tacodayoのブログさんのサイトより
http://blog.livedoor.jp/tacodayo/archives/7785474.html
<転載開始>
以下は
今こそ中国人に突きつける 日中戦争真実の歴史
からの引用です。

1.自然と社会崩壊の悪循環に陥った近代中国
○中国の天下大乱の背景にある環境崩壊
中華世界を支配した清帝国は、東アジア征服戦争を繰り返して膨張し、乾隆(けんりゅうう)帝時代の18世紀末に最盛期を迎えたが、このころ西洋列強のアジア進出の影響などで版図拡大が停止し、その後は没落衰退の一途を辿った。
清が衰退する原因となったのは、人口過剰である。康煕(こうく)帝の時代以降、社会が安定して人口が一億を超え、さらに二億、三億と増え続け、19世紀中ごろには四億を超えたが、それまで急増する人口を吸収してきた新版図の拡大が止まったため、人口の過剰は食糧不足と自然収奪を加速させ、その結果自然環境を悪化、崩壊させ、その連鎖反応で社会環境も悪化し、やがて飢饉、流民、反乱、内戦をもたらしていったのである。
このような亡国状態は、実にえんえん20世紀中葉まで、一世紀半にわたって続くこととなる。
まず18世紀末以降、
白蓮教徒の乱から、いわゆる教匪と会匪の乱へと内乱が延々と続き、やがて千万人単位の死者を出す太平天国の乱回乱が発生した。
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(太平天国が南京に建てた天王府の想像模型)

中華世界とはそもそも、いつでもこうした内戦、内乱、内訌(ないこう)、飢饉、疫病、虐殺で満ち溢れるカオス状態、ブラックホールに陥る危険性を持つ世界である。だから一世紀半にもわたる内戦状態に陥っても、何の不思議もなかった。それは近代中国に限らず、それ以前の歴代王朝すべてが味わってきた宿命のようなものである。
中国ではたいていどの王朝も最盛期をすぎると騒乱に見舞われたものだ。そういった一治一乱の現象は、有史以来の中国の歴史法則のようである。こうしたなかで形成された中国人の歴史観とは、『三国志演義』の冒頭にある「天下、久しく分かれれば必ず合し、久しく合すれば必ず分かれる」という、統一と分裂の循環史観である。

このような中華世界の変動の原理が、易姓革命だ。
毛沢東は、「人民こそが歴史を創造する」として、人民(人)を歴史変動の原動力だと強調した。しかし中国に限って言えば、歴史を変えるもっとも大きな力は、明らかに人民というより自然である。つまり山河の崩壊が騒乱、易姓革命の結果であるとともに原因なのだ。そのような人間の意志や力をはるかに超越した自然の力は、中国では「天意」と見なされてきた。歴史を動かしてきた旱魅(かんばつ)、疫病、流民(るみん)の噴出という連鎖は、天の意思であると信じられてきたのである。

さてこうした歴代王朝末期の天下大乱の背景には、たいてい自然崩壊と社会崩壊の連鎖的悪循環の加速的昂進と拡大という現象が見られてきた。
社会秩序の緩みに起因する有限な資源の争奪による自然破壊によって旱魅、水害が大地を襲い、そして疫病が大流行し、飢饉が拡大再生産され、病死者、餓死者が数十万から数千万人規模に拡大し、社会も崩壊していくという止めどない悪循環である。
それに続いて土俗的宗教の色彩を持つ農民が蜂起する。赤眉(せきび)の乱黄巾の乱白蓮教徒の乱などがその代表例だ。
かくして流民が大噴出し、流賊、流寇が天下に横行し、草莽(そうもう)群雄が割拠して、並立、鼎立(ていりつ)して天下大乱の状態に陥っていく。

このような悪循環に入ると、流賊、流民が天下に践凰し、群雄割拠の時代を迎え、もはや中
国人の手では社会秩序の回復は不可能になる。
そこへ北方の異民族が万里の長城を越えて中国に入り、人々に迎え入れられながらそれを征服し、ようやく中華世界秩序が再建されるというのが、唐王朝以降の中国史の常態だったのだ。
宋(華)、元(夷)、明(華)、清(夷)といった華夷の交代の連続によって、「一治一乱」の歴史は作られてきた。
カオス状態に入った天下を救出した夷狭という外力は、中華の民衆から救世主のように歓迎され、まさに天命を受けた天子として君臨したのだった。

