zeraniumのブログさんのサイトより
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<転載開始>
   健全に存在してきた宗教は非常に稀(まれ)だ。
   だが自己の存在を通じて宗教を悟った人には、まったく違う理解がある。人の物真似(ものまね)をしてきた人の理解は、実は理解でも何でもない。真実は真似(まね)られるものではない。誰かとそっくりになっても本物にはなれない。真実はオリジナルだ。だからあなたもオリジナルでなければならない。

   真実は、誰かの後をついて行くことで達成されるものではない。
   真実は、自分の生を理解することで達成されるものだ。どんな信条の中にも、どんな議論の中にも真実はない。真実は心の奥深いところに、愛として隠されたものだ。真実は理屈ではない。三段論法ではない。それは愛の爆発なのだ。

   内側で真実が爆発した人は必ず、まったく違う生において神の、宗教のヴィジョンを得る。その人の目には、違う質と違う透明感、明瞭さがある。人から借りてきた思考でマインド(表面意識)が曇っている場合、その人が宗教だと言うものはすべてが宗教ではない。それはただの幻想に過ぎない。

   この根本的な違いが、真似る人を病的にしてしまう。
   キリスト教徒は病的で、ヒンズー教徒も病的だ。だがクリシュナは健全で、イエスも健全だ。彼らは誰かの言うことを繰り返して言ったのではない。彼らはオウムではない。それは彼らが悟ったことなのだ。それは全然違うものだ。

   キリスト信者になった人は、キリストの言葉を真似て言う。
   やがて彼らは自分自身を見失い、キリスト教徒はむしろ他人の影のようになる。こうして自分の存在を失う。あなたはすでに、本物の自分、真の自分ではない。キリスト教徒はすでに死んでいる。そして宗教には再生と関係がある。だが新しいものが生まれるためには、古いものは死ななくてはならない。

  だが人は、すでに廃(すた)れた信条や教義であろうと、教会に従順であることを求め、古いものを決して死なせない。つまり、新しいものの誕生を決して許さない。決してリスクを負わず、危険を感じさせる危ういものには近づかない。だが、自分の存在と向き合いながら進むイエスは、常に危険を伴いながら進んでいた。彼は大きなリスクを背負い、知られざる未知に入って行こうとした。

「知られざるもの」の探求


   つい昨晩、私は1人の若者に、「知られざるものを探求するように」と言った。
   するとその若者は言った、「どうすれば知られざるものを探求できるのですか? 自分が知らないものを、どうすれば探求できるのですか?」と。私たちはすでに知っている既知のものしか探求しない。しかし既知のものしか探求しない人は、決して真の神を知ることはない。そういう人は機械的に生きるようになり、ぐるぐると円を描き、型にはまった生き方をするようになる。

   知られざるものを求めなさい。
   なぜなら知られざるものを探求することで、人はマンネリという惰性から、反復的で機械的な生き方から自由になるからだ。だが、その若者の言うことももっともだ。「どうやって知られざるものを探求するのか?」

   既知のものを落とし、すでに知っているものに固執せず、知られざるものの到来を待ちなさい。そういう人のところに知られざる、新しいものはやって来る。それはすでにドアの向こうで待っている。だがあなたが既知のことでいっぱいなので、知られざるものの入る余地がない。

   確かに、この若者の疑問はもっともだ。
   ならどうやって、知られざるものを探求するのか? 人が探し求めるものはどれも既知なるものだ。マインド(表面意識)は、知られざるものを遮る障壁であり、マインド(表面意識)は何度も何度も、既知のものを探すことしかできず、同じことを何度も繰り返す。

   マインド(表面意識)を落とす方法、それが瞑想というものだ。
   少なくとも数分間は表面意識は落ちる。だから知られざるものを見ることができる。あなたはどこへ行くのか知らずに、どこへ進んでいるのかもわからず、自分が誰かもわからない。方向も、目的地もわからず、その時、すべての知識という既知は存在しない。それはもっともすばらしい瞬間だ。

   知識がない時には、愛がある。
   知識は愛とぶつかるので、博識な人々は愛することができない。知識はあなたをずる賢く、利口に立ち回ることを教えても、愛情あふれる人には決してしない。知られざるものに入っていくには勇気が必要であり、それも途方もない勇気が必要だ。既知のものにしがみつくのに勇気を出す必要はなく、どんな臆病者にもできる。

   キリスト教徒になるあなたは臆病者だ。
   イスラム教徒になるあなたは臆病者だ。ヒンズー教徒になるあなたは臆病者だ。人々は怖れている。だからこうした代用品にしがみつく。それは簡単に手に入るものであり、あなたは何もする必要がない。たとえばあなたは、ある家庭に生まれてキリスト教信者になる。別の家庭ならヒンズー教徒になる。あなたは何も求めず、探求しては来なかった。

