佐藤敏夫先生のサイトより
http://www4.tokai.or.jp/kaminosuugaku/gougai02.html
<転載開始>
  ≪A true fact that nobody know in the world !!≫ (本当の真実を探りたい                                  
                              (すべては嘘のようなほんとうの話である)        
       
                                                                                 平成26年12月謹上


 さあ、私の話の種もそろそろ尽き果てようとしている。要するに、これ以上の話すことはもう何も無くなりつつあると言うことである。
 そんなことを考えながら今年一杯で(ちょっと号外版)の掲載を休止しようかと思いながら日々鬱々としているところである。

 そんな時に、偶然にも面白いものに遭遇した。恐らく、同じような体験をされた方、同じような意見を持つ方も大勢いるかと考えて、笑われるのを覚悟で敢えて書き記しておくことにした。まことに不埒、まことに不可思議な掌(手のひら)のあり得ない話である。
 馬鹿な話、愚か者のよた話と思われる方は呵々大笑と笑い去って忘れて下されるとまことに有難い…!!。

 

 いや、恐らくは思い過ごしか、それとも老人になったので掌の皺(シワ)が自然に増えたのか、または最早夢も希望も無いと言う反動的な精神状態が起き、知らず知らずにこのような誇大妄想的な心の動きの影響でこのような現実的な結果が生じたのか、そのあたりは定かではない。 まあ、眉に唾をつけながら、そして笑いながら読んで貰った方がいいかもしれない。その方が私も気楽である。

 そのあたりについては宜しく諸氏のご判断を仰ぎたい、御推察のほどをお願いする次第である。

 私はただ、事実をありのままに述べるだけであり、決して偽りとか創作等の見苦しい所作は一切無い、ただただ思ったことを包み隠さず正直に記しているだけである。

 

 ことの始めは多分、50歳くらいの時であったであろう。ある時、このあたりでは知らぬ者はいないと言われていた姓名判断や家相判断、それに手相判断の名手がいた。年齢は80歳に近く、何時も貧乏然とし冴えない恰好している名物老人であるが、界隈一体の商売人や大工さんには大変人気のある御仁であった。

 何故なら、彼の言う家相通りに家を建てた場合、それまであった色々な家庭内のもめごととか不幸の類は一切姿を消し、すべては万々歳に終わるとの大評判であり、施主や大工さん達は設計図持参で毎日列をなして通っていた。

 私も少々気になることがあったので2,3相談し、家の造作を言う通りに変えて見た。その時彼の言うに、3ヶ月後には間違いなくすべてはあなたの望み通りに好転するので心配するなの一言であった。驚くことに、すべては3ヶ月後にはその通りになり、本当にあり得ないことが起ったのである。

 ある時、何かの話のついでに私の手相に触れたことがある、その時言われた言葉、それは今のあなたには知能線と感情線の間に一つだけ十字の星が出かかっている、これが将来完全な十字の星に成長すればあなたの将来は万々歳で、決して生活に困るようなことは無いと言う信じられない言葉であった。もう20年以上前のことになる。

 

そんなことはこの数十年間、すっかり忘れ果てていた。ところがこの間、何の気なしにレンズで掌を覗いて見た。すると昔と手の様相がすっかり変わって十字の星10ヶくらいがキレイに並んでいたのである。これは神秘十字紋あるいは神秘十字線と言うもので、これを一つでも持っている御仁は大変な幸運に恵まれるそうである。

 

 それは神秘的なもので、「神」とか「霊」とかの目には見えない世界の助けがある場合に限って現れてくるものなそうである。
 オォッ…!!、何と予測もしなかったことであり、まさに、吃驚仰天の極みであった。

