tacodayoのブログさんのサイトより
http://blog.livedoor.jp/tacodayo/archives/7791747.html
<転載開始>
以下は
イスラム国の蛮行 的外れな批判をする人は国際情勢を勉強すべき
と2chからの引用です。
連載スタートのあいさつは省略して、「イスラム国」による日本人殺害脅迫事件について書く。私は「イスラム国」とだけ書くのは、
国家として認められたかような誤解を生むので反対である。以下、ISISとする。
犠牲となったジャーナリストの後藤健二さんらには、心からご冥福をお祈りしたい。
テロリストの蛮行は決して許されない。そして、この結末について非難すべき相手を間違ってはならない。
確かに、ISISは動画で安倍晋三首相の政策に言及した。
だが、
彼らの理不尽な言い分に便乗して政権批判を行う人は「テロリストの共犯者と同じ」
という自己認識を持つべきである。
世の中を恐怖で支配し、言論をコントロールするのがテロリストの目標である。彼らの主張に同調したり、恐怖心を無責任にあおる行為は、まさに援護射撃だ。
テロに断固反対する人は常識として捉えてほしい。
人間は何か新しい行動を起こした直後に悪いことが起きると、「従来通り行動すればよかった」と考える傾向がある。
実は、その思考の裏には「とりあえず今の自分さえ良ければいい」という無意識が潜んでいることに気付いていない。
戦後70年で世界情勢は激変している。従来通りの政策では、子供や孫の世代の日本は成り立たない可能性が高い。
将来に備える必要性を感じるからこそ、安倍首相は積極的に行動している。
平和ボケの近視眼的思考で的外れな批判をする人々は、少しは世界情勢を勉強すべきである。
http://blog.livedoor.jp/tacodayo/archives/7791747.html
<転載開始>
以下は
イスラム国の蛮行 的外れな批判をする人は国際情勢を勉強すべき
と2chからの引用です。
連載スタートのあいさつは省略して、「イスラム国」による日本人殺害脅迫事件について書く。私は「イスラム国」とだけ書くのは、
国家として認められたかような誤解を生むので反対である。以下、ISISとする。
犠牲となったジャーナリストの後藤健二さんらには、心からご冥福をお祈りしたい。
テロリストの蛮行は決して許されない。そして、この結末について非難すべき相手を間違ってはならない。
確かに、ISISは動画で安倍晋三首相の政策に言及した。
だが、
彼らの理不尽な言い分に便乗して政権批判を行う人は「テロリストの共犯者と同じ」
という自己認識を持つべきである。
世の中を恐怖で支配し、言論をコントロールするのがテロリストの目標である。彼らの主張に同調したり、恐怖心を無責任にあおる行為は、まさに援護射撃だ。
テロに断固反対する人は常識として捉えてほしい。
人間は何か新しい行動を起こした直後に悪いことが起きると、「従来通り行動すればよかった」と考える傾向がある。
実は、その思考の裏には「とりあえず今の自分さえ良ければいい」という無意識が潜んでいることに気付いていない。
戦後70年で世界情勢は激変している。従来通りの政策では、子供や孫の世代の日本は成り立たない可能性が高い。
将来に備える必要性を感じるからこそ、安倍首相は積極的に行動している。
平和ボケの近視眼的思考で的外れな批判をする人々は、少しは世界情勢を勉強すべきである。
法外な身代金要求に始まり、解放条件が二転三転するなど、
ISISは最初から人質を解放する意志がなかった
(タコ注:ヨルダン人パイロットは衛星情報で1月5日の時点で既に殺されていたようです。)可能性も高い。
ヨルダンのアブドラ国王と安倍首相は最大限の努力をした。テロリストを応援したければ、2人を批判すればいい。
後藤さんらのご家族にはお悔やみを申し上げたい。ただ、本人たちは最悪の事態も覚悟して現地入りしたのだと信じる。
覚悟を持たずに近付くような地域ではない。
さて、今回の事件に関連して興味深い出来事があった。「#ISISクソコラグランプリ」である。ご存じない方のために、概要を説明する。
ISISが公開した動画に、アニメのキャラクターなどを合成して面白い画像を作り、ハッシュタグと呼ばれる検索用の目印を付けてツイッター上で公開する日本人が続出したのだ。日本の常識では「不謹慎」「バカ者」でわりだろう。 しかし、一部の海外メディアは「テロリストにダメージを与える効果的な方法だ」と称賛した。 イスラム教全体ではなくISISだけを対象とした風刺だったので、私は一定の評価をしている。
3:名無しさん
日本のあほサヨクのポリシー
として「安倍を憎んでテロを憎まず」 。
4:名無しさん
敵(安倍)の敵(イスラム国)は味方。
5:名無しさん
言い訳並べて必死に安倍政権攻撃してテロを呼び込む連中がいるのがやばい 。
6:名無しさん
ギルバート氏に同意 。
以下は再び
今こそ中国人に突きつける 日中戦争真実の歴史
からの引用です。
3.操られた中国人の反日挑発
○中華民国建国とともに始まった反日政治宣伝工作
近現代の日中関係史を見ていると、中国人の反日ナショナリズムというものは、たいてい政治的な宣伝に煽られ、いとも簡単に激発していることが理解できる。
中国における排日の発端は日露戦争である。だからといって、今日の中国人が主張するように、中国の国土で日本が帝国主義戦争を展開したことに憤ったというわけではない。
むしろ当時の中国人は、最大の脅威であるロシアに対し、果敢にも戦いを挑む同じアジア国・日本に心からの声援を送っていたのが事実である。そしてその日本の戦勝に、中国人は強く励まされ、彼らもまた国家意識、民族意識に目覚めたというのが当時の流れだった。
たとえば清国政府はそれまでの天下国家意識(世界の中心に中国が存在するという漠然とした世界観)を捨て、日本に倣っての近代的立憲体制作りに乗り出している。これは数千年の国体の変革を意味する中国史上画期的な出来事だろう。
当時清国の新聞や雑誌には、「東方民族が西方民族を打ち破った。」「白色人種が強いという従来の考えはことごとく破綻し、すべての黄色人種は、これにより奮起しなければならない。」「ここ数百年来のアジア人がなし得た欧州に対する最初の勝利だ。」等々の文句が躍ったが、ここで注意すべきは、東夷日本との連帯意識が興奮のうちに盛り上がっているということ、つまり中華思想が見事に放棄されているということである。
またこのころ、戦争を勝利に導いたところの日本のナショナリズムに刺激され、清国留学生か日本に殺到し、興中会、華興会、光復会という留学生中心の革命団体三派が、東京で中国同盟会を結成した。
もちろんそこで総理に祭り上げられた孫文なども、第二の明治維新としての中国革命、第二の日本としての新中国を目指したこともよく知られている。
日本も中国のナショナリズムの萌芽を歓迎した。日本の中国に対する望みは、ひとえに西洋の進出に抵抗できるほどの近代国家の建設であり、その基盤となる国民意識の向上だったからだ。
しかし日本にとって皮肉だったのは、中国のナショナリズムがその後、反日という形で高揚していったことだった。
民族意織に覚醒した人々の間では、それまで列強に奪われてきた国家権益の回収気運が盛りは、
