阿多羅しい古事記さんのサイトより
http://www.geocities.jp/arakida_1/z-newpage4-4d.html
<転載開始>
《4-4d : 本当のあらすじ》
(注:この話は子供には不適当かも知れません。)
二歳> 自宅前で遊んでいたところを、宮内庁職員にクロロホルムを嗅がされて、車に押し込められ、皇居へ連れ去られた。しばらくの間、皇居内の一室で
(板張りの床におまるが一つ置かれていた)監禁されていたが、私の世話をしていた女官がいなくなった隙に、皇宮護衛官に砒素で襲われた。(誰
の命令かは不明) その後、女ばかりの後宮に移された。そこでは午睡中に添い寝をしていた若い侍女に短刀で尻を刺されたり(後で縫い合わされ
たが、その外科手術痕を隠すために大きなホクロを作られた)、朝から一杯の水もくれないので「おぶぅ」と言ったら、背が立たないほど深く水を
張った浴槽に漬けられて、溺死しそうになった。また、泣き出すと砒素の粉を口の周囲に付けられたり、声を発するだけで睡眠薬を注射されたりし
た。こういった虐待は特別な理由は無く、皇居では日常的に行われていた。
(宮内庁職員による監禁、虐待)
三歳> 結核を患っていた皇太子明仁に、病気をうつされそうになった。無理矢理口に入れられた生の貝を私が吐き出すと、怒った明仁が武官に命じ、武官
は私の喉に麻酔薬の注射器を突き刺した。そして、麻酔で弛緩した食道にゴム・ホースを挿入し、さらにその管の先端から胃の中へ麻酔薬を垂らし
込んだ。私がお腹が痛いから食べたくないと言ったからである。
(明仁と皇宮護衛官による虐待)
稲が全部枯れた。良子も裕仁もその罪を子供の私に擦り付けたので、私は皇宮護衛官や皇室関係者などに、次々と青酸カリが付着した針で刺された。
(良子と裕仁の祭祀放棄、宮内庁職員による虐待)
天皇裕仁と徳川侍従に、護身用ペン型銃で標的にされた。裕仁は最初、私が着ていた振袖の袂を狙って撃ったので、袂は丸く焼け焦げてしまい、そ
の後、洋服に着替えさせられた。すると、的が無くなった裕仁は私の足下へ向けて発砲した。この時、銃声を聞き付けた皇宮護衛官が一人、部屋へ
飛び込んで来たのだが、この目撃者を、天皇裕仁と徳川侍従が撃ち殺した。
(裕仁と徳川侍従による殺人)
天皇裕仁と徳川侍従は、皇宮護衛官の射殺を目撃した私の口を封じるために、自衛隊で開発された薬剤を使って脅迫した。裕仁が私に注射したのは
皮膚の色素細胞を破壊するという薬で、私の胸に菱型に縮れた白い痣ができた。徳川侍従が注射したのは砒素と思われるもので、腹の片側半分が茶
色い痣で染まった。
(徳川侍従の命令と思われる)密偵が我が家を襲って来るようになった。建物の陰から、突然、男が飛び出して来て、私を拉致しようとした時、
祖母が駆け寄って来て「自分が何でもするから、この子を助けてくれ。」と懇願した。すると、男は青酸カリの丸薬を取り出して、「それなら、こ
れを飲んでみろ。」と言った。祖母は男に丸薬を唇に付けられて、吐いて倒れた。
裏庭で遊んでいたら、塀の外から、サリン弾を投げ込まれた。兵隊服を着た三人の男が表の道路に停めてあったジープに乗って逃げ去った。落下し
た金属製の物体に近づいて見ると、数秒で視野が真っ暗になった。手探りで家の外壁を回って玄関のほうへ行こうとしたら、誰か大人が地面に倒れ
