ちこたんさんより情報を頂きました
末日聖徒イエス・キリスト教会の会員の聖典研究 さんのサイトより
http://blog.livedoor.jp/hideki4612/archives/1058569014.html
<転載開始>

日本最古の歴史書である『古事記』には、聖書の創世記の天地創造がそのまま記されています。
古事記を作った人々は、クリスチャンだったからです。
日本人のルーツと神道、仏教の真実

『古事記』の神会
「天地初めて発けしとき、高天原に成りし神の名は、天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ)、次に高御産巣日神(タカミムスビカミ)、次に神産巣日神(カミムスビカミ)。
この三柱の神はみな独神と成りまして、身を隠したまひき」
『古事記』は、元初の神を独立した3人としています。
神道では、神を1柱、2柱と数えます。
『古事記』の神会は、天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神です。
御父(エロヒム) = 天之御中主神
御子(ヤハウェ=イエス・キリスト) = 高御産巣日神
聖霊 = 神産巣日神
神産巣日神は、『日本書紀』では神皇産霊尊、『出雲国風土記』では「神魂命」と書かれます。
ヤハウェと聖霊は、霊体なので日本書紀では名前に霊があります。
「ムス」は生成発展する意、「ヒ」は霊または神秘的なはたらきを意味し、「ムスヒ」とは「天地・万物を生成発展させる霊的な働き」を意味します。
「ムスヒ」の観念は幅広く、神道においては「神々の生成をはじめ万物の生成発展にかかわる重要な概念」とされています。
神道の指導者組織の八咫鳥(やたがらす)の中心地だった京都の『山城国風土記』には、高御産巣日神のことを天照高彌牟須比命(アマテルタカミムスビノミコト)とあります。
高皇産霊尊とは、イエス・キリストが地球に肉体を得て降誕する前の霊体だけだったころのヤハウェです。

霊と霊界 1/2~2/2
末日聖徒イエス・キリスト教会の会員の聖典研究 さんのサイトより
http://blog.livedoor.jp/hideki4612/archives/1058569014.html
<転載開始>
11 『古事記』の天地創造

日本最古の歴史書である『古事記』には、聖書の創世記の天地創造がそのまま記されています。
古事記を作った人々は、クリスチャンだったからです。
日本人のルーツと神道、仏教の真実

『古事記』の神会
「天地初めて発けしとき、高天原に成りし神の名は、天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ)、次に高御産巣日神(タカミムスビカミ)、次に神産巣日神(カミムスビカミ)。
この三柱の神はみな独神と成りまして、身を隠したまひき」
『古事記』は、元初の神を独立した3人としています。
神道では、神を1柱、2柱と数えます。
『古事記』の神会は、天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神です。
御父(エロヒム) = 天之御中主神
御子(ヤハウェ=イエス・キリスト) = 高御産巣日神
聖霊 = 神産巣日神
神産巣日神は、『日本書紀』では神皇産霊尊、『出雲国風土記』では「神魂命」と書かれます。
ヤハウェと聖霊は、霊体なので日本書紀では名前に霊があります。
「ムス」は生成発展する意、「ヒ」は霊または神秘的なはたらきを意味し、「ムスヒ」とは「天地・万物を生成発展させる霊的な働き」を意味します。
「ムスヒ」の観念は幅広く、神道においては「神々の生成をはじめ万物の生成発展にかかわる重要な概念」とされています。
神道の指導者組織の八咫鳥(やたがらす)の中心地だった京都の『山城国風土記』には、高御産巣日神のことを天照高彌牟須比命(アマテルタカミムスビノミコト)とあります。
高皇産霊尊とは、イエス・キリストが地球に肉体を得て降誕する前の霊体だけだったころのヤハウェです。

霊と霊界 1/2~2/2
天照大神の正体

元初の神は同一とされますが、正しく表現するなら、同一のグループの3人であるということです。
神会は1つですが、3人の神によって形成されています。
3人で1つの神会を形成し、神として臨むときは、一人です。
よって、元初三神として複数の神がかかわるときは、それぞれの神を読み解かなければなりません。
つまり、1人なら御父か御子、もしくは三神が形成する神会で、2人なら御父と御子、3人なら御父と御子と聖霊です。
『古事記』の天地創造では、元初の三神が姿を隠したのち、2人の神が出現します。
宇摩志阿斯詞備比古遅神(ウマシアシカビヒコヂノカミ)と天之常立神(アメノトコタチノカミ)です。
『日本書紀』では可美葦牙彦舅尊と(ウマシアシカビヒコヂノミコト)と天常立神(アメノトコタチノカミ)表記します。
『古事記』にこうあります。
「次に国稚く浮ける脂の如くして、海月なす漂へるとき、葦牙の如く萌え騰るものによりて成りし神の名は、宇摩志阿斯詞備比古遅神、次に天之常立神。
この二柱の神もみな独神と成りまして、身を隠したまひき」
具体的に、宇摩志阿斯詞備比古遅神と天之常立神の二神は2人であるから、天父と御子のことです。
つまり、『古事記』のこの部分は、元初三神が誕生したのち、父なる神がイエス・キリストに命じて、実際の天地創造を行うという宣言文なのです。
漢字以外で古代日本で使用された神代文字の1つ「ヨシテ」を使い五七調の長歌体で記された、少なくとも江戸時代中期まで遡る古文書の『ホツマツタエ』では、次のようになっています。
「太初の神を天の御中主と名づく。
地球八面(くにたまやも)を巡り、人を生みて天に帰り給うた。
然るのち、天祖の神、再び現神と生まれて主君となり、天の常立の道をもって人を教え給うた。
故に其の神を国常立尊と名づく。」
『古事記』では国之常立神(クニノトコタチノカミ)、『日本書紀』では国常立尊(クニノトコタチノミコト)と表記されています。
太初の神は天の御中主=天父です。
天父は人を創造して天に一度帰っています。
そして、神会である天祖の神は現神として生まれて主君となったというのです。
現神とは現世に神として生まれたということです。
そして、天の永遠の命の道を模範と教えで表し、人々に教えました。
ゆえに国常立尊と名づけます。
国常立尊は、イエス・キリストです。
『聖書』では、天父が、ヤハウェ(英語 エホバ)に天地を創造するように命じました。
ヤハウェは天地を創造しましたが、そのときはまだ肉体をもたない霊体の状態でした。
ヤハウェは人も創造しました。
そののち、天にお帰りになりました。
しかし、再び地球に来られイエス・キリストとして肉体を持って、お生まれになったのです。


はじめに神は天と地とを創造された。
地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。 (創世 1:1-2)
混沌だけが存在した世界において、そこに神が存在しました。
三神のうち、御父が御子に命じて具体的に天地創造を行いました。
2人の神が宣言を行ったのち、いよいよ具体的な天地創造を行います。
『古事記』は、これを「神世七代」と称します。
「上の件の国之常立神より下、伊邪那美神(いざなみかみ)より前を併せて神世七代と称ふ」
「7代」の意味は、7日です。
『創世記』の天地創造が全部で7日間で行われました。
7代の神と『創世記』の7日間の天地創造と比較すると、神の名前に天地創造の内容が表現されてます。
神世第1代について『古事記』はこう記しています。
「次に成りし神の名は、国之常立神(クニノトコタチノカミ)」
はじめに神は天と地とを創造された。
地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。
神は「光あれ」と言われた。すると光があった。
神はその光を見て、良しとされた。神はその光とやみとを分けられた。
神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。夕となり、また朝となった。第一日である。 (創世 1:1-5)
この世界の創造は、この世界に来ることになっていた人々にとって、本当の意味での「はじめ」ではありませんでした。
地球の基が置かれる以前に、この人々は前世で、天の両親の霊の子供として一緒に生活していました。
救いの計画
福音
イエス・キリストの福音 L・トム・ペリー長老 十二使徒定員会

天の御父は私たちが御自身のようになれるように、計画を備えてくださいました。
この計画のおかげで、私たちは贖いを通して完全な者となって、満ちみちる喜びを得、永遠に生きることができるようになりました。
リーハイは「アダムが堕落したのは人が存在するためであり、人が存在するのは喜びを得るためである」と宣言しました。(2ニフ 2:25)
最も偉大な喜びは、永遠の命です。
主は「人の不死不滅と永遠の命をもたらすこと、これがわたしの業であり、わたしの栄光である(モーセ 1:39)」と宣言されました。
ブリガム・ヤング大管長は、こう説いています。
「現世に私たちが存在しているのは、父なる神のもとに戻って昇栄するという唯一の目的のためだけである。」 (『ブリガム・ヤング説教集』 p.37)
預言者ジョセフ・スミスは、次のように述べています。
「幸福は、私たちが存在する目的であり、計画である。
また、そこへと続く道を歩み続けるならば、私たちの存在理由となる。
この道は、徳、高潔さ、忠実さ、神聖さ、そして神のすべての戒めを守ることである。」 (Teachings of the Prophet Joseph Smith p.255-56)
ジョセフ・F・スミス大管長は、次のように述べています。
「私たちはどこから来たのか。
神のもとからである。
地球の基が置かれる前に、天上の会議に参加していたのである。……
私たちが、天の軍勢とともに喜びの歌を歌ったのは、この地球の基が置かれ、この地球で生活する計画と贖いの計画が示された時のことであった。……
私たちは確かにその素晴らしい出来事が起こったその会議に参加していた。……
そのとき、サタンは自分の業績と引き換えに御父がその誉れと栄光をくれるのなら、自分が救い主になってもいいと申し出た。……
私たちは、確かにそこにいてその一部始終を見ていた。
私たちの興味と関心は、その偉大な計画と目的とを是が非でも実行に移すことであった。
私たちは、その計画と目的とをよく理解していた。
私たちのためにこそ、そうした計画は定められたのであり、また、その計画が完成することになるのである。」 (ラドロー Latter-day Prophets Speak p.5-6)
このようにすべての人は、どれくらいの長さであるかは分かりませんが、この世界が創造されるはるか以前からずっと存在していたのです。
創世記の冒頭の「はじめに神は天と地とを創造された」の言葉について、重要な点が2つあります。
第1に、「はじめ」という言葉が相対的な時間を表わす言葉であって、永遠の時の流れの開始点を意味する言葉ではないということです。
原典のヘブル語では、神が天と地を創造した当初は、地には形がなく何もなかったという意味です。
これゆえに、「はじめ」とは太陽系、地球での救いの計画を指し示しています。
創世記の始まりは、地球での救いの計画の記述ということになります。
地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。 (創世 1:2)
混沌だけが存在した世界において、そこに神が存在しました。
創世記の「形なく、むなしい」というのは、ヘブル語から解釈してアブラハムの記録を読むと、「地は形造られた後、空しく荒涼とした」状態でした。
英語では「desolate」で住む人がいない、寂しいという意味です。
「地は形なく、むなしく」のヘブル語「トーフー・ワ・ボーフー」の「トーフー」も「ヴォーフー」のヘブル語は「何もない」という意味で、同じ意味を持つ2つの言葉を接続詞「ワ」でつなぎ、何もないことが強調されています。
「トーフー・ワ・ボーフー」は「何もない所、空白な所」を意味しまいますが、「闇の立ちこめた原始の海」というイメージを持ち、同時に3次元的な広がりへの連想にもつながります。
「おおう」とか「抱く」といった言葉は、ヘブル語でちょうど鳥が巣の中で卵を抱いたり守ったりする状態を指す言葉を翻訳した結果です。
めんどりが、ひなをおおう、つまりひなを保護し、温め、養い、守る状態です。

神の霊、神々の御霊、わたし〔エホバ〕の御霊とよばれる創造の力が働きかけて、地上の生命を維持できるように元素を形造って備えさせてますが、「キリストの光」と同じと思われます。
キリストの光とは、キリストを通して神から発せられ、万物に命と光を与える神聖なエネルギーや力、影響力であり、天においても地上においても万物が治められる律法です。 (参照)

ここでの「光」とはイエス・キリストで、イエス・キリスト=国常立尊となります。
イエスは、また人々に語ってこう言われた、「わたしは世の光である。わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことがなく、命の光をもつであろう」。 (ヨハネ 8:12)
ここでの「国」とは、神が管理する宇宙を指します。
常立とは、永遠無窮を意味します。
シモン・ペテロが答えた、「主よ、わたしたちは、だれのところに行きましょう。
永遠の命の言をもっているのはあなたです。 (ヨハネ 6:68)
見よ、神性の奥義は何と深いことか。
見よ、わたしは無窮であり、わたしの手から与えられる罰は無窮の罰である。
無窮とはわたしの名である。
れゆえ、永遠の罰とは、神の罰である。
無窮の罰とは、神の罰である。 (教義 19:10-12)
キリストは世の光であり命であられる。
まことに、決して暗くなることのない無窮の光であり、また決して死ぬことのない無窮の命であられる。 (モーサヤ 16:9)
天地創造における第1日目、神世一代目とは、御父によって御子ヤハウェ(英語 エホバ)=イエス・キリストが創造主として任命されたことを意味するのです。
また、ヤハウェは、贖い主、救い主、裁き主としても任命されました。
救い主だからこそ、イエスは人々を照らす光となったのです。
さて、主はモーセに語って言われた。
「見よ、わたしはこの天とこの地についてあなたに示す。わたしが語る言葉を書き記しなさい。
わたしは初めであり終わりであり、全能の神である。
わたしの独り子によって、わたしはこれらのものを創造した。
まことに初めに、わたしは天とあなたが立っている地とを創造した。
地は形なく、むなしかった。
わたしは深い淵の面に闇を来らせ、わたしの御霊が水の面を動いていた。
わたしは神である。
神であるわたしは、『光あれ』と言った。すると、光があった。
神であるわたしが光を見ると、その光は良かった。神であるわたしは光と闇とを分けた。
神であるわたしは光を昼と呼び、闇を夜と呼んだ。これを、わたしの力の言葉によって行った。
そして、それはわたしが語ったようになった。
夕となり、また朝となった。第一日である。 (モーセ 2:1-5)
その後、主は、「降って行こう」と言われた。そして、彼らは最初に降って行き、彼らすなわち神々は、天と地を組織し、形造られた。
地は形造られた後、むなしく、荒涼としていた。彼らが地のほかに何も形造られておられなかったからである。
そして、闇が深い淵の面を支配し、神々の御霊が水の面を覆っていた。
彼ら(神々)は、「光あれ」と言われた。すると光があった。
彼ら(神々)はその光を知覚された。それが輝いていたからである。
そして、彼らはその光を闇から分けられた、すなわち光が分けられるようにされた。
神々は光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。
夕から朝までを夜と呼び、朝から夕までを昼と呼ばれた。
これが、彼らが昼、夜と呼ばれたものの最初、すなわち初めであった。 (アブラハム 4:1-5)
太初の神は天之御中主で、天父です。
天父の代理としてヤハウェは創造主になります。
御子は御父の指示のもとに働きをなし、御父と完全に一致しておられます。
イエス・キリストに対して、神という言葉を用いている聖句もいくつかあります。
たとえば、「神は天と地とを創造された」(創世 1:1)という聖句がありますが、これは実際には、父なる神の指示のもとに、創造主して働かれたヤハウェ(イエス・キリスト)を指しています。
初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。
この言は初めに神と共にあった。
すべてのものは、これによってできた。
できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。
この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。
光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。
ここにひとりの人があって、神からつかわされていた。その名をヨハネと言った。
この人はあかしのためにきた。光についてあかしをし、彼によってすべての人が信じるためである。
彼は光ではなく、ただ、光についてあかしをするためにきたのである。
すべての人を照すまことの光があって、世にきた。
彼は世にいた。そして、世は彼によってできたのであるが、世は彼を知らずにいた。
彼は自分のところにきたのに、自分の民は彼を受けいれなかった。
しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。
それらの人は、血すじによらず、肉の欲によらず、また、人の欲にもよらず、ただ神によって生れたのである。
そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。
それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた。 (ヨハネ 1:1-14)
神は、むかしは、預言者たちにより、いろいろな時に、いろいろな方法で、先祖たちに語られたが、この終りの時には、御子によって、わたしたちに語られたのである。
神は御子を万物の相続者と定め、また、御子によって、もろもろの世界を造られた。 (へブル 1:1-2)
神会は目的と教えにおいて完全に一致、調和し、1つであられます。
さて、わたしの愛する同胞よ、これが道である。
そして、このほかには人を神の王国に救う道も名も天下に与えられていない。
見よ、これがキリストの教義であって、限りなく一つの神である御父と御子と聖霊の唯一の真正な教えである。アーメン。 (2ニフ 31:21)
わたしと父とは一つである。 (ヨハネ 10:30)
父とわたしとは一つである。わたしは父におり、父はわたしにおられる。
そして、あなたがたがわたしを受け入れたので、あなたがたはわたしにおり、わたしはあなたがたにいる。
それゆえ、わたしはあなたがたの中にいる。
わたしは良い羊飼いであり、イスラエルの石である。
この岩の上に建てる者は、決して倒れることはない。 (教義 50:43-44)
このような方法で、わたしの名によってバプテスマを施しなさい。
見よ、まことに、あなたがたに言う。父と子と聖霊は一つである。
わたしは父におり、父はわたしにおられ、父とわたしは一つである。 (3ニフ 11:27)
わたしはもうこの世にはいなくなりますが、彼らはこの世に残っており、わたしはみもとに参ります。聖なる父よ、わたしに賜わった御名によって彼らを守って下さい。
それはわたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためであります。
わたしが彼らと一緒にいた間は、あなたからいただいた御名によって彼らを守り、また保護してまいりました。
彼らのうち、だれも滅びず、ただ滅びの子だけが滅びました。それは聖書が成就するためでした。
今わたしはみもとに参ります。
そして世にいる間にこれらのことを語るのは、わたしの喜びが彼らのうちに満ちあふれるためであります。
わたしは彼らに御言を与えましたが、世は彼らを憎みました。
わたしが世のものでないように、彼らも世のものではないからです。
わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、彼らを悪しき者から守って下さることであります。
わたしが世のものでないように、彼らも世のものではありません。
真理によって彼らを聖別して下さい。あなたの御言は真理であります。
あなたがわたしを世につかわされたように、わたしも彼らを世につかわしました。
また彼らが真理によって聖別されるように、彼らのためわたし自身を聖別いたします。
わたしは彼らのためばかりではなく、彼らの言葉を聞いてわたしを信じている人々のためにも、お願いいたします。
父よ、それは、あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、みんなの者が一つとなるためであります。すなわち、彼らをもわたしたちのうちにおらせるためであり、それによって、あなたがわたしをおつかわしになったことを、世が信じるようになるためであります。
わたしは、あなたからいただいた栄光を彼らにも与えました。
それは、わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためであります。
わたしが彼らにおり、あなたがわたしにいますのは、彼らが完全に一つとなるためであり、また、あなたがわたしをつかわし、わたしを愛されたように、彼らをお愛しになったことを、世が知るためであります。 (ヨハネ 17:11-23)
神の管理する領域は、私たちのいる銀河系だけではありません。
ジョセフ・フィールディング・スミス長老は、こう語っています。
「私ははっきり申し上げる。
生命は自然発生的にこの地上で始まったのではない。
生命の起源はここではなかった。
生命はこの太陽系が存在し始めるはるか昔から存在した。
事実は、神のかたちにかたどって男と女とに創造された人が存在しなかった時はなかった、ということである。
主はジョセフ・スミスに、人は初めに神とともにあったという真理を啓示された。(教義 93:21-26)……
主は創造の業について、また数多くの惑星を作られたことについて私たちに知らされた。
この啓示からすると、人の存在に始まりはなく、宇宙のどこかに人が存在しなかった時は一度もなかったのである。
そして、この地球に人を住まわせる時がくると、主なる神はほかの惑星から今日地上に見られる生命を移された。
神は人を御自身の形に似せて創られた。
もし地球を抜け出してほかの被造物、宇宙の他の世界を訪れることができれば、そこにも私たちによく似た人々が住んでいるのを発見するだろう。
なぜなら彼らも神の子であって、私たちと同じ種族だからである。
あるいは彼らの方が水準が高いかもしれないが彼らも私たちと同じように神の姿形をしているであろう。
アダムは穴居人ではなかった。
それどころか、姿、資質ともに最も私たちの御父であり創造者である方に近い完全な人であったと思われる。」 (『救いの教義』 1:135-136)


M・ラッセル・バラード長老は、こう述べています。
「今日、ハッブル宇宙望遠鏡によりモーセが見たものの重要性が確認されました。
科学者たちによると、地球と太陽はこの銀河系のごく一部であり、この銀河系ですらそれと似たような2000億を超える銀河の1つにすぎないとのことです。
神の被造物はあまりにも広大なので、私には理解し難く、考えのおよばないものです。」 (「これがわたしの業であり、わたしの栄光である」 総大会 2013年4月)
ニール・A・マックスウェル長老は、こう述べています。
「複数の銀河や星たち、そして多くの世界を統括しておられる神が、個人の生活における神の業を認めるように私たちに求められるのは当然です。(教義 59:21参照)〔英語は銀河と星が複数形〕」 (「愛の腕の中に抱かれて」 総大会 2002年10月)
ディーター・F・ウークトドルフ管長は、こう述べています。
「私たちは宇宙について知れば知るほど、モーセが知ったことを少しなりとも分かるようになります。
宇宙は非常に大きく神秘的で壮大なので、人の頭では理解できません。
『無数の世界を、私は創造した』と神はモーセに言われました。(モーセ 1:33)
驚嘆の夜空は、その真理の美しい証です。
夜の闇の中を海や陸を越えて飛び、操縦席の窓から無数の星の輝きを見るときほど、息をのむような畏敬の念に満たされることはありません。
宇宙飛行士は宇宙の星を数えようと試みてきました。
科学者のあるグループは、望遠鏡で見える範囲にある星の数だけでも、世界の砂浜や砂漠にある砂粒の合計よりも10倍多いと推定しています。(アンドリュー・クレーグ “Astronomers Count the Stars,” BBC News 2003年7月22日付参照)
この結論は、古代の預言者エノクが述べたことに驚くほど似ています。
『人が地の微粒子、まことにこの地球のような幾百万の地球を数えることができたとしても、それはあなたが創造されたものの数の始めにも至りません。』(モーセ 7:30)」 (「あなたは御父にとって大切な存在です」 総大会 2011年10月)
地球は生物です。
それから、エノクは地を見た。
すると、地の中から声が聞こえた。
「災いだ。人々の母であるわたしは、災いだ。
わたしの子供たちの悪事のゆえに、わたしは苦しみ、疲れている。
わたしはいつ安息を得て、わたしより出た汚れから清められるのか。
わたしの創造主はいつわたしを聖めてくださり、わたしが安息を得て、義がしばらくの間わたしの面にあるようにしてくださるのか。」 (モーセ 7:48)
地球は母とあるように、ヤハウェ(イエス・キリスト)と会話をするイエス・キリストに従う女性であり、知能と感情があり、汚れから清められることを望んでいると言っています。