大勢の日本人教員が招聘(しょうへい)されていたが、そこへ日本の師範学校に留学していた多数の本国青年たちが戻ってきた。それは中国近代化に欠かせない人材として、日本側が熱心に受け入れ、学ばせた人々だ。その彼らが故国の学校で教鞭を執り出すと、日本人教師の招聘に反対するようになったのである。これは「列強」からの「教育権」回収というナショナリズムの動きである(タコ注:そうでは無くて、単に「日本人教師に自分の職が奪われる」という支那人らしい打算です(^_^)vさすがは人喰い人種)。
(そして)
排外意識をともなうこの
中国ナショナリズムを、巧みに日本に振り向けさせたのが
英米だった。
日本の中国への影響力増大を警戒したこれらの国の教会は財力に物をいわせ、本国政府をバックに学校や病院の開設といった文化事業を推し進め、中国人の歓心を買うとともに、本国政府も留学生の募集を積極的に行い、
親英米派を育成することに努めた。
こうしたことが、清末以来の「慕日」から「侮日」への転換の契機になったのである。
1911年の辛亥革命が、日本なくしては不可能なものだったことは否定できない史実だ。
なぜなら革命勢力はもともと日本で近代的教育を施され、日本人に庇護され、指導され、支援を受け、あるいは日本の明治維新、日清戦争、日露戦争を通じての隆昌に触発された留学生らによって形成されたものだったからだ。
革命の推進力となった彼らのナショナリズムは日本のそれの影響を受けてのものだったともいえる。それゆえ中国革命派の日本および日本人に対する信頼は当初多大なものがあったものの、それでも彼らのナショナリズムは、中華民国建国直後から、早くも反日へと向かって行った。
<転載終了>
ISISは最初から人質を解放する意志がなかった
(タコ注:ヨルダン人パイロットは衛星情報で1月5日の時点で既に殺されていたようです。)可能性も高い。
ヨルダンのアブドラ国王と安倍首相は最大限の努力をした。テロリストを応援したければ、2人を批判すればいい。
後藤さんらのご家族にはお悔やみを申し上げたい。ただ、本人たちは最悪の事態も覚悟して現地入りしたのだと信じる。
覚悟を持たずに近付くような地域ではない。
さて、今回の事件に関連して興味深い出来事があった。「#ISISクソコラグランプリ」である。ご存じない方のために、概要を説明する。
ISISが公開した動画に、アニメのキャラクターなどを合成して面白い画像を作り、ハッシュタグと呼ばれる検索用の目印を付けてツイッター上で公開する日本人が続出したのだ。日本の常識では「不謹慎」「バカ者」でわりだろう。 しかし、一部の海外メディアは「テロリストにダメージを与える効果的な方法だ」と称賛した。 イスラム教全体ではなくISISだけを対象とした風刺だったので、私は一定の評価をしている。
3:名無しさん
日本のあほサヨクのポリシー
として「安倍を憎んでテロを憎まず」 。
4:名無しさん
敵(安倍)の敵(イスラム国)は味方。
5:名無しさん
言い訳並べて必死に安倍政権攻撃してテロを呼び込む連中がいるのがやばい 。
6:名無しさん
ギルバート氏に同意 。
以下は再び
今こそ中国人に突きつける 日中戦争真実の歴史
からの引用です。
3.操られた中国人の反日挑発
○中華民国建国とともに始まった反日政治宣伝工作
近現代の日中関係史を見ていると、中国人の反日ナショナリズムというものは、たいてい政治的な宣伝に煽られ、いとも簡単に激発していることが理解できる。
中国における排日の発端は日露戦争である。だからといって、今日の中国人が主張するように、中国の国土で日本が帝国主義戦争を展開したことに憤ったというわけではない。
むしろ当時の中国人は、最大の脅威であるロシアに対し、果敢にも戦いを挑む同じアジア国・日本に心からの声援を送っていたのが事実である。そしてその日本の戦勝に、中国人は強く励まされ、彼らもまた国家意識、民族意識に目覚めたというのが当時の流れだった。
たとえば清国政府はそれまでの天下国家意識(世界の中心に中国が存在するという漠然とした世界観)を捨て、日本に倣っての近代的立憲体制作りに乗り出している。これは数千年の国体の変革を意味する中国史上画期的な出来事だろう。
当時清国の新聞や雑誌には、「東方民族が西方民族を打ち破った。」「白色人種が強いという従来の考えはことごとく破綻し、すべての黄色人種は、これにより奮起しなければならない。」「ここ数百年来のアジア人がなし得た欧州に対する最初の勝利だ。」等々の文句が躍ったが、ここで注意すべきは、東夷日本との連帯意識が興奮のうちに盛り上がっているということ、つまり中華思想が見事に放棄されているということである。
またこのころ、戦争を勝利に導いたところの日本のナショナリズムに刺激され、清国留学生か日本に殺到し、興中会、華興会、光復会という留学生中心の革命団体三派が、東京で中国同盟会を結成した。
もちろんそこで総理に祭り上げられた孫文なども、第二の明治維新としての中国革命、第二の日本としての新中国を目指したこともよく知られている。
日本も中国のナショナリズムの萌芽を歓迎した。日本の中国に対する望みは、ひとえに西洋の進出に抵抗できるほどの近代国家の建設であり、その基盤となる国民意識の向上だったからだ。
しかし日本にとって皮肉だったのは、中国のナショナリズムがその後、反日という形で高揚していったことだった。
民族意織に覚醒した人々の間では、それまで列強に奪われてきた国家権益の回収気運が盛りは、
大勢の日本人教員が招聘(しょうへい)されていたが、そこへ日本の師範学校に留学していた多数の本国青年たちが戻ってきた。それは中国近代化に欠かせない人材として、日本側が熱心に受け入れ、学ばせた人々だ。その彼らが故国の学校で教鞭を執り出すと、日本人教師の招聘に反対するようになったのである。これは「列強」からの「教育権」回収というナショナリズムの動きである(タコ注:そうでは無くて、単に「日本人教師に自分の職が奪われる」という支那人らしい打算です(^_^)vさすがは人喰い人種)。
(そして)
排外意識をともなうこの
中国ナショナリズムを、巧みに日本に振り向けさせたのが
英米だった。
日本の中国への影響力増大を警戒したこれらの国の教会は財力に物をいわせ、本国政府をバックに学校や病院の開設といった文化事業を推し進め、中国人の歓心を買うとともに、本国政府も留学生の募集を積極的に行い、
親英米派を育成することに努めた。
こうしたことが、清末以来の「慕日」から「侮日」への転換の契機になったのである。
1911年の辛亥革命が、日本なくしては不可能なものだったことは否定できない史実だ。
なぜなら革命勢力はもともと日本で近代的教育を施され、日本人に庇護され、指導され、支援を受け、あるいは日本の明治維新、日清戦争、日露戦争を通じての隆昌に触発された留学生らによって形成されたものだったからだ。
革命の推進力となった彼らのナショナリズムは日本のそれの影響を受けてのものだったともいえる。それゆえ中国革命派の日本および日本人に対する信頼は当初多大なものがあったものの、それでも彼らのナショナリズムは、中華民国建国直後から、早くも反日へと向かって行った。
最初に革命派に反日を煽ったのが袁世凱だ。