ていており、私は足を引っ掛けてつまづいた。玄関に入って電話を探したが、真っ暗闇で見つからなかった。納屋の裏に隠れて一昼夜をやり過ごし、
目が見えるようになってから駐在所へ走った。しかし、駐在所には普段いる若い警察官ではなく、襲って来た密偵が警察官のふりをして立っていた
のだ。私は反対方向にある別の交番へ走って行き、本物の警察官二名と一緒にパトカーに乗って自宅のほうへ戻って来たが、その途中、最初に行っ
た駐在所の前でパトカーは停められ、運転していた警官が車の窓を開けたので、密偵が駆け寄って来て、パトカー内にサリン弾を投げ入れた。
生まれたばかりの弟が密偵に襲われて、腹に赤痣を作られた。
その後に生まれた妹は、顔に青痣を作られた。
(これによって、痣は、私の胸に作られた白色のほか、弟の赤色、妹の青色、と三色が揃ったわけだ。)
高松宮妃喜久子が皇宮護衛官幹部と二人だけで、我が家を訪ねて来た。
その後、皇居内で二人が抱き合っているところや、阿片で遊んでいるところを目撃した。
(喜久子の不倫)
五歳> 福岡県の吉武高木遺跡で、斉王の陵墓が発掘されているところを見学に行った。ところが、斉王の王冠、王剣、印璽が発見された直後に、天皇裕仁
が武官を従えて現れ、サリンを撒いて博物館員や私たちを襲い、出土した物を強奪して行った。後に残された斉王一族の遺骨には硫酸のようなもの
が撒かれて、その後、遺跡は埋め戻された。
(裕仁によるサリンを使った襲撃)
皇居へ帰って来ると、天皇裕仁から会食に招待された。しかし、私が料理を食べずにいると、裕仁の武官が私の喉に麻酔薬の注射器を突き刺して、
無理矢理口をこじ開け、皿の料理を手で掴んで押し込んだ。私がそれを吐き出すと、さらに喉に麻酔薬を打たれ、砒素を包んだ饅頭のような物を飲
み込まされた。嘔吐して、床に倒れたが、片腕を掴まれて起立させられ、弛緩した喉に水道のゴム・ホースを挿入されて、蛇口をひねられた。体中
の穴から水が噴き出した。気絶すると殴られた。口からゴム・ホースの先端が突き出ている図を写真に撮られた。
(裕仁と皇宮護衛官による虐待)
再び、福岡県へ連れて行かれて、水田遺跡にスコップで穴を掘って弥生式土器を埋める、という年代捏造をさせられた。埋める前に、宮内庁職員が
私に土器を持たせて、記念写真を撮った。
(宮内庁による遺跡の捏造)
皇居で、天皇裕仁が吉武高木遺跡から盗んで行った斉王の冠を被っていた。「伊勢神宮の神は天皇の先祖じゃない。もう祭祀はやらない。」と私が
言うと、武官に、青酸カリを塗った針で尻や性器を刺された。
(皇宮護衛官による虐待)
父と一緒に、裁判所へ行った。
父と一緒に、最寄りの警察署へ行った。
養蚕所で、東久邇盛厚と妻の成子が喧嘩をしているのを目撃した。また別の時、成子の妹らが養蚕所に阿片を持ち込んで遊んでいるところや、喜久
子が若い皇宮護衛官に抱き付くのを目撃した。
在日米軍基地へ連れて行かれて、軍用機に幾度か乗せられた。子供だけで米軍機に乗せられた時、男児の一人が飛行中に開いたドアから転落して死
んだ。
元宮家の子供らも毒針を所持するようになり、浩宮徳仁が東久邇盛厚の子真彦に刺された時、助けようとした皇宮護衛官を東宮侍従が撃ち殺した。
(東宮侍従による殺人)
養蚕所の椅子でぐったりしている東久邇成子と、毒針を持った東久邇盛厚を目撃した。また別の日に、盛厚が鷹司平通と結婚した和子に言い寄ると
ころを目撃した。
(東久邇盛厚による殺人?)
