佐藤敏夫先生のサイトより
http://www4.tokai.or.jp/kaminosuugaku/kaminohoujin4.html
<転載開始>
     さあ、一つ『数の語り』を聞こうではないか…!! ③


 

「数」は自然の真実を知り、それを語れる唯一のものであるが、驚いたことにその事実を我々現代人は誰も知らな、要するに、「数」は有機的な存在であり、宇宙自然のすべての現象を語ることが出来る唯一の存在なのであるが、その事実を誰も知らないのである。 何と言うことであろうか…!!。
 我々はその事実をしっかり突き止め、学ばない限り、次のステップに移行することも、新たな叡知を求めることも不可能である。

要するに、「数」にすべてを語らせ、その真実を突き止めながら学び取ってこそ、初めて人類は更なる「知の高み」を得ることが出来ると言うことである。




  今回からは諸々の数計算を行いながら「数」の持つ自然の知の存在を確かめて見ることにする。また、その計算値の真実を見る為に、「神の数学」の計算値と「現代数学」の計算値を並列させながら、その違いを見てみることにしよう。

 

  恐らく、これは現代史上初めての試みであり、人々の肝っ玉を冷やすことになるのか、それとも大いなるブ-ウイングを受けることになるかのどちらかであろう。何故ならば、「神の数学」の計算値と「現代数学」の計算値を見比べることにより、「現代数学」は甚だ不自然な計算系列を持つ反自然的な知であり、自然とは決して相容れないことが一目了然になるからである。いや、それともあなた方は目と耳を塞いで無視に走るのか…!?。まあ、そのどちらかであることは間違いないであろう。

要するに、自然系列の「数の動き」は滑らかな状態で何処までも推移しているのに対して、「現代数学」の数の動きは甚だぎゅくしゃくして、凸凹がありお世辞にも綺麗とは言えないものである。それは誰の目にも明らかであり、眉をひそめたくなるような不完全体として我々の目に映るものである。要するに、秩序と調和がとれてはいないと言うことである。

 

 

今回からは「数の語り」の存在を明確にするために自然手法による「数計算」とその答を示しながら、「数」の語りを見てみることにしょう。 恐らく、あなた方は「数」は意識を持つ有機的な存在であると言えば大いに疑問を持ち、ブ-イングを始めるであろう。そんなことは信じられない、絶対に認められないと…!!。

 恐らく、日本人ばかりか、世界中の人々が大騒ぎして私の存在を絶ち切ろうとするであろうし、学者達は可能な限りの悪口雑言を投げ捨てて私を罵ることであろう。

 

 しかし、ジックリと現実を見定めてほしい、現代数学は「10進法を」を基盤に持つ故に、現代科学体系は迷いに迷っている悲惨な現状であることをまずは知らなければならない。
 このままでは何時になっ手も自然と対話が出来るようにはならない。100年経っても、1000年経っても今と全然変わらないはずである…!!。 是非、そのあたりから確かめて見てほしい…!!?。

一体、何時になったら、自然は我々に心を開き、持てる秘密を明らかにしてくれるのであろうか…!!。この質問にたいしては誰も答を出すことは出来ないはずである。

そもそも人間数学(現代数学)は自然を解くために「10進法」と言う道具を使って問題解決にあたっているのは皆さんも御承知であろう。しかも、その「10進法」と言う道具は人間が考え出したものであり、自然の計算法とはまったく異なるものである。しかし、そのことを誰も知らない、誰も疑問を持たずにして使っているのである。

恐らく、世間広と言えども、「現代数学」に疑問を呈し、騒いでいるのは私だけであろう。だから、私は畢竟の異端児であり、現代のドンキホ-テと言われる由縁なのであろう。

 

さあ、至極簡単な数の計算から初めて見よう、すべての「現代数学の知識」は傍らに置いて純心無垢、空白な心で数の語る「数の動き」を見てもらいたい、余分な知識は捨ててもらいたい。

そのために一つ言って置きたい、自然の姿、自然の心とは、すなわち、流れが淀(よど)まず静かに刻々と調和しながら変化しているものであり、見た目はシンプルで心に響くものである。その上、なおかつ、美しく感じられ、妙々な気持ちと共に心にはたぐいない共感を覚えて打ち震えるものである。

