しばやんの日々さんのサイトより
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-411.html
<転載開始>
前回は、日本の軍部が左傾化していることを報じている当時の新聞記事を紹介したが、今回は、いかにしてソ連は、わが国だけでなく世界に共産主義を拡げていったかについて書かれている記事をいくつか紹介したい。
1917年(大正6)にロシア革命が起こり史上初の社会主義政権が誕生したのだが、国内では反革命勢力(白軍)との内乱が続き、外債を踏み倒された独英仏などは反革命勢力を支援した。
そこでソヴィエト政権は、白軍と対抗するため義勇軍を中心とした赤軍を組織し、さらに反革命派を取締まるためにチェカ(非常委員会)を置き、対外的には1919年にはコミンテルン(共産主義インターナショナル、第三インターナショナルともいう)を結成して、全世界の左翼勢力をソ連共産党の指導下として、レーニンの『敗戦革命論』の考え方に則った世界の共産主義化をはかろうとした。ちなみにわが国に、コミンテルン日本支部として日本共産党が結成されたのが大正11年(1922)である。
『敗戦革命論』についてはこのブログで何度も書いてきたが、要するに資本主義国家間の矛盾対立を煽って、複数の資本主義国家が戦争をするように仕向け、そして自国を疲弊させて敗戦に導き、その混乱に乗じて共産党が権力を掌握するという革命戦略である。
前回同様に『神戸大学付属図書館デジタルアーカイブ 新聞記事文庫』という新聞記事のデータベースを使って、「赤化」「共産党」というキーワードで検索すると402件の記事が引っかかり、記事を発行日順に並べて見出しを読み、面白そうな記事をピックアップしていく。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-411.html
<転載開始>
前回は、日本の軍部が左傾化していることを報じている当時の新聞記事を紹介したが、今回は、いかにしてソ連は、わが国だけでなく世界に共産主義を拡げていったかについて書かれている記事をいくつか紹介したい。
1917年(大正6)にロシア革命が起こり史上初の社会主義政権が誕生したのだが、国内では反革命勢力(白軍)との内乱が続き、外債を踏み倒された独英仏などは反革命勢力を支援した。
そこでソヴィエト政権は、白軍と対抗するため義勇軍を中心とした赤軍を組織し、さらに反革命派を取締まるためにチェカ(非常委員会)を置き、対外的には1919年にはコミンテルン(共産主義インターナショナル、第三インターナショナルともいう)を結成して、全世界の左翼勢力をソ連共産党の指導下として、レーニンの『敗戦革命論』の考え方に則った世界の共産主義化をはかろうとした。ちなみにわが国に、コミンテルン日本支部として日本共産党が結成されたのが大正11年(1922)である。
『敗戦革命論』についてはこのブログで何度も書いてきたが、要するに資本主義国家間の矛盾対立を煽って、複数の資本主義国家が戦争をするように仕向け、そして自国を疲弊させて敗戦に導き、その混乱に乗じて共産党が権力を掌握するという革命戦略である。
前回同様に『神戸大学付属図書館デジタルアーカイブ 新聞記事文庫』という新聞記事のデータベースを使って、「赤化」「共産党」というキーワードで検索すると402件の記事が引っかかり、記事を発行日順に並べて見出しを読み、面白そうな記事をピックアップしていく。
最初に紹介するのは大正15年(1926)4月7日付の「中外商業新報」だが、『赤化運動の10年』という連載記事の1回目に、小松緑氏はこう記述している。

