http://ameblo.jp/hiroo117/entry-12286756626.html
<転載開始>
北川八郎氏の心に響く言葉より…
《釈尊はいわれる
生きとし生ける者どもは死ぬであろう。
生命は終(つい)には死に至る。
人は、作った業に従って赴(おもむ)き、それぞれ善と悪の報いを受ける。
老いた人々も、若い人々も、その中間の人々も順次に去って行く。
熟した果実が、枝から落ちてゆくように。
昼夜は過ぎ行き、人間の寿命は尽きる。
男も女も幾百万人と多くいるが、財を蓄えたあげく、死の力に屈する。
いくら財を蓄えても、最後には生命の方が尽きてなくなってしまう。
高い地位・身分も終には離れてしまう。
歩んでいても、止まっていても、人の命は昼夜に過ぎ去り、とどまりはしない。
たとえ百歳を生きたとしても、終には死に帰着する。》
人の今世に生まれた使命の一つは、前世の悪しき業を修正し、その痛みと喜びを学びに来たことだといえる。
だから、釈尊はあの世においては、人は今世作った業に応じてそれぞれの住む光のレベルが決まるといわれる。
今の世の善と悪の報いに応じて、あの世の学びのクラスが違ってくる。
人は皆、楽しむ人も、苦しむ人も、嘆く人も、喜ぶ人も、果実が木から落ちるように寿命は尽き、魂の大海に呑まれる。
多くの人は地位と財を目指すけれど、百年もつことはほとんどなく、またいくら財を蓄えても、生命の方が先に滅してゆく。
私たちの命の電池はもうあまりないことを知って、あわてず急いだ方がいい。
どんな高い地位も身分も命をそれを捨てて、あの世に赴く。
眠っていても、歩んでいても、笑っていても、TVを見ていても、止まることなく、昼夜に命の電池は消耗してゆく。
百歳生きても、それは一瞬にして、必ず人は死に帰着する。
いつまでも生きられると思うなかれ。
時の過ぎゆくは、過ぎてみると早いと知る。
今世の善き行為と、悪しき行為の光の明るさによって、あの世では苦を受け、さらに来世では悪をなした人の立場が替わり、与えた苦を自分が受けて、その苦の深さとつらさと痛さを味わって、次の世で修正するチャンスを与えられる。
私たちはみな、今世この世に来た意味がある。
財と地位を手にし、快と、野望を果たしに、人間として生を与えられたのではない。
あらゆる、命の尊さ、美しさ、楽しさ、喜びの深さを学びにきているのだ。
『ブッダのことば「百言百話」』致知出版社
「因果応報(いんがおうほう)」という言葉がある。
善い行いをすればよい報いがあり、悪い行いをすれば悪い報いがある、ということ。
しかし、この世に生きている間に、ひどく悪いことをした悪人に、悪い報いがないということは間々(まま)あることだ。
なんであんなひどい人間に罰がくだらないのか、と思う。
しかし、釈尊は、それは来世において報いがある、という。
朝比奈宗源(あさひなそうげん)老師の知り合いの僧は、博打(ばくち)ばかりするひどい人間だったという。
その僧が博打をやって負けて帰ってくると、宗源老師は「あいつもやがて死ぬやっちゃ」と独り言をいっていたという。
それは、老師が、「しかたのないやつだ…」と諦観(ていかん)して言った言葉だ。
この世では罰(ばち)は当たらないかもしれないが、あの世でその報いを受けるのに、と。
「私たちはみな、今世この世に来た意味がある」
あらゆる、命の尊さ、美しさ、楽しさ、喜びの深さを日々学びたい。
<転載終了>
数千年に及ぶ
意識体としての
「生」
を得ている
「生と死」
その思考自体が
不要となる時期が
やがて訪れる
1000年もすれば
この言葉の意味を
皆実感するだろう
私たちの遺伝子が
完全に修復されれば
「生」
に囚われる必要は
無くなる
今後は宗教は
不要な存在となる
其れは「まやかし」に
過ぎない
一見すると
真実を包含する様に
見えるが
肝心の所が
まやかしなのだ
私たちは遺伝子が
修復される過程に於いて
生に拘る理由を失う
其れは
永遠の肉体を
手にするからだ
其れは
ライトボディ
私自身も
其れだった
のだ
宇宙人類の多くは
固有周波数の高い
ライトボディ状態にある
誤解するな
ライトボディ状態の
人物は
決して神の様な
完全無血な存在に非ず
過ちを犯し
我欲に支配されることも
有るのだ
私たちは既に
第五密度にあり
今後更に固有周波数は
彼女(地球)と共に
上昇していく
生に拘る理由を
やがて失う
3000年代では
輪廻自体が不要に
なる
輪廻に囚われる
生と死に囚われる
多くの宗教には既に
真実は無い
部分的に
包含していても
(真実を)
根本部分が偽り
なのだ