ijn9266のブログさんのサイトより
http://blog.livedoor.jp/ijn9266/archives/3475150.html
<転載開始>

「山本五十六は生きていた」と聞いて皆さんはどう思われるだろうか?「ヒットラーは生きていた」に続いて、ここまで来ると『もう、ついて行けない!』と踵を返す人も多いことだろう。しかし、彼がアメリカ留学中にフリーメーソンに入会していたことを知る人なら『さもありなん』と別に驚かない。

Free Mason 02



ルーズベルトも、山本五十六も、海軍大臣米内光政も、皆フリーメーソンであった。表の歴史ではこうなっている。

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「山本五十六連合艦隊司令長官は昭和18年4月18日、ブーゲンビル島ブインの航空基地視察のためと称して、午前6時ラバウル東飛行場を一式陸攻で離陸。長官を乗せた一式陸攻は高度2500メートルでゆっくりと飛行、6機の護衛戦闘機はその500メートル上空を飛行していたが、ブーゲンビル島南端のブイン基地上空にさしかかったところ、ガダルカナル島ヘンダーソン基地を飛び立ったミッチェル少佐の指揮するP-38米攻撃機28機が午前7時33分山本長官機と遭遇。直ちに撃墜。長官機は翌19日午後2時頃陸軍の捜索隊によって発見される。山本長官の遺体は機外に投げ出された座席に腰かけ、軍刀を握りしめたままであった」

Yamamoto Isshiki Rikuko 01

しかし、墜落現場を最初に発見した浜砂陸軍少尉は次のように証言している。

「長官はあたかもついさっきまで生きていたかのような風貌で、機外に抛出された座席上に端然として死亡していた……その顔面には創はなかったし、出血の痕もなかった。その発見は墜落後実に30時間前後も経った頃である」


一体どういうことか?真相は次の通りだ。


捜索班が事故機を発見したとき、長官の身替りとされた男(恐らくは風貌の似た人物)を座席に縛りつけ毒殺。従って発見時には顔面の創も背部盲貫機銃創も存在しなかった。その後、山本長官を「機上死」であると捏造するため、遺体に拳銃か鋭利な刀物で人工的な死後損傷を加えた。事実、田淵軍医が検死をしている最中に長官のワイシャツを脱がせようとしたが、渡辺参謀から突然大声一喝され、「脱がすな、これ以上触れてはならぬ!」と怒鳴られ制止されている。人工的な死後損傷であったとする証言も数多く存在するが、これらのすべては黙殺され、渡辺中佐の命令下、虚偽の「死体検案書」と「死体検案記録」が作成され、「機上壮烈なる戦死」という大本営発表となる。

Isoroku_Yamamoto 02

フリーメーソンの山本五十六は同じフリーメーソンのルーズベルト米大統領と共謀して、海軍部内の大反対を押し切り、真珠湾攻撃を立案、決行。わざと旧式の軍艦のみを沈めさせ、空母や燃料貯蔵施設、工廠などは意図的に無傷で残した。

Illuminati 01

ミッドウェー海戦ではわざと情報を漏洩させ、日本海軍に第一線の空母4隻を失う等、壊滅的な敗北を与える作戦を立案、決行。太平洋戦争前半における帝国海軍崩壊のためのすべての役割を完了した。

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そのため急遽姿を隠す必要が生じ、側近の宇垣纏中将(連合艦隊参謀長)や渡辺中佐(参煤)と共謀し、あらかじめ暗号をアメリカ側に漏洩した上で長官機撃墜の一大ペテン劇を演出。

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当日、山本長官はわざわざ草色の第三種軍装(写真上)を身にまとい、ジャングルを逃亡の際目立たぬよう略装にした。米軍機攻撃の際、いち早くパラシュートで脱出、地上よりかねて打合せの場所からガダルカナル島米軍基地へと逃亡。

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よく言われることに「太平洋戦争は米軍の物量に負けた」とか、「最初から勝つ見込みの無い無謀な戦争だった」というのがある。それらの言は現場の兵士から聞けばより真実味をもって響く。

