人に内在する良心神(神言会)さんのサイトより
http://kamikotokai-b.jugem.jp/?eid=409
<転載開始>
時たまですが、自分は「米」教を見て、自己に内在する良心神の存在を信じている。なのに自分の置かれた立場は何一つ好転しない。そうした「愚痴」を言われる方があります。

それは、とんでもない勘違いをされていると言えます。「米」教とは、病気治しや困り事相談の神を説いているのではありません。どこまでも【最後の審判】を通過して、新しい【永遠のみろくの世】に進む為のものなのです。そこに「創造神」と呼ばれる存在を言葉の仕組みで「確信」することなのです。
巷で自分が創造神だとか、自分に創造神が降りて来る式のスピリチュアルに狂う為のものではないのです。

お釈迦様が悟られたのは、現在の諸仏に頼る他力の「大乗仏教」ではなくて、自分が「仏陀」を目指す自力の「小乗仏教」に似たものと言えます。 自己の【努力】無しの「濡れ手に粟」ではなかったのです。

​最後の審判が間もなく起きると断定は出来ませんが、それが何時発動されてもそれに対処出来る為の道筋を示しているのです。決して今の自分の苦しみが取れるという意味合いのものではないのです。
​ほとんどの人は気づいておられませんが、今の自分の苦しみとは自分自身は記憶していないが過去世から来た自分の【罪】。すなわち【カルマ】から生じているものが多いのです。自分が過去世で為した「業」なのです。
スピリチュアルでは神は愛だから何をしても赦されます式ですが、どこかで「カルマ」の支払いが起きるのです。

大本教から牛虎(魂)金神国常立尊が出され、大本教神諭に「この神は病気治しの神ではない。心の立替・立直しの神である」と出されました。
良心神とは、病気治しや現世御利益神ではなく
 
自分の心の立替・立直しの神なのです
 
その人が求めているものが自分の心の立替・立直しではなくて、今の自分が置かれている立場の苦しみの除去が目的であるならば、貴方は自分の良心神を捨てて、悪魔の信仰に切り替えればいいと言います。
 
五井昌久師と言いますと、「世界の人類が平和でありますように」の立て看板で知られる「白光真宏会」の創始者たる方です。私自身はその著書を幾冊か持つのですが、私が持たない五井昌久師の著書に「自分は多くの人を助けたいと願って、自分の魂を悪魔に売った」との内容があり、悪魔に魂を売ったことで死の間際は大変な苦しみの中で死なれたというメールを私の元に送ってくださった方があります。
死ぬ間際のことを本人が書かれたとは思われませんので、どういう壮絶な死に方をされたのかはその側近の方のみが知ることなのでしょう。
 
悪魔との契約とは、悪魔の力を得る代償として
 
自分の魂を悪魔の餌として与えることです
 
自分の魂が悪魔によって食べられてしまうのです。その代償として神たる力を得られるのです。

​だが、ほとんどの人が気がついていないのは
悪魔も、また創造神の現れの一つなのです
 
創造神は人に魂を授けることも出来るが、回収(魂を食べる)も出来るなのです。

私がその意味を知ったのは、私の前に豊受神がある人のことで現れて言われた時、私がその件は承知しました。ところで、一つ教えて欲しいのですが「ダキニ天」とはどういう意味ですかとお尋ねした時、豊受神は「ダキニ天」とはこういう顔の意味じゃと、その形相を一変されたのです。私はそれを見て、そういうことかと理解したのです。
​私は豊受様の御代をされている師匠の元に居る時、人の魂を食べるダキニ天と伏見稲荷山における豊川稲荷の違いの意味が解りませんでした。その師匠は私に豊川稲荷信仰は良い。しかし、「ダキニ天」信仰はいけないと言います。同じ神です。その意味はどう違うのですかと尋ねたところ、その師匠は「何れ、貴方はその意味を知るでしょう」と言って、答えてくれなかったのです。

そこにあるのは、【死と再生】の根源なのです
自分は終わっても別の意思たる存在の要素に再生されると、自己の意思を存続させて再生される「輪廻転生」の違いです。

私自身は大本教神諭が予告した「九つ花」で、そこに秘められた意味は五六億七千万のみろく神から、自己に内在する「良心」神を紐解く「誠」の教えであることを知りました。そしてそれはお釈迦様の菩提樹の下での本当の悟り。【悪魔は実体を持たない現れで有り、人には良心と呼ばれる神が内在する】でした。
 
私は「九つ花」の仕組みが単にユダヤ教・キリスト教・イスラム教の旧約聖書三姉妹教のみならず、仏教や日本神道をも含めたとんでもない教えであることに気がついたのです。
それはお釈迦様やモーゼやイエスも含めて、とんでもない存在の神がその背後に在るということなのです。その神は今日までの人類の上には臨んでなどはいないのです。
 
だが、そんな「真理」を紐解いて教えて、いったい誰が喜ぶのかです

今、溺れている者は助かりたいと必死になって「わら」をも積むです。そんな時に、真理は「人には良心神が内在する」ですと説いて回っても、誰がそのことに耳を貸すかです。今溺れている者にすれば、助けてくれる者が「悪魔」であれば、それが悪魔であってもそれにしがみつくなのです。
五井昌久師も一生懸命「真理」を説こうとされました。病などはカルマが消えて行く過程だと説かれています。しかし、現実には「わら」を掴む人達を見るならば、それを助けようとすれば自分が悪魔と契約して、その力をもってしか助けてやれないがあります。カルマの解消を諦めた代償です。
その「心の葛藤の中において」、悪魔に自分の魂を売る決心をされたのだと思います。五井昌久師御自身は悪魔的な人ではありません。しかし、今溺れている者を多く救おうとすれば自分の魂を悪魔に売るより道は無いなのです。
 
