阿多羅しき古事記さんのサイトより
http://www.geocities.jp/arakida_1/newpage4-4dd.html
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<転載開始>
1996年> 「倭国王の宝物」のうち、未だ我が家に残されていた数点が、紛失した。警察庁へ連絡して、無事だった「親魏倭王」金
印を東京国立博物館へ寄託した。
1998年> 宮内庁から要請があって皇居へ出向くと、皇太子妃雅子と東宮大夫から、宮中祭祀を行いたいので私の宝物を借用したい
と言われた。しかし、「レプリカを使って欲しい。」と答えて、断った。
宮内庁から要請があったので迎えの車に乗ったが、皇居に着くと別の車に乗り換えさせられて、その車中で、高円宮憲仁
からスカッシュに誘われた。ところが、カナダ大使館のスカッシュ場で、憲仁とこれに従属する男性宮内庁職員が筋肉増
強剤を使用し、その上、憲仁が私の脛にも注射針を刺した。途端に目眩がして、傍にいたカナダ人と思われる男性に助け
を求めると、怒った憲仁が私の足下へ向けて護身用銃を発砲した。憲仁は使用済みの注射器をその場に捨てて宮内庁職員
とともに逃げ去り、ひとり残された私はカナダ側に事情聴取された。
(熊のメモ・4-1a)
自宅で、高円宮職員に神経性薬剤の注射器で襲われて、高円宮邸へ拉致された。同邸で二日間ほど、さらに別邸に移され
て四日間ほど監禁され、その間に、憲仁に覚醒剤を注射されて、強姦された。私は薬剤が体から抜けるのを待って、夜中
に部屋を脱出し、階段を駆け下りて警報機を鳴らし、電話で警視庁へ救助を求めた。すぐにパトカー数台が来たが、宮内
庁からも鎌倉節長官らが駆け付けて来て、私は監禁されていた建物から救出されたものの自宅へは帰されず、下着一枚の
ままで宮内庁舎へ移動させられて、そこでまた覚醒剤を注射された。私が麻薬常習者で、憲仁と性関係を持ちたくて自ら
の意思で来たのだ、と警視庁に言えと脅迫された。
(熊のメモ・4-1aa)
数週間後、再び高円宮職員に薬剤銃で撃たれて高円宮へ拉致され、丸裸でエプロン一枚を付けさせられた格好で厨房に監
禁された。また、それを映像に撮られて脅迫された。
その後、数日間にわたり、皇宮護衛官に神経性薬剤の注射針を刺されながら、憲仁の侍女(妾)として連れ廻された。
(女が逃げられないように全裸にして監禁する方法も卑劣極まりないが、卑猥な下着を着せたり、エプロンを付けさせる
というのは、明らかに変質者の発想である。その他にも、小部屋に監禁されていた時、ベッドに左右の手を縛られそうに
なった。私が暴れたので紐の結び目はかなり緩んだが、最終的には片足をベッドの脚に縛られた。)
盗まれた宝物が、硫酸のような薬品を掛けられて、自宅の庭に放置されていた。
宮内庁へ連絡して、修復作業が始まった。
1999年> 自宅前で、東宮職員に神経性ガスを嗅がされて、視野の半分くらいが見えない状態のまま、皇太子妃雅子が執行する祭祀
に立ち合わされた。
宮内庁に、「治安が非常に悪いので、東京国立博物館に寄託してある宝物を皇居に移したい。」と申し出た。
「親魏倭王」金印を東京国立博物館へ寄贈した。
「漢委国王」金印を東京国立博物館へ寄贈した。
米軍基地へ連行され、皇太子妃雅子の状況や皇室典範改正などについて訊かれた。
(愛子が生まれる。)
2002年> 皇太子妃雅子が記者会見で、私が「女性天皇」に賛成していると発言した。私がその場で否定すると、出席者全員が会見
場から退出させられて、ただ一人残された私は雅子から前言を取り消すよう脅迫された。が、これも拒否すると、雅子は
私に向けて護身用の実弾銃を発砲した。ドアのほうへ逃げると、背後でも銃声がした。(二十メートル以上離れていたが
コンクリート壁に数発の穴が開いた。)
その後、廊下へ逃げたところを、東宮侍従二名に麻酔銃で撃たれて、東宮御所へ拉致された。
東宮御所の一室で、再び雅子に、実弾銃で三十発以上、薬剤銃で三十発以上を、撃たれた。(雅子は私の背後の壁が穴だ
らけになったので、途中で実弾から薬剤銃に替えた。その薬剤銃で、テーブルの下から向い側の椅子に座っている私の脚