  この年になって何と言うことであろうか、まさに驚き桃の木である…!!?。

 そればかりか、掌の真ん中あたりからそれぞれの指の付け根に向かって垂直にのぼる3本の線があることを発見した。今までにはまったく気がつかなかったものである。

 さて、面妖なとパソコンを引っ張り出して手相の欄を検索して色々と調べてみた。

 すると、何と言うこと、それは太陽線と言われるもので、それは見えない霊的な世界で大きな役割を果たす運命を背負っている者に現れる吉相であると書かれてあったのである。 ここでまた、更に吃驚仰天である。

 

 何と言うことであろうか…!!、この神秘十字紋と太陽線の両方とも「神の世界」との関わりを告げていると言っているのである。これには私も吃驚であり、まことに不思議な一致であると思わず背筋が寒くなるような思いがしたのである。

 

 さて、いつから私の手相がこのように変わったのであろうと考えたのであるが、今までは滅多に自分の手をしげしげと観察したことは無かったので皆目そこは不明である。天眼鏡で自分の掌を見るなどと言うことは恐らく数十年ぶりのことであり、たまたま偶然に天眼鏡(レンズ)付きの電気スタンドを手に入れたので面白半分に掌を覗いて見ただけである。

 

 また、この年齢になると不思議なことは多々ある、私には何が何だか判らないが、少々述べてみたい。今までは全く気がつかず、すべては最近になり判明したことがらである。

 これらすべては最近(この1年間内) 人様から教えられたものであり、朴念仁の私はまったく知らなかったもの、想像もしていなかったものばかりである。 言われて見て、はじめて気がつき今、自分で検証して驚いているような始末である。

 

  私の名前は さとう としお、すなわち、サトウとシオ、砂糖と塩であり、マクロビオティック、すなわち食物の陰陽原理で言えば、最初と最後の極端同士の組み合わせの最たるものである。すなわち、性質で言えば「陰」と「陽」の双立と言うことである。

 

  さとう としお は数に置き換えると姓は310(さとう)であり、名は140(としお)である。数を合計すると姓は3+1+0=4であり、名は1+4+0=5である。すると姓の4と名前の5は「陰」と「陽」の最たる数であり、4+5=9→0 となる。計算は「神の数学」の数の流儀によるものである、「神の数学」を少しでもひも解いたあなた方ならすぐに判るであろう。

 

   私の住所の番地は 1017、すなわち、0を挟んで1と8であり、故に、1+8=9→0

 

  わたしの℡&fax番号は0558(76)4334(HPにある通り)である。すると、

局番は0558と(76)である。すると、0558(∑)=18→0、76(∑)=13→4、また個番は4334(∑)=14→5となる。すると、0、4、5となり、ここにも「陰」と「陽」の数である4と5が現れて、4+5=9→0 と相成っているのである。

  また最近、ある言霊の先生から電話番号の4334はすなわち、黄泉(よみ)(あの世を)を見よ(検証せよ)」と読むのであり、それがあなたの使命を案内するものであると言われた。

 

⑥   それで、はたと気がついたことがあった。 この電話番号は40年前あたりに電話局から貰ったものであり、そこに潜む意味などは今まで何も考えたこともなかった。

ところが5~6年前に中古の車を買ったのであるが、何とその番号が4334と言うナンバ-なのである。その時は何も知らずに、家人に電話番号と一緒とは面白い、これで何処へ行っても車を探しやすい、有難い番号であるなどと面白がっていたものである。

 

ところが、今度、事態は深刻になって来ているようである。要するに、最初の電話番号の4334は予告であり、今度の車の4334は催促の御達しであるとその人は言う。 なんと、そんなことは何も知らずに遊び呆け好きな事をだけをやっていたのである。

 要するに、余り与えられた仕事をかまけていたので、改めての神界からの催促が下ったと言うことなそうである。しかし、私はそんなことは知らずに好きな事(神の数学)を懸命に学んで一人で楽しみ、それを月に1回HPに流して人々の反応を楽しんでいたのである。
 それ以上に積極的に討って出ようなどとは今の今までに考えてもいなかったのである。

  それが怠慢と言われる由縁であり、お叱りの対象となったもののようである。

 