東久邇稔彦と盛厚が二十名くらいの自衛官を率いて、我が家を襲撃して来た。蔵が破られ、竹簡の束や青銅器などが盗まれた。その後、盛厚は皇居
の一隅で宝物をゴミのように焼却した。「誰か、火を消して」と私が叫ぶと、自衛官の一人がそれに小便をかけた。
(東久邇稔彦と盛厚による強盗、宝物の損壊)
曾祖父が皇居へ拉致されて、東久邇盛厚に、残っている宝物を全部渡せと脅迫された。
その時、曾祖父は毒針で胸を刺された。
(東久邇盛厚と信彦による殺人)
六歳> 皇宮護衛官に、撃針銃で、脚を集中的に撃たれた。そのために真っ直ぐ歩行することができなくなって、よくコケるようになった。
自宅で怪我をして、一か月入院した。
(皇宮護衛官による虐待)
東久邇盛厚の命令で自衛隊基地へ連れて行かれて、砒素の注射を打たれて殺されそうになった。両腕に真っ黒い痣ができた。
(東久邇盛厚による殺人未遂)
元宮家の子供らが、私のように外国へ行きたいと言い出して(皇宮護衛官が外遊したいがために、私に海外公務を何度かさせた)、私を毒針で脅迫
して、自衛隊機で英国へ飛んだ。その際、外遊の興奮が高じた男児の一人が、英国人に向って発砲した。
(英国で、元皇族の子供による発砲)
米国政府による調査のため、米国本土へ連れて行かれた。体中、針痕と痣だらけの私は女性調査官から同情されたが、一緒に付いて来た皇宮護衛官
がサリン弾を携帯していて、それを私の命令だと言って噴射したために、私が米兵に殴られた。
(米国で、皇宮護衛官のサリン使用)
七歳> 女官と一緒に後宮に入れられて、宿直をさせられた。三笠宮寛仁に追いかけ回されたあげく、女官の一人に睡眠薬を注射されて、男の職員に下着姿
の写真を撮られた。
(寛仁による淫行)
皇太子明仁と武官に自白剤を打たれて、血縁者について詰問された。その後、親族だけでなく、まったく無関係な者にまで肝炎ウイルスをばら撒か
れて、幾人かが死んだ。
(明仁と皇宮護衛官による病原菌のばら撒き)
自宅前で密偵に襲われて、青酸カリの丸薬を飲まされそうになった。別の時、玄関から奥へ走り込んだ密偵に、台所にいた母が毒針で刺されて倒れ
た。父は玄関に正座させられて、青酸カリを唇に塗られ、嘔吐し、倒れ、救急車で運ばれた。
(裕仁と東久邇盛厚による殺人未遂)
密偵が落して行った青酸カリの丸薬を、裁判所へ持って行った。私は「毒だと思うから、調べて。」と言って差し出したが、窓口の男はそれを指に
付けて、舐めた。(警察官や検察官などは毒も麻薬も微量を舐めて調べる慣習だった。)結局、騒ぎになっただけで、私の行動は無益だった。
授業中の教室に(小学校)密偵が侵入し、私は麻酔薬を注射された上で、青酸カリを塗った針で刺された。
勲章授与の際、お辞儀をした頭の上に、液体サリンを落とされた。その後、勲章は硫酸か何かが掛けられてボロボロになったものが自宅の玄関前に
捨てられていた。(しばらく仕舞っておいたが、高校を卒業する頃に物置から出てきたので、ゴミと一緒に捨てた。)
八歳> 自動車好きの叔父が交通事故で片目を失明した。
叔母の一人が早産をして、脳性麻痺の男児が生まれた。
この叔母の弟が、警察道場で柔道の稽古中に脳震とうを起して、死んだ。
別の伯父の一人が私を連れて先祖の墓参りに行ったところ、数人の自衛官にサリンで襲われて、印璽の一つが盗まれた。
十歳> 夜中に密偵四名が勝手口から侵入し、私が目覚めた時には母と弟はすでに土間で倒れており、父は台所の板間に座らされて、頭に毒針を何度も刺さ
れていた。私は電話がある玄関のほうへ逃げようとしたが、すぐに捉まって、青酸カリの針で脚を刺された。悲鳴をあげると、麻酔薬を注射された。
麻酔が切れる前に電話を掛けなければならなかったが、受話器を取っただけで、絶叫とともに玄関のたたきに転げ落ちた。