「…共産党本部が、白人諸国における従来の失敗に鑑み更に方向を一転して、先ず有色民族――殊に支那人、日本人の赤化に全力を傾け、その白人に対する共通反感を利用し、一気に圧倒的世界革命を断行しようという新方略である。これは、カラハン氏*がポーランドから極東に転任した時分から決定したものであるがやがてカラハン氏は、露支条約及び日露条約の成功に狂喜し、極東の赤化は一二年を出でざるべしと豪語して、大仕掛けの赤化運動に着手したのである
先月十八日、北京において国民党を首脳とする総工会、学生団等の代表者二千名が大会を開き先ず革命歌を高唱し『帝国主義を撲滅せよ』『段祺瑞を打倒せ』『不平等条約を破棄せよ』『八国格子を駆逐せよ』などと不穏の言辞を弄し国務院の門内に乱入し、終に衛隊と衝突して、死者三十名、傷者八十名を出すという宛然たる革命騒動を演出し、その主謀者たる徐謙、顧孟余、李石曾等が、逮捕を恐れて、露国公使館に遁げ込みしが如き、また永らく共産党の傀儡となって、ロシアから武器、軍資の供給を受けつつありし憑玉祥が近々モスコウに赴き、自ら一職工となりてまでも、ソヴィエット制度を根本的に研究すると公言しているが如き、また近頃広東はおいても純然たるソヴィエット政府を組織せんとする陰謀の起れる際、関係露国人十名並に政府部内及び軍隊中より六十名の連類を逮捕せしが如き、孰(いず)れの一を見ても、赤露の魔手が如何に辛辣に動きつつあるかを立証して余りある」
*カラハン氏:レフ・ミハイロヴィッチ・カラハン。ロシアの革命家 。1923~1926に中国大使を務めた。
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?LANG=JA&METAID=10101841&POS=1&TYPE=IMAGE_FILE
引用部分の冒頭で「先ず有色民族――殊に支那人、日本人の赤化に全力を傾け、その白人に対する共通反感を利用し、一気に圧倒的世界革命を断行しようという新方略」と書かれているのだが、ソ連は全世界の共産主義化を推進するために、白人と有色人種との人種問題を焚きつけて、その対立を煽って世界を戦争に巻き込む戦略を立てて着手したという点は注目してよいだろう。

アメリカで排日運動が起こったのは日露戦争以降のことだが、特に激化したのは第一次世界大戦以降のことで、白人対有色人種との対立の煽りかたが次第にひどくなって、アメリカでは日本人を猿やネズミと同様に描いたポスターが多数作られている。この背景には、日米の対立を煽って、両国を戦争に巻き込むというソ連の工作があったというのである。
また同じ年の大正14年(1925)5月30日に、中国・上海の租界(外国人居留地)で起こったデモに対して租界警察が発砲したため、13人の死者と40人以上の負傷者が出た暴動事件が起こっている。(「五・三〇事件」)
この事件は、5月15日に上海にある日系資本の内外綿株式会社の工場で暴動が発生し、工場側当事者が発砲し、共産党員の職工が死亡して10人以上の重軽傷者が出た。その後、各都市でその抗議活動がおこり、5月30日に上海で数千人規模のゼネストに発展したのだが、同年6月6日の「大阪毎日新聞」に、この五・三〇事件に関する各国の新聞の論調が紹介されている。

いくつかの新聞でソ連の関与を明確に指摘しているのだが、たとえば米国のニューヨーク・イヴニングポスト紙はこう解説している。
「支那における最近の排外運動の裏面にロシア共産党領袖連が飛躍して来たことは明白で、これを単なる想像と見なすには余りに証跡歴然たるものがある。最近 数ヶ月間にロシア政府の使命をおびた共産党員が多数支那に入り込んでいる…」
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?LANG=JA&METAID=00502972&POS=1&TYPE=IMAGE_FILE

次に、昭和3年(1928)の記事を紹介しよう。
最初に紹介するのは4月11日付の大阪朝日新聞の記事で、3月15日に日本共産党の党員が千名以上検挙された事件ことを報じている。報道が遅れたのは、全国一斉に大検挙が行なわれてすぐに記事掲載が禁じられ、ようやく4月10日に一部解禁となったことが正直に記されている。
では、当時の日本共産党は何をしようとしていたのか。司法当局がこの事件の概要を説明したことを報じているが、一部を紹介しよう。
「(1)…現在における党員は数百名に達し、関東、関西、九州、北海、信越等に潜居し、進んで青年及び軍隊の赤化に労力しおれり。
(2) 日本共産党は革命的プロレタリヤ等の世界党第三インターナショナル日本支部としてわが帝国を世界革命の渦中に誘致し、金甌無欠の国体を根本的に変革して労農階級の独裁政治を樹立し、その根本方針として力をソウェート・ロシヤの擁護、各植民地の完全なる独立等にいたしつつ共産主義社会の実現を期し、当面の政策としては革命の遂行を期したるものとす。…」
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10070605&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1
この程度の内容で「一大陰謀」との見出しをつけたことに尋常でないものを感じるのだが、具体的にどのような計画があったのかは記されていないのでわからない。
そして、同じ年の昭和3年(1928)の7月から9月にかけて、モスクワでコミンテルン第6回大会が開かれ、この会議の席上でレーニンが「共産主義者はブルジョアの軍隊に反対すべきに非ずして進んで入隊し、之を内部から崩壊せしめることに努力しなければならない。」と述べたのだが、すでにソ連はこの大会の前から、わが国の軍隊に工作をかけることに着手していたことが新聞記事に記されている。

