狼たちは知っているさんのサイトより
http://06020596.at.webry.info/201302/article_13.html
<転載開始>
さて、止まっていた「明治維新」の続きです。

まず、戊辰戦争をご存じない方はこちらを。


※ 戊辰戦争

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%8A%E8%BE%B0%E6%88%A6%E4%BA%89

【一部抜粋】


戊辰戦争(ぼしんせんそう、

慶応4年/明治元年 - 明治2年(1868年 - 1869年))は、

王政復古を経て明治政府を樹立した

薩摩藩・長州藩らを中核とした新政府軍と、

旧幕府勢力および奥羽越列藩同盟が戦った

日本の内戦。

名称は慶応4年/明治元年の干支が戊辰であることに由来する。

明治新政府が同戦争に勝利し、

国内に他の交戦団体が消滅したことにより、

これ以降、同政府が日本を統治する政府として

国際的に認められることとなった。

(中略)
薩摩藩など新政府側は

イギリスとの好意的な関係を望み、

トーマス・グラバー(グラバー商会)等の

武器商人と取引をしていた。

また旧幕府はフランスから、

奥羽越列藩同盟・会庄同盟はプロイセンから

軍事教練や武器供与などの援助を受けていた。


【抜粋終了】


※ イギリスの影響(戊辰戦争)

http://san01.blog26.fc2.com/blog-entry-180.html

【上記リンク先抜粋】

1864年11月長州藩は三家老と4人の参謀を切腹させて、

幕府に謝罪し恭順の意を表したので、

戦いを避ける事ができた。

長州藩では、12月になると隠れていた高杉晋作が

奇兵隊を用いて挙兵し、保守派を一掃した。

倒幕派が実権を握ったのだ。


 桂小五郎も姿を現し、

倒幕のために武器をかき集める事になった。

薩摩を隠れ蓑にして、

長崎のイギリス商人グラバーから軍艦や鉄砲を購入した。


 その内訳は、蒸気軍艦ユニオン号

・ミニエー銃4300挺

・ゲベール銃3000挺。

これらをイギリスから購入し、

第2次長州征伐戦や、戊辰戦争で使用した。


 明治維新後の1869年に

長州藩の所有していた武器は、

以下の通りで薩摩藩と並んで他の藩を圧倒していた。


 大砲 221門。

 小銃 レカルツ銃・3702挺

     スペンサー銃・117挺
  
     イルリン銃・76挺
 
     シャスポー銃・66挺
    
     ヘンリー銃・638挺
    
     スナイドル銃・263挺
     
     サンカ銃・33挺
     
     ミニエー銃・19134挺
    
 計     24029挺

 

 下関攻撃を経てイギリスと長州藩とは急速に接近し、

同じく薩英戦争を経てイギリスと薩摩藩とは

親しくなっていたので、

イギリスが倒幕のためのお膳立てをした

と言っても過言では無い。



 1865年イギリスの駐日公使がオールコックから

パークスに変わると、

イギリスの薩長支援は一層強固になった。

アメリカもオランダもイギリスに同調した。

唯一フランスだけが、幕府を支援した。


【抜粋終了】


【参考】 ハリー・パークス(駐日公使)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%91%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%82%B9

【一部抜粋】

サー・ハリー・スミス・パークス

(Sir Harry Smith Parkes、CGMG、KCB、

1828年2月24日 - 1885年3月22日)は、

英国の外交官で、幕末から明治初期にかけ

18年間駐日英国公使を務めた。

(中略)

フランスの駐日公使・ロッシュが、ときには本国の意向を

無視して将軍権力の絶対主義路線を支援し

自国の政治的有利を確立しようとしたのに対して、

パークスは表面上は中立を保ちながらも、

アーネスト・サトウの助言もあり薩摩藩・長州藩と接近し、

高杉晋作と会談したり、鹿児島や土佐を訪問するなどして

幕府以外からの情報収集に務めた。

結果、倒幕・明治新政府樹立の政治路線に

影響を与えることとなった。


【抜粋終了】


※【参考】 英国公使パークス

http://onjweb.com/netbakumaz/tables/jinbutsu/parkes.html

【一部抜粋】

パークスがグラバーの仲介で鹿児島を訪問する

KE 2. 6.16(1866 7 27fri)

