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<転載開始>
人のこの世での時間とは長いようで実は短い時間と言えます。大本教から【国常立尊】様は【約三十五万年前】に神界の表舞台から御引退と出されましたが、私達人類がその【三十五万年前】に神界で何があったのかは知るよしもありません。 私はその【三十五万年前】からの記述で、とんでもない事柄に気づいたと言えます。
私が豊受姫の命令で住居を構えた土地は、その【三十五万年前】に深い関わりがあった土地で、その地に関わる神霊とは今の世に出ている神霊達では無いと、優れた霊能者達は言われます。
現在の人類はホモ・サピエンスと呼ばれていて【約二十万年前】にアフリカで誕生した存在とされ、遺伝子的にそれ以前の原人や猿人や旧人とは遺伝子が違うことから、それらの子孫では無いとされています。それは言うなれば【科学】の説明です。しかし、今の人類が猿的存在から進化したものでないとすると、どこから誕生したのかの謎は深まります。突然にアフリカの高山で湧いたのか?。
霊学の分野では諸説ありますが、そうした中に旧約聖書の神は【悪神】説があります。魂とは本来高次元世界の存在であった。その魂を猿的な肉体内に封じた。その猿的存在の肉体の遺伝子を操作して、今の人類を創り上げた。本来は自由である魂を肉体に封じて奴隷化しょうとした悪神であるとの説です。
それと同じ意味では無いでしょうが、
霊能者の、この地球は魂の【流刑地】説とは符合
他には高次元界にあった魂が、物質世界の生き物に入って遊びだしたとする方もあります。いずれにしても【魂】と呼ばれる存在は、肉体とは別の高次元の存在であるの認識にはあります。そこに魂は肉体たる命を終えれば、本来の三次元世界では無い四次元界以上の霊界に入るとなります。
単なる霊界論は、霊界には次元層があるは解らない
科学者と言われている方達は、宗教が説く【魂】の存在は否定します。人間の肉体をレントゲン写真でいくら撮っても、そんな玉(魂)は写っていないからです。また医学者が死ぬ前の方の体重と死後の体重を量っても体重が同じだで、医学者も魂を否定する方が多いと言えるでしょう。
だが、私は今日まで【魂】の写真をアップして来ました
(魂は【気】のようなもので、霊媒質者は写真に撮りますが、体重としては出ないでしょう。微々たる重さしかないからです。)
だが、魂にはある特徴があります。
魂を汚すと上にはあがれない。魂を汚すと地に沈む
これまで神仏はどちらかと言えば【高い地】に祭られて来ました。そこには汚れていない高い魂は、霊的に汚れた【低い地】には降りられないがあったからです。例えば伏見稲荷山に行きますと、本殿近くには低い霊がうようよしています。こうした霊は伏見稲荷山でも高い場所に祭られている御神霊の元を訪ねたくても上がれない。そこで伏見稲荷山に参拝する霊媒体質者の肩に乗って、高い場所に鎮座する御神霊の元に挨拶に行くがあります。
霊媒体質者が低い霊地で肩が重いと感じても、山の高い場所に祭られている御神霊の元に行くと、それまで重かった肩が一気に軽くなるがあります。霊が憑依する霊媒体質者は肩が軽くなることから、その場所の御神霊が自分に懸かっていた低級霊を取り除いて下さったと思うのですが、そこには目的を果たした低い霊が霊媒体質者の肩から降りるもあるのです。
どうして私にそうしたことが解ったのか?。集団で山に上がろうとしていた霊達が、ある地点でそこから上がれない霊が出て来て順に脱落して行く。また、伏見稲荷山で伏見稲荷大社の側に居た霊から、【貴方の肩を貸してください】と言って来た霊があり。山頂に上がると、【ありがとうございました】と私の肩から降りるなどがあったからです。
そうしたことに関して本当の霊能者は、魂は汚れると汚れから玉(魂)は重くなり、高い次元界には上昇が出来ないと言います。
日本では古来より【魂を磨け】と言われて来ました
(それは魂に汚れがあると、高い次元世界に上がれないからです。)
しかし、そうした言葉はあったとしても実際に魂とはどの様な物であるかは解らなかったと言えます。霊媒質者の心眼には【魂】が見えるはありますが、大多数の人には【魂】の存在など見えないからです。
私は魂は「玉形の思惟」で【玉思惟】と言って来ました