父は、その後も深夜に帰宅する際に襲われて、しばらく目がよく見えないと言っていた。
(自衛官による殺人)
十一歳> 父が脳出血で死んだ。(父は、死ぬ数日前に、伯父に付き添われて町の病院へ精密検査に行ったが、日帰りができないため、病院近くにある宿泊所
に泊った。これを、父の死後、戸籍原本に「親密にしていた女の手で世話をされながら死んだ」というように記載された。)
東久邇盛厚に拉致されて毒針で胸を刺された曾祖父が、肺癌で死んだ。
自動車をよけようとして自転車ごと倒れて怪我をした祖父が、そのまま寝たきりになって、死んだ。
十二歳> 白い菓子箱のような物に入った注射器が一本、宮内庁から曾祖父の家へ届けられた。その数日後、溶液が半分くらいに減った注射器が、私の家の前
に捨ててあった。
子供だけで留守番をしていた時、密偵に窓をこじ開けられて、サリン弾を投げ込まれた。盲目になって外に逃げ出すと、青酸カリを塗った針で刺さ
れた。家の外壁を実弾銃で撃たれた。壁に穴が開いた。
皇宮護衛官によって皇居へ拉致され、寝殿の布団の上で、天皇裕仁と侍医に淫行された。
(裕仁と侍医による淫行)
十三歳> 皇宮護衛官に睡眠薬を注射されて皇居へ拉致され、意識が無いうちに丸裸にされて、寝殿の布団の上に寝かされた。さらに下腹部に麻酔薬を二本注
射されて、下半身が麻痺したところを、自ら勃起剤を注射した天皇裕仁に不完全ながらも強姦された。挿入が困難だったので、裕仁の侍従が私の尻
に女性ホルモン剤らしいものを注射して、「女の潤滑液を出せ。」と言った。裕仁は途中で精液を漏らしてしまった。その後、丸裸の私を裕仁が抱
っこしている図を写真に撮られた。
(裕仁による強姦、傷害。侍従と護衛官による強姦幇助)
改めて女官らの手によって白い祭祀用の着物を着せられ、布団の上に仰向けで寝かされた。正装した神官が祝詞をあげる中で、着物の裾をまくり上
げられて性器を露わにした私の上に、同じ白い着物を着た裕仁が載って来て、もはや萎縮した男性器を私の性器に擦り付けた。麻酔が切れてきたた
めに性器がひりひり焼けるように痛くて、泣き出すと、傍にいた武官が「歓びの涙」だと言った。侍従は相撲の行司のように扇子を振りながら、
「八卦よい、八卦よい。」と掛け声をあげていた。宮内庁はこの行為をこの国の宮中祭祀とした。そして、私が妊娠しないように、さらにホルモン
剤を卵巣の辺りに打ったので、始まったばかりの月経が、この後五ヶ月間止まった。
性的不能になった天皇裕仁が腹を立てて、私を皇宮護衛官の一人に下賜すると言ったために、弛緩剤を打たれて、その男に強姦された。事後、男は
スポイトのような物を私の膣内に入れて、精液を抜き取り、消毒液らしいものを噴射した。
(皇宮護衛官による強姦)
<松井冬子の画>
しばらく後、また皇居へ拉致されて、以前に監禁されたことがあるコンクリート部屋へ連れて行かれた。正面の壁の、片隅に寄った位置に、殺され
た父の写真が額に入れて掛けられており、その写真の前で、私がすでに凌辱されて処女ではないことを報告せよ、と皇宮護衛官に言われた。
鷹司和子に、伊勢神宮の祭主にしろと脅迫されて、実弾銃を発砲された。
バケツ一杯の水銀に浸った小魚が、自宅に届けられた。
十四歳> 東久邇信彦に命令された皇宮護衛官に、母の目前で泣き叫びながら捉えられて、皇居へ拉致され、信彦に強姦された。その後、半裸のままで屋外に
連れ出されて、虐待写真を撮られたあげく、再び何者かに強姦されて、腫れ上がった性器から精液が垂れている図を写真に撮られた。家に帰された
時、皇宮護衛官は下着を吐いていない私のスカートをめくって、強姦された性器を、母に見せた。