中華世界の宋・金の対立を克服して再統一を果たしたのはモンゴル人の元であり、明末の天下大乱を収拾して再統一したのは満州人の清だった。そして清末以降の天下大乱によって混乱した東亜新秩序の再建を試みたのはどこかと言えば、それが日本だったのである。
19世紀から20世紀にかけては列強の時代と呼ばれる。この時代の多極的世界秩序を支えたのは列強である。中華世界、つまり東アジアという世界の秩序の構築と維持は、列強である日本の使命であったといえる。
(中略)

○時代とともに拡大する自然災害
中国北方は緯度から見れば日本と同位置だが、自然や社会の環境においては日本とはまったく異なる。それは海洋国家と大陸国家といった違いだけではなく、歴史社会環境が大いに異なるということだ。
中国で黄河文明が崩壊しつつあるとき、日本はまだ縄文、弥生時代だった。文明の崩壊は、たいてい人間の自然に対するあくなき収奪がもたらすものである。地力の衰退で自然環境が悪化し、その結果社会環境も悪化して、その悪循環のなかで文明が衰退するというのが古代文明に共通する現象であり、黄河文明も例外ではなかった。
その後、中華帝国時代を迎え、秦漢帝国の全盛期を過ぎたころから、自然・社会環境の崩壊は加速度的に進み、そこへ天災が立て続けに中華の大地を襲撃するようになった。
鄧雲特(ト・ウントク:雲拓)の「中国救荒史」によると、漢帝国成立後の紀元前206年から1936年までの2141年間における天才の総数は5,150回に上り、平均して約4ヶ月に一回、天災が発生してきたことになる。そのうち旱勉は1,035回で水害は1,037回と、それぞれ約二年に一回という頻度である。
しかしこれは頻発性を言い表した数値にすぎない。
質的に分析すると、少なくとも以下の三つの傾向があることがわかる。
①災害の空間的および時間的普遍化現象。
前者は時代が下るにつれ、局地的なものから全国的なものへと拡大していく現象である。後者は発生回数が加速度的に高まり、やがて天災のない年はないという状態に進むことである。

②災害の継起性。
つまり災害が関連しあって発生するという悪循環である。たとえば大旱魅が起これば、かならず
煌害(こうがい:トノサマバッタの害)をともない、水害も発生して飢饉と疫病が蔓延(まんえん)するという連続パンチである。

③災害の累積性。
中国の天災の周期はきわめて短く、年に一度の巨災が恒常化し、それに対して打つ手がないために、状況は時代に連れて悪化する。たとえば1世紀の天災回数は69回、2世紀は171回、11世紀は263回、14世紀は391回、17世紀は507回というようにエスカレートしている。

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(タコ注:漢語から日本語に訳す際にイナゴとされましたが、正しくはバッタ科のトノサマバッタの群生相が中国の煌害の主役。上がオスで下がメス。)
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(タコ注:褐色型のトノサマバッタのメス。)
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(タコ注:群生相のトノサマバッタ。身がスカスカで食べても殆ど栄養にならないそうです。)
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ことに20世紀に至って、山河の崩壊が急激に進み、森林が喪失し、河川湖沼が枯渇し、砂漠化現象が昂進し、環境汚染に拍車がかかっていることは周知の事実である。
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(タコ注:砂漠化が進む中国)
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(タコ注:工業化で更に農地破壊、自然破壊に拍車がかかっています。写真はこちらから。)
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(中略)
インド亜大陸も水害は多いが、中国ほどの旱魅はない。この旱魅は欧州、アフリカ、米州大陸でも見られない中国独特のものだ。
天災の後に飢饉はつきものだ。だから中国は古来「天災の国」と呼ばれると同時に「飢饉の国」とも称されてきた。日本列島でも「天明大飢饉」の例があるが、中国で頻発する飢饉に比べれば、とても「大飢饉」だとはいえない。
中国史を見ると、大飢饉で100万人、1000万人単位の死者を出すことも珍しくない。
比較的に知られているのは、1810年の山東大旱魅(かんばつ:旱魃)、河北大洪水、浙江大地震、湖北霜害で900万人が死んだが、翌11年には2000万人が餓死している。
1849年の大飢饉では、1375万人、1876~78年の大飢饉では1300万人もがそれぞれが餓死している。
20世紀にはいってからも、1930~32年の全国大飢饉で1000万人が餓死した。日中戦争中の1943年の河南天飢饉でも、河南省の人口の十分の一にあたる三百万人が餓死、病死し、飢民の共食いも発生したと伝えられている。