他に「魂」は【玉恣意】だと言われる方はありますが、【思惟と恣意】では意味が違います。
思惟は、【心に深く考え思うこと(悟り)】
恣意は、【気ままな心、自分勝手な考え】
玉思惟と玉恣意では正反対の意味になります。スピリチュアルで【何をしてもいいのです。自由なのです。】がほとんどの考え方です。すなわちスピリチュアルが言う【魂】とは、【玉恣意】なのです。
スピリチュアル標榜者の大多数は、【神は愛ですから、何をしても赦されます。】が御題目で、【魂磨きは辛いから止めましょう】とか【良心の呵責など重たいだけだから捨てましょう】等と発言されている方が多いと言えます。それは魂でも【玉恣意】の方です。
確かに【魂磨きは辛い】し、【良心の呵責は重い】なのです。
何故に【良心に呵責】があるのか?。を見ていない
スピリチュアルでは【今が良ければそれで良い】であって、そこには人は【何故に生まれて来るのか?】の【思考】もまったくなされていないのです。優秀な霊能者は【この世は宇宙の魂の流刑地とか刑務所】とかを言われます。世紀の大予言者であった大本教の出口王仁三郎聖師は【この世は天人の苗床】と説かれましたが、宇宙の出来損ないの魂が【天人界に進む場】と言っておられるなのです。
私は子供の頃は旧約聖書の神と称する声を聞いていましたが、【この世は魂の修学場に過ぎない。この世で何を学んだかが、元の世界に帰って来た時に問われる。】と告げられたなのです。
この世は魂にとって【仮初め(一時)の世であり、浮世(無常の世、生きることが苦しい世)】です。お釈迦様の教えに【この世は苦界】がありますが、誰もこの世が【苦界】と説かれていても、さっぱり意味が解らないなのです。どこが【苦界】だです。
本当に霊界が解っている方は、【今の世は天国界に進む人は珍しい】とまで言われます。スピリチュアルで説いている天国界は【中有界の上界】に過ぎないなのです。魂は遊ぶ為に、この世に降りて来たのではないのです。
この世で魂を磨く為、苦界に身を投じたのです
では、この世で何をすれば魂が磨かれるのか?
前のブログでは玉が飛んでいる写真をアップしましたが、魂論を語る上では魂を撮った写真としては私が知る限りでは、これが最優秀ではないかと思う写真があります。このブログにも私のHpでは出していますが、撮影者は霊能者であった故・田響隆仁氏のものを引用させてもらっています。
写真の下はお釈迦様の【涅槃像】と解りますので、かなり巨大な物でしょう。
すると、この【玉】はかなり大きいと思われますが、写真との位置関係が解りませんので実測は掴めません。しかし、この世を去ったばかりの人の玉ではないでしょう。何故ならば人の肉体に入ってる【玉】は野球ボールかソフトボール玉程度の大きさだと知られているからです。大人の手の平に乗る程度です。
それ以上に大きい玉だと、【正守護神】とか【本守護神】の段階となります。正守護神段階で直径が数メートルもの大きさとなります。
スピリチュアル界でも大御所とされる【美輪明宏】さんや【江原啓之】さんは、肉体にある魂の大きさと正守護神段階の大きさの違いに関して【コップ一杯の水とスポイトの一滴】の違いと言っておられます。違いが解っているなのです。しかし一般的スピリチュアル標榜者は、そうしたことは何も理解していないとなるのです。
上記の写真の玉と比較する為に、スピリチュアルで【神霊パワースポット】としてよく知られる場所で撮られた写真を比較の為にアップします。この写真も過去には出したものですが、上記写真と比較する為に左側部分の原寸大写真も載せます。
この手の写真はスピリチュアルでも撮られることが多い玉です。一つに、この場所は日本では知られた神霊パワースポットで、霊媒体質者だと写る場所だからです。
上記写真と比較した時、最初の写真の玉の内部は非常に密度が高いことが解ります。また、磨かれた魂だと解ります。そして【魂には色がある】とも解ります。
高級神霊の玉ほど、中味の密度が濃くて玉が大きい
霊界を見聞していると、自分は創造神だとか大天使だとか名乗って来る霊に遭遇します。だがそれが本物かどうかは、【魂が見えれば】、本物か贋物かの区別は出来るのです。魂が磨かれている玉は、まるで【宝石】の様だ!。です。スピリチュアルの様に、魔除けとして自分の身体に【宝石】を飾るではないのです。天国の天人達は身体に宝石を飾るのではなくて、その魂が【宝石の如く】輝いている世界の人達のことなのです。