最初地球は霊体として、日の栄えの世界の神の御座に最も近いコロブの近くに存在していました。

そして、当時地球にいた生物とともに「月の栄え」の体を得て、月の栄えの状態に変化し、コロブの近くから離れ、どこかは不明ですが太陽と月の光が届く当時いた場所に移動しましまた。
この太陽系は、コロブの近くにあったと思われます。

そして、アダムの堕落後に、地球は「星の栄え」の状態になって、現在の太陽系の位置に移動しました。

アダムの堕落前の時代、動物たちは弱肉強食で殺し合いませんでした。
人も動植物も月の栄えの体なので食事はしません。
すべての生物は、月の栄の体で月の栄えの栄光によって生きていました。
地球はアダムの堕落の影響により、星の栄えの世界となっています。
太陽はプラズマの物理作用で、日の栄えの世界へ出入り口にもなりますが、堕落後は星の栄えの状態の私たちが太陽に近づいたら高温と高重力で死にます。
神は人を追い出し、エデンの園の東に、ケルビムと、回る炎のつるぎとを置いて、命の木の道を守らせられた。 (創世 3:24)
神は天界に入らないように、回る炎(太陽フレア)を剣にして天界に入る人間の足を止めさせていることになります。


太陽フレアとは、太陽の大気中に発生する爆発現象


そして、地球のバプテスマであるノアの時代の洪水をへて、現在の地球の姿になりました。

ジョン・テーラーは、このように述べました。
「私たちは霊界〔前世である霊の世界〕でこの地球に来ることを切望し、そのときがなかなかこないのでため息をつきながら、自分が地球に行く番が早くくるように天父に祈っていた。
その地球は、最初にコロブの近くで組織されたが遠くに離された。」 (Mormon prophet Liahona 5 No.38 1908年3月7日)
1847年、ブリガム・ヤングは地球の歴史について声明を述べました。
「地球は、主が地球を聖別され、清められ、栄光化され、神から遠い宇宙に落とされた場所から、神の前に地球を戻されるとき、神に忠実であり、地球を受け継ぐにふさわしいことを証明した者の住む場所として特別に造られました。……
地球が造られ、存在するようになり、人がその上に置かれたとき、地球は私たちの天の御父の玉座近くにありました。
そして人類が堕落したとき、地球は宇宙に落ち、この惑星系にその位置を定めました。
そして太陽が私たちの光となったのです。
主が「光あれ」と言われたとき、光が存在し、日中私たちに光を与えることができるように、地球の表面に反射する太陽の近くに地球が持ってこられたのです。
そして月は夜に光を与えるようになりました。
これが地球がもと来た所の栄光です。
そして地球が栄光化されるとき、御父の前に再び戻り、そこに住み、私が目の前にしているこれらの英知ある人々は、もしこれにふさわしく生活するなら、この地球上に住むのです。」 (『ブリガム・ヤング講話集』 17巻 p.144)
また、ブリガム・ヤングは、こう述べています。
「父なるアダムが、私たちが土からレンガを作るように創造されたという哲学者たちよ。
何とばかげた理論だろうか。
野の獣が同じ方法で創造されたと語る者よ、何と無意味な話だろうか。
神々の住む永遠の中にそのようなことはない。
人類は別の惑星から最初にここにもたらされた両親の子孫としてここにいるのである。
そして人類は、種として繁栄する能力を授けられ、増えて地に満ちよと命じられたのだ。」 (Journal of Discourse 7 p.285 1859年 ブリガム・ヤング)
この別のほかの惑星とは、人々や動植物の生き物が霊体のときに日の栄えの世界の「前世」で住んでいた惑星のことでおそらく「コロブ」のこと思われます。
預言者ジョセフ・スミスによって書かれる詩には、こうあります。
「コロブでの会議から、地球上での時間へ」 (“A Vision,” p.82)
創造 (動画) ラッセル・M・ネルソン長老 十二使徒定員会

神世第2代について『古事記』はこう記しています。
「次に豊雲野神(トヨクモノノカミ)。
この二柱の神も独神と成りまして身を隠したまひき」
「豊雲野神(トヨクモノノカミ)」は、「日本書紀」における「豊斟淳尊(トヨクムヌノミコト)」と同一神です。
1人で一代と数えられているわけです。
「豊雲野神」とは「豊かな雲と野の神」で、雲は「天空」を、野は「大地」を象徴します。
雲と野で、天地を分けたことを意味しているのです。
神はまた言われた、「水の間におおぞらがあって、水と水とを分けよ」。
そのようになった。神はおおぞらを造って、おおぞらの下の水とおおぞらの上の水とを分けられた。
神はそのおおぞらを天と名づけられた。夕となり、また朝となった。第二日である。 (創世 1:6-8)
さらにまた、神であるわたしは、『水の間に大空あれ』と言った。
すると、わたしが語ったようになった。
また、『大空が水と水とを分けよ』と言った。
すると、そのようになった。
神であるわたしは大空を造り、水を、すなわち、大空の下の大いなる水と大空の上の水とを分けた。そして、わたしが語ったようになった。
神であるわたしは大空を天と呼んだ。
夕となり、また朝となった。第二日である。 (モーセ 2:6-8)
神々はまた言われた。
「水の間に天空があって、水と水とを分けよ。」
神々は、天空の下にある水と天空の上にある水を分けるように天空に命じられた。
すると、彼らが命じられたようになった。
神々はその天空を天と呼ばれた。夕から朝までを夜と呼び、朝から夕までを昼と呼ばれた。
これが、彼らが夜、昼と呼ばれた第二の時であった。 (アブラハム 4:6-8)


旧約聖書の創世記で「大空」と翻訳されている言葉は、ヘブル語の「広げる」とか「伸ばす」の言葉から出でいます。
最近の翻訳では、「広がり」の語で訳していることも多いです。
ギリシャ語の訳は、ヘブル語の「ラーキーア」を訳すのに、「ステレオーマ」(「堅い固形の構造物」の意)という語を使い、ラテン語の訳も、やはり「固形の堅いもの」という考えを表わすラテン語「フィルマーメントゥム」を使いました。
ジェイムズ王欽定訳、そのほかの多くの英訳聖書は「ラーキーア」を訳す際に先例に従って「ファーマメント」(天空)の英語を使っています。
大空の「下」の水というのは、地球上の表面にある水(海など)と地球内部の水をいい、「上」の水というのは大気中に浮遊する雲の水のことです。
この時、主はつむじ風の中からヨブに答えられた、
「無知の言葉をもって、神の計りごとを暗くするこの者はだれか。
あなたは腰に帯して、男らしくせよ。わたしはあなたに尋ねる、わたしに答えよ。
わたしが地の基をすえた時、どこにいたか。もしあなたが知っているなら言え。
あなたがもし知っているなら、だれがその度量を定めたか。
だれが測りなわを地の上に張ったか。
その土台は何の上に置かれたか。その隅の石はだれがすえたか。
かの時には明けの星は相共に歌い、神の子たちはみな喜び呼ばわった。
海の水が流れいで、胎内からわき出たとき、だれが戸をもって、これを閉じこめたか。
あの時、わたしは雲をもって衣とし、黒雲をもってむつきとし、
これがために境を定め、関および戸を設けて、
言った、『ここまで来てもよい、越えてはならぬ、おまえの高波はここにとどまるのだ』と。 (ヨブ 38:1-11)
ヨブ記 第38章8節に、海の水が流れいで、胎内(地球内部)からわき出たとき、だれが戸をもって、これを閉じこめたかと記されています。
海の水は地球内部から出てきたのです。
ヨブ記 第38章9節に、そのとき(地球創造のとき)、私(ヤハウェ)は雲をその着物とし、黒雲をそのむつきとしたと記されています。
ヤハウェは地球創造のとき、黒雲を地球の「むつきとした」というのです。
「むつき」とは、古代ユダヤ人などが、生まれたばかりの赤ん坊の体をグルグル巻きに包む、産着のことです。
あなたは鋳た鏡のように堅い大空を、彼のように張ることができるか。 (ヨブ 37:18)
ヨブ記 第37章18節で、「あなたは鋳た鏡のように堅い大空を、彼のように張ることができるか。」と光を明るく反射する磨かれた金属製の鏡にたとえています。
天蓋は鏡のように有害な光を反射していたのです。
アメリカ、創造調査研究所(ICR)総主事(現・名誉総裁)でありアメリカ、ミネソタ大学の水力学教授でもある創造論者ヘンリー・M・モリス博士は、こう述べています。
「2日目に、神は大いなる空間をもって、原始の深い所を2つの深みに分けられた。
空間の下の水は海であった。
大空の上の水は、明らかに、より重い物質から分けられるために気体の状態へと変わっていった。
そして、のちに地上に住む生物のための保温作用のおおいとして、大気の上に上昇した。
そのような水蒸気の天蓋は、疑いもなく地球全体のために常に春のような気候を確保する高度で効率のよい温室効果を供給した。
水蒸気は、宇宙からの有害な放射線から地球を防ぎ、外から入ってくる太陽の熱を維持し拡散する。
水蒸気の天蓋は、それゆえに、豊かな動物そして植物の生命のために、そして、人間の生命の寿命や快適さのために、理想的な環境を供給するのである。」 (Henry M. Morris, Ph.D., The Defender's Study Bible, World Publishing Company, 1995, pp. 4-5, notes on Genesis 1:6-7)
モリス博士は大気圏より上の宇宙空間に水蒸気の層を想定していますが、気温が上昇しすぎるので現実的ではありません。
ノアの時代の洪水の以前と以後で、地球環境が変わってしまった大きな要因は、雲の天蓋の喪失です。
この雲の厚みは、最頂部が地上16000mの積乱雲の高さほどだったと思われます。
天蓋は数日で消えてしまう雨雲のような雲ではありません。
長期間存在する上層雲のような安定した雲です。
雲は普通は氷の粒からなっており、上層になるほどに気温が低下して安定するのです。

天蓋があると宇宙線がほとんど地上まで届きません。
雲は地球の表面をおおって太陽光を吸収・反射し、地球をある程度冷ます役割をもっています。
雲の厚さ、雲粒の大きさや形状などによって吸収率や反射率は異なります。
宇宙線のみならず太陽光線の多くを外側の表面で反射してしまうのです。
有害な紫外線は、オゾン層によってほとんどさえぎられました。
とくに可視光線のある程度を反射するので、常に曇り空で地上は薄暗い状態でした。

多くの人は、曇り空だと寒かっただろうと思うかもしれません。
天蓋はある程度の太陽光線を反射しましたが、基本的に短い光線を反射し、波長の長い光線はほどよく透過して赤外線は地上に届き、極地を除き緯度の高低にかかわらず、20℃以上の気候でした。
地上が高圧高温の温室効果の環境であるほど、上層の雲は消え失せず、安定したまま存在し続けることを意味します。
まして、温室効果状態になれば、常に世界中の海から水蒸気が蒸発し、できる雲の規模も今とは比較にならないほど大きくなるのです。
地上に雨が降ってもすぐ別の雲がその上空をおおうか、新たな雲が発生するのです。
古生代とされている木には、ほとんど年輪がありません。
年輪は成長具合の差で色の濃淡が形成され、気温がほとんど変化しなかったり、乾季や雨季がないと成長化が一定なので年輪はできないのです。
創造論者である山形大学の月岡世光元講師は、こう述べています。
「過去の地球においては冬と夏の寒暖の差がなかったからで、1年中温暖だった証拠である。」
また、現在は暖かい地方にしか住まない動物の死体が、実際には地球上のいたる所で見いだされます。
フランスの学者アンリ・デキュジは、こう述べます。
「地球はかつて緯度の高低にかかわらず、一様に温暖、湿潤な気候下にあった。……
島々と大陸には、間断なく生長する巨大な樹木が茂った。……
当時、夏と冬の気温の変化は少なかったのである。
グリーンランドの北緯70度地帯でイチジクの木が発掘され、シベリアでシュロの木が掘り出されている。」
一般に、曇りの日より晴れた日のほうが気温が低く、夜になると寒冷化します。
これは、地上から発する赤外線が宇宙空間へ放射される放射冷却が起こるからです。
ノアの時代の洪水によって天蓋が破壊されたとき、この放射冷却がいきなり地球を襲いました。
それまで天蓋によって、温室効果を得ていた地球は、突如、物質における温度の下限である絶対零度の宇宙空間にむき出しになってしまったのです。
たちまち、地上の気温は低下し、全地球的に平均気温は下がりました。
立ちのぼる火山の噴煙も重なり、巨大な寒冷前線が形成され、それらは徐々に両極に集められていきます。
世界中の水蒸気は、両極上空へと集中し、そのままはるか上空まで吹き上げられます。
莫大な水蒸気の柱は、絶対零度の宇宙空間に接触し一瞬にして冷却され凝固し、そのまま豪雪となって降り注ぎました。
これが北極と南極、両極の氷です。
こうして想像を絶するような豪雪のため、両極は氷に閉じ込められてしまったのです。
ゲージ変換
大気の組成が現代と違うと、年代測定をするうえで具体的にどんな影響が出るのでしょうか。
簡単にいえば100年前の物を測定した場合でも1万年前という数値を出ます。
それは、年代を測る物差しの目盛り(ゲージ)の大きさが変わるのです。
たとえば、1年に1cmの川砂が溜まる河川があったとして、川底の10cm下から出た魚の骨は、斉一説では10年前に死んで沈んだ魚の骨となります。
しかし現実には、河川の上流で局地的な大雨が降れば土砂崩れも起こり、鉄砲水や山津波となれば下流では流れ出た膨大な量の土砂で一度に数cmは埋まってしまうことになります。
台風で堤防が決壊することもあり、10cm下の川底から出た魚の骨を斉一説で算出した10年前の骨と見て果たして正しいのでしょうか。
地球規模から見れば小さな問題に思えますが、その小さな問題と大きな問題が同じ一線上にある以上、それを無視できません。
激変を考慮に入れない斉一説は非現実的であり、同じ基盤に立つ放射性同位体による年代測定法も同様に非現実的なのです。
つまり、恐竜が滅んだのがは6500万年前というのは斉一説のゲージなので誤りなのです。
したがって、本当の年代を知るためには正しくゲージを変換する必要があります。
地球上に巨大な植物群が生い茂り、巨大な恐竜が生息していた時代の大気が、現代と同じだったとするほうが常識的におかしいのです。

アメリカの地質学者ランディスは、8000万年前とされたの琥珀(こはく)に含まれている気体を精密分析し、その時代の大気組成を割り出しました。
その結果、当時の大気は現在の酸素濃度21%に較べ酸素濃度が32から35%もあると判明しました。
イェール大学の地球化学者ロバート・バーナーらは数学モデルを使って過去の大気中の二酸化炭素を算定し、古生代から現代にいたるまで大気中の酸素濃度が変化した「顕生代の炭素循環」という論文を書きました。(The Phanerozoic Carbon Cycle, 2004)
それによると、古生代は高濃度で中生代は逆に低濃度だといいます。
このように、琥珀が証明した現代と恐竜時代の酸素濃度の違いは、両方の時代の間に大きな激変があったことを示す物的証拠で、大激変を否定する斉一説は大きな誤りなのです。
ノアの時代の洪水前は、宇宙から降ってきた大量の水の分だけ増えた洪水後より万有引力がやや少なく、温暖で湿潤な温暖から熱い気候、それによる豊富な食糧、紫外線のほとんどない環境、高い酸素濃度当時の好適な環境が生物の巨大化の要因です。
地球上の動物の体は、酸素濃度を高めてやると代謝が促進され、かつ細胞分裂が活発となり成長が速くなり体が巨大化します。
日本の東北空調管理株式会社は、偶然に発見した活性化酸素の効能をもとに金魚の巨大化に成功しました。
重力が小さかったのみならず、酸素濃度が高かったことを考慮すれば、なぜ海棲爬虫類や魚類、さらには植物も巨大化したのかが合理的に説明ができるのです。
そして、洪水前は酸素濃度が高かったために呼吸数と心拍数が少なかったこと、また重力が小さくて体への負担が少なかったのです。
大洪水前の琥珀に含まれていた当時の大気の分析から、年代測定の基盤となる大気中の放射性同位体の量が現代とは違っていたことが明らかになったのです。
すなわち、恐竜時代は炭素14を含む放射性同位体の量が非常に少なかったのです。
炭素14が少ないということは、それだけ大昔だという数値が出ることを意味しています。
遺物に含まれる炭素14の量が少ないほど、学者たちは年代が多く経過していると受け取るからです。
しかし、それは自然の崩壊によって量が少ないのではなく、もともと少ないということになると測定年代の数値が信用できません。
炭素14で測定された年代がいわれているほどは古くないのです。
恐竜が絶滅したのは、6500万年前ではなく、約4300前のノアの時代の洪水時に滅んだのです。
放射性炭素14法を考えると、かつての地球上に炭素14の量が少なかったとすれば、もともと少ないわけだから、測定時に少ないという理由だけで減った考えて、多くの年月がたっているということにはなりません。
かつてノアの時代の大洪水以前の地球は、厚い雲の天蓋「クラウド・シェルター」でおおわれていたのだから炭素14の生成される割合も現在より少なかったはずです。
「上の水」、空のオゾン層(オゾン生成・分解反応のため高温なので安定)辺りに水蒸気の分厚い層は、宇宙からの一次宇宙線からできる二次宇宙線の主成分である中性子線(一次宇宙線は主として陽子や重水素)が、水の水素原子核(陽子)が中性子とほぼ同じ質量なので効果的に減速して(大きな原子核では同じ速度で跳ね返されなかなか減速しない)その所で止められ、ヘリウム原子核などになります。
したがって、下の大気層中の窒素と反応してできる炭素14の生成量が現在よりも少なかったのです。
そして、約4300年前に地球の環境は激変し、大気の組成に大きな変化が生じました。
ノアの時代の洪水以前の生物遺骸に放射性炭素14法を適用すると、実際よりはるかに古い年代を算出してしまうのです。
天地創造と地球のバプテスマ

神世第3代以降は、すべてペアの神です。
最初の神があり、その次の神には「妹」という漢字が冠されています。
「妹」とは男性が女性をよぶ語で、兄弟のみならず夫婦間にも使用されました。
このことから、これらの神々がみな夫婦であるかのように思えますが、観念の神であるがゆえ実際は単純ではありません。
神世第3代について『古事記』はこう記しています。
「次に成りし神の名は、宇比地邇神(ウヒヂニノカミ)、次に妹 須比智邇神(スヒヂニノカミ)」
「宇比地」とは泥土、「須比智」は砂土を意味します。
同じような意味の言葉ですが、1つだけ違うのは、水を含んでいるかどうかという点で、泥土は水を含み、砂土は水を含みません。
天地創造の第3日目、ヤハウェは、それまで水でおおわれていた大地を乾かしました。
大地は水のある部分と乾いた部分に分かれました。
つまり、海の大地を泥土とし、乾いた大地を砂土としたのが『古事記』なのです。
神はまた言われた、「天の下の水は一つ所に集まり、かわいた地が現れよ」。そのようになった。
神はそのかわいた地を陸と名づけ、水の集まった所を海と名づけられた。
神は見て、良しとされた。
神はまた言われた、「地は青草と、種をもつ草と、種類にしたがって種のある実を結ぶ果樹とを地の上にはえさせよ」。そのようになった。
地は青草と、種類にしたがって種をもつ草と、種類にしたがって種のある実を結ぶ木とをはえさせた。神は見て、良しとされた。
夕となり、また朝となった。第三日である。 (創世 1:9-13)
神であるわたしは、『天の下の水は一つ所に集まれ』と言った。すると、そのようになった。
また、神であるわたしは、『乾いた地あれ』と言った。すると、そのようになった。
神であるわたしは乾いた地を陸と呼び、水の集まった所を海と呼んだ。
そして、神であるわたしは見て、自分が造ったすべてのものを良しとした。
神であるわたしは言った。『地は青草と、種を持つ草と、種類に従って実を結ぶ果樹と、種のある実を結ぶ木を地の上に生えさせよ。』すると、わたしが語ったようになった。
地は青草と、種類に従って種を持つすべての草と、種類に従って種のある実を結ぶ木とを生えさせた。
そして、神であるわたしは見て、自分が造ったすべてのものを良しとした。
夕となり、また朝となった。第三日である。 (モーセ 2:9-13)
神々は命じて、「天の下の水は一つ所に集まり、地は乾いて現れよ」と言われた。
すると、神々が命じられたようになった。
神々は乾いた地を陸と宣言し、水の集まった所を大海と宣言された。
神々はそれらが従うのを見られた。
神々は言われた。
「地を備えて、青草と、種を持つ草と、種類に従って自らの形を生じる種を持つ実を結ぶ果樹を地の上に生えさせよう。」すると、神々が命じられたようになった。
神々は地を組織して、青草がその種から生えるようにし、また草がその種から生え、種類に従って種を生じるようにされた。また地を組織して、木をその種から生えさせ、種類に従って同じもののみを生じる種を持つ実を結ぶようにされた。
神々はそれらが従うのを見られた。
そして、神々は日を数えられた。
夕から朝までを夜と呼び、朝から夕までを昼と呼ばれた。それが第三の時であった。 (アブラハム 4:9-13)

