社会科学者の随想さんのサイトより
http://blog.livedoor.jp/bbgmgt/archives/1062708342.html
<転載開始>
【官許的な学問展開の特徴と限界,そして根本からの疑問】

 【日本帝国の過去:行跡に関する意図的な可視と暗黙の不可視】

 〔※ 断わり〕 本記述は,旧ブログ2009年12月1日の再掲である。必要に応じて補正をほどこし,相当の分量になる加筆をおこなってもいる。


 ① 伊藤之雄『伊藤博文-近代日本を創った男-』2009年11月

 最近(2009年中のこと),伊藤之雄『伊藤博文-近代日本を創った男-』(講談社,2009年11月発行〔下の左側画像〕,講談社学術文庫では2015年3月発行〔下の右側画像〕)を読みおえ,本書に関して筆者なりに疑問を抱いたことを何点か,この記述をもって議論してみることにした。本書『伊藤博文-近代日本を創った男-』は,京都大学で政治学を講じる学究の著作である。例によって,この本の宣伝をのぞいてみると,つぎのように書かれている。
    伊藤之雄伊藤博文表紙伊藤之雄『伊藤博文』講談社学術文庫表紙画像
 伊藤之雄[イトウ・ユキオ]は,1952年福井県生まれ,京都大学文学部史学科卒業,同大学大学院文学研究科修了,博士(文学)。名古屋大学文学部助教授等を経て,京都大学大学院法学研究科教授。1995~97年,ハーヴァード大学イェンチン研究所・同ライシャ伊藤之雄画像ワー日本研究所で研究,専攻は近・現代日本政治外交史。
 出所)画像は,http://www.city.himeji.lg.jp/koho/press/_28474/_29407/_29624.html 

 本書『伊藤博文』は「倒幕,廃藩置県,岩倉使節団,西南戦争,初代内閣総理大臣,条約改正,日清戦争,日露戦争,初代韓国総監,そして暗殺―「憲法政治」実現に懸けた伊藤博文の全生涯」を描く内容である。本書はB6版だが,606頁もの分量があるので,読みでがある。

 主要目次はつぎのようである。章の題名は省略した。「第何部」というところについている各題名で,そのおおよそを推察してもらいたい。

  第1部 青春編-第1章・第2章・第3章
  第2部 飛翔編-第4章・第5章・第6章
  第3部 熱闘編-第7章・第8章・第9章・第10章・第11章
  第4部 円熟編-第12章・第13章・第14章・第15章・第16章
  第5部 斜陽編-第17章・第18章・第19章・第20章・第21章
  第6部 老境編-第22章・第23章・第24章
      伊藤博文と日本・東アジア-おわりに
      あとがき 主要参考文献 人名索引

 本ブログの筆者は,以上の内容に対して全体的に論評するつもりはなく,またそのための充分な力量にも欠けるので,あくまで関心のある範囲内でいくつかの論点に,自由に言及するだけである。

 ② 伊藤之雄『伊藤博文』の問題点

 本書は最終章,第24章「暗殺」のなかで伊藤博文の葬儀に触れ,こう記述している。「ところが〔1909年〕11月4日は,朝から雲が低くたれ込め,物寂しく風が吹き,天も伊藤の死を悲しんでいるようであった」(575頁)。この段落を読んだ筆者はただちにこう感じた。学術書としてはいささか違和感のある,感情移入のいじるしい論及をしている,と。

 ドキュメント・タッチあるいは小説でも書いていたかのように,しかもその方面で活躍する筆者なり作家なりが,そのような文章を残したのであるならば,まだ理解できる余地もある。けれども,多少ではあっても明確に感じたのは,「京都大学法学部で政治学を専攻する教員」が書くような文体,それも学術書のなかでのものとしては,どうも似つかわしくない一節である,ということであった。その段落を読んだ瞬間,すぐに感じた正直な印象として,そのように受けとめた。

 要は,「伊藤博文=明治を創った偉人に絶対間違いない」という《基本前提・先験的規定》があるかのようにも受けとれる「伊藤之雄の筆致」,いいかえれば,その執筆の方針がホノカではあっても,『伊藤博文-近代日本を創った男-』においてはどうしても「かいまみえている」かのように感じた。