10月19日の『国民新聞』の記事だが、
「露国の対日赤化宣伝は…最近極東局長メリニコフ氏を極東赤化の根拠地たるハルビン総領事に任命し、…再び巧妙なる方法を以て対日宣伝に著手するに決し、…直接日本軍隊に宣伝を行い以て革命を勃発せしむるの方針を執るに決し、去る七月初旬以来、先ず以て在満日本軍隊に対し前後二回に亘り
(一)善良なる無産者、親愛なる日本軍人同士に檄す
(二)虐げらるる無産者、親愛なる日本軍人同士へ
と題し世界革命労働軍連盟の名を以て軍閥資本閥に反抗して階級闘争を激成し、以て一路革命の勃発に邁進せしめんとする過激なる言辞を連らねた長文の邦語宣伝文を配布し、更に引続き第三、第四の宣伝に著手せんとするの外、一歩を進めて我国内地の軍隊全部に対しても宣伝網を拡張するの計画を定め、本月上旬既に其の宣伝員は我国に潜入したる形跡ありとは屡々(しばしば)其筋に達した確報に依って明らかであり、我国礎(いしずえ)を危くする重大問題として政府当局は極度の警戒を加 えて居る…」
とある。
ソ連は6月にすでに調査員を派遣しており、彼らは日本軍隊をこう評価したという。
「在満日本軍隊に対する宣伝は可能性ありと認める、出張中種々の機会に於て下士階級以下と飲食を共にして談話したる所、彼等の思想も相当進歩し居り、階級論争を理解して居る、然れ共今急激に皇室を云々するが如き或は帝国主義打倒の如き宣伝を行うは尚早である、階級革命、国民自由平等を標榜する宣伝を行う時は確実に効果あるものと認める…」
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?LANG=JA&METAID=10071350&POS=1&TYPE=IMAGE_FILE
かくして、7月2日に宣伝文書を約3千部用意し、日本語に堪能な中国人を使って、6日、7日の両日に長春、奉天、鉄嶺、安東の日本軍に配布し、7月24、25日には第2回目の宣伝文書を配布したという。
ソ連による工作活動は多岐にわたり、かなり執拗なものであったようだ。

次に9月21日の「時事新報」の記事を紹介しよう。
「政府は過般の共産党事件以来特に露国の赤化運動を重大視し、その防圧に関して種々対策を講じているが、其後も第三インターナショナルの赤化運動は隠然猛威を逞しうし、聊(いささ)かも緩和の色なきのみか、共産党事件の取調べ進捗するに従い、漸次其背後に第三インターナショナルの支援ある事実が顕著になって来た。殊に最近政府側の探知し得たるところに依れば、第三インターナショナルは今秋を期し、大いに赤化宣伝に努めんと陰密に計画を廻らし、我国の共産党員中の有力なる注意人物も之と策応せるの事実明かなるものあるので政府でも座視する能わずと為し、寄々その適当なる処置について協議し政府部内の一部に両国の国交を賭しても危険思想の流入を防止すべしとて極論するものあるから、場合に依っては近く露国政府に対し厳重なる警告を発する段取になるであろうと。」
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?LANG=JA&METAID=10070801&POS=1&TYPE=IMAGE_FILE
日本共産党はコミンテルン(第三インターナショナル)の日本支部であるので、ソ連の関与があることは当然のことなのだが、新聞記事で「隠然猛威を逞しうし、聊かも緩和の色なき」と書かれているレベルというのは、余程のひどい事を画策していない以上はありえない表現である。3年後の昭和6年(1931)にはわが国でクーデター未遂事件が2件[三月事件、十月事件]起こり、その翌年の昭和7年(1932)には5.15事件が起こっているのだが、このような企みがこの時期からあったのではないだろうか。

