tacodayoのブログさんのサイトより
http://blog.livedoor.jp/tacodayo/archives/7771353.html
<転載開始>
動画「封印された帝国政府声明 大東亜戦争の目的」

昭和16年12月9日の朝日新聞夕刊

その最下段中央右から左側のアップ
http://blog.livedoor.jp/tacodayo/archives/7771353.html
<転載開始>
動画「封印された帝国政府声明 大東亜戦争の目的」

昭和16年12月9日の朝日新聞夕刊

その最下段中央右から左側のアップ
以下は
大東亜戦争開戦の帝国政府声明
からの引用です。
【帝國政府聲明】原文
昭和16年12月9日午前0時20分
大日本帝国政府発表
恭しく宣戦の大勅を奉載し、茲に中外に宣明す。
抑々東亜の安定を確保し、世界平和に貢献するは、帝国不動の国是にして、列国との友誼を敦くし此の国是の完遂を図るは、帝国が以て国交の要義と為す所なり。
然るに殊に中華民国は、我が真意を解せず、徒に外力を恃んで、帝国に挑戦し来たり、支那事変の発生をみるに至りたるが、御稜威(みいつ)の下、皇軍の向ふ所敵なく、既に支那は、重要地点悉く我が手に帰し、同憂具眼の十国民政府を更新して帝国はこれと善隣の諠を結び、友好列国の国民政府を承認するもの已に十一カ国の多きに及び、今や重慶政権は、奥地に残存して無益の交戦を続くるにすぎず。
然れども米英両国は東亜を永久に隷属的地位に置かんとする頑迷なる態度を改むるを欲せず、百方支那事変の終結を妨害し、更に蘭印を使嗾(しそう)し、佛印を脅威し、帝国と泰国との親交を裂かむがため、策動いたらざるなし。乃ち帝国と之等南方諸邦との間に共栄の関係を増進せむとする自然的要求を阻害するに寧日(ねいじつ)なし。その状恰も帝国を敵視し帝国に対する計画的攻撃を実施しつつあるものの如く、ついに無道にも、経済断交の挙に出づるに至れり。
凡そ交戦関係に在らざる国家間における経済断交は、武力に依る挑戦に比すべき敵対行為にして、それ自体黙過し得ざる所とす。然も両国は更に余国誘因して帝国の四辺に武力を増強し、帝国の存立に重大なる脅威を加ふるに至れり。
帝国政府は、太平洋の平和を維持し、以て全人類に戦禍の波及するを防止せんことを顧念し、叙上の如く帝国の存立と東亜の安定とに対する脅威の激甚なるものあるに拘らず、堪忍自重八ヶ月の久しきに亘り、米国との間に外交交渉を重ね、米国とその背後に在る英国並びに此等両国に附和する諸邦の反省を求め、帝国の生存と権威の許す限り、互譲の精神を以て事態の平和的解決に努め、盡(つく)す可きを盡し、為す可きを為したり。然るに米国は、徒に架空の原則を弄して東亜の明々白々たる現実を認めず、その物的勢力を恃みて帝国の真の国力を悟らず、余国とともに露はに武力の脅威を増大し、もって帝国を屈従し得べしとなす。
かくて平和的手段により、米国ならびにその余国に対する関係を調整し、相携へて太平洋の平和を維持せむとする希望と方途とは全く失はれ、東亜の安定と帝国の存立とは、方に危殆に瀕せり、事茲に至る、遂に米国及び英国に対し宣戦の大詔は渙発せられたり。聖旨を奉体して洵(まこと)に恐懼感激に堪へず、我等臣民一億鉄石の団結を以て蹶起勇躍し、国家の総力を挙げて征戦の事に従ひ、以て東亜の禍根を永久に排除し、聖旨に応へ奉るべきの秋なり。
惟ふに世界万邦をして各々その處を得しむるの大詔は、炳(へい)として日星の如し。帝国が日満華三国の提携に依り、共栄の実を挙げ、進んで東亜興隆の基礎を築かむとするの方針は、固より渝(かわ)る所なく、又帝国と志向を同じうする独伊両国と盟約して、世界平和の基調を糾し、新秩序の建設に邁進するの決意は、愈々牢固たるものあり。
而して、今次帝国が南方諸地域に対し、新たに行動を起こすのやむを得ざるに至る。何等その住民に対し敵意を有するものにあらず、只米英の暴政を排除して東亜を明朗本然の姿に復し、相携へて共栄の楽を分たんと祈念するに外ならず、帝国は之等住民が、我が真意を諒解し、帝国と共に、東亜の新天地に新たなる発足を期すべきを信じて疑わざるものなり。
今や皇国の隆替、東亜の興廃は此の一挙に懸かれり。全国民は今次征戦の淵源と使命とに深く思を致し、苟(かりそめに)も驕ることなく、又怠る事なく、克く竭(つく)し、克く耐へ、以て我等祖先の遺風を顕彰し、難儀に逢ふや必ず国家興隆の基を啓きし我等祖先の赫々たる史積を仰ぎ、雄渾深遠なる皇謨(こうぼ)の翼賛に萬遺憾なきを誓ひ、進んで征戦の目的を完遂し、以て聖慮を永遠に安んじ奉らむことを期せざるべからず。
==========
口語訳【帝国政府声明文】
昭和16年12月9日午前0時20分発表
このたび宣戦布告が発せられました。
そこで大日本帝国として、国の内外に声明を発します。
東アジアの安定を確保し、世界平和に貢献するのは、日本の不動の国是です。
そのために日本は列国と友誼を厚くしてきました。
国是を完遂することこそ、日本国の外交の要(かなめ)です。
ところが蒋介石率いる国民党政府は、我が日本の真意を理解せず、いたずらに外国の力をたのんで、日本に敵対し、この結果、支那事変が起きました。
けれど陛下の御威光の下、日本軍の向かうところに敵はありません。
支那の重要地点は、いまやことごとく日本軍の手に帰しています。
さらに日本と思いをおなじくする人々と、南京に国民政府が生まれ、いまや支那国民政府と日本は、良好な隣国としての諠(よしみ)を結ぶに至っています。
さらにその支那国民政府を国家政府として承認する国も、すでに11カ国に及んでいます。
いまやこれに敵対する重慶政権は、支那の奥地に残存して無益の交戦を続けているだけの状態となっている。
こうしてようやく支那に平和が戻ろうとしている情況ができつつあるのに、米英両国は東亜を永久に隷属的地位に置こうとする頑迷な態度を改めていません。
米英両国は、さまざまな奸計を用いて支那事変の終結を妨害し、更にオランダをそそのかし、フランスに脅威を与え、日本とタイ国との親交までも裂こうとして策動しています。
その動きは、日本とこれら東亜の南方諸国との間に共存共栄の関係を築こうとする、ごくあたりまえな民衆の欲求を阻害し、東亜の民衆に永遠に「安らかな日」を与えようとしないものです。
こうした米英両国の動きは、日本を敵視し、日本に対して計画的に攻撃を実施しつつあるものです。
そしてついに彼らは、無道にも「経済断交」という暴挙を打ち出してきました。
およそ交戦関係にない国家間において「経済断交」というのは、武力による挑戦に匹敵する敵対行為といえます。国家として黙視できるようなものではありません。
しかも米英両国は、さらに他の国々を誘い込んで、日本の四方で武力を増強し、日本の自立に重大な脅威を与えつつあります。
日本国政府はこれまで、上に述べたよう米英が日本の存立と東亜諸国の安定とに対して重大な脅威を与えて来ているにもかかわらず、太平洋の平和を維持し、全人類に戦禍の波及することがないよう堪忍自重し、米国と外交交渉を重ね、背後にいる英国並びに米英両国に附和する諸国に反省を求め、日本の生存と権威の許す限り、互譲の精神をもって事態の平和的解決に努めてきました。
手をつくすべきをつくし、為すべきことを為しつくしてきたのです。
けれど米国はいたずらに架空の原則を弄して東亜諸国の現実を認めず、日本の真の国力を悟ろうともせず、物量だのみで武力による脅威を増大させ、日本を屈従させようとし続けました。
日本は、平和的手段で米国ならびにその他の国に対する関係を調整し、ともに手をたずさえて太平洋の平和を維持しようとする希望と方途を全く失うことになってしまったのです。
こうして東亜の安定と帝国の存立とは、まさに危機状態に瀕することになりました。