 本記述を初めにおこなったのは,2009年12月1日であったが,翌年1月10日『朝日新聞』朝刊に書評が掲載されていた。画像資料で紹介する。赤枠で囲んだ評者の井上寿一の文句は,次段に出した表現「謎」という修辞でもって,伊藤之雄のこの著作に強い疑念を提示していた。(画面 クリックで 拡大・可)
伊藤之雄書評朝日新聞2010年1月10日

 ③ 本ブログ筆者の抱いた疑問数件

 1) 伊藤博文とグラバーとの交際
 本書『伊藤博文』は,末尾「人名索引」において,3箇所の頁に「グラバー」が出ていること指示している。ところが,この本の最後部「伊藤博文と日本・東アジア-おわりに」という箇所においてもさらに1箇所,その「人名索引:グラバー」には指示されていないのだが,この「グラバー」の名が出ている(→581頁)。この箇所は,伊藤博文の「密航による約半年のロンドン滞在」など,海外渡航の体験に言及した段落である。

 本書の「あとがき」(592頁)を読むと,筆者伊藤之雄は「手書き原稿」で本書の原稿を用意・入稿していたことが分かる。しかし,索引作成という作業に関してパソコンが使用できる時代であることを配慮すると,なにゆえ「グラバー」が前段の1箇所でのみ,索引に指示されない結果(かたち)になったのか,本ブログの筆者にとっては,もうひとつ理解に苦しむ点であった。

 伊藤之雄は,伊藤博文が敢行した約半年の密航話に関しては,あまりくわしく論述していない。グラバーが手助けをしなければ,伊藤博文〔など〕は密航のかたちで,イギリスに当初3年間もの予定でいけるわけがなかった(実際は,先述のように日本国内の政情不安をしった伊藤博文は半年で,その「留学」を切りあげて帰ってきた)。

 伊藤博文の「密航によるイギリス留学」については,こういう事情があった。
    幕末の1863〔文久3〕年,長州藩の井上聞多(馨),伊藤俊輔(博文)ら5名は,国禁を犯してイギリスへ密航留学した。この留学を伊藤らにすすめ,手助けをしたのは,そのトーマス・グラバーであった。文久3年(1863)グラバーは,長州出身の5名の若者が横浜から英国へ向けて密出国するのに手を貸した。

 その中には,後に4期に亘って首相を務める伊藤博文の初々しい姿も。その若い侍たちは,実際に日本近代化の尖兵となり,政財界及び社交界のリーダーとして活躍した。たとえどの道に進もうとも,またどのような成功を収めても,誰1人として,長崎のスコットランド人商人から受けた恩を忘れる者はいなかったであろう(ブライアン・バークガフニ,平 幸雪訳『花と霜-グラバー家の人々-』長崎文献社,平成1年,31頁,32頁)。
 グラバーは「明治政府最大の実力者となった伊藤博文とは,終生,親交をむすんでいた。そうした人材開発とともに,トーマスは日本に近代産業の種もまいた」のである。東京「の家に生活の本拠を移したトーマス」「の自宅への来客も多かった。相変わらず伊藤博文が役所の帰りに気軽に立ち寄ったし,日銀総裁に就任していた岩崎弥之助も時折顔を見せた。以前よく出入りしていた陸奥宗光は・・・」(多田茂治『グラバー家の最期-日英のはざまで-』葦書房,1991年,8頁,9頁,134-135頁)。(画面 クリックで 拡大・可)
トーマス・グラバー画像
出所)写真はトーマス・グラバー,
http://www.nippon.com/ja/column/g00276/

 グラバーと伊藤博文とのこのような「公私にわたって」の,それも長期間においてかわらなかった〈きわめて緊密な交際〉を,政治学者である伊藤之雄が伊藤博文の生涯を研究する著作のなかでほとんど触れないのは,不注意でないとするならば,いささかならず奇妙にさえ感じる。後日においてグラバーが明治政府より「勲二等旭日章を授賞された経緯」は,必ずしも異例とは思えないほど〈彼らの仲がよかった〉事実を物語っている。

