狼たちは知っているさんのサイトより
http://06020596.at.webry.info/201301/article_30.html?pc=on
<転載開始>
さて、今回は「明治維新」のお話を。
ぼちぼち調べてたのが、ある程度たまったので。
大本営放送では、銃を撃ちたがる女性が主役で
ドラマをやってるとか。しかも復興予算盗んで。
それに、どうも世の中は何も考えずに
りょうまがー とか いしんがー とか叫んで
ついでに 橋下維新などという下衆集団にだまされる、
という 情けない状況になってるようで。
私にとっては、極論すれば「明治維新」は
「茶番」
でしかないんだけど、しかも、
「外国主導の薩長のクーデター」
でしかないんだけど、
もっと言うと
「英国と愉快な仲間たちの搾取開始」
でしかないんだけど、
司馬の馬鹿が坂本龍馬を無駄に持ち上げたり
したものだから、世間?の常識では
「明治維新」=それはそれは良い事
となっています。
だから・・・
だから、なんでもいいからさ、疑ってみて
自分で調べてみて、そして判断しましょう。
それをせずに、司馬やみんなが
「明治維新すげー」と言ってれば
付和雷同する姿勢、
それが家畜や奴隷の進む道だと何度言えば・・・
まずは、三菱さんのとこから。
http://06020596.at.webry.info/201301/article_30.html?pc=on
<転載開始>
さて、今回は「明治維新」のお話を。
ぼちぼち調べてたのが、ある程度たまったので。
大本営放送では、銃を撃ちたがる女性が主役で
ドラマをやってるとか。しかも復興予算盗んで。
それに、どうも世の中は何も考えずに
りょうまがー とか いしんがー とか叫んで
ついでに 橋下維新などという下衆集団にだまされる、
という 情けない状況になってるようで。
私にとっては、極論すれば「明治維新」は
「茶番」
でしかないんだけど、しかも、
「外国主導の薩長のクーデター」
でしかないんだけど、
もっと言うと
「英国と愉快な仲間たちの搾取開始」
でしかないんだけど、
司馬の馬鹿が坂本龍馬を無駄に持ち上げたり
したものだから、世間?の常識では
「明治維新」=それはそれは良い事
となっています。
だから・・・
だから、なんでもいいからさ、疑ってみて
自分で調べてみて、そして判断しましょう。
それをせずに、司馬やみんなが
「明治維新すげー」と言ってれば
付和雷同する姿勢、
それが家畜や奴隷の進む道だと何度言えば・・・
まずは、三菱さんのとこから。
※ mitsubishi.com
三菱グループのポータルサイトです。
http://www.mitsubishi.com/j/history/series/man/man01.html
【上記リンク先から一部抜粋】
「長崎のグラバー邸はかつて三菱重工業のものだった」
と言うと「へえ~」と反応する人は三菱の関係者にも多いと思う。
長崎湾を見下ろす南山手の丘の上。
文久3年(1863)に建てられた。
プッチーニのオペラ「蝶々夫人」の舞台に擬(ぎ)せられている。
ただしグラバーはピンカートンのように愛妻ツルを裏切っていないし
ツルは自害などしていない。ちなみに、初演から今年で100年目の由。
グラバー邸は幕末には武器弾薬などきな臭い取引の舞台となったが、
明治維新後は普通の外国人の別荘。
昭和14年(1939)に三菱重工業がグラバーの子孫から購入した。
戦後の昭和32年(1957)、造船所が長崎鎔鉄所として発足してから
100年を迎えた記念に長崎市に寄贈された。
トマス・グラバーはスコットランドの生まれ。安政6年(1859)、
開港後1年の長崎に、
香港を拠点にする英国のジャージン・マセソン商会の
代理人として着任した。21歳だった。
ほどなくグラバー商会を設立、幕末の激動の中で
オールトやウォルシュ、シキュート、クニフレルなど
米欧の貿易商人たちと競合しながら、
西南雄藩(ゆうはん)に艦船・武器・弾薬の類を売り込んだ。
1860年代半ばには長崎における外国商館の最大手になっていた。
グラバーには長期的な視野からの活動も多い。
長州藩の伊藤博文や井上馨らの英国への密留学を支援したほか、
薩摩藩の五代友厚(ごだいともあつ)や寺島宗則(てらしまむねのり)、
森有礼(もりありのり)らの秘密裏の訪欧にも協力、
結果として日本の近代化に大きな役割を果たしている。
【抜粋終了】
もう少しグラバーを補足。
※http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%96%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%90%E3%83%BC
【一部抜粋】
明治維新後も造幣寮の機械輸入に関わるなど
明治政府との関係を深めたが、武器が売れなくなったことや
諸藩からの資金回収が滞ったことなどで1870年(明治3年)、
グラバー商会は破産。グラバー自身は高島炭鉱(のち官営になる)の
実質的経営者として日本に留まった。1881年(明治14年)、
官営事業払い下げで三菱の岩崎弥太郎が高島炭鉱を
買収してからも所長として経営に当たった。
また1885年(明治18年)以後は三菱財閥の相談役としても活躍し、
経営危機に陥ったスプリング・バレー・ブルワリーの
再建参画を岩崎に勧めて後の
麒麟麦酒(現・キリンホールディングス)の基礎を築いた。
【抜粋終了】
さて、三菱のサイトに書いてあることだけでも、
「グラバーは武器商人」だと、そして西南雄藩(ゆうはん)
と書いてるけど、要するに薩長あたりに武器を売ったと、
しかも、伊藤博文の英国留学を支援したと。
ここまでいいですか?
