tacodayoのブログさんのサイトより
http://blog.livedoor.jp/tacodayo/archives/7962851.html
<転載開始>
『666の獣』である反キリストの雛形、
アンティオコス4世エピファネス
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◇◇◇◇◇◇

もう一人の『666の獣』の雛形、
ローマ皇帝ネロ
(英国のオリジナルを元に作成された現代作品)
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一応、注意しておきますが、
現代の日本がアメリカの緩い占領政策下にあるように、
マカバイ戦争前後のセレウコス朝シリア支配下にあるユダヤや
イエス・キリストによる宣教時代のユダヤが
、古代ローマ帝国の比較的緩い占領下にあったことを理解して読まなければ、以下を読んでも全く身に付きませんよ。
( ノД`)…

◇◇◇◇◇◇

『またオリブ山で座っておられると、弟子たちが、密かにみもとに来て言った、
「どうぞお話しください。いつ、そんな事が起るのでしょうか。
あなたが又おいでになる時や
世の終りには、
どんな前兆がありますか
」。

そこでイエスは答えて言われた、
「人に惑わされないように気をつけなさい。 多くの者が私の名を名のって現れ、自分がキリストだと言って、多くの人を惑わすであろう。 
また、戦争と戦争の噂とを聞くであろう。
注意していなさい、あわててはいけない。それは起らねばならないが、まだ終りではない 
民は民に、国は国に敵対して立ち上がるであろう。またあちこちに、飢饉が起り、また地震があるであろう。

しかし、すべてこれらは産みの苦しみの初めである。 
そのとき人々は、あなたがたを苦しみにあわせ、また殺すであろう。またあなたがたは、わたしの名のゆえにすべての民に憎まれるであろう。 
そのとき、多くの人がつまずき、また互に裏切り、憎み合うであろう。 また多くのにせ預言者が起って、多くの人を惑わすであろう。また不法がはびこるので、多くの人の愛が冷えるであろう。 しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。 
そしてこの御国の福音は、
すべての民に対してあかしをするために、全世界に宣べ伝えられるであろう。
そしてそれから最後が来るのである。

預言者ダニエルによって言われた荒らす憎むべき者が、聖なる場所に立つのを見たならば(読者よ、悟れ)、 
そのとき、ユダヤにいる人々は山へ逃げよ。 
屋上にいる者は、家からものを取り出そうとして下におりるな。 畑にいる者は、上着を取りにあとへもどるな(タコ注:3.11の大津波を思い出して下さい)。 
その日には、身重の女と乳飲み子をもつ女とは、不幸である。 あなたがたの逃げるのが、冬または安息日にならないように祈れ。 
その時には、世の初めから現在に至るまで、かつてなく今後もないような大きな患難が起るからである。 
もしその期間が縮められないなら、救われる者はひとりもないであろう。しかし、選民のためには、その期間が縮められるであろう。』 (マタイによる福音書24:3〜22)

以下は
マカベア戦争
からの引用です。

⬜前2世紀、ユダヤ人とセレウコス朝の戦い。
前166年~前142年に及ぶ、パレスチナのユダヤ人が起こしたセレウコス朝シリアの支配に対する戦い。マカベウス戦争、マカバイ戦争とも言う。
ヘレニズム国家の一つである
セレウコス朝シリアのアンティオコス4世は自ら「現人神(あらひとがみ)」と称し、イェルサレムのユダヤ教の神殿に対し、(タコ注:『荒らす憎むべき』ゼウス像を設置して)ゼウス神殿と呼ばせ、違反者を死刑にすると命じた。
imageゼウス像

ユダヤ人は豪族のユダス=マカバイオス(ユダ=マカベウス、マカベウスのユダ)に率いられて反セレウコス朝の戦いに立ち上がった。
長期にわたる戦争の結果、ユダヤ人は自治が認められ、前142年ユダスの弟シモンを祖とする、ユダヤ教国家ハスモン朝(ハスモン王国)が成立した。


以下は
Wikipedia
マカバイ戦争
からの引用です。

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マカバイ戦争 Wojciech Korneli Stattler画
ワルシャワ国立美術館

マカバイ戦争(マカバイせんそう, Maccabean revolt)は、紀元前167年に勃発したセレウコス朝に対するユダヤ人の反乱とそれに続く戦争。主要な指導者ユダ・マカバイにちなんでマカバイ戦争とよばれる。この戦争の結果、ユダヤ人の独立勢力ハスモン朝の成立を見ることになる。マカバイ戦争をユダヤ側からの視点で描いたものが旧約聖書外典の「マカバイ記」である。

経緯
発端
イスラエルはディアドコイ戦争の後にプトレマイオス朝の支配する所となっていた。その統治下においてユダヤ人の生活は比較的平穏であったと考えられている。その後、数次にわたるシリア戦争の後、イスラエルはセレウコス朝の支配下に入った。