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果たして真実はどうだったのだろうか?日本と米国では確かに国力の差はあったものの、ミッドウェー海戦に向かった4隻の第一線級航空母艦群を中心とする連合艦隊の実力は、質量ともに米海軍を遙かに凌駕していた。中国戦線以来歴戦パイロットの実力は自惚れでも慢心でも無く、自他共に認める世界一だった。ミッドウェー海戦で米海軍の正規空母全てを沈めてしまえば、米西海岸上陸作戦も可能となり、アメリカ国民は震え上がった筈である。有利な条件での講和も可能だったろう。

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しかし、歴戦の強者パイロット達は勿論、連合艦隊上層部も、山本五十六を始めとするフリーメーソンメンバー以外は、日米双方のイルミナティ・フリーメーソンが仕組んだ「ミッドウェー海戦でイルミナティ・フリーメーソンにとっての邪魔者、世界最強の日本海軍航空部隊をおびき出して葬り去る」という陰謀については何も知らなかった。意気軒昂な10万の兵士達ではあったが、「陰謀という船」に乗せられて「陰謀渦巻く海域」へと出撃していったのである。最初から負けることが決まっていた戦(いくさ)のために。何と虚しいことだ。

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昭和16年(1941年)12月8日、真珠湾攻撃における空襲部隊の総指揮官、第1次攻撃隊総指揮官機に搭乗して有名な「トラ・トラ・トラ」(ワレ奇襲ニ成功セリ」の打電をした淵田美津雄中佐は「真珠湾攻撃は余りにもうまく行き過ぎた。敵は作戦を事前に知っていて、わざと我々に奇襲攻撃を成功させたのではないか?」、「山本五十六大将は凡将である。せっかく育て上げた世界最強の航空部隊を解体し、弱体化してしまった。」等と正直に彼の著書で述べている。彼は現場で戦闘経過を見まもる中、うっすらと山本五十六の正体に気付いていたのかもしれない。

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全てはロスチャイルド財閥やロックフェラー財閥等、国際金融資本家達、延いてはイルミナティ・フリーメーソンのシナリオに沿って行われた世紀の八百長戦争。それが第二次世界大戦の真実である。

以下、参考ウェブサイト:http://ameblo.jp/worldforumnet/entry-10145748533.html 

●戦死が狂言であった此れだけの証拠


 山本長官の「死」は明らかに狂言であろう。其の隠された真相は次の如くであると推測される。

1、山本長官は太平洋戦争前半に於ける帝国海軍崩壊の為の全ての役割を完了した。
2、其の為急遽姿を隠す必要が生じ、側近の宇垣纒中将(連合艦隊参謀長)や渡辺中佐(参謀)と共謀し、予め暗号を米国側に漏洩した上で長官機撃墜の一大ペテン劇を演出した。
3、当日、山本長官は態々草色の第三種軍装を身に纏いジャングルを逃亡の際目立たぬ様略装にした。
4、米軍機攻撃の際、一早くパラシュートで脱出、地上より兼ねて打合わせの場所からガダルカナル島米軍基地へと逃亡した。
5、捜索班が事故機を発見した時、長官の身替わりとされた男(恐らくは風貌の似た人物)を座席に縛り付け毒殺した。
6、従って発見時には顔面の創も背部盲貫機銃創も存在しなかった。
7、其の後、山本長官を「機上死」であると捏造する為、遺体に拳銃か鋭利な刃物で人工的な死後損傷を加えた。
7、山本五十六が生存した証人

1994年6月、私はソロモン諸島ガダルカナルで、深夜土砂降りの雨をついて一人の地元民と出会った。男は山本機が撃墜されたブーゲンビル島ブインの密林の地主の後継者で41歳。ブイン周辺は独立戦争(パプア・ニューギニア政府と、ブーゲンヒル島の分離独立を求めるブーゲンヒル革命軍の戦い)の真っ只中にあった(1994年9月3日に和平交渉が成立した)。男の兄弟三人は最近、革命軍兵士に射殺され、彼は小舟を漕いで対岸のソロモン領ショートランド島に逃げ延びてガダルカナルにいるブイン出身の友人宅に身を隠していた。