で、マセソン商会の代理人として
グラバーは着任とあるので、
マセソン商会をみてみましょうか。
※ ジャーディン・マセソン
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%82%BB%E3%82%BD%E3%83%B3
【一部抜粋】
幕末・明治期の日本における歴史
1859年(安政6年)、上海支店にいたイギリス人
ウィリアム・ケズィック(ウィリアム・ジャーディンの姉の子)が
横浜(旧山下町居留地1番館、現山下町一番地)に
「ジャーディン・マセソン商会」横浜支店を設立。
日本に進出した外資第1号としても知られる。
後に吉田茂の養父・吉田健三が一時期、
同社横浜支店長を勤めていた。
鹿島によって建設された横浜初の外国商館である社屋は、
地元民から「英一番館」と呼ばれた。
跡地には現在シルクセンター(国際貿易観光会館)が建っている。
1863年(文久3年)、ウィリアム・ケズウィックは井上聞多、
遠藤謹助、山尾庸三、野村弥吉、伊藤博文の
長州五傑のイギリス留学を支援する。
彼らの英国滞在は、ジェームス・マセソンの甥にあたる
ヒュー・マセソン(ジャーディン・マセソン商会・ロンドン社長)
が世話した。
一方長崎でも、1859年9月19日(安政6年8月23日)に
幕末・明治期の重要人物であるトーマス・ブレーク・グラバーが
「ジャーディン・マセソン商会」長崎代理店として
「グラバー商会」を設立。現在はグラバー園として公開されている。
グラバーは、五代友厚(薩摩)、坂本龍馬(海援隊)、
岩崎弥太郎(三菱財閥)等を支援した。
その他、神戸・大阪・函館にも代理店を置いた。
【抜粋終了】
さてさて。
吉田茂の養父だの伊藤博文だの坂本龍馬だの
岩崎弥太郎だのと名前が出てきますね。
吉田茂が米国のポチな話は次回に譲るとして、
まあ、ちゃっかり、この頃から関連があるんですね。苦笑
坂本龍馬が「亀山社中」という会社を創りました。
これもチェックしておきましょうか。
※ 海援隊(亀山社中)の消息、明治維新や新政府でのその後
http://www.algorism.jp/business/20100817131747.html
【一部抜粋】
亀山社中=海援隊のメンバーは、
明治維新とその後にどのような生涯を送ったのでしょうか?
亀山社中→海援隊→土佐商会・九十九商会
坂本龍馬は、大政奉還の直後、明治維新の直前に暗殺されます。
中岡慎太郎は土佐藩支援の「陸援隊」の隊長、
海援隊+陸援隊を「翔天隊」と言うらしいですね。
【抜粋終了】
おやおや、リンク先を見ると
海援隊の経理担当が岩崎弥太郎ですね。
三菱の、これ以降の金儲け、どれくらいだったか
調べたいなー。笑 べったりじねーか。当時から。
ちなみにキリンのサイトでもグラバーに関して
書いてますね。
※ http://www.kirinholdings.co.jp/company/history/person/beer/14.html
三菱と言い、キリンと言い、
知る人にとっては 自爆テロをしているようにしか
見えないのですが、
消費者は馬鹿だと思って平気で書いてるんでしょうか。苦笑
で、
ここまでをまとめてみますと、
まず、ロスチャイルド系のマセソン商会と
グラバー商会は、武器商人として薩長などに
武器を売りつけたわけですね。
これはツイッターで、
「南北戦争であまった武器を処分のためだろ」
と書いておられる人もいましたが、
十分考えられる話ですね。
ともかく、彼らは武器を売りまくった。
そして、イギリスに留学させてもいる。
なんのためでしょうか?
まさか武器商人が「文化交流」のためでは
ありますまい。笑
ちょっと「伊藤博文の留学」をみてみましょうか。
※ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E8%97%A4%E5%8D%9A%E6%96%87#.E3.82.A4.E3.82.AE.E3.83.AA.E3.82.B9.E7.95.99.E5.AD.A6
【一部抜粋】
イギリス留学
文久3年(1863年)には井上聞多・遠藤謹助・山尾庸三・
野村弥吉らと共に長州五傑の一人としてイギリスに渡航する。
伊藤の荷物は文久2年(1862年)に発行された
間違いだらけの『英和対訳袖珍辞書』1冊と寝巻きだけであったという。
ロンドン到着後、ヒュー・マセソンの世話を受け
化学者・アレキサンダー・ウィリアムソンの邸に滞在し、
英語や礼儀作法の指導を受ける。
ロンドンでは英語を学ぶとともに博物館、美術館に通い、
海軍施設、工場などを見学して見聞を広めた。
留学中にイギリスと日本との、
あまりにも圧倒的な国力の差を目の当たりにして開国論に転じる。
元治元年(1864年)、米英仏蘭4国連合艦隊による
長州藩攻撃が近いことを知ると、井上とともに急ぎ帰国し
戦争回避に奔走する。横浜上陸後、英国公使オールコックと
通訳官アーネスト・サトウと会見。
しかし、伊藤、井上両名の奔走も空しく、8月5日に
4国連合艦隊の砲撃により下関戦争(馬関戦争)が勃発、
長州の砲台は徹底的に破壊される。
伊藤は戦後、宍戸刑馬こと高杉晋作の通訳として、
ユーリアラス号で艦長クーパーとの和平交渉にあたる。
藩世子・毛利元徳へ経過報告したときには、
攘夷派の暗殺計画を知り、高杉とともに行方をくらましている。
そして、この和平交渉において、
天皇と将軍が毛利藩宛に発した「攘夷実施の命令書」の写しを
サトウに手渡したことにより、
各国は賠償金を幕府に要求するようになる。
【抜粋終了】
えーと、結局、伊藤はあちら側の方々の
賠償金請求のきっかけを作ったってこと?
米英仏蘭を儲けさせただけ?
スパイ?
留学して何を叩き込まれてきたのやら。苦笑
アーネスト・サトウって誰だ?