(タコ注:中国兵法の極意を極め?日本だけではなく英米をも翻弄した?袁世凱。)
彼は1912年の中華民国臨時政府の発足直後、革命派と提携し、この新国家の権力の座を奪ったが、その際、革命派に対する日本の影響力を殺ぐため、「日本は満州を占領しようとしている」といった反日宣伝を行い、相当の効果を生み出している。その袁世凱の背後には、日本の中国進出を喜ばないイギリスの影もあった。
○中国侵略のシンボル「21ヵ条要求」の虚像
そしてこれ以降の中華民国時代は、反日、排日、侮日の時代となっていった。それ以前の中国は、日清戦争を戦ったものの、対日関係は決して悪いものではなかった。日本留学ブーム、日本政府による中国近代改革の援助、日本人による革命支援など、むしろ両国、あるいは両国民は蜜月ともいえる関係を結んでいた。
(ところが)民国後に日中関係が急速に悪化の道へと転がり込んだもっとも主要な原因としてしばしば指摘されるのが、日本によるいわゆる「21ヵ条要求」(日華条約)だ。これが中国人の反日感情を盛り上げたという。
「21ヵ条要求」とは、1915年1月、大隈内閣が中華民国大総統袁世凱に提出したもので、今日では日本でも中国でも、「中国の主権を著しく侵害する要求で、最後通牒(つうちょう)を突きつけて無理やり承諾させた」というのが定説になっている。
21ヵ条の要求とはおよそ次のようなものだ。
(第一号)山東のドイツ権益の処分の事前承諾を求める四ヵ条。
(第二号)旅順、大連租借期限と南満州、安奉(あんぽう)鉄道の租借期限の99年延長、日本人の南満州、東蒙古での産業経営権、居住の自由、鉱山開掘権や鉄道建設、政・財・軍顧問招聘(しょうへい)での優先権などを求める7ヵ条。
(第三号)漢冶萍(かんやひょう)公司(コンス)の日中合弁等を求める2ヵ条。
(第四号)沿岸の港湾、島嶼(とうしょう)を外国に割譲しないことを求める一条項。
(第五号)日本人の政・財・軍顧問の起用、日本人の病院、寺院、学校への土地所有権付与、一部警察の日中合弁、日本からの武器購入、日本からの兵器購入と日中合弁の兵器工場設立、華南での鉄道敷設権、福建省の鉄道、港湾、鉱山における優先権、日本人の布教権などを求める七ヵ条。
日本は(タコ注:単に)中国における政治経済活動の「西洋列強並み」を求めたのである(タコ注:例えば違法コピー、商標権や特許の無断使用などが横行する現在の支那人に対し、日本最品に対しても欧米並みのルールを守るように要求したようなものです。要するにこんな簡単なウソにだまされるブサヨどもは経済のケの字がまるで判っていないのです)。
日本の中国進出は他の列強諸国とは違い、まさに死活にかかわるものだった。そこで日本は列強の妨害などによって不安定な状況に置かれていた中国での既得権益を、列強諸国が第一次世界大戦に忙殺されている間に整理し、中国に確認させようとの目的で提示したものにすぎない。
たとえば租借の99年延長は、香港の租借に関して英中間で同様の取り決めを行っていたし、漢冶萍公司はすでに日本とは提携関係にあったのである。
たしかに新たな「要求」として第五号の条項もあり、とくにこれが中国側から「主権侵害」と非難されたわけだが、実際には「要求」というより「希望」であり、事実最終的にはこれらはすべて削除されている。
結局「21ヵ条要求」は日本が指導的立場に立つことを嫌う中国への配慮で、25回もの交渉を通じて数度の修正が行われ、日華条約として締結された。その際、非難の的となった第五号の5ヵ条はすべて削除されている。
日本が最後通牒を行ったというのは、袁世凱が英米等に通告し、日本に圧力をかけさせるため交渉を引き延ばし続けたため、ここで断固たる処置を取らなければ排日勢力がつけ上がることを懸念したからだ。
国内での反対派に配慮した袁世凱が、逆に「最後通牒」を求めてきたという説も有力だ。
この頃から支那事変、大東亜戦争へと繋がる、
中華民国=英米vs日本という対立の構図が確立されて行く。
(そのうえ)袁世凱政府をはじめ、中国人は、「21ヵ条」の交渉中から、日本の「要求」内容を故意に歪めて伝えていた。
たとえば、「中国の学校では必ず日本語を教授しなくてはならない。」「中国で内乱が発生した時は日本の軍隊に援助を求め、日本によって治安を維持しなければならない。」「全国を日本人に開放し、その自由営業を認めなければならない。」「中国陸海軍は日本人教官を招聘しなければならない。」「南満州の警察権と行政権を日本に譲渡すること。」など、日本側としてはまったく記憶のない「要求」をでっち上げて内外に宣伝した。
このようにして、内においては排日運動を巻き起こさせた。その結果、条約締結の5月9日は「国恥記念日」に指定された。また外に対しては列強に対日圧力をかけさせた。
中国側の「21ヵ条」への反撥(はんぱつ)はこのように、袁世凱の策略によるところが極めて大きいのである。
一つは反日運動を利用した国民の団結を狙い、一つは中国伝統の「夷を以て夷を制す」、つまり外国同士を対立させてコントロールしようとしたのである。
事実アメリカでは、これを契機に反日世論が盛り上がっている。
当時、袁世凱を宿敵としていた孫文は、「21ヵ条要求」を「日本政府の態度は東洋の平和を確保し、日中の親善を図る上で妥当なものだ」として理解を示した。つまりこの条約によって日中提携のあり方を明確にし、両国関係の強化を通じて白色人種に対抗することが、東アジア情勢を安定に導くとの意見である。
孫文は「21ヵ条」の交渉が行われていた1915年2月5日、部下の陳其美(ちん・きび)と共に満鉄理事・犬塚信太郎、同社員山田純三郎との間で、「日中が共同作戦を取りやすくするよう全兵器を日本と同式にする。」「中国の軍と政府が外国人を招聘(しょうへい)する時は日本人を優先させる。」「鉱山・鉄道・沿岸航路が外資を必要とする時はまず日本と協議する。」という「日中盟約」なる契約を締結していた。