そしてことここに至って、ついに米国及び英国に対し宣戦の詔勅が発せられたのです。
詔勅を承り、まことに恐懼感激に堪えないものがあります。
私たち帝国臣民は、一億鉄石の団結で決起し、勇躍し、国家の総力を挙げて戦い、もって東亜の禍根を永久に排除し、聖旨にこたえ奉るべきときとなりました。
おもうに、世界各国が各々その所を得るべしという詔勅は、日星のあきらかであることと同じです。
日本が日満華三国の提携によって共栄の実を挙げ、進んで東亜諸国の興隆の基礎を築こうととしてきた方針は、もとより変るものではありません。
また日本は、志を同じくするドイツ、イタリア両国と盟約し、世界平和の基調を糾(ただ)し、新秩序の建設に邁進する決意をますます牢固にしています。
このたび日本は、南方諸地域に対して、やむを得ず新たに行動を起こすことになりましたが、何等その諸地域の住民たちに対して敵意を持つものではありません。
ただ米英の暴政を排除して、東亜を明朗なもともとの姿に復し、手を携(たずさ)えて共栄の楽をわかちあおうと祈念するものにほかなりません。
日本は、これら諸地域の住民が、日本の真意を了解し、日本とともに、東亜の新天地の新たな発足を期していただけることを信じて疑いません。
今や日本の栄衰と東亜の興廃は、この一挙にかかることとなりました。(皇国ノ隆替 東亜ノ興廃ハ此ノ一挙ニ懸カレリ)
全国民は、このたびの戦いの原因と使命に深く思いをはせてください。
そして、どんなときにもけっして驕(おご)ることなく、また怠(おこた)ることなく、よく尽(つ)くし、よく耐(た)え、それによって私たちの祖先の遺風を顕彰し、困難にあったら必ず国家興隆の基を築いた私たちの祖先の赫々(かくかく)たる歴史と業績を思い、雄渾深遠な陛下の統治を思い、万事にわたってソツがないようにすることを誓い、進んで征戦の目的を完遂し、もって陛下の御心を永遠に安んじ奉ることを期します。
以上引用終わり。
大東亜戦争開戦の帝国政府声明
からの引用です。
【帝國政府聲明】原文
昭和16年12月9日午前0時20分
大日本帝国政府発表
恭しく宣戦の大勅を奉載し、茲に中外に宣明す。
抑々東亜の安定を確保し、世界平和に貢献するは、帝国不動の国是にして、列国との友誼を敦くし此の国是の完遂を図るは、帝国が以て国交の要義と為す所なり。
然るに殊に中華民国は、我が真意を解せず、徒に外力を恃んで、帝国に挑戦し来たり、支那事変の発生をみるに至りたるが、御稜威(みいつ)の下、皇軍の向ふ所敵なく、既に支那は、重要地点悉く我が手に帰し、同憂具眼の十国民政府を更新して帝国はこれと善隣の諠を結び、友好列国の国民政府を承認するもの已に十一カ国の多きに及び、今や重慶政権は、奥地に残存して無益の交戦を続くるにすぎず。
然れども米英両国は東亜を永久に隷属的地位に置かんとする頑迷なる態度を改むるを欲せず、百方支那事変の終結を妨害し、更に蘭印を使嗾(しそう)し、佛印を脅威し、帝国と泰国との親交を裂かむがため、策動いたらざるなし。乃ち帝国と之等南方諸邦との間に共栄の関係を増進せむとする自然的要求を阻害するに寧日(ねいじつ)なし。その状恰も帝国を敵視し帝国に対する計画的攻撃を実施しつつあるものの如く、ついに無道にも、経済断交の挙に出づるに至れり。
凡そ交戦関係に在らざる国家間における経済断交は、武力に依る挑戦に比すべき敵対行為にして、それ自体黙過し得ざる所とす。然も両国は更に余国誘因して帝国の四辺に武力を増強し、帝国の存立に重大なる脅威を加ふるに至れり。
帝国政府は、太平洋の平和を維持し、以て全人類に戦禍の波及するを防止せんことを顧念し、叙上の如く帝国の存立と東亜の安定とに対する脅威の激甚なるものあるに拘らず、堪忍自重八ヶ月の久しきに亘り、米国との間に外交交渉を重ね、米国とその背後に在る英国並びに此等両国に附和する諸邦の反省を求め、帝国の生存と権威の許す限り、互譲の精神を以て事態の平和的解決に努め、盡(つく)す可きを盡し、為す可きを為したり。然るに米国は、徒に架空の原則を弄して東亜の明々白々たる現実を認めず、その物的勢力を恃みて帝国の真の国力を悟らず、余国とともに露はに武力の脅威を増大し、もって帝国を屈従し得べしとなす。
かくて平和的手段により、米国ならびにその余国に対する関係を調整し、相携へて太平洋の平和を維持せむとする希望と方途とは全く失はれ、東亜の安定と帝国の存立とは、方に危殆に瀕せり、事茲に至る、遂に米国及び英国に対し宣戦の大詔は渙発せられたり。聖旨を奉体して洵(まこと)に恐懼感激に堪へず、我等臣民一億鉄石の団結を以て蹶起勇躍し、国家の総力を挙げて征戦の事に従ひ、以て東亜の禍根を永久に排除し、聖旨に応へ奉るべきの秋なり。
惟ふに世界万邦をして各々その處を得しむるの大詔は、炳(へい)として日星の如し。帝国が日満華三国の提携に依り、共栄の実を挙げ、進んで東亜興隆の基礎を築かむとするの方針は、固より渝(かわ)る所なく、又帝国と志向を同じうする独伊両国と盟約して、世界平和の基調を糾し、新秩序の建設に邁進するの決意は、愈々牢固たるものあり。
而して、今次帝国が南方諸地域に対し、新たに行動を起こすのやむを得ざるに至る。何等その住民に対し敵意を有するものにあらず、只米英の暴政を排除して東亜を明朗本然の姿に復し、相携へて共栄の楽を分たんと祈念するに外ならず、帝国は之等住民が、我が真意を諒解し、帝国と共に、東亜の新天地に新たなる発足を期すべきを信じて疑わざるものなり。
今や皇国の隆替、東亜の興廃は此の一挙に懸かれり。全国民は今次征戦の淵源と使命とに深く思を致し、苟(かりそめに)も驕ることなく、又怠る事なく、克く竭(つく)し、克く耐へ、以て我等祖先の遺風を顕彰し、難儀に逢ふや必ず国家興隆の基を啓きし我等祖先の赫々たる史積を仰ぎ、雄渾深遠なる皇謨(こうぼ)の翼賛に萬遺憾なきを誓ひ、進んで征戦の目的を完遂し、以て聖慮を永遠に安んじ奉らむことを期せざるべからず。
==========
口語訳【帝国政府声明文】
昭和16年12月9日午前0時20分発表
このたび宣戦布告が発せられました。
そこで大日本帝国として、国の内外に声明を発します。
東アジアの安定を確保し、世界平和に貢献するのは、日本の不動の国是です。
そのために日本は列国と友誼を厚くしてきました。
国是を完遂することこそ、日本国の外交の要(かなめ)です。
ところが蒋介石率いる国民党政府は、我が日本の真意を理解せず、いたずらに外国の力をたのんで、日本に敵対し、この結果、支那事変が起きました。
けれど陛下の御威光の下、日本軍の向かうところに敵はありません。
支那の重要地点は、いまやことごとく日本軍の手に帰しています。
さらに日本と思いをおなじくする人々と、南京に国民政府が生まれ、いまや支那国民政府と日本は、良好な隣国としての諠(よしみ)を結ぶに至っています。
さらにその支那国民政府を国家政府として承認する国も、すでに11カ国に及んでいます。
いまやこれに敵対する重慶政権は、支那の奥地に残存して無益の交戦を続けているだけの状態となっている。
こうしてようやく支那に平和が戻ろうとしている情況ができつつあるのに、米英両国は東亜を永久に隷属的地位に置こうとする頑迷な態度を改めていません。
米英両国は、さまざまな奸計を用いて支那事変の終結を妨害し、更にオランダをそそのかし、フランスに脅威を与え、日本とタイ国との親交までも裂こうとして策動しています。
その動きは、日本とこれら東亜の南方諸国との間に共存共栄の関係を築こうとする、ごくあたりまえな民衆の欲求を阻害し、東亜の民衆に永遠に「安らかな日」を与えようとしないものです。
こうした米英両国の動きは、日本を敵視し、日本に対して計画的に攻撃を実施しつつあるものです。
そしてついに彼らは、無道にも「経済断交」という暴挙を打ち出してきました。