 「祖父と父から固く口止めされていた。撃墜機の山本は生きていた。祖父が彼を助け出した」  男は私にそう語った。
内戦の実相はブーゲンヒル島の地下資源からあがる利益配分を争うもので、その背後には旧植民地支配国の英国、ドイツ、オランダなどの世界資本家群が控えているという。


事実、田淵軍医が検死をしていた最中長官のワイシャツを脱がせようとしたが、渡辺連合艦隊参謀から突然大声一喝され、「脱がすな、此れ以上触れてはならぬ!」と怒鳴られ制止されているのである。人工的な死後損傷であったとする証言も数多く存在するが、此れ等の全ては黙殺され、渡辺中佐の命令下、虚偽の「死体検案書」と「死体検案記録」は作成され、「機上壮烈なる戦死」と云う大本営(海軍!忍)発表となるのである。


●「運良く」助かった宇垣纒中将とは何者か


此処で「運良く」助かった宇垣纒中将とは何者かを知らなければならない。
宇垣は明治23年2月、岡山県赤磐郡潟瀬村と云う地に生まれた。岡山一中を経て明治45年7月、海軍兵学校40期を卒業、大正7年、海軍大尉。11年12月~13年11月、海軍大学校甲種学生、13年12月、少佐、14年12月、軍令部一班二課、昭和4年1月、独国駐在、6年12月第二艦隊参謀。7年11月、海軍大学校教官兼陸軍大学校教官。10年10月、連合艦隊参謀兼第一艦隊参謀。11年12月海防艦八雲艦長。12年12月、戦艦日向艦長。13年11月、少将。13年12月、軍令部第一部長、16年8月連合艦隊参謀。

以上がインド洋作戦辺り迄の略歴である。宇垣の態度がデッカク、傲岸不遜、唯我独尊であった事はつとに有名であり、独国駐在の折りにはヒットラーのナチス・独国共直接接する機会を得、日独伊3国同盟時は軍令部第一部長と云う要職にあった。

3国同盟締結の折は賛成派に回った為山本長官に疎んじられている共言われたが、どう云う訳か昭和16年8月、連合艦隊参謀長に任命され、山本五十六大将を直接補佐する事になる。以後、連合艦隊の旗艦「大和」上の司令部内で山本長官の影武者に徹して常に其の意向を尊重し、補佐して来た。
彼れ程傲岸不遜な宇垣が何故山本長官に寄り添い続けたのか。其の訳は宇垣がユダヤ・フリーメーソンに入信した事であろう。

山本・宇垣の組合せ(コンビ)は真珠湾、ミッドウェー、ガダルカナル、ソロモンと呼吸を合わせ、日本海軍の崩壊に尽力した。

ブーゲンビル上空で山本長官逃亡の手筈を整えたのも宇垣である。宇垣もしっかりと生き延びており、昭和17年11月には中将に進級、昭和20年8月15日の終戦詔勅渙発を知るや沖縄の沖合に蝟集する米艦隊目がけて突入すると称して部下の操縦する飛行機に搭乗、其の儘行方を絶った。日本の敗戦を見届けて姿を消したと云うべきか。
戦後山本長官の姿を何処やら見かけたと証言する人も居り、太平洋戦争を敗北に導いた功労者の多くは「世界支配層」ユダヤ・フリーメーソン陣営に依って手厚く保護されたのである。

●ルーズヴェルトの命令を忠実に守ったから


此処で山本長官の果たした役割に就いてもう一度纒めて見よう。 真珠湾攻撃の計画は元々「世界支配層」及び米国其れに山本長官の深慮遠謀から生まれた計画である。 日本人フリーメーソン山本五十六は連合艦隊司令長官にあるずっと以前、恐らくは海軍次官の頃から米国側と連絡を取り、若し日米が開戦になった時は先ず真珠湾を奇襲し、米国の対独戦を合理化させると同時に日本への米国国民の参戦気分を一気に高揚させると云う計画を練り上げたに違いない。

米国側で此の計画を推進したのは勿論フランクリン・D・ルーズヴェルト大統領であった。そして此の計画にはヘンリー・スチムソン陸軍長官、フランク・ノックス海軍長官、ジョージ・マーシャル陸軍参謀長、ハロルド・スターク海軍作戦部長、そしてコーデル・ハル国務長官が加わっていた。

