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<転載開始>
2017年1月28日 土曜日
◆チャーズ 中国建国の残火 遠藤誉(著)
◆「中国に言論の自由はいつ来るのか? 2013年1月9日 遠藤誉
私が中国の「言論の自由」にこだわるのは、私自身が経験した革命戦争における惨事を、65年経った今も中国政府が認めようとしないからだ。
1947年晩秋、中国共産党軍(のちの中国人民解放軍)は私が住んでいた吉林省長春の街を都市ごと鉄条網で包囲して食糧封鎖し、数十万の市民を餓死に追い込んだ。私は長春を脱出するために「?子(チャーズ)」という中間地帯に閉じ込められ、餓死体の上で野宿した。恐怖のあまり記憶喪失にまでなったこの経験を1984年に『?子――出口なき大地』(読売出版社)として出版。中国語に翻訳し中国で出版しようとしたが、こんにちに至るも、出版許可は出ていない。
(中略)
長春の街はまさしく死の街と化していた。
餓死体が取り除かれることもなく街路樹の根元に放置され、親に先立たれたのか、その周りで2、3歳の子供が泣き喚いている。幼子の周りをうろついている犬。犬は野生化して、餓死体だけでなく、親に先立たれた幼子を食べるようになっていた。
旧城内という、中国人だけの居住区では、人肉市場が立ったという噂が流れていた。
国民党軍は瀋陽から飛んでくる飛行機が無人落下傘で落とす食糧により肥えていた。その落下物に市民が近寄れば銃殺される。しかし飛行機自身も低空飛行をすれば八路軍に撃ち落とされるので、上空から落とすようになり、そのうち飛来してくる回数も少なくなっていた。
この状況下、国民党政府は軍の籠城を保たせるために、市民に長春から出ていってほしかったのである。そこで国民党軍は市民を一人でも多く長春から追い出す方針を採った。
長春を包囲する包囲網を「?子(チャーズ)」と称するが、その?子には「?口(チャーコウ)」と呼ばれる出入り口があり、そこからなら脱出して良いということになっていた。
ところが、私たち一家は国民党政府に「留用」されていたので移動の自由がない。しかしこれ以上長春にい続ければ餓死者が続出して一家全滅となる。
そこで父は長春市長に会い、国民党政府に「留用の解除」を求めた。市長はあまりに変わり果てた父の姿を見て、すぐに「解除証書」を発行してくれた。
9月20日、私たちはいよいよ長春脱出を決行することになった。その前夜、末の弟が餓死した。
「?口」には国民党の兵隊が立ち、一人ひとりの身分を確認しながら「ひとたびこの門をくぐったならば、二度と再び長春市内に戻ることは許されない」と言い渡していた。
戻るはずがない。餓死体が街路に転がり、人肉市場まで立ったという所には二度と戻りたくない。この門をくぐりさえすれば、「解放区」がある。「解放区」とは八路軍(中国人民解放軍)によって解放された地域のことだ。
しかし、その門は「出口」ではなかった。
真の地獄への「入口」だったのである。
外側の包囲網は解放区に接し、八路軍が見張っている。その中間に国共両軍の真空地帯があり、こここそが、まさに?子(挟まれたゾーン)だったのである(?子には(軍の)「関所、検問所」の意味と、「挟むもの」という二つの意味がある)。
足の踏み場もないほどに地面に横たわる餓死体。
四肢は棒のように骨だけとなっているが、腹部だけは腸(はらわた)があり、それが腐乱して風船のように膨れ上がっている。それが爆発して中から腸が流れ出している餓死体もある。そこに群がる大きな銀蠅。近くを難民が通ると「ブン!」と羽音が唸る。
外側の包囲網である鉄条網が見えた辺りから、八路軍の姿が多くなり、導かれるままに腰を下ろす。死体の少なそうな地面に、持ってきた布団を敷き、野宿。陽は既に沈んでいた。
翌朝目を覚まして驚いた。布団の下が嫌にゴロゴロすると思っていたら、ふとんの下から餓死体の足がニョッキリ出ている。
新たな難民が入ってくると、それまで死んだように横になっていた難民たちが一斉に起きあがり、ウワァーッと新入りの難民を取り囲んで食料を奪う。八路の兵隊は、それを特に止めるでもなく、黙って見ている。そしてその八路軍が守る解放区側に接する包囲網の門は、閉ざされたままだった。
私たちは、この真空地帯に閉じ込められたということになる。
ここで死ねというのか――。
赤旗の下で戦っている八路軍は、苦しむ人民の味方ではなかったのか――。
夜になると、前の夜には聞こえなかった地鳴りのようなうめき声が暗闇を震わせた。父が「ちょっと行ってくる」と立ち上がった。父にしがみつくことによって何とか恐怖に耐えていた私は、そのまましがみついて父のあとを追った。
そこには死体の山があった。うめき声はここから出ていた。
「死に切れぬ御霊(みたま)の声じゃ・・・」
父はそういうなり地面にひれ伏して、御霊を弔う神道の祈りの詞を唱え始めた。
するとどうだろう。死んだはずの死体の手が動いたのだ――。
鉄条網の向こう側の電柱についている裸電球に照らされて、青白い手が動いた――!