また、魂の中には肥溜めの中に居たのかと思うほど【臭い霊】もいます。肉体がこの世にある時は、死後に肥溜めの中の様な場所に魂が落とされるとは思っても居なかったはずです。
魂が磨かれると、この世の【喜怒哀楽】から離れて行く
まさに【あるがまま】に身を任せるで、執着から離れる
スピリチュアルは金儲けが出来る。それで儲けた金で【宝石】類を買いあさる。そんな宝石は何の【魔除け】ともなっておらず。逆に【魔】を呼び起こすことになるのです。
私の2番目の師匠は、自分は【国常立尊の現身(うつそみ)】と称していました。ある日、私に【自分の神が国常立尊であることをおまえに見せると国常立尊様が言われている。今、富士山の山頂に玉として出ている様を見せる。】と言われていると言います。 そこで見ていると、富士山の山頂が見えて来て、その火口の上に巨大な透明の玉が火口を塞ぐ形で見えて来ると、その玉の中に一体の神霊の姿が見えて来ました。国土地理院の説明では富士山の火口の直径は780メートルとされています。すると、ざっと見て直径1キロぐらいの玉の御神霊とはなります。
だが、それをもって私は二番目の師匠の御祭神が国常立尊様である等とは思いもしませんでした。その時に感じたのは、国常立尊様の魂にしては玉が小さすぎるでした。また、玉が透明であることの疑いです。
大本教からは【水晶魂(玉)】が世に出されましたが、魂の表面は【水晶】の様なクリスタル状であっても、その玉の中味はその魂が持つ色を放っていなければ【嘘】になるからです。
魂を磨くとは?。
玉を汚すと、魂の表面の汚れから【毛物】が派生する
(その時、人の顔をしていてもその魂は獣となる)
魂の表面の毛物は、この世(苦界)で身削ぎ(禊)落とす
(人はこの世が苦界の体験ならば、過去世の罪たるカルマの解消にと向かう。この世は天国だでは、カルマの解消には向かわない。)
仮に魂の表面の汚れは取れたとしても、魂の内部が【スカスカ】ではその魂はやがて歪(不正)を起こして【破砕】されるとなります。硬直した考えを持つと、中味が無い玉は歪(ゆが)んで来ます。
またスピリチュアルの御題目である【神は愛だから何をしても赦される】などの言葉を信じて、【好き勝って(自己中)】などに走っていると、その魂(玉恣意)は【腐ったり】します。また腐らなかったとしてもその結果、その魂(玉恣意)はスピリチュアル標榜者などは見たことも無いであろう地獄界にと墜ちて行きます。その地獄界を見た人達は、絶対に行きたく無い世界と言われます。
そこは【苦役】の世界ではないのですが、そこに存在するのはもはや人では無いのです。もしその世界を見たならば、スピリチュアル等思い切って捨てるでしょう。スピリチュアル等、その前では何の役にも立たないと知るからです。
その時、どの神も可哀想だとか気の毒だで助けはしない
では、自己の魂の中味をどうすれば【密】に出来るのか?
世の為人の為に自分を【犠牲】にした魂は中味が【密】
神霊世界に関わっていると、創造神が人類に【秘密】にされている事柄というものが言われます。
【必】は必ずやりとげる。宓(宀と必)は閉じている
創造神は何を閉じておられるのか?。それが日本神話の【天の岩戸】開けと呼ばれる事柄です。それは私達が創造神様に対して、自分達に何かお手伝い出来ますかと言う内容ではありません。巷では自分は創造神です。みろく神です。救世主です。キリストです。そうしたことを名乗る人は後を絶ちませんが、誰一人として現実には龍神と呼ばれる特に黒龍神が蔓延る神霊界で、それを倒すなどの力は無いのです。
私達一人一人に出来ることは、自己の魂を磨く。為に、世の為人の為にと犠牲を払う。自己本位自分勝手な自己中の生き方を【神の愛】だと言って人々に説く者は、一人として【みろくの世】に行くことはありえないのです。
それは【魂】と呼ばれる存在をこうして写真で見ると、如実にあり得ないことだと解ることです。
神の祭壇に【牛と羊】の血の捧げを【犠牲】と言う
(創造神は動物の血など何一つ望んではおられません。自己を犠牲にしても世の為に人の為にと働いた人達の魂を望んでおられるのです。そうした者達は創造神の【宝】だからです。こうしたことも漢字を見れば解るのです。)
創造神は【義と良心】の魂に、神としての位を与える
<転載終了>