地家ヤスマサのblogさんのサイトより
http://blog.livedoor.jp/jikeyasumasa-oomuroyasumasa/archives/67714277.html
<転載開始>
大室寅之祐=東京明治天皇と現皇室 2012年12月4日新版(短文)その2

その1からのつづき
1863818日の政変により長州尊攘派、七卿とともに京都より追放される。そのため朝敵となった長州藩在京勢力は 三条実美ら七卿をともなって長州麻郷の大室家に落ち着いてかぞえ14歳になったばかりの寅吉を見て喜び滞在中非常に かわいがって日々をすごしたという。(18638月~9月頃)その後1863年寅吉は奇兵隊に参加。 1863年から1864年まで伊藤俊輔が大室家に立ち寄るようになった。
18651月寅吉かぞえ16歳の時、錦の旗と南朝の首飾りをつけマンジュウを作りに 行くと言って萩へ行き高杉晋作による功山寺挙兵に参戦。見事に勝利する。 弟の庄吉のほうはそのため別府村の高城家にあずけられて別居する事になった。 この庄吉が実家の大室家に帰ったのは 186610月末頃、俊輔が寅吉(玉)を 麻郷から連れ出した後のことであった。萩の杉家(松蔭の実家)へ玉を移し 松蔭の母・杉瀧子によるしつけ教育をうながすことにした。(護衛は力士隊) この時期に麻郷では寅吉が行方不明になったというので大騒ぎになった。 麻郷村の人間が手分けして探した。 (庄吉はこのとき上関宰判所へ呼び出され大庄屋時政藤五郎の取調べを 受けて小役人たちに拷問されたが歯を食いしばってがんばりとおし、 遂に行方を白状しなかったという。)
そして、186610月末頃まで戸籍名大室寅吉(通名(普段つかう名前は)大室虎吉)はくりかえすが このころ大室寅助と改名し一時、松蔭の母・杉瀧子によるしつけ教育をうながすため 俊輔が麻郷から玉を連れ出し萩の杉家(松蔭の実家)へ移し18673月下旬「玉」は 田中光顕や力士隊に守られて萩から周防高森に移る。手紙がきて寅助(寅之祐)が 上洛するから大室弥兵衛が高森までおみまいにいったが寅助(寅之祐)にあえず、 麻郷へ帰ったという。それから「玉」は一時期通化寺の遊撃隊屯所に滞在していたが 岩国新湊から英国船で品川弥二郎や中岡慎太郎とともに上京して1867413日、 二本松の島津屋敷に入った。 しかし新撰組に捕まりそうになったので18671017日に寅助を寅之祐と改名し 亡命するため女装した「玉」が芸者風に変装した女官たちを連れて京都を脱出。 西郷らの忍者部隊にまもられて英国船などにのり一同は186710月下旬、 田布施町麻郷の大室家に帰ってくるのである。 それが、「大室虎吉改め大室寅之祐が芸者連れて麻郷に帰ってきて・・」 と 書かれた例の資料が出てきた話に通じる。(鹿島昇先生調べ) 186711月倒幕出兵軍、海路進発11月初旬には薩摩の軍船2隻が麻郷米出浜に着岸し 800を率いて上陸してきた島津久光と、博多から同乗してきた三条実美ほかの 五卿も合流した。(麻郷に島津久光の薩摩屋敷跡あり。) 1113日藩主島津忠義が自ら率いる薩摩藩主力3000は倒幕のため鹿児島から4隻の 巨船にのって西宮に上陸。(18671115日慶喜追討に反対してた坂本龍馬と中岡慎太郎が伊藤博文、 山縣有朋、井上馨、3名によって暗殺される。)1125日長州藩は近代的装備の第一陣1200の兵を藩船7隻に 分乗させて三田尻を発し第二陣1000人の部隊は陸路西宮へ進軍した
先の島津忠義軍と西宮で合流し大洲藩は勤皇藩として西宮の藩邸に長州薩摩軍を無血上陸させるなど貢献した。そして一同は鳥羽伏見の戦いのため準備をした。 大室寅吉が大室寅助、、、寅之祐と名前を巧みに変えたのは伊藤博文が林宇一や林利助や俊輔の様に名前を変えて変名を用いたのと同じ事。このような倒幕軍の 進発予定が麻郷に届いて「玉」および奇兵隊一条勝子以下三条ら五卿、島津久光、薩長同盟幹部一同は打ちそろって1867129日、田布施町麻郷井神の高松八幡宮にて 「王政復古の大号令」を発し新調の錦旗を掲げる官軍(薩長諸隊)の出陣式を行った。(だから通史にある王政復古の大号令(1867129日)とはもちろん京都での話ではない。) (今でも麻郷には三条実美らが滞在したと言われる石碑がひっそりと残っている。) 午後の小御所会議もそうで、通史にある京都御所での話ではない。 このあと12月下旬彼らは室津(上関町)から英国船など2隻に乗船し薩摩の軍船2隻と合流し、おくれて京都をめざした。鳥羽伏見の戦いの時明治天皇自ら閲兵したという のはウソで戦い中大室寅之祐は大阪湾に浮かぶ軍艦の上に立ってた。(護衛は第二奇兵隊)鳥羽伏見の戦い中(13日)、慶喜軍が砲撃してくるから大阪に上陸できなかったという。 その後、鳥羽・伏見の戦いで薩長軍勝利。このとき寅之祐が大阪に初上陸。(大阪に明治天皇上陸の記念碑あり。)一同は京都御所をめざす。 18日慶喜は松平容保、松平定敬ら重役連と軍艦開陽丸にのり江戸に逃げ帰った。 110日のあけがた京都御所にいた睦仁(京都明治天皇)は御所を脱出。鹿島昇が 京都明治天皇は暗殺されたと書いてたがウソで維新後、京都明治天皇は比叡山方面の 某寺で僧として生き延びた。同日入れかわるようにして大室寅之祐が軍隊を引き連れ京都御所に入った。 旧暦1868年(慶応4年)110日から115日までの間人事の一新が京都御所で行われた。 この一新が「明治維新」の語源となる。(手柄のあった奴に論功賞をあたえた。) 慶応4115日、大室寅之祐が新明治天皇として正式に御所ですりかわって即位。 15日以降の明治天皇の伝記についてはドナルド=キーン氏『明治天皇』上巻に詳しい。