 その罰は突然下った、今年の6月のことである、突然歩行困難になって来た、平地なら歩くことが出来るのであるが、急な坂道はまったく駄目、息が切れて10歩と歩けないのである。すぐに病院に行くと診断は完全なガンの典型的な見本であると医者に宣告された。

 恐らくはもう5~6年前から始まった手遅れ気味のものであり、即入院、即手術と相成ったのである。しかし、心には何の動揺も起らなかった。アッケラカンの心境であった。

 しかし、私には少しの痛みも無いし、苦しみも無いので多寡をくくって、切りたいのなら勝手に切るがいいとばかり平気の平左の毎日であり、医者にもそう毒づいていた。要するに、ガンに対する恐怖心は何も無く、ケラケラと笑っている状態だったのである。

 

無事に手術は終わった、けれど切開したあとの苦しみ、痛みなどは不思議にも何も無いのである。

 本当に何の痛痒(かゆみ)さえも感じることもなく本人はまことにあっけらかんの状態であり、初日はともかく手術二日目あたりから毎日、面会所で病人仲間と大声で談話に明け暮れ、看護婦に寝ていなさいとたしなめられたこともたびたびあったくらいである。

 ただ、今でも痛さで覚えているのは血液を採取された時の注射器の痛みであり、病院の玄関先で転んで足を傘立てにぶつけた時の痛さだけである。まあ、懲りない男である。
 それでも2週間後には無事退院なとなり、家人達も最初の心配も消え失せほっとしたようである。問題はその後である、退院後の体調はすこぶる良く、まるで20代に戻ったような気分、すなわち、まったく若返ったような気分でルンルン気分の毎日なのである。

それまで微かにあった加齢のもやもや、それまで長年感じていた胃の不調などは何処かに飛んで行ってしまい、まさに、ガン様々の有難い気分で毎日を過ごしている状態である。

まあ、日本広しと言えどもガンにかかったことを感謝しているアホは私くらいであろう。今でも感謝している毎日であり、ガンにかかったことさえも忘れている毎日である。

 

 そこで私は思う、ガンにかかったことに悩み苦しむと言った精神的な苦痛こそが、かえって心に大きなダメ-ジを与え、体力の回復を遅らせる大きな原因なのではないのか…!?。これから先、無事に生涯を過すことが出来るのであろうか…?、家族はどうなるのであろうか…?、抱えているロ―ンは無事に払い切れるであろうか…?、そのような考えが度を増すにつれて、精神は不安定になり、それと共にますます体に負担が増して、回復力がどんどん失わせてしまうのではないのか…!??。

 要するに、あまりにも世間がガンの怖さに震え、あまりにも大騒ぎするので、それが病人の心に恐怖と不安をもたらして夜も眠れず、神経過敏になり過ぎて、とどのつまりには回復不能となってしまうのではないのか…!!??。

 今回の自分の体験上からもそう思われて仕方がないのである。だからこそ、あえてこのガンの始末記を皆さんにご報告申し上げているのである。本来ならば、忌むべきことは大っぴらにすべきではなく隠して置くのが礼儀なのであろうが…!!。

 一つマスコミや医者と患者、皆でそのあたりを真剣に考えて見るべきではなかろうか…!!?。

 

 

 例えば、薬と偽って病人に小麦の粉を飲ませると、一気に病気が治ってしまうとか、今、飲んだ飲みものの中に毒薬を入れておいた等と言えば急に苦しみだすことがあると医者の話にはよくあることである。
 要するに、肝心なことは気の持ち方、心の持ち方なのである。それが如何に大切なことであるかを語る大きな証拠であり、その証左と言うものである。 これを称して医学の言葉ではプラシボ-効果と言うそうである。


最近になり、年のせいか、私はこれらの私の身に起こった事はすべて「神」の戒めであり、ルンルン気分で世の中を渡って来た懲罰ではないかと思うようになって来ている。 普通の人から見るとおかしいものであり、半ば狂った人間と思うであろう。