その瞬間、私の精神をギリギリまで支えていた糸が、プツリと切れてしまった。
死体の前で祈っている父の姿が、どんどん小さくなっていく。
うめき声は消えたが、私は正常な精神を、この瞬間失っていた。記憶を喪失してしまったのである。
四日目の朝、父に?子出門の許可が出た。アヘン中毒患者を治癒する薬の特許証を持っていたからだ。解放区は新中国建設のために技術者を必要としていた。しかし、いざ門を出ようとすると、敗戦後父を頼って私たちの家に居候をしていた元満州国政府の技術者の遺族が出門を禁止された。技術者の遺族は技術者ではないので、解放区に入ることは許さないというのだ。
このとき私には二人の姉と妹および弟がいたが、弟は既に脳症を起こして人事不省だ。
私は全身結核菌に侵されて化膿した複数の傷口から膿が噴出し、しかも恐怖のあまり記憶を喪失している。このまま、あと二日も?子内に留まれば、死は確実だろう。長春を脱出する前夜に息子を一人失っている母としては、申し訳ないが、我が子の命を助けたいと思うのが人情というものだろう。このまま技術者たちのご遺族とともに?子に留まるという父を母は捨て身で説得し、私たち一家は?子をあとにした。
「共産党にとって有用な者だけを放出せよ」という指令が毛沢東から出ていた。私たちはまさにその方針により出門できたのである。1948年9月24日のことだった。
だからいま私はここに生き残っている。
?子の門を出るとすぐにお粥が配られた。
解放区で飢え死にする者は一人もいないようにしろ、というのが、毛沢東の指示であった。毛沢東は「誰が民を食わせるかを民に知らせるのだ。そうすれば民は自分たちを食わせてくれる側につく」という戦略に基づく指令だった。すなわち、民は毛沢東率いる共産党を選ぶか、それとも蒋介石率いる国民党を選ぶかと、という意味だ。
この論理は現在の中国においてもなお、変わっていない。
だから、私は命を賭して経験に根差した中国分析を試みるのである。
中国共産党は「中国を経済的に豊かにしているのは中国共産党だ」として、統治の正当性を主張している。
たしかに中国は豊かになった。
しかしその分だけ貧富の差が開いている。
そして人は腹が満ちればそれでいいという生き物ではない。
尊厳を求めている。
経済的に豊かになれば権利意識も芽生える。
これからの5年間、まず第一期目の習近平政権の覚悟のほどが問われている。」
(私のコメント)
中国は「超限戦」戦略に則って日本に対して「歴史戦」を仕掛けていますが、ならば日本も「歴史戦」に則って反論しなければなりません。しかし中国には言論の自由が認められておらず、ネットすら遮断された状態になっている。
韓国も一緒になって日本に対して「歴史戦」を仕掛けていますが、日本政府の対応のまずさで外交問題化して失敗している。このような「歴史戦」は政治家によって決着がつくものではなく、言論人が戦いの主体にならなければなりません。しかし日本のジャーナリストや新聞記者には中国の言いなりになっているものがいる。
しかし言われた事に対しては反論しなければ認めたと取られかねないから、日本の言論人は反論しなければならない。しかし中国は言論の自由が無く中国人や韓国人との論争は議論にならず、相手は感情的になるだけなので冷静な議論は成り立たない。
アメリカの歴史学者との歴史議論でも、「歴史修正主義者」のレッテルを貼り付けて、日本の歴史学者に反論に答えようとはしていない。そもそも南京大虐殺はアメリカが言い出したものであり、東京裁判で取り上げられて松井大将は絞首刑にされた。
「歴史戦」は究極的にはアメリカが仕掛けて来たものであり、松井大将は南京攻略戦で統率を欠いたという事で絞首刑にされている。しかし東京裁判では多くの女性は強姦されて10万人が殺害されたとされた。しかし直接の目撃証言は無く、単に「平和に対する罪」という事後法で処刑された。