そのことを十分に心に置いて計算の過程と答をジックリと見てもらいたい。

要するに「数」が奏でているのは一つのシンホニ-のような整然とした調律曲であり、まさに調和と秩序が滲み出て心が温まるような素晴らしいメロディ的なものが感じられるものである。そこには目を顰(ひそ)めるような振舞いとか際立った変化は一切無く、ただ、ただ悠然とした流れ、永劫な流があるだけである。

 

 

ここからは自然数が囁く自然のメロディを目で感じ、心で聞いてもらうのである。すべては自然数が描く自然の所作であり、自然数が語る自然の心の現れをモチ-フにした数のストリ-と言うものである。はたして、これらはどのような関係であり、どのような秩序を見せながら流れているのであろう…!?。 そして、それはどのような調和と変化を見せながら響き合っているのであろうか…!?。

ここからは、最早、直感と悟性、そして洞察力がモノを言う世界であり、「現代数学」信奉者は一切立ち入ることが出来ない自然が語る「真実の世界」の領域である。ただし、心を開いた方々は別である。

 

 真の数学とは「数の性質」や「本質」を求めて学ぶ、定性的な学問であり、それに対して我々の学んでいる「現代数学」は「数の表面」、「数の状態」を求めようとする定量的な学問なのである。
 現代のような「神無しの世界」、すなわち現代文明世界では定性的な学問は既に窓際に追いやられ、活動は停止の状態である。しかし、次の「神有りの世界」、すなわち「意識文明」の世界では完全に逆転することになり、「神無しの世界」は完全に姿を消すことになろう。


    〔1〕     <!--[endif]-->究極の「自然数のピラミット数表」を求めて、開いて見る


  
 


 


 

さて、さて、不思議極まりの無い数図であることがお判りであろうか…!!!。

上図を見てもらいたい「数計算式」自体も美しいが、右側の数列は更に美しい。そこには確かな鏡面対象数列が輝羅星の如く整然とした並びで鎮まっている。

はて、この姿はどこかで見たような気がするのであるが、果たして…!!?。記憶力が自慢の方は思いだして見るがいい。 さて、如何に…!!。

 

 そう、その通りである。これはまさに「ひふみ九九算表」の斜めの並びの数列であり、やんごとない「神の数列」そのものの出現と言うものである。

 確か、大分古い頃、ここで申し上げたことがある。それはすなわち、日本の神の名前は古いほど鏡面対称的な名を持っていると…!!。それが「天の中主」を初め、「天の常立」、「国の常立」、「大国主」、「一言主」の神、それに「皇産巣日(カミムスヒ)」、「高皇産巣日(カミムスヒ)」の名も気にかかる。どうして古代の人々は鏡面対称文字を用いて神の名を表わしているのであろうか…!!。


 

 一体、この「神のピラミット数」と「ひふみ九九算表」はどのような関係にあるのであろうか…!?。そして、これらの完全鏡面数列の出現は何を意味し、何を語るものであろうか…!!?。

誰か「その心」、すなわち共通する「芯」と言うものを教えて欲しい…!!?。

 考えて見ると、これらは土壇場にある人類の知をあるべき自然普遍の知に戻してくれる「数の語り」と言うものである。一つ、ジックリ考えてもらいたい…!!?。

 

 

まずは心を無にして考えて見ようではないか、通常、我々現代人は夢想だにしなかったことであるが、「自然の象」と言うものは最初と最後に神を置いてはじめて存在化が可能になることを立証する極めつけの数図である。すなわち、自然万象は「この世に現れて来る時(顕在時)」と「死ぬ時(消滅時)」においては必ず「神」の仲立ちがあるからこそすべてはスム-スにいくのであり、無事に目的場に至ることができるのである。また、ここにおける「神」とは数で言えば0であり、すべての「数」は0から生まれてまた0に還っていくと「この数図」は言っているのである。 また、その他のすべての自然事象もそれと同じような軌道を描いて輪廻しながら転生を繰り返しているのであるのであるが、誰も気ずく者はいない。
 当然ながら我々人間も同じ輪廻循環の中に身をおいていることだけは決して忘れてはいけない、しかし、今のところ誰もそんなことを信じる者はいない…!!。

 