(タコ注:支那人同士の争いで
暗殺された陳其美。)

(タコ注:大正元年九月京橋にて撮影された
左から中村是公、犬塚信太郎、夏目漱石。漱石全集第12巻の巻頭より。)

(タコ注:左から山田純三郎と孫文。)
また(孫文は)、3月14日にも外務省政務局長小池張造(袁世凱との交渉当事者で、「21ヵ条要求」の立案者といわれる)に書簡を送り、「日中盟約」と同一の「盟約案」を提示している。
これは日本政府の「21ヵ条要求」とほとんど内容が符合するものだった。
つまり、この「要求」は当時としては決して理不尽なものではなかったのである。

(タコ注:どうしても日本が中国を侵略したことにしたいNHKが依頼した、孫文の「盟約案」の筆跡鑑定)
いずれにしても、それまで日中両国民で盛んに唱えられていた日支親善、日支提携、同文同種、日支兄弟国といった文句も、中国ではこのころから大々的に批判が加えられるようになった。
たとえば「要求」に憤激して結成された中華愛国会、対倭同志社などの団体は、おおよそ次のような日本非難を叫んでいた。
「日本のいう親善が有名無実、名実相離れたものであることは朝鮮の亡国が証明している(タコ注:ただの言いがかりだということは朝鮮の発展が証明してますね)。中日親善は政治上における日本帝国主義の中国合併だ。日本は一方で親善、提携、一方で武力行使を行う『二途前進』政策である。」
「武力による侵略が行き詰まると、親善、提携、同文同種を掲げるのは日本軍国主義、帝国主義が中国を奴隷化する手段、口実であり、『戦わずして滅ぼす』という陰謀だ(タコ注:そりゃあんたら支那人の兵法でんがな)。」
「中日経済提携は『工業日本と農業中国』という日本の中国侵略政策であり、『砂糖塗りの毒薬だ』。」
「中日文化提携は、仏教と儒教を以って中国民衆に麻酔をかける道具である。『同文同種』論は中華民族を『亡国奴』とする文化侵略である。『大アジア主義』とは、日本のブルジョアたちが東洋市場を独占する論理であり、アメリカのモンロー主義以上に悪辣な形式を待った東洋モンロー主義であって、アジア征服のための全アジア経済独占主義だ(タコ注:そりゃあんたらの大中華しそうでんがな)。」
これは日露戦争以降の親日、師日時代から、反日への急転直下である。
○五・四運動の裏に米英の関与と共産党の煽動
中国では1919年の五・四運動以来、学生を中心とした排日、侮日運動が北京や上海などの大都市で慢性的に継続され、拡大していった。国民党中央常務委員会も童子義勇隊や青年義勇隊を組織して反日行動を行わせた。各地の集会では「対日参戦」が叫ばれた。