 ともかく伊藤博文は,欧米への見聞を重ねていく体験をとおして,明治期日本の政治経済の舵取りを的確に采配できるようになった人物である。伊藤之雄は「伊藤〔博文〕は小銃・船の購入のため長崎に滞在中,イギリス商人グラバーから,薩摩がイギリス公使パークスを鹿児島に招待し,薩英会盟をしようとしていると聞いた」と記述している(伊藤之雄『伊藤博文』53頁。〔 〕内補足は筆者)。

 「幕末→維新の動乱過程」においてグラバーが,日本に対していかなる影響を与えてきたかをしる政治学者ならば,明治政治史における伊藤博文をとりあげ論じるに当たっては,伊藤博文とグラバーとのただならぬほどに親密な交流を,それ相応に重点を置いて考察していてもおかしくなかったはずである。

 伊藤之雄は,「剛凌強直(ごうりょうこうちょく:強くきびしく正直)」な伊藤博文の人柄・性格は,「イギリスへの密航で辛苦も味わったり等の経験を経て,教化されたと思われる」(同書,587頁)。さらには「主に物質面に表れたロンドンを見て」「西欧の外交上の慣行も徐々に身につけていった」(52頁)ものとして,伊藤博文の資質が形成・獲得されたと強調している。

 それにもかかわらず伊藤之雄は,明治期における実力者伊藤博文がまだ若いころにイギリスに留学〔密出国〕させる手助けをしたグラバーに対して,明治末期の1908〔明治41〕年,明治政府が「〈外国人としては異例〉の勲二等旭日章」を授与した歴史的な含意に,あえて触れない論究で済ませている。なお,伊藤博文は,明治期において第4次の内閣までを組んだ実力政治家であった。

 伊藤『伊藤博文』は大部な著作であるから,以上に指摘したような論点が「前面に出てこない」という同書の構成=執筆の方法に対して,一定の疑問が生じてもけっしておかしくない。

 2) 閔妃虐殺事件の論及方法
 1895年10月8日早朝,ソウル郊外に幽閉中だった大院君〔朝鮮王妃の義父〕をかつぎ出して王宮に押し入った日本人たちが,朝鮮国王夫妻〔高宗夫妻〕の住む乾清宮に乱入した。その侵入者たちは,宮女を斬りつけながら王妃の閔妃を殺害したうえ,その屍体を辱めて燃やしまうというきわめて異様な残虐な事件を起こした。隣国王室三浦梧楼画像の王妃に対する,このような極悪非道の乱暴狼藉を働いた殺害事件を黒幕として指揮したのは,当時において日本帝国「朝鮮公使の三浦梧楼」(1847-1926年)であった。
 出所)右側画像は三浦梧楼(ごろう),http://ktymtskz.my.coocan.jp/meiji/m16.htm

 伊藤之雄『伊藤博文』は,自著別作『立憲国家と確立と伊藤博文-外交と内政 1898〜1905-』(木鐸社,2000年)の関連箇所も示してながら,この事件を大院君がわのクーデタだと記述している。この解釈がはたして,いかほど妥当性があるかは,大きく対立する異論もあることを断わっておく。と同時に「明成皇后〔閔妃〕殺害事件から13日後,伊藤首相は事件についての上奏意見書を書いている。そこでは,三浦公使以下の犯罪を『証拠顕然』と認め,列強から朝鮮の独立を無視するものであるとの非難を受けないことが必要だ,と論じた」などと記述しつつ,「伊藤が事前に事件に関わっていないことを証明している」と記述してもいる(伊藤『伊藤博文』360頁。〔 〕内補足は筆者)。

 もっとも,事件を企画した三浦悟楼や実行犯たちの日本人〔壮士!〕たちは,日本に帰国後開廷された裁判を受けたものの,結局微罪あつかいされ,のちに釈放された。おまけに民衆の反応は,犯人たちは「よくやった」というものであった。しかも,伊藤博文をもっとも重用した明治天皇が,王妃閔氏の惨殺事件を聞かされたときに,侍従に向かって残したのが,三浦悟楼は「遣る時には遣るナと云ふお言葉であった」(小谷保太郎編『観樹将軍回顧録』政教社,大正14年,346頁)。

