https://ameblo.jp/fukutyaipuku/entry-12645951213.html
<転載開始>
風の時代に入ったのだとか。
物質中心の「地の時代」から、
いよいよ心の時代の本格的な幕開けです。
では今日も、見える世界、見えない世界を包括する一番大切な
心の世界をいかにピュアにするかと言うテーマのお話です。
元聖心女子大学教授でシスターの鈴木秀子さんの
「聖なるあきらめ」が人を成熟させるという本の中に、
聖なるあきらめ
という言葉が出てきます。
「聖なるあきらめ」という言葉は、単なる「あきらめ」とは違い、
自分の身の丈を知る
ということを指します。
決して投げやりな言葉ではなく、
自分に与えられた現状を受け入れることこそ、
全ての問題解決につながると言うものです。
彼女はクリスチャンですが、
まさにブッダの般若心経と同じことを仰っています。
よく言われる
・あるがままに
・そのままで良いんだよ
に通ずるものがあるかもしれません。
私達は「あきらめ」と聞くと、
なんとなくマイナスなイメージがあります。
子供の頃から、親にも学校でも
あきらめずに最後までやり通すこと
そう繰り返し教えられて来ました。
ですが、いくら一所懸命に頑張ろうと
・全然認めてもらえない
・お金がもっと欲しい
・名の通った会社や学校に入りたい
・あの人は、お礼もしてくれない
・子供が言うことを聞いてくれない
・上司は私の気持ちをわかってくれない
・病気がなかなか治らない
私達には、
日々そんな不満があるかもしれません。
でも、そのことは本当に不幸だと言えるのでしょうか?
鈴木秀子さんは、そう問いかけます。
鈴木さんは、こう仰います。
「あきらめる」には「諦める」だけでなく、
2つの意味があります。
・1つは「諦める」「断念する」というイメージが強いかもしれませんが、
「執着しない」という大切な意味
・もう1つは「明らめる」。
馴染みのない表現かもしれませんが、元々は仏教用語で、
「物事を明らかにする」という意味
私たちが、自力ではどうこうできない、
まさに「神さまの領域」のことは、
あれこれ悩まず、考えず、
その事実をそのまま受け入れてしまったら
心は、執着から離れ
晴れ晴れと、清らかになり、
全てのことが、うまく回り始めることでしょう。
事実を、感謝の心で受け入れれば、
外見、健康、お金、人間関係など、
今現在は不幸だと思うことも、
実はそうでもないことに、段々と気付いてきます。
聖なるあきらめは、
自分も周りも幸せにする行為、
賢く気持ちを切り替えていく行為であり、
人間としての成熟に
欠かせない行為なのだそうです。
私たちは、とかく
・あの時、こうすればよかった
・もう少し努力していれば
・別の選択をしていれば
など、いつまでも、
過去の事実を
悔み、今の事態に執着してしまいがちです。
空海の幼少期、真魚(
ですので、心が、そこに縛り付けられて
離れることがありません。
だからいつまでも苦しむことになります。
鈴木さんが仰るように
「聖なる諦め」の気持ちを持つことができたら、
そして執着から離れることができたら
どんなに幸せになることができるでしょう。
まさに、全てを受け入れる、般若心経の教えの真髄です。
※写真はネットからお借りしました。
<転載終了>
聖なる怒りのほうが良い
諦めたいやつは勝手に諦めていろ
genkimaru1
が
しました