達人さんの下の記事に有りました

http://web.archive.org/web/20050904102735/http://www.interq.or.jp/emerald/nshzw/newpage133.htm

<転載開始>
旧約聖書に見られるエロヒームとは、ヘブライ語の神、エルの複数形であり、本来神々と訳すべきものです。その神々の中には、大天使や天使も含まれるからです。
物理的な視点から捉えますと、別述するように、神の霊と、大天使や天使との違いは無いということが云えます。天使が主神の使者であるという認識以外は。その霊性において高い進化を遂げた人間の霊魂という点で双方は共通しており、その存在が持つ叡智や真理を古代の人々は求めたのです。
旧約聖書を主にしたユダヤ教聖典は、アブラハムに始まるヘブライ人の歴史だと、よく云われています。アブラハムは、シュメール人の華々しい偶像文化にとけこめず、ハランへ移住した人として、ヘブライ人の祖ともされています。
そのアブラハムの十二人の息子から、エジプト移住、モーセ様による出エジプト(その時に神から十戒を授かる)、カナン定住後のイスラエル十二部族連合への発展。ヤーウェ神が一貫して、その子孫達を導いて来られたというのがユダヤ教の教えの骨子であります。そして、守護天使の名として、ミカエル様、ガブリエル様、ウリエル様ほか、七人の天使の名が挙げられています。
アブラハムは、紀元前1800年位前の人と云われていますから、このヘブライ民族とヤーウェ神、守護天使との関わりは非常に古くからあったということがいえます。
そこで、このサイトで「神々の仮名群一覧」をご覧になった読者は、一つの疑問に突き当たることでしょう。
他の民族では、ヤーウェ神は何十もの仮名を持っていたにも関らず、何故、ヘブライ民族だけは、ヤーウェ一神名で導き通したのか?他の民族では、何故、ヤーウェ神はご自身の名を明らかにしなかったのか?と。
それは、ヘブライ民族が、特殊な役割りを担っていた民であったからに他なりません。それが神々のご計画でもあり、取り決めでもあったからです。
では、その役割りとは何でしょうか?
それは、その民が神の霊について証し、証言することが約束されていたからです。さらには、聖典類の中にしばしば述べられている最後の審判が、ヘブライ民族の国で行われることが決められていたからに他ならないでしょう。そして、神々の恩恵を最も多く受けているヘブライ人が殊のほか厳しく裁かれるということも。
では、何故、アブラハムに始まるヘブライ人の神名が、ヤーウェなのか?
これはアブラハムからしますと、先祖伝来の神名であったらしいのです。アブラハムの血筋を遡ると、アトランティス文明にまで行き着くのであります。
ヤーウェ、ミカエル、ガブリエル、ウリエルという神名は、アトランティス時代からあり、この時には、どうやら天使とは呼ばれていなかったらしいのです。今日、天使angelの意味が充てられたヘブライ語のマラク、ケルブ、セラフィームの語源ははっきりしていません。
そして現在、ミカエルと言う名の神の霊は一体しか居られません。さらには、アトランティス時代のミカエルと、現在のミカエル様とは別の霊体であります。ミカエルという一つの神名に一体の霊体という伝統はアトランティス時代から脈々と受け継がれてきたものとみられます。現在の神々は、そのそれぞれの神名を踏襲してこられたのであります。それはアトランティス時代の先代達が地球から離れたことによるでしょう。
ヤーウェ様もそのような伝統を踏まえたことにより、その神名を通して来られ、その流れは結果としてみた時に、アブラハムに始まるヘブライ人の流れに受け継がれていたと云うことなのであります。
神々は預言者という名の霊媒に啓示を与え、民達を導いてきました。それらは今日、旧約聖書と云われているところの聖典類として残り、ユダヤ教という宗教の教典になりました。それらが現在のユダヤ教にまで受け継がれてきたわけです。

旧約外典偽典に見られる大天使、天使群
聖書から、天使や大天使の名を見出そうとすると、探し出すのは大変であることを読者はご存知でしょうか。旧約聖書からは、ダニエル書のみ、ミカエル、ガブリエルの御名が見出されるだけです。
従って、天使の名を見出そうとする場合、どうしても、旧約外典偽典と呼ばれている書物に頼らざるを得ません。主に「エノク書」「トビト書」「アブラハムの遺訓」「バルクの黙示録」etc.等です。
しかし、そこに述べられる天使像もやはり、ヤーウェ神による人格神から自然汎神への移行という方針に従ったものとなっている為に、神話上の登場天使、古代の聖人偉人を混えた信仰を促す為の創作上での登場天使、の域を出ないものとなっています。
話の中で天使が人間に語りかけてはいても、それは人間の創作した言葉であって、天使自身の言葉ではない。マラク、ケルブと呼ばれる天的存在が非常に高度な知性を備えていても、その存在を正確に伝えたものにはなっていないのです。天使の語る言葉とは、ジャンヌ・ダルクを通して出された啓示のように非常に厳しい内容の言葉で語られるのが常だからです。
そうしたことを踏まえた上で、いくつかの話を挙げてみることにしましょう。

エノク書の中の天使群
天使名が多く記された書物としてよく知られているのは、旧約偽典として分類されているエノク書です。
古代の学者であり、義人でもあったエノクの名を用いて、後世に書かれたものであることから、そう呼ばれています。
初代キリスト教では、テキストとして用いられていました。聖書聖典と名の付く文書の中では、最も重要な文書の一つであるにも関らず、4世紀のキリスト教正典結集の折、選に漏れたことから典外書とされてきました。典外書となってからは、ユダヤのカバラ思想の秘儀書となって用いられてきたという経緯があります。
エノク書には「第一エノク書」と呼ばれるエチオピア語エノク書と、「第二エノク書」とされるスラブ語エノク書とがあります。特にエチオピア語エノク書と呼ばれるそれには、他の聖書にはない特筆すべきものがあります。数人の書記者の手によって成立し、108章に構成されています。
その内容は、やはり他の民族の神話・伝説や聖典類にみられるような真実と創作の一体化であります。創作の形を借り、古代の偉人や聖人の名を用い、天使を混えて最後の審判から世の終りと、それ以後について、予言を混えて語られています。そして、過去・現在・未来の一体化、即ち過去の出来事を通して現在と未来をも語っているといった構成にもなっているのです。当然、最初の執筆者には神の霊が随伴して書かれたものでしょう。
最後の審判や世の終りといった重要事が何故、創作の形を借りて語られねばならないのか?それは、人格神から自然汎神への移行同様、神々の側から人類が与えられた越えねばならない一つのハードルなのでありました。

エチオピア語エノク書「第9章」
《その時、ミカエル、ガブリエル、ウリエル、ラファエルが空から見下ろすと、夥しい血が地上に流され、ありとあらゆる暴虐が地上で行われているのが見えた。彼らは互いに言い合った。「彼ら(人間ども)の叫び声で、人気のない大地が天の門までこだました。今度は、君達天の聖者達を人間どもの魂は告発して言うのだ。『至高者の前に我々の訴えを持ち込んでもらいたい』と」。彼らは彼らの主なる王(ヤーウェ)に言った。「『主の主、神々の中の神、王の中の王、貴方様の尊い御座は何時の世にもあり、貴方様の御名は何時の世にも聖にして誉むべく、貴方様ご自身は誉め称えられるべき御方。貴方は万物を造られ、万物を統べる力は貴方にあり、一切は貴方の前に開かれて明らさまにあり、貴方の視線は全てのものに届き、貴方の眼に隠れ得るものは何一つとしてない。貴方は、アザゼルがしたこと、地上で不法を教え、天上に行われる永遠の秘密を明かした次第をご覧になった。また、その同輩を指導する権限を貴方から頂いたシュミハザは魔術を暴露した。彼らは連れ立って人の娘らの所に通い、これと、即ち、この女達と寝て身を汚し、彼女らにこれらの罪の数々を明かした。女達は巨人を産み、こうして全地は血と暴虐に満ちあふれた。今度は見よ、死者の魂が叫び出し、天の門にまでこだまし、地上に行われる暴虐を逃れることの出来ない彼らの呻き声が(天に)のぼった。貴方は何事に関らず、それが起る前からご存知であり、このことも、彼らに関ることもご存知である。にも関らず、この事に関して、彼らにどう対すべきか、我々に何一つ仰せにならない』」。》

この第9章中、「貴方は万物を造られ」とある部分に注目してください。これは、ヤーウェ神を大自然と見なしている言葉であることが理解されましょう。ここではヤーウェ神は王であると同時に大自然でもあるのです。
こうした主神と大自然・大宇宙の一体化を促す言葉は、聖書に限らず、ありとあらゆる聖典にちりばめられるようになったのです。これは紀元前から行われていました。そうした聖典を読み信じる信仰者達には、主神とは大自然であると、信じるようになっていったのです。即ち、人格神から自然汎神への移行です。
人格神ヤーウェ神はいつの間にか、全てを知る大自然ということになってしまったのです。アッラーも、アフラ・マズダも、ブラフマーも同様です。

同 「第10章」から抜粋
《その後、大いなる、聖なる至高者(ヤーウェ)は語りかけ、アルスヤラルユルをラメクの子(ノア)の所に遣わすに先立って、こう言われた。「私の名によって彼に、『身を隠せ』と言え。また、来るべき終末(世の終り)を彼に明示せよ。全地は滅亡するのだ。大洪水が起って全地に及び、地上にあるものは滅び失せるのだ。今、彼が難を逃れ、彼の子孫が世々代々生き残れるように彼に指示せよ」。主はまた彼ラファエルに言われた。「アザゼルの手足を縛って暗闇に放り込め。-略―審判の大いなる日に、彼は炎の中に放り込まれるのだ。-略―全地はアザゼルのわざの教えで堕落した。一切の罪を彼に帰せよ」。また神はガブリエルに言われた。「父なし子や不義の子、姦通の子らをねらい、姦通の子、寝ずの番人が生ませた子を人間の中から滅ぼし去れ。―略―どうせ長い寿命ではないのだから。-略―彼らは永生を望み、各人500年の寿命を希望しているのだが」。神はミカエルに言われた。「シュミハザとその同輩で女達とぐるになり、ありとあらゆる汚らわしいことをして自堕落な生活をした者達にふれよ。-略―すべて快楽の(虜となっている)魂と、寝ずの番人の子孫を滅ぼせ。―略―一切の乱暴を地上からなくせ。一切の悪行は消え失せ、正義と道理の木が生え出でよ。―略―」》