※ アーネスト・サトウ著 坂田精一訳 「一外交官の見た明治維新」
http://www51.tok2.com/home/sendatakayuki/etc5/syohyou198.html
【一部抜粋】
アーネスト・サトウとは日本人二世ではない。
生粋のイギリス人外交官の名前である。
アーネスト・サトウの原著「日本における一外交官」は
1921年にロンドンで出版された。
サトウは合計25年も日本に滞在した青年外交官であった。
【抜粋終了】
ふーん。
リンク先おもしろいのでもう少し抜粋
【抜粋開始】
高杉晋作の近代兵器と新軍隊による戦いが功を奏した。
家茂の逝去と攘夷運動の元凶であった孝明天皇の逝去
(伊藤博文と岩倉による暗殺という説がある)
によって長州征伐は幕府側の完全敗北になった。
この戦争の失敗で幕府の無力が内外に露呈され、
薩長は倒幕の軍を大阪に進めた。
岩倉、西郷、小松、大久保など薩摩藩の実力者が
討幕軍の計画を練った。
新将軍慶喜は徳川単独政権を支える事が出来ないと悟って、
土佐藩主山内容堂の意見を入れて1967年11月「大政奉還」をし、
1968年1月王政復古のクーデターにより
慶喜の最後の望みも断ち切られた。
と同時に新政府は徳川家に辞官・納地返還を突きつけて、
鳥羽伏見戦争で一気に幕府軍を敗走せしめた。
江戸城の無血開城は勝海舟と西郷隆盛の仲介を取ったのが
イギリス公使パークスであったという。
イギリスは局外中立という大義名分で他の諸国の介入を防ぎ、
イギリス単独の影響力確保を狙ったのである。
へー、「王政復古」はクーデターでいいんだ。
調べてみよう。
つーか、マセソン商会はロスチャ系だから、
イギリス単独の影響力確保ってのは当然の狙いだよね。
※ 王政復古のクーデター
http://plaza.rakuten.co.jp/gundayuu/diary/201008220000/
【一部抜粋】
このクーデター計画の中心人物はといえば、
薩摩の大久保一蔵と公卿の岩倉具視の2人です。
大久保は、まず、討幕の盟約を結んでいる
長州藩と芸州藩に京へ派兵するよう依頼し、
それともに、薩摩からも兵を送ってもらうよう国許を説得します。
さらに、少しでも兵力を集めたいということで、
大政奉還派の中心であったはずの土佐藩にも声をかけ、
協力を求めました。
このあたりの土佐藩の動きというのは、非常に微妙で、
本来は、討幕派ではないはずなのですが、
王政復古・公議政体という部分では
薩摩と共通認識があったということなのか、
それとも、土佐の発言力を保持しておきたいという思惑からか、
このクーデター計画に賛同します。
そして、このクーデターの決行日として、
12月5日が予定されることになりました。
しかし、ここで、土佐の後藤象二郎は、
容堂公の入京が遅れるとしてクーデターの延期を要請。
一旦、12月8日に変更されますが、
さらに延期を申し出て、ということで、
決行日については、なかなか調整がつかず、
結局、最終的にクーデターの決行日は
12月9日ということに落ち着きました。
このあたり、土佐藩、とくに山内容堂が、
薩摩に同調することを渋っている様子が感じられます。
そして、いよいよクーデターの決行へ。
12月8日のことです。
この日、朝廷では会議が開かれていました。
その主な議題は、
・朝敵とされている長州藩父子の罪の赦免と復位。
・政治犯として追放されている公卿の赦免。
この2点。
この会議は非常に長引いて、深夜に及び、また、更に続いて、
翌朝まで、会議が行われました。
その結果、長州藩父子の赦免と復位が決定。
さらに、政治犯であった公卿の赦免も認められました。
七卿落ちで、長州・九州へと逃れていた
三条実美の罪が許されたのも、この時、
また、追放中であった岩倉具視の参内が許されたのも、
この時のことでありました。
そして、徹夜で行われたこの会議というのが、
実は、翌日のクーデターのための伏線として
用意されたものだったのです。
散会となり、席をはずす二条摂政ら親幕府派の公卿たち。
会議の席には、クーデター側のメンバーだけが残ることになりました。
そこへ、たった今、罪を許されたばかりの岩倉具視が現われ、
かねて用意してあった王政復古の勅書を持って、
これを天皇に奏上します。
一方、御所の外では、薩摩・安芸・尾張・越前の諸藩の兵が
御所の門を占拠。
この時、会津と桑名の兵が御所の警備についていましたが、
不意をつかれて総崩れとなり、退去していきました。
そうした中、土佐の山内容堂ら各藩の藩主も集まってきます。
やがて、天皇が出座され、岩倉から手渡された
王政復古の詔が発表されました。
その内容というのは、
・征夷大将軍の職を廃止する。(つまりは幕府の廃止)
・京都守護職、京都所司代の廃止。
・従来の摂政、関白の職を廃止。
・これに代わって、総裁、議定、参与の三職を置き、
総裁には有栖川宮熾仁親王を任じる。
そして最後に、
・王政復古政権の樹立を宣言
これが「王政復古の大号令」と呼ばれているもので、
これにより、これまで700年間続いてきた、
武家による政治体制での諸制度が、
一瞬のうちに、廃止されたことになります。
まさに、あっという間の大変革でありました。
【抜粋終了】
さて、またいったんまとめると、
坂本龍馬の亀山社中が、グラバーの命令で
薩長などに武器を売ったと。
ということは、坂本龍馬は武器商人ですね。
で、海援隊には岩崎がいて、
ちゃっかり三菱財閥を作ると。
で、伊藤は結局、賠償請求されるために動いたと。
こいつら、なんなんですかね?
売国奴と我利我利亡者ですか?
えっと、吉田松陰もみときますか。
※ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E7%94%B0%E6%9D%BE%E9%99%B0
【一部抜粋】
安政4年(1857年)に叔父が主宰していた松下村塾の名を引き継ぎ、
杉家の敷地に松下村塾を開塾する。
この松下村塾において松陰は
久坂玄瑞や高杉晋作、伊藤博文、山縣有朋、吉田稔麿、
入江九一、前原一誠、品川弥二郎、山田顕義などの
面々を教育していった
【抜粋終了】
あらら、まーた、伊藤博文。
なんだこいつ。
吉田松陰について もっと調べてみますか。
※ 幕末の思想4 吉田松陰は単なるテロリストに過ぎない!!