およそ交戦関係にない国家間において「経済断交」というのは、武力による挑戦に匹敵する敵対行為といえます。国家として黙視できるようなものではありません。
しかも米英両国は、さらに他の国々を誘い込んで、日本の四方で武力を増強し、日本の自立に重大な脅威を与えつつあります。
日本国政府はこれまで、上に述べたよう米英が日本の存立と東亜諸国の安定とに対して重大な脅威を与えて来ているにもかかわらず、太平洋の平和を維持し、全人類に戦禍の波及することがないよう堪忍自重し、米国と外交交渉を重ね、背後にいる英国並びに米英両国に附和する諸国に反省を求め、日本の生存と権威の許す限り、互譲の精神をもって事態の平和的解決に努めてきました。
手をつくすべきをつくし、為すべきことを為しつくしてきたのです。
けれど米国はいたずらに架空の原則を弄して東亜諸国の現実を認めず、日本の真の国力を悟ろうともせず、物量だのみで武力による脅威を増大させ、日本を屈従させようとし続けました。
日本は、平和的手段で米国ならびにその他の国に対する関係を調整し、ともに手をたずさえて太平洋の平和を維持しようとする希望と方途を全く失うことになってしまったのです。
こうして東亜の安定と帝国の存立とは、まさに危機状態に瀕することになりました。
そしてことここに至って、ついに米国及び英国に対し宣戦の詔勅が発せられたのです。
詔勅を承り、まことに恐懼感激に堪えないものがあります。
私たち帝国臣民は、一億鉄石の団結で決起し、勇躍し、国家の総力を挙げて戦い、もって東亜の禍根を永久に排除し、聖旨にこたえ奉るべきときとなりました。
おもうに、世界各国が各々その所を得るべしという詔勅は、日星のあきらかであることと同じです。
日本が日満華三国の提携によって共栄の実を挙げ、進んで東亜諸国の興隆の基礎を築こうととしてきた方針は、もとより変るものではありません。
また日本は、志を同じくするドイツ、イタリア両国と盟約し、世界平和の基調を糾(ただ)し、新秩序の建設に邁進する決意をますます牢固にしています。
このたび日本は、南方諸地域に対して、やむを得ず新たに行動を起こすことになりましたが、何等その諸地域の住民たちに対して敵意を持つものではありません。
ただ米英の暴政を排除して、東亜を明朗なもともとの姿に復し、手を携(たずさ)えて共栄の楽をわかちあおうと祈念するものにほかなりません。
日本は、これら諸地域の住民が、日本の真意を了解し、日本とともに、東亜の新天地の新たな発足を期していただけることを信じて疑いません。
今や日本の栄衰と東亜の興廃は、この一挙にかかることとなりました。(皇国ノ隆替 東亜ノ興廃ハ此ノ一挙ニ懸カレリ)
全国民は、このたびの戦いの原因と使命に深く思いをはせてください。
そして、どんなときにもけっして驕(おご)ることなく、また怠(おこた)ることなく、よく尽(つ)くし、よく耐(た)え、それによって私たちの祖先の遺風を顕彰し、困難にあったら必ず国家興隆の基を築いた私たちの祖先の赫々(かくかく)たる歴史と業績を思い、雄渾深遠な陛下の統治を思い、万事にわたってソツがないようにすることを誓い、進んで征戦の目的を完遂し、もって陛下の御心を永遠に安んじ奉ることを期します。
以上引用終わり。
以下は
今こそ中国人に突きつける 日中戦争真実の歴史
のカスタマーレビューからの引用です。
中国に関する多くの著作を持つ親日家の黄文雄氏の最新作である。著者は極めて多作であり、すべてを買う気にはならないのだが、数ある中国批判の著作の中でも「日中戦争」にテーマを絞ったものだったので読んでみることにした。
帝国主義の時代において、アジアを列強(特にロア)の進出から守るために、国家の体を成していなかった中国に代わって満州を確保した日本は、各地の軍閥間の権力争いとそれを陰で支援する米英、ロシアとの三つ巴の内戦にずるずると引き込まれ、結局アメリカに破れてしまう。
敗戦国であるがゆえに戦後一方的に悪者にされてきたが、日本の中国進出当時の中国という社会がどれほど庶民にとって苛酷なものだったか、そして
日本の統治によって治安が見違えるほど良くなったことで庶民にどれほど歓迎されたことか、
日本が満州で行ったインフラの整備でどれだけ中国の近代化に貢献したかが述べられている。
この本のもう一つのテーマが、反日の正体である。
日本に習って国家改造を日本の指導のもとに行い、近代化の道を歩み始めると今までは存在しなかったナショナリズムが芽生え始め、指導に当たっていた日本人を排斥しようという動きが出て来た。それを利用して自分たちの目的を果たそうともくろんだアメリカ、共産党が反日を煽ったのが始まりである。そして戦後は中国の支配者となった共産党が自らの正当性を証明するためと、多民族国家中国をまとめるため、外に敵を作るという常套手段の標的に日本がされた、というのがその正体である。
以上引用終わり。
こちらもどうぞ。
「中国の『正しい歴史認識』の正体」
「日中戦争の真実」
以下は
【私感】万里の長城はオブジェではない!
からの引用です。
万里の長城は何のために作られたのでしょう・・・?
-----------------------------------------------------
小学6年生の娘が「総合的学習で満州事変の調べ学習をしているの」と言うので【満州事変】についてどんな勉強をしているのか聞いてみました。
娘曰く、「日本軍が満州鉄道を爆発させて、それを中国のせいにして満州を占領した」とのこと。
念のため、中学校の歴史教科書(帝国書院)を見ると
「関東軍は1931年9月、南満州鉄道の奉天付近で爆破事件をおこし(柳条湖事件)、これを中国側のしたこととして攻撃をはじめ、満州全体を占領しました(満州事変)」
〈中略〉
「中国は、日本の武力侵略として国際連盟に訴えました」
と記述してあります。
残念ながら、教科書では、中国側の立場に立った記述になっており、これが現状の授業なのでしょう。
そもそも中国(当時の中華民国)という国の立場から解説することが大間違いであると思うのですが・・・。
-----------------------------------------------------
娘に説明もしないといけないので、やまもとなりに簡単にまとめて見ました。
・日清戦争時、その名称から解るように、日本は清と(国防上、ロシアの朝鮮半島侵略を防ぐ為に)戦う。
・日本は、日露戦争を歴て、その大きな代償と引き換えに、南満州鉄道及び領地の租借権、朝鮮半島に対する排他的指導権などを獲得する。
・その後、清の皇帝 溥儀(満州民族 当時6才)が漢民族の孫文にだまされ、皇帝を退位。
清が消滅したため、そのままでは日清・日露戦争で得た権利が消滅してしまう。
・その権利を守りたい日本の思惑と、国をだまし取られ、満州民族の国を再建したい溥儀との思惑が一致し、柳条湖事件をきっかけに満州事変を経た後、満州国を建国した。
・満州国建国後は、以前の権利に加え、溥儀や満州民族に代わって中華民国と戦い、建国した代償として他の利権も手にする事になった。
つまり、(日本の立場から見て)教科書が書いているような占領、侵略ではなく、(タコ注:日露戦争で)大きな犠牲を払って手にした権利、
国益を守る為の
自衛の為の積極的軍事行動であったのだと・・・。
-----------------------------------------------------
また、満州国の立場から【満州事変】をみても・・・
・もともと、漢民族(中国)と満州民族は一つの民族・国ではなかった。
・日本が中国を侵略して、新たな国、満州国を作ったのでもない。
・孫文にだまされて消滅した満州民族の国を取り戻しただけ。
・もっと簡単に言うと、満州民族が占領していた万里の長城から南側(地図の下側)を返してもとの地域にもだっただけ・・・。