中華人民共和国成立後もこうした大惨事は立て続けに起こっている。1951年には華北だけでも1000万人以上が「重大な飢餓状態に陥っている」と伝えられ、続く52年から53年には、洪水、旱勉、霜害によって広大な範囲が飢餓に見舞われ、1954年2月10日の人民日報は「農村の約10%の飢餓に苦しむ農民を救助した」と報じ、約6,000万人もが、当時飢えに苦しんでいたことを明らかにした。
1960~61年の大躍進の失敗による飢饉でも二千万人とも五千万人ともされる人々が死んだ。
このように災害と飢饉に見舞われ続ける中国大陸と自然の豊かな日本列島とは、歴史社会はまったく異なるのだ。

中国では、小飢饉の場合は、人々は草の根や本の皮を食して命を繋げることができるが、大飢饉となると土、小石を食べるのはおろか、人々は殺し合い共食いをするという現象が周期的に見られた。
墓の骨を掘り起こして飢えをしのぐというケースも珍しくない。
この国の社会的、集団的な食人は人類史上においては稀有な現象である。私の統計では、このような現象は正史に記録されたものだけでも、年次的には120年次にも上っている。
陳振鷺氏の調査報告によると、1927年の華中水害や28年の西北大旱魅、32年の旱魅など、このころの八年間での災民の総数は全国人口の四分の三に達した。

この災民のその後の運命は、おおよそ次のように分類できるという。
①都市に出て労働者となった少数のものを除けば、ほとんどが流民となった。
②一部は車夫、あるいは婢僕(ひぼく)となった。
③一部は兵士となった。
④一部は山中に入って土匪、あるいは「匪区」(中共解放区)に入った。

○中華の大地に噴出する流民の群
中世のヨーロッパでは、農民は農奴として土地に縛られた。土地に縛られたという意味では中国の農民も同じだが、こちらの場合は頻発する戦乱や飢饉のたびに、難民、流民となって四方へ流れ出たのだった。
「元狩(げんしゅ)4年(BC119年)冬、……関東の貧民が朧西(ろうせい)、北地、西河、上都、会稽(かいけい)に流れ移ったものは72万5千人」(『漢書』武帝紀)
「(前漢)末年旱魃に飢饉、……関内に流れ込んだ流民は数10万」(『漢書』武帝記)
「大和7年(233年)……飢饉が起こり、……6月、定州から94万7000余人を救済したとの報告が届く。九月、冀州(きしゅう)から75万1704人を救済したとの報告が届く」(『魏書』孝文帝本紀)
「慶暦(けいれき)3年(1043年)、陵西(せんせい)に飢饉が起こり、……河中、同華などの飢民が相たずさえて東へ流れ移った。……救済したものは150万人」(『文献通考』)
「慶暦8年(1048年)、河北、都の東西とも洪水に見舞われ大飢饉が起こった。……流民があふれ、救われたものはおよそ50余万、兵に募されたものは万余」(『文献通考』)

食を求める彼らの群れは、中華帝国内を食いつぶし、食い倒してしまうものだった。

「景泰(けいたい)4年(1453年)正月、……山東、河南の飢民で食を求めてきたものはあとをたたない。……生き残ったものは185万余人、飢民50万7000戸が救済を得た」(『明史』王拡
伝)
「光緒2年(1876年)11月、江北の旱魅は他よりもひどく、飢民は四方に流れ散った。かねて山東、安徽の災民も続々と揚子江を渡り、蘇州、常州に食を求めてきたものは計1千万人」(『東華続録』)

