tacodayoのブログさんのサイトより
http://blog.livedoor.jp/tacodayo/archives/7792811.html
<転載開始>
以下は
対華二十一カ条の要求の真相
からの引用です。

孫文は
21カ条の要求は、袁世凱(えん せいがい)自身によって起草され、要求された策略であり、皇帝であることを認めてもらうために、袁が日本に支払った代償である」
と述べています。

この頃、支那は辛亥革命(1911年)によって共和国が誕生していましたが、非常に不安定な政権で混乱が続いており、大総統の袁世凱は「皇帝」になりたくてしょうがなかったのはホントで1915年12月には立憲君主制が議会で可決されると、袁は皇帝の宗教儀式を復活させるなど行って中華帝国皇帝についています。

21カ条は袁が皇帝、あるいは外国と交渉できる国家元首として認めてもらいたかったための譲歩であり、面子をたてるために日本に強要され仕方なかった、ということにしたのでしょう。

日本の加藤高明外相は
条約の最後通牒は、譲歩する際に支那国民に対して袁の顔を立てるために、袁に懇願されたものである
と公然と認めています。
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(第24代内閣総理大臣 加藤高明の外相時代)

さらに、アメリカ公使ポール・ラインシュの国務省への報告書には、
「支那側は、譲歩すると約束したよりも要求がはるかに少なかったので、最後通牒の寛大さに驚いた」
とあります。
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(支那の反日運動の黒幕で、日本の裏をかく手段について支那に助言を与えた米公使ラインシュ。
その彼でさえも驚いた寛大な21ヶ条の要求。)

米外交官のラルフ・タウンゼントはこの21カ条について以下のように述べています。
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(ラルフ・タウンゼント)

「これは交渉にあたった日本の外交官からじかに聞いた話であるが、(21カ条の)内容が公になるずっと前に支那代表団は内容に満足し、調印に同意していたそうである。
ところが、支那側はこう持ち出してきた。
『内容はこれで結構だが”要求”ということにしてはくれまいか。
そうした方が見栄えがする。やむなく調印したのだという風にしたいのだが』と。
これを受けて日本側は『そのほうが良いのならそういたしましょう』と言って、高圧的な態度に出るふりをした。それで支那人は不承不承、署名をするという風にしたのである。
裏でかなりのお金が動いたであろう。支那の交渉ごとは金次第とみてきたからである」

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(日米開戦後、親日派のタウンゼント逮捕を報じる「New York Times」1942年1月29日15p)

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(彼の著書

当時
このあたりの裏事情はジャーナリストたちには知られていたようです。
ところがこれに
アメリカが噛み付いてきました

この頃、米国で日系移民の排斥が再燃していたのです。

以上引用終わり。

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日露戦争の7年前の1897年にオレンジ計画を策定
し、日本と戦争するつもりだった
第26代米国大統領セオドア・ルーズベルト
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フリーメイソンの正装を着たルーズベルト


以下は
アメリカのオレンジ計画
からの引用です。

15「オレンジ計画」のほぼ休眠 1924年~1933年
その後、第30代大統領クーリッジ、第31代大統領フーバーとも「オレンジ計画」に興味を示さず、歴代の海軍作戦部長は、1924年から33年までの10年間、「オレンジ計画」に微調整を加えただけで、本格的な研究は沈滞した。

16 フランクリン・ルーズベルト大統領が「1936年版オレンジ計画」を策定
次にアメリカが、「オレンジ計画」に増補・改訂したのは、第32代大統領フランクリン・ルーズベルトの第一期目の1936年である。「オレンジ計画」の研究は、フランクリン・ルーズベルト大統領のもとで、再び活発に行なわれた。
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(セオドア・ルーズベルトの甥の
F・ルーズベルト)

フランクリン・ルーズベルトは、元海軍次官としての立場から、「オレンジ計画」の本質が、「仮借なき包囲攻撃で日本を完膚なきまでに打ちのめし、日本に『無条件降伏』を強要して『アメリカの意志』を押し付ける、『19世紀的な古典的帝国主義』の実践」であることを十分に熟知していた。

17「オレンジ計画」への懐疑 1937年~1940年
1937年、アメリカ陸軍のなかでも、「オレンジ計画」に対する懐疑の念が生じた。そして、陸軍参謀本部次長エンピック准将は、フランクリン・ルーズベルト大統領に対し、「『オレンジ計画』は、アメリカの不幸を招く。『オレンジ計画』の極端な攻撃性は、アメリカの安全保障と両立せず、『アメリカ精神の真髄』に反する」と進言した。

18合衆国艦隊司令長官リチャードソン大将は、太平洋戦争を回避しようとした
合衆国艦隊司令長官リチャードソン大将は、1940年10月、海軍作戦部長スターク大将に、「フランクリン・ルーズベルト大統領に対し、『対日戦争にはおびただしい負担が生じるが、得るべき利益は皆無だ』と、印象づけるよう」懇願。
意を受けた海軍作戦部長スターク大将は、ルーズベルト大統領に、「対日戦争は限定的なものとすべき」と力説。大統領も一応了承した。
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(ルーズベルトに少将に降格させられた
リチャードソン海軍大将)
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(ルーズベルトに作戦部長から更迭され
ヨーロッパに飛ばされたスターク海軍大将)


19 F.ルーズベルトが「オレンジ計画」を断行 1941年(昭和16年)
「オレンジ計画」に消極的になったアメリカ海軍を叱咤し、「対日戦争=太平洋戦争」を積極的に推進したのは、 第32代大統領フランクリン・ルーズベルトである。
フランクリン・ルーズベルトは、「アメリカ海軍の独裁者」であり、 表面は快活・磊落(らいらく)に振舞ったが、実際は逆で、「自分の考えを示さなくても、自分の希望を忖度して実現に働く者」を重用。 自分に諫言する者を許さず、酷薄で執念深かった。

太平洋戦争終結後、リチャードソンは、自伝『パール・ハーバーへの道』において、 「フランクリン・ルーズベルト大統領こそ、アメリカを太平洋戦争に誘い込んだ張本人である」 と厳しく告発している。

以上引用終わり。

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二人のルーズベルトと共に日本占領を目論んだ
アルフレッド・マハン


<転載終了>