これは、ノアと洪水という過去の出来事を通して、終末や最後の審判の世界、つまり未来を語っているのであります。そして、書記者が現在であり、即ち、過去・現在・未来が一つになって語られているわけです。ここでの神、至高者は人間くさい荒っぽい神に表現されていますが、この天使に命令する神の似像は、ヤーウェ神というよりは、ダビデに近く、思想もダビデの考えが反映されたものであります。

同 「第19章」
ウリエルは私に言った。「女達と関係を持ったみ使い達の霊魂はここに立たされるであろう。彼らは様々な姿をとって人間を汚し、惑わし、まるで神々にでも対するように悪霊どもに生贄を供えさせているが、それも彼らが裁かれる大いなる裁きの日まで、彼らが断ち滅ぼされる日までのことである。彼らの女達も、天使達をかどわかしたのだから、魔女になるであろう。」私エノクだけが幻を、すべてのことの結末を見た。人間のうちで私が見たように見た者はいない。》

この章では、神々と複数形で語られているのが、特徴的です。当然のことながら聖書には無い要素です。

同 「第20章」
《以下は、寝ずの番人をつとめる聖なるみ使い達の名前である。ウリエル、聖なるみ使いの一人、世界とタルタロスを見守る。ラファエル、聖なるみ使いの一人、人間の霊魂を見守る。ラグエル、み使いの一人、光と闇に復讐する。ミカエル、聖なるみ使いの一人、人類の中でも最優秀な部分、(即ち、神の選)民を委ねられている。サリエル、聖なるみ使いの一人、霊魂を罪に誘う人の子らの霊魂を見守る。ガブリエル、聖なるみ使いの一人、蛇と(エデンの)園とケルビムを見守る。》

この20章は、七人の神々の名のうち、六人の名が出揃ったものとなっています。ここで述べられたみ使い達が非実在のものであるのなら、わざわざ一章を設けて紹介する必要もないものです。
訳文では、光と闇の部分は、世界と光となっており、サリエルはサラカエルとなっています。これは、アラム語のサリエルの3番目の文字ヨッドゥ(y)を、カフ(k)と誤認したことから誤訳に至り、エチオピア語でサラカエルとなったものです。エチオピア語エノク書は、アラム語からの訳とギリシャ語からのそれとが混在しているのです。
また、み使いラグエルの箇所では、神の霊、み使いが、世界と光に復讐するのはおかしいのです。これは、光と闇とあったものが、神の霊の敵対分子によって、故意に歪められたものです。
この場合の光と闇とは、光の子らと闇の子らの戦い、を意味します。或る象徴的な出来事を示唆するそれは、ダビデによって企図されていたもので、このことに関する文書は、古代ユダヤ教クムラン宗団の奥義書の中に見られました。

同 「第21章」
《私はぐるっとまわって、何一つとして起らない場所に達した。私はそこに恐ろしいものを見た。高い天でも、堅固な礎の上に立つ地でもなく、用意の整った、恐ろしい荒野だった。そこに私は天の七つの星を見た。(七つの星は)それ(その場所)に、大きな山また燃え盛る火のように一緒に縛り付けられていた。その時、何の罪で彼らが繋がれており、また何の為にそこに放り出されたのか、聞いてみた。聖なるみ使いの一人で、私の教師をつとめてくれていたウリエルが言った。「エノク、誰のことを聞いているのだ。誰のことを聞いて悟ろうと望むのだ。これは、至高者なる神の定めに悖って、ここに縛られている星であり、一万時代が巡ってきて、彼らの罪の日数が満ちるまで(こうしている)のである」。そこから、前よりも恐ろしい所へ行って、恐ろしいものを見た。そこに、炎をあげて燃え盛る大きな火があり、それには切れ目があって、その先端は、完成した深い淵になっていて、大きな火の柱が下へ投げ下ろされていて、その規模、大きさは見究めがつかなかった。またその源を覗き見ることも出来なかった。その時私は言った。「これは何と恐ろしい所だろう。見るのも苦痛だ」。その時、私についていた聖なるみ使いの一人ウリエルが私に向かって口をきった。「エノクよ、君がこれほどに恐れ、この恐ろしい場所の故に、またこの痛々しい光景を前にして、こんなに動揺するとはどうしたことなのか」。また私にこう言った。「これはみ使い達の獄舎であり、彼らは永遠にここに留め置かれるのである」。》

同 「第22章」
《そこから私は別な所へ行ったが、彼は、西方に大きな、高い、堅い岩から成る山を見せた。その中に、深くて、幅が広く、平坦な窪地、四つの場所があった。あまり滑らかで、ころころ転がりそうだった。覗くには深く、暗かった。その時、私についていた聖なるみ使いの一人ラファエルが、私に向かって口をきった。「この窪地は、霊魂、死者の魂が集まって来るようにと、彼らのために造られたのです。すべての人間の魂はここに戻って来ます。これは、彼らを住まわせる為にしつらえられた場所であり、彼らの裁きの日まで、彼らに定められた時まで(そこに留まる)。定められた時は、彼らの大いなる裁きの日、遠い先のことである」。私はまた死んだ人の子らの霊魂を見た。彼らの声は天に達して、告発していた。その時私は、私についていたみ使いラファエルに尋ねた。「こんなに天に向けてその声を発し、告発し続けているこの魂は誰のものなのですか」。彼は私に答えて言った。「この魂は兄のカインに殺害されたアベルから出ているものです。彼は彼(兄)の子孫が地の面から滅び、彼の子孫が人間の子孫の中から姿を消すまで告発し続けているのです」。そこで私はその時、彼について、また全ての者の裁きについて尋ねてみた。「何故、(これらの窪地は)一つ一つ区切ってあるのですか」。彼は私に答えて言った。「この三つ(の区切り・窪地)は死者の霊魂をより分けるためのもので、同様に、罪人が死んで地中に埋められる時のために、区切りが出来ている。彼らは在世中裁きに遭わなかった。ここに、この大きな悲痛の中に、彼らの魂は別にして隔てられ、大いなる裁きと刑罰の日を迎える。呪いを発する者には悲痛が永遠に(降り懸かり)、彼らの魂には復讐が(降り懸かる)。彼は彼らをここに永久に繋いでおかれるだろう。もしそれが、永遠の昔からだったとしたら、同様に、告発している者、罪人の時代に殺されたような場合、その殺害について(証拠を)見せようという人のためにも仕切りが出来ている。同様にして、義人ではなく、罪人であった者、悪行をさんざんに働いた者の魂にも仕切りがつくられている。彼らは悪党どもと一緒に、悪党なみの扱いを受けるであろう。裁きの日に殺されることもなく、ここから連れ出してももらえない」。その時私は栄光の主を誉め称えて言った。「我が主、栄光と義の主は誉むべきかな。全てを永久に治めたもうお方」。》

意味の判り難い部分は、正確な訳に至らなかったか、誤りのまま転写が重ねられたか、様々な要因が考えられます。

同 「第23章」
《そこから私はまた進んで、西の方の或る地点まで、地の果てにまで達した。私は燃え盛る、また休みもなく駆け巡る火を見た。それは夜昼を分かたず走り続けて止まなかった。私は、「休むことを知らないこのものは一体何なのだろう」と問うてみた。この時、私についていた聖なるみ使いの一人ラグエルが答えて言った。「貴方が西の方に見た燃え盛りながら駆け巡る火、これは天の全ての(発)光(体)です」。》

天の全ての光、火、発光体とは、神々の霊について述べたものです。神々の霊とは、雲の上の天国に鎮座まします方などではなく、人類を導く為に、常に休み無く人々の間を駆け巡っているというのが現実だからです。そして、終末の近付いた裁きの日には、七人の神々が大きな働きをすることが示唆されたのが、次の第24、25章です。

同 「第24章」
《そこから私はまた進んで、地上の別な地点に達し、昼夜炎をあげる火の山を見せられた。その方に行ってみると、そこに私が見たものは堂々たる七つの山で、一つとして同じものはなく、岩は大きく美しく、その姿はいずれも堂々として賞賛に価し、その外観は見事だった。(七つの山のうち)三つは東の方にあって、互いに高さを競い、(他の)三つは南にあって互いに高さを競っている。また深く、うねり曲がる盆地が(幾つか)あったが、いずれも他と繋がっていない。七つめの山はこれら(六つの山)の真中にあって、その高さは全体として王座にもたとうべく、また、香り高い木に囲まれている。その(木の)中に私が未だ嘗て嗅いだことのないような香りを発するものがあり、その中のどれも、また他所のどの木も、これには比すべくもなかった。香りにかけてはその右に出るものはなかった。またその葉、花、木(幹)は永久に衰えることはなく、その実も美しく、その実はなつめやしの房に似ている。その時私は言った。「見よ、これは見事な木だ。見た目に見事だし、その葉は心を楽しませ、その実も見た目には甚だ快い」。その時、私についていた聖なる、大いなるみ使いの一人で、それら(山や木)を司るミカエルが私に答えた。》

同 「第25章」
《彼は私に言った。「エノクよ、何故この木の香りのことを私に尋ね、また見究めようとするのか」。その時私エノクは彼に答えて言った。「全てのことについて知りたいのです。なかんずくこの木について」。彼は私に答えて言った。「貴方が見た主の御座に似た頂上を持つあの高い山は、聖なる、大いなる栄光の主、永遠の王が、祝福をもって地を訪ねに降りて来られる時におかけになる筈の御座である。見事な香りのするこの木には、神が全ての者に復讐し、彼らが永遠に滅ぼされる大いなる裁きの時まで、それに触れることは肉なる者には許されていない。その(裁き)時には、この木は義人とへりくだった者に与えられるであろう。その実から選ばれた者に生命が与えられ、それは北の方、永遠の王なる主の住居の近くの聖なる場所に植えられるであろう。その時彼らは大いに喜び、聖所で狂喜し、骨の一つ一つにその香りを染み透らせ、君の先祖達のように長生きし、彼らの生きている間、悲しみ、苦しみ、難儀、災難が彼らに触れることはない」。私はその時、このようなものを義人に備え、このようなものを創造して彼らに授けると約束された永遠の王、栄光の主を誉め称えた。》

24章の「七つの山」とは七人の神々を示しており、真中の王座にたとう山とは、七人の神々の司を意味しています。即ち、この司とは、これらの山の司である大いなるみ使いの一人、聖ミカエルを指しているのです。
そして、25章の御座にかける栄光の主、永遠の王とは、ミカエル、その方を指す事になります。地を訪ねに降りて来られる時、とは裁きの時であり、聖ミカエルはその時に王座に就くという意味であります。
この黙示的予言は、既に現代日本において実現したことは、別サイトで述べました。七人の神々とは、七人の王でもあり、ミカエル様は王の中の王、即ち、大王として、そしてヤーウェ様の後継として即位されたのです。1978年7月初日のことでした。(5.11.)