日本側で此の計画を知っていたのは山本五十六以外にはほんの一握りの人間であろう。其れは元首相や海軍大臣、そして外務省の高官達等最高度の機密を保てる者に限られていた。

山本長官は此の計画を実現させる為に色々な手を打った。開戦の年昭和16(1941)年夏の時点では真珠湾攻撃で使用する予定の軽魚雷は未だ開発中であったし、9月初旬に於ても攻撃用の直接部隊は不足していた。山本長官は画策の末、こうした戦術面での問題を11月の末には全て解決した。

ところが肝心の永野修身軍令部総長等海軍首脳部はこぞって反対であった。海軍上層部には尚未だ日米開戦への躊躇と真珠湾攻撃が実際に何れだけ効果を上げられるか疑問を持っていたのである。日本が米国を仮装敵国としたのは明治40(1907)年4月に「帝国国防方針」が制定されてからであるが、日本の陸海軍が立案した正式な計画の中にはハワイ攻略は含まれていない。攻略の対象はせいぜいグアム島止まりだったのである。

昭和15(1940)年ルーズヴェルト大統領は米海軍首脳の反対を押し切って、其れ迄西海岸カリフォルニア州のサンディアゴ軍港にあった太平洋艦隊を年次演習の目的でハワイの真珠湾に進出させた。第二次大戦が勃発し、山本五十六が連合艦隊司令長官として対米戦を計画している最中であった。ルーズヴェルトは山本長官と共謀して、日本側に格好の攻撃目標を提供したのである。

●日本を敗戦に導く山本の謀略とは


山本五十六連合艦隊司令長官が3年8ヶ月に及ぶ太平洋戦争の中で実際に艦隊を指揮したのは真珠湾攻撃の始まった昭和16年12月8日からブーゲンビ島上空で「戦死」する昭和18年4月18日迄の1年4ヶ月である。

此の間に山本長官は偉大為る貢献を「世界支配層」ユダヤ・フリーメーソン陣営に行った。其の貢献とは何であったかである。山本長官は太平洋戦争が日本の敗北で終わる事を望んでいた。日本を敗北させる事がフリーメーソンである山本五十六の役目だったのである。

其の為には日本が圧倒的優位を誇る連合艦隊を速やかに壊滅させる必要があった。そしてもう一つは米国の太平洋艦隊に対し常に手心を加え、其の戦力を温存させる事であった。此の為山本長官が取った手段は次の通りであった。

◆真珠湾攻撃を海軍軍令部の強い反対を押し切って強行。但し其の攻撃は不徹底なものとする。
 
忠実為る配下の指揮官・・南雲忠一中将(第一航空艦隊司令長官)
             草鹿龍之助少将(第一航空艦隊参謀長)
             源田実中佐(第一航空艦隊参謀)
◆珊瑚海海戦で米海軍に手心を加え、米空母「ヨークタウン」撃沈せず
 
忠実為る配下の指揮官・・井上成美中将(第4艦隊司令長官)
             原忠一少将(第4艦隊空母指揮官)
◆ミッドウェー海戦で連合艦隊大敗北を画策
 
忠実為る配下の指揮官・・南雲忠一中将(機動部隊司令長官)
             草鹿龍之助少将(機動部隊参謀長)

◆ソロモン海戦でガダルカナル大敗北の原因を作る
 
忠実為る配下の指揮官・・三川軍一中将(第八艦隊司令長官)
             南雲忠一中将(機動部隊司令長官)
             草鹿龍之助少将(機動部隊参謀長)
             原忠一少将(軽空母「龍驤」指揮官)

◆「い」号作戦で日本の南東方面航空兵力を潰滅させた。


何れの海戦に於いても忠実為る配下の凡将、愚将、怯将である。南雲中将、草鹿少将、源田参謀、井上中将、原中将、三川中将等を長期に亙って使い続け、「攻撃の不徹底」及至は「手心」を加えさせている。