(盛り上がる五四運動)
五・四運動とは第一次世界大戦後のパリ講和会議で、山東におけるドイツの権益が日本に譲渡されることが認められた
ことで、段継瑞政権に講和条約調印の拒否を要求するもので、日貨ボイコットなどを訴える反日デモの側面も持っていた。
一般に反帝国主義運動とも位置付けられる五・四運動だが、その前哨戦として旧文化の破壊を目指す新文化運動(旧礼破壊運動。「旧礼」とは儒教を中心とした中国の伝統文化)が、北京大学を中心に展開されていた。だから五・四運動当時のスローガンは、「徳先生」(デモクラシー・民主)、「餐先生」(サイエンス・科学)、そして「打倒孔家」(儒教思想打倒)であった。
運動の主唱者は胡適と陳独秀の両教授で、それに進歩的な学生たちが熱狂して飛びついた。

(胡適)

(陳独秀)
この運動は一種の文学革命の形をとり、白話文学が主張され、儒教に代わる新道徳の建設が叫ばれた。しかし軍閥の支持を持つ保守的な思想界はこの伝統破壊思想を危険視した。
当時、北京政権を握っていた段祺瑞の安徽軍閥にしても、伝統的階級支配制度の打破を目指すこの運動は謀反に見えた。

(段祺瑞)
かくて北京政権は陳独秀と胡適の辞職を要求した。そこでリベラル派の北京大学長蔡元培はやむを得ず、陳独秀の文科部長からの格下げを図ったところ、それに反対する北京の学生三千人が煽動され、「排日救国」を口実に、日中軍事協定とベルサイユ講和条約の締結という反政府スローガンを掲げ、大デモを繰り出したのである。
「排日」を掲げるからには親日派の政治家を打倒しなければならない。そこでターゲットになったのが曹汝霖(そう・じょりん)、陸宗輿(りく・そうよ)、章宗祥(しょう・そうしょう)という日本に留学した有為の人々である。デモ隊は彼らの私邸を焼き、あるいは直接暴行を加えた。また日本商品も焼き払われ、取扱業者は暴行を受けた。
旧教礼破壊運動の思想的根拠についてはマルクス主義との指摘もある。後の中国共産党創設時(1921)のメンバーである李大釗(り・だいしょう)らマルクス研究会が運動の背後で影響力を行使していたとも言われる。

(早稲田大学出の李大釗)
1922年に北京大学に招聘されたバートランド・ラッセルは、北京大学の優秀な教授や学生は、ほとんど社会主義者であると証言している。
北京で学生を煽動したのが北京大学文科部長だった陳独秀である。彼はその後上海に赴き、全国の学生運動の中核となる全国学生連合会を作っている。陳独秀は五・四運動以降、マルクス主義に傾倒しはじめ、李犬釧らとともにコミンテルンと連絡をとって中国共産党の結成に奔走し、1921年7月の中国共産党第一次全国代表大会で、初代中央局書記に選出された。五・四運動という大衆の反日運動が、中国共産党結成に多大なインパクトを与えた事実は興味深い。
その後の反日運動の背後に中国共産党の策謀、煽動があったことはいうまでもない。1931年、蒋介石による第三次共産党包囲討伐作戦のさなか、約1.500名の学生デモ隊が「打倒日本、打倒国民党」を叫びながら、国民党中央本部に押し入り、軍隊が出動するという事件もあった。
○反日教育が掻き立てた抗日愚民心理
さらに、五・四運動に英米の教唆、支援があったことは明らかだ。
この運動について当時の天津駐屯軍司令官・金子範三少将も、田中義一陸相に対し
「支那官憲の手の届かないアメリカ人経営の教会、学校で画策されている。」
「排日運動は米国人に煽動され、資金が続くので永続的に行われる見込みである。」
「英米商人が日貨排斥運動に便乗し、広告費の代わりに運動に巨額な資金を供給している。」
などと報告している。