 前段のように「閔妃虐殺事件」という国際的重大事件の首謀者は,当時朝鮮全権公使を務めていた日本帝国陸軍中将予備役・子爵の三浦悟楼であったわけである。だが,その後においてこの人物など事件の関係者をどうあつかうべきかということがらを,伊藤博文がさらにとりあげたり問題化したりしたという記録があったかどうか,筆者は寡聞にしてしらない。

 伊藤之雄は,以上にかかわる当時の事情をめぐっては,政府首脳としての伊藤博文の示した対応,たとえば「伊藤首相は事件について,列強の国際スタンダードを外れていると怒った」(伊藤『伊藤博文』362頁)と言及している。しかしながら,明治天皇がそのように発言したことを伊藤がしっていたかどうか,さらには重大問題として「閔妃虐殺事件」をさらに深刻に追及したかどうか,というような論点=問題意識とは離れた地平で,伊藤之雄は論及するに留まっている。

 閔妃虐殺事件が起きた当時,それまで4度も首相を務めたことのある実力政治家「伊藤博文のその対応姿勢」にかかわる論及が,伊藤之雄『伊藤博文』においては,その程度で済まされると判断できたのであれば,本ブログの筆者による「以上のような指摘」は無用である。しかし,伊藤博文が閔妃虐殺事件について「列強の国際スタンダードを外れている」といって怒ったさい,彼の発露した国際外交的な感覚が問題である。つまり,その怒りを表現すべきそのスタンダードとは「いったいなにを基準に,どのように設定されていたか」という論点が興味を惹くのである。

 いうなれば当時の段階において,列強帝国主義諸国間において共有しうる「そのスタンダード」に適う範囲内でやれること:「帝国主義的な〈侵略の作法〉」として許容できるものならば,なにをやってもよかったということになる。それは,日本帝国が直後,朝鮮をより完全に植民地として支配していく過程において,まさしく伊藤博文が務めていた役割にもかかわるほかない問題であった。

 3) 明治天皇と伊藤博文の親密さ
 伊藤博文は,明治天皇のことを「現代の人物で最も尊敬する人物」であって「天子様じゃ」と答えたという(伊藤『伊藤博文』519頁)。これを,逆方向の関係からの2人としてみると,こう記述されてもいる。

 ◇-1「明治天皇が伊藤を深く信頼していた」(539頁)。

 ◇-2「伊藤は明治天皇の厚い信頼をうけ」ていた(542頁)。

 ◇-3「明治天皇と皇后は,伊藤の生前の勲功を深くほめ,嗣子博邦に公爵を受け継がせるのに先立って,〔行儀見習いとして預かった娘に伊藤が産ませた〕文吉に男爵を授けた」(574頁。〔 〕内補足は筆者)。

 ◇-4 「伊藤や伊藤の考えを理解した明治天皇の尽力で,数度の憲法停止の危機が乗り越えられ,憲法は機能した」(582頁)。

 とくに,旧帝大系の教員たちによる「明治天皇」の研究書にあっては,とりわけおくびにすら出さない論点がある。それは,明治天皇は伊藤博文に対して頭が上がらなかったこと,逆さまにみれば,明治天皇は伊藤博文に完全に抑えこまれていた関係であることである。この論点に関していえば,その点を実証するこの「2人の出自・出身背景の近さ」が秘密として隠されていることに気づく必要がある。

 一説に,明治天皇「睦仁」は,実は孝明天皇の本当の息子ではなく,孝明天皇が死ぬ〔暗殺される(?)〕と,そのすぐ1年あとくらいに実子の睦仁も抹殺されていたのであって,その代わりに明治天皇にすり替わった人物が,南朝系の血筋を引く「大室寅之祐」であるといわれている。この大室寅之祐は,本来の睦仁より2歳年齢が多い人物であり,長州の出身である。伊藤博文はこの大室寅之祐と近い地域の出身である。