その事実を証明するために用いるのが上記の自然数のピラミット、すなわち「神のピラミット数表」、あるいは「ひふみ…ピラミット数表」と呼ばれているものである。それを通じて我々は本当の自然象の真実に遭遇することになるのであり、また、神々と共にある自然の叡知の存在を知ることになるのである。しかも、それが決して間違いでないことをハッキリ証明しているのがこの「ピラミット数表」の計算式であり、その答なのである。

 

この「神のピラミット数表」はお判りにように自然数である0123456789の数を1ヶづつ増やしながら並べ置いたものである。これに似た西洋の数表には「パスカルの3角形」があり、それを発見者のパスカルは「魔法の三角形」と呼んで大変気に入っていろいろと検証していたものである。

しかし、日本にも更に驚くべき「神のピラミット数表」と呼ばれる「3角形の数表が存在していたのであるが、現代数学」の性(さが)に魅入られ、魂まで抜きとられた日本人はその事実をまったく知らない、知ろうともしない。

 

本来、純粋な「自然数学」とは自然界における 「量(数)」、「構造」、「空間」、「変化」などを研究するための学問であり、我々の「現代数学」はこれらの中の「量(数)」に関する学問なのであり、極めて狭義な「数」の学問なのである。

しかも、そこでは「数」は単なる道具として用いられるだけであり、「数」自体は有機的な意味を持ってはいないとの認識下にあるだけである。

 

また、上記の「量」以外の量(数)、構造、空間、変化等を追求する数学は
「位相数学」、
すなわち「トポロジ-」と呼ばれている分野であり、現在のところ余り顕著な活動は見せてはいない。要するに、本来は「見えない世界」を探求するための数学体系であるが、「見えない世界」等は無いとする現代科学文明下では活躍の場がまったく無いのである。ちなみに、「神の数学」は完全な位相数学であり、「見えない世界」を簡単に解き明かしてくれるものである。

 

本来、「数」とは自然の象を解明するための学問、すなわち、物理学や化学、あるいは哲学上の諸問題を助けるための自然解明ツ-ルとしても用いられるべきものである。しかしながら、人間知のすべては反自然的な「10進法」と言う計算手法を基盤として培われているものであり、それは自然と共鳴不能な計算手法である故に、自然の本性、本質を明かすことは出来ないのである。

考えて見れば当然なことであり当たり前なことである。要するに、現在の人間知は自然とはまったく反りの合わない「モドキの知」と言ってもいいものである。

 

「数」の持つ答の意味が分かり、系統立ったつながりが判るようになれば、「数学」ほど美しいものは無く、これほど楽しいものはない。何故なら、本質を究めれば究めるほどに、すべては繋がりを持って華やぎながら、お互いに会話し合っていることが判るからである。

更には持てる直感と洞察力をフルに使うことにより、「目には見えない世界」が自然な形で存在していることが見えてくるのであり、更にはまったく別なもの同士ががその奥では密かに繋がっていることを「数」は教えてくれるのである。 まさに、「数」はオ-ルマイテイであり、無限の知を持っていることをうかがわさせるものである。

 

本当の意味の自然普遍の数学、すなわち、「自然数学」とは「数の性質」、「数の本性」について学ぶ学問であり、それにより、あるべき本来の自然象の仕組みの存在を伺えることになるのである。要するに、我々は「数」により数多の「自然の哲理知」の存在を知ることになり、それを学んではじめて新たな未来を築きあげることが出来ることになると言うことである。

 

それらは遥かに古い時代にはあまねく知られていた「数の仕組み」であったが、長い間なおざりにされた結果、今ではすっかり忘れ去られてしまっているものである。しかし、大いなる時の歯車が一回転して再び古の扉が現れ始めることにより、そこから消え去った古の叡知が再び顔を出し始めて、何かを我々に懸命に告げようとしているのである。

しかし、悲しいことに、そんなことは誰も気がつかないし、想像することもしない、ただただ現代西洋科学知に追従して彼等の歓心を買おうとしているだけである。

 

要するに、それが過去にあったことの再現現象と言うものであり、科学用語ではシンクロニシテイと呼ばれるものである。要するに、大いなる過去に存在した日本文明の再現現象が今、再び世界的な規模で甦り始めていることがそれである。そのことは現在の外国人の多くが日本に関心を持ち始めていることからも判るであろう。話によると、世界で最高峰の大学であるアメリカのハ-バドで現在最も人気のある国が日本であり、彼等の合言葉とは「この不確実性の時代を生き抜くためには、世界はもう一度日本から学ぶべきである」なそうである。