http://www.sa-yu.net/blog/2012/08/002325.html
【一部抜粋】
このように、吉田松陰とは実は単なる
テロリストに過ぎないということがわかります。
体制を批判し、悪い奴を排除すれば世の中は変わるという
短絡思考の元に、幾多の暗殺計画を企てる「跳ね上がり者」です。
・明治政府を作り上げたのは薩摩と長州です。
明治政府を正当化するために長州を正当化し、
さらに長州を正当化するために吉田松陰を偉人として
山縣有朋らが神話を広げていったという構造です。
・そして、戦後にこの神話を広げていったのが司馬遼太郎です。
「明治は偉い、幕府はダメ」
「戦後は素晴らしい、戦前はダメ」という思想に立脚して
書かれているのが司馬遼太郎の文章です。
【抜粋終了】
あらら、司馬にたどり着いちゃったわこれ・・・
なになに、山縣有朋が神話にしたと、
山縣有朋、調べてみましょう。
※ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E7%B8%A3%E6%9C%89%E6%9C%8B
明治2年(1869年)に渡欧し、各国の軍事制度を視察する。
翌年アメリカ経由で帰国。
その後は競争相手を押しのけて、
大村益次郎の実質的な後継者として西郷隆盛の協力を得ることで
軍制改革を断行、徴兵制を取り入れた(徴兵令)。
明治5年(1872年)、陸軍出入りの政商・山城屋和助に
陸軍の公金を無担保融資して焦げ付かせる。
いわゆる山城屋事件である。
山城屋の証拠隠滅工作により山縣に司法の追及は及ばなかったが、
責任を取る形で明治6年(1873年)4月に陸軍大輔を辞任。
然し山縣に代わりうる人材がなく、同年6月に陸軍卿で復職した。
参謀本部の設置、軍人勅諭の制定にかかわった。
明治10年(1877年)に勃発した西南戦争では、
参軍として官軍の事実上の総指揮を執った。
錬度や士気で優る薩軍に対し、物量で対抗して鎮圧した。
9月に最後の城山の戦いでは、西郷へ自決を勧める書状を送った
【抜粋終了】
うーんと、飽きてきたので アンサイクロぺディアで
見とこっと。
※ 山縣有朋 アンサイクロぺディア
http://ja.uncyclopedia.info/wiki/%E5%B1%B1%E7%B8%A3%E6%9C%89%E6%9C%8B
【一部抜粋】
久坂玄瑞の紹介で吉田松陰の松下村塾で学んだ、とされる。
山縣自身は生涯「自分は松陰先生門下である」と称し
誇りにしていたが、もちろんただの自称であり、
松陰本人は「有朋?誰それ」てな感じであった。
【抜粋終了】
ふーん。ウイキでも、
「山縣が入塾したとされる時期から数か月後に
松陰は獄に下ったため山縣の在塾期間は極めて短かったが、
彼は松陰から大きな影響を受けたと終世語り、
生涯「松陰先生門下生」と称し続けた。」
とあるから、山縣は、
「明治政府を正当化するために長州を正当化し、
さらに長州を正当化するために吉田松陰を偉人として
山縣有朋らが神話を広げていった」
というのは本当のようですね。
おやおや、なんか、どんどん脱線したので
元に戻しましょう。
「明治維新」の話でした。
※ 「からゆきさん」を外貨獲得の尖兵としてきた過去
http://oujyujyu.blog114.fc2.com/blog-entry-686.html
【一部抜粋】
からゆきさんとは唐(中国)に行く女性を意味します。
中国に行き働けば3度3度の食事が出来て、
両親に送金が出来ると口説かれて、
おびただしい日本人女性が渡航、密航しています。
中国行きが看板でしたが、実は世界の津々浦々まで
日本人女性が売られてゆきました。
そうです。貧困による人身売買です。
明治の疲労困憊していた経済はこのような犠牲、
女性の送金で立ち直ったともいえます。
これらのフィリピン在住日本人の人口の男女比は
「からゆきさん」の増加する1900年以降、
女性の割合が比較的高く、特にマニラ及びその周辺は、
廃娼運動の高まる1918年頃まで25%前後以上を保っていました。
慶応義塾をつくった福沢諭吉が、
女性を海外に売り飛ばすことを推奨したことは以前に書いた(2月16日)。
同じく明治の元勲・伊藤博文も女衒・村岡伊平治が
ゴロツキを集めて女性を誘拐したりだましたりして、
海外に連れていき売春させる仕掛け(犯罪)を賞賛し、
女郎屋をもっと増やせと言っているのである。
こういう福沢や伊藤をわれわれは紙幣(1万円札)の顔にしていた。
【抜粋終了】
あらら、伊藤に続いて今度は福沢諭吉・・・
ちょっと「からゆきさん」について調べないと。
※ からゆきさん -教科書が教えないもう一つの日本史―
http://www.kanda-zatsugaku.com/110624/0624.html
福沢諭吉で調べてたら、また三菱のサイトにぶつかった。
これ ↓
http://www.mitsubishi.com/j/history/series/yataro/yataro14.html
ふーん・・・
で、日本郵船ね。
からゆきさんと 日本郵船。
三菱と 福沢諭吉、仲がいいのねー。苦笑
ふーん。
なんか つながりまくりだな・・・
三菱=日本郵船だもんね。
※ 日本郵船
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E9%83%B5%E8%88%B9
沿革
1870年 - 九十九商会(後の三川商会、三菱商会へ)が
大阪市西区で設立。
1875年(明治8年) - 国有会社である日本国郵便蒸気船会社の
経営が岩崎弥太郎に任される(三菱商会が郵便汽船三菱会社へ改称)。
1885年(明治18年) - 郵便汽船三菱会社と共同運輸会社が合併し、
日本郵船会舎を設立。
1893年(明治26年) - 株式会社として日本郵船株式会舎が誕生。
亀山社中→海援隊→土佐商会・九十九商会
という流れですね。
あ、福沢諭吉。
これも「崇拝」しまくりの人がいるので、ちょっと
別の意見も見ておきましょう。
※ 「ジャーナリスト同盟」通信
本澤二郎の「日本の風景」(789)
http://blog.livedoor.jp/jlj001/archives/51848723.html
<安川氏の福沢本が翻訳>
日本国民の多くは、いまでも福沢諭吉を評価している。
筆者も教科書に載っていた
「天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらず」
に感動させられた愚かな日本人だった。
実際は、これはアメリカの独立宣言を福沢が翻訳しただけで、
彼の信念では全くなかった。
安川氏の福沢研究は、福沢の生涯の記述を全て
読破することで、福沢思想・信念を見事に暴きだしている
点に特徴がある。
彼は平等論者でも平和主義者でもない。
その逆だったのである。
<中韓でも誤解>
明治以降の日本研究をする中国と韓国の学者は、
等しく福沢の虜になっている。
ここに大きな落とし穴があるのだが、
その罠にはまったままの学者が多いというのが実情である。
中国人の学者の中にも少なくない。
誤れる日本研究が行われてきたのである。
猛省を促したい。
アジアの大国になった原動力が教育にあると思い込み、