その証拠が明代に作られた、
国境・敵国からの防護壁を意味する【万里の長城】
なのであり、決してオブジェとして作られた物では無いのです。
※つまり、万里の長城を堺に、地理的にも民族的にも一つの国が存在したわけではないという、歴史上の事実が理解できます。
以上引用終わり。
満州族の先祖の地ということで人の出入りが禁止され、また冬場はマイナス10℃から20℃という厳しい自然のため清朝末期には
ほとんど誰も住んでいない土地でした(夏場に遊牧民が一時を過ごす程度)。
それを日本人のお金で灌漑設備や電気、水道を整備して農業や工鉱業が発展し人が住めるようになったとたんに、
俺のモンだ!よこせ!
と言い出したのが日中戦争の原因の一つです。
尖閣諸島で石油が出そうだとなったとたんに、
俺のモンだ!よこせ!
と言い出したのと同じです。
ですから、
支那人が、「日本が中国を侵略した」と言ってきたならば、
何を抜かすか、居直り強盗の人食い人種め(`_´メ)
お前ら漢民族の泥棒体質が戦争の原因やろ!!
と言ってやれば良いわけです。

小笠原諸島にまで船団を組んでサンゴを密漁しに来る泥棒支那漁船。


密漁船団と海上保安庁の巡視船。

尖閣諸島で巡視船に体当たりをかます
強盗支那漁船。
以下は
張作霖と満州のお話
からの引用です。
そして康熙帝が行った、もうひとつの重要な事柄に「封禁令」というものがあります。
「封禁令」というのは「漢人は清国皇帝の聖地である満洲国に入るべからず」というものです。
要するに
康熙帝は、自らの出身地である満州地方を聖地とし、漢人の立ち入りを禁じた。
今日のお話の最大のポイントです。
康熙帝は、漢人(支那人)の立ち入りを禁じただけでなく、支那と満洲の国境である山海関に、関所を設け、支那人の入国を規制します。
このあたりの清の歴史をみると、明代に支那の治世が乱れ、漢人に平和と安定を脅かされた満洲方面を根拠地にする女真族が、ついには漢人の本拠地である北京にまで大軍を押し進めて漢人を抑え、それによって女真族の地である満州地方の平和と安定を図ったという歴史を見て取ることができます。
逆にいえば、女真族(満洲人)が、自国の平和と安定を図るためには、暴虐極まりない支那(漢人)たちの本拠地を制圧し、そこに首都を移転して漢人たちに君臨し、自国(満洲)の平和と安寧を図るしかなかった。
ちなみに山海関というのは、万里の長城の出発点です。
康熙帝は、封禁令によって、満洲国と支那との間の交通は、この関所以外、一切認めなかった。
おかげで、満洲地方は、この後約二百年にわたり、平和と安定を得ることができました。
ところが、清の治世が乱れ、欧米列強が支那の大地への浸食を始めると、満洲地方の安定も、損ねられてしまう。ロシアの南下です。
義和団の乱(1894~1901)の後、乱の当時はろくな働きをしなかったロシアが、勝手に南下をはじめ、ついには大連のあたりまで浸食してしまう。
ロシア人のすることも、漢人と同じです。武力を用いて一般人を脅し、富と女を収奪する。
ロシア人たちが南下したとき、どれだけヒドイ仕打ちを現地の人にするかは、戦後、満洲から引き揚げようとする日本人達に、彼らがどのような振舞をしたかを見ても明らかだし、カザフやその他、何何スタンと名のつく国々が、ロシアや旧ソ連によってどれだけ酷い仕打ちを受けてきたかの歴史をみれば、なお一層明らかです。
ベラ・ルーシー(白ロシア)という名称があります。
これはモンゴルの騎馬軍団がモスクワからポーランドへと侵攻していくとき、湖沼が多い白ロシアの地を避けて通った。
だから「レイプがなかったルーシー(ロシア)」という意味で「ベラ(白、純潔)」ルーシーと呼ばれています。
どういうことかというと、13世紀のモンゴル軍というのは、支配地における強姦が将兵の職務となっていた。だからモンゴルの正統な継承国であるロシアは、それが現在にいたるまで不変の文化として残っていて、そうした文化は、そのまま旧ソ連に引き継がれた。
ソ連軍による無制限の強姦については、数限りないほどの証言が残っています。
「ドイツ人の女性は老女から4歳の女児に至まで、エルベ川の東方(ソ連占領地区)で暴行されずに残ったものはいなかった。あるロシア人将校は、一週間のうち少なくとも250人に暴行された少女に出会った」(「スターリン」ニコライ・トルストイ著)
「ベルリンの二つの主要病院によるレイプ犠牲者の推定数は9万5千ないし13万人。ある医師の推定では、ベルリンでレイプされた10万の女性のうち、その結果死亡した人が1万人前後、その多くは自殺だった」
「東プロイセン、ポンメルン、シュレージェンでは、すくなくとも200万人のドイツ女性がレイプされ、繰り返し被害を受けた人も、過半数とまでいかなくても、かなりの数にのぽる」(「ベルリン陥落1945」アントニー・ビーヴァー著自水杜)
こうしたロシア兵が、満洲に南下し、さらに朝鮮半島を経由して日本に襲いかかろうとしている。
日本は、日本を守りぬくために、朝鮮北部から満洲にかけて(当時は朝鮮は日本の一部です)南下するロシア軍との戦いに臨んだ。これが日露戦争(1904~1905)です。
日露戦争が終わると、日本は、ロシアが満洲に持っていた権益を合法的に受け継ぎます。
当時の満州は、「馬賊と阿片は満洲の花」といわれるくらいの、盗賊王国、麻薬王国だった。
そりゃあそうです。清の国力が弱まり、ロシアが南下して暴行のし放題。(タコ注:僅かな)田畑は荒らされ、仕事はなく、飯も食えない。女房や娘は強姦され、子供たちは虐殺される。
ある程度元気の良いものは、馬賊になって徒党を組んで強盗団にでもならなければ生きていけなかった。そして馬賊となった人々を食わせるためには、馬賊の頭領は、アヘンを売り捌くのがいちばん手っ取り早かった。
日本は、混迷を続ける満洲で、きわめて生真面目に馬賊を退治し、法を定めて治安を保ち、産業を興し、農業を活性化し、道路や街を作り、あのリットン調査団ですら賞賛せざるを得なかった街づくり、国づくりを行います。
下の図は、全満洲の発電量のグラフです。当時の満州は、発電機、変圧器、送電線など、世界水準を超えるものとなっていた。

これだけではありません。日本は、満洲に「国道建設10か年計画」を策定し、道路や橋梁を築いた。昭和12(1937)年頃には、全満洲の全国道は、1万キロを超え、四季を通じて自動車の運行が可能にしています。
なにもない荒野に、新京(長春)、奉天(瀋陽)、ハルピン、吉林、チチハル、承徳、営口、錦洲、牡丹江といった近代都市を次々建設した。
さらに鞍山製鉄所では、年間20万トンもの鉄鋼資源が製造され、大連発電所、豊満ダム他、数々の近代工業設備投資が行なった。
満州人、朝鮮人、支那人にわけへだてなく諸学校を作り、近代的医療を施し、司法・行政機関を作り、支那大陸の歴史始まって以来、初の法治を行った。
近代的警察制度を行い、軍閥や匪賊を討伐し、街を整備して
アジアの奇跡と呼ばれるほどの近代化を促進したのです。
要するに、日本が行ったことは、現地人を教育し、彼らの生活水準を日本の内地と同じ水準に引き上げるというものです。
これは、欧米列強による植民地化・・・富の収奪を目的とするものと、その心得がまるで違う。
このため当時の満州は、治安は日本の軍が守り、街は建設の息吹に燃え、そこには労働が発生し、きちんと賃金も払われた。農業も振興され、日本の指導によって、きちんと灌漑が行われて肥沃となった農地で、人々は安心して農作業を営むことができるようになります。
つまり、食えて、働けて、安心して住むことができた。
断っておきますが、これら満洲の国家的インフラ整備は、満洲事変前、つまり、満洲国が起こる前の出来事です。
いまでもそうだけれど、支那人という人種は、そこが食えて、働けて、住めるということがわかると、大挙して押し寄せる。
マンションの一室に、ある日、支那人が住み始める。気がつくと、その支那人の親戚やら友人といった連中が、次々と支那からやってきて、そのマンションに住み始める。気がつくとそのマンションは、ほぼ全棟、支那人ばかりという情況になる。
こうした行動パターンは、古来、支那人(漢人)の特徴です。
当時の満州は、
日本統治のわずか2年ほどの間に、
もとは満蒙人しか住んでいなかったのに、
なんと9人中8人までもが
漢人(支那人)になってしまった。
------------------------------
【昭和5年当時の満洲の人口】
満蒙人 300万人
支那人 2600万人
朝鮮人 100万人
日本人 23万人
------------------------------
このことを、左翼系に偏向した歴史教科書などは「清王朝の政策によって支那人の満洲地方への入植が行われた」などと書いています。
これはとんでもない大嘘で、当時の清朝政府には、それだけの指導力も資金力もない。
要するに、南京において、(タコ注:支那が大虐殺があったとする南京攻防戦後に)日本が統治を始めたわずか2ヶ月後には、南京の人口20万が、28万人に増えたのと同様、民衆は、治安が保たれ、仕事があり、食えるところに人が集まる。
支那全土が軍閥や共産主義者、窃盗団等によって、好き放題荒らされ、農地が荒廃し、建物が破壊され、惚れた女房は強姦され、旦那や息子が虐殺されるという無法地帯と化した中にあって、多くの人々が、治安が良くて仕事があり、安心して暮らせる土地を目指したというのは、ごく自然な行動です。
その結果、昭和になると、
なんと毎年100万人規模で、支那人達が満洲に流入した。
満州事変勃発前の昭和5(1930)年には、
ついに全人口の9割が支那人になっています。
支那人が増えるとどうなるか。
これも昨今の日本の各所でみることができるけれど、彼らは彼らだけのコミュニティを作り、平気で暴行を働き、治安を乱す。
そしてついに、
満洲国内で、支那人たちによる主権をも主張するようになります。
これは支那人のいわば習い性のようなもので、彼らの行動は、時代が変わってもまるで変化しない。
いまでも支那共産党が、チベット、東トルキスタン、南モンゴルなどで異民族を統治するに至る方程式は、まるで同じです。
1 まず漢人が入植する。はじめは少数で。次第に大人数になる。
2 漢民族との混血化を進めようとする。はじめは現地の人との婚姻で。次第に大胆になり、果ては異民族の若い女性を数万人規模で拉致し、妊娠を強要する。
3 現地の文化財を破壊する。
4 天然資源を盗掘し、収奪する。
5 漢人だけの自治の要求し、国家を乗っ取る。
昭和のはじめの満洲も同じです。
人口の9割が漢人になると、自分たちで軍閥を営み、満洲の自治を奪った。
これをやったのが、張作霖(ちょう・さくりん)です。