また、ソ連は軍隊だけでなく、大学にも工作をかけていたようだ。
同じ年の12月30日付けの「台湾日日新報」には東京を中心とする極左学生813名のうち約半数を検挙したと報道されており、大学別の人数まで報道されている。
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?LANG=JA&METAID=10071122&POS=1&TYPE=IMAGE_FILE

もちろんソ連はこのような宣伝工作をわが国だけに実施したのではない。
同じ昭和3年(1928)10月8日の時事新報には、米国でソ連の工作が行われたことが記されている。アメリカでは数百回にわたって共産党大会が開かれ、大量の共産文書が配られたようだ。
「米国軍隊が支那に出発する時紐育(ニューヨーク)、フィラデルフィア及び沙市の海軍造船所では示威運動が行われ又乗船中の海兵団や軍隊内にまで宣伝ビラが撒かれたのである、因(ちなみ)に米国海兵団が自国政府に反抗せよと煽動されたのは米国労働史上今回が始めてである」
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?LANG=JA&METAID=10071254&POS=1&TYPE=IMAGE_FILE

さらに10月21日の「京城(ソウル)日報」には、ソ連による主要国に対する工作活動の内容と、各国の取締り状況が纏められている。
例えばスウェーデンとインドについてはこう記されている。
【スウェーデン】
「サウェート密偵の動静に関する警察署の報告書が公表されたが、それによると労農大使館員ミトケーウキチは常に瑞典(スウェーデン)の機密をロシヤに報告しておったのみならず、ロシヤとの開戦の場合、瑞典が暴動を起こすべく各所に多数の武器を隠匿していた事も発覚した。なおこれが操従者アレキサンドルの家宅捜索の結果、ヤチェイカの組織、罷業の計画に関する書籍も出た、右アレクサンドルはモスクワよりの命令を受け活動したものであるが、国籍が瑞典にある事とて退去さるとも恐れなく思い切って密偵任務に服しつつあったものだと」
【インド】
「ポンペイ製粉工場を起こった罷業は、モスクワよりの資金で行われた事が発覚した、先週莫大な金がモスクワから送って来、罷業の首謀者ドゥユーリ個人の分として二千ループカの送金があった労働者等は毎月モスクワより保助金がくるのだと公言している。」
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?LANG=JA&METAID=10071140&POS=1&TYPE=IMAGE_FILE
このようにソ連は、わが国だけではなく、世界各国で共産主義革命のための工作を行なっていたことが明らかなのである。
次に昭和10年(1935)の記事を紹介したいのだが、この年の7月25日から8月20日にかけてモスクワで第7回コミンテルン大会が開催され57か国、65の共産党から510名の代表が集まっている。この大会で決議されたことがわが国にとっては非常に重要なことであるので、Wikipediaの解説を引用しておく。
「決議の第一には、コミンテルンはそれまでの諸団体との対立を清算し、反ファシズム、反戦思想を持つ者とファシズムに対抗する単一戦線の構築を進め、このために理想論を捨て各国の特殊事情にも考慮して現実的に対応し、気づかれることなく大衆を傘下に呼び込み、さらにファシズムあるいはブルジョワ機関への潜入を積極的に行って内部からそれを崩壊させること、第二に共産主義化の攻撃目標を主として日本、ドイツ、ポーランドに選定し、この国々の打倒にはイギリス、フランス、アメリカの資本主義国とも提携して個々を撃破する戦略を用いること、第三に日本を中心とする共産主義化のために中国を重用することが記されている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%9F%E3%83%B3%E3%83%86%E3%83%AB%E3%83%B3
何度かこのブログで、この大会でスターリンがこう演説したことを書いてきた。
「ドイツと日本を暴走させよ。しかしその矛先を祖国ロシアに向けさせてはならない。ドイツの矛先はフランスとイギリスへ、日本の矛先は蒋介石の中国に向けさせよ。そして戦力を消耗したドイツと日本の前には米国を参戦させて立ちはだからせよ。日・独の敗北は必至である。そこでドイツと日本が荒らし回った地域、つまり日独砕氷船が割って歩いた跡と、疲弊した日独両国をそっくり共産陣営に頂くのだ」