現代の地球科学において、原初の地球はほとんど水でおおわれていたか湿地帯のような状態であったことが分かっています。
大陸地殻は存在しましたが、そのほとんどが起伏の少ない湿地帯のようでした。
神はまた言われた、「天の下の水は一つ所に集まり、かわいた地が現れよ」。そのようになった。 (創世 1:9)
海と陸地が形成された様子です。
球体の地球において水を1つに集めると、陸地も1つになります。
過去の地球には、確かに旧約聖書に登場するような1つの巨大大陸が存在しました。
この記述で非常に興味深いのは、「一つ所に集まり」という箇所です。
これは、急に巨大な海が1つになったのではなく、1つの所に集められるプロセスがあったことを暗示しています。
大陸においても海と同様に1つの所に集められるプロセスがあったことを意味し、初めばらばらだった陸塊が、ある時期に段階的に集合して行き、最後には巨大な1つの大陸である超巨大大陸を形成したのです。
そのとき、海も1つとして集まったのです。
ニーファイ人のマヤ文明の神話として知られる『ポポル・ヴフ』も『聖書』と同様の記述があります。
「やがて大陸が、彼らによって形造られた。
2人の英知が命ずると、大陸はたちまちでき上がった。
大陸の形成ば実際にこのようにして行われたのだ。
霞のごとく、雲のごとく、砂塵のごとく、水の中から山々が現れ出て、それはたちまち大きく成長して行ったのである」
大陸が大きく成長して行ったという点が、陸塊が集まって巨大化したことが示されています。
創造に関して、ブルース・R・マッコンキー長老は、こう教えています。
「別の種への進化または変化ということは、神の御心にはなかったのである。」 (「キリストと創造」 『聖徒の道』 1983年9月 p.39)
これらの聖句は、遺伝の法則(メンデルの法則)の基本的な事象が、創造に関する記録の、創世記第1章、モーセの書第2章、アブラハムの書第4章の3つの記録に表れています。
それぞれの記録の中で「種類にしたがって」という言い回しが、何度となく使われています。
アブラハムは第4章11~12節でこの点を強調していて、31節には神がこの地球に与えられた律法は変わらないということをさらに強調していると思われます。
ジョセフ・スミスは、こう述べています。
「神は一定かつ不変の法則をいくつか定められた。
たとえば神は、太陽や月や星を天に置き、それに法則や条件や限界を与えられた。
これは、神の命令なくしては越えることのできないものである。
太陽や月や星は、その軌道上を秩序正しく完全に調和を保って運行し、私たちにとって光となり、驚異となり、しるしとなっている。
海にもやはり越えることのできない限界がある。
神はこの地上にも、天にも、たくさんのしるしを置かれた。
たとえば森の大木、木の実、野の草といったものは皆、種子がそこにまかれたというしるしを持っていることになる。
それは、種子を持つあらゆる木や草が自分と同じ種類の種子を生じ、けっしてほかの法則や原理に従って生殖しないのが法則だからである。」 (『教え』 p.197-198)







地上の生物が自分と同じ種類の子孫を生じ、けっしてほかの法則や原理に従って生殖しないのは、その創造主の「命令」によるということになります。
進化論のうそ

第4代は、神世七代の中で可解な神の登場です。
神世第4代について『古事記』は、こう記しています。
「次に角杙神(ツノグイノカミ)、次に妹 活杙神(イクグイノカミ)」
ともに「杙(くい)」という文字が共通していますが、これは「杭」と同じ言葉です。
そのまま直訳すれば、「角杙」は角のような形をした杭で、「活杙」は活き活きとした生命力あふれる杭という意味になります。
これは牛や馬をつないでおく杭を意味します。
ヘブル語で「角」は「KRN」(ケラン)と表記します。
ところが、輝くとか光ることを意味する言葉も「KRN」(カーラン)と表記します。
実際は、読むときにそれぞれ別々の母音を補って発音するのですが、往々にして光を誤訳してしまうことがあります。
中国の天文学、占星術では、「角宿(すぼし)」という星があります。
日本における二十八宿図は、紀元7世紀~8世紀ごろに造られた奈良県高市郡明日香村の高松塚古墳や奈良県高市郡明日香村の南西部、阿部山に築かれたキトラ古墳の壁画で白虎などの四神とともに見つかっており、中国の天文学体系がこのころには渡来していたことを伺わせます。
つまり「角杙神」の「角」とは光、もしくは星を意味するのです。
そこで、天空に置いたという部分を、つなぎ止めて周期的に回転させるようにしたと解釈すれば、まさに「杙(くい)」の意味が明らかになります。
つまり、「角杙神」は自ら光を発する太陽のことであり、「妹活杙神」は太陽の光を受けて光る月のことなのです。
神はまた言われた、「天のおおぞらに光があって昼と夜とを分け、しるしのため、季節のため、日のため、年のためになり、天のおおぞらにあって地を照らす光となれ」。そのようになった。
神は二つの大きな光を造り、大きい光に昼をつかさどらせ、小さい光に夜をつかさどらせ、また星を造られた。
神はこれらを天のおおぞらに置いて地を照らさせ、
昼と夜とをつかさどらせ、光とやみとを分けさせられた。神は見て、良しとされた。
夕となり、また朝となった。第四日である。 (創世 1:14-19)
神であるわたしは言った。『天の大空に光があって、昼と夜とを分け、しるしのため、季節のため、日のため、年のためになり、天の大空にあって地を照らす光となれ。』すると、そのようになった。
神であるわたしは二つの大きな光を造り、大きい光に昼をつかさどらせ、小さい光に夜をつかさどらせた。大きい光とは太陽であり、小さい光とは月であった。
また、もろもろの星も、わたしの言葉に従って造られた。
神であるわたしは、これらを天の大空に置いて地を照らさせ、太陽に昼をつかさどらせ、月に夜をつかさどらせ、光と闇とを分けさせた。
そして、神であるわたしは見て、自分が造ったすべてのものを良しとした。
夕となり、また朝となった。第四日である。 (モーセ 2:14-19)
神々は天の大空に光を組織して、それらに昼と夜とを分けさせ、またそれらを組織して、しるしのため、季節のため、日のため、年のためとならせ、またそれらを組織して、天の大空にあって地を照らす光とならせられた。すると、そのようになった。
神々は二つの大きな光を組織して、大きい光に昼をつかさどらせ、小さい光に夜をつかさどらせられた。また、小さい光とともにもろもろの星も置かれた。
神々はこれらを天の大空に置いて地を照らさせ、昼と夜とをつかさどらせ、光と闇とを分けさせられた。
神々は命じられたこれらのものが従うまで見守られた。
夕から朝まで夜があり、朝から夕まで昼があった。それが第四の時であった。 (アブラハム 4:14-19)


天の大空にある大きい光りとは太陽であり、小さい光りは月を意味しています。
ここでは、太陽が光り、月が光る段階になります。
ヘブル語の「マーオール」の語が用いられており、この語は「光の源」を指します。
今の太陽系で太陽が光を発したのは、創世記の第4日目です。

神世第5代になると、男女の別が非常に強調されてきます。
神世第5代について『古事記』は、こう記しています。
「次に意富斗能地神(オオトノジノカミ)、次に妹 大斗乃弁神(オオトノベノカミ)」
先述したように「妹」とは女性を表す言葉ですが、それとは別にこれらの神々の名には、もう一度性別が強調されています。
語尾にある「地」は男性を意味し、「弁」は女性を意味します。
一方、語幹である「意富斗」と「大斗」は、ともに「オオト」で、「大所」、すなわち世界そのものを意味しています。
性別が存在するのは、生物で植物よりは動物です。
天地創造において、植物は第3日目にすでに創造されています。
神はまた言われた、「地は青草と、種をもつ草と、種類にしたがって種のある実を結ぶ果樹とを地の上にはえさせよ」。そのようになった。
地は青草と、種類にしたがって種をもつ草と、種類にしたがって種のある実を結ぶ木とをはえさせた。神は見て、良しとされた。
夕となり、また朝となった。第三日である。 (創世 1:11-13)
『古事記』は、雌雄の別を強調することによって、生物を示唆し増えていく様子を表現しています。

神はまた言われた、「水は生き物の群れで満ち、鳥は地の上、天のおおぞらを飛べ」。
神は海の大いなる獣と、水に群がるすべての動く生き物とを、種類にしたがって創造し、また翼のあるすべての鳥を、種類にしたがって創造された。神は見て、良しとされた。
神はこれらを祝福して言われた、「生めよ、ふえよ、海の水に満ちよ、また鳥は地にふえよ」。
夕となり、また朝となった。第五日である。
神はまた言われた、「地は生き物を種類にしたがっていだせ。家畜と、這うものと、地の獣とを種類にしたがっていだせ」。そのようになった。
神は地の獣を種類にしたがい、家畜を種類にしたがい、また地に這うすべての物を種類にしたがって造られた。
神は見て、良しとされた。 (創世 1:20-25)
神であるわたしは言った。
『水は命を持つ動く生き物を豊かに生じ、鳥は地の上、天の大空を飛べ。』
神であるわたしは、海の大いなる獣と、水に群がるすべての動く生き物とを、種類に従って創造し、また翼のあるすべての鳥を、種類に従って創造した。
そして、神であるわたしは見て、自分が創造したすべてのものを良しとした。
神であるわたしはこれらを祝福して言った。
『生めよ、増えよ、海の水に満ちよ。また鳥は地に増えよ。』
夕となり、また朝となった。第五日である。
神であるわたしは言った。『地は生き物を種類に従って出せ。家畜と、這うものと、地の獣とを種類に従って出せ。』すると、そのようになった。
神であるわたしは、地の獣を種類に従い、家畜を種類に従い、また地を這うすべてのものを種類に従って造った。
そして、神であるわたしは見て、これらすべてのものを良しとした。 (モーセ 2:20-25)
神々は言われた。「水を備えて、命を持つ動く生き物を豊かに生じさせ、また鳥が地の上、天の大空を飛ぶようにさせよう。」
神々は水を備えて、海の大いなる獣と、水に群がるすべての動く生き物とをその種類に従って生じさせ、また翼のあるすべての鳥をその種類に従って生じさせられた。
そして、神々はそれらが従うのを見、またその計画が良いのを見られた。
神々は言われた。
「わたしたちはこれらを祝福して、生み、増え、海の水すなわち大海に満ちるようにさせ、また鳥も地に増えさせよう。」
そして、夕から朝までを、神々は夜と呼ばれた。また、朝から夕までを、昼と呼ばれた。
それが第五の時であった。
神々は地を備えて、生き物をその種類に従って生じさせ、家畜と、這うものと、地の獣とをその種類に従って生じさせられた。そして、神々の言われたようになった。
神々は地を組織して、獣をその種類に従い、家畜をその種類に従い、また地を這うすべてのものをその種類に従って生じさせられた。
神々はそれらが従うのを見られた。 (アブラハム 4:20-25)





サンゴに擬態しているピグミーシーホース

花に擬態するハナカマキリ

雌が木の葉形に似ているコノハムシ







神世第6代では、天地創造が完成に近づきます。
神世第6代について、『古事記』は、こう記しています。
「次に於母蛇流神(オモダルノカミ)、次に妹、阿夜訶志古泥神(アヤカシコネノカミ)。」
於母蛇流(オモダル)は、日本書紀では、「面足尊(オモダルノミコト)」と記述します。
これは、「大地の表面(オモ=面)が完成した(タル=足る)」の意味です。
阿夜訶志古泥神(アヤカシコネノカミ)は、日本書紀では、「惶根尊(カシコネミコト)」。
「あや」とは「あやに」という副詞です。
したがって「あやに畏し(かしこし)」は、恐れ褒めたたえること、優れている意味です。
神はまた言われた、「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」。
神は自分のかたちに人を創造された。
すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。
神は彼らを祝福して言われた、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」。
神はまた言われた、「わたしは全地のおもてにある種をもつすべての草と、種のある実を結ぶすべての木とをあなたがたに与える。これはあなたがたの食物となるであろう。
また地のすべての獣、空のすべての鳥、地を這うすべてのもの、すなわち命あるものには、食物としてすべての青草を与える」。そのようになった。
神が造ったすべての物を見られたところ、それは、はなはだ良かった。
夕となり、また朝となった。第六日である。 (創世 1:26-31)
こうして天と地と、その万象とが完成した。
神は第七日にその作業を終えられた。すなわち、そのすべての作業を終って第七日に休まれた。
神はその第七日を祝福して、これを聖別された。
神がこの日に、そのすべての創造のわざを終って休まれたからである。
これが天地創造の由来である。主なる神が地と天とを造られた時、
地にはまだ野の木もなく、また野の草もはえていなかった。主なる神が地に雨を降らせず、また土を耕す人もなかったからである。
しかし地から泉がわきあがって土の全面を潤していた。
主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。
そこで人は生きた者となった。 (創世 2:1-7)
神であるわたしは、初めからわたしとともにいたわたしの独り子に言った。
『わたしたちの形に、わたしたちにかたどって人を造ろう。』そして、そのようになった。
また、神であるわたしは言った。
『彼らに、海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべてのものと、地のすべての這うものを治めさせよう。』
神であるわたしは、自分の形に人を創造した。
わたしの独り子の形に人を創造し、男と女に創造した。
神であるわたしは、彼らを祝福して言った。
『生めよ、増えよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物を治めよ。』
また、神であるわたしは人に言った。
『見よ、わたしは全地の面にある種を持つすべての草と、種のある実を結ぶすべての木をあなたがたに与えた。これはあなたがたの食物となるであろう。
また地のすべての獣、空のすべての鳥、地を這うすべてのもの、すなわちわたしが命を授けるものには、食物としてすべての清い草が与えられるであろう。』そして、わたしが語ったようになった。
神であるわたしは、自分が造ったすべてのものを見たところ、見よ、わたしが造ったすべてのものは非常に良かった。
夕となり、また朝となった。第六日である。」 (モーセ 2:26-31)
「こうして天と地と、その万象が完成した。
神であるわたしは、第七日にわたしの業を終えた。すべてのものを、わたしは造り終えていた。
そして、わたしは第七日にわたしのすべての業を離れて休んだ。
わたしが造ったすべてのものは仕上げられた。神であるわたしは見て、それらを良しとした。
神であるわたしは第七日を祝福して、これを聖別した。わたしはこの日に、神であるわたしが創造し、造った、すべてのわたしの業を離れて休んだからである。
さて見よ、わたしはあなたに言う。これが天地創造の由来である。
主なる神であるわたしが天と地を造ったとき、地にはまだ野の植物もなく、また野の草も生えていなかった。
主なる神であるわたしは、わたしが語ったすべてのものを、それが地の面に自然に存在するに先立って霊的に創造した。主なる神であるわたしは、地の面にまだ雨を降らせていなかったからである。
主なる神であるわたしは、人の子らをすべて創造していたが、まだ土を耕す人はいなかった。
わたしは彼らを天で創造したのである。
そして、地上にも、水の中にも、空にも、まだ肉なるものはいなかった。
しかし、主なる神であるわたしが語ると、霧が地から立ち上って、土の全面を潤した。
主なる神であるわたしは、土のちりで人を形造り、命の息をその鼻に吹き入れた。
そこで人は生けるもの、地上における最初の肉なるもの、また最初の人となった。
しかしながら、すべてのものは以前に創造されたが、それは、わたしの言葉に従って霊的に創造され、造られたのである。 (モーセ 3:1-7)
神々は地を備えて、生き物をその種類に従って生じさせ、家畜と、這うものと、地の獣とをその種類に従って生じさせられた。そして、神々の言われたようになった。
神々は地を組織して、獣をその種類に従い、家畜をその種類に従い、また地を這うすべてのものをその種類に従って生じさせられた。
神々はそれらが従うのを見られた。
神々は協議して言われた。
「降って行って、わたしたちの形に、わたしたちにかたどって人を形作ろう。
そして、彼らに、海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべてのものと、地のすべての這うものを治めさせよう。」
そこで、神々は降って行って、御自分の形に人を組織し、神々の形に人を形造り、男と女に形造られた。
そして、神々は、「彼らを祝福しよう」と言われた。また、神々は言われた。
「彼らに、生み、増え、地に満ち、地を従わせるようにさせよう。
また、海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物を治めさせよう。」
また、神々は言われた。
「見よ、わたしたちは全地の面に生える種を持つすべての草と、実を結ぶすべての木を彼らに与えよう。まことに、種を生じる木の実を彼らに与えよう。それは彼らの食物となるであろう。
また地のすべての獣、空のすべての鳥、地を這うすべてのものに、まことに、命を与えよう。
さらに、これらに食物としてすべての青草を与えよう。
すべてこれらのものはこのようにして組織されるであろう。」
神々は言われた。
「わたしたちは言ったことをすべて行い、これらを組織しよう。見よ、これらはよく従うであろう。」
そして、夕から朝までを夜と呼び、朝から夕までを昼と呼ばれた。
神々は第六の時を数えられた。 (アブラハム 4:24-31)
「このようにしてわたしたちは天と地と、その万象を完成しよう。」
神々は互いに言われた。「第七の時に、わたしたちの協議した業を終えよう。
そして、第七の時に、わたしたちの協議したすべての業を離れて休もう。」
神々は第七の時に終えられた。
第七の時に、神々は協議して形造ったすべての業を離れて休もうとされたからである。
そして、それを聖別された。
神々が天と地を形造ろうとして協議したときに決められたことは、このとおりであった。
これが、神々が降って来て、これらを形造られた天地創造の由来である。神々が天と地を形造られたとき、すべて神々が言われたとおりに、野のすべての植物については、地にはまだそれが生えておらず、また野のすべての草も生えていなかった。
神々がこれらを行うことを協議されたとき、地にまだ雨を降らせておらず、土を耕す人も形造っておられなかったからである。
しかし、霧が地から立ち上って、土の全面を潤した。
神々は土のちりで人を形造り、彼の霊(すなわち、人の霊)を取ってそれを彼の中に入れられた。
そして、命の息をその鼻に吹き入れられると、人は生けるものとなった。 (アブラハム 5:1-7)
第6日目は、人間が創造されます。
これによって、地上は水と植物、そして動物、人間とすべて必要なものが揃いました。
実に、面足です。
そして、最後に神は創造されたものを見て、はなはだ良かったと感想を述べました。
これが、あやに畏し(かしこし)です。
『古事記』は神の天地創造のすばらしさを神の名として記述しました。
神世第7代目は、伊邪那岐、伊邪那美の登場です。
神世第7代について、『古事記』はこう記しています。
「次に伊邪那岐(イザナギ)神、次に妹 伊邪那美(イザナミ)神」
ここへきて、やっと「妹」という言葉が本来の意味で使用されています。
イザナギとイザナミは夫婦で、アダムとエバのことです。

一般にイザナギとイザナミは、イザナ・ギ と イザナ・ミ と別けて考えられていますが違います。
「イザ」はヘブル語で「神の救い」を意味し、預言者イザヤの名前もここに由来しています。
そして、王子、統治者は「ナギッド」で実際の発音は語尾が脱落するため「ナギ」となります。
たとえば『旧約聖書』のダニエル書 第9章25節では油注がれた(選ばれた)王子のことを(メシアッ・ナギ)とよび、この言葉は救世主を意味します。
それゆえ、エルサレムを建て直せという命令が出てから、メシヤなるひとりの君が来るまで、七週と六十二週あることを知り、かつ悟りなさい。
その間に、しかも不安な時代に、エルサレムは広場と街路とをもって、建て直されるでしょう。 (ダニエル 9:25)
神の救いの統治者で、預言者アダムにふさわしい呼び名です。
また、ヘブル語にはナギッドと同義語の「ナミ」と発音される言葉もあり、イザナミの語源になったと思われます。
さらに、2人ともイザナにギとミがつく名前です。
イザナは誘(いざな)うの意味で、一緒に行動するように勧めるという意味です。



サタンは、前世ですでに多くの者を引き寄せて自分に従わせていたので、蛇の心の中に思いを入れエバもだまそうとしました。
主なる神であるわたしは、モーセに語って言った。
「あなたがわたしの独り子の名によって命じたあのサタンは、初めからいた者である。
彼はわたしの前に来て言った。
『御覧ください。わたしがここにいます。わたしをお遣わしください。わたしはあなたの子となりましょう。そして、わたしは全人類を贖って、一人も失われないようにしましょう。必ずわたしはそうします。ですから、わたしにあなたの誉れを与えてください。』
しかし見よ、初めからわたしが愛し選んだ者であるわたしの愛する子は、わたしに、『父よ、あなたの御心が行われ、栄光はとこしえにあなたのものでありますように』と言った。
あのサタンはわたしに背いて、主なる神であるわたしが与えた、人の選択の自由を損なおうとしたので、またわたしの力を自分に与えるように求めたので、わたしは独り子の力によって彼を投げ落とさせた。
そして、彼はサタン、すなわち、あらゆる偽りの父である悪魔となって、人々を欺き、惑わし、またまことに、わたしの声を聴こうとしないすべての者を自分の意のままにとりこにする者となった。
さて、主なる神であるわたしが造った野の生き物のうちで、蛇が最も狡猾であった。
そこで、サタンは(すでに多くのものを引き寄せて自分に従わせていたので)蛇の心の中に思いを入れ、エバもだまそうとした。彼は神の思いを知らなかったので、世を滅ぼそうとしたのである。
彼は女に言った。
『園のどの木からも取って食べてはならないと、ほんとうに神が言われたのですか。』(彼は蛇の口を通して語った。)
女は蛇に言った。
『わたしたちは園の木の実は食べることを許されています。
しかし、園の中央に見える木の実については、取って食べてはならない、触れてもならない、死んではいけないから、と神は言われました。』
すると、蛇は女に言った。
『あなたがたはけっして死ぬことはないでしょう。
それを食べる日に、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです。』
女がその木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ、また、ともにいた夫にも与えたので、彼も食べた。
すると、二人の目は開け、自分たちが裸であることを知った。
そこで、彼らはいちじくの葉をつづり合わせて、前掛けとした。
日の涼しいころ、彼らが園の中を歩いていると、主なる神の声が聞こえた。
そこで、アダムとその妻は主なる神の面を避けて、園の木の間に身を隠した。
主なる神であるわたしは、アダムに呼びかけて言った。『あなたはどこへ行くのか。』
すると、彼は答えた。
『園の中であなたの声を聞き、恐れて、身を隠しました。自分が裸であるのを見たからです。』
主なる神であるわたしは、アダムに言った。
『あなたが裸であるのを、だれが知らせたのか。
食べてはならない、食べれば必ず死ぬ、と命じておいた木から、あなたは取って食べたのか。』
そこで、人は答えた。
『あなたがわたしに与えてくださって、わたしとともにいるようにと命じられた女が、その木の実をくれたので、わたしは食べました。』
そこで、主なる神であるわたしは、女に言った。
『あなたは何ということをしたのか。』
すると、女は答えた。
『蛇がわたしをだましたのです。それでわたしは食べました。』
主なる神であるわたしは、蛇に言った。
『おまえはこのことをしたので、すべての家畜、野のすべての獣のうち、最ものろわれる。
おまえは腹で這い回り、一生、ちりを食べるであろう。 (モーセ 4:1-20)


