人に内在する良心神(神言会)さんのサイトより
http://kamikotokai-b.jugem.jp/?eid=363
<転載開始>
スピリチュアルの多く方は【神は愛であり、何をしても赦される】を売り言葉にされています。今や「お題目」と化した感です。

しかし、それは「霊世界」をしっかりと見ていない論理です。

優秀な霊能者達は、破砕された魂。腐った魂の存在を見ておられます。もし、神が何をしても愛で許される存在ならば、破砕された魂。腐った魂など存在しないはずなのです。だが、霊的世界の現実としては、そうした類いのものがあるのです。そうした時、どうしてそんな魂が存在するのか?。そこに認識が行かなければ「神は愛だ!」のお題目主義に陥ってしまいます。

全ての魂が「輪廻転生」しているのかとなりますと、その答えは「次の世にも人として出て来る」の意味であれば、その答えは「ノー」なのです。そこに形を変える「転生」が存在します。


破砕された魂は小さな欠片のような物であり、とてもその存在は人の魂となって入れるような存在ではありません。浮遊している「塵(ちり)・埃(ほこり)」的な存在にしか過ぎないからです。
そうした破砕された魂の欠片は、ボウフラのような存在の命(魂)となるとも言われています。そうした存在から、今の人として出して貰えるような魂になるまでは一億年からの「輪廻転生」の時間を経るという説もあります。
そうした論は、太陽や地球の様な星であっても、最後は爆発して粉々となり塵や埃の様なガス化して、また集約されて新しい星として誕生する「死と再生」論と同じようなことです。
科学の世界ですら星の「死と再生」を認識しているに、星々と同じ様な玉である私達の魂も、また「死と再生」が存在していることの認識が出来ていないことは問題と言えます。

頑なにお釈迦様は「輪廻転生」など無いと説かれたと言い張っている方達がありますが、一つの仏典だけを見ていればそうした内容のものもあります。しかし、弟子に対しておまえは次の世に何々の仏として出て来ると、はっきりと「輪廻転生」により生まれ変わって来ることを言われたと書かれていますし、お釈迦様は自身の過去世に関しても説かれています。自分の主義主張の都合のよいところだけを見て、主張するのは根本的過ちを犯します。
そうした事柄を見ないで言い張る方の魂とは「捻れ魂」となって、死後は破砕されて行く魂となります。ですから、そうした方には次の世は人としての時代は存在しません。人としては死ねば終わりで、ボウフラの様な命からやり直しとなります。自分に次の世にも人として有るか無いかは、個々の人としての魂が残るかどうかなのです。


私は腐った魂の持ち主を見たことがありますが、その人物は優秀な霊能者が次の世は「ミミズ」として生まれ出ると言っておりました。その人物が死後3年ほど経過して、私の元に現れて「助けて下さいまして、ありがとうございます。やっとお許しを受けて本当の霊界に入ることになりました。」と挨拶に来られて、私は助けた覚えはないと言っておりましたが、その御子息さんが自殺された後、その御子息さんの霊が私の家の神棚の前で額づいておられて、この者も私が救うと出たので、その親御さんの時も私の背後にある存在が救われたのだと理解しました。
私がよく起こす錯覚は、霊は私の背後の方に語っているのに、それを自分に語って来ていると間違えることです。

私の幾人かの霊能者の方から貴方の背後には「国常立尊」様が居られると指摘を受けて来ましたが、私は「国常立尊」様を見たことがありません。しかし、「閻魔大王」様は見ています。通常、国常立尊=閻魔大王と言われておりますので、腐った魂の存在も、自殺された存在も助け上げられたのは「閻魔大王」様であったと考えれば、解らないことではありません。

魂は「鬼と云う」であって、魂の管轄は鬼の「閻魔庁」に所属するからです。

私は「ウシトラ」とは「牛虎」で、【牛頭虎パンツ】で【鬼と云う=魂】のことだと言っているのはその為です。別に節分の炒り豆にも花が咲くに拘る話ではないのです。節分の夜に「鬼は外、福は内」とやっている「鬼と云う」から【魂】論が解ればよいだけのことです。

