逝きし世の面影さんのサイトより
https://blog.goo.ne.jp/syokunin-2008/e/04e93416e7982e70fa3e5316f1d556b9
<転載開始>
2018年08月08日 | 社会・歴史
ドイツ・ベルリンの裁判所に出廷したウルスラ・ハーバーベック被告(2017年10月16日撮影)。(c)Paul Zinken / POOL / AFP

「ナチスおばあちゃん」に禁錮2年6月、ホロコースト否定は「言論の自由に該当せず」2018年8月7日(火) The Telegraph(テレグラフ)

ナチス・ドイツ(Nazi)のホロコースト(Holocaust、ユダヤ人大量虐殺)を公共の場で否定した罪で有罪判決を受け、言論の自由を理由に控訴していたドイツ人のウルスラ・ハーバーベック(Ursula Haverbeck)被告(89)がこのほど、同国最高裁判所にホロコーストを否定する行為は言論の自由には該当せず、「治安を脅かしている」との裁定を下され、禁錮2年6月の量刑を言い渡された。
「ナチスのおばあちゃん」の異名を持つハーバーベック被告は、ポーランドのアウシュビッツ・ビルケナウ(Auschwitz-Birkenau)強制収容所におけるユダヤ人殺害やホロコーストは「歴史的に証明」されていないと主張する一連の記事を右翼雑誌「Stimme des Reiches(帝国の声)」に発表した罪で5月に有罪判決を受けていた。

ドイツでは、ホロコーストの否定は憎悪扇動罪に当たると見なされ、最長5年の禁錮刑が科される
ハーバーベック被告はドイツ憲法裁判所に控訴し、自身の意見は同国における言論の自由に当たり、その権利は法律で保障されていると主張していた。
だが判事らは、ホロコーストの否定は言論の自由の権利によっては保障されないとの判断を示した。
判事らは、「虚偽や、故意に事実を歪曲させたデマの流布は世論形成に益をもたらさない。よって、言論の自由の権利には該当しない」と文書で発表し、「ナチスによる大量虐殺を否定する行為は、公の議論で不穏な状態を招いてはならないという範囲を逸脱している」と述べている。
ハーバーベック被告は長年にわたり、かつてのナチス体制を支持し、元ナチス党員の亡夫ベルナー・ゲオルク・ハーバーベック(Werner Georg Haverbeck)とともに「Collegium Humanum」と呼ばれる右翼の「教育施設」を共同で創設したこともある(同施設は現在、運営を禁止されている)。
ハーバーベック被告は、ドイツのナチス体制下において、ユダヤ人やその他の迫害を受けた人々に対する組織的な大量虐殺は行われなかったと主張し、国内のさまざまな裁判所から複数の有罪判決を受けてきた。そのうちの一つでは、ホロコーストを「史上最大で最長のうそ」と呼んだことで有罪を言い渡されている。
8/7 AFPBB News
デーリー・テレグラフ1855年に創刊されたは英国を代表する朝刊紙で、1994年にはそのオンライン版テレグラフを立ち上げた。
★注、
日本は犯人引き渡し協定をアメリカとしか結んでいないので安全だが欧州諸国間では学術研究でも問答無用、例外なくドイツの『ホロコースト否定は禁固5年』の厳罰に処せられる怖ろしい仕組みがある。(欧州のネオナチから見れば日本はまさに天国である)


アメリカの同盟国である西ドイツの諜報機関(独連邦情報局)に勤務していた1945年5月のナチスドイツ崩壊で壊滅したはずのナチスの諜報組織ハインリヒ・ヒムラーの娘、グドルーン・ブルヴィッツ。(第二次世界大戦終了後に即座にアメリカは次の冷戦のためにナチスの諜報組織を再編成して事実上復活させていた)