 以上の話はとくに,鹿島  曻などが多くの著作のなかで非常に詳細に,それもくどいくらい繰りかえして主張している。この説になんら傾聴の価値がないのであれば,これを全否定すればよいと思われるが,そうすることにはならず,学究側ではいっさい言及しようとすらしない。そこまで徹底的に無視するという対応は,もしかすると「〈藪蛇〉の恐れ」でもあるのか(?),とまで勘繰りたくもなる。

 「北朝系の天皇」であるはずの睦仁:明治天皇が死ぬ直前に,南朝が「正」で北朝が「閏」だといいはり,これを正式に認めさせた。明治神宮に「明治天皇+昭憲皇太后」という夫婦の表記が,これみよがしにあちこちの説明版に,あたかも特筆大書するかのように明記されてもいる。抹殺された「本当の元睦仁」の妻(1849年生まれ,1914〔大正3〕年死亡)は「夫がさきに死ぬ前」のその「さきに夫をなくしていた」という,奇妙な奇天烈な表記になっている。あるいはまた,睦仁の妻:一条美子は先刻承知のうえで,明治天皇〔=大室寅之祐〕と明治天皇夫婦を演じてきたことになる。この妻が幕末→維新期における「皇室内情」をしらないということはありえず,大室天皇とは〈共演の仲〉であったと推理するほかない。
    補注)明治神宮は無理をしてでもつぎのごとき理屈を貫徹している。すなわち,この神宮の祭神は「明治天皇と昭憲皇太后」であるが,明治天皇「夫⇔妻」がなにゆえこのように「夫⇔ 母(?!)」となっているのか,誰でも疑問を抱く。だが明治神宮側の説明によると,大正「天皇より御裁可されたものはたとえ間違っていても変えられない」という理屈になるのだから,奇想天外というか支離滅裂の極致である。
明治神宮案内板画像
出所)http://4travel.jp/travelogue/10899726
(画面 クリックで 拡大・可)

 もっとも,明治神宮の祭神にかかわるこの問題は「明治天皇 × 昭憲皇太后」の関係は事実であり,事実であるがゆえに「間違っていても変えられない」という《超絶の論理》が提供されている。しる人ぞしるのであるが,そこには,明治天皇「睦仁の暗殺(抹殺)⇒すり替え説」が出入りできる扉を,皇室側があえて開閉自由な状態にしてある点を意味している。

 註記)なお「なぜ,昭憲皇后ではなく昭憲皇太后なのですか?」
http://www.meijijingu.or.jp/qa/gosai/12.html を参照されたい。
 以上のような明治「事情」の脚本を書き,総合監督にもなっていたのが,本当のところは伊藤博文。伊藤博文は,明治天皇のそばで平然とそっくりかえるような態度をとれた唯一の人物。大室寅之祐は,伊藤博文に指導されて明治天皇になれた〔というか,その役をやらされてきた〕のである。これが,明治天皇ならぬ大室寅之祐が伊藤博文を「深く信頼せざる」をえなかった,明治時代における「本当の〈背景・事情〉」ではないか?

 こういう推論を一笑に付せるだけの反論を繰りだせる「正統派」の日本政治学者がいない。彼らは,けっして外史・野史・裏史の研究家を無視しているのでも,また相手にしないのでもなく,双方において噛みあうかたちで議論をしかけられたりしたさい,批判的に相互の論争をやりとりする自信がないだけのことである。
    補注)ドナルド・キーンという学者がいる。日本国籍を取得していたが,代表作に,角地幸男訳『明治天皇 上・下巻』(新潮社,2001年)がある。このキーンについてはひとまず推測になるが,睦仁(明治天皇)と,この妻の一条美子との本当の関係をしっていたととらえておく。少なくとも野史・外史・裏史のなかでそうした「秘密が語られてきた事実」をキーンがしらないとは,とうてい考えられないし,その「暗部の歴史」を彼自身なりに研究していないはずがないからである。ただし「研究していても学術的には表現できない」それであったことになる。

 参考資料)2点。(画面 クリックで 拡大・可)
ドナルド・キーン日本経済新聞2011年5月3日記事
出所)http://nandemokou.exblog.jp/15912211/