   宗教は単なるブランドでしかない。
   だがこうしたブランドは、あなたを病的なものにする。なぜならあなたの内面的な現実は何も変わってはおらず、キリスト教徒、ジャイナ教徒、仏教徒であれ、異なるのはラベルだけであり、本質的には何も違わない同じ人間だからだ。そしてこうしたラベルが人々の間に問題を作り出す。

   あなたの聖書は言い続けている。「汝の敵を愛しなさい」と。だがあなたは自分の友人どころか、自分自身さえ愛せない。自分を嫌い、自分を愛せないあなたが、どうしたら隣人を愛することができるのか? イエスは汝の敵を愛せよと言っているのに、あなたはまだ友人や恋人をどのように愛したらいいのかもわからない。

   つまりあなたは、愛することがどういうことか知らない。
   そうするとどうなるだろうか? あなたは自分を取り繕い、偽善者となり、偽りの存在となる。これが宗教の病理であり、あなたは二重人格者となる。内なるあなたは別人であり、表面では違う人間のふりを続ける。内には涙と嫌悪があっても、顔には笑みを浮かべる。これが、あなたを分裂させるのだ。これが統合失調症であり、多重人格というものだ。そしてこれこそが、あらゆる神経症の根本的原因である。

   ゆえに宗教は病的なものとなった。
   誰かの真似を求める宗教は病理を作り出し、神経症的な世界を作り出す。自分で理解した内なる宗教は大いなる健全さとともにあり、それは生きることを祝福し、喜びと幸せを与える。こうした2つの宗教を十分理解しなければならない。

   あなたの宗教が他からの借り物であれば、それは人生に問題を作り出す。
   なぜならそれが、あなたの生というものに反するからだ。そうした宗教は、生に対して否定的になる。それは人をマゾヒストにし、あなたは自分自身を責めるようになる。なぜなら自分が常に、宗教と対立して存在していることに気づくようになるからだ。人は罪の意識を感じるようになり、生の一瞬一瞬が罪悪感となる。そして何をしていても、罪の意識を感じさせる宗教が存在する。

   宗教は最低限の生しか許さない。
   つまり、最小限で生きる(清貧)ということだ。それが宗教のいう放棄の意味だ。基本的な必要を満たすことは教えるが、宗教というものは豊かさというものを教えない。つまりどうすれば溢れる豊かさを生きられるかは教えない。あなたの宗教が人から与えられた単なる条件付けであれば、あなたは生に対して否定的になる。人は生きることを怖れるようになり、罪悪感を持つようになる。何をしたらいいか、何をしてはいけないか、何が正しくて、何が間違っているかと混乱し、うろたえるようになる。

   宗教はこれまで何世紀にもわたり、生を放棄するものとして存在してきた。
   この世の生は悪いものなので、生から逃避しろ、僧侶になれ、苦行者になれ、脱俗しろと言い続けてきた。それはまるで生きていることが罪であり、生まれてきたのは罰だと言わんばかりだ。

   宗教的と言われる人々は、常にこのように考えてきた。
   つまり、過去世で罪を犯したからこの世に送られてきたのだと。あるいは罰を受けるためにこの世界に放り込まれたと。これがヒンズー教の教えだ。キリスト教の教えは、さらに人間を大罪人にする。アダムは神の言いつけに背いた結果、人間たちは生まれた時から罪人であり、人は罪を背負って生まれて来るのだと。

   仏教徒たちは、生は束縛だと言い続けてきた。
   だから生から逃げ出せと。それは早ければ早いほどいいと言う。そして何世紀にもわたって、彼らは地上の至るところで一つのことだけを祈り続けてきた。それは、「二度とこの世に送り込まないでください」というものだった。

   だが、カビールは放棄に反対だという。
   もし神がこの世をつくったのであれば、この世は美しい。もしそれが神から生まれたものなら、それは美しい。この世が罰であるはずがない。神はあなたを暗く陰気な独房に閉じ込めてなどいない。この世は祝祭だ。神は人間たちが遊べるように、踊れるようにと、この世を準備したのだ。だからこの世は、祝祭なのだと。

   ”カビール: 1440~1518頃 北インドの宗教家。「神は天や寺院にではなく、神は心の中に住まう。必要なのは絶えず心に念ずることであり、沐浴も巡礼も聖典も無用である」として、生涯を機織(はたおり)工として生きた。”


          神秘家・カビールを語る
                         book 『愛の道』 OSHO  市民出版社


                            抜粋
   


















 
<転載終了>