この大会の後、英米に続いてわが国もソ連に抗議し、「厳重警告」を発したようだが、検閲で記事の大半が白抜きになっているのは残念だ。しかし、世界がいくらソ連に抗議しても、この国は各国の抗議に耳を傾けるような国ではなかった。おそらくソ連にとっては、資本主義の大国は工作の対象でしかなかったのだろう。

この会コミンテルン大会の少し前の7月17日には『大阪時事新報』には、ソ連共産党委員会が恐るべき内容の対満州謀略の方針を決定したことが記されている。
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?LANG=JA&METAID=10071603&POS=1&TYPE=IMAGE_FILE
その後のソ連の動きを見てみると、反ファシスト人民戦線の形成を各国共産党に指令しておきながら、ドイツとは1939年に独ソ不可侵条約を締結し、日本とは1941年に日ソ中立条約を締結している。
そして日本を支那とアメリカ・イギリス、ドイツをイギリス・フランスと戦わせて疲弊させ、ドイツ・日本の敗戦が近いと分かった時点で、条約を破棄してそれぞれ宣戦布告し、そして第二次大戦後に多くの国々を共産圏に取りこんだのである。
この動きはスターリンの描いたシナリオ通りだと読めるのだが、通説ではソ連の謀略は存在しなかったことになっている。しかしながら当時の新聞記事を少し検索するだけで、通説と矛盾するような記事をいくらでも容易に見つけることができる。このように通説に矛盾する史実が膨大に存在する場合は、通説が誤っていると考える方がずっと自然だと思うのは私ばかりではないだろう。
コミンテルンの世界戦略を中心に、ロシア革命以降の歴史が全面的に書き替えられる日は来るのだろうか。
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<転載終了>

「…共産党本部が、白人諸国における従来の失敗に鑑み更に方向を一転して、先ず有色民族――殊に支那人、日本人の赤化に全力を傾け、その白人に対する共通反感を利用し、一気に圧倒的世界革命を断行しようという新方略である。これは、カラハン氏*がポーランドから極東に転任した時分から決定したものであるがやがてカラハン氏は、露支条約及び日露条約の成功に狂喜し、極東の赤化は一二年を出でざるべしと豪語して、大仕掛けの赤化運動に着手したのである
先月十八日、北京において国民党を首脳とする総工会、学生団等の代表者二千名が大会を開き先ず革命歌を高唱し『帝国主義を撲滅せよ』『段祺瑞を打倒せ』『不平等条約を破棄せよ』『八国格子を駆逐せよ』などと不穏の言辞を弄し国務院の門内に乱入し、終に衛隊と衝突して、死者三十名、傷者八十名を出すという宛然たる革命騒動を演出し、その主謀者たる徐謙、顧孟余、李石曾等が、逮捕を恐れて、露国公使館に遁げ込みしが如き、また永らく共産党の傀儡となって、ロシアから武器、軍資の供給を受けつつありし憑玉祥が近々モスコウに赴き、自ら一職工となりてまでも、ソヴィエット制度を根本的に研究すると公言しているが如き、また近頃広東はおいても純然たるソヴィエット政府を組織せんとする陰謀の起れる際、関係露国人十名並に政府部内及び軍隊中より六十名の連類を逮捕せしが如き、孰(いず)れの一を見ても、赤露の魔手が如何に辛辣に動きつつあるかを立証して余りある」
*カラハン氏:レフ・ミハイロヴィッチ・カラハン。ロシアの革命家 。1923~1926に中国大使を務めた。
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?LANG=JA&METAID=10101841&POS=1&TYPE=IMAGE_FILE
引用部分の冒頭で「先ず有色民族――殊に支那人、日本人の赤化に全力を傾け、その白人に対する共通反感を利用し、一気に圧倒的世界革命を断行しようという新方略」と書かれているのだが、ソ連は全世界の共産主義化を推進するために、白人と有色人種との人種問題を焚きつけて、その対立を煽って世界を戦争に巻き込む戦略を立てて着手したという点は注目してよいだろう。