何故なら、現在の日本は世界の未来を先取りしていると言われているからである。確かに現在の日本は高度に進化した文明社会であり、公害や環境問題、更には先端をゆくテクノロジ-やエネルギ-等の問題など、解決しなければならない難問を既に解決しているのである。また、高齢者問題、人口減少などと言うこれから世界が直面しなければならない問題をどう捌くのか、世界は関心を持って見つめているのである。 何と、我々日本人は未来を拓くテストケ-ス、モデルケ-スとして世界中の人々から興味深々として眺められていると言うのである……!!!。

 

 

あなた方は知らないであろうが、現存する超古代文献では遥かな昔、日本は世界の最高峰に君臨する盟主であり、数多の人々が知を求めて日本詣りしていたと伝えている。

古くは中国の伏儀や神農が易と薬学を学んで帰ったと言う記述、更には孔子、老子、孟子、徐福の來日が記され、また西洋からはモ-ゼ、キリスト、その他にインドの釈迦、マホメットが日本で色々学んで帰国して人々を導いたと記載されているのである。それを物語る明らかな証拠が、能登にあるモ-ゼの墓であり、青森県のキリストの墓なのである。確か、モ-ゼは最終的には民衆を引き連れて、乳と蜜の溢れる地(日本??)に向かって去ったと聖書には書かれているはずである。
ただ、過去を重んじない日本人は知らない、知ろうとはしないだけである。その中でもマホメットについてはアラビヤ回教史にも同じ記述があり、そこには「24歳のマホメットはAD582年に蘇我氏を頼って日本に行った」とはっきり書かれているのである。これらの合致した報告をあなた方はどのように思うのであろうか。最早、偽書である、後世の誰かが面白半分で書いたトンデモ本であるなどの偽弁はまったく通用しないのである。すべての真実は今、明かされようとしているのである。

 

また、南米ポリビアの山中の祠の中から石に刻まれた不思議な文字が見出され、それを日本人の外交官が日本に持ち込み古代文字研究家に調べさせたら、それは「天越根文字」と言う神代文字であり、51文字ある中の16文字であることが判ったのである。それとまったく同じ不思議な話は古代文献の「竹内古文書」の中にもあって「古代天皇は世界巡行の途中で南米ポリビアにおいて天皇持参のお守り文字の16文字を土地の土民に乞われるままに与えたのであり、その文字がすなわち、アイウエオ、カキクケコ、サシスセソ、と最後のンであった」と記されているのである。

まさに、これらは驚くべき東西の相呼応した現実の話であり、まさに不可思議な現実と言うものであろう。要するに、これらは歴史の歯車が完全に一致したと言うことである。

しかし、長い間、中国大陸や西洋に知の刷り込み、すなわち、洗脳を受けて育ってきた現代の日本人はそんなことはあり得ないと呵々大笑するだけである。

 

このように、の日本の古代文献には超古代に存在した日本の大文明の存在を明らかにしているのであるが、誰も信じない、誰も口にしょうとはしない。

ただただ、西洋知の常識を懸命に守ってひたすら進むだけである。

少々難しすぎるとお考えの方は次の簡単な問題、もっとシンプルでありながら、何故か辛吟するような不思議な数の仕組みを見て貰いたい…!!。

恐らくこれも小学生でも簡単に理解出来るものであるが、恐らく、大の大人の数学者達も頭を傾げる難しい問題と言ってもいいかも知れない。

 

さあ、簡単なものである、脳を柔らかくして、一つ考えていただこうではないか。前出〔1〕の「神のピラミット数表」の図を見てもらいたい、そして、そこから次のような「数の現れ」、すなわち、そこに縦斜めに走る数についての計算検証を行なってもらいたい。《加算》と《減算》についての二大考証である。

まあ、今回はあなた方の常識に従って数列の最後にある0を取り除いた形で検証してみよう。



 〔2〕


 

   〔3〕
 
  
 

 

ここに現れたのは「神の数学」手法による数の表れである。願わくば、これらの計算を計算機を用いて現代的な計算値(答)を出し、「神ん数学」手法による答と見比べて欲しい。

 

 確かに、元の数は同じであるが「=」で結ばれる答は異なっている。要するに、「10進法」では答の数態はどんどん伸びてい行くのであるが、「神の数学」では一桁化するので常に一つの数としてとどまることが出来るのである。