パークスが鹿児島で薩摩藩の歓待を受ける

KE 2. 6.17(1866 7 28sat)
  
【抜粋終了】



【参考】※ 幕末の銃器の話 

http://blog.goo.ne.jp/doorgunner/e/de5884ca0cc82ce4073af8c4bb5f2d03


ということで、前回でおなじみの、

「グラバー」さんとか、薩長さんが出てきますが。

要するに、

イギリス → グラバー → 薩長

という流れですよね。

この「イギリス」というのが、あいまいな言い方ですが、

みなさんは前回で、この「イギリス」というのは

マセソン商会という、ロスチャイルド系の会社を指す

というのはおわかりかと。

「イギリス」が幕府を倒すのを支援したというより、

「ロスチャイルドと愉快な仲間たち」が、

薩長を操って、幕府を倒し、

自分達が「おいしくいただける狩場」を増やした、

ということですよね。


ロスチャと仲間たち → マセソン商会 →

グラバー商会 → 薩長


そして、龍馬が創った「海援隊」が、

グラバーと薩長の間に入って

武器商人として活躍したと。

ここまで、復習ですね。


そして、上記記事にあるように、

具体的な、武器購入の記録もあると。

某放送局が放映中の八重のなんとか、

という、女性が銃を撃ちたがるドラマ、

その女性はスペンサー銃を使うとか。

スペンサー銃は原型は「アメリカ製」みたいですが、

ちょっとツイを。



@oikedouri

八重の桜でいきなりゲティスバーグの戦いから始まったのは、

スペンサー銃繋がりだったのか。


@kiyomaro10

「八重の桜 南北戦争」で気が付いた人はたくさんいるかな。

NHKの製作者の意図はしっかりと伝わりました。

米国の南北戦争でいらなくなった銃は、

武器商人を通じて日本に輸入されたんですよね。

海援隊の坂本龍馬によって?馬鹿言うなよ、

龍馬の後ろにいたグラバー商会を通じてだよね。


いえいえ、その後ろの、マセソン商会、

そしてその後ろの・・・ 苦笑。

龍馬は 下っ端の営業マンでしょうね。

それが、司馬のおかげで大ヒーロー。

しかし、このツイの方は

「NHKの製作者の意図はしっかりと伝わりました。」

と書いておられますが、


米国様と愉快な仲間たちに

完全従属している連中の意図って

なんだろうかという話で。

まずは、米国製の銃を使いますよと

尻尾を振って、

南北戦争に重ねるところは、

「今の日本は戦争中ですが、私たち犬HKは

しっかり、米国様と愉快な仲間たちの

味方をするからかわいがってね」

と いうのが意図でしょうか。苦笑



「流用問題を大きく報じたNHKで、

今年からスタートした大河ドラマ『八重の桜』の

キャンペーン費用も、

国交省の復興予算(復興調整費3.4億円)から

出されていたことを付け加えておく。

※週刊ポスト2013年2月1日号

<NEWSポストセブン>


誰のためのドラマなのか。

何のためのドラマなのか。

そこ、考えましょう。

まあ、私はテレビなどまったく観ませんが。



ちょっと、龍馬をウィキでみときましょう。




※ 坂本龍馬

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9D%82%E6%9C%AC%E9%BE%8D%E9%A6%AC