を狙って撃ったが、それでも私が何度も逃げようとするので、次には上半身を狙い、最終的には頭や顔も撃った。)
雅子は何処からか何種類かの麻薬を持って来て、手当たり次第にやり始めた。そのうち麻薬の過量摂取によるものか、ふ
らふら倒れ込んだが、しかし、私は解放されず、侍女らに抱えられて部屋を出て行った雅子がしばらくするとまた戻って
来て、今度は神経性薬剤が入った注射器を私に向けて投げた。(注射器は最初六、七本あり、雅子はそれを自分の飼い犬
に片っ端から打って行ったのだが、そのうちの余った一本を私に投げ付けたわけだ。)私のほうはすでにサリンと麻薬の
煙を吸い込んでいたので、これを避けられず、注射器は私の胸に深く突き刺さった。私は気絶し、やがて時間の経過とと
もに意識がぼんやり戻って来ると、今度は女性東宮職員にサリンを嗅がされて盲目にされ、阿片を舐めさせられ、倒れ、
最後は雅子に「大麻の種」をズボンのポケットにねじ込まれた。
(大麻の種は帰送車に乗る直前に気が付いて、ポケットから出して捨てた。)
(熊のメモ・4-2a)
東宮御所に監禁されている間に、池田礼子が部屋に入って来た。私は礼子に、雅子によって監禁されているのだと説明し
たが、雅子が礼子に薬剤銃を渡すと、礼子はその銃で私を撃った。
また、監禁されていた部屋に高円宮妃久子が現れて、私は久子に連れられて一旦外へ出されたが、都内の飲食店で昼食を
とっていた時、久子がサリン弾を私の足下に放ったので、警視庁のパトカーが出動する騒ぎになった。久子と高円宮職員
は車で逃走しようとしたが、私を置いたまま去るわけにも行かず、結局、また私は久子の車に押し込められて東宮御所へ
戻された。
雅子は、戻された私を東宮御所から帰宅させるのはマズイと考えたのか、その後、私を秋篠宮へ廻した。
秋篠宮では、宮内庁舎へ戻してくれと私が言うと、その通りになった。
宮内庁で、私が雅子と久子に麻薬やサリンを使われたと訴えていると、案の定、久子が後を追って来て、庁舎内で発砲し
て、私を高円宮へ拉致した。高円宮の一室に監禁されて、久子に薬剤銃で撃たれた。半裸にされて、同じく半裸の男(皇
宮護衛官か?)が私の上に被さって来たところを、写真を撮られた。青酸カリを塗った針で刺されて、サリンについて口
外するなと脅迫された。
別の日、自宅で皇宮護衛官に神経性薬剤を注射されて皇居へ拉致された後、小和田恒にサリンを噴き掛けられて盲目にさ
れ、雅子の発砲について口外するなと脅迫された。そして、小和田は私の記憶を消すつもりだったのだろう、神経性薬剤
の注射を打たれた。
また別の日、自宅で皇宮護衛官に薬剤銃で撃たれて皇居へ拉致された後、三笠宮妃百合子、信子、久子の三人に連れ廻さ
れた。屋外で、久子に薬剤銃で撃たれた。百合子に、食事に砒素を盛られた。
また別の日、皇宮護衛官に神経性薬剤を注射されて皇居へ拉致された後、意識が無い間に布団の上で丸裸にされて、さら
に神経性薬剤の注射を打たれて動けなくなったところを、天皇明仁に強姦された。「お前も病気だろう。うつしたら殺し
てやる。」と私が叫ぶと、明仁は膣外射精した。
事後、私が布団に付着している精液を確認していると、明仁の侍従がその精液を指に付けて、私の口に塗った。私が唾を
吐くと、再び皇宮護衛官が神経性薬剤の注射器を私の脚に突き刺して、侍従が(精液が付いたままの)指を私の膣内に入
れた。
明仁による強姦の後、皇太子徳仁も白い着物を着て、片手で股間を押さえながら走って来たので、私はコレにも強姦され
たと思うのだが、護衛官に打たれた神経性薬剤のせいで、この時の記憶がまるっきり無い。
(徳仁が股間を押さえていたのは性ホルモン剤を注射したからだろう。)
(熊のメモ・4-4b)
東宮女官長木幡清子に神経性薬剤の注射を打たれて、記憶を消されそうになった。理由は、皇太子妃雅子の拉致銃撃の件
もあったが、女官長自身が宮内庁の囲われ者で、庁舎内に豪奢な部屋を与えられ、そこで複数の男と関係を持っているこ
とを私に知られたからだ。
三笠宮寛仁が、自宅に押し入って来た。玄関の鍵は掛けてあったが、以前、私が皇居に監禁された時、皇宮護衛官に鍵を
取り上げられたままになっていたので、その鍵で開けられて、寛仁が土足で上がって来た。(この時、宮内庁職員が車に