この膨大な数の流民の流れはやがて激流となり、流賊、流寇となって、中国の歴史を動かす原動力となったのだ。

○日中戦争前夜における中国の飢餓地獄
満州事変を目前に控えた1928~30年の西北大飢饉は、映西省の調査によると、同省の37県の婦女だけでも100万人以上が村を離れ、70万人以上が売られていった。それに男子を加えると、同省内では人口の六分の一にあたる約200万人が流民になっている。中華民国政府の公報によると、この大飢饉による餓死者は1000万人だったという。
陳振鷺の被災民調査統計によると、1927年の華中水害で900万人、28年の西北大旱魅で3400万人、29年の華中水害で8000万人、32年の冷(電)害・旱魅で6000万人もの被災民を出しているという。
この8年間における被災民の総数は全人口の四分の三に近い。
これら被災民は流民として四散するか、売られて奴婢になるか、もしくは兵士か匪賊となる場合が多かった。
 
中華民国時代(1924~49年)の水害と旱魅について、『中国自然災害史』は、大洪水は65回、被災人口は延べ三億人、死者430万人としている。『中国災荒史』によると、日中戦争の始まる1937年までの自然災害は77回で、そのうち水害が24回、旱勉が14回だ。
(中略)
戦乱続きだった中華民国時代において、戦争犠牲者の数が膨大だったのは事実だが、しかしそれよりも自然災害による犠牲者のほうが、さらに多かったものと考えられる。
日中戦争で日本軍の主力が進出したのはほとんどが都市部であり、農村にはあまり影響を与えていない。

当時人口の九割を占めていた
農民は、戦災よりも天災によって、貧窮のどん底で喘いでいたのだ。


2.苛斂誅求(かれんちゅうきゅう)と
食糧不足から中国農民を救済した日本

○反日勢力の農村破壊と戦った日本
このような状況下の中国へ進出した日本は、いったいどのような対応をしたのだろうか。
よく言われるのは、日本軍は各地で食糧を現地調達するため、貧しい農民から作物を奪い、塗炭の苦しみを味わわせたといった類の話である。だが、それは真っ赤な嘘だ。
支那事変勃発前夜の1937年6月、日本の衆議院で社会大衆党書記長麻生久が、「北支経済工作に関しては農民大衆の福祉を招来する如き方策を講ずることが、この目的達成のため緊要である」と強調したのに対し、近衛文麿首相も「今後は支那民衆の心を把握することでなければ東洋平和の確立、ひいては日支両国の提携はできない。支那は農業国であるから支那農民と結び、農業の発展に我国が手伝うことは極めて必要だ」と答えている。

このように日本では、貴族宰相でも無産階級の指導者でも、農民対策が日中提携の鍵であると認識されていた。
それほど中国の農業は悲惨な状況にあったのである。
当時農村は平時においても、主食食糧の農作物の生産高が低いため、絶えず食糧不足に喘いでいた。
労働人口は過剰だったが、生産技術が原始的なまま停滞していたため、もはや農耕面積の拡大は望めない状況だったのだ。


農民は自作農45%、反自作農23%、小作農32%の割合で、55%が、収穫物の半分ないし7~8割という地主への
高率の地代に喘いでいた。
また
作物の流通においても農民は、手数料、保管料、前貸しといった仲介業者による高利貸的な数年先の分まで徴収する地方もあった。

市場の不統一、度量衡の不統一、穀物取引の秘密性や価格の非公開などの伝統的社会状況も農村の発展を妨げていた。
農村に対する重税の賦課も深刻であった。
地租は地方財政上最も重要で地方における付加税はたいてい地租税を基準に課せられていた。例えば江蘇省での付加税は30項目を越え、その総額は本税総額の2倍だった。湖南省になると本税の26倍以上の付加税が課せられ、四川省に至っては地租の前取りを毎年4.5回~10回も行われ、50年先の分まで徴収する地方もあった