【一部抜粋】


倒幕急先鋒の立場にある長州藩に対して、

幕府は国外勢力に対して長州との武器弾薬類の取り引きを

全面的に禁止しており、

長州藩は近代的兵器の導入が難しくなっていた。

一方、薩摩藩は兵糧米の調達に苦慮していた。

ここで龍馬は薩摩藩名義で武器を調達して

密かに長州に転売し、その代わりに長州から薩摩へ

不足していた米を回送する策を提案した。

取り引きの実行と貨物の搬送は亀山社中が担当する。

この策略によって両藩の焦眉の急が解決することになるので、

両藩とも自然これに首肯した。


これが亀山社中の初仕事になり、

8月、長崎のグラバー商会からミニエー銃4,300挺、

ゲベール銃3,000挺の薩摩藩名義での長州藩への

買い付け斡旋に成功した。

これは同時に薩長和解の最初の契機となった。

また、近藤長次郎(この当時は上杉宗次郎と改名)の

働きにより薩摩藩名義でイギリス製蒸気軍艦ユニオン号

(薩摩名「桜島丸」、長州名「乙丑丸」)の購入に成功し、

所有権を巡って紆余曲折はあったが

10月と12月に長州藩と桜島丸条約を結び、

同船の運航は亀山社中に委ねられることになった。

【抜粋終了】


ウィキって、引用する割には、あまり信じてないんですが、

それでも、きちんと、龍馬は武器商人と書いてあるわけで。

なぜ、「武器商人」を、皆様がたいそう持ち上げるのか、

私には謎です。

なぜ、ウィキを信じないかと言うと、福島第一原発の

事故直後まで記載してあった、

「プルトニウムは角砂糖の大きさ4~5個分で、

日本人全員が死ぬ」という意味の内容が、

きっちり削除されていたことで。

削除を目の当たりにして、信じられなくなったわけです。

おっと脱線。


さて、上記記事に「高杉晋作」

という人物が出てきますね。

今回はこの人をみていきますか。


まずは、

ほめまくりのサイト、「吉田松陰ドットコム」

から抜粋。




※ 高杉晋作(幕末の革命児)

http://www.yoshida-shoin.com/monka/takasugi.html


ペリー来航時に黒船の艦隊に乗り込み密航を企てるなど

国禁を犯していた松陰を晋作の家族は快く思っていなかったが、

単なる知識ではなく、物事を実践する知識として教えていく松陰に

晋作は引き込まれていった。

松陰の下で一心不乱に勉学を始め、

「人物・高杉晋作」が形成されていった。


その後、藩命で江戸へ遊学。大橋訥庵塾、

昌平坂学問所(当時の最高学府)で学ぶものの、

晋作は久坂玄瑞への手紙で

「江戸の学問は面白くない」と記している。

その間、松陰は間部詮勝要撃計画の罪により、

江戸小伝馬町の牢に投獄されており、

奇しくも江戸で晋作は松陰の世話をしながら

師との対話を行なった。

(中略)

安政6年(1859年)藩命により、

萩に帰郷を命じられた晋作は

「いずれ長州でお会い出来るでしょうから、

その時お目にかかりましょう」との書簡を松陰に送り、

江戸を出発。その10日後、

松陰の死罪が決定し、その日のうちに刑が執行されてしまう。


予期しなかった師・松陰の死に、

悲しみと幕府への激しい怒りに打ち震えた高杉晋作は、

倒幕を心に誓い、

歴史のうねりの中に自らの身を投じていくこととなる。


(安政6年(1859年)11月26日、

長州藩の要職・周布政之助に宛てた手紙で

「松陰先生の仇は必ず取ります」と激しい怒りを書き記している)

【抜粋終了】


吉田松陰がテロリストではないかという話は

前回抜粋しておきました。

私も、それに近い考えを持っています。




※【参考】 吉田松陰、その人を見る

http://homepage2.nifty.com/kumando/mj/mj011005.html

【一部抜粋】

この文章が示すように、

松陰は他人に自分の考えを押しつけることが多かったのであろう。

例えば、それが『伏見要駕策』のような行動をおしつけるのではなく 

その物事に対する考え方(思想と言っても良いかもしれない)を

押し付けられるのであれば それほどの抵抗があるわけでも無い。

そして このような『考え方』の部分が 情熱を持って語られたとしたら、

人はそれに感化されてしまうであろう。

まさに、松陰の目指した教育は 

『自分の考えを 相手に伝え、そして相手を変えてしまう事』ではなかろうか?