アメリカで排日運動が起こったのは日露戦争以降のことだが、特に激化したのは第一次世界大戦以降のことで、白人対有色人種との対立の煽りかたが次第にひどくなって、アメリカでは日本人を猿やネズミと同様に描いたポスターが多数作られている。この背景には、日米の対立を煽って、両国を戦争に巻き込むというソ連の工作があったというのである。
また同じ年の大正14年(1925)5月30日に、中国・上海の租界(外国人居留地)で起こったデモに対して租界警察が発砲したため、13人の死者と40人以上の負傷者が出た暴動事件が起こっている。(「五・三〇事件」)
この事件は、5月15日に上海にある日系資本の内外綿株式会社の工場で暴動が発生し、工場側当事者が発砲し、共産党員の職工が死亡して10人以上の重軽傷者が出た。その後、各都市でその抗議活動がおこり、5月30日に上海で数千人規模のゼネストに発展したのだが、同年6月6日の「大阪毎日新聞」に、この五・三〇事件に関する各国の新聞の論調が紹介されている。

いくつかの新聞でソ連の関与を明確に指摘しているのだが、たとえば米国のニューヨーク・イヴニングポスト紙はこう解説している。
「支那における最近の排外運動の裏面にロシア共産党領袖連が飛躍して来たことは明白で、これを単なる想像と見なすには余りに証跡歴然たるものがある。最近 数ヶ月間にロシア政府の使命をおびた共産党員が多数支那に入り込んでいる…」
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?LANG=JA&METAID=00502972&POS=1&TYPE=IMAGE_FILE

次に、昭和3年(1928)の記事を紹介しよう。
最初に紹介するのは4月11日付の大阪朝日新聞の記事で、3月15日に日本共産党の党員が千名以上検挙された事件ことを報じている。報道が遅れたのは、全国一斉に大検挙が行なわれてすぐに記事掲載が禁じられ、ようやく4月10日に一部解禁となったことが正直に記されている。
では、当時の日本共産党は何をしようとしていたのか。司法当局がこの事件の概要を説明したことを報じているが、一部を紹介しよう。
「(1)…現在における党員は数百名に達し、関東、関西、九州、北海、信越等に潜居し、進んで青年及び軍隊の赤化に労力しおれり。
(2) 日本共産党は革命的プロレタリヤ等の世界党第三インターナショナル日本支部としてわが帝国を世界革命の渦中に誘致し、金甌無欠の国体を根本的に変革して労農階級の独裁政治を樹立し、その根本方針として力をソウェート・ロシヤの擁護、各植民地の完全なる独立等にいたしつつ共産主義社会の実現を期し、当面の政策としては革命の遂行を期したるものとす。…」
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10070605&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1
この程度の内容で「一大陰謀」との見出しをつけたことに尋常でないものを感じるのだが、具体的にどのような計画があったのかは記されていないのでわからない。
そして、同じ年の昭和3年(1928)の7月から9月にかけて、モスクワでコミンテルン第6回大会が開かれ、この会議の席上でレーニンが「共産主義者はブルジョアの軍隊に反対すべきに非ずして進んで入隊し、之を内部から崩壊せしめることに努力しなければならない。」と述べたのだが、すでにソ連はこの大会の前から、わが国の軍隊に工作をかけることに着手していたことが新聞記事に記されている。

10月19日の『国民新聞』の記事だが、
「露国の対日赤化宣伝は…最近極東局長メリニコフ氏を極東赤化の根拠地たるハルビン総領事に任命し、…再び巧妙なる方法を以て対日宣伝に著手するに決し、…直接日本軍隊に宣伝を行い以て革命を勃発せしむるの方針を執るに決し、去る七月初旬以来、先ず以て在満日本軍隊に対し前後二回に亘り
(一)善良なる無産者、親愛なる日本軍人同士に檄す
(二)虐げらるる無産者、親愛なる日本軍人同士へ
と題し世界革命労働軍連盟の名を以て軍閥資本閥に反抗して階級闘争を激成し、以て一路革命の勃発に邁進せしめんとする過激なる言辞を連らねた長文の邦語宣伝文を配布し、更に引続き第三、第四の宣伝に著手せんとするの外、一歩を進めて我国内地の軍隊全部に対しても宣伝網を拡張するの計画を定め、本月上旬既に其の宣伝員は我国に潜入したる形跡ありとは屡々(しばしば)其筋に達した確報に依って明らかであり、我国礎(いしずえ)を危くする重大問題として政府当局は極度の警戒を加 えて居る…」
とある。
ソ連は6月にすでに調査員を派遣しており、彼らは日本軍隊をこう評価したという。
「在満日本軍隊に対する宣伝は可能性ありと認める、出張中種々の機会に於て下士階級以下と飲食を共にして談話したる所、彼等の思想も相当進歩し居り、階級論争を理解して居る、然れ共今急激に皇室を云々するが如き或は帝国主義打倒の如き宣伝を行うは尚早である、階級革命、国民自由平等を標榜する宣伝を行う時は確実に効果あるものと認める…」
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?LANG=JA&METAID=10071350&POS=1&TYPE=IMAGE_FILE
かくして、7月2日に宣伝文書を約3千部用意し、日本語に堪能な中国人を使って、6日、7日の両日に長春、奉天、鉄嶺、安東の日本軍に配布し、7月24、25日には第2回目の宣伝文書を配布したという。
ソ連による工作活動は多岐にわたり、かなり執拗なものであったようだ。

