https://ameblo.jp/jiyuuna-jigen/entry-12710760605.html
食糧を断つのが一番ですが、抜け駆けするのがいるのでだめかぁ~!
<転載開始>
(12月21日追記)
(9分50秒)
![]()
https://suzukiblog.com/jihatutekireijuron
大衆の自発的隷従が社会を形づくる..。
著者のエティエンヌ・ド・ラ・ボエシさんの言う「解決策」は、至ってシ・ンプルで、ただ「従わない」だけ。
ただ一人の圧政者には、立ち向かう必要はなく、うち負かす必要もない。
国民が隷従に合意しないかぎり、その者は自ら破滅するのだ。
なにかを奪う必要などない、ただなにも与えなければよい。
国民が自分たちのためになにかをなすという手間も不要だ。
ただ自分のためにならないことをしないだけでよいのだ。
自発的隷従論 (ちくま学芸文庫)
信じられないことに、民衆は、隷従するやいなや、自由をあまりにも突然に、あまりにもはなはだしく忘却してしまうので、もはやふたたび目ざめてそれを取りもどすことなどできなくなってしまう。
なにしろ、あたかも自由であるかのように、あまりにも自発的に隷従するので、見たところ彼らは、自由を失ったのではなく、隷従状態を勝ち得たのだ、とさえ言いたくなるほどである。
たしかに、人はまず最初に、力によって強制されたり、打ち負かされたりして隷従する。
だが、のちに現れる人々は、悔いもなく隷従するし、先人たちが強制されてなしたことを、進んで行うようになる。
そういうわけで、軛(※くびき。牛馬の首輪)のもとに生まれ、隷従状態のもとで発育し成長する者たちは、もはや前を見ることもなく、生まれたままの状態で満足し、自分が見いだしたもの以外の善や権利を所有しようなどとはまったく考えず、生まれた状態を自分にとって自然なものと考えるのである。
自発的隷従論 (ちくま学芸文庫)
![]()
https://hentenna.com/slavery(画像お借りしました)
やすむの墓さまのブログより一部転載シエアさせていただきました。![]()
![]()
https://katiefue-happy-housewife-life.hatenadiary.jp/entry/Discourse_on_Voluntary_Servitude_review
この本の視点
★今の日本を言い当てる
『自発的隷従論』を書いたのは、16世紀フランスの法務官エティエンヌ・ド・ラ・ボエシ。
そんな数百年も前の本に、なぜ感銘を受けたのか。
(以下の画像等追加は管理人による)
エティエンヌ・ド・ラ・ボエシ(Etienne de la Boétie)の生家。
(※ラ・ボエシは、哲学者モンテーニュの親友で現代の政治哲学の創始者ともいわれる人物。
今でも、弱冠18歳のころに、人が支配し、人が支配される仕組みを論じた「自発的隷従論」(原題: Discours de la servitude volontaire)は多くの人の心を打ち続けています。)
エティエンヌ・ド・ラ・ボエシÉtienne de La Boétie、1530年11月1日 - 1563年8月18日)は、フランスの裁判官、人文主義者。エティエンヌ・ド・ラ・ボエティやラ・ボエシーと表記されることもある。
それは、あまりにも日本社会を見透かすようでドキリとしたからです。
たとえば選挙に関して言うと、じつに半数以上の有権者が投票を棄権しています。
周りには日々の生活に不満を募らせる人も多いのに、決して全員がそれを変えるための行動をしているわけではありません。
このことを、私には長い間理解できませんでした。
しかし、「人はみずから服従を選ぶ」というボエシの主張と照らして考えれば、納得せざるをえません。
本当はNOを訴える権利があるのに、なぜか行動しないという人間のさが。
それがなぜなのか、ボエシは丹念に説明します。
![]()
★「習慣」が人間を奴隷化する
たしかに、人はまず最初に、力によって強制されたり、うち負かされたりして隷従する。