(中略)


このようにして、松陰は幼少時から、

神国思想・尊皇思想を父からたたきこまれていた・・・」

(森田惣七著 「吉田松陰の人間観」より引用)

にあるように、

幼くして日本を神の国であると教え込まれていた。

いわゆる皇国史観の原型である。

その上 この思考は水戸を来訪して会沢正志斎に会ったり、

日本史関係の本を読んだりして 

より一層この考えが確立していったことであろう。

 このことは、松陰を考える際重要である。

一般の多くの有識者にとって、神国思想は一般的であった。

それが 松陰の中ではより以上に抽出・濃縮されて 

ほとんどその思考によって「がんじがらめに」なっていたのである。


その彼が、外国を知り、その脅威を肌で感じたその刹那に 

皇国の危機を感じたのである。

その危機意識が 

松陰に『対外的膨張主義』を考え出させるに至る。


(中略)


「注意したいことは、天皇統治に国家の独自性の焦点をおく、

松陰における皇国日本が対外的膨張の性格をもつことである。

彼において、日本国家は、

海外諸外国を支配するべく膨張することで光輝を増す存在である。


 『今急武備を修め、艦略(ほ)ぼ具はり礟(ほう)略ぼ足らば、

則ち宜しく蝦夷を開拓して諸侯を封建し、

間に乗じて加摸察加(カムサッカ)・隩都加(オコック)を奪ひ、

琉球に諭し、朝覲(きん)会同すること内諸侯と比しからめ

朝鮮を責めて質を納れ貢を奉ること古の盛時の如くならしめ、

北は満州の地を割き、南は台湾・呂宋(ルソン)の諸島を収め、

漸に進取の勢いを示すべし。

然る後に民を愛し士を養い、慎みて辺圉(ぎょ)を守らば、

則ち善く国を保つと謂ふべし(『幽囚録』)』


 松陰が理想とする皇国は、

天皇統治のもと対外膨張をすることで光輝を得る。

ここには、軍事力による侵略主義の性格がある。

この露骨な軍事力による海外雄飛は、

ペリーの軍事的圧迫による開国要求と同じである。

(高橋文博著 「吉田松陰」より引用)


 これは、読めばわかるように 

明治以降の政府の方針そのものではないか?

松陰の父親から受けた教育のせいもあるが 

その思考は上に述べたように 

アメリカやイギリスなどの欧米諸国と同様 

植民地政策を取りながら欧米の干渉を排除するのが、

その方針だったのは明らかである。

これが、明治政府の基本方針となった。

明治政府のその方向性が誤っていたとしたら 

それは松陰の思考のゆがみによるものであろう。

【抜粋終了】


さて、吉田松陰に関しては、やはり、

私は世間が言うようには、持ち上げられない。

そして、その吉田松陰を崇拝し、



『予期しなかった師・松陰の死に、

悲しみと幕府への激しい怒りに打ち震えた高杉晋作は、

倒幕を心に誓い、

歴史のうねりの中に自らの身を投じていくこととなる。


(安政6年(1859年)11月26日、

長州藩の要職・周布政之助に宛てた手紙で

「松陰先生の仇は必ず取ります」と激しい怒りを書き記している)』


とある、高杉晋作は、私には

「テロリストの親分の敵討ちを誓うテロリスト」

にしか見えないのですが。


さてさて。

実は ここに書いて消した記事がいくつかありまして。

桂小五郎こと、木戸孝允や大久保利通などを

調べてたのですが、

途中で ふと気付いたのです。

要するに「末端のテロリスト」をいくら追っても

枝分かれするだけで、混乱していくばかりではないか

と。

それに、「明治維新さいこー」「りょうまさいこー」

の流れにある中で、本当のことを調べるのは

ちょっと難しいんじゃないかなとか。

それで、大元のほうに遡ろうと思いまして。

で、イギリスに目を向けてみました。




※ <政権交代>英国外務省から駐日公使宛て文書に思う

http://tafu.iza.ne.jp/blog/entry/1230486/

【一部抜粋】

「日本において、体制の変化が起きているとすれば、

それは日本人だけから端を発しているように

見えなければならない」


(1866年(慶応2年)4月26日、

英国ハモンド外務次官からパークス駐日公使宛て文書より)