張作霖は、もともと匪賊(ひぞく・盗賊集団)の頭で、勢力を伸ばして軍閥となり、ついには、満洲国に軍事独裁政権を打ち立てます。
昭和4年、全満洲の歳入は、1億2千万元だった。そのうち、1億2百万元を、張作霖は自己の利益と軍事費に遣っています。なんと歳入の8割を軍事費にしたのです。
今で言ったら、汚沢一郎が支那の人民解放軍を率いて日本の政府を乗っ取り、95兆円の歳費の8割にあたる76兆円を軍事費に振り向けた、というに等しい。
しかもその軍事力の矛先は、なんと自国に住む満州人だった。
要するに、
せっかく都市インフラが進み、みんなが豊かに生活できるようになったと思ったら、
その富を横から出てきた漢人で、まるごと横取りしようとしたのです。
張作霖が、実質的な満洲の支配者となって行った政策の、一端が、次に示すものです。
1 財産家の誘拐、処刑
2 過酷な課税
なんと5年先の税金まで徴収した。
農作物や家畜にまで課税し、
収税の名目はなんと130種類。
3 通貨の乱発
各省が勝手に紙幣を乱発。
当然通貨は大暴落した。
4 請負徴収制度
税吏は、税額を超えて集金した分は、
奨励金として自分の収入になった。
(タコ注:日中間の条約で禁止されていた満鉄の並行線の建設、日本企業に対する不当課税、日本が満洲の炭鉱で採掘した石炭の不買運動といった排日運動。朝鮮人の追放なども。)
いま日本では、友愛などというゴタクを並べる総理がいたり、大喜びで支那に朝貢する売国議員などがいて、
支那人達に労働力1000万人受け入れを約束したり、
彼らの最低時給を1000円にしようだとか、ついでに
参政権まで与えようなどと言い出す、ボンクラがいるけれど、
そういう行動がもたらした結果がどうなるかが、当時の満洲に見て取れるわけです(タコ注:つまり、彼らブサヨ系は、彼らの御高説とは裏腹に彼らこそが歴史を全く反省していない、というわけです(^o^)プゲラ)。
要するに、張作霖は、国家を牛耳り、好き放題した。
日本人は、道義主義の国家です。だから規則があればそれに従う。
日本人のマインドは、常に相互信頼が基本にあるから、信頼に応えるためには、リーダーたるものは、規則があればそれに従うことを美徳とします。
ところが支那人は、人治主義です。法より人が偉い。法をどれだけ無視することができるかが、大人(だいじん)の風格として尊ばれる。
先日来日した習近平の行動もその典型で、日本に1ヶ月ルールを破らせることが、大物としての風格(あるいは貫禄)の証明とされている。
法よりも人が偉いのですから、権力を持った人間は、なんでもかんでも好き放題できる。
張作霖は、満洲国を軍事制圧すると、国民から税金として金銭をむしりとり、自身は老虎庁と呼ばれる豪邸に住み、贅沢の限りを尽くした。

張作霖の公邸「老虎庁」
そしてついに張作霖は、日本を追い出して満州を完全に自己の支配下に置こうとしたのみならず、支那までも征服し、支那皇帝にまでのぼりつめようと画策します。
そんな折に起こったのが、張作霖の爆殺です。
この張作霖爆殺は、長く日本の河本大佐の仕業と言われ続けていたけれど、公開された旧ソ連の外交文書には、ソ連の陰謀であったと明記されている(タコ注:まだ確定していないようです)。
すなわち、張作霖を爆死させ、それを日本軍のせいにすることによって、日本を糾弾し、さらに日本と支那最大の軍閥である蒋介石を戦わせることで、両国を疲弊させ、最後にソ連が、支那と日本の両方をいただく・・・というシナリオです。
張作霖が爆死したとき、満洲の一般市民がどういう反応を示したかというと、これが拍手喝采して喜んだ。
当然です。
むごい税金の取り立てで、国内を泥沼のような混乱に陥れたのですから、その張本人がいなくなれば、そりゃあ、みんな大喜びになる。
ごく自然なことだと思います。
(以下略。要参照。)
以上引用終わり。
こちらもどうぞ。
「日本統治時代
動画「The capital of Manchukuo 1 of 2 / 満州国国都、新京《前編》」
動画「The capital of Manchukuo 2 of 2 / 満州国国都、新京《後編》」
以下は
第6章 満州事変
からの引用です。
○満洲国を日本の傀儡とする記述は修正すべきである
満洲国の執政、のちに満洲帝国の皇帝となった、清朝のラストエンペラー・愛新覚羅溥儀(あいしんかくら・ふぎ)は、けっして関東軍によって無理やり引っ張り出され、即位させられたのではない。
溥儀は、中華民国が成立した後も、国を統治する権限を持たない肩書だけの「皇帝」として紫禁城に暮らすことを認められていたが、後にクーデターで紫禁城を追われ、日本大使館へ逃げ込んだ。
さらにその後、歴代皇帝の墳墓が暴かれるという事件が起こった。このときの衝撃を、溥儀は自伝にこう書き残している。
そのとき私が受けた衝撃は、自分が宮城を追い出されたときよりも深刻だった。皇族と遺臣たちはみな憤激した。……私の心には無限の恨みと怒りの炎が燃えあがった。薄暗い霊堂の前へ行くと、顔じゅう涙だらけにした皇族たちの前で、空に向かって誓った。
「この恨みに報いなかったならば、私は愛新覚羅の子孫ではない!」
私はこのとき、溥偉(ふい)が天津に来て、私とはじめて会ったとき言ったことを思い出した。
「溥偉のいる限り、大清は決して滅亡することはありません!」私も誓った。
「私のいる限り、大清は滅亡せぬ!」
私の復辟(ふくへき)・復仇の思想は、このとき新たな絶頂に達した。
(愛新覚羅溥儀『わが半生(上)』233頁~234頁)
復辟とは、帝位・王位を退いた元君主がふたたびその位に就くことである。つまり、
皇帝の座に再び返り咲くことは、溥儀自身の悲願だったのである。
一方、民衆もまた共和制中国にはウンザリしていた。
一般大衆の意見はというと、当時のシナの多くの地域で人々が共和国に幻滅しきっていたことは間違いない。共和国はよいことを山ほど約束しておきながら、貧苦以外は、ほとんど何ももたらさなかったからだ。……
次の一説は、1919年6月23日付の『ノース・チャイナ・デイリー・ニュース紙』に掲載されたものだが、共和国の実体を伝える典型的な記事だと見てよいだろう。
甘肅省の極西地方の情勢に言及している。
「増税したことと官吏が腐敗したことにより、国民は満洲朝廷の復帰を望むようになっている。
満洲朝廷も悪かったけれども、共和国はその十倍も悪いと人々は思っている。満洲王朝を恋しがる声は人里離れた辺鄙なところで聞こえるだけでなく、他の地方でも満洲朝廷を未だに望んでいるのである」
(R・F・ジョンストン『完訳 紫禁城の黄昏(下)』57頁~58頁)
そして、溥儀が満洲国の統治者となるため満洲の地に入ったとき、満洲の人々は熱烈にこれを歓迎した。
三月八日午後三時、汽車は長春駅についた。車がとまらないうちに、プラットホームに軍楽の音と人びとの歓呼の声が起こるのが聞こえた。私が張景恵・熙洽・甘粕・上角など一群の人びとに囲まれてホームに降り立つと、いたるところに日本の憲兵隊と各種各様の服装をした隊列がいるのが見えた。隊列のなかには袍子(パオツ)、馬褂(マーコワ)もあり、洋服もあり、日本の和服もあって、手に手に小旗を持っていた。私は思わず感激がこみあげてきた。営口の埠頭で望んで得られなかったことが、今日とうとう実現したのだ、と思った。私が列の前を歩いていると、熙洽が突然一隊の日の丸のあいだにまじった黄竜旗(=清朝の国旗 引用者註)を指さして言った。