そして最大の敵は洪水、旱魅、煌害といった自然災害の頻発だった。
これによって各地の農業はしばしば潰滅し、一家離散の悲劇だけでなく、深刻な飢餓に見舞われて、多数の餓死者が出ている。
1927年から34年の八年間で自然災害による被災者は全人口の約四分の三だったといわれているが、
当時災害を拡大していた主要因の一つに長年の内戦による水利組織の破壊がある。水利事業は強力な国家組織があって初めて行い得るものである
が、しかし中華民国時代にはそのような「国家」は出現しなかった。

このように中国は農業を基幹産業としながらも、多くの食糧を日本や香港などから輸入していたのである。
これほど「一窮二白」(一に貧困、二に文化水準が低い)、つまり貧窮の社会から、
日本軍がいったい何を「奪い尽くした」というのであろう。

事実はこれから述べるように、日本人は中国で、「奪った」のではなく
「与えた」のである。

37年からの支那事変は、耕地を荒らし、また主に
中国軍によって濯漑施設が大きく破壊され、また労働力や家畜も徴用されたため、
農村が受けた打撃は大きかった。

そして何より深刻なことに、華北では37~39年は凶作続きで、37年は豪雨のため洪水、39年には旱魅と水害が相次いで発生した。これに加えて匪賊の跋扈(ばっこ)も深刻で、40年には作付面積は約5%減少した。
そこで日本は華北占領地において増産計画を立て、生産の指導、支援、そして治安維持を行い、また食糧の需給秩序の回復に乗り出した。
しかしこれを妨害したのが抗日勢力である。これらは需給秩序の攬乱(かくらん)に狂奔し、華北の食糧不足を拡大させ、人心を日本や親日政権から引き離すことを目標としていたのである。

日本は北京、天津の食糧不足を解決すべく、その食糧供給源だった蒙疆地方の農業振興を指導した結果、華北への食糧移出は順調に進んだ。さらに1940年、日本の興亜院が立てた蒙疆開発五ヵ年計画も、蒙疆の農業近代化と華北の食糧問題解決を目指すものだった。
日本の興亜院と華北政務委員会は、主要食糧の生産増大だけでなく、たとえば華北資源の代表である綿花の培養と増産にも力を注いだ。1942年からは華北綿産改進会、国立試験場、北支綿花協会などを総動員し、12年間で華北の綿花の総作付面積を3400万畝に拡張し、総繰綿年産量八百万担を目標とする計画を推進した。
また鉄道の復旧を行い、それまで途絶えていた華中から華北への食糧供給を再開させた。
華中の農村は全中国の水稲作付面積の七割弱を擁し、小麦の約四割を生産する重要な食糧供給源だったが、ここでも戦争で受けた損害は甚大だった。しかも経済の中心地としての上海が大打撃を被ったため、農産品の出回りは交通の途絶、市場の閉鎖等で不可能に陥った。また抗日勢力の跋扈(ばっこ)などで、都市への食料の出回りは極度に困難に陥った。
(中略)

○日本人による農業近代化への諸貢献
日本は恒久的な視野に立ち、前近代的な自給自足的色彩を帯びる中国の農村経済を近代化するため、合作社運動を推し進めた。この運動は当初、中国人の宣撫、災害救惶を目的としたが、合作社が農民を対象とする場合は、日本の農協と産業組合を併せたような機能を持たせ、
それを通じて村落間の抗争の仲裁から教育、技術指導、文化活動、公共事業への寄付に至るまでを行い、無秩序な農村を経済的に組織化することを図ったのである。
もちろん当時の農民は合作社の意味を解するほど教育レベルが高くなく、さしたる効果が得られないまま終戦を迎えたが、もしこれがその後も継続されたなら、台湾、朝鮮、そして満州同様、農民の文化レベルは向上し、食糧問題の解決にも大きく貢献したはずである。
このような農村社会、秩序の停滞を打破しようとする試みは、満州国を除いては中国史上類例のないものだったことはいうまでもない。