同 「第27章」
《その時私は言った。「この一面に木の生い茂る祝福された土地と、その真中にあるこの呪われた地は何の為なのですか」。その時、私についていた聖なるみ使いの一人ウリエルが、私に答えて言った。「この呪われた谷は、永遠に呪われた者のためのものである。神に対してけしからぬことを口にする者は悉くここに集められ、また彼(王座に就いたミカエル)の栄光に対して聞くに耐えないことを言う者が集められ、ここが彼らの仕置き場になるのである。終りの日に、彼らに対する正義の裁判は、義人達に対する永遠の見世物にされるであろう。憐れみを蒙った者は、栄光の主、永遠の王(大王ミカエル)をここで誉め称えるであろう。また彼らの裁きの日には、憐れみによって彼らにその分を分って下さったとして彼(大王ミカエル)を誉め称えるであろう」。その時私も栄光の主を誉め称え、彼に語りかけ、その偉大さに相応しく、誉めまつった。》

ヤーウェ神が、大自然や大宇宙を指すのであれば、その神に対してけしからぬことを口にした、として仕置きをする必要は無いわけです。
ですから、ヤーウェ神とは、人間と同じ感性を備えられた霊魂であることを、この章は示しています。聖ミカエルもまた同様であります。彼とは人格神を指すのであって、自然を彼といっているわけではありません。
この第27章、真中に呪われた地のある祝福された土地とは、日本列島のことを指しています。

同 「第32章」から抜粋
《-略―その木はいなご豆の木に似ており、その実は葡萄の房のようで、その形のなんと麗しく、魅力的なことよ。私についていた聖なるみ使いラファエルが私に答えて言った。「これこそは君の先祖、老いたる父母がそれを食らい、知恵を知り、眼が開いて自分達が裸でいることを知って、園から追放されたあの木である」。》

同 「第33章」から抜粋
《-略―空の星がどのようにして出て来るかを私は見、その出てくる門を数えた。また、私についていたみ使いウリエルが示してくれるままに、すべての出口を一つ一つ、その数と名、連結の仕方及び位置、時刻を月に従って記録した。彼は私にすべてのことを示して書いてくれ、さらにその名、その法則と実際の運動とを書いてくれた。》

一つの考え方として、この場合、ヤーウェ神は創作上、大自然を擬人化したものだ、といった捉え方も想定されましょう。ところがです。37章からは、それに釘を刺すかのように、「霊魂の主」という表現が現れてくるのです。霊魂の主とは、霊魂のヤーウェと言っているのと同じことです。何故、当たり前のことをわざわざ書く必要があるのか?それは思うに、この書記者がこの章を執筆していた頃には、信仰上、ヤーウェ神と自然汎神との一体化がかなり進んでいたためであろうと推察します。後出の50章にあるように、この書記者はヤーウェ神の啓示を受けて、章を表したのであります。書記者にとって、「霊魂の主」は、神であり、主なるヤーウェであることは自明の理であったわけです。

同 「第40章」
《その時、私は何千、何万、何十万も見た。霊魂の主(ヤーウェ)の栄光の前に立っている者は無数で数えることも出来ない。私は見た。霊魂の主の四方に、(寝ずに)立っている者とは別の四人のみ前(の天使)を認めた。その名は、私について来たみ使いが教えてくれ、またすべての秘密を明かしてくれたので分った。私はこれら四人のみ前(の天使)が栄光の主の前で賛美する声を聞いた。最初の声が霊魂の主を永遠に誉め称える。第二の声が、選ばれた者と霊魂の主にしっかり付いて離れない選民とを誉め称えるのを私は聞いた。第三の声が乾いた大地の上に住む者のために祈り願い、霊魂の主の名によって嘆願しているのを私は聞いた。第四の声がサタンどもを追い出し、乾いた大地に住む者達を中傷するために霊魂の主のみ前に入ろうとするのを止めようとしているのを私は聞いた。私はその後、私に同行して、すべての秘密を私に見せてくれた平和のみ使いに尋ねた。「私が見、その声を聞いて書き留めたあの四人のみ前(の天使)は誰ですか」。彼は私に言った。「最初の者は憐れみ深く、めったに怒らない聖ミカエル、第二は人の子らの一切の病と傷とを司るラファエル、第三はすべての力を司る聖ガブリエル、第四は永遠の生命を嗣ぐ者達の悔い改めと望みを司るパヌエルである」。以上はいと高き神の四天使であり、その時私は四つの声を聞いた。》

「ミカエル」は、ヘブライ語で、「誰か、神の如き」の意味とされていますが、誰が神の如きか、という疑問形にもなります。誰が神のような人間かを選ぶといった意味が込められているのです。憐れみ深い聖ミカエルは、古代ローマ時代のミカエル様の仮名、ミセリコルディア(憐れみの女神)を思わせます。病と傷を司るこの「ラファエル」とは、ヘブライ語で「神は癒し」の意味です。全ての力を司る「ガブリエル」とは、「神は力」の意味です。「パヌエル」は「神の顔」の意味とされています。ちなみに「ウリエル」は「神の火、神は我が光」。「ラグエル」は「神の友」。「サリエル」はあまり知られていませんが、ヘブライ語では「神は我が君主」という意味になります。

同 「第54章」
《私は地の別な方向に身を転じて見つめていると、火の燃え盛る深い谷がそこに目に留まった。王達や権力者達はこの深い谷に連れて来られ、投げ込まれた。そこに私の目は、彼らのための責め具、重さがいくらとも知れない鉄の鎖がこしらえられていくのを見た。私は同行の平和のみ使いに尋ねて言った。「この鎖の責め道具は誰のためにこしらえているのですか」。彼は私に言った。「これはアザゼルの軍勢のために、彼らを捕えて地獄の深みに投げ込み、霊魂の主が命ぜられた通りに、彼らの顎にごつごつした石をいっぱいくっ付けてやるために用意しているのである。ミカエルガブリエルラファエルパヌエルが、その大いなる日に彼らを掴んで、燃え盛る火の炉にその日投げ込むであろう。これは、サタンの手下となって乾いた大地に住まう者を惑わした彼らの不法に霊魂の主が報いられるためである。その時、霊魂の主の刑罰が執行され、上なる天のすべての水の倉と、天の下及び地下にある泉が開かれるであろう。全ての水は上なる天の水と混ざり合う。上なる天の水は男性的であり、下なる地の水は女性的である。すべて乾いた大地の上に住む者、天の果ての下に住む者は滅び去る。この故に、彼らは自分達が地上で働いた不法を悟り、その故に滅びるであろう」。》

後半の予言の中にある、天の水の倉と天の下の泉が開かれる、という予言は現代において、既に実現し、双方は混ざり合いました。
天の水の倉は日本において開かれ、天の下の泉はスイスで開かれました。二人の指導者と二つのグループが現れ、互いに真理の普及の為の運動を行いました。
日本のそれは神々の霊団による霊媒を通した神々の名乗り出と最後の審判の布告であり、スイスのそれは日本に現れた神々の出身母星からやって来た人、即ち、地球外人類の導きによる真理の普及でした。通常の人間の知恵では、到底及ばない高い叡智を、双方共に披瀝してくれ、人々は大いなる光に包まれ、その説かれた真理は私達の目を大きく開かせました。
その時に、ミカエル大王即位が発布されました。ヤーウェ様は、最後の審判下におけるサタン勢力との戦いで戦死され、ヤーウェ様と双子の神の弟とされていたサタン化したダビデの霊体は、1979年1月にミカエル大王によって消滅されました。旧約聖書での大方の予言を占めていた偽ヤーウェは永久に存在しなくなりました。
神々は天上での、即ち、神々の実情について霊媒を通して明らかにし、最後の審判とは、ヤーウェ神のような最高神に至る神にまで及ぶ、厳しい内容のものであることを呈示しました。エノク書にしばしば現れる天使が裁かれるとはそのような意味でもあるわけです。高い進化を遂げた霊体であっても、行いが正しくないと裁かれました。
一方、地球外人類によって齎された宇宙や人類についての情報は多くの人々の目を見開かせました。人間は無限に進化していく、それは主に霊性に関してのものですが、地球人類はその進化の或る過渡期にある。
また、地球外人類と神々の霊のと結び付きについては充分考えさせられました。地球人類と決定的な違い、それは人間の妄想から出る言葉を、神からの言葉であると思い間違うことは決してない、という点です。
そして、この二つの流れが合流し、互いに足らないところを補い合い、真理の大河の流れとなり、人々に対する啓蒙に弾みがかかり、人類社会の進歩を早めるに貢献する、それが理想でした。ところが現実にはそうはなりませんでした。
二人の指導者は互いに譲らず反目し合い、双方とも、己の方が高しとする気概が抜けず、グループも指導者に習い、互いの存在を認め合おうとはしませんでした。そして、次第に神を神と思わぬ増上慢が昂じていき、真理を学ぶ者としての謙譲さを失い、神の如きの振る舞いが多くなり、神の側に恥じを来たらせました。その故をもって、この二人の指導者は神々によって裁かれました。真理の指導者は、最も責任が重いのであります。二人共、エノク書のことを知り、それに接していながら、そこに述べられたこれらのことを、裁かれる時に至るまでも悟りませんでした。神々の霊や地球外人類の人々によって最大級の賛辞を与えられながら、二人共、それに応えられなかったことは至極残念なことであります。
ですから、天の水の倉と天の下の泉の流れは、現在、閉じられています。そして、54章の最後にある「天の果ての下」とは、日本列島のことであります。

エノクの幻という形を借りた未来に関する予言は続きます。次から挙げる項には、み使いの名前はありませんが、神々によって最後の審判が行われるその時期のことについて触れていると思われる箇所があるので、挙げてみることにします。

