嘘八百のこの世界さんのサイトより
http://otisdury.blog.fc2.com/blog-entry-3942.html
<転載開始>
「日本の仏教における宗派間戦争の歴史を追う」


いつもキリスト教(実際はユダヤ悪魔教?)を批判している私だが、今回は仏教について言及したい。
キリスト教がカトリックとプロテスタントの間で対立していたことは有名だが、日本の仏教はどうだろうか?
いろいろな宗派が存在しているが、それほど対立しているといった印象はない。
しかし、キリスト教に負けないぐらいに対立していた時代があったようである。
法華一揆をウィキで見てみる。




法華一揆(ほっけいっき)は、日本の戦国時代の京都における年間に起きた宗教一揆である。「天文法乱(てんぶんほうらん、てんもんほうらん)」「天文法華の乱(てんぶんほっけのらん、てんもんほっけのらん)」「天文法難(てんぶんほうなん、てんもんほうなん)」などと呼ばれる一連の出来事についてもここで解説する。

日本の戦国時代に起きた、京都における宗派間の紛争である。日蓮宗の立場からは「天文法難」、ほかの宗派からは「天文法華の乱」などと呼ばれる。
天文年間、京都では六条本圀寺などの日蓮宗(法華宗)寺院を中心に、日蓮宗の信仰が多くの町衆に浸透し、強い勢力を誇るようになっていた。天文元年(1532年)、浄土真宗本願寺教団の門徒(一向一揆)の入京の噂が広がり、日蓮宗徒の町衆(法華衆)は細川晴元・茨木長隆らの軍勢と手を結んで本願寺教団の寺院を焼き討ちした。当時の京都市街から東山を隔てた山科盆地に土塁に囲まれた伽藍と寺内町を構えていた山科本願寺はこの焼き討ちで全焼した(山科本願寺の戦い)。この後、法華衆は京都市中の警衛などにおける自治権を得て、地子銭の納入を拒否するなど、約5年間にわたり京都で勢力を拡大した。こうした法華衆の勢力拡大を、ほかの宗派の立場からは「法華一揆」と呼ぶ。
天文5年(1536年)2月(旧暦)、法華衆は比叡山延暦寺に対して宗教問答をすることを呼びかけた。延暦寺もこれに応じ、3月3日(旧暦)に延暦寺西塔の僧侶・華王房と上総茂原妙光寺の信徒・松本久吉(松本新左衛門久吉)とが問答したところ、松本久吉が華王房を論破した(松本問答)。
延暦寺の僧侶が日蓮宗の一般宗徒に論破されたことが噂で広まると、面目を潰されたと感じた延暦寺は日蓮宗が「法華宗」を名乗るのを止めるよう、室町幕府に裁定を求めた。だが、幕府は建武元年(1334年)に下された後醍醐天皇の勅許を証拠にした日蓮宗の勝訴とし、延暦寺はこの裁判でも敗れた。これにより、延暦寺は京都法華衆の撃滅を決議した。
同年7月(旧暦)、延暦寺の僧兵集団が法華衆の撃滅へと乗り出した。延暦寺全山の大衆が集合し、京都洛中洛外の日蓮宗寺院二十一本山に対して、延暦寺の末寺になり上納金を払うように迫った。日蓮宗側は延暦寺のこうした要求を拒否。要求を拒否された延暦寺は朝廷や幕府に法華衆討伐の許可を求め、越前の大名・朝倉孝景を始め、敵対関係にあった他宗派の本願寺・興福寺・園城寺・東寺などにまで協力を求めた。いずれも延暦寺への援軍は断ったが、中立を約束した。
延暦寺は近江の大名・六角定頼の援軍を得ると、7月23日に延暦寺・六角勢が総勢6万人を動員して京都市中に押し寄せ、法華衆2万と交戦した。他方、法華衆は5月下旬から京都市中に要害の溝を掘って延暦寺の攻撃に備えていため、戦闘は一時法華宗が有利であったが、次第に劣勢になっていった。そして、27日までに延暦寺・六角勢は法華衆に勝利し、日蓮宗二十一本山をことごとく焼き払い、法華衆の 3000人とも1万人ともいわれる人々を殺害した(天文法難)。28日には、最後まで抗戦していた本圀寺が陥落している。
さらに延暦寺・六角勢が放った火は大火を招き、京都は下京の全域、および上京の3分の1ほどを焼失。兵火による被害規模は応仁の乱を上回るものであった。
こうして、隆盛を誇った京都の法華衆は壊滅し、法華衆徒は洛外に追放された。以後6年間、京都においては日蓮宗は禁教となった。天文11年(1542年)に六角定頼の斡旋で朝廷から京都帰還を許す勅許が再び下り、天文16年(1547年)には定頼の仲介で延暦寺と日蓮宗との間に和議が成立した。その後、日蓮宗二十一本山のうちの15か寺が再建された。