上記はイギリス政府のクラレンドン外相から

パークス駐日公使へ送られた訓令の付属文書。

「Private Letter (半公信)」と呼ばれ、

公使館員の人事問題や外交問題に関する

非公式な見解などの、

公式報告書には記載できない問題を記した、

訓令や公式報告書を補う重要な外交文書である。



我が国はこの百数十年で2回、

外国勢力による内政干渉と国体の改変を蒙っている。

最初はイギリスによる「明治維新」、

次はアメリカ主導の「GHQ」による体制改造である。



「明治維新」という政権交代は、

決して幕末の志士たち(日本人)だけの手によって

為されたものではない。

陰になり、時にはあからさまに

日本の内政へ干渉したイギリスのシナリオが、

非常に大きな影響を与えていた。



19世紀に世界各地を植民地支配した

イギリスの狡猾さは、

相手を見て「容易に支配できない」と見るや

様々な手段で既存政府を揺さぶるか、

または影響力を行使できる勢力が

政権の座に就くよう画策した事によく表れている。



表向き、イギリス議会は他国への露骨な

内政干渉を問題視する傾向にあったので、

イギリス政府としても露骨な干渉は出来ない。

幕末の日本への軍事的示威行動が

数回程度だった事がそれを証している。



しかし駐日公使パークス、

書記官ミットフォードや

通訳のアーネスト・メーソン・サトウ、

そして長崎に居を構えた貿易商グラバーらが

行なった工作は、

まさにイギリスの国益のための「内政干渉」であった。



他の欧米諸国も時には対立しながら、

そのイギリスに便乗した。

特にアメリカは南北戦争終了で発生した

余剰の武器弾薬を売りつける先として

日本市場を活用したのである。



狡猾なイギリス外交に翻弄されたのは

徳川幕府だけでなかった。

薩摩、長州、土佐の倒幕勢力でさえ

イギリスの手駒として使われたのが、

「明治維新」の実態なのである。



そして政権の交代と変革は、

“諸外国の介入を防いで”

あくまでも日本人が自らの意思と行動だけで

成し遂げたが如くに喧伝され、

また後世に教え込まれてきた。



「いうまでもないことだが、

つねに最大限の注意と慎重さをもって行動し、

いかなる党派にたいしても不公平な印象を

あたえないよう、その言動を慎むことが大切である」



「イギリス政府は、この国の統一と安定の回復を

切望しているが、同時にいかなる制度上の変革も、

日本人自身の手でなしとげられるべきである」

(1867年(慶応3年)11月28日付、

パークス公使からスタンレー外相あて報告書より)