私が子供の頃に臨まれた声は、【旧約聖書の神】と名乗られました。この旧約聖書の神の教えとは、【目には目、歯には歯を】です。

だが、私達はイスラム教聖職者の「目には目、歯には歯を」の誤った解釈から、非常に暴力的なものとの観念を持ちます。

これは、「自分が播いた悪しき種の果実は、自分で刈りなさい」。「自分が汚した尻は、自分で拭きなさい」と言う教えなのです。
それは仏教がおける【カルマ】の原則なのです。カルマの掟なのです。

この「カルマ」が解消出来ていない場合は、その時はそのカルマの解消の為に、この世で刑罰を受けるような状況下に置かれてしまいます。
曹洞宗ではカルマの解消を「三時の教え」として説きますが、一度にカルマの借金返しが出来ないので、人は「三回に分けてカルマの返済する」が説かれたわけです。つまり、カルマ解消の為には三回は生まれ出るとなります。


決して、スピリチュアルで言う「神は愛だから何をしても赦される」はあり得ないのです。
そうしたことを平気で説くスピリチュアルの方達は今は解っておられないでしょうが、死後に地獄界に行かれるでしょう。



私は愛を説いておられる某教祖様が「お釈迦様」の再来だと言うことで、仲立ちの霊能者の方と一緒に行って直接会いましたが、その信徒さんを見た時に愕然としました。皆さん亡者姿で死後は地獄行きの姿となっていたからです。
大本教の出口王仁三郎聖師が説かれた、信者を天国に案内すると言いながら信者を地獄に案内する取次ばかりは本当だったのです。

私はその霊能者の方に、この教祖様は地獄でも火山の火口の淵に立っておられる。行く先は火口からマグマ地獄に落とされると注意しましたが、その光景は自分にも見えている。教祖は自分と信者諸とも火口から地獄に行く覚悟であって一緒に行こうと告げられたそうですが、自分は教祖と一緒に火口から地獄に行く気はないと言われて、教祖と手を切ろうとなされましたが力関係で自分からはどうしても手を切ることが出来ませんでした。
私はその教団の信徒は盲目者ばかりで助ける気はありませんでしたが、その霊能者の方だけは手が切れるように手配して、一体の仏界の神将さんがその教祖霊と話をつけて、その霊能者だけは手放すで話が折り合いましたと報告を受けました。その霊能者の方は無事にその教祖様と手が切れました。だが、御本人はそうして手が切れたとは解っておられないはずです。

その教祖様はある事件を起こされて刑務所に行かれましたが、その言い訳は自分は信徒の罪を背負って刑務所に行った。イエスの十字架の磔と同じ事だと釈明されたのですが、その教団の信徒さんはますます教祖様を「贖い主」だと崇拝されていました。
日本の司法がその教祖様を刑務所に収監した理由は、イエスの様に宗教上の問題からではなくて、宗教家としてあるまじき理由から刑法によって裁かれたのであって、それすら理解しないのが盲目の信者達です。
私がスピリチュアルは怖いと言うのは、「愛」さえ言っていればその人は本物だと思い込んでしまう質です。事の正邪の判断が出来ないからです。

私達はこの世で生きていると、「甘い話の裏には罠がある」を知ります。甘い話に引っかかって後で泣くのは自分です。どの世界であろうと、「何をしても神の愛で赦されるなどの甘い世界は存在しません」。甘い話に引っかかって地獄界に行くのは自己責任となります。
しかし、地獄界も刑罰を受けない場合は住めば天国なのです。霊界で刑罰を受けるかどうかは、次に【人の世】に再度出るかどうかの問題で、人の世に出る気がなければ邪神として霊界で存在出来るのです。

人の世に出るには【羅城の来世門】をくぐって、罪の償いとしての霊界での刑に服するかどうかです。
この「羅城の来世門」に鬼が番卒として居るのであって、閻魔庁は別に邪神達を悪だからと取り締まっている役所ではないのです。ですから、スピリチュアルの世界では邪神達が横行していると言えます。

テレビで半沢直樹の「倍返し」が人気になりましたが、こうした返しとは古事記における「返し矢」が知られておりますが、お釈迦様の逸話に射た矢の「倍返し」がありました。しかし、インターネットで検索しても出て来ません。何故か、お釈迦様の逸話で大切なものはインターネット上では見当たりません。
これはお釈迦様の名声をねたんだ一人のバラモン行者が、お釈迦様を殺そうと放った矢が、倍の威力で矢を放った本人に返った話ですが、別にそれはお釈迦様に対してだけでなく、魂を磨いている者に対して放った矢も同様に、放った本人に倍の威力で戻って来るとことなのです。