必然的に福沢にはまり込んでしまう。
しかし、肝心の福沢本は全て福沢信者のまとめたものである。
真実を伝えてはいない。
中国でも一部の研究者が知って安川本が翻訳された。
そして今年になって、韓国でも翻訳されたのである。
<アジア蔑視・侵略論>
福沢の有名な脱亜入欧の根底には、
アジア蔑視・中国人韓国人差別が潜んでいるのだが、
安川氏はそのことを福沢の記述から見事に証明している。
福沢こそがアジア侵略の先駆的思想家だったのである。
明治・大正・昭和の悪しき近現代史は、
福沢路線を走ってきたためと言えなくもない。
悪しき教育が悪しき人間を作り出すものだ。
未だに日本はこの福沢神話から抜け出していない。
1万円札が裏付けているではないか。
日本政府あげて福沢神話の虜になっている。
隣国との信頼関係が構築されるわけもない。
<丸山真男の曲解が原因>
戦後も福沢神話が生き延びている理由を安川氏は、
東大の丸山真男の誤れる福沢認識を指摘している。
丸山の誤解によって、戦後のリベラルな学者も
福沢神話を信じてしまった。
そこを安川氏は見事に暴いたのだ。
中国・韓国の日本研究に弾みを付けることになろう。
【抜粋終了】
まあ、何のためか知りませんが
諭吉神話が語られているわけで。
疑うことをしないのなら、その神話を
鵜呑みにするわけで。
今、神話が語られているものというのは、
支配者側の貢献者だから、という認識を
ちょっとだけ持ってみるといいかも。
だから、お札に印刷されるという話で。
馬鹿にされてるんです。こけにされてるんです。
私たちは。
さて、とりあえずはここまで。
まだ、ぜんぜん、明治維新にたどり着いてないですが
まあ、背景とか複雑ですし、
登場人物もたくさんいますから、ぼちぼちと。
<転載終了>
三菱グループのポータルサイトです。
http://www.mitsubishi.com/j/history/series/man/man01.html
【上記リンク先から一部抜粋】
「長崎のグラバー邸はかつて三菱重工業のものだった」
と言うと「へえ~」と反応する人は三菱の関係者にも多いと思う。
長崎湾を見下ろす南山手の丘の上。
文久3年(1863)に建てられた。
プッチーニのオペラ「蝶々夫人」の舞台に擬(ぎ)せられている。
ただしグラバーはピンカートンのように愛妻ツルを裏切っていないし
ツルは自害などしていない。ちなみに、初演から今年で100年目の由。
グラバー邸は幕末には武器弾薬などきな臭い取引の舞台となったが、
明治維新後は普通の外国人の別荘。
昭和14年(1939)に三菱重工業がグラバーの子孫から購入した。
戦後の昭和32年(1957)、造船所が長崎鎔鉄所として発足してから
100年を迎えた記念に長崎市に寄贈された。
トマス・グラバーはスコットランドの生まれ。安政6年(1859)、
開港後1年の長崎に、
香港を拠点にする英国のジャージン・マセソン商会の
代理人として着任した。21歳だった。
ほどなくグラバー商会を設立、幕末の激動の中で
オールトやウォルシュ、シキュート、クニフレルなど
米欧の貿易商人たちと競合しながら、
西南雄藩(ゆうはん)に艦船・武器・弾薬の類を売り込んだ。
1860年代半ばには長崎における外国商館の最大手になっていた。
グラバーには長期的な視野からの活動も多い。
長州藩の伊藤博文や井上馨らの英国への密留学を支援したほか、
薩摩藩の五代友厚(ごだいともあつ)や寺島宗則(てらしまむねのり)、
森有礼(もりありのり)らの秘密裏の訪欧にも協力、
結果として日本の近代化に大きな役割を果たしている。
【抜粋終了】
もう少しグラバーを補足。
※http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%96%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%90%E3%83%BC
【一部抜粋】
明治維新後も造幣寮の機械輸入に関わるなど
明治政府との関係を深めたが、武器が売れなくなったことや
諸藩からの資金回収が滞ったことなどで1870年(明治3年)、
グラバー商会は破産。グラバー自身は高島炭鉱(のち官営になる)の
実質的経営者として日本に留まった。1881年(明治14年)、
官営事業払い下げで三菱の岩崎弥太郎が高島炭鉱を
買収してからも所長として経営に当たった。
また1885年(明治18年)以後は三菱財閥の相談役としても活躍し、
経営危機に陥ったスプリング・バレー・ブルワリーの
再建参画を岩崎に勧めて後の
麒麟麦酒(現・キリンホールディングス)の基礎を築いた。
【抜粋終了】
さて、三菱のサイトに書いてあることだけでも、
「グラバーは武器商人」だと、そして西南雄藩(ゆうはん)
と書いてるけど、要するに薩長あたりに武器を売ったと、
しかも、伊藤博文の英国留学を支援したと。
ここまでいいですか?
で、マセソン商会の代理人として
グラバーは着任とあるので、
マセソン商会をみてみましょうか。
※ ジャーディン・マセソン
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%82%BB%E3%82%BD%E3%83%B3
【一部抜粋】
幕末・明治期の日本における歴史
1859年(安政6年)、上海支店にいたイギリス人
ウィリアム・ケズィック(ウィリアム・ジャーディンの姉の子)が
横浜(旧山下町居留地1番館、現山下町一番地)に
「ジャーディン・マセソン商会」横浜支店を設立。
日本に進出した外資第1号としても知られる。
後に吉田茂の養父・吉田健三が一時期、
同社横浜支店長を勤めていた。
鹿島によって建設された横浜初の外国商館である社屋は、
地元民から「英一番館」と呼ばれた。
跡地には現在シルクセンター(国際貿易観光会館)が建っている。
1863年(文久3年)、ウィリアム・ケズウィックは井上聞多、
遠藤謹助、山尾庸三、野村弥吉、伊藤博文の
長州五傑のイギリス留学を支援する。
彼らの英国滞在は、ジェームス・マセソンの甥にあたる
ヒュー・マセソン(ジャーディン・マセソン商会・ロンドン社長)
が世話した。
一方長崎でも、1859年9月19日(安政6年8月23日)に
幕末・明治期の重要人物であるトーマス・ブレーク・グラバーが
「ジャーディン・マセソン商会」長崎代理店として
「グラバー商会」を設立。現在はグラバー園として公開されている。
グラバーは、五代友厚(薩摩)、坂本龍馬(海援隊)、
岩崎弥太郎(三菱財閥)等を支援した。
その他、神戸・大阪・函館にも代理店を置いた。
【抜粋終了】
さてさて。
吉田茂の養父だの伊藤博文だの坂本龍馬だの
岩崎弥太郎だのと名前が出てきますね。
吉田茂が米国のポチな話は次回に譲るとして、
まあ、ちゃっかり、この頃から関連があるんですね。苦笑
坂本龍馬が「亀山社中」という会社を創りました。
これもチェックしておきましょうか。
※ 海援隊(亀山社中)の消息、明治維新や新政府でのその後
http://www.algorism.jp/business/20100817131747.html
【一部抜粋】
亀山社中=海援隊のメンバーは、
明治維新とその後にどのような生涯を送ったのでしょうか?