同 「第43章」
《私は別な稲妻と空の星を見た。彼がそれら一つ一つ、その名を呼び、またこれが彼に聞き従う様を見た。またそれらが公平な秤りでその光の強さ、それが占める場所の幅、姿を現わす刻、その回転の刻、(一つの稲妻はまた別な稲妻を生む)などを計られる様を見た。またみ使いの数に応じたその回転と互いに規則を守り合う様子を見た。私は秘密を私に見せてくれた同行の天使に、「これは何なのですか」と尋ねた。彼は私に言った。「あれのたとえを霊魂の主は君に示された筈である。あれは乾いた大地の上に住まい、霊魂の主の名をとこしえに信じる義人達の名前である」。》

同 「第44章」
《私は稲妻について他のことも見た。(即ち、)どういうふうにして星から生まれて稲妻となり、また星に何も残すことが出来ないかを。》

同 「第45章」
《「これは、聖人達の住居と霊魂の主の名を否定する者達に関する第二のたとえである。彼らは天に昇ることもなく、地に来ることもない。霊魂の主の名を否み、苦痛と艱難の日まで生殺しにしておかれる罪人の運命はそんなものである。その日、選ばれた者が栄光の座にすわり、彼らの行いを選び分ける。彼らの休息場所は無数である。彼らの霊は、私の選んだ者と、私の聖なる栄光の名に助けを求めた者達とを見る時、頑なになるであろう。その日私は私の選んだ者を彼らの間に座らせ、天を変えて永遠の祝福と、光とするであろう。私はまた乾いた大地を変えて祝福とし、そこに私の選民を住まわせる。しかし、罪と過誤を犯す者にはその上を歩むことを許さない。私自身が彼らに目をかけ、義人達に平安を飽くほど味わわせ、私の前に住まわせたのである。しかし、罪人たちに対する私の裁きは近付いた。私は地の表から彼らを滅ぼす」。》

この「私の選んだ者」の私とは、ヤーウェ神でなければなりませんから、この45章は書記者を通してのヤーウェ様直々の伝言でありましょう。
そして、1970年代の後半でしたか、確かにヤーウェ様は日本において、一人の女性霊媒を選びました。神が人類にその意志を伝えるには、霊媒という人間を介してしか、その手段が無いことは、別サイトで度々述べましたが、その霊媒とは神の言葉を仲介するという意味での霊媒です。そのヤーウェ様の選んだ霊媒とは、別サイト『急変する地球』の追加更新ページで述べた、私が所属していたところの啓蒙グループの女性リーダーのことです。
実際に、彼女が選ばれ、神々による数々の伝言を書物に著し、出版し活動を始めた時には、それ以前から関っていた多くの人々の心を頑なにさせ、大勢の人達が彼女を拒否しました。この章に、「私の選んだ者を彼らの間に座らせ」とあるその事を彼らは拒んだのです。
そして、「天を変えて永遠の祝福と光とするであろう。」とあるように、彼女は神々によって最大級の讃辞があたえられましたが、活動を始めたグループは、前途多難。事の顛末の詳細は別サイトに譲るとして、スイスの指導者同様、前述したような結末に至ったのであります。
章の最後、「私は地の表から彼らを滅ぼす」とありますが、この私とはヤーウェ神であると同時に、一体化された大自然でもありますので、これは地球規模の自然災害が人間を滅ぼすという意味でありましょう。これは、世の終りの予言なのであります。

同 「第46章」
《そこに私は高齢の頭をもった者を見た。その頭は羊の毛のように白く、もう一人人間のような顔をした者を従えていたが、この者の顔は、聖なるみ使い達の一人のように憐れみに満ち溢れていた。私に同行してすべての秘密を示してくれたみ使いの一人に、その人の子について私は尋ねた。「彼は誰なのですか。彼は何処から来ているのですか。また何故高齢の頭と一緒に歩いているのですか」。彼は私に答えて言った。「これが人の子であり、彼は義をもっており、義が彼に宿っている。またすべての秘密の倉を開く。それは、霊魂の主が彼を選ばれたからである。また、彼の分は、正義の故に、霊魂の主の前にあって、他のすべてのものを凌駕する。貴方が見たこの人の子は、王者、権力家達をその座から、力ある者達をその席から引き摺り下ろし、力ある者達の手綱をほどき、罪人達の歯を粉々に砕くであろう。また、王達をその座から、その領土から放り出すであろう。彼らは彼を誉めも崇めもせず、腰を低くして、自分達の領土を何処から授かったのかを考えてもみないからである。彼は、力ある者達の顔を避け、彼らはさんざん恥をかかされ、暗闇が彼らの住居、蛆虫がその褥となり、霊魂の主の名を崇めることをしない彼らに(病の)床から起き上がれる望みはない。これは、地上を歩み、そこに住まう分際で空の星を裁き、至高者に対して手を振り上げ、為すことはいずれも暴虐で、その行為は暴虐を表し、富を力と頼み、自分の手で作った神々に信を置き、霊魂の主の名を否定して憚らない輩である。彼らは、彼の許に集まり、霊魂の主の名に拠りすがる信者達の家から放逐されるであろう」。》

次章にも出てまいりますが、高齢の頭(かしら)とは、大王となったミカエル様のことです。地球に滞在する神の霊の中では、進化の度合いは最も高く、同時にまた、最も年齢の古い御霊でもあります。
本サイトの扉ページの大天使ミカエルは、凛々しい若者の姿で描かれておりますが、高齢ではありながら、永遠の若さをも保っておられるのであります。
次に人の子と呼ばれる彼についてですが、ヤーウェ様の「選んだ者」は複数ですから、こちらは彼です。王者や権力家達は過去にヤーウェ神とどのように関っていたのか、まったく関心がありません。従って、結果として地獄の火の池の中に自ら飛び込むことになるのです。
秘密の倉の幾つかについては、もう既に開かれました。

同 「第47章」
《その時、義人達の祈りと義人の血が地上から霊魂の主のみ前に達した。その時、天上に住む聖者達は声を一つにして、流された義人達の血と義人達の祈りの故に、懇願し、祈り、霊魂の主の名を誉め称え、讃美するであろう。霊魂の主の前に途絶えないように、彼らの為に裁きが行われるように、永遠に堪えなくてもよいように。その時、私は高齢の頭がその栄光の座に着席するのを見た。生ける者達の書が彼の前に開かれ、天上にあって、彼を取り囲む全ての軍勢が彼の前に立っていた。義の数が巡って来、義人達の祈りが聞き入れられ、義人の血が霊魂の主の前に償われたことによって義人達の心は喜びに溢れた。》

「高齢の頭がその栄光の座に着席するのを見た。」とあるそれは、ミカエル大王即位を予言したものであります。
当時、ミカエル様が居られた女性霊媒の許には多くの神々の霊が居られ、そして、沢山の著作物が山のように集められ、ミカエル大王によって、多くの人々と事柄が裁かれました。その事で多くの人達が安堵したものです。
大方を裁き終え私達に指針を与えた後、ミカエル様は1984年の4月にこの女性霊媒からは離れました。その裁きは、私達人間がどのような生き方をするのが良いのか、その多くを教えてくれました。

同 「第48章」
《その所に、汲めども尽きせぬ義の泉を私は見た。また、その周りに知恵の泉が幾つもあって、渇ける者はみなそこで飲み、知恵に満たされ、義人達、聖者達、選ばれた者達と住居をともにしていた。その時、かの人の子が霊魂の主の所に呼ばれ、彼の名は高齢の頭の前にある。太陽と徴が創造される以前、空の星が作られる以前から、彼の名は霊魂の主の前で呼ばれた。彼は、義人達や聖者達が倒れないように寄り掛かる杖、諸々の民の光、心憂える者の希望である。すべて乾いた大地に住まう者は彼の前にひれ伏して拝み、彼を誉め称え、霊魂の主の名を言祝ぐであろう。これが為に、世界が創造される前から、彼は選ばれ、彼(霊魂の主)の前に隠され、永遠に彼の前にあるであろう。この暴虐の世を忌み嫌い、霊魂の主の名によってそこに行われる一切のこと、その道を憎んだ義人達の分を護って下さった霊魂の主の知恵が、聖人達と義人達に彼の姿を顕わにした。彼の名によって彼らは救われるのであり、彼は彼らの命を奪った者に報いて下さるのである。その時、いま乾いた大地を治める地の王達、力ある者達は、その手の技故に面(おもて)を上げ得ないであろう。艱難苦難のその日、命拾いが出来ない故。私の選民達の手の中に彼らを放り込んでやろう。彼らは火に投げ込まれた枯草のように義人達の眼前で燃え尽き、水に投じた鉛のように聖人達の眼前に沈み、跡形も無く消えてしまう。彼らの苦難の日、地上には休息が訪れるであろう。彼らは彼の前に倒れたまま立ち上がれない。手を延べて引き起こしてくれる者もない。霊魂の主とその救わせられる者(メシア)を否定した故に。霊魂の主の名は誉むべきかな。》

この章も、ヤーウェ様の予言を反映させたものであります。
「彼らの命を奪った者」とは主にサタン化した偽ヤーウェ、ダビデを指すでしょう。
最後の方に出て来る「救わせられる者」は、原文訳では、「油注がれた者(メシア)」となっておりますが、これは原文が著述された後に、改竄された誤りであります。何故なら、油注がれた者とは、儀式の為の人間を指す用語であり、霊魂の主を始めとする神々の霊とは何の関わりも無いものだからです。
メシアは、ヘブライ語に由来していて、キリストはそのギリシャ語です。通常、救世主、救い主と邦訳されています。
そして、メシア、キリストとは、神々の霊をそう呼ぶのであって、生身の肉体をもった人間は、キリストやメシアではあり得ません。「油注がれた者」とは、「霊が注がれた者」が形式化し、儀式化したものと推測します。
メシアは、ヘブライ語の「油注がれた」という意味の動詞ではなく、「救う」という動詞から派生した「救わせられる者」が、本当の由来なのであります。「救わせられる者」とは「救わせる者」の受動形です。
即ち、メシアとは、このエノク書でしばしば述べられるところのみ使い達を指しているのであります。「油注がれた者」としますと、儀式で油注がれた人間がメシアということになってしまい、人間は到底メシアには成り得ないのです。