避妊具があると言って取りに行ったので、私は寛仁に強姦されただろうと思うが、神経性薬剤のせいで記憶が無い。)
自宅で、自衛官に襲われて、自衛隊基地へ拉致された。後に収賄罪で逮捕された防衛庁事務次官の守屋武昌の命令で、私
は自衛官に神経性薬剤を注射されて、一時的に記憶を消された。帰宅後、丸二日間、酔っ払ったように朦朧としていた。
高円宮憲仁が心不全で死んだ。(覚醒剤の過剰摂取)
2003年> 皇太子妃雅子が「帯状疱疹」に罹患している、と宮内庁が発表した。
(自分の飼い犬が老衰で死んだのを機に転居した。)
2004年> 東宮女官長木幡清子が私の職場に現れた。(目的は不明。私への用件も不明)
皇太子妃雅子が「適応障害」である、と宮内庁が発表した。
皇太子妃雅子が私の職場へ押し掛けて来た。公務に復帰したいので協力してくれと頼まれたが、断った。
「適応障害と言うのだから、医者に訊いたらどうか。」と言ってやった。
皇太子妃雅子が、飼い犬を連れて私の職場に来た。
雅子は犬をその場に置き去りにして、自分だけが車に乗り込んでしまった。皇宮護衛官が犬を連れて行った。
(熊のメモ・4-2b)
宮内庁へ電話で苦情を言った。皇太子妃雅子が私の職場へ何度も来るが、雅子は過去に私に対して監禁虐待した加害者で
ある、病気で責任が取れないと言うのだから、宮内庁がその行動を管理して欲しい、と私は言ったが、宮内庁の返事は
「雅子さまはご自由でございます。」というものだった。
小和田恒と優美子が私の職場へ来た。
その直後に皇太子妃雅子も現れて、双方が待ち合わせていたことが判明した。
皇太子妃雅子が、夫の徳仁を連れて私の職場へ来た。
皇太子妃雅子と夫の徳仁が、愛子を連れて私の職場へ来た。
2005年> 欧州王族が私の職場へ来た。(目的および私への用件は不明)
2006年> (悠仁が生まれる。)
敬宮愛子が、欧州王族の王女と一緒に私の職場へ来て、護身用銃を発砲した。
2007年> 高円宮承子が、英国青年と一緒に私の職場へ来た。承子が私に向けて護身用銃を発砲した。(威嚇?)
(熊のメモ・4-1d)
皇太子妃雅子が突然、私の職場に走り込んで来て、一般人もいる屋内で実弾銃を発砲した。
2008年> 日本テレビの社員と称する男二名に拉致され、神経性ガスを噴き掛けられて半分盲目の状態で、記者会見のような真似を
させられた。後に、それを悪質に編集した映像をテレビで放映された。TBSでも無断放映された。
2011年> (東日本大震災、福島第一原子力発電所が爆発)
皇太子妃雅子が侍女の一団とともに来て、車で帰宅した私に向けて、薬剤銃を発砲した。
2012年> 三笠宮寛仁が癌で死んだ。(敗血症・HIV)
2013年> 鎌倉節と羽毛田信吾が訪ねて来た。(目的および用件は不明)
小和田恒と優美子が訪ねて来た。自民党政権に替わったからだろう、雅子の公務復帰を邪魔するなと言った。
英国王族が来て、私に神経性ガスを噴き掛けた。
池田礼子が来て、私に神経性ガスを噴き掛けた。
欧州王族が何人か押し掛けて来た。
そのうち二回は室内にまで侵入され、一回は留守中に室内に神経性ガスが撒かれていた。
皇太子妃雅子が皇宮護衛官を連れてやって来たので、写真を撮ってやろうと思って、カメラを持って外へ走って出ると
護衛官が私に向けて薬剤銃を撃った。それから、護衛官は私がカメラを持っているのに気が付くと、撃った銃を捨てた。
高円宮典子が千家国麿と一緒に来て、近々婚約する、と言った。
また、別の日、三笠宮彬子が来た。(目的は不明。用件の有無も不明)
元自衛官と称する男二名が別々に来て、憲法改正に反対するなと言って
神経性ガスを噴き掛けた。
2014年> 桂宮宜仁が敗血症で死んだ。
阿多羅しい古事記・index
熊のメモ・4-5a
本当のあらすじ・続き/Arakida/光格天皇子孫荒木田神家姫神祭祀継承者・荒木田真由美
<転載終了>
金印所持してたのは黒田家で、黒田茂子さんが寄贈となっていて、年代が違うんですよね。黒田さん自身なら、死去してるし。
だいたい、サリンや青酸カリ、ヒ素がやたらに出てくるが、サリンも触っただけで、空気中にあるだけでも神経麻痺などする、青酸カリなんか舐めただけで死ぬ。皇室をおとしめるためだね。蜂谷真由美みたいな名前。