※ ここまで読んでくださりありがとうございます。このブログ主「地家ヤスマサ」(昭和50年11月生まれ)は現在独身で真剣に結婚を前提とする女性を募集してます。私はしがないネット歴史作家兼ネットコンテンツ構成作家ですが家柄だけが取り柄です。(親族で3人天皇を輩出した家柄はそんなにないと思います。)私はみえない敵と戦っています。こんなこと書くとキチガイだと思われますがまあきいてください。世界皇帝の椅子を競ってガチでロックフェラー家と戦っています。世界はもはやアメリカのロックフェラー家か日本の「地家 大室」家(天皇家)かで地球を2ぶんして競っている状態でこの経済戦争が終わりちかい将来アメリカ破産で世界一お金持ちの国日本が今後地球をリードすることになる。よって日本のトップ「地家 大室家」(天皇家のオーナー家)が世界皇帝に君臨するはずです。恐ろしい話です。そんなバイト生活してる新皇帝大室世界皇帝ヤスマサのお妃を募集します。芦屋あたりのお金に困らない上品な女性で健康ならば理想です。私はくいぶちがないのでお父さんが自営業なさって一人娘さんで養子をとらなければならない家でもわたくしはかまいません。兄のいるこころやさしい妹タイプの女性で昭和50年4月から昭和51年3月生まれの女性ならば話があうので理想的です。それより若くともぼくより年上の姉さん女房でもかまいません。今はやりの歴女(歴史に興味のある女性)なら話があうと思います。
 


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