晴耕雨読さんのサイトより
http://sun.ap.teacup.com/souun/20186.html
<転載開始>
天皇と近代日本
http://sun.ap.teacup.com/souun/20186.html
<転載開始>
天皇と近代日本
山崎 雅弘氏のツイートより。
ずっと尊敬してきた人が、FBで「私は差別主義者だ」と居直って自分の差別思想を披露していたので、少し悩んだが、批判するコメントを書き込んだ。
第二次安倍政権になってから、今までの日本社会では許されなかったような差別思想を堂々と表に出す人が増えている。
日本という国が、どんどん「醜い国」に変化している。
自分はいつまでも「差別する側でいられる」と錯覚し、理不尽に差別される側の心の痛みなど考えなくなったら、いずれ自分の子どもや孫が「差別される側」になっても文句は言えない。
ずっと尊敬してきた人が、FBで「私は差別主義者だ」と居直って自分の差別思想を披露していたので、少し悩んだが、批判するコメントを書き込んだ。
第二次安倍政権になってから、今までの日本社会では許されなかったような差別思想を堂々と表に出す人が増えている。
日本という国が、どんどん「醜い国」に変化している。
自分はいつまでも「差別する側でいられる」と錯覚し、理不尽に差別される側の心の痛みなど考えなくなったら、いずれ自分の子どもや孫が「差別される側」になっても文句は言えない。
自分の差別思想を恥じない人は、外国で日本人を不当に差別する人間と「同じ側」に立っている。
>雪之丞 明治国家も天皇を現人神=絶対君主に祭り上げてはいますが、天皇親政ではなく立憲君主制ですから、時の権力者は結局天皇を都合よく利用したといえませんか?
1935年以前の明治・大正・昭和初期の明治憲法(大日本帝国憲法)下の日本は「立憲君主制」で、天皇も憲法の枠内で統治を行うきまりとなっていました。
しかし同年の「天皇機関説事件」以降は「天皇や国体の名を借りた権力行使」が、憲法に超越して行えるようになりました。
日本会議が回帰を目指す「明治憲法」が、前者(明治・大正)ではなく、後者の「天皇の名を借りた権力行使を無制限に行えた戦前の日本」であることは、副会長の小田村四郎氏が『正論』2005年6月号に寄稿した内容を読むとよくわかります。



小田村氏は戦後の日本国憲法の価値を全否定する中で、天賦人権説は「西洋の古いドグマ」と切り捨てていますが、人権尊重などを「日本の国体に合わない西洋由来の思想」として排撃する行動は、1935年以降の「国体明徴運動」の特徴でした。


日本会議副会長・小田村四郎「国民主権解釈で、個々の国民が主権者であるという説も少なくないが、これは国民心理を増長させ、謙譲の美徳を傷つけるという意味で、法理上のみならず道徳的にも好ましくない」(産経新聞社『正論』2005年6月号)




「国民主権論は民主主義とは別個の概念であって、国政運営や国民生活には何のメリットもない。それは『人類普遍の原理』などではなく、十八世紀ヨーロッパに生まれた一個のドグマにすぎない」
「国民思想を混乱させ、歴史観を混迷させ、国家存立の基礎まで危くするおそれのある『国民主権』規定は有害無益であって実定憲法から削除すべきであろう」
「天賦人権論、社会契約論、人民主権論等はロック、ルソー等が唱えた十八世紀啓蒙主義イデオロギーであって古色蒼然たるドグマにすぎない」
日本会議が目指すところの「理想的な日本」がどんな国なのか、幹部の口から赤裸々に語られている。
太郎次郎社エディタス『あたらしい憲法草案のはなし』見本が届きました。
自民党憲法草案の内容を、現行憲法との対比でわかりやすく説明した本。
巻末には文部省が1947年に刊行した中学生向け教科書『あたらしい憲法のはなし』も抄録されています。



太郎次郎社エディタス『あたらしい憲法草案のはなし』では、「あたらしい憲法三原則」として「国民主権の縮小」「戦争放棄の放棄」「基本的人権の制限」が挙げられているが、日本会議副会長・小田村四郎氏の『正論』への寄稿とピッタリ一致している。


日本会議副会長・小田村四郎「国民主権、平和主義、基本的人権の尊重という虚妄をいつまで後生大事にしているのか」(産経新聞社『正論』2005年6月号)これを読むと、『あたらしい憲法草案のはなし』の説明が皮肉でも誇張でもないことがわかる。




>内田樹「同性愛者」も「テロリスト」も総称です。総称的記号で人間のそこにある生身を名指し、総称の名において損なう行為を暴力と呼ぶのだと僕は思います。
自民党改憲草案の「個人から人へ」という変更には、いくつかの意図が込められていると思うが、人間を「それぞれ独立した別個の存在」でなく「特定の属性を持つ集団の中の一人」と捉える思考への誘導という効果も期待できる。
人間が「何々人」になる。
自衛隊の志願者が減っている中で、「武人の象徴である日本刀を自衛隊のエンブレムにあしらってみました」と誇らしげに発表する感覚は、かなり危ういと思う。
抜き身の刀を『るろうに剣心』の「逆刃刀」に変更してはどうだろう。
その方が自衛隊らしい。