亀山社中→海援隊→土佐商会・九十九商会
坂本龍馬は、大政奉還の直後、明治維新の直前に暗殺されます。
中岡慎太郎は土佐藩支援の「陸援隊」の隊長、
海援隊+陸援隊を「翔天隊」と言うらしいですね。
【抜粋終了】
おやおや、リンク先を見ると
海援隊の経理担当が岩崎弥太郎ですね。
三菱の、これ以降の金儲け、どれくらいだったか
調べたいなー。笑 べったりじねーか。当時から。
ちなみにキリンのサイトでもグラバーに関して
書いてますね。
※ http://www.kirinholdings.co.jp/company/history/person/beer/14.html
三菱と言い、キリンと言い、
知る人にとっては 自爆テロをしているようにしか
見えないのですが、
消費者は馬鹿だと思って平気で書いてるんでしょうか。苦笑
で、
ここまでをまとめてみますと、
まず、ロスチャイルド系のマセソン商会と
グラバー商会は、武器商人として薩長などに
武器を売りつけたわけですね。
これはツイッターで、
「南北戦争であまった武器を処分のためだろ」
と書いておられる人もいましたが、
十分考えられる話ですね。
ともかく、彼らは武器を売りまくった。
そして、イギリスに留学させてもいる。
なんのためでしょうか?
まさか武器商人が「文化交流」のためでは
ありますまい。笑
ちょっと「伊藤博文の留学」をみてみましょうか。
※ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E8%97%A4%E5%8D%9A%E6%96%87#.E3.82.A4.E3.82.AE.E3.83.AA.E3.82.B9.E7.95.99.E5.AD.A6
【一部抜粋】
イギリス留学
文久3年(1863年)には井上聞多・遠藤謹助・山尾庸三・
野村弥吉らと共に長州五傑の一人としてイギリスに渡航する。
伊藤の荷物は文久2年(1862年)に発行された
間違いだらけの『英和対訳袖珍辞書』1冊と寝巻きだけであったという。
ロンドン到着後、ヒュー・マセソンの世話を受け
化学者・アレキサンダー・ウィリアムソンの邸に滞在し、
英語や礼儀作法の指導を受ける。
ロンドンでは英語を学ぶとともに博物館、美術館に通い、
海軍施設、工場などを見学して見聞を広めた。
留学中にイギリスと日本との、
あまりにも圧倒的な国力の差を目の当たりにして開国論に転じる。
元治元年(1864年)、米英仏蘭4国連合艦隊による
長州藩攻撃が近いことを知ると、井上とともに急ぎ帰国し
戦争回避に奔走する。横浜上陸後、英国公使オールコックと
通訳官アーネスト・サトウと会見。
しかし、伊藤、井上両名の奔走も空しく、8月5日に
4国連合艦隊の砲撃により下関戦争(馬関戦争)が勃発、
長州の砲台は徹底的に破壊される。
伊藤は戦後、宍戸刑馬こと高杉晋作の通訳として、
ユーリアラス号で艦長クーパーとの和平交渉にあたる。
藩世子・毛利元徳へ経過報告したときには、
攘夷派の暗殺計画を知り、高杉とともに行方をくらましている。
そして、この和平交渉において、
天皇と将軍が毛利藩宛に発した「攘夷実施の命令書」の写しを
サトウに手渡したことにより、
各国は賠償金を幕府に要求するようになる。
【抜粋終了】
えーと、結局、伊藤はあちら側の方々の
賠償金請求のきっかけを作ったってこと?
米英仏蘭を儲けさせただけ?
スパイ?
留学して何を叩き込まれてきたのやら。苦笑
アーネスト・サトウって誰だ?
※ アーネスト・サトウ著 坂田精一訳 「一外交官の見た明治維新」
http://www51.tok2.com/home/sendatakayuki/etc5/syohyou198.html
【一部抜粋】
アーネスト・サトウとは日本人二世ではない。
生粋のイギリス人外交官の名前である。
アーネスト・サトウの原著「日本における一外交官」は
1921年にロンドンで出版された。
サトウは合計25年も日本に滞在した青年外交官であった。
【抜粋終了】
ふーん。
リンク先おもしろいのでもう少し抜粋
【抜粋開始】
高杉晋作の近代兵器と新軍隊による戦いが功を奏した。
家茂の逝去と攘夷運動の元凶であった孝明天皇の逝去
(伊藤博文と岩倉による暗殺という説がある)
によって長州征伐は幕府側の完全敗北になった。
この戦争の失敗で幕府の無力が内外に露呈され、
薩長は倒幕の軍を大阪に進めた。
岩倉、西郷、小松、大久保など薩摩藩の実力者が
討幕軍の計画を練った。
新将軍慶喜は徳川単独政権を支える事が出来ないと悟って、
土佐藩主山内容堂の意見を入れて1967年11月「大政奉還」をし、
1968年1月王政復古のクーデターにより
慶喜の最後の望みも断ち切られた。
と同時に新政府は徳川家に辞官・納地返還を突きつけて、
鳥羽伏見戦争で一気に幕府軍を敗走せしめた。
江戸城の無血開城は勝海舟と西郷隆盛の仲介を取ったのが
イギリス公使パークスであったという。
イギリスは局外中立という大義名分で他の諸国の介入を防ぎ、
イギリス単独の影響力確保を狙ったのである。
へー、「王政復古」はクーデターでいいんだ。
調べてみよう。
つーか、マセソン商会はロスチャ系だから、
イギリス単独の影響力確保ってのは当然の狙いだよね。
※ 王政復古のクーデター
http://plaza.rakuten.co.jp/gundayuu/diary/201008220000/
【一部抜粋】
このクーデター計画の中心人物はといえば、
薩摩の大久保一蔵と公卿の岩倉具視の2人です。
大久保は、まず、討幕の盟約を結んでいる
長州藩と芸州藩に京へ派兵するよう依頼し、
それともに、薩摩からも兵を送ってもらうよう国許を説得します。
さらに、少しでも兵力を集めたいということで、
大政奉還派の中心であったはずの土佐藩にも声をかけ、
協力を求めました。
このあたりの土佐藩の動きというのは、非常に微妙で、
本来は、討幕派ではないはずなのですが、
王政復古・公議政体という部分では
薩摩と共通認識があったということなのか、
それとも、土佐の発言力を保持しておきたいという思惑からか、
このクーデター計画に賛同します。
そして、このクーデターの決行日として、
12月5日が予定されることになりました。
しかし、ここで、土佐の後藤象二郎は、
容堂公の入京が遅れるとしてクーデターの延期を要請。
一旦、12月8日に変更されますが、
さらに延期を申し出て、ということで、