すごいことが書かれています。
皆さん、ご存知でしたでしょうか?
仏教関係者やこのあたりの歴史に詳しい方は知っておられるのでしょうが、特に仏教の歴史に精通していない普通の日本人はこのような史実は知らないんじゃないでしょうか。
ここまで宗派で対立していたとは・・・
「延暦寺全山の大衆が集合し、京都洛中洛外の日蓮宗寺院二十一本山に対して、延暦寺の末寺になり上納金を払うように迫った」とのことですが、これは暴力団の組同士の抗争及び自分の組の傘下になることの要求と全く変わりません。

本当に宗教というのは怖い存在であるようですね。
「自分が信じている教えが絶対に正しい。自分たちの教えと違う宗派の寺は焼払ってしまえ。殺してしまえ」というわけですからね。

一体全体、何のための教えなんでしょうか?
「力づくで相手を倒した者が正しい」とでも言いたいのでしょうか?
「教えなんてどーでもいいんじゃ。強者のみが生き残るんじゃ。我々の教えに従わないものは叩き潰してやるんじゃ」ということなんでしょうか?

この人たちは本当の宗教家なんでしょうか?
人に「仏の教え」を語る資格があるのでしょうか?

信長が延暦寺を焼き討ちした(この事件の背後にはイエズス会の指示があったと私は判断しています)のは有名な話ですが、延暦寺さん、あなた方も日蓮宗の寺を焼払っているじゃないですか。
日蓮宗も本願寺の寺を焼き討ちしているし、もうメチャクチャですよね。
宗教を否定する共産主義も恐ろしいですが、「自分たちの教えが絶対であり、従わない他宗派の奴らは叩き潰す」という「宗教独裁」も恐ろしい限りです。

今の各宗派の方々は「何にもなかった」かのように“仏の教え”を説いておられるようですが、今の時代も変わらないようです。

「力のある勢力についた方が得だ。それが我々の生き残る道だ」という教えは。

先日、千波さんからコメントいただいた「宗教とSDGsの関係」を示すリンクを紹介します。
これは仏教に限りません。
各宗教の指導者は「今はイルミナティ悪魔勢力の力が強いから、その勢力の言うとおりにする方が得だ。それが我々の生き残る道だ」と考えておられるのでしょうか?
「お経もマスクをして唱えるのです。マスクが正しいか正しくないかはどーでもいいんです。イルミナティ悪魔勢力の言うとおりにする方が得だからマスクをするのです。それが我々の生き残る道なのです」と考えておられるのでしょうか?






宗教、そのもの自体がSDGsです。
ごく一部ですがリンクです。

●神道とSDGs Goals
http://www.tanashijinja.or.jp/info/info/5745.html

●キリスト教とSDGs
https://www.sophia.ac.jp/jpn/news/PR/1122sdgssymposium.html

●仏教とSDGs
https://retaction-ryukoku.com/
https://forbesjapan.com/articles/detail/23505






最後に、もう一つ「宗教とSDGsの関係」を示すリンクを貼っておきます。
「彼ら」は全ての宗教を自分たちの支配下にしようとしているようです。
「宗教に投資なんて必要ない」と、私は思いますが。




http://www.goodbankers.co.jp/reports/srimonthly/2018/srimonthly_201803.pdf

SDGsは2015年、国連総会において採択された、2030年に向けての17の目標と169のターゲットから成っています。世界のすべての国に普遍的に適用される「持続可能な“発展”目標」であり、「21世紀型の経済成長戦略」と言えます。このSDGsのための宗教者の会議に参加してきました。キリスト教、イスラム教、ユダヤ教、ヒンドゥー教、シーク教、仏教、道教、神道の代表者たちがスイスのツークに集まり、UNDP(国連開発計画)やカトリックの総本山バチカンからも参加があり、宗教者としてSDGsの達成のために何ができるか、何をすべきか、特に投資行動のあり方が熱心に討議されました。






私は決して宗教そのものを否定してはおりません。
しかし、宗教を利用して人間を悪の道へ導こうとしている邪悪な勢力が存在していることは事実です。実際、各宗教の上層部は悪魔勢力の支配下にあるようです。

末端の信者さんの大多数は善良な方ばかりだと思いますが、各宗教の上層部には“悪魔の未来計画”に従うように通達が来ているようです。
個々の善良な信者の皆さんは、「各宗教を“悪魔の未来計画”に導こうとしている勢力が存在している」ことを覚えておく必要があるでしょう。
そして、その“悪魔の未来計画”の正体を理解したら、「そんなものを我々は受け入れない」と、毅然とした態度で否定する必要があるでしょう。

宗教は盲目であってはいけません。
「何が真実か」「何が正義か」を見抜く目を持っていなければなりません。

あなたの信じる宗教が“善なる教え”であるのなら、
“悪魔の未来計画”に従ってどうするんですか!
あなた方の本来の教えであるはずの“善なる教え”に従って行動してください。

「我々は“悪魔の未来計画”を受入れない」
「我々が信じているのは“善なる教え”であって、決して悪の力には屈伏しない」
「これが宗教家である我々の誇りであり、神(仏)の教えであり、信念である」と。


<転載終了>