『創世記』の記録では、蛇がエバに語って実を取る様にそそのかしたとありますが、モーセの記録によると、蛇の口を借りてサタン自身が語っていたとなっており、さらにこのサタンは、ほかの所でその象徴として「へびの姿」が使われています。
この巨大な龍、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれ、全世界を惑わす年を経たへびは、地に投げ落され、その使たちも、もろともに投げ落された。 (黙示 12:9)

十二使徒だったジョージ・Q・キャノン長老は、こう述べています。
「悪魔は……私たちを滅ぼすことを狙っている。
天で彼の計画が採用されなかったことの怒り、すなわち神に対しての謀反にしくじったことと神の栄光の前から追放されたことへの怒り、そして体を得られなかったことへの怒りで、彼と彼に従って落とされた者たちは、その恐ろしい出来事の起こったとき以来ずっと、謀反を起こさなかった彼らの兄弟姉妹を滅ぼすことをしきりに願っている。」 (説教集 Collected Discourses, Brian H. Stuy, ed., vol.1)



霊的進歩の過程で、反対のものはしばしばサタンの誘惑という形で現れます。
誘惑とは、悪を遠ざけ善を選ぶ力を試されることで罪を犯し、神ではなくサタンに従うように誘われることです。
モーセ書や創世記の記録は、サタンがエバに近づいたとしか書かれていませんが、末日の啓示はサタンが最初にアダムに近づいたが断られたということを記録しています。
しかしながら、エバはサタンにだまされて、実を取って食べました。
そして、エバが追放されて自分のもとから離れることになると知ったうえで、アダムも取って食べたのです。
エバはエデンの園にいた時点よりもさらに地球の目的についての知識と理解を得たいと望んだので、善悪を知るためには木の実を食べても死なないというルシフェルの虚言にだまされて木の実を食べたと教えています。
つまり、エバは楽園に永遠に住んでいるよりも、人生にははるかに深い然るべき存在理由があるに違いないと信じ、自由意志にともなう危険を自ら進んで受け入れ、その戒めに従わないことを選んだのです。
一方、アダムは、サタンの欺きによってではなく、エバと一緒にいて子供達をもうけるように戒められた「生めよ、ふえよ、地に満ちよ」との最初の戒めを認識していたため、木の実を食べることを選択しました。
神はまた言われた、「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」。
神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。
神は彼らを祝福して言われた、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」。 (創世 1:26-28)
エバが「禁断の木の実」を食べたと知ったとき、アダムはエバと一緒にいてこの子供を殖やし地上に増えるという目的を全うし、天父の計画を遂行することを可能にするには、彼もまた善悪を知る木の実を食べなければならないことを理解していたのです。
善悪を知る木の実を食べることが、「背き」であり「罪」ではないと論じます。
それはけっして罪深い行いではなく、エバにとっても、アダムにとっても自ら責任を持って行った人生の目的を達するための勇気ある必須の行動であったのです。
預言者リーハイは、その子供たちに「アダムが堕落したのは人が存在するためであり、人が存在するのは喜びを得るためである。」と教えました。
わたしリーハイは、自分が読んだことから考えるのだが、記録にあるとおり神の一人の天使が天から落ち、彼は神の御前で邪悪なことを求めたので、悪魔になったと思わざるを得ない。
彼は天から落ちて、とこしえに惨めな状態になったので、全人類もまた惨めな状態にしようとした。
そこで彼、すなわち悪魔であり、あらゆる偽りの父である、あの年を経た蛇は、エバに、『禁断の実を食べなさい。あなたがたは死ぬことがなく、善悪を知って神のようになるであろう』と言った。
アダムとエバは禁断の実を食べた後、エデンの園から追い出され、地を耕すことになった。
そして彼らは、子供をもうけ、まことに全地の家族をもたらした。
また、人の子らの命は、肉にある間に悔い改めることができるように、神の御心によって引き延ばされた。
したがって、彼らの状態は試しの状態となり、彼らの寿命は主なる神が人の子らに与えられた命令で長くされた。
主なる神が、すべての人は悔い改めなければならないと命じられたからである。
主なる神はすべての人に、先祖の背きのために彼らが道に迷った状態にあることを示されたのである。
ところで見よ、アダムがもし背かなかったならば、彼は堕落をせずにそのままエデンの園にいたであろう。
そして創造されたすべてのものは、創造された後の状態そのままで存続したに違いない。
また、すべてのものはとこしえに存続し、終わりがなかったに違いない。
そして、アダムとエバは子供を持たなかったであろう。
また、不幸を知らないので喜びもなく、罪を知らないので善も行わず、罪のない状態にとどまっていたであろう。
しかし見よ、すべての物事は、万事を御存じである御方の知恵によって行われてきた。
アダムが堕落したのは人が存在するためであり、人が存在するのは喜びを得るためである。
そして時が満ちると、人の子らを堕落から贖うためにメシヤが来られる。
人の子らは堕落から贖われているので、すでにとこしえに自由となり、善悪を知るようになっている。
彼らは、神が下された戒めによって、大いなる終わりの日に律法に伴う罰を受けるほかは、思いのままに行動することができ、強いられることはないのである。
そのため、人は肉においては自由であり、人のために必要なものはすべて与えられる。
そして人は、すべての人の偉大な仲保者を通じて自由と永遠の命を選ぶことも、あるいは悪魔の束縛と力に応じて束縛と死を選ぶことも自由である。
悪魔は、すべての人が自分のように惨めになることを求めているからである。
ところで、息子たちよ、わたしはあなたがたが偉大な仲保者に頼り、主の大いなる戒めに聞き従い、主の御言葉に忠実であって、主の聖なる御霊の御心に添って永遠の命を選んでほしいと思っている。
肉の思いとその中に潜む悪に従って、永遠の死を選んではならない。
肉の思いは、悪魔の霊に力を与え、あなたがたを捕らえて地獄に落とし、悪魔は彼自身の王国であなたがたを支配するであろう。
息子たちよ、わたしは自分の試しの生涯が終わろうとするに当たって、これらのわずかな言葉を、あなたがたすべての者に告げておく。
わたしは預言者の言葉に従って善なるものを選んできた。
わたしには、あなたがたの永遠の幸いを願う以外に何の目的もないのである。アーメン。」 (2ニフ 2:17-30)
アダムの堕落
「背き」に当たる英語「transgress」には、「定められている境界や範囲などを踏み越える」という意味もあります。
アダムとエバは永遠にエデンの園にとどまるための境界線を踏み越え、それによって私たちに死すべき世での機会を提供する手助けをしてくれたのです。
アダムとエバがエデンの園に住んでいる間に、反対の事物を与える必要がありました。
それは、選択の自由を活用するには自由意志を使って選択しなければならないからです。
神はアダムとエバが戒めに背き、堕落することを承知しておられました。
神は彼らに、2つの相反する戒めを与えられました。
第1の戒めは、この地上で子孫を増やし、地に満たすで、第2の戒めは禁断の木の実を食べてはならないでした。
善悪の知識の木からの実を食べることは、エデンの園を追放され堕落ににつながることを意味していました。
エデンの園にいる間、彼らは不死不滅と不変の状態で子孫を持つことはできませんでした。
つまり、堕落をしたあとでしか、第1の戒めを守ることができなかったのです。
アダムは自分がしなければならなかったことを行っただけです。
アダムは良い動機でその実を食べました。
またアダムは惑わされなかったが、女は惑わされて、あやまちを犯した。 (1テモテ 2:14)
サタンは初めアダムに善悪を知る木の実を食べるように誘惑しましたが、アダムは善悪を知る木の実を食べてはいけないという戒めを守りました。
次にサタンはエバをアダムと同様に誘惑し、誘惑されたエバは善悪を知る木の実を食べる選択をし、エバはアダムを誘い一緒に善悪を知る木の実を食べるするように勧めました。
アダムは善悪を知る木の実を食べてはいけないという戒めを守り、「義(ギ)」を選び、イザナギと名づけられ、エバは「実(ミ)」を食べることを選び、「イザナミ」と名づけられました。
また、日本神話と同様に、イザナギ(アダム)とイザナミ(エバ)の子孫から天照大神(イエス・キリスト)が生まれます。
そして、古代インド神話には、下半身が蛇である夫婦の神であるナーガ(男)とナーギ(女)がいます。

この下半身が蛇であるのは、古代中国の神話に登場する人類の始祖、伏羲(フツギ)と女媧(ジョカ)と同じです。

ナーガとナーギ、フツギとジョカが下半身を蛇で表現されるのは、蛇に表現されたヤハウェによって2人が創造されたことを意味しています。
旧約時代にモーセは旗竿に青銅製の蛇を掲げ、十字架にかかるイエス・キリストの予型にしました。
モーセの旧約時代には、ヤハウェは蛇として予型にされたのです。
フツギとジョカは、それぞれ手に、L字形の直角定規とV字形のコンパスを持っています。
これは、夫婦がエンダウメントを受け、聖約を保っていることを意味しています。

そして、フツギとジョカが神殿で結婚し、互いに絡み合い男女が夫婦となり一体となって、上昇する様は夫婦がお互いに助け愛し合って、日の栄えの王国に上昇し昇栄することを意味します。
結婚
日の栄えの結婚 ラッセル・M・ネルソン 十二使徒定員会


アダムは、妻をエバと名づけました。
さて、人はその妻の名をエバと名づけた。
彼女がすべて生きた者の母だからである。 (創世 3:20)
神はアダムとエバを「アダム」と名づけました。
神は彼らを、御自分の体の形に、男と女に創造された。
彼らが創造されて、神の足台の上の地で生けるものとなった日に、神は彼らを祝福して、彼らをアダムと名付けられた。 (モーセ 6:9)
ここでは、アダムとエバを「アダム」と名づけられています。
この「アダム」は、「アダム・カドモン(原初の人)」のことです。
完成へ向かうアダムとエバは、「アダム・カドモン(原初の人)」とよばれ、完成した天父は「聖なる人」とよばれます。
天父はこの名前で御自身をアダムに現し、御自分が聖なる人であることを示されました。
それゆえ、あなたの子供たちに次のことを教えなさい。
すなわち、どこにいる人でもすべての人が、悔い改めなければならない。
そうしなければ、決して神の王国を受け継ぐことはできない。
清くない者はそこに住むことはできない。
すなわち、神の前に住むことができないからである。
アダムの言葉で、聖なる人とは神の名である。
また、神の独り子の名は、人の子、すなわちイエス・キリストであり、時の中間に来る義にかなった裁き主である。 (モーセ 6:57)
見よ、わたしは神である。
聖なる人とはわたしの名である。
賢慮の人とはわたしの名であり、無窮も永遠もわたしの名である。 (モーセ 7:35)
ジョセフ・スミスは、こう述べています。
「彼〔御父〕は昇栄した人であり、天の玉座に座っておられる!……
もし今日、彼に会えるならば、神があなた自身のように、一個の人であり、姿を持ち、まさに人間のかたちをしておられるのを見るだろう。
なぜならアダムはまさに神のような姿かたちに形づくられ、神から教えを受け、ちょうど1人の人が別の人とするように神とともに歩き、話し、会話をしたのだから。」 (『教会歴史』 p.305)
ロレンゾ・スノーは、このように述べています。
「人が現在あるごとくに神もかつてあり、神が現在あられるごとくに人もなりえる。」 (トーマス・C・ロムニー The Life of Lorenzo Snow [Salt Lake City: Deseret News Press 1955年] p.46)
ジョセフ・スミスが、1844年にノーブーでキング・フォレットを悼んで行った説教です。
「私は、神がどのようにして神になられたかを話そう。
私たちは神が永劫から神であったと想像していた。
〔神がそうではなかったという考えは〕ある人にとっては理解できないものだ。
しかし、それは純然かつ福音の第一原則、すなわち神の性格を確かに知ることであり、私たちは1人の人が別の人に会話をするように、私たちも神と会話することができる。
私たちすべての御父である神御自身、イエス・キリストと同様、地上に住まわれた。……」
この引用は、ジョセフ・スミスの死の直前に行った説教から抜粋したものです。
ジョセフ・スミスにこの神学的概念をこれ以上詳細に話し合うことはできませんでした。
しかし、ジョセフ・スミス以外の別の指導者や会員もほかの機会に、神がかつて私たち(あるいはイエス・キリスト)のようであったという同様の概念を言明しています。
神のようになる
ジョセフ・フィールディング・スミス長老は、こう述べています。
「一部の人々は預言者ジョセフ・スミスが1844年にノーブーでキング・フォレットを悼んで行った説教に出てくる内容に当惑を覚えている。
不可解に思われている事柄というのは、天父がかつて生と死とを味わい、現在は昇栄した人であるという言明である。
これは奥義の1つであって、一部の人は聖典の他の言葉と矛盾すると考えている。
当然のことながら私たちには現世にいる間で理解できない事柄がたくさんある。
眼前に展開している難解なことを全部つきとめることはできない。
私たちの理解力には限界があり、その結果として、私たちは自分が知っていること、なじみのあるものを基に判断しがちである。
永遠に属する事柄は、私たちが永遠の命という目的地に到達し、すべてのことが明らかにされて初めて理解できるようになるだろう。
聖典の中で、神は『神は無限かつ永遠で、永遠から永遠にわたって変わることのない同じ神であり、天地とその中にある万物を形造られた御方』(教義 20:17)であり、『神は昨日も、今日も、とこしえに変わらない』(モルモン 9:9)、さらに『永遠から永遠にわたって変わらない御方である』(モロナイ 8:18)記されている。
以上の聖句は預言者ジョセフ・スミスが教えた次の教えとどのように調和させることができるだろうか。
『神はかつて現在の私たちのようであった。そして現在は昇栄した人である。……
神はかつて私たちのような人であった。
私たちすべての御父である神御自身、イエス・キリストと同様、地上に住まわれた。……』」 (『救いの教義』 1:10-11)
天父は、人から昇栄し神になった人であり、聖なる人なのです。
これは、人が神に似る者となって昇栄を受け継ぐために、知って理解しなければならない真理です。
地球の火によるバプテスマ
イエス・キリストの再臨は「金をふきわける者の火」(マラキ 3:2)のようであって、「すべて高ぶる者と、悪を行う者とは、わらのようになる」(マラキ 4:1、教義 29:9参照)と述べられています。
「主の臨在は物を溶かす燃える火のようであり、水を沸き立たせる火のようである」(教義 133:41)、また邪悪な者は主の来臨の輝きによって焼き尽くされ、ことごとく滅びうせます。(教義 5:19参照)
さらにこの火は、邪悪な者を滅ぼすと同時に、腐りやすいすべてのものを清めます。(教義 101:23-25参照)

太陽から伸びる超高熱プラズマが地球を襲い、加えて誕生したばかりの灼熱の原始惑星が地球に接近し、放射する磁力線の渦は地球の磁場と反応するや世界規模の超高熱プラズマを発生させます。

地球中心部から地表に向けて放射される高温プラズマの想定図
また、神の僕たちは出て行って、大声でいうであろう。
『神を畏れ、神に栄光を帰しなさい。神の裁きの時が来たからである。
天と地と海と水の源とを造られた御方を礼拝しなさい。』
彼らは、日夜主の名を呼んでいうであろう。
『どうか天を裂いて降って来られますように。あなたの御前に山々が崩れ落ちますように。』
そして、それが聞き届けられるであろう。
主の臨在は物を溶かす燃える火のようであり、水を沸き立たせる火のようである。」 (教義 133:38-41)
わたしはふさわしいときに、裁きのために地上に来る。
そして、わたしの民は贖われ、わたしとともに地上を治めるであろう。
わたしが僕たちの口を通して語った、大いなる福千年が来る。
そして、サタンは縛られる。
また、彼は再び解放されると、しばしの間だけ支配し、その後地球の終わりが来る。
義のうちに生活する者は一瞬のうちに変えられ、地球は火によるかのごとくに過ぎ去るであろう。
悪人は消すことのできない火の中に入るであろう。
彼らの末路を、地上の人はだれも知らず、彼らが裁きのためにわたしの前に来るまで決して知らないであろう。 (教義 43:29-33)
今日が過ぎると、焼き払いがある。
これは主の言い方である。
まことに、わたしはいう。明日、すべて高ぶる者と悪を行う者は、わらのようになる。
わたしは彼らを焼き尽くそう。
わたしは万軍の主である。わたしはバビロンにとどまる者をだれも容赦しない。 (教義 64:24)

地上はプラズマの業火によって焼き尽くされてしまいます。
地球はノアの時代の洪水で水のバプテスマの儀式を受け、末日のイエス・キリストの再臨では火によるバプテスマを受けるからです。
プラズマの炎はすさまじい光学現象をともない漆黒の天空を不気味な青白い光や血の色で染め、まるで意思を持つ生き物のように動きながら、天空から波動的に地上に舞い降りてくるでしょう。
そして、その光景を見られた者がいたとしても、数秒後にはすさまじい炎に包まれ数分で完全に灰と化します。
地球大きさもノアの時代の洪水前の地球に戻っています。




そして、高密度のプラズマ・フィラメントとの遭遇によって急激に膨張を開始した太陽のプラズマは地球を飲み込み、プラズマが持つ高エネルギーによって大気がすべて発光し大気が輝き、ついには夜がなくなります。

地球上の大気が励起して、あたかも蛍光灯のように発光し、太陽から送られてくる電流が地球大気というネオンを発光させているようなもので、太陽と地球がプラズマ流で結ばれることになります。
全宇宙空間に張りめぐらされているプラズマ・フィラメントと同じ物が形成されるのです。
福千年の間、太陽系の惑星は膨張した太陽の中で公転を続けます。
これを外側から見ると1つの巨大な恒星として観測されるでしょう。
地球は福千年時に月の栄えのような状態になり、そののちに太陽系の星々とともに地球は死にます。
福千年が終わったのち、最後の戦いがあり、そののちに日の栄えの神の御座から膨大な光が注がれ、太陽プラズマ領域は臨界点を越えてすさまじい大爆発の超新星を起こします。
太陽系は跡形もなく消滅してしまいます。
そして、地球は日の栄えの体に復活します。

そして、最後の裁きがあり、神の住まう日の栄えの王国につながる通路のプラズマ作用によって空間同士をつなぐプラズマ・トンネルをとおり、永遠の命を得た聖徒とともに移動します。
さらにまた、まことに、まことに、わたしはあなたがたに言う。
千年が終わり、人々が再び彼らの神を否定し始めるとき、わたしはしばしの間だけ地をそのままにしておこう。
そして、終わりが来て、天地は焼き尽くされて過ぎ去り、新しい天と新しい地があるであろう。 (教義 29:22-23)
私はまた、大きな白い玉座と、そこに座っておられる方とを見た。
天も地も、その御前から逃げて行き、行方が分からなくなった。 (黙示 20:11)
ブリガム・ヤング大管長は、このように述べています。
「地球は日の栄えの状態になると太陽のようになり、聖徒たちの住まいとして備えられ、御父と御子の前に戻される。
そして、もはや現在の地球のような光を放たない物体ではなく、天空の星のように光と栄光に満ち、光輝く物体となる。
ヨハネは、日の栄えの状態になった地球をガラスの海にたとえた。」 (『説教集』 7巻 p.163)
また別の機会に次のように述べています。
「この地球は清められて聖なるものとなるとき、すなわち日の栄えの状態になるとき、ガラスの海のようになる。
そして人はそれを覗き込むことによって、過去のことも現在のことも未来のことも知ることができる。
しかし、この特権にあずかれるのは、日の栄えの状態になった者だけである。
彼らが地球を覗き込むと、ちょうど鏡で顔を見るのと同じように、知りたいと思ったことが示されるであろう。」 (『説教集』 9巻 p.87)

