、その人間が未来にとる行動が具体的かつ変わることのない過去に従属することはない。そんな過去など存在したことがないからだ。

 これらのポイントを私は一番はっきりさせたい。さて、予知や透視で予見された出来事、未来の出来事は、君達の知っている時間の中で実際に起こるかもしれないし、起こらないかもしれない。それは、君達が蓋然性の中を覗いているからだ。君達の時間体系の中においては、その蓋然的事象は起こるかもしれないし、起こらないかもしれないのだ。

 しかし、こうした事象は他の時間体系の中で起こる。それは、君達が知覚することこそないだろうが、全ての蓋然性は現実化するからだ。この点で我々の友、ダンの言ったことは実に正しい。
 ここで君達に休憩をとってもらって、少し社交的な会話でも楽しむとしよう。

 (ジェーンは 9 時 16 分に休止。目はまだ閉じたまま。その後、口述を少し続行。)
 今のところは、ただ「12 番通り(12th Street)」と書き留めて、あとは放っておきなさい。その「12 番通り」はフィリップにとって意味があるかもしれない。

 (9 時 17 分に休憩。ジェーンは最初の休憩まで、いつものようにすっかりトランス状態に入っていた。目は閉じたままでテンポは速め。声は強く、太く、いつもより語勢があった。(次のページへ続く)


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 (僕が願っていたとおり、ジョン・ブラッドリーは 12 番通りという情報について何も言わなかった。ジェーンも彼にそれを聞かなかった。休憩の間、僕達はジョンの会社、サール・ドラッグについて話し合った。同社は経営上の問題から財政難が深刻化し、苦境に喘(あえ)いでいた。セスは、ジョンが居合わせた時には、よく、それに関する話をしてくれたが、今日に至るまで、彼の話した内容は的確だった。

 休憩が終わるころ、僕達はサール社が市場に投入しようとしている新薬の話をしていた。9 時 29 分、ジェーンは目を閉じたまま、このうえなく活発な、きびきびとした調子で口述を再開した)

 君達の話は実に面白いと思う。私自身には、そういった類の問題はないわけだから、ここではコメントを控えておこう。

 さて、これらの蓋然性、すなわち、起こるかもしれないし、起こらないかもしれない、これらの出来事は極めて興味深い。「我々1」と「時間1」を考えてみよう。原則として、「我々2」は「我々1」の未来に何が起こり得るのか、実際に眺めることができる。しかし、「我々2」に見えるのは蓋然性であり、それらの蓋然性のうち、あるものは実際「我々1」に起こり、あるものは起こらない。繰り返しになるが、このポイントが、私達の友人、プリーストリーとダンには理解できていない。

 プリーストリーの言ったことは、この点でも、ある程度、正しい。これらの蓋然性はどこかで起こるわけだが、プリーストリーもダンも想像したことすらない自己に対して起こるのだ。それは、どんな人間にも(自分と)同時に存在する一つの自己であり、かつ、その人間の一部でもある。しかし、その人間は、君達の暮らす、その体系の中にいる限り、その自己を知るに至ることは決してないのだ。

 いつか、数学的な概念を使って、これを説明しようと思うが、今は平易な日常語でやってみよう。想念は、どれも自身のエネルギーでできており、エネルギーの範囲内で、想念には影響力がある。もっとも、これは、君達の、くたびれ果てた、古臭い「因果の法則」の話をしているわけではない。いかなる行動も他のあらゆる行動に変化を与える。そして、いかなる蓋然性も、それが君達自身の体系内で起ころうと起こるまいと、一つの現実である、という話はすでにした。ここでは、その話をもっと進めてみようと思う。

 君達の体系以外の中には、現実とは「瞬間」が一列に並んでいるのではなく、特定の瞬間の中に存在する、行動のあらゆる蓋然性の中へ入り込む体験を意味するもの(体系)もある。それ故、継続性とは、自己にとっての意味であり、一連の瞬間という意味であるわけではない。ある(存在する)のは、むしろ、一連の自己達であり ──(以下、途中に挿入されたバッツの注釈。次のページへ)


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 (ここから、ジェーンは強調するべく、目を大きく見開いて話した。瞳が拡がっていた。声は力強く、断固とした口調だが、テンポは速く、頻繁に身振りや手振りを加えた)

 ── その自己達に備わった内部の自我が意識的に働くことで継続性が得られるのだ。

 それ故、こうした体系には君達の言う現在、過去、未来という概念は存在しないだろうし、ある時点において、たった一つの出来事だけしか起こらないという観念もわかってもらえないことだろう。この次元はプリーストリー、ダンのいずれもまだ調べ始めてすらいない現実界の中に存在する。

 知覚者(観察者、当事者)の心理構造全体がまるっきり違うわけだ。そこには、全ての蓋然的な出来事の中から(実際に)生じる一つの出来事があるのではない。あるのは、君達の知っている、一定の「時間」の範囲内で個々のあらゆる人間に起こり得る、数学上、蓋然的な(確からしい)全ての事象の体験だ。

 (次の段落は全体に下線が引かれているものとする。ジェーンは、そのくらい力強く、きっぱりとした口調だった)

 そういうわけで、この「知覚する参加者」(観察者)は心理的な「組成」が君達とは全く異質なのだ。ただ、こうした体系でも、君達の場合と同様、その知覚者は「参加者」であると同時に「創造者」でもある。違うのは、君達が概念として抱いている時間にではなく、蓋然性に基づいて活動するということだ。そうなると、君達の目には、その知覚者が一瞬一瞬において、存在する、あらゆる蓋然性の中に潜り込んでしまうように見えるだろう。一方では、君達の時間にして何世紀もの歳月が経ったのに等しいことになるが、他方では、ほんの一瞬にすぎないということになるわけだ。

 ここでは時間の体系が悉(ことごと)く違うのだ。もっとも、価値の達成は、どちらの体系においても有効だ。また、極めて大雑把に見れば、この蓋然性の体系はダンの言う「時間3」に例えられるだろう。

 (セスは数ヶ月前、電気的な場や「瞬間点」(“moment points”)の話を始めたころ、上述の概念にも少し触れた。ジェーンがダンやプリーストリーの本を読み始める前のことだった)

 ただ、(蓋然性の体系とダンの説には)一致しない点も数多くあることだろう。こうして似通った点をここで持ち出したのは、私の考えを少しでも捉えやすくするためだ。

<転載終了>