同 「第49章」
《知恵は水のように注ぎ出され、彼の前に讃美は永久に絶えることがない。彼は全ての義の奥義に強く、暴虐は影のように過ぎ去って留まることはない。選ばれた者が霊魂の主の前に立ち現れたこと故。彼の栄光は永遠に、その力は代々に(及ぶ)。彼には知恵の霊、悟りに導く霊、教えと力の霊、義のうちに眠りについた者達の霊が宿っている。彼は秘密のことを裁く。彼にむかって無意味な言辞を弄することの出来る者はない。彼は霊魂の主が、そのみ旨に適う者として選ばれた者なのだから。》

霊魂の主が選んだ者には、複数の霊が宿り、知恵と悟りと教えに導くのであります。宿る霊はそのことを意味しています。

同 「第50章」
《その時聖者達と選民達に変化が起こり、日の光が彼らの上に留まり、栄誉と威厳が聖者達に戻ってくるであろう。苦難の日、罪人達には不幸が次々と襲い、義人達は霊魂の主の名によって勝利をおさめる。彼はこのもようを他の者達にも見せて、彼らが悔い改めて、その手のわざを離れるように仕向けられる。彼らには、霊魂の主の前に(誇るべき)栄誉もない。人は彼の名によってのみ救われる。慈悲深い霊魂の主は彼らを憐れんで下さるであろう。彼はその審判に際しては公正であり、彼の栄光の故に、その審判においては、不法は倒れるしかない。彼の前に悔いない者は滅びるであろう。今より後、私は最早彼らを憐れまない、と霊魂の主は仰せられた。》

最後に、「霊魂の主は仰せられた」とあるように、この書記者はヤーウェ神の啓示を直接受け、その概要を記したのであります。

同 「第52章」から抜粋
《―略―その平和のみ使いは私に答えて言った。「今暫く待ちたまえ。そうすれば、霊魂の主が植えられたすべての秘密が君に現わされて、君はそれを見られるだろう。君が見たこれらの山、鉄の山、銅の山、銀の山、金の山、軟金属の山、鉛の山、これはすべて選ばれた者の前には、火の前に置かれた蜂蜜のようになり、上からこれらの山の上に流れ落ち、彼の足の前で勢いを失う水のようになるであろう。また、その時には、金をもってしても、銀をもってしても救われず、救われも、逃れも出来ないであろう。戦に用いる鉄はなく、胸当てに用いる鉄もなく、青銅は用を成さず、錫とても用を成さず、顧みられもせず、銅にも用はない。これらはいずれも、選ばれた者が霊魂の主の前に姿を現わす時には、地の面から消滅する運命にある。」》

これは世の終りについて、言ったものでありましょう。どのような金銀財宝も、世の終りに際しては何の役にも立たない、助けにもならないことを言っているのです。選ばれた者が現れる時期には、世の終りが近付いており、それによって何もかもが失われるということであります。世の終りに関しては、この章から、51章、55章へと続きます。

同 「第51章」
《その時、地は、預かったものを返し、黄泉は預かりものとして受け取ったものを返し、地獄は借りたものを返すであろう。彼(メシア)はその中から義人達、聖人達を選び出す。彼らが救われる日が近付いた故。その時、選ばれた者はその席に座し、ありとあらゆる知恵の奥義をその口は注ぎ出す。霊魂の主が彼にそれ(知恵)を授けて、栄誉を賜ったのである。その時、山々は雄羊のように躍り、丘は乳をたらふく飲んだ子羊のように跳ね廻る。そして、みな天使になる。彼らの顔は喜びに輝く。その時、選ばれた者が立ち上がる故に。地は喜び、義人達がそこに住まい、選ばれた者達がそこを縦横に闊歩して廻るであろう。》

地や黄泉や地獄が、預かりもの、借りものを返すとは、人類が地球に対して行ったことを、地球が地球規模の災害という形で、人類に返して寄越すということであります。山々が躍り、丘が跳ね回る、とは世の終り、即ち、極移動の最中の様子を言ったものであります。極移動とは、最近主張されているような地軸が年間10cm移動といったものではなく、自転速度で移動するものであるからです。(極移動に関しては別サイト『急変する地球』参照のこと)選ばれた者達が縦横に闊歩して廻る、とは世の終りの後の世界について言ったものでしょう。極移動中の様子と、その後については、いくつかの章に断片的に述べられていますので、拾い上げてみることにしましょう。

同 「第1章」から抜粋
《-略―神から(遣わされた)義人エノクは、目をかっと見開いていると、天にいます聖なるお方の幻が見えたので答えて言った。これはみ使い達が私に見せてくれたものであり、また私は彼らから何もかも一切聞かされた。私は、自分が見たものを理解することが出来た。それはこの(今の)時代に関るものではなく、来るべき遠い先の時代に関るものである。―略―すべての者が恐れ、寝ずの番人は震え上がり、恐怖とひどい戦慄とが彼らをとらえて地の果てにまで及ぶであろう。高い山々は驚愕し、高い丘は(崩れて)低くなり、炎に(溶ける)蜜蝋のように溶け去る。大地は陥没し、地上のものはすべからく滅び、すべての人に対する審判が行われる。しかし(神は)義人達とだけは和らぎ、選ばれた者達は護り、彼らには慈悲を垂れ、彼らは皆神に属する者となり、繁栄し、恵まれ、神の光を浴びることであろう。-略―》

同 「第83章」から抜粋
《-略―私は祖父マラルエルの家で横になっていたが、(その時)幻で、天が崩れ、ばらばらにちぎれて地上に落ちてくるのを見た。(天が)地上に落下してきた時、地は巨大な裂け目に呑み込まれ、山々はぶつかり合い、丘は互いにめり込み、亭々たる樹が根こそぎ吹っ飛んでその亀裂の底に沈むのを私は見た。-略―》

同 「第53章」
《そこにわたしの目は口を開けた深い谷を見た。
乾いた大地と海と島々に住むすべての住民が、彼(メシア[高齢の頭])に敬意を表してありとあらゆる贈り物を持ってくるのだが、その深い谷は溢れることがない。
彼らの手は不法を働き、(正直者が)汗水たらして稼ぎ出したものを、罪人達が不当にも食い荒らす。しかし罪人たちは霊魂の主の前から滅び、彼[ミカエル]の(支配する)地の面から永遠に、絶え間なく追いたてられるであろう。
わたしは懲罰のみ使いが行ってサタンの責具をととのえているのを見た。わたしは同行の平和のみ使いに尋ねた。「この責具はだれのためにととのえているのですか」。
彼はわたしに言った。「これらはこの地上の王者、権力者たちのため、彼らを滅ぼすためのものである」。
こののち、義人にして選ばれたおかた[人の子]が現われ、彼に帰依したものの教団は、これよりのち、霊魂の主の名のゆえに、妨げられることはない。
これらの山は彼[ミカエル]のみ前に地のように(平らに)なり、丘は水の泉のようになり、義人達は罪人達に悩まされることもなくなる。》


海と島々に住むすべての住民とは、日本国のことです。神々の霊が日本の女性霊媒を通して現れた際には、その女性の許には山のように、多くの贈り物が人々から贈られました。この彼とはメシア、高齢の頭ミカエル様のことです。
その後、懲罰のみ使い、即ち、神々によって女性霊媒は厳しい懲罰が加えられるに至りました。地上の王者となった女性霊媒率いるグループは現在、世間から絶え間なく追いたてられています。
山が地のようになるとは、極移動の地均し効果をいったものです。(追加2.8.)

同 「第65章」から抜粋
《その頃、ノアは地が凹んで、その滅亡が近くなったのを見た。彼は足を上げて、そこから大地の果てまで行き、祖父エノクに三度、「聞いてください、聞いてください、聞いてください」と苦しそうな声で呼びかけた。-略―その後ものすごい地震があり、天から声が聞こえ、私は地面にひれ伏した。―略―》

大地の果てとは日本列島を暗示しており、世の終りの前に頻発する地震を表現しています。ノア、エノクという過去の人を入れて劇的に表現していますが、これは過去の話ではなく未来の予言なのです。

《乾いた大地に住むすべてのものに対して、これが彼らの最後だ、という命令が主のところから下った。それは、彼らがみ使い達の一切の秘密、サタンどもの一切の不法、彼らの秘密の力の一切、魔術を行う者達のすべての力、悪霊払いのすべての力、全地の鋳物の偶像を造る者のすべての力を知ったからである。-略―》

主から下る命令とは、神々の霊が一体残らず、地球から離れる時のことを暗示したものでしょう。

《「彼(主)は私に仰せられた。『彼らの不法故に彼らの裁きは終わった。最早差し留めることは出来ない。彼らが魔術師を探し求め、地が、そこに住む者と共に滅亡することを聞き出してきた故に』。》

そして、終りの後のことについて。

《「隠されたあったことを見せられ、裁かれた彼らには、永久に悔い改めの可能性はない。しかし、我が子たるお前だけは別で、霊魂の主は、お前が潔く、秘密についてのこの咎を免れていることをよくご存知であられる。彼はお前の名を聖人達の間に確立し、乾いた大地に住む者の中からお前(だけ)を生き残らせ、お前の種(末裔)を義をもって王位及び大いなる栄光の地位に定め、お前の末裔から無数の義人達と聖人達の泉が永久に湧き出るように定められた」。》

同 「第55章」
《その後、高齢の頭は後悔して言われた。「乾いた大地の上に住む者達をすべてわけもなく滅ぼしてしまったようだ」。彼はその大いなる名に賭けて誓われた。「これより後、乾いた大地に住む者達にこういうことはしない。天にしるしを置き、永遠に、天が地の上にある限り、私と彼らの間の信義としよう。これからは、私の命令によって(すべてが行われる)。私が患難と悩みの日、私のこの怒りと懲らしめの前に、彼らをみ使い達の手によって捕えようと欲すれば、私の怒りと懲らしめは彼らの上に留まるであろう」。神、霊魂の主は仰せられた。「乾いた大地に住まう王達、権力者達よ、お前達は程なく私の選んだ者を見るであろう。彼が私の栄光の座にすわり、アザゼルとその仲間、その軍勢のすべてを霊魂の主の名によって裁くのを」。》

高齢の頭の、すべてわけもなく滅ぼしてしまった、という言葉は、高齢の頭と大自然を一体化したものと捉えると分かり易いのです。自然災害は、善人悪人区別なく滅してしまうからです。これからは私(高齢の頭)の命令によってすべてが行われる、とは最高責任者、大王に即位されたミカエル様を示しています。(5.17.)(追6.3.)