● 昭和20年の大東亜戦争敗戦後に

アメリカ中心の欧米勢力がシナリオを書き、

「GHQ」が演出した日本の体制改変も、

明治維新期の欧米外交を下地としながら、

よりえげつない方法で進められた。



故・江藤淳氏が『閉ざされた言語空間』で

指摘したように、

六十数年後の今日まで後を引く

言論統制、歴史評価の歪曲、教育制度の改変、

そして「日本国憲法」…

あくまでも日本人が主体となって

行なわれたような印象操作がなされたのである。



この手法は現在でも使われている。


【抜粋終了】


という話ですよね。結局は。

まあ、この方は「イギリス政府」という言葉を使って

おられますが、

「政府」とは誰のものか、誰が動かすのか

というのを考えたとき、

日本が「植民地」になれば、誰が儲かるのか

という視点に立てばいいわけで。


要するに、

「明治維新」というのは、イギリスの

「植民地化」でしかなかったわけです。

それを知らさぬよう、

「りょうまがー」「かいこくがー」

と、明治維新をいかにもすばらしいことのように

ずっと洗脳してきたわけです。



※ 【参考】イギリスのインド支配

http://www.geocities.jp/timeway/kougi-100.html

【一部抜粋】

説明が遅れましたが、イギリスの活動主体は

イギリス政府ではなくて、イギリス東インド会社です。

イギリス、イギリスと言っていますが、

イギリス政府が指揮しているのではない。

実体はイギリス東インド会社ですから、注意してください。

で、そのクライブは、ベンガル太守軍の将軍に買収工作をした。

太守を裏切り、イギリス側に寝返ったら、

戦後、ベンガル太守の地位につけると約束をしたのです。

将軍は買収に応じました。

戦いが始まると、この将軍、ベンガル太守の命令を無視し、

軍を動かさない。結局この裏切りの結果、

イギリスが勝利することになったのです。

この買収工作で、クライブは、

イギリス本国で一躍英雄となりました。


 この戦闘が、結果としてインドの運命を変えることになりました。

イギリス東インド会社は、

この後フランス勢力をインドから一掃しただけではなく、

新しいベンガル太守を傀儡(かいらい)としました。

1765年には、イギリス東インド会社はベンガル地方の

徴税権を獲得しました。

貿易会社が、他国の一地方の税金を徴収するのです。

もう、貿易会社と言うより、統治機関と言っていいでしょう


事実上、ベンガル地方を支配するようになったということです。

ベンガル地方というのは、現在のバングラデシュです。


【抜粋終了】


さて、東インド会社 となると、

マセソン商会に戻りますね・・・・



※ ウィリアム・ジャーディン (船医)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%B3_%28%E8%88%B9%E5%8C%BB%29

【一部抜粋】


1802年3月2日に卒業し、エジンバラ王立外科学カレッジから

学位を取得。同年18歳でイギリス東インド会社に就職

審査の後3月15日彼は二か月分の給与の前払を受け、

東インド会社の海事船舶サービス部門の外科船医として

東インド商船『ブランズウィック号』に乗船した。

(中略)

ハリンワースはジャーディンについて次のように記述している。

「ジャーディンは、誠実で心優しい仲間であり、

限りなくリベラルでこの市場経済にきわめて優秀な人物だ。

アヘン貿易や輸出の規制に関する彼の知識と経験は

非常に貴重である
。彼は野心家だ。


(中略)

1832年、ジェームス・マセソンと中国の広州(沙面島)に

「ジャーディン・マセソン商会」を設立。

インドから清へのアヘンの密輸、フィリピンとの砂糖と香辛料の貿易、

清の茶と絹のイングランドへの輸入、

船積書類と積荷保険の取り扱い、造船所設備と倉庫の賃貸、

貿易金融、その他貿易に関するあらゆる業務を取り扱った。

(中略)


1859年(安政6年)、甥(ウィリアム・ジャーディンの姉の子)の

ウィリアム・ケスウィックが「ジャーディン・マセソン商会」

横浜支店を設立し、地元住民からは「英一番館」と呼ばれた。


長州五傑(井上馨、遠藤謹助、山尾庸三、野村弥吉、伊藤博文)

の英国留学は、このウィリアム・ケスウィックが支援した。

【抜粋終了】


つながりますねー・・・・

当然ながら・・・・

中国では「アヘン」+「アヘン戦争」で大儲けして、

インドは植民地にして大儲け。

そして日本では? という話ですよね。

なぜ、日本だけ「維新」とか叫んで喜んでるんでしょうか。

単なる、「植民地化」のスタートなわけですよね。

薩長の連中は、単なる「傀儡」であって、

植民地化のための手先。

なぜ、坂本龍馬は英雄なんでしょうか?