『日本経済新聞』2011月4月16日夕刊
註記)『日本経済新聞』2011年4月16日夕刊。
 以上の歴史的な論点に関して,もっとも新しい関係文献を挙げておく。久慈 力『安倍晋三を生んだ長州閥,なんたるものぞ-ニッポンをおかしくした7人の “サムライ” -』第三書館,2016年8月。本書の伊藤博文に対する位置づけは,「下忍の忍者,スパイ)として伊藤博文」を「テロ行為」者(テロリスト)」とみなしている(同書,148頁)。
久慈力長州閥表紙
 安 重根が韓国においては国家的な英雄であるけれども,日本では単なるテロリストである。だが,対する伊藤博文も,日本では英雄(偉大な政治家)であるけれども,韓国では国家的次元のテロリストである。

 4) 安 重根による伊藤博文暗殺の疑問点
 1909〔明治42〕年10月,朝鮮統監を辞任したあと枢密院議長に復帰していた伊藤博文は,満州・朝鮮問題についてロシア側と非公式に会談するためにハルビン駅を訪れたとき,韓国の民族運動家:安 重根の狙撃を受け,直後に生命を落とした。

 伊藤之雄は,a)  上垣外憲一『暗殺・伊藤博文』(筑摩書房,2000年)の見解「伊藤博文暗殺の実行犯複数説」,そして,b)  大野 芳『伊藤博文暗殺事件-闇に葬られた真犯人-』(新潮社,2003年)と c)  海野福寿『伊藤博文と韓国併合』(青木書店,2004年)の見解,すなわち,山県有朋・桂 太郎・寺内正毅・後藤新平・明石元二郎ら「伊藤博文の植民地政策路線と対立してきた日本政府関係者:韓国併合推進派・大陸侵略派」を筋道に踏まえた「二重狙撃説」などを,一蹴する意見を披露している。

 とくに b)  と c)  について伊藤之雄は,こう論断している。自著の『伊藤博文』「で述べたような基本的な権力構図を理解していない」し,「一次史料をじっくり読まずに,伊藤暗殺の『真犯人』探しのみをしている」だけの主張であるときびしく批判をくわえたうえで,それらは「安 重根以外の『真犯人探しをしているだけである」と一刀両断する(571-572頁参照)。

 この伊藤之雄の見解は,「伊藤〔博文〕の随行医師や秘書官らによる事件直後の情報として,小山医師や古谷の情報の方が,室田〔義文〕のものよりも信憑性がある」(571頁)という理由で,前段に挙げた上垣外憲一や大野 芳,海野福寿などが主張する「犯人複数・二重狙撃」説を完全に否認・排除したものである。

 伊藤之雄はもちろん,安 重根が裁判のときに「伊藤博文を射殺した動機のひとつ」に「伊藤博文が孝明天皇を弑逆したこと」を挙げていたことなどは問題外らしく,本書『伊藤博文』のなかでは言及していない。安がそのように「伊藤による天皇暗殺」を法廷でメモまで用意して発言したことは,けっして噂話とか流説ではなく,実際の内容であった。

 伊藤博文を論究し,大部の著作を公表した政治学者が,安 重根が「伊藤博文は孝明天皇を殺したテロリスト」と口にした〈事実〉を,完璧といっていいくらい黙殺する〈学究としての姿勢〉=執筆態度は,よく考えてみるまでもなく,ずいぶん不可解である。学術書のなかでも言及に値せず,その必要などまったくない問題なのであればよいが,ほかの研究書(広義の学術書という意味)にあっては,いくらでもとりあげられている論点なのである。

 なお,安 重根が伊藤博文を暗殺した理由に挙げていた「伊藤博文罪悪十五箇条」は,つぎのものであった。

  1. 韓国閔皇后を弑殺した罪
  2. 韓国皇帝を廃位させた罪
  3. 勒定五条約(乙巳保護条約)と七条約(第三次日韓協約)の罪
  4. 無辜の韓人を虐殺した罪
  5. 政権を勒奪した罪