日本人による中国農業への貢献としてもう一つ特筆すべきは、山東鉱業など華北の日系炭鉱会社による農村建設事業である。各炭鉱にとり、労働力供給源である農村と相互依存関係を維持することは何よりも重要だった。そこで各企業は農村の生活の安定と労働力の余剰を維持するため、農村に対する牛馬の貸し付けや収穫時での炭鉱電力の供給などを行っていた。
また文化的生活をもたらすため農民館を開設し、家畜の飼育や子女の副業としての編物の原料、機械の斡旋にひたすら努めた。
そのほか、中国の農村を古来の停滞状況から救出するにはさまざまな方策を講じなければならなかった。
たとえば華北の農村は一戸当たりの耕地面積が小さく、ひとたび自然災害が起これば、農民はたちまち生活力を失ってしまう状況だった。その対策のためには狭小耕地の多角的集約利用農業への移行が必要だった。また農業技術指導、優良品種の配布、農産物加工施設による収穫物の高価買い上げシステムの確立なども実施されなければならなかった。炭鉱会社はそうした事業の経費も負担していたのである。

○植林で中国人を救済しようとした日本の「文明」
日本は華北を占領した後、全産業建設資材の木材供給のためだけでなく、治山治水の見地からも、直ちに森林造成計画に着手した。森林はそれ自体が恵みある水源となり、また中国「名物」の洪水や旱魃の禍根を断ち、また鳥類を繁殖させて蝗害を防ぎえるものだった。
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(タコ注:スズメ40万羽の駆除を指示した毛沢東。しかしながらかえってトノサマバッタ、ウンカ、ハエ、カなどの害虫の大量発生を招き、農業生産は大打撃を被りました。)
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(タコ注:ウンカの一種。江戸時代に起きた享保の大飢饉や天保の大飢饉の原因とされます。)

(また、)
年々飛来しては都市を埋没させてきた黄砂を防ぎ、それが社会衛生に繋がった。
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(タコ注:黄砂で砂漠化が進む中国
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(タコ注:押し寄せる黄砂)
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林学的に言えば、中国社会の宿弊のほとんど多くは、森林の造成で解決できるものだった。
つまり中国の農民を救済するにも、まず第一に森をつくらなければならなかったのである。
実はこの事業は、中国の文明史上、実に画期的なことだったのである。

中国、ことに華北は禿山ばかりで、「林業は発達し得ない」との固定観念が早くからあった。
西洋の学者の間では、華北の黄土層は竹木の叢生に適さないとも見なされていたが、それは間違いだった。
たしかに華北は禿山が見渡す限り広がっているが、実際古代には大森林もあったのである。

夏の萬(う)王の治水の記録である中国最古の地理書『山海経』や『詩経』によると、華北にはかつて鬱蒼(うっそう)たる森林があったことがうかがえる。孟子の時代にはすでに森林は少なくなっていた。そこで彼は、禿山の原因は、乱伐しても植林を行わず、放牧を行ったからだとし、乱伐を禁じることは「王道の始め」と唱えた。しかしその後も乱伐禁止令は出されても、植林が奨励されたという記録はほとんどない。
漢人の移住するところ、山野から樹木が消えていくというのも歴史上の事実だ。江南はもともと緑豊かなところだったが、東晋の時代から漢人が侵入しはじめると、年々樹木が少なくなった。その原因を挙げればきりがない。たとえば瓦やレンガを焼くための燃料確保、耕地開発、害獣、毒蛇の駆除や狩猟のための山林放火、そして数千年間にわたる乱伐、盗伐等々だが、いずれにせよ植林を行わなかったことが最大原因である。
これに対して日本人は植林を好む民族だ。家屋で木材を使用しながら山林がなお豊かであり続けたのはそのためである。