復活したイエスは、ユダヤの人々と同様に、古代アメリカの人々に教えられました。
さらにまた、あなたがたがわたしに会ったと証し、わたしが実在することを知っていると証するとき、あなたがたのその言葉を信じる人々は、なおさら幸いである。
まことに、あなたがたの言葉を信じて、心底謙遜になってバプテスマを受ける人々は、幸いである。
彼らは火と聖霊を授かり、罪の赦しを受けるからである。
まことに、わたしのもとに来る心の貧しい人々は、幸いである。
天の王国は彼らのものだからである。
また、悲しむ人々は皆、幸いである。
彼らは慰められるからである。
柔和な人々は、幸いである。
彼らは地〔日の栄えの地球〕を受け継ぐからである。
義に飢え渇いている人々は皆、幸いである。
彼らは聖霊に満たされるからである。
憐れみ深い人々は、幸いである。
彼らは憐れみを受けるからである。
心の清い人々は皆、幸いである。
彼らは神を見るからである。
平和をつくり出す人々は皆、幸いである。
彼らは神の子と呼ばれるからである。
わたしの名のために迫害される人々は皆、幸いである。
天の王国は彼らのものだからである。
わたしのために人々があなたがたをののしり、また迫害し、またあなたがたに対して偽って悪口を言う時には、あなたがたは幸いである。
あなたがたは大きな喜びを得て、非常に喜ぶようになる。
天においてあなたがたの受ける報いは大きいからである。
あなたがたより前にいた預言者たちも、同じように迫害されたのである。 (3ニフ 12:2-12)
人の贖いは、万物を生かす者によって来る。
その者の胸のうちに、地の貧しい者と柔和な者はそれを受け継ぐということが定められている。
それゆえ、地球は日の栄えの栄光に備えられるように、すべての不義から必ず聖められなければならない。
地球はその創造の目的を達した後、栄光、すなわち父なる神の臨在を冠として与えられるであろう。
それによって、日の栄えの王国に属する者たちが、とこしえにいつまでも、これを所有できるようにするためである。
この目的でこれは造られ、創造され、またこのために彼らは聖められるのである。 (教義 88:17-20)
第1章 天におられるわたしたちの御父
第2章 わたしたちの天の家族
第3章 選ばれた指導者、救い主であるイエス・キリスト
第4章 選ぶ自由
第5章 創造
第6章 アダムとエバの堕落
天地創造と地球のバプテスマ
<転載終了>

元初の神は同一とされますが、正しく表現するなら、同一のグループの3人であるということです。
神会は1つですが、3人の神によって形成されています。
3人で1つの神会を形成し、神として臨むときは、一人です。
よって、元初三神として複数の神がかかわるときは、それぞれの神を読み解かなければなりません。
つまり、1人なら御父か御子、もしくは三神が形成する神会で、2人なら御父と御子、3人なら御父と御子と聖霊です。
『古事記』の天地創造では、元初の三神が姿を隠したのち、2人の神が出現します。
宇摩志阿斯詞備比古遅神(ウマシアシカビヒコヂノカミ)と天之常立神(アメノトコタチノカミ)です。
『日本書紀』では可美葦牙彦舅尊と(ウマシアシカビヒコヂノミコト)と天常立神(アメノトコタチノカミ)表記します。
『古事記』にこうあります。
「次に国稚く浮ける脂の如くして、海月なす漂へるとき、葦牙の如く萌え騰るものによりて成りし神の名は、宇摩志阿斯詞備比古遅神、次に天之常立神。
この二柱の神もみな独神と成りまして、身を隠したまひき」
具体的に、宇摩志阿斯詞備比古遅神と天之常立神の二神は2人であるから、天父と御子のことです。
つまり、『古事記』のこの部分は、元初三神が誕生したのち、父なる神がイエス・キリストに命じて、実際の天地創造を行うという宣言文なのです。
漢字以外で古代日本で使用された神代文字の1つ「ヨシテ」を使い五七調の長歌体で記された、少なくとも江戸時代中期まで遡る古文書の『ホツマツタエ』では、次のようになっています。
「太初の神を天の御中主と名づく。
地球八面(くにたまやも)を巡り、人を生みて天に帰り給うた。
然るのち、天祖の神、再び現神と生まれて主君となり、天の常立の道をもって人を教え給うた。
故に其の神を国常立尊と名づく。」
『古事記』では国之常立神(クニノトコタチノカミ)、『日本書紀』では国常立尊(クニノトコタチノミコト)と表記されています。
太初の神は天の御中主=天父です。
天父は人を創造して天に一度帰っています。
そして、神会である天祖の神は現神として生まれて主君となったというのです。
現神とは現世に神として生まれたということです。
そして、天の永遠の命の道を模範と教えで表し、人々に教えました。
ゆえに国常立尊と名づけます。
国常立尊は、イエス・キリストです。
『聖書』では、天父が、ヤハウェ(英語 エホバ)に天地を創造するように命じました。
ヤハウェは天地を創造しましたが、そのときはまだ肉体をもたない霊体の状態でした。
ヤハウェは人も創造しました。
そののち、天にお帰りになりました。
しかし、再び地球に来られイエス・キリストとして肉体を持って、お生まれになったのです。


はじめに神は天と地とを創造された。
地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。 (創世 1:1-2)
混沌だけが存在した世界において、そこに神が存在しました。
三神のうち、御父が御子に命じて具体的に天地創造を行いました。
2人の神が宣言を行ったのち、いよいよ具体的な天地創造を行います。
『古事記』は、これを「神世七代」と称します。
「上の件の国之常立神より下、伊邪那美神(いざなみかみ)より前を併せて神世七代と称ふ」
「7代」の意味は、7日です。
『創世記』の天地創造が全部で7日間で行われました。
7代の神と『創世記』の7日間の天地創造と比較すると、神の名前に天地創造の内容が表現されてます。
神世第1代について『古事記』はこう記しています。
「次に成りし神の名は、国之常立神(クニノトコタチノカミ)」
はじめに神は天と地とを創造された。
地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。
神は「光あれ」と言われた。すると光があった。
神はその光を見て、良しとされた。神はその光とやみとを分けられた。
神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。夕となり、また朝となった。第一日である。 (創世 1:1-5)
この世界の創造は、この世界に来ることになっていた人々にとって、本当の意味での「はじめ」ではありませんでした。
地球の基が置かれる以前に、この人々は前世で、天の両親の霊の子供として一緒に生活していました。
救いの計画
福音
イエス・キリストの福音 L・トム・ペリー長老 十二使徒定員会

天の御父は私たちが御自身のようになれるように、計画を備えてくださいました。
この計画のおかげで、私たちは贖いを通して完全な者となって、満ちみちる喜びを得、永遠に生きることができるようになりました。
リーハイは「アダムが堕落したのは人が存在するためであり、人が存在するのは喜びを得るためである」と宣言しました。(2ニフ 2:25)
最も偉大な喜びは、永遠の命です。
主は「人の不死不滅と永遠の命をもたらすこと、これがわたしの業であり、わたしの栄光である(モーセ 1:39)」と宣言されました。
ブリガム・ヤング大管長は、こう説いています。
「現世に私たちが存在しているのは、父なる神のもとに戻って昇栄するという唯一の目的のためだけである。」 (『ブリガム・ヤング説教集』 p.37)
預言者ジョセフ・スミスは、次のように述べています。
「幸福は、私たちが存在する目的であり、計画である。
また、そこへと続く道を歩み続けるならば、私たちの存在理由となる。
この道は、徳、高潔さ、忠実さ、神聖さ、そして神のすべての戒めを守ることである。」 (Teachings of the Prophet Joseph Smith p.255-56)
ジョセフ・F・スミス大管長は、次のように述べています。
「私たちはどこから来たのか。
神のもとからである。
地球の基が置かれる前に、天上の会議に参加していたのである。……
私たちが、天の軍勢とともに喜びの歌を歌ったのは、この地球の基が置かれ、この地球で生活する計画と贖いの計画が示された時のことであった。……
私たちは確かにその素晴らしい出来事が起こったその会議に参加していた。……
そのとき、サタンは自分の業績と引き換えに御父がその誉れと栄光をくれるのなら、自分が救い主になってもいいと申し出た。……
私たちは、確かにそこにいてその一部始終を見ていた。
私たちの興味と関心は、その偉大な計画と目的とを是が非でも実行に移すことであった。
私たちは、その計画と目的とをよく理解していた。
私たちのためにこそ、そうした計画は定められたのであり、また、その計画が完成することになるのである。」 (ラドロー Latter-day Prophets Speak p.5-6)
このようにすべての人は、どれくらいの長さであるかは分かりませんが、この世界が創造されるはるか以前からずっと存在していたのです。
創世記の冒頭の「はじめに神は天と地とを創造された」の言葉について、重要な点が2つあります。
第1に、「はじめ」という言葉が相対的な時間を表わす言葉であって、永遠の時の流れの開始点を意味する言葉ではないということです。
原典のヘブル語では、神が天と地を創造した当初は、地には形がなく何もなかったという意味です。
これゆえに、「はじめ」とは太陽系、地球での救いの計画を指し示しています。
創世記の始まりは、地球での救いの計画の記述ということになります。
地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。 (創世 1:2)
混沌だけが存在した世界において、そこに神が存在しました。
創世記の「形なく、むなしい」というのは、ヘブル語から解釈してアブラハムの記録を読むと、「地は形造られた後、空しく荒涼とした」状態でした。
英語では「desolate」で住む人がいない、寂しいという意味です。
「地は形なく、むなしく」のヘブル語「トーフー・ワ・ボーフー」の「トーフー」も「ヴォーフー」のヘブル語は「何もない」という意味で、同じ意味を持つ2つの言葉を接続詞「ワ」でつなぎ、何もないことが強調されています。
「トーフー・ワ・ボーフー」は「何もない所、空白な所」を意味しまいますが、「闇の立ちこめた原始の海」というイメージを持ち、同時に3次元的な広がりへの連想にもつながります。
「おおう」とか「抱く」といった言葉は、ヘブル語でちょうど鳥が巣の中で卵を抱いたり守ったりする状態を指す言葉を翻訳した結果です。
めんどりが、ひなをおおう、つまりひなを保護し、温め、養い、守る状態です。

神の霊、神々の御霊、わたし〔エホバ〕の御霊とよばれる創造の力が働きかけて、地上の生命を維持できるように元素を形造って備えさせてますが、「キリストの光」と同じと思われます。
キリストの光とは、キリストを通して神から発せられ、万物に命と光を与える神聖なエネルギーや力、影響力であり、天においても地上においても万物が治められる律法です。 (参照)

ここでの「光」とはイエス・キリストで、イエス・キリスト=国常立尊となります。
イエスは、また人々に語ってこう言われた、「わたしは世の光である。わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことがなく、命の光をもつであろう」。 (ヨハネ 8:12)
ここでの「国」とは、神が管理する宇宙を指します。
常立とは、永遠無窮を意味します。
シモン・ペテロが答えた、「主よ、わたしたちは、だれのところに行きましょう。
永遠の命の言をもっているのはあなたです。 (ヨハネ 6:68)
見よ、神性の奥義は何と深いことか。
見よ、わたしは無窮であり、わたしの手から与えられる罰は無窮の罰である。
無窮とはわたしの名である。
れゆえ、永遠の罰とは、神の罰である。
無窮の罰とは、神の罰である。 (教義 19:10-12)
キリストは世の光であり命であられる。
まことに、決して暗くなることのない無窮の光であり、また決して死ぬことのない無窮の命であられる。 (モーサヤ 16:9)
天地創造における第1日目、神世一代目とは、御父によって御子ヤハウェ(英語 エホバ)=イエス・キリストが創造主として任命されたことを意味するのです。
また、ヤハウェは、贖い主、救い主、裁き主としても任命されました。
救い主だからこそ、イエスは人々を照らす光となったのです。
さて、主はモーセに語って言われた。
「見よ、わたしはこの天とこの地についてあなたに示す。わたしが語る言葉を書き記しなさい。
わたしは初めであり終わりであり、全能の神である。
わたしの独り子によって、わたしはこれらのものを創造した。
まことに初めに、わたしは天とあなたが立っている地とを創造した。
地は形なく、むなしかった。
わたしは深い淵の面に闇を来らせ、わたしの御霊が水の面を動いていた。
わたしは神である。
神であるわたしは、『光あれ』と言った。すると、光があった。
神であるわたしが光を見ると、その光は良かった。神であるわたしは光と闇とを分けた。
神であるわたしは光を昼と呼び、闇を夜と呼んだ。これを、わたしの力の言葉によって行った。
そして、それはわたしが語ったようになった。
夕となり、また朝となった。第一日である。 (モーセ 2:1-5)
その後、主は、「降って行こう」と言われた。そして、彼らは最初に降って行き、彼らすなわち神々は、天と地を組織し、形造られた。
地は形造られた後、むなしく、荒涼としていた。彼らが地のほかに何も形造られておられなかったからである。
そして、闇が深い淵の面を支配し、神々の御霊が水の面を覆っていた。
彼ら(神々)は、「光あれ」と言われた。すると光があった。
彼ら(神々)はその光を知覚された。それが輝いていたからである。
そして、彼らはその光を闇から分けられた、すなわち光が分けられるようにされた。
神々は光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。
夕から朝までを夜と呼び、朝から夕までを昼と呼ばれた。
これが、彼らが昼、夜と呼ばれたものの最初、すなわち初めであった。 (アブラハム 4:1-5)
太初の神は天之御中主で、天父です。
天父の代理としてヤハウェは創造主になります。
御子は御父の指示のもとに働きをなし、御父と完全に一致しておられます。
イエス・キリストに対して、神という言葉を用いている聖句もいくつかあります。
たとえば、「神は天と地とを創造された」(創世 1:1)という聖句がありますが、これは実際には、父なる神の指示のもとに、創造主して働かれたヤハウェ(イエス・キリスト)を指しています。
初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。
この言は初めに神と共にあった。
すべてのものは、これによってできた。
できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。
この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。
光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。
ここにひとりの人があって、神からつかわされていた。その名をヨハネと言った。
この人はあかしのためにきた。光についてあかしをし、彼によってすべての人が信じるためである。
彼は光ではなく、ただ、光についてあかしをするためにきたのである。
すべての人を照すまことの光があって、世にきた。
彼は世にいた。そして、世は彼によってできたのであるが、世は彼を知らずにいた。
彼は自分のところにきたのに、自分の民は彼を受けいれなかった。
しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。
それらの人は、血すじによらず、肉の欲によらず、また、人の欲にもよらず、ただ神によって生れたのである。
そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。
それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた。 (ヨハネ 1:1-14)
神は、むかしは、預言者たちにより、いろいろな時に、いろいろな方法で、先祖たちに語られたが、この終りの時には、御子によって、わたしたちに語られたのである。
神は御子を万物の相続者と定め、また、御子によって、もろもろの世界を造られた。 (へブル 1:1-2)
神会は目的と教えにおいて完全に一致、調和し、1つであられます。
さて、わたしの愛する同胞よ、これが道である。
そして、このほかには人を神の王国に救う道も名も天下に与えられていない。
見よ、これがキリストの教義であって、限りなく一つの神である御父と御子と聖霊の唯一の真正な教えである。アーメン。 (2ニフ 31:21)
わたしと父とは一つである。 (ヨハネ 10:30)
父とわたしとは一つである。わたしは父におり、父はわたしにおられる。
そして、あなたがたがわたしを受け入れたので、あなたがたはわたしにおり、わたしはあなたがたにいる。
それゆえ、わたしはあなたがたの中にいる。
わたしは良い羊飼いであり、イスラエルの石である。
この岩の上に建てる者は、決して倒れることはない。 (教義 50:43-44)
このような方法で、わたしの名によってバプテスマを施しなさい。
見よ、まことに、あなたがたに言う。父と子と聖霊は一つである。
わたしは父におり、父はわたしにおられ、父とわたしは一つである。 (3ニフ 11:27)
わたしはもうこの世にはいなくなりますが、彼らはこの世に残っており、わたしはみもとに参ります。聖なる父よ、わたしに賜わった御名によって彼らを守って下さい。
それはわたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためであります。
わたしが彼らと一緒にいた間は、あなたからいただいた御名によって彼らを守り、また保護してまいりました。
彼らのうち、だれも滅びず、ただ滅びの子だけが滅びました。それは聖書が成就するためでした。
今わたしはみもとに参ります。
そして世にいる間にこれらのことを語るのは、わたしの喜びが彼らのうちに満ちあふれるためであります。
わたしは彼らに御言を与えましたが、世は彼らを憎みました。
わたしが世のものでないように、彼らも世のものではないからです。
わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、彼らを悪しき者から守って下さることであります。
わたしが世のものでないように、彼らも世のものではありません。
真理によって彼らを聖別して下さい。あなたの御言は真理であります。
あなたがわたしを世につかわされたように、わたしも彼らを世につかわしました。
また彼らが真理によって聖別されるように、彼らのためわたし自身を聖別いたします。
わたしは彼らのためばかりではなく、彼らの言葉を聞いてわたしを信じている人々のためにも、お願いいたします。
父よ、それは、あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、みんなの者が一つとなるためであります。すなわち、彼らをもわたしたちのうちにおらせるためであり、それによって、あなたがわたしをおつかわしになったことを、世が信じるようになるためであります。
わたしは、あなたからいただいた栄光を彼らにも与えました。
それは、わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためであります。
わたしが彼らにおり、あなたがわたしにいますのは、彼らが完全に一つとなるためであり、また、あなたがわたしをつかわし、わたしを愛されたように、彼らをお愛しになったことを、世が知るためであります。 (ヨハネ 17:11-23)
神の管理する領域は、私たちのいる銀河系だけではありません。
ジョセフ・フィールディング・スミス長老は、こう語っています。
「私ははっきり申し上げる。
生命は自然発生的にこの地上で始まったのではない。
生命の起源はここではなかった。
生命はこの太陽系が存在し始めるはるか昔から存在した。
事実は、神のかたちにかたどって男と女とに創造された人が存在しなかった時はなかった、ということである。
主はジョセフ・スミスに、人は初めに神とともにあったという真理を啓示された。(教義 93:21-26)……
主は創造の業について、また数多くの惑星を作られたことについて私たちに知らされた。
この啓示からすると、人の存在に始まりはなく、宇宙のどこかに人が存在しなかった時は一度もなかったのである。
そして、この地球に人を住まわせる時がくると、主なる神はほかの惑星から今日地上に見られる生命を移された。
神は人を御自身の形に似せて創られた。
もし地球を抜け出してほかの被造物、宇宙の他の世界を訪れることができれば、そこにも私たちによく似た人々が住んでいるのを発見するだろう。
なぜなら彼らも神の子であって、私たちと同じ種族だからである。
あるいは彼らの方が水準が高いかもしれないが彼らも私たちと同じように神の姿形をしているであろう。
アダムは穴居人ではなかった。
それどころか、姿、資質ともに最も私たちの御父であり創造者である方に近い完全な人であったと思われる。」 (『救いの教義』 1:135-136)


M・ラッセル・バラード長老は、こう述べています。
「今日、ハッブル宇宙望遠鏡によりモーセが見たものの重要性が確認されました。
科学者たちによると、地球と太陽はこの銀河系のごく一部であり、この銀河系ですらそれと似たような2000億を超える銀河の1つにすぎないとのことです。
神の被造物はあまりにも広大なので、私には理解し難く、考えのおよばないものです。」 (「これがわたしの業であり、わたしの栄光である」 総大会 2013年4月)
ニール・A・マックスウェル長老は、こう述べています。
「複数の銀河や星たち、そして多くの世界を統括しておられる神が、個人の生活における神の業を認めるように私たちに求められるのは当然です。(教義 59:21参照)〔英語は銀河と星が複数形〕」 (「愛の腕の中に抱かれて」 総大会 2002年10月)
ディーター・F・ウークトドルフ管長は、こう述べています。
「私たちは宇宙について知れば知るほど、モーセが知ったことを少しなりとも分かるようになります。
宇宙は非常に大きく神秘的で壮大なので、人の頭では理解できません。
『無数の世界を、私は創造した』と神はモーセに言われました。(モーセ 1:33)
驚嘆の夜空は、その真理の美しい証です。
夜の闇の中を海や陸を越えて飛び、操縦席の窓から無数の星の輝きを見るときほど、息をのむような畏敬の念に満たされることはありません。
宇宙飛行士は宇宙の星を数えようと試みてきました。
科学者のあるグループは、望遠鏡で見える範囲にある星の数だけでも、世界の砂浜や砂漠にある砂粒の合計よりも10倍多いと推定しています。(アンドリュー・クレーグ “Astronomers Count the Stars,” BBC News 2003年7月22日付参照)
この結論は、古代の預言者エノクが述べたことに驚くほど似ています。
『人が地の微粒子、まことにこの地球のような幾百万の地球を数えることができたとしても、それはあなたが創造されたものの数の始めにも至りません。』(モーセ 7:30)」 (「あなたは御父にとって大切な存在です」 総大会 2011年10月)
地球は生物です。
それから、エノクは地を見た。
すると、地の中から声が聞こえた。
「災いだ。人々の母であるわたしは、災いだ。
わたしの子供たちの悪事のゆえに、わたしは苦しみ、疲れている。
わたしはいつ安息を得て、わたしより出た汚れから清められるのか。
わたしの創造主はいつわたしを聖めてくださり、わたしが安息を得て、義がしばらくの間わたしの面にあるようにしてくださるのか。」 (モーセ 7:48)
地球は母とあるように、ヤハウェ(イエス・キリスト)と会話をするイエス・キリストに従う女性であり、知能と感情があり、汚れから清められることを望んでいると言っています。

最初地球は霊体として、日の栄えの世界の神の御座に最も近いコロブの近くに存在していました。

そして、当時地球にいた生物とともに「月の栄え」の体を得て、月の栄えの状態に変化し、コロブの近くから離れ、どこかは不明ですが太陽と月の光が届く当時いた場所に移動しましまた。
この太陽系は、コロブの近くにあったと思われます。

そして、アダムの堕落後に、地球は「星の栄え」の状態になって、現在の太陽系の位置に移動しました。

アダムの堕落前の時代、動物たちは弱肉強食で殺し合いませんでした。
人も動植物も月の栄えの体なので食事はしません。
すべての生物は、月の栄の体で月の栄えの栄光によって生きていました。
地球はアダムの堕落の影響により、星の栄えの世界となっています。
太陽はプラズマの物理作用で、日の栄えの世界へ出入り口にもなりますが、堕落後は星の栄えの状態の私たちが太陽に近づいたら高温と高重力で死にます。
神は人を追い出し、エデンの園の東に、ケルビムと、回る炎のつるぎとを置いて、命の木の道を守らせられた。 (創世 3:24)
神は天界に入らないように、回る炎(太陽フレア)を剣にして天界に入る人間の足を止めさせていることになります。