 まあ、老人の妄想と言ってしまえば、それまでであるが、今は真剣に考えはじめている。

 要するに、人生の黄昏時ではあるが、ここらで心を入れ替えて少しは活動しなければ申し訳ないと言う気持ちが少しづつ持ち始めていると言うことである。 それは大分、常識的な人間になって来ていると言うことかもしれない。

 

 私の察するところでは、これらは「神」の宣伝マンとして少しは働いてくれとの催促であり、目を覚ます時が来たとのお知らせを告げるものと考えている。まあ、勝手な思い込みと言われればそれまでであるが……!!。

 考えて見ると、そろそろ、年貢の納め時の80歳ではあるが、体も心もすこぶる健康な状態に戻っているのであり、どんどん気迫も充ち々て来ている毎日である。それこそまさに「神」の仕事をせい、との通達であり、そのために用意された体の健康回復のようにも思えるのである。まあ、何と言う殊勝な心がけなのであろうか、まるで別人のようである。

 

 そこで決めたのである、残りの人生は自然の叡知学、すなわち、「神の数学」を世に出し、「神」のサンドウッチマンとして最後の御奉公に精を出し、「神の知」と共に生き、「神」の指図の下に動き、それにより「神」の存在を明らかにするくことを…!!?。
 まあ、何と言うご都合主義であろうか、何と言う変わり身の早さであろうか…!?。自分でも呆れ果てている。

 

 さあ、西へ向かうのか、東に走ろうか、それは「神」が決めてくれるであろう。

 私は今や万感の思いを込めて「神」の指図通りに従って懸命に「神の知」を広く天下に喧伝するだけであり、ただただ一心不乱に道を邁進するだけである。 寝て一畳、起きて半畳の居間があれば十分であり、一日一食の食事があれば、もう何も不足はない、…!!!。それに、後五年の月日があれば「神の数学」を手に世界を席巻して古神道の名を轟かして見せようものと意気は盛んである。
 まあ、堪忍して下され、年寄りの冷や水、最後の悪足掻きとでも思って、どうか静観して下され…!!!。 ハハハ……!!!。

 


 おかしい男、意味の判らないことを言う男とあなたは思われることであろう。改めて白状すると、私はある時ひょんなことから「神」と縁を結ぶことになったのである。

 現在でも、まことに不可思議極まりない「神の学」を学んでいる最中であり、老人ではあるが、まだ一介の学徒であると自分では思っているのである。●●

 何とか「神の知」を世の中に広げようと細々ながらHPに「神の数学」を書き記しているのである。しかし、すべては蔓延する西洋科学知に阻まれ、遅遅として進まず、単なる「とんでも学」と見なされて往生している最中である。

 実際に検証して見れば小学生でも判りそうな簡単な算術計算ではあるが、西洋的な知識だけひけらかしている今の学者先生達にはまったく判らないようである。 何と嘆かわしい世の中なのであろうか…!!。

 

 まあ、色々な事情が重なって「神」と仲良くなってからおよそ30年くらいは経っている。最初の苦労は並大抵ではなかった、夜遅くまで一つのことに考えを尽くし、「神」の答に達するまでは3晩、4晩とかかったものである。それと合わせて現代の物理、数学、神学の書等を読む、正直に言えば、苦しいよりも楽しいことの方が遥かに多かったことも事実である。

 結果的に言えば、その「神」との縁結びの諸々が心と脳に浸み込み、知らず知らずに私の人格形成に大きな影響を与え、今の世の中の変わり者と呼ばれるようになっているようである。

 

 要するに、それを称して「神の知」を持つ男と世間では呼んでいるようである。まあ、何といかめしい名前であろうか…!!。

 