植林はどの民族にでもなし得るものではない。なぜならそれは早くとも2、30年後の次世代、次々世代の時代に利益を設定するものだからだ。明日以降のことよりも、今そこにある資源と利益のみを追求する中国人の民族性には、このような事業は思いも及ばなかったのである。
かくして岩肌の荒涼とした山々に囲まれ、木々の緑や鳥のさえずりに心なごますこともないその民族性は、ますます殺伐としたものになってしまった。
だが華北を経営することとなった日本人の感覚からすれば、華の禿山を放置すること自体許されるものではなかった。それまで日本の勢力の伸びるところ、つねに植林が行われきていた。
朝鮮もかつては禿山だらけだったが、日韓合邦後からは植林事業が大々的に行われ、緑の大地に生まれ変わった。
満州でも森林の荒廃が進んでいたが、まず関東州庁や満鉄が関東州で造林事業を成功させ、満州国建国後は広大な原野で緑化運動を開始し、毎年国民による植樹が行われた。そして全国の気候、地質の徹底調査を経て、三七年には「満州国造林計画」が実施に移された。
その日本人が、今度は満州に引き続き、中国を緑したたる国上に変えようと乗り出したのだ。

日本人の指導の下で華北の親日政権農林部門は林業対策に乗り出したが、各地の日系炭鉱会社も重要な役割を果たしている。
日本の華北建設が開始された頃、もっとも木材を緊要としたのが鉱業だった 0つまり坑木、鉄道の枕木、建築資材、燃料として木材料が必要だったのである。そこで周辺の山林や農村から木材を調達していた炭鉱会社は、農民に対して優良苗木の無料配布、病虫害対策、街路樹や河防林の設定、農家立木の保護、さらには農村緑化運動まで行っている。

中国人の進むところ緑が失われ、日本人が行くところ緑がもたらされたという事実は、アジア文明史の観点からもっと研究されてもいいだろう。

終戦後、中国人は日本の植林思想という目に見えない「文化遺産」を継承しなかった。むしろ終戦後からは、中国人による全国的規模の森林破壊が進んだ。その結果が現在見られる砂漠化であり、水害大国化である。

以上引用終わり。

論より証拠。
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成長するまで時間のかかる植林よりも、手っ取り早くペンキで山を着色する人食い人種支那人。


1938年から終戦の45年までの僅か7年間で、日本の対中国投資の累計は、約47億円にも達していました。当時の日本の国家予算は約20億円です。

第二次大戦後も貧乏だった中国が、今やGDP世界第二位をうかがうところまで発展したのは、
日本をはじめとする、諸外国の投資があったからに他なりません。

嘘で固める中国の歴史偽造に騙される人は、経済のなんたるかがまるで分かっていません。
自分自身で「私は馬鹿です。」と言っていることに気がつかない間抜けです!
news_01
この脳足りん!!


以下は
三農問題
からの引用です。

三農(さんのう)とは農村、農業、農民を指し、三農問題(さんのうもんだい)とは、中華人民共和国における農村、農業、農民の問題を特に示し、経済格差や流動人口等を包括した中国の社会問題となっている。

三農の概念は経済学者の温鉄軍博士が、1996年に提出した論文が初出であり、その後、だんだんとメディアや官庁で広く使われるようになった。
2000年、湖北省監利県棋盤郷党委員会書記である李昌平が朱鎔基総理に
「農民は本当に苦しんでおり、
農村は本当に困窮しており、
農業は本当に危険である(農民真苦、農村真窮、農業真危険)。

といった内容の手紙を提出した。
その後、「三農」問題は広く使われるようになり、2001年には「三農」問題の文言は公文書に盛り込まれることで、大陸の理論界や政策を決定する階層の人間が用いる術語となり、2003年には中国共産党中央委員会において正式に「三農」問題を工作報告に書き入れられた[3]。

内容
農民問題:三農問題の中核となる問題、(タコ注:農業設備や資力不足により自給自足的な農業から商業生産農業に脱皮出来ない)農民の収入が低く、増収は困難であり、都市-農村間の貧富の差は拡大し、農民は社会保障の権利を実質得ていないことを示している。

農村問題:農村の状態が立ち遅れ、経済が発展しないことに集中して示している。比喩として、
中国の都市はヨーロッパのようだが、
農村はアフリカのようである。

農業問題:農民が農業で金を稼げず、
産業化のレベルが低いことを示している。

背景
背景として都市と農村の収入格差が増大していることが挙げられる。中華人民共和国国家統計局によると、改革開放が始まった1978年における都市住民の一人当たり可処分所得は343元、農村の一人当たり純収入は134元で格差は2.55:1倍、1985年では都市住民の一人当たり賃金は690元、農村の一人当たり純収入は397元、双方の格差は1.74:1であったが、2005年には前者は10,493元なのに対し、後者は3,255元に過ぎず、その格差は都市:農村=3.22:1となり、この20年で都市-農村間の収入格差が拡大した。