太陽フレアとは、太陽の大気中に発生する爆発現象


そして、地球のバプテスマであるノアの時代の洪水をへて、現在の地球の姿になりました。

ジョン・テーラーは、このように述べました。
「私たちは霊界〔前世である霊の世界〕でこの地球に来ることを切望し、そのときがなかなかこないのでため息をつきながら、自分が地球に行く番が早くくるように天父に祈っていた。
その地球は、最初にコロブの近くで組織されたが遠くに離された。」 (Mormon prophet Liahona 5 No.38 1908年3月7日)
1847年、ブリガム・ヤングは地球の歴史について声明を述べました。
「地球は、主が地球を聖別され、清められ、栄光化され、神から遠い宇宙に落とされた場所から、神の前に地球を戻されるとき、神に忠実であり、地球を受け継ぐにふさわしいことを証明した者の住む場所として特別に造られました。……
地球が造られ、存在するようになり、人がその上に置かれたとき、地球は私たちの天の御父の玉座近くにありました。
そして人類が堕落したとき、地球は宇宙に落ち、この惑星系にその位置を定めました。
そして太陽が私たちの光となったのです。
主が「光あれ」と言われたとき、光が存在し、日中私たちに光を与えることができるように、地球の表面に反射する太陽の近くに地球が持ってこられたのです。
そして月は夜に光を与えるようになりました。
これが地球がもと来た所の栄光です。
そして地球が栄光化されるとき、御父の前に再び戻り、そこに住み、私が目の前にしているこれらの英知ある人々は、もしこれにふさわしく生活するなら、この地球上に住むのです。」 (『ブリガム・ヤング講話集』 17巻 p.144)
また、ブリガム・ヤングは、こう述べています。
「父なるアダムが、私たちが土からレンガを作るように創造されたという哲学者たちよ。
何とばかげた理論だろうか。
野の獣が同じ方法で創造されたと語る者よ、何と無意味な話だろうか。
神々の住む永遠の中にそのようなことはない。
人類は別の惑星から最初にここにもたらされた両親の子孫としてここにいるのである。
そして人類は、種として繁栄する能力を授けられ、増えて地に満ちよと命じられたのだ。」 (Journal of Discourse 7 p.285 1859年 ブリガム・ヤング)
この別のほかの惑星とは、人々や動植物の生き物が霊体のときに日の栄えの世界の「前世」で住んでいた惑星のことでおそらく「コロブ」のこと思われます。
預言者ジョセフ・スミスによって書かれる詩には、こうあります。
「コロブでの会議から、地球上での時間へ」 (“A Vision,” p.82)
創造 (動画) ラッセル・M・ネルソン長老 十二使徒定員会

神世第2代について『古事記』はこう記しています。
「次に豊雲野神(トヨクモノノカミ)。
この二柱の神も独神と成りまして身を隠したまひき」
「豊雲野神(トヨクモノノカミ)」は、「日本書紀」における「豊斟淳尊(トヨクムヌノミコト)」と同一神です。
1人で一代と数えられているわけです。
「豊雲野神」とは「豊かな雲と野の神」で、雲は「天空」を、野は「大地」を象徴します。
雲と野で、天地を分けたことを意味しているのです。
神はまた言われた、「水の間におおぞらがあって、水と水とを分けよ」。
そのようになった。神はおおぞらを造って、おおぞらの下の水とおおぞらの上の水とを分けられた。
神はそのおおぞらを天と名づけられた。夕となり、また朝となった。第二日である。 (創世 1:6-8)
さらにまた、神であるわたしは、『水の間に大空あれ』と言った。
すると、わたしが語ったようになった。
また、『大空が水と水とを分けよ』と言った。
すると、そのようになった。
神であるわたしは大空を造り、水を、すなわち、大空の下の大いなる水と大空の上の水とを分けた。そして、わたしが語ったようになった。
神であるわたしは大空を天と呼んだ。
夕となり、また朝となった。第二日である。 (モーセ 2:6-8)
神々はまた言われた。
「水の間に天空があって、水と水とを分けよ。」
神々は、天空の下にある水と天空の上にある水を分けるように天空に命じられた。
すると、彼らが命じられたようになった。
神々はその天空を天と呼ばれた。夕から朝までを夜と呼び、朝から夕までを昼と呼ばれた。
これが、彼らが夜、昼と呼ばれた第二の時であった。 (アブラハム 4:6-8)


旧約聖書の創世記で「大空」と翻訳されている言葉は、ヘブル語の「広げる」とか「伸ばす」の言葉から出でいます。
最近の翻訳では、「広がり」の語で訳していることも多いです。
ギリシャ語の訳は、ヘブル語の「ラーキーア」を訳すのに、「ステレオーマ」(「堅い固形の構造物」の意)という語を使い、ラテン語の訳も、やはり「固形の堅いもの」という考えを表わすラテン語「フィルマーメントゥム」を使いました。
ジェイムズ王欽定訳、そのほかの多くの英訳聖書は「ラーキーア」を訳す際に先例に従って「ファーマメント」(天空)の英語を使っています。
大空の「下」の水というのは、地球上の表面にある水(海など)と地球内部の水をいい、「上」の水というのは大気中に浮遊する雲の水のことです。
この時、主はつむじ風の中からヨブに答えられた、
「無知の言葉をもって、神の計りごとを暗くするこの者はだれか。
あなたは腰に帯して、男らしくせよ。わたしはあなたに尋ねる、わたしに答えよ。
わたしが地の基をすえた時、どこにいたか。もしあなたが知っているなら言え。
あなたがもし知っているなら、だれがその度量を定めたか。
だれが測りなわを地の上に張ったか。
その土台は何の上に置かれたか。その隅の石はだれがすえたか。
かの時には明けの星は相共に歌い、神の子たちはみな喜び呼ばわった。
海の水が流れいで、胎内からわき出たとき、だれが戸をもって、これを閉じこめたか。
あの時、わたしは雲をもって衣とし、黒雲をもってむつきとし、
これがために境を定め、関および戸を設けて、
言った、『ここまで来てもよい、越えてはならぬ、おまえの高波はここにとどまるのだ』と。 (ヨブ 38:1-11)
ヨブ記 第38章8節に、海の水が流れいで、胎内(地球内部)からわき出たとき、だれが戸をもって、これを閉じこめたかと記されています。
海の水は地球内部から出てきたのです。
ヨブ記 第38章9節に、そのとき(地球創造のとき)、私(ヤハウェ)は雲をその着物とし、黒雲をそのむつきとしたと記されています。
ヤハウェは地球創造のとき、黒雲を地球の「むつきとした」というのです。
「むつき」とは、古代ユダヤ人などが、生まれたばかりの赤ん坊の体をグルグル巻きに包む、産着のことです。
あなたは鋳た鏡のように堅い大空を、彼のように張ることができるか。 (ヨブ 37:18)
ヨブ記 第37章18節で、「あなたは鋳た鏡のように堅い大空を、彼のように張ることができるか。」と光を明るく反射する磨かれた金属製の鏡にたとえています。
天蓋は鏡のように有害な光を反射していたのです。
アメリカ、創造調査研究所(ICR)総主事(現・名誉総裁)でありアメリカ、ミネソタ大学の水力学教授でもある創造論者ヘンリー・M・モリス博士は、こう述べています。
「2日目に、神は大いなる空間をもって、原始の深い所を2つの深みに分けられた。
空間の下の水は海であった。
大空の上の水は、明らかに、より重い物質から分けられるために気体の状態へと変わっていった。
そして、のちに地上に住む生物のための保温作用のおおいとして、大気の上に上昇した。
そのような水蒸気の天蓋は、疑いもなく地球全体のために常に春のような気候を確保する高度で効率のよい温室効果を供給した。
水蒸気は、宇宙からの有害な放射線から地球を防ぎ、外から入ってくる太陽の熱を維持し拡散する。
水蒸気の天蓋は、それゆえに、豊かな動物そして植物の生命のために、そして、人間の生命の寿命や快適さのために、理想的な環境を供給するのである。」 (Henry M. Morris, Ph.D., The Defender's Study Bible, World Publishing Company, 1995, pp. 4-5, notes on Genesis 1:6-7)
モリス博士は大気圏より上の宇宙空間に水蒸気の層を想定していますが、気温が上昇しすぎるので現実的ではありません。
ノアの時代の洪水の以前と以後で、地球環境が変わってしまった大きな要因は、雲の天蓋の喪失です。
この雲の厚みは、最頂部が地上16000mの積乱雲の高さほどだったと思われます。
天蓋は数日で消えてしまう雨雲のような雲ではありません。
長期間存在する上層雲のような安定した雲です。
雲は普通は氷の粒からなっており、上層になるほどに気温が低下して安定するのです。

天蓋があると宇宙線がほとんど地上まで届きません。
雲は地球の表面をおおって太陽光を吸収・反射し、地球をある程度冷ます役割をもっています。
雲の厚さ、雲粒の大きさや形状などによって吸収率や反射率は異なります。
宇宙線のみならず太陽光線の多くを外側の表面で反射してしまうのです。
有害な紫外線は、オゾン層によってほとんどさえぎられました。
とくに可視光線のある程度を反射するので、常に曇り空で地上は薄暗い状態でした。

多くの人は、曇り空だと寒かっただろうと思うかもしれません。
天蓋はある程度の太陽光線を反射しましたが、基本的に短い光線を反射し、波長の長い光線はほどよく透過して赤外線は地上に届き、極地を除き緯度の高低にかかわらず、20℃以上の気候でした。
地上が高圧高温の温室効果の環境であるほど、上層の雲は消え失せず、安定したまま存在し続けることを意味します。
まして、温室効果状態になれば、常に世界中の海から水蒸気が蒸発し、できる雲の規模も今とは比較にならないほど大きくなるのです。
地上に雨が降ってもすぐ別の雲がその上空をおおうか、新たな雲が発生するのです。
古生代とされている木には、ほとんど年輪がありません。
年輪は成長具合の差で色の濃淡が形成され、気温がほとんど変化しなかったり、乾季や雨季がないと成長化が一定なので年輪はできないのです。
創造論者である山形大学の月岡世光元講師は、こう述べています。
「過去の地球においては冬と夏の寒暖の差がなかったからで、1年中温暖だった証拠である。」
また、現在は暖かい地方にしか住まない動物の死体が、実際には地球上のいたる所で見いだされます。
フランスの学者アンリ・デキュジは、こう述べます。
「地球はかつて緯度の高低にかかわらず、一様に温暖、湿潤な気候下にあった。……
島々と大陸には、間断なく生長する巨大な樹木が茂った。……
当時、夏と冬の気温の変化は少なかったのである。
グリーンランドの北緯70度地帯でイチジクの木が発掘され、シベリアでシュロの木が掘り出されている。」
一般に、曇りの日より晴れた日のほうが気温が低く、夜になると寒冷化します。
これは、地上から発する赤外線が宇宙空間へ放射される放射冷却が起こるからです。
ノアの時代の洪水によって天蓋が破壊されたとき、この放射冷却がいきなり地球を襲いました。
それまで天蓋によって、温室効果を得ていた地球は、突如、物質における温度の下限である絶対零度の宇宙空間にむき出しになってしまったのです。
たちまち、地上の気温は低下し、全地球的に平均気温は下がりました。
立ちのぼる火山の噴煙も重なり、巨大な寒冷前線が形成され、それらは徐々に両極に集められていきます。
世界中の水蒸気は、両極上空へと集中し、そのままはるか上空まで吹き上げられます。
莫大な水蒸気の柱は、絶対零度の宇宙空間に接触し一瞬にして冷却され凝固し、そのまま豪雪となって降り注ぎました。
これが北極と南極、両極の氷です。
こうして想像を絶するような豪雪のため、両極は氷に閉じ込められてしまったのです。
ゲージ変換
大気の組成が現代と違うと、年代測定をするうえで具体的にどんな影響が出るのでしょうか。
簡単にいえば100年前の物を測定した場合でも1万年前という数値を出ます。
それは、年代を測る物差しの目盛り(ゲージ)の大きさが変わるのです。
たとえば、1年に1cmの川砂が溜まる河川があったとして、川底の10cm下から出た魚の骨は、斉一説では10年前に死んで沈んだ魚の骨となります。
しかし現実には、河川の上流で局地的な大雨が降れば土砂崩れも起こり、鉄砲水や山津波となれば下流では流れ出た膨大な量の土砂で一度に数cmは埋まってしまうことになります。
台風で堤防が決壊することもあり、10cm下の川底から出た魚の骨を斉一説で算出した10年前の骨と見て果たして正しいのでしょうか。
地球規模から見れば小さな問題に思えますが、その小さな問題と大きな問題が同じ一線上にある以上、それを無視できません。
激変を考慮に入れない斉一説は非現実的であり、同じ基盤に立つ放射性同位体による年代測定法も同様に非現実的なのです。
つまり、恐竜が滅んだのがは6500万年前というのは斉一説のゲージなので誤りなのです。
したがって、本当の年代を知るためには正しくゲージを変換する必要があります。
地球上に巨大な植物群が生い茂り、巨大な恐竜が生息していた時代の大気が、現代と同じだったとするほうが常識的におかしいのです。

アメリカの地質学者ランディスは、8000万年前とされたの琥珀(こはく)に含まれている気体を精密分析し、その時代の大気組成を割り出しました。
その結果、当時の大気は現在の酸素濃度21%に較べ酸素濃度が32から35%もあると判明しました。
イェール大学の地球化学者ロバート・バーナーらは数学モデルを使って過去の大気中の二酸化炭素を算定し、古生代から現代にいたるまで大気中の酸素濃度が変化した「顕生代の炭素循環」という論文を書きました。(The Phanerozoic Carbon Cycle, 2004)
それによると、古生代は高濃度で中生代は逆に低濃度だといいます。
このように、琥珀が証明した現代と恐竜時代の酸素濃度の違いは、両方の時代の間に大きな激変があったことを示す物的証拠で、大激変を否定する斉一説は大きな誤りなのです。
ノアの時代の洪水前は、宇宙から降ってきた大量の水の分だけ増えた洪水後より万有引力がやや少なく、温暖で湿潤な温暖から熱い気候、それによる豊富な食糧、紫外線のほとんどない環境、高い酸素濃度当時の好適な環境が生物の巨大化の要因です。
地球上の動物の体は、酸素濃度を高めてやると代謝が促進され、かつ細胞分裂が活発となり成長が速くなり体が巨大化します。
日本の東北空調管理株式会社は、偶然に発見した活性化酸素の効能をもとに金魚の巨大化に成功しました。
重力が小さかったのみならず、酸素濃度が高かったことを考慮すれば、なぜ海棲爬虫類や魚類、さらには植物も巨大化したのかが合理的に説明ができるのです。
そして、洪水前は酸素濃度が高かったために呼吸数と心拍数が少なかったこと、また重力が小さくて体への負担が少なかったのです。
大洪水前の琥珀に含まれていた当時の大気の分析から、年代測定の基盤となる大気中の放射性同位体の量が現代とは違っていたことが明らかになったのです。
すなわち、恐竜時代は炭素14を含む放射性同位体の量が非常に少なかったのです。
炭素14が少ないということは、それだけ大昔だという数値が出ることを意味しています。
遺物に含まれる炭素14の量が少ないほど、学者たちは年代が多く経過していると受け取るからです。
しかし、それは自然の崩壊によって量が少ないのではなく、もともと少ないということになると測定年代の数値が信用できません。
炭素14で測定された年代がいわれているほどは古くないのです。
恐竜が絶滅したのは、6500万年前ではなく、約4300前のノアの時代の洪水時に滅んだのです。
放射性炭素14法を考えると、かつての地球上に炭素14の量が少なかったとすれば、もともと少ないわけだから、測定時に少ないという理由だけで減った考えて、多くの年月がたっているということにはなりません。
かつてノアの時代の大洪水以前の地球は、厚い雲の天蓋「クラウド・シェルター」でおおわれていたのだから炭素14の生成される割合も現在より少なかったはずです。
「上の水」、空のオゾン層(オゾン生成・分解反応のため高温なので安定)辺りに水蒸気の分厚い層は、宇宙からの一次宇宙線からできる二次宇宙線の主成分である中性子線(一次宇宙線は主として陽子や重水素)が、水の水素原子核(陽子)が中性子とほぼ同じ質量なので効果的に減速して(大きな原子核では同じ速度で跳ね返されなかなか減速しない)その所で止められ、ヘリウム原子核などになります。
したがって、下の大気層中の窒素と反応してできる炭素14の生成量が現在よりも少なかったのです。
そして、約4300年前に地球の環境は激変し、大気の組成に大きな変化が生じました。
ノアの時代の洪水以前の生物遺骸に放射性炭素14法を適用すると、実際よりはるかに古い年代を算出してしまうのです。
天地創造と地球のバプテスマ

神世第3代以降は、すべてペアの神です。
最初の神があり、その次の神には「妹」という漢字が冠されています。
「妹」とは男性が女性をよぶ語で、兄弟のみならず夫婦間にも使用されました。
このことから、これらの神々がみな夫婦であるかのように思えますが、観念の神であるがゆえ実際は単純ではありません。
神世第3代について『古事記』はこう記しています。
「次に成りし神の名は、宇比地邇神(ウヒヂニノカミ)、次に妹 須比智邇神(スヒヂニノカミ)」
「宇比地」とは泥土、「須比智」は砂土を意味します。
同じような意味の言葉ですが、1つだけ違うのは、水を含んでいるかどうかという点で、泥土は水を含み、砂土は水を含みません。
天地創造の第3日目、ヤハウェは、それまで水でおおわれていた大地を乾かしました。
大地は水のある部分と乾いた部分に分かれました。
つまり、海の大地を泥土とし、乾いた大地を砂土としたのが『古事記』なのです。
神はまた言われた、「天の下の水は一つ所に集まり、かわいた地が現れよ」。そのようになった。
神はそのかわいた地を陸と名づけ、水の集まった所を海と名づけられた。
神は見て、良しとされた。
神はまた言われた、「地は青草と、種をもつ草と、種類にしたがって種のある実を結ぶ果樹とを地の上にはえさせよ」。そのようになった。
地は青草と、種類にしたがって種をもつ草と、種類にしたがって種のある実を結ぶ木とをはえさせた。神は見て、良しとされた。
夕となり、また朝となった。第三日である。 (創世 1:9-13)
神であるわたしは、『天の下の水は一つ所に集まれ』と言った。すると、そのようになった。
また、神であるわたしは、『乾いた地あれ』と言った。すると、そのようになった。
神であるわたしは乾いた地を陸と呼び、水の集まった所を海と呼んだ。
そして、神であるわたしは見て、自分が造ったすべてのものを良しとした。
神であるわたしは言った。『地は青草と、種を持つ草と、種類に従って実を結ぶ果樹と、種のある実を結ぶ木を地の上に生えさせよ。』すると、わたしが語ったようになった。
地は青草と、種類に従って種を持つすべての草と、種類に従って種のある実を結ぶ木とを生えさせた。
そして、神であるわたしは見て、自分が造ったすべてのものを良しとした。
夕となり、また朝となった。第三日である。 (モーセ 2:9-13)
神々は命じて、「天の下の水は一つ所に集まり、地は乾いて現れよ」と言われた。
すると、神々が命じられたようになった。
神々は乾いた地を陸と宣言し、水の集まった所を大海と宣言された。
神々はそれらが従うのを見られた。
神々は言われた。
「地を備えて、青草と、種を持つ草と、種類に従って自らの形を生じる種を持つ実を結ぶ果樹を地の上に生えさせよう。」すると、神々が命じられたようになった。
神々は地を組織して、青草がその種から生えるようにし、また草がその種から生え、種類に従って種を生じるようにされた。また地を組織して、木をその種から生えさせ、種類に従って同じもののみを生じる種を持つ実を結ぶようにされた。
神々はそれらが従うのを見られた。
そして、神々は日を数えられた。
夕から朝までを夜と呼び、朝から夕までを昼と呼ばれた。それが第三の時であった。 (アブラハム 4:9-13)

現代の地球科学において、原初の地球はほとんど水でおおわれていたか湿地帯のような状態であったことが分かっています。
大陸地殻は存在しましたが、そのほとんどが起伏の少ない湿地帯のようでした。
神はまた言われた、「天の下の水は一つ所に集まり、かわいた地が現れよ」。そのようになった。 (創世 1:9)
海と陸地が形成された様子です。
球体の地球において水を1つに集めると、陸地も1つになります。
過去の地球には、確かに旧約聖書に登場するような1つの巨大大陸が存在しました。
この記述で非常に興味深いのは、「一つ所に集まり」という箇所です。
これは、急に巨大な海が1つになったのではなく、1つの所に集められるプロセスがあったことを暗示しています。
大陸においても海と同様に1つの所に集められるプロセスがあったことを意味し、初めばらばらだった陸塊が、ある時期に段階的に集合して行き、最後には巨大な1つの大陸である超巨大大陸を形成したのです。
そのとき、海も1つとして集まったのです。
ニーファイ人のマヤ文明の神話として知られる『ポポル・ヴフ』も『聖書』と同様の記述があります。
「やがて大陸が、彼らによって形造られた。
2人の英知が命ずると、大陸はたちまちでき上がった。
大陸の形成ば実際にこのようにして行われたのだ。
霞のごとく、雲のごとく、砂塵のごとく、水の中から山々が現れ出て、それはたちまち大きく成長して行ったのである」
大陸が大きく成長して行ったという点が、陸塊が集まって巨大化したことが示されています。
創造に関して、ブルース・R・マッコンキー長老は、こう教えています。
「別の種への進化または変化ということは、神の御心にはなかったのである。」 (「キリストと創造」 『聖徒の道』 1983年9月 p.39)
これらの聖句は、遺伝の法則(メンデルの法則)の基本的な事象が、創造に関する記録の、創世記第1章、モーセの書第2章、アブラハムの書第4章の3つの記録に表れています。
それぞれの記録の中で「種類にしたがって」という言い回しが、何度となく使われています。
アブラハムは第4章11~12節でこの点を強調していて、31節には神がこの地球に与えられた律法は変わらないということをさらに強調していると思われます。
ジョセフ・スミスは、こう述べています。
「神は一定かつ不変の法則をいくつか定められた。
たとえば神は、太陽や月や星を天に置き、それに法則や条件や限界を与えられた。
これは、神の命令なくしては越えることのできないものである。
太陽や月や星は、その軌道上を秩序正しく完全に調和を保って運行し、私たちにとって光となり、驚異となり、しるしとなっている。
海にもやはり越えることのできない限界がある。
神はこの地上にも、天にも、たくさんのしるしを置かれた。
たとえば森の大木、木の実、野の草といったものは皆、種子がそこにまかれたというしるしを持っていることになる。
それは、種子を持つあらゆる木や草が自分と同じ種類の種子を生じ、けっしてほかの法則や原理に従って生殖しないのが法則だからである。」 (『教え』 p.197-198)