  6. 鉄道,鉱山と山林川沢川を勒奪した罪
  7. 第一銀行券紙幣を勒用した罪
  8. 軍隊を解散させた罪
  9. 教育を妨害した罪
 10.韓人の外国遊学を禁止した罪

 11.教科書を押収・焼火した罪
 12.韓人が欲して日本保護を受けたと云々して世界を誣罔した罪
 13.現在,日韓間に競争やまず,殺戮絶えず,韓国太平無事の様をもって,上天皇を欺く罪
 14.東洋の平和を破壊した罪
 15.日本天皇陛下の父たる太上皇帝(孝明天皇)を弑殺した罪

 --伊藤博文射殺に関する疑問は,たとえば,つぎのように説明されている。なおあらかじめ断わっておくが,文中に出てくる室田義文の主張は,伊藤之雄『伊藤博文』が全面的に否定するものである。
★ 伊藤博文は本当に,安 重根の放った銃弾
によって倒れたのだろうか? ★


 暗殺時に,伊藤博文の後ろを歩いていた貴族院議員室田義文は,安 重根が狙ったのは自分であると証言している。事実,室田はコートや膝に数発の銃弾を撃ち込まれている。安の拳銃は,ブローニング式7連発銃であり,6発撃ったことが確認されている。
 出所)画像は参考画像でブローニングM1900,http://pichori.net/1911/history/browning_m1900.html
ブローニングM1900画像    補注)伊藤博文の死年は明治42〔1909〕年10月26日であった。このブローニングM1900は(右側画像),こう解説されている。FNブローニングM1900は,ジョン・M・ブローニング(John Moses Browning)の設計で,FN(Fabrique Nationale)社が製作した自動拳銃である。

 このM1900は,ジョン・ブローニングの最初の市販モデルとなった銃で,1899年から製造され,M1910が登場する〔1909年〕までの10年間でおよそ50万丁が製造されたといわれている。機構はのちのコルト社製品にみられる機構のほとんどが組みこまれていた。


 M1900の口径は .32であり,この銃用に作られた弾丸 .32ACPを使用する。装弾できる数は7発で,重量:625g,全長:172mmである。ストレートブローバックのストライカー方式を採用していた。

 特徴は,ストライカーにテンションを与えているのがリコイルスプリングであること,銃身と平行なリコイルスプリングが銃身の上にあること,フレームがスライドを包みこむこと,ストライカーがコックされている状態ではシアーがリアサイトをふさぎインジケーターを兼ねる。

 銃身をスライドで包むことでスライドの重量を増やし大きめの口径でも小型の銃でブローバックを可能とし,耐久性も向上した。後の自動拳銃はほとんどがこの形を用いている。
 註記)引用・参照は,前掲・出所に同じ。後段の専門用語(カタカナ語)で不詳な表現は,ネットでさらに参照されたい。
 さらに室田義文は,伊藤の弾痕が右上から左下へ入っていることをあげ,もし犯人が安が犯人ならば,彼はしゃがみこんで銃を放ったわけだから,上から下へ痕がつくわけがない。伊藤はホームの上にある駅舎の食堂の二階の窓から撃たれたのだと断定,彼の身体に食いこんだ弾は,フランス式の騎馬銃だと証言した。いわゆる二重狙撃説だ。
 安重根ハルビン銃殺画像安重根ハルビン銃殺画像2
出所)http://shibayan1954.blog101.fc2.com/?tag=

 これが事実ならば,伊藤暗殺の真犯人は,別にいることになる。けれども残念ながら,公式には弾痕の角度や弾の種類は,記録に残っていない。ちなみに室田は,ロシア兵が犯人ではないかと推定している。また,この犯人複数説を支持する人のなかには,安 重根の単独説ではなく,韓国人の仲間がいたのだとか,韓国併合を主導する日本の軍人によって暗殺されたという説もある。とくに日本軍人説は,伊藤が日韓併合に消極的で,緩やかな植民地支配を考えていたことから出た説である。

 二重狙撃ならば,1963年のジョン・ケネディ大統領の暗殺,1983年のフィリピン・マルコス大統領によるベニグノ・アキノの暗殺などがある。

 イ) 安 重根は約10歩の至近距離から発砲し,伊藤に3発命中させ,随行の川上・森・田中を傷つけ,室田・中村の衣服を貫通させたが,ピストル連射(前掲した拳銃)で可能か?