改革開放以来、農村では、人民公社から生産責任制へと移行し、農村産業化が進められた。同時に中国の農産品は外国の農業大国との競争に曝され、家族単位では市場競争に勝つことが出来ず、農民は「手元にある農産物を売りに出せない(手里有糧売不出)」現象が発生した。

1992年鄧小平の南巡講話以降、中国経済が成長し始めたが、中国経済の成長と比較して第一次産業は成長とは程遠く、第二次産業、第三次産業が成長した。
農民は農業で十分な収入は得られないと考え、農村から都市へ出稼ぎに出かけた。しかし、都市には農民に提供するほどの職業は十分には無く、都市に向かった多くの農民は都市内部に集住し、農民工となった。
結果として、農村の生産性は下降した、さらに多くの農民が都市に職探しに来るようになる悪循環が続いた。
農業の発展が中国経済の正常な発展に直接影響し、また、中国の総人口の約3/4が農村の人口であることから、農民の生活状況が中国全体の生活状況を最もよく表している。
農村の発展は、中国共産党が提出した「三歩進む(三歩走)」戦略を実現する為の最大の挑戦であり、三農問題は当面の中国社会の顕著な問題たらしめている。

以上引用終わり。

今現在においてさえ
支那本土でも農業がたちいかないくせに、何が満州の支那人、朝鮮人の土地を奪っただ!!

大ウソを垂れ流すブサヨ、あるいは成り済まし支那人を死刑に!!


以下は
政治的混乱続くマダガスカルで違法伐採が横行=98%が中国向けに輸出
からの引用です。

2010年10月26日、中国の木材需要の高まりと現地の政治的混乱に伴い、マダガスカル共和国での違法伐採が深刻化しているとの報告書が発表された。27日、BBCが伝えた。

26日、名古屋で開催中の生物多様性条約第10回締約国会議(COP10)で、報告書を発表したのは国際NGOのグローバルウィットネスと環境調査機関(EIA)。アフリカの島国・マダガスカル共和国では2009年、クーデターが発生。政権が交代したものの、なお政治的混乱が続いている。
混乱につけこみ、現地では違法伐採や野生動物の乱獲が相次いでいるという。報告書によると、
従来はひそかに実施されていた違法伐採が大規模化し、今や国家森林公園まで大規模な伐採が実施されるようになった。
切り出されたマホガニーなどの木材のうち98%は中国向けに輸出されるという。

マダガスカル共和国政府も木材輸出の規制を始めている。最後の輸出許可証は1年前に発行されたもの。また中国政府も昨年、海外における木材企業の行動準則を策定したが、
NGOの調査では
中国企業は明らかに
準則を守っていない。

違法伐採は単に環境破壊をもたらすのみではない。最終的にマダガスカルが得る富は木材最終価格の1%以下にとどまっている。なお、COP10に参加している中国代表はこの件についてコメントしていない。(翻訳・編集/KT)

以上引用終わり。


腐れイナゴ支那人は、
外国でも同じ事を繰り返しています
(T_T)

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マダガスカルに生息する中の一種、
毒を持つバッタ。食べると死ぬそうです。

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胸には鉄の胸当てのようなものを着け…
さそりのように、尾と針…を持つイナゴ?

「さて、いなごの姿は、出陣の用意を整えた馬に似て、頭には金の冠に似たものを着け、顔は人間の顔のようであった。また、髪は女の髪のようで、歯は獅子の歯のようであった。また、胸には鉄の胸当てのようなものを着け、その羽の音は、多くの馬に引かれて戦場に急ぐ戦車の響きのようであった。更に、さそりのように、尾と針があって、この尾には、五か月の間、人に害を加える力があった。」(黙示録9章7節~10節)  

<転載終了>