地上の生物が自分と同じ種類の子孫を生じ、けっしてほかの法則や原理に従って生殖しないのは、その創造主の「命令」によるということになります。
進化論のうそ

第4代は、神世七代の中で可解な神の登場です。
神世第4代について『古事記』は、こう記しています。
「次に角杙神(ツノグイノカミ)、次に妹 活杙神(イクグイノカミ)」
ともに「杙(くい)」という文字が共通していますが、これは「杭」と同じ言葉です。
そのまま直訳すれば、「角杙」は角のような形をした杭で、「活杙」は活き活きとした生命力あふれる杭という意味になります。
これは牛や馬をつないでおく杭を意味します。
ヘブル語で「角」は「KRN」(ケラン)と表記します。
ところが、輝くとか光ることを意味する言葉も「KRN」(カーラン)と表記します。
実際は、読むときにそれぞれ別々の母音を補って発音するのですが、往々にして光を誤訳してしまうことがあります。
中国の天文学、占星術では、「角宿(すぼし)」という星があります。
日本における二十八宿図は、紀元7世紀~8世紀ごろに造られた奈良県高市郡明日香村の高松塚古墳や奈良県高市郡明日香村の南西部、阿部山に築かれたキトラ古墳の壁画で白虎などの四神とともに見つかっており、中国の天文学体系がこのころには渡来していたことを伺わせます。
つまり「角杙神」の「角」とは光、もしくは星を意味するのです。
そこで、天空に置いたという部分を、つなぎ止めて周期的に回転させるようにしたと解釈すれば、まさに「杙(くい)」の意味が明らかになります。
つまり、「角杙神」は自ら光を発する太陽のことであり、「妹活杙神」は太陽の光を受けて光る月のことなのです。
神はまた言われた、「天のおおぞらに光があって昼と夜とを分け、しるしのため、季節のため、日のため、年のためになり、天のおおぞらにあって地を照らす光となれ」。そのようになった。
神は二つの大きな光を造り、大きい光に昼をつかさどらせ、小さい光に夜をつかさどらせ、また星を造られた。
神はこれらを天のおおぞらに置いて地を照らさせ、
昼と夜とをつかさどらせ、光とやみとを分けさせられた。神は見て、良しとされた。
夕となり、また朝となった。第四日である。 (創世 1:14-19)
神であるわたしは言った。『天の大空に光があって、昼と夜とを分け、しるしのため、季節のため、日のため、年のためになり、天の大空にあって地を照らす光となれ。』すると、そのようになった。
神であるわたしは二つの大きな光を造り、大きい光に昼をつかさどらせ、小さい光に夜をつかさどらせた。大きい光とは太陽であり、小さい光とは月であった。
また、もろもろの星も、わたしの言葉に従って造られた。
神であるわたしは、これらを天の大空に置いて地を照らさせ、太陽に昼をつかさどらせ、月に夜をつかさどらせ、光と闇とを分けさせた。
そして、神であるわたしは見て、自分が造ったすべてのものを良しとした。
夕となり、また朝となった。第四日である。 (モーセ 2:14-19)
神々は天の大空に光を組織して、それらに昼と夜とを分けさせ、またそれらを組織して、しるしのため、季節のため、日のため、年のためとならせ、またそれらを組織して、天の大空にあって地を照らす光とならせられた。すると、そのようになった。
神々は二つの大きな光を組織して、大きい光に昼をつかさどらせ、小さい光に夜をつかさどらせられた。また、小さい光とともにもろもろの星も置かれた。
神々はこれらを天の大空に置いて地を照らさせ、昼と夜とをつかさどらせ、光と闇とを分けさせられた。
神々は命じられたこれらのものが従うまで見守られた。
夕から朝まで夜があり、朝から夕まで昼があった。それが第四の時であった。 (アブラハム 4:14-19)


天の大空にある大きい光りとは太陽であり、小さい光りは月を意味しています。
ここでは、太陽が光り、月が光る段階になります。
ヘブル語の「マーオール」の語が用いられており、この語は「光の源」を指します。
今の太陽系で太陽が光を発したのは、創世記の第4日目です。

神世第5代になると、男女の別が非常に強調されてきます。
神世第5代について『古事記』は、こう記しています。
「次に意富斗能地神(オオトノジノカミ)、次に妹 大斗乃弁神(オオトノベノカミ)」
先述したように「妹」とは女性を表す言葉ですが、それとは別にこれらの神々の名には、もう一度性別が強調されています。
語尾にある「地」は男性を意味し、「弁」は女性を意味します。
一方、語幹である「意富斗」と「大斗」は、ともに「オオト」で、「大所」、すなわち世界そのものを意味しています。
性別が存在するのは、生物で植物よりは動物です。
天地創造において、植物は第3日目にすでに創造されています。
神はまた言われた、「地は青草と、種をもつ草と、種類にしたがって種のある実を結ぶ果樹とを地の上にはえさせよ」。そのようになった。
地は青草と、種類にしたがって種をもつ草と、種類にしたがって種のある実を結ぶ木とをはえさせた。神は見て、良しとされた。
夕となり、また朝となった。第三日である。 (創世 1:11-13)
『古事記』は、雌雄の別を強調することによって、生物を示唆し増えていく様子を表現しています。

神はまた言われた、「水は生き物の群れで満ち、鳥は地の上、天のおおぞらを飛べ」。
神は海の大いなる獣と、水に群がるすべての動く生き物とを、種類にしたがって創造し、また翼のあるすべての鳥を、種類にしたがって創造された。神は見て、良しとされた。
神はこれらを祝福して言われた、「生めよ、ふえよ、海の水に満ちよ、また鳥は地にふえよ」。
夕となり、また朝となった。第五日である。
神はまた言われた、「地は生き物を種類にしたがっていだせ。家畜と、這うものと、地の獣とを種類にしたがっていだせ」。そのようになった。
神は地の獣を種類にしたがい、家畜を種類にしたがい、また地に這うすべての物を種類にしたがって造られた。
神は見て、良しとされた。 (創世 1:20-25)
神であるわたしは言った。
『水は命を持つ動く生き物を豊かに生じ、鳥は地の上、天の大空を飛べ。』
神であるわたしは、海の大いなる獣と、水に群がるすべての動く生き物とを、種類に従って創造し、また翼のあるすべての鳥を、種類に従って創造した。
そして、神であるわたしは見て、自分が創造したすべてのものを良しとした。
神であるわたしはこれらを祝福して言った。
『生めよ、増えよ、海の水に満ちよ。また鳥は地に増えよ。』
夕となり、また朝となった。第五日である。
神であるわたしは言った。『地は生き物を種類に従って出せ。家畜と、這うものと、地の獣とを種類に従って出せ。』すると、そのようになった。
神であるわたしは、地の獣を種類に従い、家畜を種類に従い、また地を這うすべてのものを種類に従って造った。
そして、神であるわたしは見て、これらすべてのものを良しとした。 (モーセ 2:20-25)
神々は言われた。「水を備えて、命を持つ動く生き物を豊かに生じさせ、また鳥が地の上、天の大空を飛ぶようにさせよう。」
神々は水を備えて、海の大いなる獣と、水に群がるすべての動く生き物とをその種類に従って生じさせ、また翼のあるすべての鳥をその種類に従って生じさせられた。
そして、神々はそれらが従うのを見、またその計画が良いのを見られた。
神々は言われた。
「わたしたちはこれらを祝福して、生み、増え、海の水すなわち大海に満ちるようにさせ、また鳥も地に増えさせよう。」
そして、夕から朝までを、神々は夜と呼ばれた。また、朝から夕までを、昼と呼ばれた。
それが第五の時であった。
神々は地を備えて、生き物をその種類に従って生じさせ、家畜と、這うものと、地の獣とをその種類に従って生じさせられた。そして、神々の言われたようになった。
神々は地を組織して、獣をその種類に従い、家畜をその種類に従い、また地を這うすべてのものをその種類に従って生じさせられた。
神々はそれらが従うのを見られた。 (アブラハム 4:20-25)





サンゴに擬態しているピグミーシーホース

花に擬態するハナカマキリ

雌が木の葉形に似ているコノハムシ







神世第6代では、天地創造が完成に近づきます。
神世第6代について、『古事記』は、こう記しています。
「次に於母蛇流神(オモダルノカミ)、次に妹、阿夜訶志古泥神(アヤカシコネノカミ)。」
於母蛇流(オモダル)は、日本書紀では、「面足尊(オモダルノミコト)」と記述します。
これは、「大地の表面(オモ=面)が完成した(タル=足る)」の意味です。
阿夜訶志古泥神(アヤカシコネノカミ)は、日本書紀では、「惶根尊(カシコネミコト)」。
「あや」とは「あやに」という副詞です。
したがって「あやに畏し(かしこし)」は、恐れ褒めたたえること、優れている意味です。
神はまた言われた、「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」。
神は自分のかたちに人を創造された。
すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。
神は彼らを祝福して言われた、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」。
神はまた言われた、「わたしは全地のおもてにある種をもつすべての草と、種のある実を結ぶすべての木とをあなたがたに与える。これはあなたがたの食物となるであろう。
また地のすべての獣、空のすべての鳥、地を這うすべてのもの、すなわち命あるものには、食物としてすべての青草を与える」。そのようになった。
神が造ったすべての物を見られたところ、それは、はなはだ良かった。
夕となり、また朝となった。第六日である。 (創世 1:26-31)
こうして天と地と、その万象とが完成した。
神は第七日にその作業を終えられた。すなわち、そのすべての作業を終って第七日に休まれた。
神はその第七日を祝福して、これを聖別された。
神がこの日に、そのすべての創造のわざを終って休まれたからである。
これが天地創造の由来である。主なる神が地と天とを造られた時、
地にはまだ野の木もなく、また野の草もはえていなかった。主なる神が地に雨を降らせず、また土を耕す人もなかったからである。
しかし地から泉がわきあがって土の全面を潤していた。
主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。
そこで人は生きた者となった。 (創世 2:1-7)
神であるわたしは、初めからわたしとともにいたわたしの独り子に言った。
『わたしたちの形に、わたしたちにかたどって人を造ろう。』そして、そのようになった。
また、神であるわたしは言った。
『彼らに、海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべてのものと、地のすべての這うものを治めさせよう。』
神であるわたしは、自分の形に人を創造した。
わたしの独り子の形に人を創造し、男と女に創造した。
神であるわたしは、彼らを祝福して言った。
『生めよ、増えよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物を治めよ。』
また、神であるわたしは人に言った。
『見よ、わたしは全地の面にある種を持つすべての草と、種のある実を結ぶすべての木をあなたがたに与えた。これはあなたがたの食物となるであろう。
また地のすべての獣、空のすべての鳥、地を這うすべてのもの、すなわちわたしが命を授けるものには、食物としてすべての清い草が与えられるであろう。』そして、わたしが語ったようになった。
神であるわたしは、自分が造ったすべてのものを見たところ、見よ、わたしが造ったすべてのものは非常に良かった。
夕となり、また朝となった。第六日である。」 (モーセ 2:26-31)
「こうして天と地と、その万象が完成した。
神であるわたしは、第七日にわたしの業を終えた。すべてのものを、わたしは造り終えていた。
そして、わたしは第七日にわたしのすべての業を離れて休んだ。
わたしが造ったすべてのものは仕上げられた。神であるわたしは見て、それらを良しとした。
神であるわたしは第七日を祝福して、これを聖別した。わたしはこの日に、神であるわたしが創造し、造った、すべてのわたしの業を離れて休んだからである。
さて見よ、わたしはあなたに言う。これが天地創造の由来である。
主なる神であるわたしが天と地を造ったとき、地にはまだ野の植物もなく、また野の草も生えていなかった。
主なる神であるわたしは、わたしが語ったすべてのものを、それが地の面に自然に存在するに先立って霊的に創造した。主なる神であるわたしは、地の面にまだ雨を降らせていなかったからである。
主なる神であるわたしは、人の子らをすべて創造していたが、まだ土を耕す人はいなかった。
わたしは彼らを天で創造したのである。
そして、地上にも、水の中にも、空にも、まだ肉なるものはいなかった。
しかし、主なる神であるわたしが語ると、霧が地から立ち上って、土の全面を潤した。
主なる神であるわたしは、土のちりで人を形造り、命の息をその鼻に吹き入れた。
そこで人は生けるもの、地上における最初の肉なるもの、また最初の人となった。
しかしながら、すべてのものは以前に創造されたが、それは、わたしの言葉に従って霊的に創造され、造られたのである。 (モーセ 3:1-7)
神々は地を備えて、生き物をその種類に従って生じさせ、家畜と、這うものと、地の獣とをその種類に従って生じさせられた。そして、神々の言われたようになった。
神々は地を組織して、獣をその種類に従い、家畜をその種類に従い、また地を這うすべてのものをその種類に従って生じさせられた。
神々はそれらが従うのを見られた。
神々は協議して言われた。
「降って行って、わたしたちの形に、わたしたちにかたどって人を形作ろう。
そして、彼らに、海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべてのものと、地のすべての這うものを治めさせよう。」
そこで、神々は降って行って、御自分の形に人を組織し、神々の形に人を形造り、男と女に形造られた。
そして、神々は、「彼らを祝福しよう」と言われた。また、神々は言われた。
「彼らに、生み、増え、地に満ち、地を従わせるようにさせよう。
また、海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物を治めさせよう。」
また、神々は言われた。
「見よ、わたしたちは全地の面に生える種を持つすべての草と、実を結ぶすべての木を彼らに与えよう。まことに、種を生じる木の実を彼らに与えよう。それは彼らの食物となるであろう。
また地のすべての獣、空のすべての鳥、地を這うすべてのものに、まことに、命を与えよう。
さらに、これらに食物としてすべての青草を与えよう。
すべてこれらのものはこのようにして組織されるであろう。」
神々は言われた。
「わたしたちは言ったことをすべて行い、これらを組織しよう。見よ、これらはよく従うであろう。」
そして、夕から朝までを夜と呼び、朝から夕までを昼と呼ばれた。
神々は第六の時を数えられた。 (アブラハム 4:24-31)
「このようにしてわたしたちは天と地と、その万象を完成しよう。」
神々は互いに言われた。「第七の時に、わたしたちの協議した業を終えよう。
そして、第七の時に、わたしたちの協議したすべての業を離れて休もう。」
神々は第七の時に終えられた。
第七の時に、神々は協議して形造ったすべての業を離れて休もうとされたからである。
そして、それを聖別された。
神々が天と地を形造ろうとして協議したときに決められたことは、このとおりであった。
これが、神々が降って来て、これらを形造られた天地創造の由来である。神々が天と地を形造られたとき、すべて神々が言われたとおりに、野のすべての植物については、地にはまだそれが生えておらず、また野のすべての草も生えていなかった。
神々がこれらを行うことを協議されたとき、地にまだ雨を降らせておらず、土を耕す人も形造っておられなかったからである。
しかし、霧が地から立ち上って、土の全面を潤した。
神々は土のちりで人を形造り、彼の霊(すなわち、人の霊)を取ってそれを彼の中に入れられた。
そして、命の息をその鼻に吹き入れられると、人は生けるものとなった。 (アブラハム 5:1-7)
第6日目は、人間が創造されます。
これによって、地上は水と植物、そして動物、人間とすべて必要なものが揃いました。
実に、面足です。
そして、最後に神は創造されたものを見て、はなはだ良かったと感想を述べました。
これが、あやに畏し(かしこし)です。
『古事記』は神の天地創造のすばらしさを神の名として記述しました。
神世第7代目は、伊邪那岐、伊邪那美の登場です。
神世第7代について、『古事記』はこう記しています。
「次に伊邪那岐(イザナギ)神、次に妹 伊邪那美(イザナミ)神」
ここへきて、やっと「妹」という言葉が本来の意味で使用されています。
イザナギとイザナミは夫婦で、アダムとエバのことです。

一般にイザナギとイザナミは、イザナ・ギ と イザナ・ミ と別けて考えられていますが違います。
「イザ」はヘブル語で「神の救い」を意味し、預言者イザヤの名前もここに由来しています。
そして、王子、統治者は「ナギッド」で実際の発音は語尾が脱落するため「ナギ」となります。
たとえば『旧約聖書』のダニエル書 第9章25節では油注がれた(選ばれた)王子のことを(メシアッ・ナギ)とよび、この言葉は救世主を意味します。
それゆえ、エルサレムを建て直せという命令が出てから、メシヤなるひとりの君が来るまで、七週と六十二週あることを知り、かつ悟りなさい。
その間に、しかも不安な時代に、エルサレムは広場と街路とをもって、建て直されるでしょう。 (ダニエル 9:25)
神の救いの統治者で、預言者アダムにふさわしい呼び名です。
また、ヘブル語にはナギッドと同義語の「ナミ」と発音される言葉もあり、イザナミの語源になったと思われます。
さらに、2人ともイザナにギとミがつく名前です。
イザナは誘(いざな)うの意味で、一緒に行動するように勧めるという意味です。



サタンは、前世ですでに多くの者を引き寄せて自分に従わせていたので、蛇の心の中に思いを入れエバもだまそうとしました。
主なる神であるわたしは、モーセに語って言った。
「あなたがわたしの独り子の名によって命じたあのサタンは、初めからいた者である。
彼はわたしの前に来て言った。
『御覧ください。わたしがここにいます。わたしをお遣わしください。わたしはあなたの子となりましょう。そして、わたしは全人類を贖って、一人も失われないようにしましょう。必ずわたしはそうします。ですから、わたしにあなたの誉れを与えてください。』
しかし見よ、初めからわたしが愛し選んだ者であるわたしの愛する子は、わたしに、『父よ、あなたの御心が行われ、栄光はとこしえにあなたのものでありますように』と言った。
あのサタンはわたしに背いて、主なる神であるわたしが与えた、人の選択の自由を損なおうとしたので、またわたしの力を自分に与えるように求めたので、わたしは独り子の力によって彼を投げ落とさせた。
そして、彼はサタン、すなわち、あらゆる偽りの父である悪魔となって、人々を欺き、惑わし、またまことに、わたしの声を聴こうとしないすべての者を自分の意のままにとりこにする者となった。
さて、主なる神であるわたしが造った野の生き物のうちで、蛇が最も狡猾であった。
そこで、サタンは(すでに多くのものを引き寄せて自分に従わせていたので)蛇の心の中に思いを入れ、エバもだまそうとした。彼は神の思いを知らなかったので、世を滅ぼそうとしたのである。
彼は女に言った。
『園のどの木からも取って食べてはならないと、ほんとうに神が言われたのですか。』(彼は蛇の口を通して語った。)
女は蛇に言った。
『わたしたちは園の木の実は食べることを許されています。
しかし、園の中央に見える木の実については、取って食べてはならない、触れてもならない、死んではいけないから、と神は言われました。』
すると、蛇は女に言った。
『あなたがたはけっして死ぬことはないでしょう。
それを食べる日に、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです。』
女がその木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ、また、ともにいた夫にも与えたので、彼も食べた。
すると、二人の目は開け、自分たちが裸であることを知った。
そこで、彼らはいちじくの葉をつづり合わせて、前掛けとした。
日の涼しいころ、彼らが園の中を歩いていると、主なる神の声が聞こえた。
そこで、アダムとその妻は主なる神の面を避けて、園の木の間に身を隠した。
主なる神であるわたしは、アダムに呼びかけて言った。『あなたはどこへ行くのか。』
すると、彼は答えた。
『園の中であなたの声を聞き、恐れて、身を隠しました。自分が裸であるのを見たからです。』
主なる神であるわたしは、アダムに言った。
『あなたが裸であるのを、だれが知らせたのか。
食べてはならない、食べれば必ず死ぬ、と命じておいた木から、あなたは取って食べたのか。』
そこで、人は答えた。
『あなたがわたしに与えてくださって、わたしとともにいるようにと命じられた女が、その木の実をくれたので、わたしは食べました。』
そこで、主なる神であるわたしは、女に言った。
『あなたは何ということをしたのか。』
すると、女は答えた。
『蛇がわたしをだましたのです。それでわたしは食べました。』
主なる神であるわたしは、蛇に言った。
『おまえはこのことをしたので、すべての家畜、野のすべての獣のうち、最ものろわれる。
おまえは腹で這い回り、一生、ちりを食べるであろう。 (モーセ 4:1-20)


『創世記』の記録では、蛇がエバに語って実を取る様にそそのかしたとありますが、モーセの記録によると、蛇の口を借りてサタン自身が語っていたとなっており、さらにこのサタンは、ほかの所でその象徴として「へびの姿」が使われています。
この巨大な龍、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれ、全世界を惑わす年を経たへびは、地に投げ落され、その使たちも、もろともに投げ落された。 (黙示 12:9)

十二使徒だったジョージ・Q・キャノン長老は、こう述べています。
「悪魔は……私たちを滅ぼすことを狙っている。
天で彼の計画が採用されなかったことの怒り、すなわち神に対しての謀反にしくじったことと神の栄光の前から追放されたことへの怒り、そして体を得られなかったことへの怒りで、彼と彼に従って落とされた者たちは、その恐ろしい出来事の起こったとき以来ずっと、謀反を起こさなかった彼らの兄弟姉妹を滅ぼすことをしきりに願っている。」 (説教集 Collected Discourses, Brian H. Stuy, ed., vol.1)