(第26代内閣総理大臣 田中義一)
五・四運動の最初の主体は学生だったが、その後商人が参加し、
やがて英米の居留民も加わるようになった。
排日常設機関が設置され、職業運動家も現れて、主導権は学生から運動専門家の手に移っていった。そして彼らの煽動の下、日系工場の労働者も参加するに至っている。
こうした結果、日本の中小企業は耐えられなくなり、
日本商品に代わって欧米商品が入り込むに至った。
当初、社会の騒乱を何よりも嫌がる商人は排日運動には無関心だったが、学生に脅されて嫌々排日に参加しているうち、徐々に昧をしめ、率先して加わるようになった。
このような反日運動は、都市部の民衆に対日憎悪を掻き立てるようになった。小学校の教科書でも排日の文字が躍り、童謡、童話、児童劇にまで排日思想が反映されるようになった。そしてそのような空気の中で育った子供たちが、やがて日中戦争前夜の排日、抗日運動の中核となったのである。
日中戦争当時、日本人には一つの大きな疑問があった。それは中国人が事も無げに「長期抗日」「焦土抗戦」を叫んでいたことだ。日本人から見れば、たしかに長期戦は日本に多大な損害を与えるものだが、同時に中国側の損害はその数10倍に当たるものと思われた。しかも中国の民衆は、絶えず飢餓の苦しみにさらされている。それでありながら抗日勢力はなぜ同胞の苦しみに一顧(いっこ)だにしないのか、ということである。
それは何故かといえば、この時代の抗日世代の日本に対する憎悪心理は、とにかく日本に一太刀浴びせたいというものだったのだ。
日本軍がいかに強力であれ、たとえ両国が共倒れになっても、あるいは中国が潰されても、日本を一度でも叩くことができれば満足だといったような、後先を考えない無責任なものだった。
かつての義和団の排外心理もまさしくそうだった。
戦後の反日日本人の歴史学者が特筆したがる、中国人の勇猛果敢な抗日精神とは、大方このようなものなのだ。
そして憂えるべきことは、現在の反日愛国教育が育成している中国人青少年も、かつての抗日愚民と同じ道を歩んでいることだ。
以上引用終わり。
侵略戦争国家・中国に媚びる(その実、共産主義を志向する国際金融資本家の忠実な番犬)ブサヨの歴史家、政治家、活動家どもよ。
どうしてお前たちに生きる神の厳しい裁きが下らないことがありえようか!!
全知全能の神と主イエス・キリストと偉大なる預言者ムハマンドの名において言う
どうしてお前たちに地獄の罰が下らないでおくべきか!!
蛇よ、マムシの子よ。子々孫々に至るまで、地獄に落ちろ人間のカス!!

(タコ注:中国兵法の極意を極め?日本だけではなく英米をも翻弄した?袁世凱。)
彼は1912年の中華民国臨時政府の発足直後、革命派と提携し、この新国家の権力の座を奪ったが、その際、革命派に対する日本の影響力を殺ぐため、「日本は満州を占領しようとしている」といった反日宣伝を行い、相当の効果を生み出している。その袁世凱の背後には、日本の中国進出を喜ばないイギリスの影もあった。
○中国侵略のシンボル「21ヵ条要求」の虚像
そしてこれ以降の中華民国時代は、反日、排日、侮日の時代となっていった。それ以前の中国は、日清戦争を戦ったものの、対日関係は決して悪いものではなかった。日本留学ブーム、日本政府による中国近代改革の援助、日本人による革命支援など、むしろ両国、あるいは両国民は蜜月ともいえる関係を結んでいた。
(ところが)民国後に日中関係が急速に悪化の道へと転がり込んだもっとも主要な原因としてしばしば指摘されるのが、日本によるいわゆる「21ヵ条要求」(日華条約)だ。これが中国人の反日感情を盛り上げたという。
「21ヵ条要求」とは、1915年1月、大隈内閣が中華民国大総統袁世凱に提出したもので、今日では日本でも中国でも、「中国の主権を著しく侵害する要求で、最後通牒(つうちょう)を突きつけて無理やり承諾させた」というのが定説になっている。
21ヵ条の要求とはおよそ次のようなものだ。
(第一号)山東のドイツ権益の処分の事前承諾を求める四ヵ条。
(第二号)旅順、大連租借期限と南満州、安奉(あんぽう)鉄道の租借期限の99年延長、日本人の南満州、東蒙古での産業経営権、居住の自由、鉱山開掘権や鉄道建設、政・財・軍顧問招聘(しょうへい)での優先権などを求める7ヵ条。
(第三号)漢冶萍(かんやひょう)公司(コンス)の日中合弁等を求める2ヵ条。
(第四号)沿岸の港湾、島嶼(とうしょう)を外国に割譲しないことを求める一条項。
(第五号)日本人の政・財・軍顧問の起用、日本人の病院、寺院、学校への土地所有権付与、一部警察の日中合弁、日本からの武器購入、日本からの兵器購入と日中合弁の兵器工場設立、華南での鉄道敷設権、福建省の鉄道、港湾、鉱山における優先権、日本人の布教権などを求める七ヵ条。
日本は(タコ注:単に)中国における政治経済活動の「西洋列強並み」を求めたのである(タコ注:例えば違法コピー、商標権や特許の無断使用などが横行する現在の支那人に対し、日本最品に対しても欧米並みのルールを守るように要求したようなものです。要するにこんな簡単なウソにだまされるブサヨどもは経済のケの字がまるで判っていないのです)。
日本の中国進出は他の列強諸国とは違い、まさに死活にかかわるものだった。そこで日本は列強の妨害などによって不安定な状況に置かれていた中国での既得権益を、列強諸国が第一次世界大戦に忙殺されている間に整理し、中国に確認させようとの目的で提示したものにすぎない。
たとえば租借の99年延長は、香港の租借に関して英中間で同様の取り決めを行っていたし、漢冶萍公司はすでに日本とは提携関係にあったのである。
たしかに新たな「要求」として第五号の条項もあり、とくにこれが中国側から「主権侵害」と非難されたわけだが、実際には「要求」というより「希望」であり、事実最終的にはこれらはすべて削除されている。
結局「21ヵ条要求」は日本が指導的立場に立つことを嫌う中国への配慮で、25回もの交渉を通じて数度の修正が行われ、日華条約として締結された。その際、非難の的となった第五号の5ヵ条はすべて削除されている。
日本が最後通牒を行ったというのは、袁世凱が英米等に通告し、日本に圧力をかけさせるため交渉を引き延ばし続けたため、ここで断固たる処置を取らなければ排日勢力がつけ上がることを懸念したからだ。
国内での反対派に配慮した袁世凱が、逆に「最後通牒」を求めてきたという説も有力だ。
この頃から支那事変、大東亜戦争へと繋がる、
中華民国=英米vs日本という対立の構図が確立されて行く。
(そのうえ)袁世凱政府をはじめ、中国人は、「21ヵ条」の交渉中から、日本の「要求」内容を故意に歪めて伝えていた。
たとえば、「中国の学校では必ず日本語を教授しなくてはならない。」「中国で内乱が発生した時は日本の軍隊に援助を求め、日本によって治安を維持しなければならない。」「全国を日本人に開放し、その自由営業を認めなければならない。」「中国陸海軍は日本人教官を招聘しなければならない。」「南満州の警察権と行政権を日本に譲渡すること。」など、日本側としてはまったく記憶のない「要求」をでっち上げて内外に宣伝した。
このようにして、内においては排日運動を巻き起こさせた。その結果、条約締結の5月9日は「国恥記念日」に指定された。また外に対しては列強に対日圧力をかけさせた。
中国側の「21ヵ条」への反撥(はんぱつ)はこのように、袁世凱の策略によるところが極めて大きいのである。
一つは反日運動を利用した国民の団結を狙い、一つは中国伝統の「夷を以て夷を制す」、つまり外国同士を対立させてコントロールしようとしたのである。
事実アメリカでは、これを契機に反日世論が盛り上がっている。
当時、袁世凱を宿敵としていた孫文は、「21ヵ条要求」を「日本政府の態度は東洋の平和を確保し、日中の親善を図る上で妥当なものだ」として理解を示した。つまりこの条約によって日中提携のあり方を明確にし、両国関係の強化を通じて白色人種に対抗することが、東アジア情勢を安定に導くとの意見である。
孫文は「21ヵ条」の交渉が行われていた1915年2月5日、部下の陳其美(ちん・きび)と共に満鉄理事・犬塚信太郎、同社員山田純三郎との間で、「日中が共同作戦を取りやすくするよう全兵器を日本と同式にする。」「中国の軍と政府が外国人を招聘(しょうへい)する時は日本人を優先させる。」「鉱山・鉄道・沿岸航路が外資を必要とする時はまず日本と協議する。」という「日中盟約」なる契約を締結していた。