 ロ) 証拠品として法廷に提出された安 重根のブローニング式7連発ピストルの弾薬は空であったが,銃身に未発射弾一発が残っているので,発射数は6発ということになる。であれば,発射数と被弾数とは矛盾する。

 ハ) 伊藤に命中した銃弾の先端には,殺傷効果を上げるために,弾数に十字を刻んでいるが,それはピストルではなくフランス騎兵銃ではないか。

 ニ) 伊藤に打ちこまれた銃弾の射入角度は,3発とも上半身の右側から,斜め下に向いているから,狙撃手は高いところにいた3人がほぼ同時に発射したのではないか。
 
 ホ) 安 重根は伊藤の顔をしらず,「背が高く,口ひげを生やした人」と聞いていたので,長身の室田を小柄の伊藤と誤認したのではないか。

 ヘ) 安 重根の裁判で,随員各氏の尋問調査が採用されているのにもかかわらず,室田の陳述が無視されたのは,不全・不自然である。

 ト) 現場を撮影したロシア人写真師がしたフイルムの売りこみを日本政府が断わったのは,安 重根を狙撃犯と決めてかかっていたからでは?

 チ) ココフツェフが語った,前夜,「騎兵銃を持った怪しげな3人の朝鮮人が隣駅付近をうろついていたがとり逃した」という,その朝鮮人こそ,狙撃犯ではないか?
 註記)http://blogs.yahoo.co.jp/rakuten23/51430569.html

 こうした「安 重根による伊藤博文射殺」に関する疑問提示を,伊藤之雄『伊藤博文』は,ごく軽く一蹴していた。しかし,伊藤之雄自身の立つ「学問の立場」は,そのように断定的に一蹴した「相手の諸見解」側に対して,必ずしも十分に納得させるだけの実証的な論拠を提示できているのではない。

 それだけではなく,批判し否定すべき相手の論拠に食いこむ論駁を提供せずに,ただ自説とは見解が異なるからといって,一方的に自説の根拠だけを提示しつつ,ひたすら排撃するやりかたを前面にせり出した論法であった。これでは,対立者との議論・対話・批判交流は初めからおぼつかない。

 それほどまで自説に強く自信があるなら,批判・否定する相手たちの根拠不足,実証不十分な箇所をもっと突き,徹底的に分析・批判するための論及・考察をおこなってもよい。にもかかわらず「オマエたちは」「一次史料もろくに吟味もしないで」,全然なにも「分かっていない」といわんばかりであって,ただ反撥心を剥きだしにする姿勢がめだっている。

 しかも,論旨の基調は,伊藤博文をいささか以上に「偉人あつかい」している処理もみられる。明治の時代に傑出した政治家:伊藤博文を理想化するかのような学術的態度が,寸毫でも,伊藤之雄の「伊藤博文」論に入りこんでいたとすれば,これは研究の姿勢において要注意である。

 ④ 余  題

 イ) 筆者も以前(だいぶ昔の想い出になるのだ)が,京都大学をすでに退職していてほかの私立大学に勤務していた現役経営学者を相手に,論争をした体験をもつ。そのさいに教えられた彼の立場,すなわち権威主義(自分の立場のほうが絶対に正しいとでも確信していたかのような姿勢:論調)による対話のあり方・論争の姿勢,換言すれば「上から目線」でのものいいには辟易させられた。

 ロ) つぎの画像資料で2点を観てもらいたい。上の伊藤博文に関する話題は,宮内省(いまの宮内庁)で幅を利かせていた伊藤の傍若無人を示唆している。下のコラム記事は,伊藤之雄『伊藤博文』をヨイショしている文章になっているが,本日の記述によれば,まだまだ議論の余地がある。(画面 クリックで 拡大・可)
『朝日新聞』2015年11月2日朝刊
『日本経済新聞』2010年10月26日朝刊



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