更に大事な要点は海軍が使用していた暗号電報を米国側に筒抜けにさせている事であろう。山本長官は米国が日本海軍の暗号電報を既に解読し、連合艦隊のあらゆる作戦行動を見抜いていた事も予め承知の上で、作戦を強行した節がある。真珠湾攻撃の時もそうであるし、モレスピー攻略作戦(MO作戦)に於ける珊瑚礁海戦は不充分な戦果に終わった。ミッドウェー海戦(MI作戦)の時も、米国側に充分な情報と対応の為の準備期間を与えていたと考えられる[「情報収集と判断能力は相まちて、完璧に近付くものとする」と言う。情報収集能力の欠陥と判断能力の欠如は、競い合って海軍情報力に致命的悲劇を齎らした。大東亜戦争3年8ヶ月、海軍は敵の情報は取れず、我情報は取られっ放しで彼の戦争を戦った。戦後判明した所に依ると、戦争中の、米軍の日本暗号の解読状況は次の通りである。

(外務省)誤字のないものは殆ど全部、全体の約95%が解読された。
(海軍)約70%が傍受され、其の70%が解読された。
(陸軍)戦争前半0%、19年・0.08%、19年末以降0.6%」(含終戦後暗号書をとらえて解読されたもの)が解読された(『昭和軍事秘話中』)!忍」

長期間に及んだソロモン海戦の時も日本の艦隊や輸送船、飛行隊の動きは全て米国に依って把握されていた。結局日本海軍は山本五十六の意図に依って其の初期戦力を激滅させていたのである。

此の偉大為る「功績」により山本長官の役目は一通り終わった。そして姿を消す時期が遣って来たのである。ブーゲンビル島上空に於ける「戦死」がそれである。米国が暗号解読をしている事を承知の山本五十六は前線視察と称して連合艦隊司令部から一式陸攻に搭乗してブーゲンビル島のブイン飛行場に向かったのである。昭和18年4月18日の事である。

山本五十六連合艦隊司令長官はこうして戦線から姿を消すのであるが、山本長官と共に1年4ヶ月の海戦を戦った将官達は、其の極度な無能ぶりにも関わらず戦後様々な戦記作家に依って何れも名将、名参謀として称えられている。

戦後の日本が米国に占領され、民族心を盡く失う迄に洗脳された結果、「世界支配層」に迎合するフリーメーソン作家が此の様な日本民族に対する背信行為をするのも、いわば当然であろう。
日本が開戦した時の米国との国力は1対10の比率であったと云われる。

此の為に日本が戦争したのは無謀であったとか、軈ては負ける運命であった等と云う意見がある事も事実だ。だが、日本があらゆる海戦で勝利(するべき事をする!忍)を納めていれば(其れは可能であった)米国の戦意が喪失し、休戦、和平交渉の道も可能だったのである。


●「Z作戦計画書」を米軍に渡す作戦(日本帝国海軍乙事件!忍)


 米軍はミッドウェー海戦の勝利以降、ガダルカナル、ソロモン、ラバウルを制圧し、アドミラルティからニューギニア北岸を西進、更にパラオからマーシャル諸島のブラウンに到達した。当時パラオにあった連合艦隊司令部は米軍の急迫を避ける為フィリピンのミンダナオ島ダバオへ移転する計画を立てた。

昭和19年3月30日、米輸送船団がアドミラルティの北西を西航中であると云う重大なる情報が大本営より齎された。此の大本営通報が後になって誤報である事が判明したが、何故か確認もされない儘翌31日、連合艦隊司令長官に任命された古賀峰一大将は計画に基づいて31日、司令部の移転を開始した。3月31日当日、パラオとダバオ間約千Kmの洋上には大きな低気圧が発生していたが、移転は次の3機によって実行された。

◆一番機(851空、機長・・難波正忠大尉)乗員・・古賀峰一大将(連合艦隊司令長官)、上野あ太大佐(艦隊機関長)、柳澤あ之助大佐(首席参謀)、内藤雄中佐(航空参謀)、大槻俊一中佐(航海参謀)、山口肇中佐(航海参謀)、柿原少佐(軍医)。