だが、のちに現れる人々は、悔いもなく隷従するし、先人たちが強制されてなしたことを、進んで行うようになる。
(中略および要約:だから、隷従状態のもとで生まれた人間は)
もはや前を見ることもなく、生まれたままの状態で満足し、自分が見いだしたもの以外の善や権利を所有しようなどとはまったく考えず、生まれた状態を自分にとって自然なものと考えるのである。(本文p.35。同上。)
![]()
これは、消費税に対する世論の反応を見れば頷けます。
1989年より以前、日本に消費税は存在しませんでした。
しかし導入されるや否や、それが「当たり前」となってしまいました。
私も含め、物心ついたときから消費税のある生活を送っていると、疑問にすら思わないでしょう。
★大勢の中間的支配層が支配体制を強化する
圧政者を守るのは、騎馬隊でもなく、歩兵団でもなく、武器でもない。
(中略)彼のために国全体を隷従の状態に留めおいているのは、ほんの四人か五人の仕業である、ということだ。(中略)
まず、五、六人の者が圧政者の信頼を得る。
(中略)この六人は、自らのもとで甘い汁をすう六百人を従え、自分たちと圧政者との関係と同じような関係を、彼らとの間に築く。
そしてこの六百人は、六千人を登用し、所領の統治や租税の管理に当たらせる。(中略)
この糸をずっとたどってみれば、圧政者とこのような絆によって結ばれている者の数は、六千でも一万でもなく、何百万にものぼることがわかるだろう。
(本文pp.66-67。同上。)
これは日本の社会構造を見ても明らかでしょう。
少数の有力政治家から私達市民に至るまで、大きなピラミッド構造で成り立っています。
これはグローバル社会の構図とも重なりますが、これについてはぜひ西谷修氏による解説をご覧ください。
身近な隷従の例
こういった世の中のシステムを眺めれば、自分自身もさまざまなものに束縛されていることに気付きます。
たとえば、常識や社会通念。
私の場合、こんな命題を知らぬ間に「当たり前」だと思い込み、自分の行動を制限していました。
- 「政治や宗教の話題はしてはいけない」
- 「女性は子供を産んで当たり前」
- 「子供は親の言いつけを守れ」
- 「学校には必ず行かねばならない」
★無意識に習慣づけられる私達
これらは一見正しいように見えて、実のところ「多様性」という社会の大前提と相反するものです。
それでもこうした言説が根強いのは、ボエシの言う「習慣づけ」があまりに強力であり、かつ「みんな同じでなければいけない」という同調圧力が働くからではないかと思えてなりません。
![]()
自由になるために何ができるのか?
さて、このような自発的隷従に束縛されている私たちが、本来の自由な状態に近付くには一体どうしたらよいのでしょうか?
私は、日常生活レベルで実践できることとして、下記の3つを挙げたいと思います。
- まず、疑うこと(常識、報道、公式発表etc.)
- 与えられた権利を行使すること(投票、パブリックコメント提出etc.)
- 身近な人と自分の疑問について話すこと(家族、友人etc.)
権利は行使して初めて意味を持つ
この中で大事だと思うのは、2.「与えられた権利を行使すること」です。
政治学者の丸山真男は、与えられた権利を行使しないことの危うさを説きました。
権利は、使って初めて意味をもつ。
ボエシの主張とあわせて考えると、きわめて重い言説です。
オーガニックで、ミニマルに。鈴木かやさまのブログより抜粋シェアさせていただきました。![]()
![]()
(追記)
『自発的隷従論』エティエンヌ・ド・ラ・ボエシ著 二重の人/二重川統光
なぜ、人々は自ら隷従するのか。
後輩は先輩に、先輩はその先輩に。いじめられっ子はいじめっ子に、いじめっ子はそのボスに。
選手はコーチに、コーチは監督に……。
1、なぜ隷従するのか。
みんなが隷従する人、いわばボスは「圧政者」である。
圧政者は力を持っているが、「その力は隷従する人が彼に与えたもの」だ。
圧政者を恐れているから倒さないのか?彼らが臆病だから?
