愛詩tel by shigさんのサイトより
https://blog.goo.ne.jp/1shig/e/a2d36553013ce736908b3ff20660846b
<転載開始>

NHK 福祉ポータル ハートネットより
2018年02月05日

ドイツの精神科医と安楽死計画 第1回 精神科医が関与した歴史的犯罪

Webライターの木下です。

もうひとつあったナチス時代の闇


2015年にNHK『ハートネットTV』と『ETV特集』では、「それはホロコーストのリハーサルだった:T4作戦 障害者虐殺70年目の真実」という番組を放送しました。
ナチス時代のドイツにおいて、ユダヤ人の大量殺戮の前に、20万人を超える障害者が殺されていたというショッキングな歴史的事実を扱いました。

そして、翌年2016年7月には、相模原市にある知的障害者施設「津久井やまゆり園」で、19人の障害者が殺害されるという痛ましい事件がありました。
植松聖被告は、「ヒトラーが降りてきた」という表現で、自分がナチスと同じように障害者の安楽死を実行したのだと伝えられています。


ナチスによるユダヤ人の大量虐殺については、周知の事実となっていますが、障害者の大量虐殺については、広くは知られていませんでした。
しかし、ハートネットTVの放送や津久井やまゆり園の報道があってから、多くの人がその事実を知り、ナチス時代のドイツがいかに常軌を逸した考え方にとらわれていたのかを、改めて思い知らされることになりました。


写真:殺戮施設

殺戮施設
ハルトハイム殺戮施設から煙が上がっている唯一の写真である。これを撮影したカメラマンは、ナチ反対派であるキリスト教一派に所属していた。

※以下、本文中の写真およびキャプションは、「ナチ時代の患者と障害者たち」移動展覧会より


しかし、ユダヤ人のホロコーストが世界中に知れ渡っているのに対して、なぜ障害者の殺害に関しては、その事実があまり知らされてこなかったのでしょうか。
実は、ヒトラーは安楽死計画に賛同し、命令書に署名をしただけで、
障害者の大量殺害を計画したのはドイツの精神科医たちであり、現場で殺害を遂行したのも医師や看護師たちだったという認めがたい事実がありました。

戦後、精神科医たちは自らの犯罪的行為をすべてヒトラーやナチスの責任として、自分たちを被害者の立場に置き、事実が明らかにされるのをタブー視してきました。
安楽死計画の責任者たちは、ニュルンベルグ裁判の医師法廷で、死刑判決を受けたり、自ら命を絶ちましたが、関与した医師たちの中には、罪を問われることもなく、戦後も大学教授の職に復帰していった者もいました。


ユダヤ人の大量殺戮とは別に、私たちが直視しなければならない歴史上の闇がもうひとつあったということです。


ヒトラーの中止命令の後にも続いた大量殺戮


障害者の安楽死計画は、その本部が置かれていたティアガルテン4番地という地名からT4計画」と呼ばれていました。
T4計画が開始されたのは、ドイツ軍がポーランドに進行して、第2次世界大戦の火ぶたが切られた1939年のことでした。
ドイツ各地の病院で、生きるに値しないとされた精神障害者や知的障害者などがリストアップされ、殺人バスと呼ばれた灰色のバスで、ドイツ全土に6か所あった殺戮施設に運ばれ、一酸化炭素ガスによって殺害されました。


写真:殺人バス

殺人バス
「T4計画」は、「第三帝国秘密事業」とされていたが、すぐに国民の知るところになった。
大きな殺戮施設の近隣住民は、患者の乗ったバスがどこに向かうのかしっていた。
ハダマ―施設の近辺では子供たちが「また殺人バスだよ」とよく噂していた。


T4計画に関しては、多くの国民はナチスを恐れてひそかに噂話をするだけでしたが、やがて教会関係者からは反対の声が上がり始め、カトリック教会のフォン・ガーレン枢機卿が、「安楽死は殺戮である」という説教を、ひるむことなく行いました。
すると、ヒットラーはキリスト教会を敵に回すことを嫌ったためか、1941年8月24日に中止命令を出しました。
1年半という短い期間に約7万人の障害者が殺戮されました。

 

写真:フォン・ガーレン枢機卿

フォン・ガーレン枢機卿(中央)
精神病院における殺戮が始まったとき、司教、司祭たちは文書、覚書、交渉を通じて、その政策の変更を試みた。
同時期に、司教会は繰り返し、精神病者や障害者を殺戮することに反対を表明した。


しかしながら、その後も障害者の殺戮は目立たない方法で続けられ、最終的には1945年までの間に、20万人を超える障害者が殺されることになりました。
安楽死計画がヒットラーの意思だけで行われたものでないことは明らかでした。
なお、T4計画は、成人を対象とする計画でしたが、それと並行して、先天性の障害のある子どもたちも5000人近く殺されていました。
これには小児科医もかかわっていたと言われています。




木下 真 


参照:『ニュルンベルグ裁判』(アンネッテ・ヴァインケ著 板橋拓己訳)
   『第三帝国と安楽死』(エルンスト・クレー著 松下正明監訳)


 続く・・


<転載終了>