◆2番機(802空、機長・・岡村松太郎中尉)乗員福留繁中将(参謀長)、大久保信大佐(艦隊軍医長)、宮本正光大佐(艦隊主計長)、山本祐二中佐(作戦参謀)、奥本善行大佐(機関参謀)、小池伊逸中佐(水雷参謀)、島村信政中佐(航空参謀・気象)、小牧一郎少佐(航空参謀)、其の他2名

◆3番機(851空、機長・・安藤敏包中尉)乗員・・司令部暗号士及び暗号員

 1番機は22時30分に出発、2番機はやや遅れてパラオを飛び発った。3番機は翌4月1日未明4時56分に出発した。ところが、先に出発した筈の1、2番機は到着予定時刻の4月1日午前3時を過ぎても消息は不明であり、3番機のみが午前7時40分無事にダバオに到着した。

1番機には古賀連合艦隊司令長官が座乗しA2番機には艦隊司令部用信号書及び暗号書、其れに「Z作戦計画書」が積まれていた。

「Z作戦計画」とは「あ」号作戦(マリアナ沖海戦)や「捷1号作戦」(レイテ海戦)の原案となるものであり、此の機密文書と暗号書は福留中将の手提げ鞄の中に収められていた。2番機は2時50分あセブ島ナガ沖に不時着、福留中将は此の鞄を抱いた儘泳いでいたが、数隻のカヌーが接近して来た為鞄を放棄した。ところが漁夫の一人がゆっくり沈んで行く手提げ鞄を拾い上げ収容した。

此の「Z作戦計画書」は防水ケース毎ゲリラの手に依ってセブ島南部へ送られ、米潜水艦に依ってオーストラリアへ移送され、全頁が複写された。そして最終的に其れがハワイ真珠湾の米太平洋艦隊司令部に渡り、マッカーサー及びニミッツの許可の下編集、複写され、海上に出撃している全ての米艦隊司令官等に配布された。

「Z作戦計画書」は元の防水ケースに収められ、潜水艦に依って再びフィリピンの海に流した。計画書が米軍に依って奪われた事を悟られない為の周到な準備であった。

1番機の消息に就いては其の後何の情報も得られず、4月22日捜索は打ち切られた。 此の事件は「海軍Z事件」として秘匿され、何の追求もされない儘不問に付された。事件後の変更、作戦の見直しを訴えた情報参謀の意見も却下され、暗号は其の儘使い続けられ、マリアナ沖海戦もレイテ沖海戦も予定通り遂行されて大敗を喫するのである。

此の事件は海軍首脳部に依って最初から仕組まれていたものであろう。先ず3月30日、米輸送船団が西航海中と云う偽情報が大本営海軍部より意図的に流される。そして司令部移転の日は態々低気圧の発生した31日に指定され、「Z作戦計画書」も遭難不時着を予め想定して防水ケースに入れられた。
古賀長官を乗せた1番機は其の儘逃走、2番機は予定通りセブ島沖に不時着して暗号書及び作戦計画書がゲリラの手に渡る様仕組んだと見ていい。

セブ島のゲリラ討伐中の大西大隊長は4月10日、ゲリラ長のクーシン米軍中佐から福留中将以下10名の将兵引き渡しと交換条件に討伐を中止して欲しいとの手紙を受け取った。福留中将等は12日、セブ派遣隊に引き取られ、13日、セブ水行者に到着した。此の時、福留中将は出迎えの山本繁一第三南遣艦隊参謀に対し、「機密書は漁民の手に渡ったが、彼等には関心が無かった様だ」と語り、平静であったと言われる。

福留中将は18日、飛行機で羽田に帰着し、海軍大臣の官邸で口頭報告を行ったが、福留中将には何の咎めも無かった。結局、作戦構想も暗号も全く変更されなかったのである(此の時期は戦争最中であったから、当然作戦見直す必要があったのではなかろうか。漁夫が、敵の手に情報を渡さない保証は全く無く、最悪の状態を常に考える必要があったのではないか!忍)。其の後福留中将は軍令部出仕となり、6月15日、第二航空艦隊司令官に補され、後にフィリピンで神風特別攻撃隊を指揮する事になる。

古賀長官と福留中将の関係は山本長官と宇垣中将の関係と酷似している。日本海軍売国集団のお得意パターンである。


<転載終了>