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<転載開始>

12. 4. オーストラリア大使館前で「フリーダム!」と叫ぶ
「12:00集合」であったが、初めての場所でもあり、早めに着いた。1時間近く早かったのでまだ大使館前には参加者らしき人影はなかった。代わりに警察関係の人間が「準備」をしていた。
予定の12:00 ちょっと前には、すでに抗議の声が上がっていた。
今回特に目についたのは、どう見ても小学生にしか見えない子供の、積極的な参加である。
もちろん、親と一緒に参加していると思われるのだが、単に親に付き合わされて参加しているとか、親にプラカードを持たされている、というのとは違うのだ。
メガホンを持って堂々とオーストラリア大使館に対して抗議している。もちろん、そのスピーチの稚拙さをあげつらう人間も、きっといることだろう。
小学生の子供のほうが、むしろ善悪の観念がはっきりしているのかもしれない。逆に言うと、多くの大人は、あまりにも多くの悪を見てきており、自分も多かれ少なかれそれに加担してきているので、肝心な時に善悪の判断を留保してしまうのだ。「いや、そんなに簡単な問題じゃないんだ」と。もちろん単に保身からである。(^.^)
「世の中はもっともっと複雑なんだから、そう簡単に善悪の白黒はつけられないんだよね」とか、「よその国のことに口を挟むのはちょっとね」とか、「踊らされているだけさ」などと自分に言い聞かせながら、単に自分の狡猾な不行動を正当化しているのである。違うだろうか?
そうして、苦しんでいる人たち、虐げられている人たち,、迫害にさらされている人たちがいても、手を差し伸べようとしない自分の不行動を、いつだって立派に正当化することに長けてしまう。(^.^) そうなることが、大人になることになってしまう。言い訳、言い逃れがうまくなることが大人になることだと思うようになってしまう。
天安門事件のときもそうだった。覚えているだろうか?
現在のウイグル族に対する迫害、オーストラリアでのアボリジニや非接種者に対する弾圧、などに対して、「余計な口出しをしない」ことが「民主国家の国民であること」の証明なのだろうか? それが、「日本のふつうの大人」だろうか?
人間はいくらでも堕落するものである。
虐げられている人たちに手を差し伸べない、不正が行われているのに声を上げない。
さらには、手を差し伸べたり、声を上げたりする人間を、今度は冷笑し、偽善者呼ばわりするまでになってしまう。
人間はいくらでも堕落するものである。
<転載終了>
いえる ひとたち は 本当に 偉い
みんな がんばれ, ぜったい に まけるな !!
人権 が うばわれない ように !!
ころな は おおぼら, 此れは 今世紀最大の, 医療/経済 殺人詐欺 !!
スマホ や digital money なんか つかって いる と 自由 うばわれ ますよ
なんで そんなに なにも かも 監視 されたい の ですか
便利に なった, のでは ないです よ
皆さん 現金 と それから 頭 つかいましょう
だれ が いちばん もうかって いるか ね?
genkimaru1
が
しました