次に9月21日の「時事新報」の記事を紹介しよう。
「政府は過般の共産党事件以来特に露国の赤化運動を重大視し、その防圧に関して種々対策を講じているが、其後も第三インターナショナルの赤化運動は隠然猛威を逞しうし、聊(いささ)かも緩和の色なきのみか、共産党事件の取調べ進捗するに従い、漸次其背後に第三インターナショナルの支援ある事実が顕著になって来た。殊に最近政府側の探知し得たるところに依れば、第三インターナショナルは今秋を期し、大いに赤化宣伝に努めんと陰密に計画を廻らし、我国の共産党員中の有力なる注意人物も之と策応せるの事実明かなるものあるので政府でも座視する能わずと為し、寄々その適当なる処置について協議し政府部内の一部に両国の国交を賭しても危険思想の流入を防止すべしとて極論するものあるから、場合に依っては近く露国政府に対し厳重なる警告を発する段取になるであろうと。」
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?LANG=JA&METAID=10070801&POS=1&TYPE=IMAGE_FILE
日本共産党はコミンテルン(第三インターナショナル)の日本支部であるので、ソ連の関与があることは当然のことなのだが、新聞記事で「隠然猛威を逞しうし、聊かも緩和の色なき」と書かれているレベルというのは、余程のひどい事を画策していない以上はありえない表現である。3年後の昭和6年(1931)にはわが国でクーデター未遂事件が2件[三月事件、十月事件]起こり、その翌年の昭和7年(1932)には5.15事件が起こっているのだが、このような企みがこの時期からあったのではないだろうか。

また、ソ連は軍隊だけでなく、大学にも工作をかけていたようだ。
同じ年の12月30日付けの「台湾日日新報」には東京を中心とする極左学生813名のうち約半数を検挙したと報道されており、大学別の人数まで報道されている。
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?LANG=JA&METAID=10071122&POS=1&TYPE=IMAGE_FILE

もちろんソ連はこのような宣伝工作をわが国だけに実施したのではない。
同じ昭和3年(1928)10月8日の時事新報には、米国でソ連の工作が行われたことが記されている。アメリカでは数百回にわたって共産党大会が開かれ、大量の共産文書が配られたようだ。
「米国軍隊が支那に出発する時紐育(ニューヨーク)、フィラデルフィア及び沙市の海軍造船所では示威運動が行われ又乗船中の海兵団や軍隊内にまで宣伝ビラが撒かれたのである、因(ちなみ)に米国海兵団が自国政府に反抗せよと煽動されたのは米国労働史上今回が始めてである」
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?LANG=JA&METAID=10071254&POS=1&TYPE=IMAGE_FILE