同 「第60章」から抜粋
《-略―あのたとえの中で私は天の天がどんなに激しく震え、至高者の軍勢、幾千、幾万の天使達がどんなに激しく動揺したかを見た。その時私は、高齢の頭がその栄光の座にすわり、み使い達と義人達が周りに立っているのを見た。酷い戦きが私を襲い、恐怖が私を捕らえ、腰は萎えて立たず、身体中が蕩けて、へなへなと前にのめった。聖ミカエルがもう一人の聖なるみ使い、聖なるみ使い達の中の一人を遣わして、私を立たせてくれた。私を立ち上がらせてくれると、私は元気を取り戻した。その軍勢とあの鳴動、天の激動は私には見るに耐えられなかった。聖ミカエルが私に言った。「こんな幻の所為でぶるぶる震えているのか。今日までは彼の憐れみの時だった。彼は乾いた大地の上に住まう者達に対して憐れみ深く、怒るに遅い方である。霊魂の主が、正義の裁きを重んじない者、正義の裁きを否定する者、彼の名をいたずらに称える者に対して備えられたところの日と力と刑罰と裁きとがやって来る時―その日は既に整えられた。」―略―》

最後の審判によって、天使群とサタン勢力との戦闘が行われ、その戦闘の後、高齢の頭聖ミカエルが王座に就くことを、エノクの幻の形を借りた予言であります。旧約聖書で、ヤーウェ神は妬む神と述べられていますが、妬む神とは、偽ヤーウェ、ダビデのことであります。ここで聖ミカエルが述べる彼、霊魂の主ヤーウェ様とは、「憐れみ深く怒るに遅い方」なのでありましょう。正義の裁きを重んじず、否定し、主の名をいたずらに称える者とは、主にダビデを指すでしょう。

同 「第67章」から抜粋
《―略―私は聖ミカエルが答えて言うのを聞いた。「み使い達によって下されるこの裁きは、王者達、権勢家達、及び乾いた大地を治める者達に対する証言である」。―略―》

最後の審判における裁きとは、み使い達による証言が重要なポイントを示すということであります。
この日本における証言、例えば、ミカエル様は、ナチス・ヒトラーを通してユダヤ人虐殺を行わしめたのはダビデであったと、証言されました。
ナチスは、トゥーレ協会というオカルト結社と深い関係を築いていたと言われていますから、ダビデによるトゥーレ協会通しての働きかけが強大になっていき、ユダヤ人迫害から虐殺へと、制御出来ないものとなっていったことでしょう。
当時ドイツの異常ともいえるナチス礼賛も、高い能力をもつ邪神ダビデの息吹きが間接的にも作用していたであろうにしても、これは、ユダヤ人虐殺をダビデが行わしめたのであるのなら、ナチスは悪くないという意味ではありません。操られる人間の側にも、操られることに対する責任は伴います。当然、犯罪行為は人間社会の法律で裁かれます。
このダビデによるユダヤ人迫害の方向性は、ユダヤ人の国を興すための、ユダヤ人をクローズアップさせる為のダビデの一つの布石であったでしょう。

同 「第68章」から抜粋
《-略―その日、聖ミカエルラファエルに答えて言った。「霊の力は私をさらい、苛立たせる。奥義に関する裁き、(即ち)み使い達による裁きの厳しさ、執行された後にまで(影響が)残るその裁きの厳しさに、一体誰が骨身をやせ細らせずに耐えることが出来ようか」。聖ミカエルはまたラファエルに答えて言った。「これを聞いて胸の痛まない者、はらわたの煮え繰り返らない者があろうか。彼らをこのように引き出した者(の口)から裁きの宣告が彼らに対して発せられた」。聖ミカエルは、霊魂の主の前に立つと、次のようにラファエルに言った。「私は主の前で彼らに味方はしない。霊魂の主は、彼らが主のような振る舞いをしたことを憤っておられるのだ。それ故、隠されていた裁きが永久に彼らの上に下るであろう。み使いも人間も彼らの分に預かることはなく、彼らだけが一人その裁きを永久に受けるのである」。》

裁きが執行された後にまで、影響の残るその厳しさとは、人類が同じ過ちを二度と繰り返さない為の、神々の霊による力なのであります。非常に高い進化を遂げた神の霊の発する批判、裁きは、永世に渡ってその効力を発揮し、力を失わないのであります。その力は次の世に生きる人々へのバリアーとなって働きます。
そして、「霊魂の主は、彼らが主のような振る舞いをしたことを憤っておられるのだ。」とあるように、前出の二人の指導者は、この事からも裁かれました。

同 「第69章」から抜粋
《―略―彼らの名は次の通りである。-略―これが、彼が遥か上空に栄光のうちに住んでいた時に聖者達に見せた誓いの頭ケセブエルの数であり、その名はベカ。この者は、その隠された名を彼らに明かし、彼らがその秘密の名を見て、それを誓いの時に唱え、人の子らにすべての秘密を明かしたところの者どもがその名と誓いに戦くようにしてやるがよい、と聖ミカエルに言った。これがその誓いの力であり、それは力強い。彼はその誓い、アカエを聖ミカエルの手に置いた。これがその誓いの秘密である。彼らはその誓いによって強められ、天は世界が創られる以前から永久に懸けられた。-略―これらはみな、霊魂の主を信じ、これを言祝ぎまつり、力の限り彼を讃美し、彼らの糧は讃美にあり、霊魂の主の名を永久に言祝ぎ、讃美し、崇める。この誓いは彼らを堅くとらえ、それによって彼らは護られ、彼らの道は守られ、その径は廃れることがない。-略―》

「天は世界が創られる以前から永久に懸けられた」とありますように、人格神としての神々の霊は太古の時代に、大自然の事象と引っ懸けられるようになったのです。他の章で、発光体としての神々の霊が、星のような大自然の発光体に引っ懸けて表現されているように。この場合の天とは神々の霊、世界とは大自然であります。
このエノク書が編纂されていた頃には、ヤーウェ神は既に大自然と懸けられた、即ち、大自然と一体化された存在となっていたわけです。
ところが、この書の編纂者である書記者に、ヤーウェ神が直々に接するようになった為に、書記者は、ヤーウェ神とは霊魂であることを悟ったのであります。それで、殊更に、霊魂の主という名称を、この書で強調するようになったのです。
戒律の十戒に従って、霊魂のヤーウェと書くわけにはいかず、霊魂の主となったのであります。
恐らく、この69章は、エノク書の古い断片を整理、書写している際にその書記者にヤーウェ様が懸かり、途中からその啓示を表したと見られます。章の前半の意味が釈然としないまま、突然、霊魂の主の讃美に変わるのであります。
このような例は、コーランの中にも見られます。ヤーウェ様、即ち、アッラー神が途中からモハメットに入ったことにより、モハメットの話の方向が突然換わるのであります。それを書記者達が忠実に記録しているというところが良いのであります。

同 「第71章」から抜粋
《この後、私(エノク)の霊は隠されて天に昇った。-略―私は霊魂の主の前に平伏した。み使い達の頭の一人、み使いミカエルが私の右手を掴んで引き起こし、あらゆる秘密の所へ私を連れ出し、憐れみと義の秘密をすべて私に見せてくれた。―略―私の霊は火がその家を取り巻いている様を見た。その四方に生きた火の溢れる河があって、その家を巡っている。その周囲にセラピム、ケルビム、オパニムがいる。これは不眠で彼の栄光の座を警護している。私は数えることも出来ない、幾千、幾万のみ使い達がその建物を取り囲んでいるのを見た。ミカエルラファエルガブリエルパヌエル、及び天上にある聖なるみ使い達がその建物に出入りしていた。その建物からミカエルガブリエルラファエルパヌエル及び数え切れない程多数の聖なるみ使い達が出て来た。彼らと共に高齢の頭が(現れた)。その頭は羊毛のように白く、清らかで、その衣は形容を絶する。平伏した私の身体全体から力が抜け、霊は変化した。私は心を込めて大声に叫び、誉め称え、讃美し、崇めた。私の口をついて出たこの祝福は、その高齢の頭の嘉されるところとなった。その高齢の頭はミカエルガブリエルラファエルパヌエル及び数えることも出来ない程の幾千、幾万のみ使い達と共にやって来られた。そのみ使いは私の所に来て、その声で挨拶して私に言った。「君は義のために生まれた人の子である。義は君の上に宿り、高齢の頭の義は君を離れることはない」。彼は私に言った。「彼は来るべき世界の名において君に平和を呼びかける。平和は、この世の創造の時以来、あそこに由来するのである。君にとってはこの状態が永遠に続くであろう。義がけっして君を離れない時、君の道を歩む者はすべて、君と住居を共にし、君と分を共にし、永遠に君と離ればなれになることはない。このように、その人の子は長寿を賜り、義人達は平安を賜り、彼の道は義人達に対して、霊魂の主の名によって永遠に公正である」。》

この章が書かれた頃はまだ、高齢の頭がみ使いミカエルであることは、神々の間でも秘密事項であり、人々には明らかにされていなかったのでありましょう。

同 「第72章」から抜粋
《天の発光体の運行の書。-略―私に同行してくれたこれらの案内人、聖なるみ使いウリエルが私に見せてくれたもので、彼はまたそれらの実際の姿、この世のすべての歳と永遠に、永遠に続く新しい作品が出来る時までどのように関るかを私に示してくれた。-略―》

この章にあるように、エノク書とはひとつの作品であり、真実と創作の一体化と、過去・現在・未来の一体化、人格神を自然汎神と懸け、過去の出来事を通して現在を語り、未来を予言する予言書でもあります。

同 「第74章」から抜粋
《私は別な運動とそれに関る法則を観察した。-略―彼ら全部の案内人、聖なるみ使いウリエルは私に何もかも見せてくれた。私はそれらの位置を彼が示してくれるままにー略―書き留めた。―略―》

同 「第75章」から抜粋
《―略―太陽、月、星、その他天上の車に乗って駆け巡る僕などのように天の面を治め、地上に姿を見せ、昼と夜の案内役を務めるようにと造られた天上及び世界にあるすべての天の発光体を永遠に司るよう栄光の主から任ぜられたみ使いウリエルが私に徴(しるし)、時期、年、日などを見せてくれた。ウリエルは同様に、天上にある太陽の車の球の中に開いている一二の門を私に見せてくれた。―略―沈むことをしない星がその中で回転しているあの門の上下を所狭しとせ界を駆ける馬車を私は天上に見た。一つだけが他のどれよりも大きく、全世界を走り回っていた。》