(タコ注:支那人同士の争いで
暗殺された陳其美。)

(タコ注:大正元年九月京橋にて撮影された
左から中村是公、犬塚信太郎、夏目漱石。漱石全集第12巻の巻頭より。)

(タコ注:左から山田純三郎と孫文。)
また(孫文は)、3月14日にも外務省政務局長小池張造(袁世凱との交渉当事者で、「21ヵ条要求」の立案者といわれる)に書簡を送り、「日中盟約」と同一の「盟約案」を提示している。
これは日本政府の「21ヵ条要求」とほとんど内容が符合するものだった。
つまり、この「要求」は当時としては決して理不尽なものではなかったのである。

(タコ注:どうしても日本が中国を侵略したことにしたいNHKが依頼した、孫文の「盟約案」の筆跡鑑定)
いずれにしても、それまで日中両国民で盛んに唱えられていた日支親善、日支提携、同文同種、日支兄弟国といった文句も、中国ではこのころから大々的に批判が加えられるようになった。
たとえば「要求」に憤激して結成された中華愛国会、対倭同志社などの団体は、おおよそ次のような日本非難を叫んでいた。
「日本のいう親善が有名無実、名実相離れたものであることは朝鮮の亡国が証明している(タコ注:ただの言いがかりだということは朝鮮の発展が証明してますね)。中日親善は政治上における日本帝国主義の中国合併だ。日本は一方で親善、提携、一方で武力行使を行う『二途前進』政策である。」
「武力による侵略が行き詰まると、親善、提携、同文同種を掲げるのは日本軍国主義、帝国主義が中国を奴隷化する手段、口実であり、『戦わずして滅ぼす』という陰謀だ(タコ注:そりゃあんたら支那人の兵法でんがな)。」
「中日経済提携は『工業日本と農業中国』という日本の中国侵略政策であり、『砂糖塗りの毒薬だ』。」
「中日文化提携は、仏教と儒教を以って中国民衆に麻酔をかける道具である。『同文同種』論は中華民族を『亡国奴』とする文化侵略である。『大アジア主義』とは、日本のブルジョアたちが東洋市場を独占する論理であり、アメリカのモンロー主義以上に悪辣な形式を待った東洋モンロー主義であって、アジア征服のための全アジア経済独占主義だ(タコ注:そりゃあんたらの大中華しそうでんがな)。」
これは日露戦争以降の親日、師日時代から、反日への急転直下である。
○五・四運動の裏に米英の関与と共産党の煽動
中国では1919年の五・四運動以来、学生を中心とした排日、侮日運動が北京や上海などの大都市で慢性的に継続され、拡大していった。国民党中央常務委員会も童子義勇隊や青年義勇隊を組織して反日行動を行わせた。各地の集会では「対日参戦」が叫ばれた。

(盛り上がる五四運動)
五・四運動とは第一次世界大戦後のパリ講和会議で、山東におけるドイツの権益が日本に譲渡されることが認められた
ことで、段継瑞政権に講和条約調印の拒否を要求するもので、日貨ボイコットなどを訴える反日デモの側面も持っていた。
一般に反帝国主義運動とも位置付けられる五・四運動だが、その前哨戦として旧文化の破壊を目指す新文化運動(旧礼破壊運動。「旧礼」とは儒教を中心とした中国の伝統文化)が、北京大学を中心に展開されていた。だから五・四運動当時のスローガンは、「徳先生」(デモクラシー・民主)、「餐先生」(サイエンス・科学)、そして「打倒孔家」(儒教思想打倒)であった。
運動の主唱者は胡適と陳独秀の両教授で、それに進歩的な学生たちが熱狂して飛びついた。