さらに10月21日の「京城(ソウル)日報」には、ソ連による主要国に対する工作活動の内容と、各国の取締り状況が纏められている。
例えばスウェーデンとインドについてはこう記されている。
【スウェーデン】
「サウェート密偵の動静に関する警察署の報告書が公表されたが、それによると労農大使館員ミトケーウキチは常に瑞典(スウェーデン)の機密をロシヤに報告しておったのみならず、ロシヤとの開戦の場合、瑞典が暴動を起こすべく各所に多数の武器を隠匿していた事も発覚した。なおこれが操従者アレキサンドルの家宅捜索の結果、ヤチェイカの組織、罷業の計画に関する書籍も出た、右アレクサンドルはモスクワよりの命令を受け活動したものであるが、国籍が瑞典にある事とて退去さるとも恐れなく思い切って密偵任務に服しつつあったものだと」
【インド】
「ポンペイ製粉工場を起こった罷業は、モスクワよりの資金で行われた事が発覚した、先週莫大な金がモスクワから送って来、罷業の首謀者ドゥユーリ個人の分として二千ループカの送金があった労働者等は毎月モスクワより保助金がくるのだと公言している。」
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?LANG=JA&METAID=10071140&POS=1&TYPE=IMAGE_FILE
このようにソ連は、わが国だけではなく、世界各国で共産主義革命のための工作を行なっていたことが明らかなのである。
次に昭和10年(1935)の記事を紹介したいのだが、この年の7月25日から8月20日にかけてモスクワで第7回コミンテルン大会が開催され57か国、65の共産党から510名の代表が集まっている。この大会で決議されたことがわが国にとっては非常に重要なことであるので、Wikipediaの解説を引用しておく。
「決議の第一には、コミンテルンはそれまでの諸団体との対立を清算し、反ファシズム、反戦思想を持つ者とファシズムに対抗する単一戦線の構築を進め、このために理想論を捨て各国の特殊事情にも考慮して現実的に対応し、気づかれることなく大衆を傘下に呼び込み、さらにファシズムあるいはブルジョワ機関への潜入を積極的に行って内部からそれを崩壊させること、第二に共産主義化の攻撃目標を主として日本、ドイツ、ポーランドに選定し、この国々の打倒にはイギリス、フランス、アメリカの資本主義国とも提携して個々を撃破する戦略を用いること、第三に日本を中心とする共産主義化のために中国を重用することが記されている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%9F%E3%83%B3%E3%83%86%E3%83%AB%E3%83%B3
何度かこのブログで、この大会でスターリンがこう演説したことを書いてきた。
「ドイツと日本を暴走させよ。しかしその矛先を祖国ロシアに向けさせてはならない。ドイツの矛先はフランスとイギリスへ、日本の矛先は蒋介石の中国に向けさせよ。そして戦力を消耗したドイツと日本の前には米国を参戦させて立ちはだからせよ。日・独の敗北は必至である。そこでドイツと日本が荒らし回った地域、つまり日独砕氷船が割って歩いた跡と、疲弊した日独両国をそっくり共産陣営に頂くのだ」

この大会の後、英米に続いてわが国もソ連に抗議し、「厳重警告」を発したようだが、検閲で記事の大半が白抜きになっているのは残念だ。しかし、世界がいくらソ連に抗議しても、この国は各国の抗議に耳を傾けるような国ではなかった。おそらくソ連にとっては、資本主義の大国は工作の対象でしかなかったのだろう。

この会コミンテルン大会の少し前の7月17日には『大阪時事新報』には、ソ連共産党委員会が恐るべき内容の対満州謀略の方針を決定したことが記されている。
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?LANG=JA&METAID=10071603&POS=1&TYPE=IMAGE_FILE
その後のソ連の動きを見てみると、反ファシスト人民戦線の形成を各国共産党に指令しておきながら、ドイツとは1939年に独ソ不可侵条約を締結し、日本とは1941年に日ソ中立条約を締結している。
そして日本を支那とアメリカ・イギリス、ドイツをイギリス・フランスと戦わせて疲弊させ、ドイツ・日本の敗戦が近いと分かった時点で、条約を破棄してそれぞれ宣戦布告し、そして第二次大戦後に多くの国々を共産圏に取りこんだのである。
この動きはスターリンの描いたシナリオ通りだと読めるのだが、通説ではソ連の謀略は存在しなかったことになっている。しかしながら当時の新聞記事を少し検索するだけで、通説と矛盾するような記事をいくらでも容易に見つけることができる。このように通説に矛盾する史実が膨大に存在する場合は、通説が誤っていると考える方がずっと自然だと思うのは私ばかりではないだろう。
コミンテルンの世界戦略を中心に、ロシア革命以降の歴史が全面的に書き替えられる日は来るのだろうか。
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<転載終了>