ここに述べられる馬車とは、ヴェーダの太陽神スーリアの馬車であり、それはウリエルの馬車でもあります。

同 「第78章」から抜粋
《-略―ウリエルは光が月に移し加えられる時の別な仕組み、太陽から、どちら側に移し加えられるかをも私に見せてくれた。-略―》

同 「第79章」から抜粋
《-略―これらの案内者である大いなるみ使いウリエルが私に見せてくれたすべての発光体の像とたとえは以上の通りである。》

同 「第82章」から抜粋
《-略―ウリエルは私に発光体、月、祭り、年及び日を見せてくれ、吹き込んでくれた。世界の全被造物の主が、天の軍勢に関して、私の為に、彼に命じておかれたのである。-略―》

ヤーウェ神は、ここでは霊魂の主ではなく、世界の全被造物の主、となっています。人格神が自然汎神と懸けられた、或いは一体化されたものになっているのです。つまり、エノク書の中でも、この表現が出て来る部分は、古い記述に基づいているのです。

同 「第80章」
《その頃ウリエルは私に答えて言った。「見よ、私は君にすべてのことを見せた、エノクよ、私は君にすべてを啓示した。あの太陽、あの月、空の星を導くすべてのもの、それらを回転させているすべてのもの、その作用、時、出て行く様子を君に見てもらいたかったのだ。罪人の時代には一年は短くなり、種は大地や畑で(芽を出すのが)遅れ、すべて地上に生起することは変化し、時が来ても現れず、雨は差し止められ、空がそれを遅らせる。そういう時には、地の実はなかなか実らず、時が来ても成長せず、木の実は時季になっても一向現れない。月もその秩序を変えて、時が来ても姿を見せない。その頃、西空に、大きな車の端に、不作が来るのが見えるであろう。それは定まった光の強度よりも激しく光るであろう。定められた星の頭(かしら)の多くが迷い、道を誤り、やること為すことが一変し、定められた時になっても現れない。星のすべての体系は罪人達には近寄れない。地上に住む者達の考えはそれに関して誤り、彼ら(星)がその道をすっかり変えて彷徨っていると、これを神と思い為すであろう。彼らは酷い不幸を味わい、天罰に見舞われてみんな滅び果てるであろう」。》

これも、世の終りに関する予言であります。月や星が定められた時が来ても姿を現わさないのは、地球が自転の方向を変える為です。この章も、神々(み使い達)と自然事象とを一体化させている為に意味が分かり難くなっています。罪人の時代とは今、現代のことです。星のすべての体系は罪人達には近寄れない、とある星の体系とは、神々の霊団のことであり、神の霊の力により、罪人は神々に近付くことは出来ないという意味です。道を変えて彷徨う彼らとは、この場合、星を意味し、極移動の最中の星の変則的な動きから、人々は神によるものだと思い為すだろうということです。
ウリエル様は、1979年9月の日本で、女性霊媒を通し、エノク書について証言されました。この頃には、最後の審判によるサタン勢力との戦いも勝利をもって終え、ダビデも消滅された後でしたから、その内容は、後は自然災害を待つのみだ、というものでした。何故、自然災害なのか?その示唆について、私達は当時、誰一人気が付きませんでした。要するに、ウリエル様は、単に自然災害という言葉を用いつつも、意図していたものは、エノク書のこの80章であったのです。私達にここを読めという意味で、エノク書を証言の内容に加えたのでした。

エノク書は、紀元前300年から100年頃にかけて成立したといわれています。次の章からは、み使い達の名前は出て来ませんが、未来社会への警告として興味深いものがあるので敢えて挙げてみることにします。(5.20.)

エノク書の中の訓戒

同 「第91章」
《「さて、我が子メトセラよ、お前の兄弟達をみんな呼んでくれ。お前の母さんの子らをみんな集めてくれ。言葉が私を招いているのだ。霊が私の上に注がれているのだ。今後に渡って君達の身に降り掛かるであろう一切のことを示してやらねばならぬ」。
そこでメトセラは出かけて行って自分の兄弟全部に呼びかけ、一族の者を集めた。
彼(エノク)はその子ら全てに義について語って言った。「我が子らよ、お前らの父親の言う事をよく聞くのだ。私の口の言葉に耳を傾けるのだ。私はお前達を諭し、お前達に語る。私の愛する者達よ。公正を愛し、その中を歩め。ふた心をもって公正に近付くな。ふた心ある者達と交わるな。義の中を歩め、我が子らよ。これをして君らを良き道に導かしめ、義を道連れとせよ。不法が地上に勢いを得るであろうことを私は知っている。
しかし、地上で大いなる刑罰が執行され、暴虐は終りを告げ、根絶やしにされ、その(暴虐の)家は消える。
暴虐は再び盛り返し、ありとあらゆる暴逆行為、不法行為と咎が再び地上に蔓延るであろう。暴逆、罪、涜神、不法、その他ありとあらゆる(悪)行が蔓延り、背教、咎、穢れが蔓延るならば、これらすべてに対して大いなる天罰が下り、聖なる主が怒りと刑罰をもって出て来て地上に裁きを行われるであろう。
その時、不法は根絶やしにされ,暴逆の根も偽りと共に(引き抜かれ)、天が下から滅び失せるであろう。すべて異教徒の偶像は棄てられ、塔は火にくべられて全地から姿を消し、彼ら(異教徒)は火の裁きに投ぜられ、怒りと、永遠の力強い裁きで滅びる。義人らは眠りから醒め、知恵が醒めて彼らに与えられる。
さて、私の子らよ、私はお前達に言う。お前達に義の道と不法の道を示そう。将来起こるべきことをお前達が知ることが出来るよう、お前達に再び(これを)示そう。さて、私の子らよ、聞け。義の道を行け。不法の道を行くでない。暴逆の道を行く者はみな永遠に滅びるからだ」。》


この章は、この書記者によって世の終りから、何まですべてを視野にいれ、それらを踏まえた上で述べられたものでありましょう。それ故、永久に滅びる、というよな記述が出て来るのであります。世の終りに至るまでの心構え、人々はどうあるべきなのかの要点を捉まえたものであります。
この章は、他にも多くの示唆的な要素に富んでいます。言葉が私を招いている。霊が私の上に注がれている。とは、エノクに神の霊が懸かり、その愛と力と訓戒をエノクを通し、一族に与えようとしたのであります。
恐らくは、アブラハムの場合においても、やはり一族の長アブラハムに神の霊が懸かって、力を与え、それがアブラハム十二子一族の繁栄へと繋がっていったのであります。
老子の場合もやはり始まりはこのようであったでしょう。個人の家から始まったものが道家といわれるようになり、道教へと発展していったのであります。そして、道徳経も著されるに至る。
そうした神々による力添えにより、学者である義人エノクもまた後世、後々まで多くの人々に称えられるところの人となったのであります。それら神の霊による力添えは、それらの人達がそれを受けるに相応しいと見なされたことによるでしょう。

同 「第93章」
《そののちエノクは書物に基づいて語りはじめた。エノクは言った。「わたしの子らよ。わたしエノクは、義の子らについて、この世から選ばれた者たちについて、また義と公正の木について、天の幻によってわたしに示され、聖なるみ使いたちのことばからわたしが学び、天の板からわたしが悟ったことをきみたちに語りかつ知らせよう」。
そこでエノクは書物に基づいて語りはじめて言った。「わたしは、裁きと義がまだひきつづき行なわれつつあった第一週に七番目に生まれた。
わたしのあとに、第二週にはなはだしい悪がおこり、欺瞞が芽生え、最初の滅亡がおとずれ、(ある)者は救われ、この滅亡ののち暴逆がはびこり、罪人に対して法が定められるであろう。
そののち第三週に、その終わりごろ正義のさばきの木となる人がひとり選ばれ、彼の子孫は以後永遠に義の木となる。
そののち第四週に、その終わりごろ聖人と義人たちの幻が現われ、つづく世代のための法と囲いが定められる。
そののち、第五週に、その終わりごろ栄光の家と王国が建てられて永遠に至るであろう。
そののち、第六週に、その(時代)に生きる者は皆盲人になり、すべての者の心は知恵を忘れる。そのときひとりの人がおこり、その終わりごろ、王家の家は火に焼けくずれ、選ばれた根につながるすべてのものは散らされるであろう。
そののち、第七週に、背教の世代がおこり、その所行は多岐にわたるが、その所行はいずれも背教的である。
その終わりごろ、義なる選民は永遠の義のひこばえから報いを受け、彼の創造のすべてについて七通りの教えを授けられるであろう。
およそ人の子のなかで聖なるおかたの声をおののかずして聞ける者はだれか。あのかたの思いを思うことのできる者はだれか。また天(上)に行なわれるすべてのことを観察しつくせるのはだれか。天の作用を知ることができると言うが、いったい何を(知ることができるのか)。霊あるいは息を見られるというのか。そして(それについて)語るというのか。あるいはのぼってその果てを見つくし、それについて考察したり、あるいはそれに類したことができるというのか。およそ人間のなかに、大地の縦横の大きさを知ることのできる者があるか。これらすべてのものの大きさがだれに明かされたというのか。あるいはまた天の長さを知ることのできる人間があるか。その高さはいくらか。何の上に固定されているのか。星の数はいくつで、すべての光はどこに憩うのか。》
(追加7.20.)