霊的進歩の過程で、反対のものはしばしばサタンの誘惑という形で現れます。
誘惑とは、悪を遠ざけ善を選ぶ力を試されることで罪を犯し、神ではなくサタンに従うように誘われることです。
モーセ書や創世記の記録は、サタンがエバに近づいたとしか書かれていませんが、末日の啓示はサタンが最初にアダムに近づいたが断られたということを記録しています。
しかしながら、エバはサタンにだまされて、実を取って食べました。
そして、エバが追放されて自分のもとから離れることになると知ったうえで、アダムも取って食べたのです。
エバはエデンの園にいた時点よりもさらに地球の目的についての知識と理解を得たいと望んだので、善悪を知るためには木の実を食べても死なないというルシフェルの虚言にだまされて木の実を食べたと教えています。
つまり、エバは楽園に永遠に住んでいるよりも、人生にははるかに深い然るべき存在理由があるに違いないと信じ、自由意志にともなう危険を自ら進んで受け入れ、その戒めに従わないことを選んだのです。
一方、アダムは、サタンの欺きによってではなく、エバと一緒にいて子供達をもうけるように戒められた「生めよ、ふえよ、地に満ちよ」との最初の戒めを認識していたため、木の実を食べることを選択しました。
神はまた言われた、「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」。
神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。
神は彼らを祝福して言われた、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」。 (創世 1:26-28)
エバが「禁断の木の実」を食べたと知ったとき、アダムはエバと一緒にいてこの子供を殖やし地上に増えるという目的を全うし、天父の計画を遂行することを可能にするには、彼もまた善悪を知る木の実を食べなければならないことを理解していたのです。
善悪を知る木の実を食べることが、「背き」であり「罪」ではないと論じます。
それはけっして罪深い行いではなく、エバにとっても、アダムにとっても自ら責任を持って行った人生の目的を達するための勇気ある必須の行動であったのです。
預言者リーハイは、その子供たちに「アダムが堕落したのは人が存在するためであり、人が存在するのは喜びを得るためである。」と教えました。
わたしリーハイは、自分が読んだことから考えるのだが、記録にあるとおり神の一人の天使が天から落ち、彼は神の御前で邪悪なことを求めたので、悪魔になったと思わざるを得ない。
彼は天から落ちて、とこしえに惨めな状態になったので、全人類もまた惨めな状態にしようとした。
そこで彼、すなわち悪魔であり、あらゆる偽りの父である、あの年を経た蛇は、エバに、『禁断の実を食べなさい。あなたがたは死ぬことがなく、善悪を知って神のようになるであろう』と言った。
アダムとエバは禁断の実を食べた後、エデンの園から追い出され、地を耕すことになった。
そして彼らは、子供をもうけ、まことに全地の家族をもたらした。
また、人の子らの命は、肉にある間に悔い改めることができるように、神の御心によって引き延ばされた。
したがって、彼らの状態は試しの状態となり、彼らの寿命は主なる神が人の子らに与えられた命令で長くされた。
主なる神が、すべての人は悔い改めなければならないと命じられたからである。
主なる神はすべての人に、先祖の背きのために彼らが道に迷った状態にあることを示されたのである。
ところで見よ、アダムがもし背かなかったならば、彼は堕落をせずにそのままエデンの園にいたであろう。
そして創造されたすべてのものは、創造された後の状態そのままで存続したに違いない。
また、すべてのものはとこしえに存続し、終わりがなかったに違いない。
そして、アダムとエバは子供を持たなかったであろう。
また、不幸を知らないので喜びもなく、罪を知らないので善も行わず、罪のない状態にとどまっていたであろう。
しかし見よ、すべての物事は、万事を御存じである御方の知恵によって行われてきた。
アダムが堕落したのは人が存在するためであり、人が存在するのは喜びを得るためである。
そして時が満ちると、人の子らを堕落から贖うためにメシヤが来られる。
人の子らは堕落から贖われているので、すでにとこしえに自由となり、善悪を知るようになっている。
彼らは、神が下された戒めによって、大いなる終わりの日に律法に伴う罰を受けるほかは、思いのままに行動することができ、強いられることはないのである。
そのため、人は肉においては自由であり、人のために必要なものはすべて与えられる。
そして人は、すべての人の偉大な仲保者を通じて自由と永遠の命を選ぶことも、あるいは悪魔の束縛と力に応じて束縛と死を選ぶことも自由である。
悪魔は、すべての人が自分のように惨めになることを求めているからである。
ところで、息子たちよ、わたしはあなたがたが偉大な仲保者に頼り、主の大いなる戒めに聞き従い、主の御言葉に忠実であって、主の聖なる御霊の御心に添って永遠の命を選んでほしいと思っている。
肉の思いとその中に潜む悪に従って、永遠の死を選んではならない。
肉の思いは、悪魔の霊に力を与え、あなたがたを捕らえて地獄に落とし、悪魔は彼自身の王国であなたがたを支配するであろう。
息子たちよ、わたしは自分の試しの生涯が終わろうとするに当たって、これらのわずかな言葉を、あなたがたすべての者に告げておく。
わたしは預言者の言葉に従って善なるものを選んできた。
わたしには、あなたがたの永遠の幸いを願う以外に何の目的もないのである。アーメン。」 (2ニフ 2:17-30)
アダムの堕落
「背き」に当たる英語「transgress」には、「定められている境界や範囲などを踏み越える」という意味もあります。
アダムとエバは永遠にエデンの園にとどまるための境界線を踏み越え、それによって私たちに死すべき世での機会を提供する手助けをしてくれたのです。
アダムとエバがエデンの園に住んでいる間に、反対の事物を与える必要がありました。
それは、選択の自由を活用するには自由意志を使って選択しなければならないからです。
神はアダムとエバが戒めに背き、堕落することを承知しておられました。
神は彼らに、2つの相反する戒めを与えられました。
第1の戒めは、この地上で子孫を増やし、地に満たすで、第2の戒めは禁断の木の実を食べてはならないでした。
善悪の知識の木からの実を食べることは、エデンの園を追放され堕落ににつながることを意味していました。
エデンの園にいる間、彼らは不死不滅と不変の状態で子孫を持つことはできませんでした。
つまり、堕落をしたあとでしか、第1の戒めを守ることができなかったのです。
アダムは自分がしなければならなかったことを行っただけです。
アダムは良い動機でその実を食べました。
またアダムは惑わされなかったが、女は惑わされて、あやまちを犯した。 (1テモテ 2:14)
サタンは初めアダムに善悪を知る木の実を食べるように誘惑しましたが、アダムは善悪を知る木の実を食べてはいけないという戒めを守りました。
次にサタンはエバをアダムと同様に誘惑し、誘惑されたエバは善悪を知る木の実を食べる選択をし、エバはアダムを誘い一緒に善悪を知る木の実を食べるするように勧めました。
アダムは善悪を知る木の実を食べてはいけないという戒めを守り、「義(ギ)」を選び、イザナギと名づけられ、エバは「実(ミ)」を食べることを選び、「イザナミ」と名づけられました。
また、日本神話と同様に、イザナギ(アダム)とイザナミ(エバ)の子孫から天照大神(イエス・キリスト)が生まれます。
そして、古代インド神話には、下半身が蛇である夫婦の神であるナーガ(男)とナーギ(女)がいます。

この下半身が蛇であるのは、古代中国の神話に登場する人類の始祖、伏羲(フツギ)と女媧(ジョカ)と同じです。

ナーガとナーギ、フツギとジョカが下半身を蛇で表現されるのは、蛇に表現されたヤハウェによって2人が創造されたことを意味しています。
旧約時代にモーセは旗竿に青銅製の蛇を掲げ、十字架にかかるイエス・キリストの予型にしました。
モーセの旧約時代には、ヤハウェは蛇として予型にされたのです。
フツギとジョカは、それぞれ手に、L字形の直角定規とV字形のコンパスを持っています。
これは、夫婦がエンダウメントを受け、聖約を保っていることを意味しています。

そして、フツギとジョカが神殿で結婚し、互いに絡み合い男女が夫婦となり一体となって、上昇する様は夫婦がお互いに助け愛し合って、日の栄えの王国に上昇し昇栄することを意味します。
結婚
日の栄えの結婚 ラッセル・M・ネルソン 十二使徒定員会


アダムは、妻をエバと名づけました。
さて、人はその妻の名をエバと名づけた。
彼女がすべて生きた者の母だからである。 (創世 3:20)
神はアダムとエバを「アダム」と名づけました。
神は彼らを、御自分の体の形に、男と女に創造された。
彼らが創造されて、神の足台の上の地で生けるものとなった日に、神は彼らを祝福して、彼らをアダムと名付けられた。 (モーセ 6:9)
ここでは、アダムとエバを「アダム」と名づけられています。
この「アダム」は、「アダム・カドモン(原初の人)」のことです。
完成へ向かうアダムとエバは、「アダム・カドモン(原初の人)」とよばれ、完成した天父は「聖なる人」とよばれます。
天父はこの名前で御自身をアダムに現し、御自分が聖なる人であることを示されました。
それゆえ、あなたの子供たちに次のことを教えなさい。
すなわち、どこにいる人でもすべての人が、悔い改めなければならない。
そうしなければ、決して神の王国を受け継ぐことはできない。
清くない者はそこに住むことはできない。
すなわち、神の前に住むことができないからである。
アダムの言葉で、聖なる人とは神の名である。
また、神の独り子の名は、人の子、すなわちイエス・キリストであり、時の中間に来る義にかなった裁き主である。 (モーセ 6:57)
見よ、わたしは神である。
聖なる人とはわたしの名である。
賢慮の人とはわたしの名であり、無窮も永遠もわたしの名である。 (モーセ 7:35)
ジョセフ・スミスは、こう述べています。
「彼〔御父〕は昇栄した人であり、天の玉座に座っておられる!……
もし今日、彼に会えるならば、神があなた自身のように、一個の人であり、姿を持ち、まさに人間のかたちをしておられるのを見るだろう。
なぜならアダムはまさに神のような姿かたちに形づくられ、神から教えを受け、ちょうど1人の人が別の人とするように神とともに歩き、話し、会話をしたのだから。」 (『教会歴史』 p.305)
ロレンゾ・スノーは、このように述べています。
「人が現在あるごとくに神もかつてあり、神が現在あられるごとくに人もなりえる。」 (トーマス・C・ロムニー The Life of Lorenzo Snow [Salt Lake City: Deseret News Press 1955年] p.46)
ジョセフ・スミスが、1844年にノーブーでキング・フォレットを悼んで行った説教です。
「私は、神がどのようにして神になられたかを話そう。
私たちは神が永劫から神であったと想像していた。
〔神がそうではなかったという考えは〕ある人にとっては理解できないものだ。
しかし、それは純然かつ福音の第一原則、すなわち神の性格を確かに知ることであり、私たちは1人の人が別の人に会話をするように、私たちも神と会話することができる。
私たちすべての御父である神御自身、イエス・キリストと同様、地上に住まわれた。……」
この引用は、ジョセフ・スミスの死の直前に行った説教から抜粋したものです。
ジョセフ・スミスにこの神学的概念をこれ以上詳細に話し合うことはできませんでした。
しかし、ジョセフ・スミス以外の別の指導者や会員もほかの機会に、神がかつて私たち(あるいはイエス・キリスト)のようであったという同様の概念を言明しています。
神のようになる
ジョセフ・フィールディング・スミス長老は、こう述べています。
「一部の人々は預言者ジョセフ・スミスが1844年にノーブーでキング・フォレットを悼んで行った説教に出てくる内容に当惑を覚えている。
不可解に思われている事柄というのは、天父がかつて生と死とを味わい、現在は昇栄した人であるという言明である。
これは奥義の1つであって、一部の人は聖典の他の言葉と矛盾すると考えている。
当然のことながら私たちには現世にいる間で理解できない事柄がたくさんある。
眼前に展開している難解なことを全部つきとめることはできない。
私たちの理解力には限界があり、その結果として、私たちは自分が知っていること、なじみのあるものを基に判断しがちである。
永遠に属する事柄は、私たちが永遠の命という目的地に到達し、すべてのことが明らかにされて初めて理解できるようになるだろう。
聖典の中で、神は『神は無限かつ永遠で、永遠から永遠にわたって変わることのない同じ神であり、天地とその中にある万物を形造られた御方』(教義 20:17)であり、『神は昨日も、今日も、とこしえに変わらない』(モルモン 9:9)、さらに『永遠から永遠にわたって変わらない御方である』(モロナイ 8:18)記されている。
以上の聖句は預言者ジョセフ・スミスが教えた次の教えとどのように調和させることができるだろうか。
『神はかつて現在の私たちのようであった。そして現在は昇栄した人である。……
神はかつて私たちのような人であった。
私たちすべての御父である神御自身、イエス・キリストと同様、地上に住まわれた。……』」 (『救いの教義』 1:10-11)
天父は、人から昇栄し神になった人であり、聖なる人なのです。
これは、人が神に似る者となって昇栄を受け継ぐために、知って理解しなければならない真理です。
地球の火によるバプテスマ
イエス・キリストの再臨は「金をふきわける者の火」(マラキ 3:2)のようであって、「すべて高ぶる者と、悪を行う者とは、わらのようになる」(マラキ 4:1、教義 29:9参照)と述べられています。
「主の臨在は物を溶かす燃える火のようであり、水を沸き立たせる火のようである」(教義 133:41)、また邪悪な者は主の来臨の輝きによって焼き尽くされ、ことごとく滅びうせます。(教義 5:19参照)
さらにこの火は、邪悪な者を滅ぼすと同時に、腐りやすいすべてのものを清めます。(教義 101:23-25参照)

太陽から伸びる超高熱プラズマが地球を襲い、加えて誕生したばかりの灼熱の原始惑星が地球に接近し、放射する磁力線の渦は地球の磁場と反応するや世界規模の超高熱プラズマを発生させます。

地球中心部から地表に向けて放射される高温プラズマの想定図
また、神の僕たちは出て行って、大声でいうであろう。
『神を畏れ、神に栄光を帰しなさい。神の裁きの時が来たからである。
天と地と海と水の源とを造られた御方を礼拝しなさい。』
彼らは、日夜主の名を呼んでいうであろう。
『どうか天を裂いて降って来られますように。あなたの御前に山々が崩れ落ちますように。』
そして、それが聞き届けられるであろう。
主の臨在は物を溶かす燃える火のようであり、水を沸き立たせる火のようである。」 (教義 133:38-41)
わたしはふさわしいときに、裁きのために地上に来る。
そして、わたしの民は贖われ、わたしとともに地上を治めるであろう。
わたしが僕たちの口を通して語った、大いなる福千年が来る。
そして、サタンは縛られる。
また、彼は再び解放されると、しばしの間だけ支配し、その後地球の終わりが来る。
義のうちに生活する者は一瞬のうちに変えられ、地球は火によるかのごとくに過ぎ去るであろう。
悪人は消すことのできない火の中に入るであろう。
彼らの末路を、地上の人はだれも知らず、彼らが裁きのためにわたしの前に来るまで決して知らないであろう。 (教義 43:29-33)
今日が過ぎると、焼き払いがある。
これは主の言い方である。
まことに、わたしはいう。明日、すべて高ぶる者と悪を行う者は、わらのようになる。
わたしは彼らを焼き尽くそう。
わたしは万軍の主である。わたしはバビロンにとどまる者をだれも容赦しない。 (教義 64:24)

地上はプラズマの業火によって焼き尽くされてしまいます。
地球はノアの時代の洪水で水のバプテスマの儀式を受け、末日のイエス・キリストの再臨では火によるバプテスマを受けるからです。
プラズマの炎はすさまじい光学現象をともない漆黒の天空を不気味な青白い光や血の色で染め、まるで意思を持つ生き物のように動きながら、天空から波動的に地上に舞い降りてくるでしょう。
そして、その光景を見られた者がいたとしても、数秒後にはすさまじい炎に包まれ数分で完全に灰と化します。
地球大きさもノアの時代の洪水前の地球に戻っています。




そして、高密度のプラズマ・フィラメントとの遭遇によって急激に膨張を開始した太陽のプラズマは地球を飲み込み、プラズマが持つ高エネルギーによって大気がすべて発光し大気が輝き、ついには夜がなくなります。

地球上の大気が励起して、あたかも蛍光灯のように発光し、太陽から送られてくる電流が地球大気というネオンを発光させているようなもので、太陽と地球がプラズマ流で結ばれることになります。
全宇宙空間に張りめぐらされているプラズマ・フィラメントと同じ物が形成されるのです。
福千年の間、太陽系の惑星は膨張した太陽の中で公転を続けます。
これを外側から見ると1つの巨大な恒星として観測されるでしょう。
地球は福千年時に月の栄えのような状態になり、そののちに太陽系の星々とともに地球は死にます。
福千年が終わったのち、最後の戦いがあり、そののちに日の栄えの神の御座から膨大な光が注がれ、太陽プラズマ領域は臨界点を越えてすさまじい大爆発の超新星を起こします。
太陽系は跡形もなく消滅してしまいます。
そして、地球は日の栄えの体に復活します。

そして、最後の裁きがあり、神の住まう日の栄えの王国につながる通路のプラズマ作用によって空間同士をつなぐプラズマ・トンネルをとおり、永遠の命を得た聖徒とともに移動します。
さらにまた、まことに、まことに、わたしはあなたがたに言う。
千年が終わり、人々が再び彼らの神を否定し始めるとき、わたしはしばしの間だけ地をそのままにしておこう。
そして、終わりが来て、天地は焼き尽くされて過ぎ去り、新しい天と新しい地があるであろう。 (教義 29:22-23)
私はまた、大きな白い玉座と、そこに座っておられる方とを見た。
天も地も、その御前から逃げて行き、行方が分からなくなった。 (黙示 20:11)
ブリガム・ヤング大管長は、このように述べています。
「地球は日の栄えの状態になると太陽のようになり、聖徒たちの住まいとして備えられ、御父と御子の前に戻される。
そして、もはや現在の地球のような光を放たない物体ではなく、天空の星のように光と栄光に満ち、光輝く物体となる。
ヨハネは、日の栄えの状態になった地球をガラスの海にたとえた。」 (『説教集』 7巻 p.163)
また別の機会に次のように述べています。
「この地球は清められて聖なるものとなるとき、すなわち日の栄えの状態になるとき、ガラスの海のようになる。
そして人はそれを覗き込むことによって、過去のことも現在のことも未来のことも知ることができる。
しかし、この特権にあずかれるのは、日の栄えの状態になった者だけである。
彼らが地球を覗き込むと、ちょうど鏡で顔を見るのと同じように、知りたいと思ったことが示されるであろう。」 (『説教集』 9巻 p.87)

復活したイエスは、ユダヤの人々と同様に、古代アメリカの人々に教えられました。
さらにまた、あなたがたがわたしに会ったと証し、わたしが実在することを知っていると証するとき、あなたがたのその言葉を信じる人々は、なおさら幸いである。
まことに、あなたがたの言葉を信じて、心底謙遜になってバプテスマを受ける人々は、幸いである。
彼らは火と聖霊を授かり、罪の赦しを受けるからである。
まことに、わたしのもとに来る心の貧しい人々は、幸いである。
天の王国は彼らのものだからである。
また、悲しむ人々は皆、幸いである。
彼らは慰められるからである。
柔和な人々は、幸いである。
彼らは地〔日の栄えの地球〕を受け継ぐからである。
義に飢え渇いている人々は皆、幸いである。
彼らは聖霊に満たされるからである。
憐れみ深い人々は、幸いである。
彼らは憐れみを受けるからである。
心の清い人々は皆、幸いである。
彼らは神を見るからである。
平和をつくり出す人々は皆、幸いである。
彼らは神の子と呼ばれるからである。
わたしの名のために迫害される人々は皆、幸いである。
天の王国は彼らのものだからである。
わたしのために人々があなたがたをののしり、また迫害し、またあなたがたに対して偽って悪口を言う時には、あなたがたは幸いである。
あなたがたは大きな喜びを得て、非常に喜ぶようになる。
天においてあなたがたの受ける報いは大きいからである。
あなたがたより前にいた預言者たちも、同じように迫害されたのである。 (3ニフ 12:2-12)
人の贖いは、万物を生かす者によって来る。
その者の胸のうちに、地の貧しい者と柔和な者はそれを受け継ぐということが定められている。
それゆえ、地球は日の栄えの栄光に備えられるように、すべての不義から必ず聖められなければならない。
地球はその創造の目的を達した後、栄光、すなわち父なる神の臨在を冠として与えられるであろう。
それによって、日の栄えの王国に属する者たちが、とこしえにいつまでも、これを所有できるようにするためである。
この目的でこれは造られ、創造され、またこのために彼らは聖められるのである。 (教義 88:17-20)
第1章 天におられるわたしたちの御父
第2章 わたしたちの天の家族
第3章 選ばれた指導者、救い主であるイエス・キリスト
第4章 選ぶ自由
第5章 創造
第6章 アダムとエバの堕落
天地創造と地球のバプテスマ
1:18 わたしたちもイエスと共に聖なる山にいて、天から出たこの声を聞いたのである。
2:1 しかし、民の間に、にせ預言者が起ったことがあるが、それと同じく、あなたがたの間にも、にせ教師が現れるであろう。彼らは、滅びに至らせる異端をひそかに持ち込み、自分たちをあがなって下さった主を否定して、すみやかな滅亡を自分の身に招いている。
2:21 義の道を心得ていながら、自分に授けられた聖なる戒めにそむくよりは、むしろ義の道を知らなかった方がよい。
2:22 ことわざに、「犬は自分の吐いた物に帰り、豚は洗われても、また、どろの中にころがって行く」とあるが、彼らの身に起ったこ とは、そのとおりである。