この日本では西洋の唯一神信仰の一神教ではなくて、多神教信仰が行われています。そこには神とは自分に「現世御利益」を与える存在が神であり、「自分が困っている時に助けてくれるのが神」だという間違った教えが入り、蛇霊や狐霊や狸霊や猫霊に「身変える」という問題を引き起こしてしまいました。
私は溺れている人を助ける為に自分の魂を悪魔に売るかと聞かれれば、売らないと言います。今を助けることが本人の為に成るとは限らないからです。助ける=カルマの解消にならないからです。自分が置かれた苦難の道は自分で耐えるのがカルマ解消の道なのです。

私は生まれてからこのかた、誰よりも苦難の道を歩いたとは言いません。私以上に苦難の道を歩かれた方は多数あるでしょう。私の最初の師匠は若い頃、豊受様の御代修行の過程で二度も自殺をはかっておられます。神の世界に仕えるは容易なことではないのです。
神の御代をされている方はスピリチュアルの方とは違い、本物と呼ばれる方はどなたも自殺をはかったほどの苦しみの道を通過しているものなのです。相談者以上に苦しみの道を通っておられるものなのです。相談者より強い意志で耐えて来たです。私も自殺したいと追い込まれた口で、泣いて涙も涸れ果てたまで行ったこともあります。
ただ、私は自分に与えられた苦難の道は神からの「試練」と切り替えられたので、今は愚痴も出しませんが、昔は自分は何でこんな目に遭わなければらならいのだろうと愚痴を出していました。それを通過した時、「あるがまま」があるのです。
口先で説く「あるがまま」など、何の教えにもなっていないのです。体験・経験の苦しみを経て会得するのが「あるがまま」なのです。
 
私が子供の頃に臨んだ声は自称「旧約聖書の神」と名乗っておられましたが、私にあることを言われたのです。
それは、「人は刹那心に溺れると、自分の魂を腐らせる」です。どんなに苦しくても刹那心に溺れるなと言われたのです。
 
刹那心を持つと、自分の魂を腐らせる
 
刹那とは仏教用語で「短い時間」と言う意味ですが、神が言われた「刹那心」とは、「刹那主義」のことで、過去や将来のことを考えずに、今の時さえ良ければ(凌げば)こと足りるという心です。
本質的な「せつな」は苦しい、切ない、たまらないとう「精神的な苦痛」のことです。
私は殺すの「殺」と刹那の「刹」を見ていて、どちらも左辺は同じ字です。しかし一般的漢字辞書を調べてもこれは解りませんでした。これは「祟り」の意味で、殺は祟りをもって毀す。刹は祟りをもって罰するで「同意義」なのです。やはり同じ言葉の意味かと思っておりましたが同じでした。「せつな」いに入ると永遠の命である魂を殺してしまうことになるのです。
 
せつないという愚痴的な言葉に「短い」の意味が秘められるのは、この世の僅かな時間である「刹那」によって、切ない。苦しいなどと言って自分の魂を腐らせてはいけないからなのです。
今、自分は苦しい。切ない。何とかしてくれと言うことであれば、自分の永遠の命である魂と引き替えに「悪魔」信仰に入るか。自己の守護神を表に出すしか道はないのです。
 
ただ、この守護神とは、大本教やその後の新日本神道系教団で説かれた「本守護神・正守護神・副守護神」と、スピリチュアルで「守護天使とかハイヤー・セルフ」等と言っている存在とはまったく別物である認識は必要です。
もし、ハイヤー・セルフという言葉を出すのであれば、それは自分の魂と如何なる関係で成り立つ存在のことか、キチンとした説明が要ります。
しかし、ハイヤー・セルフという言葉を出す人で、それに対して説明が出来る人が一人も居ないということを知るべきなのです。単なる西洋スピリチュアルの受け売りから抜けていないのです。それが出来ないのであれば、スピリチュアルという言葉に浮かれているだけだということなのです。

仏教用語のダルマ(真理)。業(カルマ・軽い魔)。刹那(せつないは短い時・瞬間)。五六億七千万の「みろく」。こらは全て「日本語と呼ぶ言葉の仕組み」の中で解読出来るようになっている事実そのものに気づかないスピリチュアルでは、最後の審判で行く先は【地獄の火の中】なのです。
​スピリチュアルで自称自分の前世は釈尊であったと言う教祖様が、最後の時は自分は信者諸とも地獄の火の中に行くと言われておりましたが、そうであってはならないのです。

創造神とは、私達に現世御利益を授けたり病気治しをされる神ではなく、太陽のような「火」。雨のような「水」。そうした私達の命を養う為の「自然の恵み」を授けておられる存在であって、スピリチュアルで自分に臨む等の簡易な神ではないのです。ですから、創造神は私達にその「自然の恵み」に対して金など一銭も言われないのです。要求されないのです。全て無償なのです。

その創造神に仕え奉る「奉仕」とは、私達一人一人が創造神に代わって世の為に人の為にと社会に奉仕として尽くすことなのです。それは「特定の宗教団体」に所属するではないのです。奉仕活動とは無償ですることなのです。

創造神に仕え奉る人とは

世の為人の為にと「奉仕」する

それが【人に内在する良心神】の働き


<転載終了>