「これはみな旗人(=清朝直属の家臣 引用者註)です。彼らは陛下を二十年のあいだ待ちに待ったのです」
この言葉を聞いて、私は熱い涙が目にあふれるのを押さえられなかった。私は大いに希望があるのだという気持ちがますます強くなった。
(愛新覚羅溥儀『わが半生(下)』5頁~6頁)
こうして溥儀は、1932(昭和7)年、満洲国の執政となり、二年後の1934(昭和9)年には満洲帝国の皇帝となったのである。
要するに、
しばしば日本による「でっち上げ」、あるいは日本の「傀儡」(あやつり人形)と酷評される
満洲国の建国は、溥儀をはじめとする満洲の人々の悲願でもあったのである。
日本(あるいは関東軍)が満洲国の実権を握っていたことをいずれの教科書も批判的に記述しており、なかでも日本書籍新社(196頁)は「翌1932年には、日本があやつる『満州国』を建国させた。」(傍点引用者)と揶揄し、「満州国をあやつる手」と題する挿絵(日本の「手」が皇帝溥儀をあやつり人形のように操っている風刺画)を掲載している。
ならば、満洲国建国とともに、関東軍は満洲から撤退すべきだったというのであろうか。そのようなことをすれば、せっかく誕生した満洲国は、おそらく中国の侵攻を受けて、ふたたび独立を失ったであろう。あるいはソ連の支配下に入っていたかもしれない。
共産主義は君主制の打倒を目指していたので、もしそうなれば、溥儀は殺害されるか、あるいは迫害を受けていたであろう。
それが溥儀はじめ満洲の人々にとって望ましいことだったであろうか。
関東軍がいたからこそ、後述のように、満洲国は安定した治安のもと、飛躍的な発展を遂げることができたのである。
また、清国時代の皇帝専制と、それに続く中華民国の軍閥による戦国動乱しか知らない人々に、満洲国を、同時代に生き残ることのできる近代国家として設立・維持・発展させることができるかどうか、ということも考慮しなければなるまい。
アメリカのジャーナリスト、ジョージ・ブロンソン・レーは、満洲を「傀儡国家」とする見解に対し、こう反論した。
世界は満洲国を呼んで〝傀儡国家〟であるという。満洲国人みずから政治の術に巧みでないがために、建国当初日本人専門家の友好的援助を受けて新国家を組織したのである。
それを傀儡というなら、世界には無数の傀儡国家が存在することになる。
(名越二荒之助『世界から見た大東亜戦争』57頁 原文は歴史的仮名遣い)
要するに、「よその国の政治を掌握することはけしからん」と単純に割り切ることはできないのである。そうした一面的な見方ではなく、多面的に歴史的事象をとらえるべきであろう。
したがって、いずれの教科書も、日本ないし関東軍が満洲国の政治の実権を握っていたことを否定的にのみとらえる偏った記述は修正すべきである。
以上引用終わり。
<転載終了>
今こそ中国人に突きつける 日中戦争真実の歴史
のカスタマーレビューからの引用です。
中国に関する多くの著作を持つ親日家の黄文雄氏の最新作である。著者は極めて多作であり、すべてを買う気にはならないのだが、数ある中国批判の著作の中でも「日中戦争」にテーマを絞ったものだったので読んでみることにした。
帝国主義の時代において、アジアを列強(特にロア)の進出から守るために、国家の体を成していなかった中国に代わって満州を確保した日本は、各地の軍閥間の権力争いとそれを陰で支援する米英、ロシアとの三つ巴の内戦にずるずると引き込まれ、結局アメリカに破れてしまう。
敗戦国であるがゆえに戦後一方的に悪者にされてきたが、日本の中国進出当時の中国という社会がどれほど庶民にとって苛酷なものだったか、そして
日本の統治によって治安が見違えるほど良くなったことで庶民にどれほど歓迎されたことか、
日本が満州で行ったインフラの整備でどれだけ中国の近代化に貢献したかが述べられている。
この本のもう一つのテーマが、反日の正体である。
日本に習って国家改造を日本の指導のもとに行い、近代化の道を歩み始めると今までは存在しなかったナショナリズムが芽生え始め、指導に当たっていた日本人を排斥しようという動きが出て来た。それを利用して自分たちの目的を果たそうともくろんだアメリカ、共産党が反日を煽ったのが始まりである。そして戦後は中国の支配者となった共産党が自らの正当性を証明するためと、多民族国家中国をまとめるため、外に敵を作るという常套手段の標的に日本がされた、というのがその正体である。
以上引用終わり。
こちらもどうぞ。
「中国の『正しい歴史認識』の正体」
「日中戦争の真実」
以下は
【私感】万里の長城はオブジェではない!
からの引用です。
万里の長城は何のために作られたのでしょう・・・?
小学6年生の娘が「総合的学習で満州事変の調べ学習をしているの」と言うので【満州事変】についてどんな勉強をしているのか聞いてみました。
娘曰く、「日本軍が満州鉄道を爆発させて、それを中国のせいにして満州を占領した」とのこと。
念のため、中学校の歴史教科書(帝国書院)を見ると
「関東軍は1931年9月、南満州鉄道の奉天付近で爆破事件をおこし(柳条湖事件)、これを中国側のしたこととして攻撃をはじめ、満州全体を占領しました(満州事変)」
〈中略〉
「中国は、日本の武力侵略として国際連盟に訴えました」
と記述してあります。
残念ながら、教科書では、中国側の立場に立った記述になっており、これが現状の授業なのでしょう。
そもそも中国(当時の中華民国)という国の立場から解説することが大間違いであると思うのですが・・・。
娘に説明もしないといけないので、やまもとなりに簡単にまとめて見ました。
・日清戦争時、その名称から解るように、日本は清と(国防上、ロシアの朝鮮半島侵略を防ぐ為に)戦う。
・日本は、日露戦争を歴て、その大きな代償と引き換えに、南満州鉄道及び領地の租借権、朝鮮半島に対する排他的指導権などを獲得する。
・その後、清の皇帝 溥儀(満州民族 当時6才)が漢民族の孫文にだまされ、皇帝を退位。
清が消滅したため、そのままでは日清・日露戦争で得た権利が消滅してしまう。
・その権利を守りたい日本の思惑と、国をだまし取られ、満州民族の国を再建したい溥儀との思惑が一致し、柳条湖事件をきっかけに満州事変を経た後、満州国を建国した。
・満州国建国後は、以前の権利に加え、溥儀や満州民族に代わって中華民国と戦い、建国した代償として他の利権も手にする事になった。
つまり、(日本の立場から見て)教科書が書いているような占領、侵略ではなく、(タコ注:日露戦争で)大きな犠牲を払って手にした権利、
国益を守る為の
自衛の為の積極的軍事行動であったのだと・・・。
また、満州国の立場から【満州事変】をみても・・・
・もともと、漢民族(中国)と満州民族は一つの民族・国ではなかった。
・日本が中国を侵略して、新たな国、満州国を作ったのでもない。
・孫文にだまされて消滅した満州民族の国を取り戻しただけ。
・もっと簡単に言うと、満州民族が占領していた万里の長城から南側(地図の下側)を返してもとの地域にもだっただけ・・・。