決行日については、なかなか調整がつかず、
結局、最終的にクーデターの決行日は
12月9日ということに落ち着きました。
このあたり、土佐藩、とくに山内容堂が、
薩摩に同調することを渋っている様子が感じられます。
そして、いよいよクーデターの決行へ。
12月8日のことです。
この日、朝廷では会議が開かれていました。
その主な議題は、
・朝敵とされている長州藩父子の罪の赦免と復位。
・政治犯として追放されている公卿の赦免。
この2点。
この会議は非常に長引いて、深夜に及び、また、更に続いて、
翌朝まで、会議が行われました。
その結果、長州藩父子の赦免と復位が決定。
さらに、政治犯であった公卿の赦免も認められました。
七卿落ちで、長州・九州へと逃れていた
三条実美の罪が許されたのも、この時、
また、追放中であった岩倉具視の参内が許されたのも、
この時のことでありました。
そして、徹夜で行われたこの会議というのが、
実は、翌日のクーデターのための伏線として
用意されたものだったのです。
散会となり、席をはずす二条摂政ら親幕府派の公卿たち。
会議の席には、クーデター側のメンバーだけが残ることになりました。
そこへ、たった今、罪を許されたばかりの岩倉具視が現われ、
かねて用意してあった王政復古の勅書を持って、
これを天皇に奏上します。
一方、御所の外では、薩摩・安芸・尾張・越前の諸藩の兵が
御所の門を占拠。
この時、会津と桑名の兵が御所の警備についていましたが、
不意をつかれて総崩れとなり、退去していきました。
そうした中、土佐の山内容堂ら各藩の藩主も集まってきます。
やがて、天皇が出座され、岩倉から手渡された
王政復古の詔が発表されました。
その内容というのは、
・征夷大将軍の職を廃止する。(つまりは幕府の廃止)
・京都守護職、京都所司代の廃止。
・従来の摂政、関白の職を廃止。
・これに代わって、総裁、議定、参与の三職を置き、
総裁には有栖川宮熾仁親王を任じる。
そして最後に、
・王政復古政権の樹立を宣言
これが「王政復古の大号令」と呼ばれているもので、
これにより、これまで700年間続いてきた、
武家による政治体制での諸制度が、
一瞬のうちに、廃止されたことになります。
まさに、あっという間の大変革でありました。
【抜粋終了】
さて、またいったんまとめると、
坂本龍馬の亀山社中が、グラバーの命令で
薩長などに武器を売ったと。
ということは、坂本龍馬は武器商人ですね。
で、海援隊には岩崎がいて、
ちゃっかり三菱財閥を作ると。
で、伊藤は結局、賠償請求されるために動いたと。
こいつら、なんなんですかね?
売国奴と我利我利亡者ですか?
えっと、吉田松陰もみときますか。
※ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E7%94%B0%E6%9D%BE%E9%99%B0
【一部抜粋】
安政4年(1857年)に叔父が主宰していた松下村塾の名を引き継ぎ、
杉家の敷地に松下村塾を開塾する。
この松下村塾において松陰は
久坂玄瑞や高杉晋作、伊藤博文、山縣有朋、吉田稔麿、
入江九一、前原一誠、品川弥二郎、山田顕義などの
面々を教育していった
【抜粋終了】
あらら、まーた、伊藤博文。
なんだこいつ。
吉田松陰について もっと調べてみますか。
※ 幕末の思想4 吉田松陰は単なるテロリストに過ぎない!!
http://www.sa-yu.net/blog/2012/08/002325.html
【一部抜粋】
このように、吉田松陰とは実は単なる
テロリストに過ぎないということがわかります。
体制を批判し、悪い奴を排除すれば世の中は変わるという
短絡思考の元に、幾多の暗殺計画を企てる「跳ね上がり者」です。
・明治政府を作り上げたのは薩摩と長州です。
明治政府を正当化するために長州を正当化し、
さらに長州を正当化するために吉田松陰を偉人として
山縣有朋らが神話を広げていったという構造です。
・そして、戦後にこの神話を広げていったのが司馬遼太郎です。
「明治は偉い、幕府はダメ」
「戦後は素晴らしい、戦前はダメ」という思想に立脚して
書かれているのが司馬遼太郎の文章です。
【抜粋終了】
あらら、司馬にたどり着いちゃったわこれ・・・
なになに、山縣有朋が神話にしたと、
山縣有朋、調べてみましょう。
※ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E7%B8%A3%E6%9C%89%E6%9C%8B
明治2年(1869年)に渡欧し、各国の軍事制度を視察する。
翌年アメリカ経由で帰国。
その後は競争相手を押しのけて、
大村益次郎の実質的な後継者として西郷隆盛の協力を得ることで
軍制改革を断行、徴兵制を取り入れた(徴兵令)。
明治5年(1872年)、陸軍出入りの政商・山城屋和助に
陸軍の公金を無担保融資して焦げ付かせる。
いわゆる山城屋事件である。
山城屋の証拠隠滅工作により山縣に司法の追及は及ばなかったが、
責任を取る形で明治6年(1873年)4月に陸軍大輔を辞任。
然し山縣に代わりうる人材がなく、同年6月に陸軍卿で復職した。
参謀本部の設置、軍人勅諭の制定にかかわった。
明治10年(1877年)に勃発した西南戦争では、
参軍として官軍の事実上の総指揮を執った。
錬度や士気で優る薩軍に対し、物量で対抗して鎮圧した。
9月に最後の城山の戦いでは、西郷へ自決を勧める書状を送った
【抜粋終了】
うーんと、飽きてきたので アンサイクロぺディアで
見とこっと。
※ 山縣有朋 アンサイクロぺディア
http://ja.uncyclopedia.info/wiki/%E5%B1%B1%E7%B8%A3%E6%9C%89%E6%9C%8B
【一部抜粋】
久坂玄瑞の紹介で吉田松陰の松下村塾で学んだ、とされる。
山縣自身は生涯「自分は松陰先生門下である」と称し
誇りにしていたが、もちろんただの自称であり、
松陰本人は「有朋?誰それ」てな感じであった。
【抜粋終了】
ふーん。ウイキでも、
「山縣が入塾したとされる時期から数か月後に
松陰は獄に下ったため山縣の在塾期間は極めて短かったが、
彼は松陰から大きな影響を受けたと終世語り、
生涯「松陰先生門下生」と称し続けた。」
とあるから、山縣は、
「明治政府を正当化するために長州を正当化し、
さらに長州を正当化するために吉田松陰を偉人として
山縣有朋らが神話を広げていった」