(信彦による強姦、皇宮護衛官による強姦幇助と虐待)
中学の修学旅行で警察庁を見学に行った時、警察官に、制服のスカートの尻に麻酔薬のような液体を掛けられた。
(警察庁警官による暴行)
修学旅行から帰った後、改めて宮内庁へ拉致された。「そんなに(宝物が)見たければ連れて行ってやる。」と言われて、宮内庁宝物館へ連れて行
かれ、館内の奥の暗がりで、皇宮護衛官が私の尻に麻酔薬を注射し、老年の宝物館職員が制服のスカートをめくって、下着を膝の高さまで下ろした。
足がもつれて床に倒れると、年寄りは下着を掴んで脱がした。私はそのまま正門まで走って助けを求めた。宝物館の男は脱がした下着を前庭に投げ
捨てた。
(宝物館職員による淫行)
中学の体育用のショートパンツ姿で自宅にいたところ、皇宮護衛官に睡眠薬の注射で襲われて、皇居へ拉致された。一晩、意識が無く倒れていたが、
翌日になって、ふらふら廊下へ出たところを宮内庁職員に捉まり、丁度その時、誰かが記者会見をしていた部屋に入れられた。白人記者や韓国およ
び北朝鮮の記者に包囲されて、「どうやって、ここに連れて来られたのか?」と執拗に質問された。
(北朝鮮による日本人拉致事件に関係する事項)
十七歳> 自宅で皇宮護衛官に青酸カリと睡眠薬で襲われて、皇居へ拉致され、後宮の女官らによって売春婦が着るような卑猥な下着に次々と着せ替えられて、
写真を撮られた。そこへ、もはや勃起不能になった天皇裕仁が現れて、私に抱き付いてきたため、それを見た女らが、今度は私にその年寄りを抱い
てやれ、と囃し立てた。結局、私は媚薬を嗅がせられて、裕仁と猿のように抱き合っている図を写真に撮られた。一週間ほど監禁されていたが、よ
うやく解放された時、見張りの皇宮護衛官が「よくやった。」と私に声を掛けた。
(裕仁と女官らによる虐待)
高校の授業中に皇宮護衛官が襲って来て、教室内にサリンを撒いた。廊下へ逃げ出したところを、別の護衛官に麻酔銃で撃たれた。
十八歳> 桂宮宜仁が数名の皇宮護衛官を率いて、サリンと実弾銃で襲って来た。天皇裕仁は私をまず最初は皇宮護衛官に、それから明仁、寛仁、宜仁の順に
次々と下賜すると言ったのだったが、明仁と寛仁は辞退し、独身の宜仁だけが強行しようとした。しかし、もはや成長していた私が激しく抵抗した
ので強姦は未遂に終り、そのせいで、宜仁は私に「汚された」と周囲にふれて騒いだ。私の自宅まで襲って来たのはその報復だった。宜仁は数発、
発砲したが、すぐに地元警察のパトカーが来たので、逃げて行った。
(宜仁によるサリンと銃器を使った襲撃)
二十一歳> 夜8時頃、徒歩で帰宅する途中を、皇宮護衛官に神経薬の注射で襲われて、車に押し込められ、皇居へ拉致された。東久邇信彦と竹田恒和に覚醒
剤を打たれて強姦された。信彦は青酸カリを塗った針で私を何度も刺して、脅迫した。その後、在日韓国人記者と称する男2名に引き渡された。
(北朝鮮による日本人拉致事件、北朝鮮工作員による大韓航空機爆破事件に関係する事項)
二十二歳> 職場に皇宮護衛官が押し入って来て、サリン弾を投げられ、青酸カリを塗った針で刺された。地元警察へ通報したが、侵入したのが警察庁の警察
官なので、私のほうが何かやったのかと疑われた。
(北朝鮮による日本人拉致事件、北朝鮮工作員による大韓航空機爆破事件に関係する事項)
二十四歳> 親族の家で、伊勢神宮に関係する銅鏡が数点、発見された。
阿多羅しい古事記・index
本当のあらすじ・続き:4-4dd
本当のあらすじ/Arakida/光格天皇子孫荒木田神家姫神祭祀継承者・荒木田真由美
<転載終了>
それを書いた記事に、8番のようなコメントのチョン・・とか書くのは、間違いなく日本人ではないな。
普通の日本人は言わないもんね。