アメリカとしてはこのような事を蒸し返されたくないから、中国や韓国を使って日本を黙らせようとしていますが、東京裁判のデタラメさを徹底的に追求しなければなりません。むしろ当面の「歴史戦」の相手は中国や韓国であり、南京大虐殺や従軍慰安婦の問題を片づけなければなりません。
南京大虐殺の30万人と言う数字は何処から出て来たのだろうか。東京裁判では10万人とか20万人とかいったはっきりしない数字であり、推計の根拠もはっきりしていない。当時は国共内戦の真っ最中であり、1947年当時は長春包囲戦の真っ最中であり長春の市民33万人が餓死した。50万人の市民のうち生き残ったのは17万人であり、長春市内は餓死者で溢れた。
遠藤誉氏は、長春包囲戦の生き残りであり当時は7歳だったそうです。当時の日本軍はほとんど引き揚げていたが、技術者は残されて働いていた。日本軍パイロットなども中国共産党の空軍パイロット養成のために残された。逆に国府軍にはアメリカ軍が連合軍の一員として参加しており、11万人ものアメリカ兵が国共内戦に参加していた。
アメリカ政府は国府軍の大量の軍事援助を行い、最新式のアメリカ製武器で戦っていた。だから国共内戦についてはアメリカ軍は当事者であり、B29まで使って毛沢東の共産党と戦っていた。当時の共産党軍を日本軍残留兵やソ連が支援してまさに中国国土が米ソの代理戦争化しつつあった。
その様な1947年当時の長春包囲戦は前半戦の山場であり、遠藤誉氏はその修羅場を生き延びて来た。中国大陸の戦闘は民族の殲滅戦であり、兵士の犠牲よりも一般市民を巻き込んでの戦闘になり、むごたらしい結果となる。ちょうど東京裁判の真っ最中であり、南京大虐殺は当たり前のように受け取られたのだろう。日本人で毛沢東軍の長春大虐殺を知る人はほとんどいない。
毛沢東が日本に対しては親日的であったのは、共産党軍にも多くの残留日本兵がいたためであり、国府軍にはアメリカ軍が参加していた。アメリカ政府は内戦の調停に何度も乗り出したが失敗して徐々に中国から兵を引いて行った。つまり蒋介石はアメリカに見捨てられて毛沢東の共産党軍に敗れて行った。
アメリカは朝鮮半島でも中国共産党軍と戦っているが、朝鮮戦争は中国内戦の延長であり、国府軍も韓国軍もアメリカ軍の援助なしにはまるで弱かった。アメリカ政府の意図としては、中国から日本軍を追い出した後はアメリカが関与して中国を支配しようとしたが、国府軍は軍が腐敗してアメリカも見捨てざるを得なかった。朝鮮半島では何とか韓国を維持したが、やはり韓国軍はあてにできなかった。
アメリカは海軍国であり、陸上の戦闘では大軍を動員が出来ない。だから中国大陸でも朝鮮半島でもインドシナ半島でも中東でも苦杯をなめた。それらの戦闘では住民を巻き込んだ残虐な戦闘となるが、アメリカ軍はそれに耐えられない。大陸と言う風土が残虐なものであり、住民が犠牲になる事は大陸では当たり前なのだ。
その状況を知るには、遠藤誉氏の『?子――出口なき大地』と言う本を読めばわかりますが、中国では住民が犠牲になる大虐殺が歴史上頻?にあり、だから南京大虐殺もあったと平気で主張が出来るのだ。シリアでは国共内戦のような住民を巻き込んだ戦闘が行われて多くの市民が死んだ。アメリカ軍は最初は参戦していても途中で手を抜いて行くのは、中国内戦でも同じだ。だから日米安保もいつまでも信用が出来ないのだ。
<転載終了>
中国共産党は、日本軍と闘わずに逃げまくり、蒋介石の国民党と日本軍の両軍の消耗戦を引き起こすことに専念していた。 盧溝橋事件の時に両軍に向かって銃撃したのは、中国共産党で、自国民の大量虐殺をおこなった毛沢東は、これを大成功した作戦の事例として自慢していた。