(胡適)

(陳独秀)
この運動は一種の文学革命の形をとり、白話文学が主張され、儒教に代わる新道徳の建設が叫ばれた。しかし軍閥の支持を持つ保守的な思想界はこの伝統破壊思想を危険視した。
当時、北京政権を握っていた段祺瑞の安徽軍閥にしても、伝統的階級支配制度の打破を目指すこの運動は謀反に見えた。

(段祺瑞)
かくて北京政権は陳独秀と胡適の辞職を要求した。そこでリベラル派の北京大学長蔡元培はやむを得ず、陳独秀の文科部長からの格下げを図ったところ、それに反対する北京の学生三千人が煽動され、「排日救国」を口実に、日中軍事協定とベルサイユ講和条約の締結という反政府スローガンを掲げ、大デモを繰り出したのである。
「排日」を掲げるからには親日派の政治家を打倒しなければならない。そこでターゲットになったのが曹汝霖(そう・じょりん)、陸宗輿(りく・そうよ)、章宗祥(しょう・そうしょう)という日本に留学した有為の人々である。デモ隊は彼らの私邸を焼き、あるいは直接暴行を加えた。また日本商品も焼き払われ、取扱業者は暴行を受けた。
旧教礼破壊運動の思想的根拠についてはマルクス主義との指摘もある。後の中国共産党創設時(1921)のメンバーである李大釗(り・だいしょう)らマルクス研究会が運動の背後で影響力を行使していたとも言われる。

(早稲田大学出の李大釗)
1922年に北京大学に招聘されたバートランド・ラッセルは、北京大学の優秀な教授や学生は、ほとんど社会主義者であると証言している。
北京で学生を煽動したのが北京大学文科部長だった陳独秀である。彼はその後上海に赴き、全国の学生運動の中核となる全国学生連合会を作っている。陳独秀は五・四運動以降、マルクス主義に傾倒しはじめ、李犬釧らとともにコミンテルンと連絡をとって中国共産党の結成に奔走し、1921年7月の中国共産党第一次全国代表大会で、初代中央局書記に選出された。五・四運動という大衆の反日運動が、中国共産党結成に多大なインパクトを与えた事実は興味深い。
その後の反日運動の背後に中国共産党の策謀、煽動があったことはいうまでもない。1931年、蒋介石による第三次共産党包囲討伐作戦のさなか、約1.500名の学生デモ隊が「打倒日本、打倒国民党」を叫びながら、国民党中央本部に押し入り、軍隊が出動するという事件もあった。
○反日教育が掻き立てた抗日愚民心理
さらに、五・四運動に英米の教唆、支援があったことは明らかだ。
この運動について当時の天津駐屯軍司令官・金子範三少将も、田中義一陸相に対し
「支那官憲の手の届かないアメリカ人経営の教会、学校で画策されている。」
「排日運動は米国人に煽動され、資金が続くので永続的に行われる見込みである。」
「英米商人が日貨排斥運動に便乗し、広告費の代わりに運動に巨額な資金を供給している。」
などと報告している。

(第26代内閣総理大臣 田中義一)
五・四運動の最初の主体は学生だったが、その後商人が参加し、
やがて英米の居留民も加わるようになった。
排日常設機関が設置され、職業運動家も現れて、主導権は学生から運動専門家の手に移っていった。そして彼らの煽動の下、日系工場の労働者も参加するに至っている。
こうした結果、日本の中小企業は耐えられなくなり、
日本商品に代わって欧米商品が入り込むに至った。
当初、社会の騒乱を何よりも嫌がる商人は排日運動には無関心だったが、学生に脅されて嫌々排日に参加しているうち、徐々に昧をしめ、率先して加わるようになった。
このような反日運動は、都市部の民衆に対日憎悪を掻き立てるようになった。小学校の教科書でも排日の文字が躍り、童謡、童話、児童劇にまで排日思想が反映されるようになった。そしてそのような空気の中で育った子供たちが、やがて日中戦争前夜の排日、抗日運動の中核となったのである。
日中戦争当時、日本人には一つの大きな疑問があった。それは中国人が事も無げに「長期抗日」「焦土抗戦」を叫んでいたことだ。日本人から見れば、たしかに長期戦は日本に多大な損害を与えるものだが、同時に中国側の損害はその数10倍に当たるものと思われた。しかも中国の民衆は、絶えず飢餓の苦しみにさらされている。それでありながら抗日勢力はなぜ同胞の苦しみに一顧(いっこ)だにしないのか、ということである。
それは何故かといえば、この時代の抗日世代の日本に対する憎悪心理は、とにかく日本に一太刀浴びせたいというものだったのだ。
日本軍がいかに強力であれ、たとえ両国が共倒れになっても、あるいは中国が潰されても、日本を一度でも叩くことができれば満足だといったような、後先を考えない無責任なものだった。
かつての義和団の排外心理もまさしくそうだった。
戦後の反日日本人の歴史学者が特筆したがる、中国人の勇猛果敢な抗日精神とは、大方このようなものなのだ。
そして憂えるべきことは、現在の反日愛国教育が育成している中国人青少年も、かつての抗日愚民と同じ道を歩んでいることだ。
以上引用終わり。
侵略戦争国家・中国に媚びる(その実、共産主義を志向する国際金融資本家の忠実な番犬)ブサヨの歴史家、政治家、活動家どもよ。
どうしてお前たちに生きる神の厳しい裁きが下らないことがありえようか!!
全知全能の神と主イエス・キリストと偉大なる預言者ムハマンドの名において言う
どうしてお前たちに地獄の罰が下らないでおくべきか!!
蛇よ、マムシの子よ。子々孫々に至るまで、地獄に落ちろ人間のカス!!
<転載終了>











