地家ヤスマサのblogさんのサイトより
http://blog.livedoor.jp/jikeyasumasa-oomuroyasumasa/archives/67714274.html
<転載開始>
(※だから、大室寅之祐の代で、大室家4代目にあたる。)
http://blog.livedoor.jp/jikeyasumasa-oomuroyasumasa/archives/67714274.html
<転載開始>
◆山口県田布施町麻郷の大室さん
2012年12月4日現在(更新)
橋本龍太郎氏の祖母大室ヨネ(米)の父大室庄吉の兄大室寅之祐(東京明治天皇) についてお話します。 そもそも、田布施町のタブーについて(この事)(大室寅之祐について)は、 田布施町麻郷の古い人間なら500%知っている事実で、佐藤栄作、岸信介すらわ かっていたが、うちの爺さんが「大室家が南朝光良親王の末裔で500年以上続いて、 しかも寅之祐が大室家24代目なんて嘘だ!」と言ってた。始め意味が分から なかったが本質は、
2012年12月4日現在(更新)
橋本龍太郎氏の祖母大室ヨネ(米)の父大室庄吉の兄大室寅之祐(東京明治天皇) についてお話します。 そもそも、田布施町のタブーについて(この事)(大室寅之祐について)は、 田布施町麻郷の古い人間なら500%知っている事実で、佐藤栄作、岸信介すらわ かっていたが、うちの爺さんが「大室家が南朝光良親王の末裔で500年以上続いて、 しかも寅之祐が大室家24代目なんて嘘だ!」と言ってた。始め意味が分から なかったが本質は、
A寅之祐の大室家が本当に南朝後醍醐天皇の玄孫光良親王が1400年に吉野から 麻郷に亡命して大室姓をなのってから24代も続いているのか?
B本当に寅之祐の実の父は大室弥兵衛なのか? と言う事であった。
その後の調査で実はAに関しては、大室家(後の後南朝大室家)は1800年頃から始まり、 文政時代に初代大室家当主(父)大室文右衛門が死去(系図には大室家初代(父)大室文右衛門の父は麻郷某と いうかかれ方してる。)(妻は1830年8月9日死去)。2代目(息子)大室文右衛門が家督を 継ぐ。同時代に大室家は村の大庄屋となり家が繁栄した。同じ頃頼山陽によって、 大室家の家系図が整備され南朝の末裔を自称するようになった。2代目(息子)大室文右衛門の妻は1827年8月2日に死亡。 子は1827年10月9日に早死してしまう。そこで大室又兵衛(1789年3月29日生れ)の 息子大室弥兵衛(1813年6月14日~1886年3月3日)が満24歳の時2代目(息子)大室文右衛門の娘ハナ(1815年12月5日~1903年2月1日) と1837年結婚し2代目(息子)大室文右衛門家(大室本家)の養子に入って大室本家3代目として家督を 継ぐ。ハナと弥兵衛との間に子供が2人できたが一人目は1849年4月14日に早死し 2人目は1853年に同じく早死してしまった。(以上地家の西円寺の過去帳による)ちなみに地家吉左衛門の父は2代目
地家正右衛門、その父は初代地家正右衛門。その父は地家某で不明。(以上西円寺の過去帳による)
地家正右衛門、その父は初代地家正右衛門。その父は地家某で不明。(以上西円寺の過去帳による)
(※だから、大室寅之祐の代で、大室家4代目にあたる。)