私は子供の頃、旧約聖書の神と名乗る声が臨み、小学校5年生6年生と図書館委員となって、放課後は図書館で司書教諭のお手伝いをしておりました。その時間はほとんど図書館の本に接していました。
私がその神から言われたのは日本民話や偉人達の逸話を読むことです。そこにその神の教えがあるからと言われたわけです。そこにはお釈迦様の逸話やイエスやマホメットなどの偉大な宗教指導者に関するものがありました。そうしたことで、そうした類いの本をたくさん読んでいるのです。

少し図解しましょう。



多くの人は、誰しも霊的世界を知るわけではありません。しかし、諺として【人を恨むと自分に跳ね返る】とか【人を呪えば穴二つ】などの言葉を聞かれたことはあろうかと思います。

人を恨んだり嫉妬(嫉み・妬み)をすると、その想念は【剣・槍・矢・針】の様な霊的形で相手を【切ったり・刺したり】に行きます。

私は二番目の師匠の元に居た時、その師匠が残した道場を預かっていたお弟子さんから電話が来て、その師匠が電話で話していた時、いきなり私の心臓をグサリと刺す痛みが走って、私が痛みで唸った時、その師匠が私に即座に鎮魂の姿勢を取れと言います。
そして、電話の相手に「おまえ、今ここに居る者を刺したな!」と一喝されたのです。すると、電話の向こうでそのお弟子さんが謝っておられました。
私はそのお弟子さんとは面識もありません。そもそも元の道場にお弟子さんを置いていたことすら知らなかったのです。そのお弟子さんは師匠と離れて寂しく思っておられて、電話の向こうから聞こえて来る周囲の楽しそうな話し声に嫉妬して、私に向けて霊的攻撃を仕掛けられたのです。すなわち、私は見知らぬ相手から恨みの矢を受けたのです。

世の中には、人を恨んだり妬んだりの嫉妬する方達があります。本人には何の落ち度もないのに、知らず知らずにそうした存在から「想念」の矢を射られたりしています。
人は如何なる聖人であろうとも、他人から「恨み、嫉み妬みの嫉妬」を受けずに生きるは至難の業です。人に良かれと注意を与えても「逆恨み」されることもあります。
そこに何の原因があるかと言いますと、「磨かれた魂」と「磨かれていない魂」の存在があります。
誰しも解るように、魂が磨かれていると「個人の攻撃」には走りません。だが、未だ魂が磨かれていない状態だと「個人攻撃」を誤って犯したりします。

その防御策としては、大本教で世に知られるようになった本田式「鎮魂帰神」法による手組がありますが、私はお釈迦様に向かって射た矢が射た本人に跳ね返って戻るの、自己の魂を磨いて置くが一番だと感じています。

だが、自分の魂が磨かれていないと、自分を恨んで来る存在から【人を呪わば穴二つ】の状態となります。最近、この人を呪わば穴二つの解釈間違いをしているものが見られます。

これは「諺」なので諺辞典で見ますと、

 他人に害を与えれば、必ず自分にかえってくるものである。
 他人を呪い殺せば、自分も相手の恨みの報いを受けて呪い殺され、相手と自分の分で墓穴が二つ必要になる


自分の魂を磨いておかないと、例えそれが誤解や逆恨みから来る物であっても、自分が被害者となるのです。その時、閻魔庁は矢を射た者が一方的に悪いとは判断しないのです。

私は自動車事故の追突は100%追突車が悪いと思っておりましたが、保険会社では追突された被害車にも20%の落ち度があるを前提として、そこから保険会社同士の交渉がスタートして行くと知りました。完全に被害者側に落ち度がないとなって100%無過失です。最近、貰い事故でも自分が無過失であるとの証明が出来なければ賠償責任の判決が降りました。

早くから前方に注意していた車は徐々に速度を緩めてくれるから、後続車は追突しないかも知れません。が、追突された車が直前までのんべんだらりで運転していて急停車されたら、後ろの車の落ち度と言えども間に合わないがあります。つまり、貴方にも落ち度があるとなるのです。
予防を考えている者と予防を考えない者。それらは全て「自己責任」に帰して来るのです。