『ヒトラーの右腕の娘、戦後にドイツ情報機関が採用【写真】』2018年06月30日 スプートニク日本

独連邦情報局は、親衛隊の最高指導者でヒトラーの側近だったハインリヒ・ヒムラーの娘、グドルーン・ブルヴィッツが同局で働いていたことを確認した。独タブロイド紙ビルトが報じた。
同紙の記者は調査を行い、ブルヴィッツが1960年代はじめ連邦情報局の秘書として採用され、数年後に「その伝記がナチズムに枷をかけられた職員との関係と理解において起きた変化」の関係で退職したことを明らかにした。
ブルヴィッツはヒムラーの唯一の嫡出児だった。彼女は2018年5月に88歳で亡くなった。
同紙によると、ブルヴィッツは老年まで右翼グループで活発であり続け、ネオナチのデモに参加し、極右組織に参加していた。
ハインリヒ・ヒムラー(1900〜1945)はナチスドイツの幹部でヒトラーの右腕、そして数百万人を殺害した強制収容所や絶滅収容所を職務の一部としていた秘密警察ゲシュタポやナチス親衛隊(SS)を率いていた。ホロコーストの提唱者で組織者。ニュルンベルク裁判で有罪判決を受け、収容所で自殺した


航空士としてB-29 Necessary Evil号に搭乗していたラッセル・ガッケンバック元アメリカ空軍少尉 (95歳)

町山智浩‏ @TomoMachi · 8月6日(アメリカ・カルフォルニア州バークレー市在住の映画評論家)

広島の原爆投下任務についた兵士の最後の生き残り、ラッセル・ガッケンバックは今も後悔していないと。そうして心に蓋をしなけりゃ生きることも死ぬこともできないだろう。命令されて行っただけの当時22歳の兵隊が10万人以上を死なせた罪を背負わされたんだから。


Superfortresses(超空の要塞)と呼ばれたB-29 Necessary Evil (必要な悪)号は、人類史上初めて都市に原爆が投下された1945年8月6日、広島市の上空を飛行したB29爆撃機3機の一つである。


B-29 Superfortresses (スーパーフォートレス 超空の要塞)Necessary Evil (必要な悪)号ののラッセル・ガッケンバック少尉(22歳)


1950年代初頭のアメリカの人気玩具「ミニ研究室キット」ポロニウムとウラン入。カジノで有名な当時のラスベガスでは観光客向けにネバダ州の核実験場での原子爆弾のキノコ雲見物の観光ツアーが用意され暢気なアメリカ人に人気になっていた



第五福竜丸が被曝して無線長だった久保山愛吉さんが死亡した1954年(昭和29年)のビキニ水爆などアメリカが地上で核実験を繰り返いていた1950年代、「Tho-Radia」社は香水、スキンクリーム、パウダーやリップスティック放射能による特別な「輝き」を宣伝していた


(おまけ)



1946年の東京上野駅の構内で眠る人々。白黒写真をニューラルネットワークで自動色付け

勘違いしている人が多いが、野坂昭如の短編小説で、野坂自身の戦争体験を題材 とした『火垂るの墓』(ほたるのはか)を高畑勲監督がアニメーション化した映画では、主人公の少年が駅頭で餓死する場面が一番最初に描かれていた。あのアニメ映画で一番恐ろしい場面とは、少年は戦争で死んだのではなくて第二次世界大戦が終わり平和になった、敗戦後しばらくたってから駅で飢え死にしていたことであろう。(日本人が戦争の恐ろしさ『飢餓地獄』を知ったのは、1945年8月15日の『玉音放送』の何年か経った後だったのである)この時アメリカはガリオア・エロアなどで家畜の飼料である脱脂粉乳を学校給食に放出して餓死から救う。
ニッコロ・マキャベリは『君主論』で、
人間というものは、危害を加えられると思いこんでいた相手から親切にされたり、恩恵を施されたりすると、そうでない人からの場合よりはずっと恩に感ずるものである。』と喝破したが、これほど鬼畜米英から敗戦後にアメリカ民主主義バンザイに180度コペルニクス的に転じた日本人を説明する言葉もないであろう。(70年以上たった今でも『アメリカについていけば安心だ』と思っている日本人は大多数である)

<転載終了>