江戸時代以前の日本で、先の戦争中の中国で、日本刀がどれだけの「人間の首」を斬り落としてきたかを考えれば「武人の象徴」などと自慢げに誇示するような道具でもない。
先の戦争での日本軍人は、多くの場合「武人としてどう死ぬか」に執着する一方、「市民をどう生き延びさせるか」には無関心だった。
民主主義国の軍人は「武人」である前に「市民」という位置づけがなされているが、自衛隊の場合、その辺りの境界はどうなっているのか判然としなくなりつつある。
自衛隊の歌姫が「大東亜戦争を肯定する講演会」に参加して「海ゆかば」を熱唱する光景を見ると、自分も市民という感覚が無いのかとも思う。
<転載終了>
>雪之丞 明治国家も天皇を現人神=絶対君主に祭り上げてはいますが、天皇親政ではなく立憲君主制ですから、時の権力者は結局天皇を都合よく利用したといえませんか?
1935年以前の明治・大正・昭和初期の明治憲法(大日本帝国憲法)下の日本は「立憲君主制」で、天皇も憲法の枠内で統治を行うきまりとなっていました。
しかし同年の「天皇機関説事件」以降は「天皇や国体の名を借りた権力行使」が、憲法に超越して行えるようになりました。
日本会議が回帰を目指す「明治憲法」が、前者(明治・大正)ではなく、後者の「天皇の名を借りた権力行使を無制限に行えた戦前の日本」であることは、副会長の小田村四郎氏が『正論』2005年6月号に寄稿した内容を読むとよくわかります。



小田村氏は戦後の日本国憲法の価値を全否定する中で、天賦人権説は「西洋の古いドグマ」と切り捨てていますが、人権尊重などを「日本の国体に合わない西洋由来の思想」として排撃する行動は、1935年以降の「国体明徴運動」の特徴でした。


日本会議副会長・小田村四郎「国民主権解釈で、個々の国民が主権者であるという説も少なくないが、これは国民心理を増長させ、謙譲の美徳を傷つけるという意味で、法理上のみならず道徳的にも好ましくない」(産経新聞社『正論』2005年6月号)




「国民主権論は民主主義とは別個の概念であって、国政運営や国民生活には何のメリットもない。それは『人類普遍の原理』などではなく、十八世紀ヨーロッパに生まれた一個のドグマにすぎない」
「国民思想を混乱させ、歴史観を混迷させ、国家存立の基礎まで危くするおそれのある『国民主権』規定は有害無益であって実定憲法から削除すべきであろう」
「天賦人権論、社会契約論、人民主権論等はロック、ルソー等が唱えた十八世紀啓蒙主義イデオロギーであって古色蒼然たるドグマにすぎない」
日本会議が目指すところの「理想的な日本」がどんな国なのか、幹部の口から赤裸々に語られている。
太郎次郎社エディタス『あたらしい憲法草案のはなし』見本が届きました。
自民党憲法草案の内容を、現行憲法との対比でわかりやすく説明した本。
巻末には文部省が1947年に刊行した中学生向け教科書『あたらしい憲法のはなし』も抄録されています。



太郎次郎社エディタス『あたらしい憲法草案のはなし』では、「あたらしい憲法三原則」として「国民主権の縮小」「戦争放棄の放棄」「基本的人権の制限」が挙げられているが、日本会議副会長・小田村四郎氏の『正論』への寄稿とピッタリ一致している。


日本会議副会長・小田村四郎「国民主権、平和主義、基本的人権の尊重という虚妄をいつまで後生大事にしているのか」(産経新聞社『正論』2005年6月号)これを読むと、『あたらしい憲法草案のはなし』の説明が皮肉でも誇張でもないことがわかる。




>内田樹「同性愛者」も「テロリスト」も総称です。総称的記号で人間のそこにある生身を名指し、総称の名において損なう行為を暴力と呼ぶのだと僕は思います。
自民党改憲草案の「個人から人へ」という変更には、いくつかの意図が込められていると思うが、人間を「それぞれ独立した別個の存在」でなく「特定の属性を持つ集団の中の一人」と捉える思考への誘導という効果も期待できる。
人間が「何々人」になる。
自衛隊の志願者が減っている中で、「武人の象徴である日本刀を自衛隊のエンブレムにあしらってみました」と誇らしげに発表する感覚は、かなり危ういと思う。
抜き身の刀を『るろうに剣心』の「逆刃刀」に変更してはどうだろう。
その方が自衛隊らしい。

江戸時代以前の日本で、先の戦争中の中国で、日本刀がどれだけの「人間の首」を斬り落としてきたかを考えれば「武人の象徴」などと自慢げに誇示するような道具でもない。
先の戦争での日本軍人は、多くの場合「武人としてどう死ぬか」に執着する一方、「市民をどう生き延びさせるか」には無関心だった。
民主主義国の軍人は「武人」である前に「市民」という位置づけがなされているが、自衛隊の場合、その辺りの境界はどうなっているのか判然としなくなりつつある。
自衛隊の歌姫が「大東亜戦争を肯定する講演会」に参加して「海ゆかば」を熱唱する光景を見ると、自分も市民という感覚が無いのかとも思う。
<転載終了>