イエスの教えに、【あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい】があります。

自分に罪がある者は、人を攻撃する権利が無いと言ったのです。
自分が完成もされていないのに、自分の誤りを正さないで、他人に対して攻撃することは正しいのかと問うたのです。
最初にしなければいけないことは、他の人の批判ではなくて、まず自分はどうであったかが先に来なければならないのです。こうしたことは【他山の石】をもって自分を磨くと同じことです。
他山の石とは、「自分の修養の助けとなる他人の誤った言行」のことです。他の人の誤りはその人を攻撃することではなくて、それを自分の修養(自己改善。心身の鍛錬)にしなさいなのです。

私は子供の頃に臨まれた「旧約聖書の神」と名乗る声は、私の誤った行為に一々臨みもしなければ、叱りもありませんでした。全て自分が考えて行動しなければならないのです。その誤りは全て自己責任なのです。神に帰さないのです。
ただ一つだけ、そなたが教えを間違えた時はそなたの責任では無い。この私の仕組みが悪かったのであると告げられました。私はそれを聞いて、全ては「仕組みの中」にその答えはあると知りました。ですから、一々神にこれは正しいのでしょうか間違っているのでしょうかと神に問うことはしません。

私はその仕組みを【神の法】と見ました。カルマ(目には目、歯には歯を)も神の法なのです。

私はお釈迦様を崇拝していますが、神としての崇拝ではありません。偉大なる先駆者としての尊敬です。イエスもまた尊敬です。大本教の出口王仁三郎聖師は私に「漢字」だよと教えてくださり、言葉の仕組みの地ならしをして下さったことに感謝しています。豊受様を始めとして、私の気づきに御苦労下さった神々にも感謝しています。

私は個人を神として崇拝はしません。私が従わなければならいのは創造神のみを「唯一の神」として、「神の法」の遵守です。

私が子供の頃に臨まれた旧約聖書の神と名乗る声は、「そなたには何の力も与えない。そなたに力を与えるのは最後の最後の時である」と告げられました。私はこの何の力も与えないで霊能者的な活動は出来ませんでしたが、それで良かったのだと思います。
なまじ霊力があると、相手を攻撃してしまいます。自分の間違いに気づくことも少なくなります。何の力も無い者が「創造神」の存在を解説しても、聞く耳を持たない人が大多数ですが、その人が創造神に結びつくかどうかは、その人しだいです。私は貴方と創造神の糸を結ぶ者ではないからです。
創造神と結ばれるのは、各自の魂の中の「核」となる天帝の分魂であって、私ではありません。

主(唯一神)に仕えるということは、自分の「名声」を勝ち取ろうではありません。常に一介の草履取りとしてお仕えするなのです。神の下僕です。そこを間違えると、主の神とは離れてしまいます。

自分は創造神を唯一の神としている言っても、創造神は私達に何もしてはくださいません。しかし、一人一人には【正守護神】と呼ばれる存在があるのです。それは自己の宗教的信仰における信仰神でもなければ、間違いなく誰にでも居る副守護神のことではないのです。自分に憑依して霊的世界に関わらせるところの憑依霊の類いでもないのです。
例え、その人に「龍神」と呼ばれる物が憑いていたとしても、それは自分の「正守護神」ではないのです。正守護神とは、自分の過去世において神界に籍を置く自分なのです。

その正守護神と結ばれることが【神人合一】と説かれて来たのです。私は豊受様の元で修行した関係で、豊受様のミタマを貰っている幾人かの女性に出会いましたが、その方達にとっては豊受様は正守護神になります。確かにそうした人達は「天女」と認めなければなりませんが数は僅かです。その豊受様から国常立尊様にと繋がっておられます。

仮に自分の正守護神はそうした世に知られた神名で無かったとしても、それで世に出ておられる神霊に劣るはないのです。それは正守護神と呼ばれる存在そのものは次元が高い存在だからです。


創造神は個々の方の魂の「核」として、この世の閻魔大王たる「良心」神として皆さんと共に在るであって、病気治しの神でもなければ御利益を与える神でも無し。まして占いの神でもありません。為にその存在が解り難いのです。

私達の個々の日々の行動には何も介在はされませんが、その人の行為行動の結果を黙して見ておられるのです。その神に言い分けはしてはいけません。全て見通しておられるからです。言い訳は自己の「自我」の何者でもありません。

素直に自分の過ち誤りを悔い改めるだけなのです。


<転載終了>