その証拠が明代に作られた、
国境・敵国からの防護壁を意味する【万里の長城】
なのであり、決してオブジェとして作られた物では無いのです。
※つまり、万里の長城を堺に、地理的にも民族的にも一つの国が存在したわけではないという、歴史上の事実が理解できます。
以上引用終わり。
満州族の先祖の地ということで人の出入りが禁止され、また冬場はマイナス10℃から20℃という厳しい自然のため清朝末期には
ほとんど誰も住んでいない土地でした(夏場に遊牧民が一時を過ごす程度)。
それを日本人のお金で灌漑設備や電気、水道を整備して農業や工鉱業が発展し人が住めるようになったとたんに、
俺のモンだ!よこせ!
と言い出したのが日中戦争の原因の一つです。
尖閣諸島で石油が出そうだとなったとたんに、
俺のモンだ!よこせ!
と言い出したのと同じです。
ですから、
支那人が、「日本が中国を侵略した」と言ってきたならば、
何を抜かすか、居直り強盗の人食い人種め(`_´メ)
お前ら漢民族の泥棒体質が戦争の原因やろ!!
と言ってやれば良いわけです。

小笠原諸島にまで船団を組んでサンゴを密漁しに来る泥棒支那漁船。


密漁船団と海上保安庁の巡視船。

尖閣諸島で巡視船に体当たりをかます
強盗支那漁船。
以下は
張作霖と満州のお話
からの引用です。
そして康熙帝が行った、もうひとつの重要な事柄に「封禁令」というものがあります。
「封禁令」というのは「漢人は清国皇帝の聖地である満洲国に入るべからず」というものです。
要するに
康熙帝は、自らの出身地である満州地方を聖地とし、漢人の立ち入りを禁じた。
今日のお話の最大のポイントです。
康熙帝は、漢人(支那人)の立ち入りを禁じただけでなく、支那と満洲の国境である山海関に、関所を設け、支那人の入国を規制します。
このあたりの清の歴史をみると、明代に支那の治世が乱れ、漢人に平和と安定を脅かされた満洲方面を根拠地にする女真族が、ついには漢人の本拠地である北京にまで大軍を押し進めて漢人を抑え、それによって女真族の地である満州地方の平和と安定を図ったという歴史を見て取ることができます。
逆にいえば、女真族(満洲人)が、自国の平和と安定を図るためには、暴虐極まりない支那(漢人)たちの本拠地を制圧し、そこに首都を移転して漢人たちに君臨し、自国(満洲)の平和と安寧を図るしかなかった。
ちなみに山海関というのは、万里の長城の出発点です。
康熙帝は、封禁令によって、満洲国と支那との間の交通は、この関所以外、一切認めなかった。
おかげで、満洲地方は、この後約二百年にわたり、平和と安定を得ることができました。
ところが、清の治世が乱れ、欧米列強が支那の大地への浸食を始めると、満洲地方の安定も、損ねられてしまう。ロシアの南下です。
義和団の乱(1894~1901)の後、乱の当時はろくな働きをしなかったロシアが、勝手に南下をはじめ、ついには大連のあたりまで浸食してしまう。
ロシア人のすることも、漢人と同じです。武力を用いて一般人を脅し、富と女を収奪する。
ロシア人たちが南下したとき、どれだけヒドイ仕打ちを現地の人にするかは、戦後、満洲から引き揚げようとする日本人達に、彼らがどのような振舞をしたかを見ても明らかだし、カザフやその他、何何スタンと名のつく国々が、ロシアや旧ソ連によってどれだけ酷い仕打ちを受けてきたかの歴史をみれば、なお一層明らかです。
ベラ・ルーシー(白ロシア)という名称があります。
これはモンゴルの騎馬軍団がモスクワからポーランドへと侵攻していくとき、湖沼が多い白ロシアの地を避けて通った。
だから「レイプがなかったルーシー(ロシア)」という意味で「ベラ(白、純潔)」ルーシーと呼ばれています。
どういうことかというと、13世紀のモンゴル軍というのは、支配地における強姦が将兵の職務となっていた。だからモンゴルの正統な継承国であるロシアは、それが現在にいたるまで不変の文化として残っていて、そうした文化は、そのまま旧ソ連に引き継がれた。
ソ連軍による無制限の強姦については、数限りないほどの証言が残っています。
「ドイツ人の女性は老女から4歳の女児に至まで、エルベ川の東方(ソ連占領地区)で暴行されずに残ったものはいなかった。あるロシア人将校は、一週間のうち少なくとも250人に暴行された少女に出会った」(「スターリン」ニコライ・トルストイ著)
「ベルリンの二つの主要病院によるレイプ犠牲者の推定数は9万5千ないし13万人。ある医師の推定では、ベルリンでレイプされた10万の女性のうち、その結果死亡した人が1万人前後、その多くは自殺だった」
「東プロイセン、ポンメルン、シュレージェンでは、すくなくとも200万人のドイツ女性がレイプされ、繰り返し被害を受けた人も、過半数とまでいかなくても、かなりの数にのぽる」(「ベルリン陥落1945」アントニー・ビーヴァー著自水杜)
こうしたロシア兵が、満洲に南下し、さらに朝鮮半島を経由して日本に襲いかかろうとしている。
日本は、日本を守りぬくために、朝鮮北部から満洲にかけて(当時は朝鮮は日本の一部です)南下するロシア軍との戦いに臨んだ。これが日露戦争(1904~1905)です。
日露戦争が終わると、日本は、ロシアが満洲に持っていた権益を合法的に受け継ぎます。
当時の満州は、「馬賊と阿片は満洲の花」といわれるくらいの、盗賊王国、麻薬王国だった。
そりゃあそうです。清の国力が弱まり、ロシアが南下して暴行のし放題。(タコ注:僅かな)田畑は荒らされ、仕事はなく、飯も食えない。女房や娘は強姦され、子供たちは虐殺される。
ある程度元気の良いものは、馬賊になって徒党を組んで強盗団にでもならなければ生きていけなかった。そして馬賊となった人々を食わせるためには、馬賊の頭領は、アヘンを売り捌くのがいちばん手っ取り早かった。
日本は、混迷を続ける満洲で、きわめて生真面目に馬賊を退治し、法を定めて治安を保ち、産業を興し、農業を活性化し、道路や街を作り、あのリットン調査団ですら賞賛せざるを得なかった街づくり、国づくりを行います。
下の図は、全満洲の発電量のグラフです。当時の満州は、発電機、変圧器、送電線など、世界水準を超えるものとなっていた。

これだけではありません。日本は、満洲に「国道建設10か年計画」を策定し、道路や橋梁を築いた。昭和12(1937)年頃には、全満洲の全国道は、1万キロを超え、四季を通じて自動車の運行が可能にしています。
なにもない荒野に、新京(長春)、奉天(瀋陽)、ハルピン、吉林、チチハル、承徳、営口、錦洲、牡丹江といった近代都市を次々建設した。
さらに鞍山製鉄所では、年間20万トンもの鉄鋼資源が製造され、大連発電所、豊満ダム他、数々の近代工業設備投資が行なった。
満州人、朝鮮人、支那人にわけへだてなく諸学校を作り、近代的医療を施し、司法・行政機関を作り、支那大陸の歴史始まって以来、初の法治を行った。
近代的警察制度を行い、軍閥や匪賊を討伐し、街を整備して
アジアの奇跡と呼ばれるほどの近代化を促進したのです。
要するに、日本が行ったことは、現地人を教育し、彼らの生活水準を日本の内地と同じ水準に引き上げるというものです。
これは、欧米列強による植民地化・・・富の収奪を目的とするものと、その心得がまるで違う。
このため当時の満州は、治安は日本の軍が守り、街は建設の息吹に燃え、そこには労働が発生し、きちんと賃金も払われた。農業も振興され、日本の指導によって、きちんと灌漑が行われて肥沃となった農地で、人々は安心して農作業を営むことができるようになります。
つまり、食えて、働けて、安心して住むことができた。
断っておきますが、これら満洲の国家的インフラ整備は、満洲事変前、つまり、満洲国が起こる前の出来事です。
いまでもそうだけれど、支那人という人種は、そこが食えて、働けて、住めるということがわかると、大挙して押し寄せる。
マンションの一室に、ある日、支那人が住み始める。気がつくと、その支那人の親戚やら友人といった連中が、次々と支那からやってきて、そのマンションに住み始める。気がつくとそのマンションは、ほぼ全棟、支那人ばかりという情況になる。
こうした行動パターンは、古来、支那人(漢人)の特徴です。
当時の満州は、
日本統治のわずか2年ほどの間に、
もとは満蒙人しか住んでいなかったのに、
なんと9人中8人までもが
漢人(支那人)になってしまった。
【昭和5年当時の満洲の人口】
満蒙人 300万人
支那人 2600万人
朝鮮人 100万人
日本人 23万人
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このことを、左翼系に偏向した歴史教科書などは「清王朝の政策によって支那人の満洲地方への入植が行われた」などと書いています。
これはとんでもない大嘘で、当時の清朝政府には、それだけの指導力も資金力もない。
要するに、南京において、(タコ注:支那が大虐殺があったとする南京攻防戦後に)日本が統治を始めたわずか2ヶ月後には、南京の人口20万が、28万人に増えたのと同様、民衆は、治安が保たれ、仕事があり、食えるところに人が集まる。
支那全土が軍閥や共産主義者、窃盗団等によって、好き放題荒らされ、農地が荒廃し、建物が破壊され、惚れた女房は強姦され、旦那や息子が虐殺されるという無法地帯と化した中にあって、多くの人々が、治安が良くて仕事があり、安心して暮らせる土地を目指したというのは、ごく自然な行動です。
その結果、昭和になると、
なんと毎年100万人規模で、支那人達が満洲に流入した。
満州事変勃発前の昭和5(1930)年には、
ついに全人口の9割が支那人になっています。
支那人が増えるとどうなるか。
これも昨今の日本の各所でみることができるけれど、彼らは彼らだけのコミュニティを作り、平気で暴行を働き、治安を乱す。
そしてついに、
満洲国内で、支那人たちによる主権をも主張するようになります。
これは支那人のいわば習い性のようなもので、彼らの行動は、時代が変わってもまるで変化しない。
いまでも支那共産党が、チベット、東トルキスタン、南モンゴルなどで異民族を統治するに至る方程式は、まるで同じです。
1 まず漢人が入植する。はじめは少数で。次第に大人数になる。
2 漢民族との混血化を進めようとする。はじめは現地の人との婚姻で。次第に大胆になり、果ては異民族の若い女性を数万人規模で拉致し、妊娠を強要する。
3 現地の文化財を破壊する。
4 天然資源を盗掘し、収奪する。
5 漢人だけの自治の要求し、国家を乗っ取る。
昭和のはじめの満洲も同じです。
人口の9割が漢人になると、自分たちで軍閥を営み、満洲の自治を奪った。
これをやったのが、張作霖(ちょう・さくりん)です。

張作霖は、もともと匪賊(ひぞく・盗賊集団)の頭で、勢力を伸ばして軍閥となり、ついには、満洲国に軍事独裁政権を打ち立てます。
昭和4年、全満洲の歳入は、1億2千万元だった。そのうち、1億2百万元を、張作霖は自己の利益と軍事費に遣っています。なんと歳入の8割を軍事費にしたのです。
今で言ったら、汚沢一郎が支那の人民解放軍を率いて日本の政府を乗っ取り、95兆円の歳費の8割にあたる76兆円を軍事費に振り向けた、というに等しい。
しかもその軍事力の矛先は、なんと自国に住む満州人だった。
要するに、
せっかく都市インフラが進み、みんなが豊かに生活できるようになったと思ったら、
その富を横から出てきた漢人で、まるごと横取りしようとしたのです。
張作霖が、実質的な満洲の支配者となって行った政策の、一端が、次に示すものです。
1 財産家の誘拐、処刑
2 過酷な課税
なんと5年先の税金まで徴収した。
農作物や家畜にまで課税し、
収税の名目はなんと130種類。
3 通貨の乱発
各省が勝手に紙幣を乱発。
当然通貨は大暴落した。
4 請負徴収制度
税吏は、税額を超えて集金した分は、
奨励金として自分の収入になった。
(タコ注:日中間の条約で禁止されていた満鉄の並行線の建設、日本企業に対する不当課税、日本が満洲の炭鉱で採掘した石炭の不買運動といった排日運動。朝鮮人の追放なども。)
いま日本では、友愛などというゴタクを並べる総理がいたり、大喜びで支那に朝貢する売国議員などがいて、
支那人達に労働力1000万人受け入れを約束したり、
彼らの最低時給を1000円にしようだとか、ついでに
参政権まで与えようなどと言い出す、ボンクラがいるけれど、
そういう行動がもたらした結果がどうなるかが、当時の満洲に見て取れるわけです(タコ注:つまり、彼らブサヨ系は、彼らの御高説とは裏腹に彼らこそが歴史を全く反省していない、というわけです(^o^)プゲラ)。
要するに、張作霖は、国家を牛耳り、好き放題した。
日本人は、道義主義の国家です。だから規則があればそれに従う。
日本人のマインドは、常に相互信頼が基本にあるから、信頼に応えるためには、リーダーたるものは、規則があればそれに従うことを美徳とします。
ところが支那人は、人治主義です。法より人が偉い。法をどれだけ無視することができるかが、大人(だいじん)の風格として尊ばれる。
先日来日した習近平の行動もその典型で、日本に1ヶ月ルールを破らせることが、大物としての風格(あるいは貫禄)の証明とされている。
法よりも人が偉いのですから、権力を持った人間は、なんでもかんでも好き放題できる。
張作霖は、満洲国を軍事制圧すると、国民から税金として金銭をむしりとり、自身は老虎庁と呼ばれる豪邸に住み、贅沢の限りを尽くした。