否。そんなに極端な臆病など決してあり得ない。
それは臆病と呼ばれるに値しない。
そんな極端な悪徳を自然は決して作らない。
(ここでボエシは、圧政者を畏れているからではなく、嘲っているからとはいえまいか?と触れている)
なぜ、自由を欲さないのか。
ボエシの答えはこれだ。
「自由は欲するだけで得られるから」
獲得があまりにたやすいから欲しない、というパラドックスである。
動物など、感覚を持つあらゆる存在は、自由を求める。
圧政者には、選挙・武力・相続によって生まれる三類型があるが、支配の容態は同じ。
人々を自由から遠ざけることだ。
人々ははじめ、強制されたり、打ち負かされたりして隷従する。
が、隷従した者の子供たちは、生まれたままの状態で満足する。生まれた状態を、自然だと感じてしまう。
つまり、習慣によって人々は平然と隷従するのだ。
つまり、自発的隷従の第一の原因は、習慣である。
が、いつの世にも、生まれつき優れていて、隷従を揺るがそうとする者がある。
彼らは、歴史を回想し、未来のことを判断し、現在を検証する。
彼らは優れた頭脳を、学問と知識によって磨き上げる。
彼らには、自由が失われた世界においても、その精神によって自由を想像し、感じ取り、味わうことができる。
そして隷従にはいかなる魅力も感じない。
だが、「トルコの大王」(偉大なる圧政者の代名詞と考えてよい)は、書物や学識が圧政を憎む能力と理解力を育てることを熟知している。
ゆえに、言論や行動の自由も弾圧する。
その弾圧によって、自由を想像できる優れた人も、互いに知ることがないまま、自分の殻に籠ってばらばらになっている。
インテリは孤立して何もできなくなるのだ。
(そんな中で「自由」の名を唱えて圧政者を放逐する者も出なくはないが、彼らは王冠を別の圧政者の頭上に移すだけになることが往々にしてある。
ボエシは「自由」という「聖なる名」を軽々と使うなと警鐘を鳴らしている)
隷従する第二の理由は、圧政者のもとで人々は臆病になりやすいことだ。
隷従する者は勇敢さも活力も失ってしまう。(ここの説明は簡潔で、「習慣」ほど詳しい説明はない)
3、圧政者のやり口
圧政者は、以下のような詐術を使う。
遊戯、饗応(人々は素直に受けるべきでない快楽には放埓でありながら、律義に耐えるべきでない横暴には鈍感だ)、称号、自己演出、宗教心の利用(愚かな民衆は、自ら嘘を作ってはそれを信じる)
4、小圧政者たち
圧政者を守るのは武力ではない。取り巻きである。甘い汁を吸う側近5,6人。その周りには、600人。さらに6000人……という風に。
最下位にあって、小圧政者に搾り取られる農民たちは、隷従していても、言いつけを守ればそれで済むからまだよい。
だが、小圧政者は、上司の庇護がなければ生き延びることは出来ない。
小さな圧政者は、服従するだけでなく、上位の圧政者に気にいられなければならない。
自らの本性を捨ててでも。
圧政者を支えるとは、自ら自由を捨てて隷従を抱きしめるということだ。
「この連中は、まるでなにかを獲得すれば、それが自分のものとなるかのように、財を獲得しようとして隷従している。
自分自身ですら自分のものではないというのに」(71頁)
※(この言葉の意味は深いですね..!)
これを生きていると呼べるか?
結局、小圧政者が得られるものは、一つだけだ。
搾り取った民衆からの直接の怨嗟・侮辱・呪詛である。
それが圧政者への奉公から受け取る唯一の栄誉なのだ。
最後を締めるのは、次のセリフだ。
「私としては、圧政者とその共謀者に対する格別の罰を、神が来世で用意してくださっていると確信している。
私はまちがっていないだろう。
圧政ほど、完全に寛大で善なる神に反するものはないのだから」
(81頁)
二重の人/二重川統光さまブログよりシエアさせていただきました。
![]()
(59分03秒)
[自発的隷従] ゲスト:森達也(映画監督、作家)西谷修(立教大学特任教授)
↑![]()
少し前に作られた動画ですが、
51分前後からの森達也さんとの対話
が、現在のコロナ騒動禍(及びワク〇騒動)における隷従的社会の有様に呼応していて、深く共感できます。
みんなが山羊度を上げれば良い。
べースは羊のままでもちょっとだけ山羊になる。
右へと言われた時にちらっと左に目線を送り、前へ進めと言われたら半歩だけ後ろににじり寄ってみる..
視点を変えることの大切さ。
集団化が進むと一方向からしかものごとを見なくなる。
それがあたかも真実であるかのように思い込んでしまうことの貧しさ。
自分を発信できるようなメディアを使って、こうしてみたらこう見えるよという、そういった意識がちょっとずつ拡がってゆけば徐々に変わってゆくのではないか。
周りと一緒に動けば楽は楽なんですけど、つまんないです。
つまんないんだなってことにみんなが気づけばいい..。
![]()
(2分42秒)
![]()
ご訪問くださり
ありがとうございました![]()
![]()
miri (*´▽`*)ノ゛![]()
<転載終了>







だから国民は政府を盲信するし
毒チンも何回でも打つ!
genkimaru1
が
しました