イスラエルを征服したセレウコス朝の王アンティオコス3世は地元の支持を得るためにユダヤ人に寛容な姿勢を持って望んだが、彼の死後王位を継いだセレウコス4世、そしてその後のアンティオコス4世エピファネスの時代に入ると、ユダヤ教団内部の対立に端を発して俄かに情勢が変化した。
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(タコ注:セレウコス4世フィロパトル)

セレウコス4世の時代、エルサレムの大祭司であったオニアス3世と神殿総務長であった名門ビルガ家のシモンが人事を巡って対立していた。シモンはセレウコス4世に対しオニアス3世の讒言を繰り返したが、結局オニアス3世はシモンに対して優位を維持した。

しかし間もなくセレウコス4世が死去し、アンティオコス4世が王となると、大祭司オニアス3世の弟イアソン(ヤソン)はトビヤ家の支援を受け、莫大な貢納金をセレウコス朝に納めて大祭司職を得た。
image(タコ注:アンティオコス4世エピファネス)

イアソンは更にアンティオコス4世に対し自分の権限でギュムナシオン(体育場)やエピペア(青年団)を設立し、エルサレム市民をアンティオキア市民として登録することが許されるならば更なる貢納を行うと提案し、これが認められたために支配権を握り大規模なギリシア化政策を実行した。

その後、紀元前172年にはでシモンの弟であるメネラオスがイアソンを上回る貢納金を納めて大祭司職を得、イアソンは地位を失った。メネラオスは(恐らくセレウコス朝の指示によってであるが)勝手にエルサレム神殿の財産を持ち出すなどしたために敬虔派のユダヤ人の憎悪を買った。そんな中でエジプトに遠征していたアンティオコス4世が死亡したという噂がイスラエルに流れた。これを好機と見たイアソンは地位回復を目指して挙兵し、エルサレムを一時占領したが結局破られて死亡した。

ところがこのイアソンの挙兵はエジプト遠征中のアンティオコス4世に「ユダヤ人が反乱を起こした」と報告された。
実際アンティオコス4世にしてみれば遠征中に後方で起こった騒乱、しかも彼が任命した大祭司に対して武力行使に及んだイアソンの行動は反乱以外の何者でもなかったかもしれない。
アンティオコス4世はエルサレムに進軍して神殿を掠奪し多数のユダヤ人を殺害、又は奴隷とした。
そして要塞を築いて非ユダヤ人を駐留させ監視させるとともに、
ユダヤ人に対しユダヤ教の律法に基づいて生活することを厳禁した。
そして

エルサレム神殿はゼウスの神殿とされた。

こうした中、紀元前167年に、セレウコス朝の将軍リュシアスは、アンティオコス4世の代理としてユダヤ人達にゼウス神への奉納を命じた。エルサレムの祭司家やヘレニズム的な貴族らは親セレウコス朝の立場を取ってこれに従ったが、地方都市モディンの祭司マタティアは、これを強制したセレウコス朝の役人とその仲間の親セレウコス朝的なユダヤ人を殺害した。
そしてマタティアが5人の息子たち(ヨハネ、シモン、ユダ、エレアザル、ヨナタン)と共に山中に隠れると、セレウコス朝に対する敵意を募らせていたユダヤ人がそこに集まった。マタティアはこれを軍に組織し、次第に本格的な反乱となっていった。

マカバイ戦争
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ユダ・マカバイの勝利 ギュスターブ・ドレ画

マタティアは当初、息子たちと小規模なゲリラ戦を行って異教の神殿を破壊していたが、間もなく死去した。
彼の死後に跡を継いだ息子のユダ(ユダ・マカバイ、ユダス・マッカベイオス)は父の勢力を継承してセレウコス朝からの独立を目指す戦争を開始した。ユダと兄弟たちはセレウコス朝の将軍ゴルギアスをエマオの戦いで破り、続いてベト・ズルでリュシアスも撃破し、紀元前165年末にはエルサレムを包囲してセレウコス朝軍を要塞に封じ込め、エルサレム市内に入場した。
そして
紀元前165年12月25日、エルサレム神殿からヘレニズム的な司祭を追放し、異教の祭壇を撤去することで神殿を清め、再びヤハウェ神に奉納を行った。
この出来事を今も記念するのがハヌカーと呼ばれるユダヤ教の祭である。

その後ユダは周辺諸地域に兄弟を派遣して支配範囲を広げたが、アンティオコス5世の治世に入るとリュシアスの下でセレウコス朝も反撃に転じた。
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(タコ注:アンティオコス5世。在位BC164〜162)

戦いは一進一退を続け、リュシアスは一時エルサレムを包囲するなどの活躍を見せた。

デメトリオス1世の治世に入ると、リュシアスはセレウコス朝内部での権力闘争のため、ユダヤにかまけていられなくなったのでユダヤ人がシリアの宗主権を認めることと引き換えに、ユダヤ人の信仰は認められるという条件の和議を結んで撤退した。


<転載終了>