 私自身は別に「神」を崇めたり、拝んだり等の特別な所作は何もしてはいない。

 だから、別に神棚も設けてはいないし、拝んだりする習慣もない。ただ我が家には40年前に家を建てた時に大工が作ってくれた小さな神棚が一つあるだけである。

 特別に神棚に向かって拝んだリ、柏手を打つこともしない。あるのは家族と一諸にお正月に柏手を打って来拝するくらいで、特に日頃親しく頭を下げることなどは特にない。

 当然、近所の神社にもお参りにも行くこともないので、ご賽銭なども上げたことも無い。まあ、ハッキリ言えば世俗的な「神」に対しては大変な無礼無精者であり、不信仰者の最たるものと言ってもいいのである。それは私も重々承知している。

 ハッキリ言えば、そんじよ、そこらにいる信仰心のまったく無い動物や鳥達と同じ心で「神」に接しているのである。要するに、「神」の存在を当たり前に考えて呼吸し、当たり前に考えて生活している日頃なので別に何とも思ってはいない。

 

そこは「霊」に対しても同じである。

 親、兄弟6人と長年連れ添った妻の7人の身内が「あの世」に去ったが、別にそれに対しても回向するとか、線香を上げるとかも昔から滅多にしない。ただ、お盆とお彼岸、それに親戚、縁者が回向に来た時には一緒に仏壇に手を合わせるくらいのものである。

 要するに、信仰心をもつ人からすればまことに罰当りの人間であり、とんでもない人間に見えるであろう。例え、面と向って破廉恥で、恥知らずの男と罵られてもいいような人間である。が別に気にもならない。なぜならば、すべては事実であり、その通りだからである。

 

 私に言わせれば、「神」の存在は当たり前のことであり、特別に拝むとか、伏して語るなどの所業をする方がおかしいのである。「神」とはそんないい加減な存在ではないし、そんな軽々しいような存在ではない。逆に、そのような人間サイドの甘い行為こそが「神」に対する冒涜に近いものであり、本来は何も意味を持たないものであることを知るべきである。 ホイ、また怒られそうである。

 

例えば、あなた方にとっては太陽は無くてはならない有難いものであるが、だからと言って毎日拝んだり、ひれ伏すような行動をして意味がないことを知っている、だからそんなことはしない。そんなことをしなくても太陽は燦々と我が身にも他人にも差別無く燦々と光と熱を与えてくれていることを知っているからである。

 はっきり言えば、そのような行為は個人の心に何らかの呵責があるからであり、その呵責を消し、チャラにする為の行為であり、全く意味の無いもの、すなわち、一つの人間サイドの方便と解釈してもいいものであろう。

 すなわち、自責の念、呵責の心のある者は「神」に許しを乞うために拝み、言葉を唱えることにより、心の呵責から逃れようとしているだけである。要するに、自分の弱い心を立て直すために、己の心の弱さを補なうための方策、それが神頼みなのである。

 

 また、私は「神」を貶めたり、「仏」をないがしろにした覚えもない。気持ちとしてはまことに常に平常心であり、自然心と言っていいものである。一般の人のように「神」に特別な気持ちを持って有難がたがり、「霊」に対してへつらったリ、語りかけることなどは今まで一回もない。 ただただ自然心であり、すべてのものに対して素直な気持ちで常に接しているだけである。ただ、それだけである。

 要するに、人間の目線で見れば、それは甚だ無愛想、不敬な限りと感じるかも知れない、しかし、自然の目で見ると決してそうでは無く、甚だ納得のいく当たり前のことを行っているだけである。

 私は常にそう思っているので少しも世間に対してはばかることも無いのである。

 

 

 確か、「神」とか「霊」の言葉は現代科学的な目で見れば胡散臭く、誰も真面目に考えようとはしない世の中である。私も同じで、もう少し若くて威勢がいい時だったら、「神」、そんなことなどはある筈がない、何と非科学的であり、古びた骨董的な考えの極みであると罵倒三昧の限りを尽くしたであろう。

 しかし、その昔とは事情が異なり、今では「神」に知を学んでいる身、常に「神」に接している身である。その昔とは180度の転換を果たした身であり、世の中を見る目さえも90度くらい変わったように感じている今日この頃である。当然、そこには昔とはまったく心掛けの違う自分があるのである。でも、まだ「神」を崇め、特別視する気持ちはさらさらない。 死ぬまでなさそうである。