というのは本当のようですね。
おやおや、なんか、どんどん脱線したので
元に戻しましょう。
「明治維新」の話でした。
※ 「からゆきさん」を外貨獲得の尖兵としてきた過去
http://oujyujyu.blog114.fc2.com/blog-entry-686.html
【一部抜粋】
からゆきさんとは唐(中国)に行く女性を意味します。
中国に行き働けば3度3度の食事が出来て、
両親に送金が出来ると口説かれて、
おびただしい日本人女性が渡航、密航しています。
中国行きが看板でしたが、実は世界の津々浦々まで
日本人女性が売られてゆきました。
そうです。貧困による人身売買です。
明治の疲労困憊していた経済はこのような犠牲、
女性の送金で立ち直ったともいえます。
これらのフィリピン在住日本人の人口の男女比は
「からゆきさん」の増加する1900年以降、
女性の割合が比較的高く、特にマニラ及びその周辺は、
廃娼運動の高まる1918年頃まで25%前後以上を保っていました。
慶応義塾をつくった福沢諭吉が、
女性を海外に売り飛ばすことを推奨したことは以前に書いた(2月16日)。
同じく明治の元勲・伊藤博文も女衒・村岡伊平治が
ゴロツキを集めて女性を誘拐したりだましたりして、
海外に連れていき売春させる仕掛け(犯罪)を賞賛し、
女郎屋をもっと増やせと言っているのである。
こういう福沢や伊藤をわれわれは紙幣(1万円札)の顔にしていた。
【抜粋終了】
あらら、伊藤に続いて今度は福沢諭吉・・・
ちょっと「からゆきさん」について調べないと。
※ からゆきさん -教科書が教えないもう一つの日本史―
http://www.kanda-zatsugaku.com/110624/0624.html
福沢諭吉で調べてたら、また三菱のサイトにぶつかった。
これ ↓
http://www.mitsubishi.com/j/history/series/yataro/yataro14.html
ふーん・・・
で、日本郵船ね。
からゆきさんと 日本郵船。
三菱と 福沢諭吉、仲がいいのねー。苦笑
ふーん。
なんか つながりまくりだな・・・
三菱=日本郵船だもんね。
※ 日本郵船
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E9%83%B5%E8%88%B9
沿革
1870年 - 九十九商会(後の三川商会、三菱商会へ)が
大阪市西区で設立。
1875年(明治8年) - 国有会社である日本国郵便蒸気船会社の
経営が岩崎弥太郎に任される(三菱商会が郵便汽船三菱会社へ改称)。
1885年(明治18年) - 郵便汽船三菱会社と共同運輸会社が合併し、
日本郵船会舎を設立。
1893年(明治26年) - 株式会社として日本郵船株式会舎が誕生。
亀山社中→海援隊→土佐商会・九十九商会
という流れですね。
あ、福沢諭吉。
これも「崇拝」しまくりの人がいるので、ちょっと
別の意見も見ておきましょう。
※ 「ジャーナリスト同盟」通信
本澤二郎の「日本の風景」(789)
http://blog.livedoor.jp/jlj001/archives/51848723.html
<安川氏の福沢本が翻訳>
日本国民の多くは、いまでも福沢諭吉を評価している。
筆者も教科書に載っていた
「天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらず」
に感動させられた愚かな日本人だった。
実際は、これはアメリカの独立宣言を福沢が翻訳しただけで、
彼の信念では全くなかった。
安川氏の福沢研究は、福沢の生涯の記述を全て
読破することで、福沢思想・信念を見事に暴きだしている
点に特徴がある。
彼は平等論者でも平和主義者でもない。
その逆だったのである。
<中韓でも誤解>
明治以降の日本研究をする中国と韓国の学者は、
等しく福沢の虜になっている。
ここに大きな落とし穴があるのだが、
その罠にはまったままの学者が多いというのが実情である。
中国人の学者の中にも少なくない。
誤れる日本研究が行われてきたのである。
猛省を促したい。
アジアの大国になった原動力が教育にあると思い込み、
必然的に福沢にはまり込んでしまう。
しかし、肝心の福沢本は全て福沢信者のまとめたものである。
真実を伝えてはいない。
中国でも一部の研究者が知って安川本が翻訳された。
そして今年になって、韓国でも翻訳されたのである。
<アジア蔑視・侵略論>
福沢の有名な脱亜入欧の根底には、
アジア蔑視・中国人韓国人差別が潜んでいるのだが、
安川氏はそのことを福沢の記述から見事に証明している。
福沢こそがアジア侵略の先駆的思想家だったのである。
明治・大正・昭和の悪しき近現代史は、
福沢路線を走ってきたためと言えなくもない。
悪しき教育が悪しき人間を作り出すものだ。
未だに日本はこの福沢神話から抜け出していない。
1万円札が裏付けているではないか。
日本政府あげて福沢神話の虜になっている。
隣国との信頼関係が構築されるわけもない。
<丸山真男の曲解が原因>
戦後も福沢神話が生き延びている理由を安川氏は、
東大の丸山真男の誤れる福沢認識を指摘している。
丸山の誤解によって、戦後のリベラルな学者も
福沢神話を信じてしまった。
そこを安川氏は見事に暴いたのだ。
中国・韓国の日本研究に弾みを付けることになろう。
【抜粋終了】
まあ、何のためか知りませんが
諭吉神話が語られているわけで。
疑うことをしないのなら、その神話を
鵜呑みにするわけで。
今、神話が語られているものというのは、
支配者側の貢献者だから、という認識を
ちょっとだけ持ってみるといいかも。
だから、お札に印刷されるという話で。
馬鹿にされてるんです。こけにされてるんです。
私たちは。
さて、とりあえずはここまで。
まだ、ぜんぜん、明治維新にたどり着いてないですが
まあ、背景とか複雑ですし、
登場人物もたくさんいますから、ぼちぼちと。
<転載終了>
何と戦前満州支那でアヘンを売りさばき莫大な利益をあげていた中心人物のゴロツキマフィアが今の総理大臣の祖父だとさ。こいつが敗戦後アメリカに売国してA級戦犯の処刑を免れ、どんな動きをしてきたか、いまのアホ総理みてればウマやシカでも分かろう。幕末からの流れだ。
因みにこの国の国旗は戦前の満州支那では「アヘンの商標」だった。脳天気にグルグル振り回さないで欲しいな。