Bに関してはこれを踏まえ、本当の所は、苗字は岸(ガン)の海賊岸(李)要蔵(遼陽から田布施町戎ヶ下にきた在日1世)の息子岸(ガン)作蔵が地家吉左衛門家(1840年3月12日没)の養子(1835年4月)となり「地家」姓を賜る。地家河内作蔵となのり廻船業して財を築き周防国(田布施町)麻郷村小字地家に住み着いた。 1840年頃、興正寺(大谷)昭顥(ショウコウ)坊(照景?)と娘スヘが田布施町麻郷地家の西円寺に 京都浄土真宗興正派、興正寺からやってきた。(興正寺昭顥坊は興正派門主一族)(苗字は谷口)やがて地家作蔵(旧暦1823年2月16日~新暦1887年4月24日) と興正寺基子(SUEKO)=谷口スヘ(1831年5月1日~1855年11月20日)が1844年頃結婚する。スヘが満13歳頃の時である。作蔵(1823年生まれ) と結婚した1年後、スヘ満14歳の頃、第一子をもうけるが1845年12月15日に1歳弱で病死した。その後スヘは 長女ターケ(1847年4月14日生まれ)を出産。1850年1月10日(戸籍では庄吉の誕生日になっている)に 戸籍名寅吉(普段使う通名は虎吉。後の大室寅之祐の明治天皇)をスヘの実家の西円寺にて出産。 この頃(1845年頃)作蔵が西円寺の東隣の麻郷「地家」に家を建てる。だから戸籍を作る時、「地家」の地名を苗字にした。 (「地家」とはそもそも村の中心地と言う意味) 1852年12月8日(戸籍では寅助の誕生日になっている)戸籍名庄吉(通名は省吉)出産。 1854年2月29日に戸籍名三男朝平(通名は浅平、浅蔵とも)出産。(俺の高祖父)
>>その後、旧暦1854年8月22日に作蔵とスヘが離婚。 長男寅吉、次男庄吉をスヘが引き取り、多分西円寺の実家?へ戻る。 大谷(興正寺)昭顥坊(照景?)の家か?? (京都には帰ってないであろう) 長女ターケと3男朝平は作蔵が引き取る。その後、作蔵は某女性と再婚する。 (作蔵の後妻某は明治4年9月1日死去)1855年9月8日 (祖父の記憶では寅吉がかぞえ6歳の時)大室弥兵衛とスヘ再婚。 スヘは大室弥兵衛の2号となる。(弥兵衛の本妻は前に書いたとおり大室文右衛門の娘ハナ) 地家寅吉は大室寅吉(後の大室寅之祐明治天皇)に。地家庄吉は大室庄吉となる。 1855年11月頃、大室弥兵衛とスへとの間に大室寅助が生まれたが直後、 スヘが産後のひだち悪く肺結核で死亡。(1855年11月20日没) (西円寺池で入水自殺か?大室近祐説) 寅助の方も1857年6月22日に1歳数カ月で病死。 文政時代に初代大室家当主が死去してから4代目と思われる大室寅助死去により大室家断絶。 大室本家は実質作蔵の息子たちにのっとられた。(大室家に海賊の血が混入してガラが悪くなった) そこから先は、鹿島昇著、新国民社刊『裏切られた三人の天皇 ── 明治維新の謎』に書いてある通りなので省略。
<転載終了>
>>その後、旧暦1854年8月22日に作蔵とスヘが離婚。 長男寅吉、次男庄吉をスヘが引き取り、多分西円寺の実家?へ戻る。 大谷(興正寺)昭顥坊(照景?)の家か?? (京都には帰ってないであろう) 長女ターケと3男朝平は作蔵が引き取る。その後、作蔵は某女性と再婚する。 (作蔵の後妻某は明治4年9月1日死去)1855年9月8日 (祖父の記憶では寅吉がかぞえ6歳の時)大室弥兵衛とスヘ再婚。 スヘは大室弥兵衛の2号となる。(弥兵衛の本妻は前に書いたとおり大室文右衛門の娘ハナ) 地家寅吉は大室寅吉(後の大室寅之祐明治天皇)に。地家庄吉は大室庄吉となる。 1855年11月頃、大室弥兵衛とスへとの間に大室寅助が生まれたが直後、 スヘが産後のひだち悪く肺結核で死亡。(1855年11月20日没) (西円寺池で入水自殺か?大室近祐説) 寅助の方も1857年6月22日に1歳数カ月で病死。 文政時代に初代大室家当主が死去してから4代目と思われる大室寅助死去により大室家断絶。 大室本家は実質作蔵の息子たちにのっとられた。(大室家に海賊の血が混入してガラが悪くなった) そこから先は、鹿島昇著、新国民社刊『裏切られた三人の天皇 ── 明治維新の謎』に書いてある通りなので省略。
その2につづく
<転載終了>