 

 しかし、そのようにひとでなしのような不見識しか持たないような私ではあるが、この掌に現れたこれらの夥しい「神秘紋」は一体何を言おうとしているのであろうか…!!?。

 ただ、判るのは「神」の不興をかうとか、「神」にうとまれている等の不心得な心を持ったことは一度も無いし、今後も同じ様な態度を「神」に対して臨んでいくことは確かである。すると……!!??。

 つまり、「神」を言葉に唱えたり、恭しく拝むようなことはしないし、また、悪しざまに罵るようなこともしない、すなわち、自然体でいる限り、「神」は決して見離さないと言うことであり、よく見ていると言うことである。それでいいのであり、万事はスム-スに解決すると言うことである。 いや、むしろ歓迎していると言うことをこの手のひらの「神秘紋」や太陽線が証明し、物語っているので端ないのか…!!。

 恐らく、私のように、おべっか使わず、自然体で「神」に接していても、「神」の恩寵は十分受けられると言うことをこの二つの幸運紋の出現が証言しているのである。

 一方、いくら心から神を信じ、神を敬って這いつくばっても、思いや行動がそれにそぐわない限り意味がない、一切は無駄骨になり、ただ嘆息するだけで終わると言うことでもある。

 

 今の宗教家を見るがいい、口では「神」を讃え、神に従っている等としおらしいことを言っているが、果たしてそうであろうか。
 考えて見るがいい、彼等は常に他人を見下し、他民族を迫害し、挙句の果てには戦争行って多くの人々を死に追いやっているではないか。まさに神の心を裏切るようなとんでもない悪魔かその手下であり、人間殺しを平然と行って平気でいる。何かおかしい…!!。

 彼等は完全に人間失格であり、いくら「神」に手を合わせてもその寵愛を得ることは決して出来ない哀れな者達である。

 要するに、「神」の心に反するような行為を行い、損得の理屈だけで動いている限り、「神」の目は絶対こちらには向かない、故に、「神」の心には入れず、「神」と波動は共有できないと言うことである。

  その理由は簡単、要するに我々の心と「神」の心は常に繋がりを持っているのであり、我々の心に影がさせば、それは即、「神」の心に重なって影を宿すことになるのである。

 もっと、ハッキリ言えば、「神」の心からは常にビ-コンのような純波動が出ていて、すべてのものとその波動は交叉してそのまま反射的に親元(神)に返っていくのである。

 その場合心に何らかの歪みが発生した場合には波動はそのひずみを写したままで戻るのであり、そう報告されてしまうのである。

 それ故に、「神」は決して歪みを見逃したり、見過ししたことは無く、すべては無垢平等に行われるのである。要するに、「神」を崇めようが、「神」をさげずもうが余り関係ないと言うことであり、自分の心が歪んで変形しない限り神のおとがめは受けないと言うことである。

 

 まあ、つまらないことを並べ立てたが、要は自分の心に歪みをつくらない、心は常に真円であれば常に「神」とも心が相通じ、その庇護の下に平穏無事に生涯をすごすことが出来ると言うことである。

 

 まあ、最後に色々な御託を並べすぎた、何か感じるもよし、つまらなければ読み飛ばすのもよしである。人生、終盤になっている方々は何かを感じるはずであり、血気盛んな方には猫の耳に念仏であり、何も感じないものである。要はそれでいいのである。

 

少年老い易く、学成り難し。まさに老年終わりの際(きわ)にその事実を知る。

真の道は遠くて長く、果てしない。しかし人生はあまりにも短く、即終わりが来る。

その事実を知った時が最後の花道であり、その時はすでに前には道は無い。

ただ、茫然として後ろを振り返り、ただ悔悟の涙を流し、頭を垂れるだけである

 

                                                  (今月の記完了)

<転載終了>