ただの「死の商人」であって、植民地化のための

協力者だというのに。

誰が、明治維新を「それはそれは良い事」とし、

それを延々と「教育」し続けているのでしょうか。

前回と重なりますが、

しつこくマセソンを追いましょう。笑


※ ジャーディン・マセソン

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%82%BB%E3%82%BD%E3%83%B3

【一部抜粋】

前身は東インド会社で、元は貿易商社。

1832年、スコットランド出身のイギリス東インド会社元船医で

貿易商人のウィリアム・ジャーディンと

ジェームス・マセソンにより、中国の広州(沙面島)に設立された。

中国語名は「怡和洋行」。

当時、広州は広東システム体制下、

ヨーロッパ商人に唯一開かれた貿易港であった。

ウィリアム・ジャーディンとジェームス・マセソンは

陳舜臣の小説『阿片戦争』では重要なキャラクターとして

登場している。


設立当初の主な業務は、

アヘンの密輸と茶のイギリスへの輸出。

同じロスチャイルド系の香港上海銀行(HSBC)は、

ジャーディン・マセソンなどが香港で稼いだ資金を

イギリス本国に送金するために設立された銀行
である。


清とイギリスとの間で1840年から2年間にわたって

行われたアヘン戦争に深く関わっている。

アヘンの輸入を規制しようとする清朝政府と

イギリスの争いが起こった際に、

当時のアヘン商人の一つである

ジャーディン・マセソン商会のロビー活動により、

イギリス本国の国会は9票という僅差で軍の派遣を決定した。

(中略)

幕末・明治期の日本における歴史

1859年(安政6年)、上海支店にいたイギリス人

ウィリアム・ケズィック(ウィリアム・ジャーディンの姉の子)が

横浜(旧山下町居留地1番館、現山下町一番地)に

「ジャーディン・マセソン商会」横浜支店を設立。

日本に進出した外資第1号としても知られる。

後に吉田茂の養父・吉田健三が一時期、

同社横浜支店長を勤めていた。


鹿島によって建設された横浜初の外国商館である社屋は、

地元民から「英一番館」と呼ばれた。

跡地には現在シルクセンター(国際貿易観光会館)が建っている。


1863年(文久3年)、ウィリアム・ケズウィックは井上聞多、

遠藤謹助、山尾庸三、野村弥吉、伊藤博文の長州五傑の

イギリス留学を支援する。

彼らの英国滞在は、ジェームス・マセソンの甥にあたる

ヒュー・マセソン(ジャーディン・マセソン商会・ロンドン社長)

が世話した。


一方長崎でも、1859年9月19日(安政6年8月23日)に

幕末・明治期の重要人物である

トーマス・ブレーク・グラバーが

「ジャーディン・マセソン商会」長崎代理店として

「グラバー商会」を設立。

現在はグラバー園として公開されている。

グラバーは、五代友厚(薩摩)、坂本龍馬(海援隊)、

岩崎弥太郎(三菱財閥)等を支援
した。

【抜粋終了】


もうそろそろ、いいかな、という感じですね。

おなかいっぱい。苦笑


「明治維新」とは何だったのか。

教科書に書いてあること、

世間とやらが信じていること、

それをいったん置いておいて、

自分で調べて、自分で考えて、自分で判断

してください。


そして、その判断を大事にしてください。

何が正解か ではなく、

あなたが自分の頭で考えて判断したこと、

それが何よりも大切なことですから。

与えられたものを鵜呑みにすることの対極。


支配者側は支配者側に有利な歴史を

押し付けてきます。

特に歴史に限らず、何でもそうですが。

それをそのまま受け取らないで、

まずは疑うこと。

それが、騙されないための第一歩。


だからと言って、中高大学生のみなさんは

「坂本龍馬信者」を論破したり、バカにしたりとか

そういうのをしてはいけません。

それよりも、その時間と労力を、

何かを疑い、調べ、考え、判断するという力を

どんどん養い、

今の状況、それは政治、生活、原発、なんでも

いいのですが、あなたを取り巻く現状の理解と

調査と、判断に使ってください。


支配者側は いつも

自分達に都合のいいものしか押しつけてきません。

あらゆる分野で、そうしてきます。




※ 【参考】前回の記事です。

明治維新について、こつこつ調べてみた。

http://06020596.at.webry.info/201301/article_30.html


<転載終了>