張作霖の公邸「老虎庁」
そしてついに張作霖は、日本を追い出して満州を完全に自己の支配下に置こうとしたのみならず、支那までも征服し、支那皇帝にまでのぼりつめようと画策します。
そんな折に起こったのが、張作霖の爆殺です。
この張作霖爆殺は、長く日本の河本大佐の仕業と言われ続けていたけれど、公開された旧ソ連の外交文書には、ソ連の陰謀であったと明記されている(タコ注:まだ確定していないようです)。
すなわち、張作霖を爆死させ、それを日本軍のせいにすることによって、日本を糾弾し、さらに日本と支那最大の軍閥である蒋介石を戦わせることで、両国を疲弊させ、最後にソ連が、支那と日本の両方をいただく・・・というシナリオです。
張作霖が爆死したとき、満洲の一般市民がどういう反応を示したかというと、これが拍手喝采して喜んだ。
当然です。
むごい税金の取り立てで、国内を泥沼のような混乱に陥れたのですから、その張本人がいなくなれば、そりゃあ、みんな大喜びになる。
ごく自然なことだと思います。
(以下略。要参照。)
以上引用終わり。
こちらもどうぞ。
「日本統治時代
動画「The capital of Manchukuo 1 of 2 / 満州国国都、新京《前編》」
動画「The capital of Manchukuo 2 of 2 / 満州国国都、新京《後編》」
以下は
第6章 満州事変
からの引用です。
○満洲国を日本の傀儡とする記述は修正すべきである
満洲国の執政、のちに満洲帝国の皇帝となった、清朝のラストエンペラー・愛新覚羅溥儀(あいしんかくら・ふぎ)は、けっして関東軍によって無理やり引っ張り出され、即位させられたのではない。
溥儀は、中華民国が成立した後も、国を統治する権限を持たない肩書だけの「皇帝」として紫禁城に暮らすことを認められていたが、後にクーデターで紫禁城を追われ、日本大使館へ逃げ込んだ。
さらにその後、歴代皇帝の墳墓が暴かれるという事件が起こった。このときの衝撃を、溥儀は自伝にこう書き残している。
そのとき私が受けた衝撃は、自分が宮城を追い出されたときよりも深刻だった。皇族と遺臣たちはみな憤激した。……私の心には無限の恨みと怒りの炎が燃えあがった。薄暗い霊堂の前へ行くと、顔じゅう涙だらけにした皇族たちの前で、空に向かって誓った。
「この恨みに報いなかったならば、私は愛新覚羅の子孫ではない!」
私はこのとき、溥偉(ふい)が天津に来て、私とはじめて会ったとき言ったことを思い出した。
「溥偉のいる限り、大清は決して滅亡することはありません!」私も誓った。
「私のいる限り、大清は滅亡せぬ!」
私の復辟(ふくへき)・復仇の思想は、このとき新たな絶頂に達した。
(愛新覚羅溥儀『わが半生(上)』233頁~234頁)
復辟とは、帝位・王位を退いた元君主がふたたびその位に就くことである。つまり、
皇帝の座に再び返り咲くことは、溥儀自身の悲願だったのである。
一方、民衆もまた共和制中国にはウンザリしていた。
一般大衆の意見はというと、当時のシナの多くの地域で人々が共和国に幻滅しきっていたことは間違いない。共和国はよいことを山ほど約束しておきながら、貧苦以外は、ほとんど何ももたらさなかったからだ。……
次の一説は、1919年6月23日付の『ノース・チャイナ・デイリー・ニュース紙』に掲載されたものだが、共和国の実体を伝える典型的な記事だと見てよいだろう。
甘肅省の極西地方の情勢に言及している。
「増税したことと官吏が腐敗したことにより、国民は満洲朝廷の復帰を望むようになっている。
満洲朝廷も悪かったけれども、共和国はその十倍も悪いと人々は思っている。満洲王朝を恋しがる声は人里離れた辺鄙なところで聞こえるだけでなく、他の地方でも満洲朝廷を未だに望んでいるのである」
(R・F・ジョンストン『完訳 紫禁城の黄昏(下)』57頁~58頁)
そして、溥儀が満洲国の統治者となるため満洲の地に入ったとき、満洲の人々は熱烈にこれを歓迎した。
三月八日午後三時、汽車は長春駅についた。車がとまらないうちに、プラットホームに軍楽の音と人びとの歓呼の声が起こるのが聞こえた。私が張景恵・熙洽・甘粕・上角など一群の人びとに囲まれてホームに降り立つと、いたるところに日本の憲兵隊と各種各様の服装をした隊列がいるのが見えた。隊列のなかには袍子(パオツ)、馬褂(マーコワ)もあり、洋服もあり、日本の和服もあって、手に手に小旗を持っていた。私は思わず感激がこみあげてきた。営口の埠頭で望んで得られなかったことが、今日とうとう実現したのだ、と思った。私が列の前を歩いていると、熙洽が突然一隊の日の丸のあいだにまじった黄竜旗(=清朝の国旗 引用者註)を指さして言った。
「これはみな旗人(=清朝直属の家臣 引用者註)です。彼らは陛下を二十年のあいだ待ちに待ったのです」
この言葉を聞いて、私は熱い涙が目にあふれるのを押さえられなかった。私は大いに希望があるのだという気持ちがますます強くなった。
(愛新覚羅溥儀『わが半生(下)』5頁~6頁)
こうして溥儀は、1932(昭和7)年、満洲国の執政となり、二年後の1934(昭和9)年には満洲帝国の皇帝となったのである。
要するに、
しばしば日本による「でっち上げ」、あるいは日本の「傀儡」(あやつり人形)と酷評される
満洲国の建国は、溥儀をはじめとする満洲の人々の悲願でもあったのである。
日本(あるいは関東軍)が満洲国の実権を握っていたことをいずれの教科書も批判的に記述しており、なかでも日本書籍新社(196頁)は「翌1932年には、日本があやつる『満州国』を建国させた。」(傍点引用者)と揶揄し、「満州国をあやつる手」と題する挿絵(日本の「手」が皇帝溥儀をあやつり人形のように操っている風刺画)を掲載している。
ならば、満洲国建国とともに、関東軍は満洲から撤退すべきだったというのであろうか。そのようなことをすれば、せっかく誕生した満洲国は、おそらく中国の侵攻を受けて、ふたたび独立を失ったであろう。あるいはソ連の支配下に入っていたかもしれない。
共産主義は君主制の打倒を目指していたので、もしそうなれば、溥儀は殺害されるか、あるいは迫害を受けていたであろう。
それが溥儀はじめ満洲の人々にとって望ましいことだったであろうか。
関東軍がいたからこそ、後述のように、満洲国は安定した治安のもと、飛躍的な発展を遂げることができたのである。
また、清国時代の皇帝専制と、それに続く中華民国の軍閥による戦国動乱しか知らない人々に、満洲国を、同時代に生き残ることのできる近代国家として設立・維持・発展させることができるかどうか、ということも考慮しなければなるまい。
アメリカのジャーナリスト、ジョージ・ブロンソン・レーは、満洲を「傀儡国家」とする見解に対し、こう反論した。
世界は満洲国を呼んで〝傀儡国家〟であるという。満洲国人みずから政治の術に巧みでないがために、建国当初日本人専門家の友好的援助を受けて新国家を組織したのである。
それを傀儡というなら、世界には無数の傀儡国家が存在することになる。
(名越二荒之助『世界から見た大東亜戦争』57頁 原文は歴史的仮名遣い)
要するに、「よその国の政治を掌握することはけしからん」と単純に割り切ることはできないのである。そうした一面的な見方ではなく、多面的に歴史的事象をとらえるべきであろう。
したがって、いずれの教科書も、日本ないし関東軍が満洲国の政治の実権を握っていたことを否定的にのみとらえる偏った記述は修正すべきである。
以上引用終わり。
当時の外務大臣 東郷は朝鮮人ですからね。
そのような一面があったことは否定できない事実でしょう。
張作霖による満州からの朝鮮人排撃、万宝山事件。
現在の沖縄基地問題にも通じます。