 それゆえに、「現代数学」は無限に伸びて複雑混沌となるだけであり、他との比較はまったく不可能となってしまうのである。それに比べると「神の数学」はどのように無限に伸びても常に簡単な単数の姿をとどめているだけであり、それにより他との比較は極めて容易なことになるのである。 ここの最左にある数列は鏡面対称数列であり、「神の数列」と呼ばれているものである。知を任じてやまない方々よ、この「神の数列」を見事解き明かして見てほしい…!!!。


 


 

   〔3〕の2図の<内容解説>
上記図の「最大」とは最左の111111111であり、それは111111111=9である。 上記図の「最小」とは反対側の最右の9である。
                             すなわち、最大=最小となるものである。次の最大は22222222であり、それは2×8=16である。同じように、最小は88であり、2×8=16である。

    
    次は〔3〕の1図についてである。

 

 

何故なら、そのまま上と下の数を加算、すると最初は5はそのまま変化無しで、次の上下の数の計算は 5+6=11→2(一桁化により)、よって答は52222となるのである。
 さて、55555+6666の自然的な正しい答は、62221なのか、それとも52222なのであろうか…!!??。
 さあ、一つ考えてほしい。

 

〔4〕

 
       〔お詫び〕
失礼しました、この「減算の図」が完全に欠落し、内容が不完全でした。改めてお詫び申し上げます。


 ここに∑として現れた数は現代数学を用いて表わした答えであり、一桁化する前の数答である。

 面白いことに、「10進法」計算では隣との数の差はであるが、「神の数学」のように一桁化の計算ではその差がになるのである。2と7と言う2数はやはり因縁数と言うものなのであろう。

 また、真理数列は必ず最初と最後には必ずを伴なっていることがお解りになるであろう。この場合には加算図と減算図を検証することにより判るはずである。

 

 

何と「現代数学」式では右に行けば行くほど「数」は小さくなるのであるが、本質を求める「神の数学」式では逆に右に行けば行くほど「数」は大きくなると言う不思議なことが起きているのである。

 恐らく、これは現代の学者達にとlちても予想外なことであろう。

 

要するに、「形」としては大きくなればなるほど、その「本質」は逆に小さくなると言っているのである。言葉を変えれば、姿、形は大きくなるにつれて、そこに内蔵されているエネルギ-は逆比例してどんどん小さくなって行くのである。まことに我々の常識とは完全にかけ離れているのであるが…!!?。

それを証拠立てているのが素粒子の質量である。次のような現実があるのである。

 

トップクォ-ク……175億(eV)、陽子……9,38億(eV)、電子……51万(eV)、原子……13,6(eV)、である。要するに、小さい素粒子の方がエネルギ-が遥かに大きいことが判るのである。 (理科年表より)

 

考えて見れば、確かに原子爆弾より水素爆弾のほうが威力は大きいし、更には陽子爆弾になれば太陽系さえも破壊できると言われていることも十分に納得が出来るものである。

〔注〕 粒子の質量とは、その粒子が存在するのに必要最小限 の、いわば静止した時に持つエネルギー量である。

 

考えてみると、物理的な象として不思議な矛盾を持っているようにも思われるが、それが自然の象と言うものの本性と言うものである。

「現代数学」は「数」の表面を見ているだけであるが、更に一歩踏み出して「数」の内面や、「数」の本質を究めて正しい自然の姿を見出すことが必要である。そうすることにより、我々の科学文明も別な違った道、すなわち、あるべき正しい方向に辿りついて今と異なった知文明を作り上げていくことが可能になるのである。

                                                         (2016、6月の語り 完)

  お知らせ…!!。

  「神の数学」の勉強会を 7月の2日(土)に横浜で開きますので興味のある方は是非参加して下さい。

   ≪テ-マ ≫  「古神道の囁きを聞き 世の中に伝えよう」(世界中が吃驚する「数のメッセ-ジ」を共に開いて見よう)  

     詳細、あるいは受講については FAX、あるいは往復ハガキにてお問い合わせください。

     お問い合わせ ……FAX 045―952―3352  
                 横浜市旭区今宿東町1493 リバ-ビュ-88D1  Yokohama ゆめの舞 おいかわゆうこ 

                                          

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