同 「第91章」(続)
《そののち暴逆の根は断ち切られ、罪人は剣に滅び、到る所で涜神者の根は断ち切られ、不法を心におもい描き、涜神行為にはしる者は刀で滅びる。
そののち、別の週、義の第八(週)がめぐって来て、それに剣が手渡され、不法を行なう者どもに対して正義の裁きが行なわれるであろう。また罪人たちは義人たちの手に引き渡されるであろう。
その終わりごろ、彼らはその義の故に住まいを獲得し、永久に残る、豪華な、大王の為の家が建つであろう。
その後、第九週に、正義の裁きが全世界に啓示され、悪人どもの一切の所行は全地から姿を消し、世界は滅亡すべく記録され、すべての人が公正の道を仰ぎ見るであろう。
その後、第一〇週の第七期に、大いなる、永遠の裁きが行われ、彼は天使達に罰を下されるであろう。先の天は姿を消して過ぎ去り、新しい天が現れ、天のすべての力は世界を七倍の明るさで照らすであろう。
その後数多くの、無数の週が永遠に巡って来て、善と義が行われ、その時を境として、罪が人の口の端にのぼることは永久にないであろう。》


これは、ヤーウェ様による直々の予言とみられますが、成り行きの順序が異なっていると思えるのは、故意にそうした為と考えられます。その終り頃とは、世に終りが近付いた頃の意味。大王とは、栄光の座に就いた高齢の頭、ミカエル大王を暗示するものでしょう。新しい天が現れ、とはミカエル大王即位を表し、先の天は姿を消す、とはヤーウェ様の退位を示しています。世界を七倍の明るさで照らす、とはそれまでダビデによって抑え付けられ等閑にされて来た七人の神々、ミカエル、ガブリエル、ラグエル、パヌエル、ラファエル、ウリエル、サリエルの、御七方によって主に治められる世界となることを暗示したものであります。

エノク書には、これまで述べたような事柄が多い為に、即ち、ヤーウェ神直々の予言や、七人の神々について触れ、暗黙にダビデを批判している為に、ダビデにとっては極めて目障りな存在でありました。

同 「第92章」
《学者エノクが著したもの。この知恵の教えはすべての人から賞讃され、全地をさばく規範であり、地上に住まうわたしのすべての子らおよび正義と平和を行なうであろうところの未来の世代のため(に書かれたものである)。
時勢に心を悩ませぬがよい。聖なる、大いなるおかたがすべてのことに日を定められたのだから。
義人は眠りから醒めて立ち、義の道を歩む。そのすべての道と道程は永遠の恵みと慈悲のなかにある。
彼は正しい者に対して慈悲深く、そういう者に永遠の公正を施され、支配権を賜い、恵みと義の中にあって、永遠の光の中を進む。罪は永久に暗闇にほうむられ、この日から永遠に現われることはない。》


正しい者に対して慈悲深いは、ミカエル大王のことを言っています。

同 「第38章」
《第一のたとえ。義人の教団が出現し、罪人らがその罪ゆえにさばかれ、地のおもてから追いたてられるとき、義なるおかたが、選ばれた義人たち、(すなわち、)その行ないが霊魂の主(のみむね)にぴったり合致している者たちの前に姿を現わされ、乾いた大地の上に住まう義人、選民たちに光が現われるとき、罪人たちの住居はどこになるのだろう。また霊魂の主を否定した者たちの安住の地はどこになるのだろう。
彼らにとっては、むしろ生まれ出てこなかったほうがましだったのだ。義人たちの秘密があらわにされるとき、罪人たちはさばかれ、不敬虔な者たちは義人と選民たちの前から追い払われるであろう。
いまよりのちは、地をその掌中におさめるものたちは、もはや力あるもの、位の高い者とはなりえず、聖者たちの顔を見ることはできないであろう。霊魂の主の光が聖人、義人、選民たちの前に現われたからである。
そのとき力ある王たちは滅び、義人と聖人たちの手に渡されるであろう。このときをさかいとして、霊魂の主からあわれみを乞うものはないであろう。彼らの生命は尽きたのだ。》


義人の教団とは訳注では、正しい者の集い、となっていますので、神々によって日本国で興された正法の集いについて言っています。この教団の25年後の顛末については、
『想定問答抄53』に説明した通りのことです。

同 「第58章」
《わたしは義人たちと選民についての第三のたとえを語りはじめた。
至福なるかな、きみら義人たち選民よ。きみたちの分は栄光にみちている。義人たちは太陽の光の中に、選民は永遠の生命の光の中にあって、彼らの生命の日は終わりなく、聖人たちの日は数えもあたわぬ。彼らは光を求め、霊魂の主のもとに義を見いだす。義人らは永遠の主のもとに平安を得る。
こののち、義人たちは、彼らの信実の報いたる義の奥義を天に探し求めるように言われるであろう。
太陽が地上を照らすように明るくなり、暗闇は過ぎ去ったのだ。
(燃え)尽きることのない光が現われ、彼らの(一生の)日々は数えあげることができない。
まず暗黒が滅ぼされ、光が霊魂の主のまえに確立され、公義の光が霊魂の主の前に永久に確立されるゆえ。》


同 「第5章」
《わたしは樹木が緑の葉をまとい、実を結んでゆくありさまを観察した。万事について悟りを得、また、永遠に生きたもうお方がどのようにこれら一切のことをきみたちになしたもうたかを知れ。彼の造られたものは来る年も来る年もみ前に侍り、彼の造られたものはみな彼に仕えてその任にもとることがなく、神の定められたそのままにすべてのことがとり行なわれる。海と河とが一体となってその任務を果たすありさまを見よ。
しかるにきみたちときたら、慎しみは知らず、主の命令は果たさず、これをなみし、きみたちのそのけがらわしい口をきわめて、あのお方の威光をそしり、大言壮語し、乱暴なことばを並べた。
心のひからびた者どもよ、きみたちに平安はおとずれないであろう。このゆえにきみたちは自分の一生を呪い、きみたちの人生はだいなしになり、永遠の呪いはいや増し、慈悲をかけてもらうことはないであろう。
そのとき、きみたちは自分の平安は永遠の呪いとひきかえに義人に返上し、彼らは罪人たちときみたちとをいっしょにして罪人呼ばわりし、罵倒しつづけることであろう。しかし、選ばれたものたちには光と喜びと平安がおとずれ、彼らが地をつぐ者となる。だがきみたち不敬虔な者たちには呪いがあるのみ。
またそのとき、選ばれた者たちは知恵を授かり、彼らはみな生命を得、不敬虔や慢心のあやまちを二度と犯すことはない。知恵ある者は謙遜に歩み、重ねて過誤を犯すことはない。彼らは一生罰せられることもなく、(神に)こらしめられたり、(神の)怒りにあって命をおとすこともなく、長寿を全うし、老いては安らかに日を送り、穏かな喜びとしあわせな年月に恵まれ、一生を通じて末長く安らかに暮せるであろう。》
(追加7.21.)

あのお方とは、ここでもミカエル大王を指すことになりましょう。


同 「第94章」

《「さて、お前達に言っておく。私の子らよ。義の道を愛し、その中を歩め。義の道こそは受け入れるに値する。暴虐の道はたちどころに滅び、廃る。(未来の)世代の或る人々には不法と死の道が啓示され、彼らはこれから遠ざかり、それに従うことはないであろう。さて君達義人らには言っておこう。悪しき道、不法、死の道を歩むな。滅びたくなかったらこれに近寄るな。むしろ、義と嘉される生き方を求めよ。平和の道を歩んで繁栄の日を送るがよい。私の言うことをしっかりと肝に銘じ、これが君達の念頭を離れることがあってはならない。罪人どもが人々を惑わして、知恵を悪し様に言い、知恵の入る場所が見当たらないようになるであろうことを私は知っている。惑わしはどれ一つとして減ることはないであろう。
災いなるかな、暴虐と不法を築き、欺瞞を土台に据える者。彼らはあっという間に覆され、心の安まる時がない。
災いなるかな、その家を罪で建てる者、それは土台から覆され、彼らは剣に倒れるであろう。金銀を手に入れる者は裁きにあってたちどころに滅びるであろう。
災いなるかな、君達富める者、君達は自分の富を頼みとした。しかし、君達はその富を失うであろう。富んでいた時、至高者のことを心に留めなかったからだ。君達は涜神と暴虐を行い、血が流される日、暗闇の日、大いなる裁きの日にこそ相応しい者になった。
このように私は君達に言い、かつ知らせる。君達を創造なさったそのお方(大自然と一体化されたヤーウェ神)が君達をひっくり返されるであろう。君達が倒れようとも同情もされず、君達の創造者(大自然と一体化されたヤーウェ神)は君達の滅亡を喜ばれるであろう。君達の中の義人らは、その時、罪人と悪人どもに嫌われるであろう。」》

同 「第95章」
《「わたしの目が水の雲であればよいのに。そうすればきみたちのことを泣き、私の涙を水の雲のように注ぎ、わたしの胸中の悲哀も少しはやわらげられようというもの。
だれがきみたちに憎むべき悪事を行なうことを許したのか。裁きがきみたち罪人に臨むであろう。
義人たちよ、罪人を恐れるな。主は、いつか彼らをきみたちの手に返されるから、そうしたら好きなようにやつらを裁いてやるがよい。
災いなるかな、元に戻せないような呪いをかける君達は。君達の罪故に、癒しは君達の手には届かない所にある。
災いなるかな、隣人に悪をもって報いる君達は。自分の所行に応じた仕返しを君達は受けるであろう。
災いなるかな、君達偽りの証人、また不正の秤を用いる者。君達はただちに滅ぼされるであろう。
災いなるかな、君達罪人は。君達は義人を迫害する。君達こそは渡され、迫害されるであろう。暴虐の輩よ、君達のくびきは君達に重くのしかかるであろう。」》


同 「第96章」
《「義人達よ、希望をもつがよい。罪人たちはきみたちの前でたちどころに滅び、きみたちは好きなように彼らを支配することができるであろう。
罪人たちの患難の日には、きみたちの子らは鷲のように高くのぼり、きみたちのねぐらははげ鷹のそれよりはるかに高く、きみたちは舞いのぼって、暴虐な者たちが来ると兎のように大地の裂け目や岩の割れ目にはいりこみ、森の精はきみたちのためにため息をもらし、また泣くであろう。
君達は、苦しんだとは言え、恐れることはない。癒しは君達のものとなり、明るい光が君達を照らし、天来の安らぎの声を君達は聞くであろう。
災いなるかな、君達罪人は。君達は富の故に義人のように見えるが、君達の心は君達を罪人として告発する。このことが悪の記念として君達に対する非難となるであろう。
災いなるかな、上質の麦を食い、泉の湧出口の力を飲み、下層の者を力で踏みつける君達は。
災いなるかな、年がら年中水を飲んでいる君達は。君達は突然報いを受け、干上がり、干からびるであろう。命の泉を君達が棄てたからである。
災いなるかな、暴虐と欺瞞と涜神を行う君達は。これは君達に災いを齎す記念となろう。
災いなるかな、暴力で義人を圧迫する君達権力家は。君達の滅亡の日がやって来る。その時、君達の裁きの日、義人達には幸いな日が続くであろう」。》


同 「第97章」
《「義人達よ、信ぜよ。罪人どもは恥をかかされ、暴虐の日に滅びるのである。(罪人達よ)君達はしかと知るがよい。至高者は君達の滅亡をおぼえられ、み使い達は君達の滅亡を喜ぶのである。
罪人たちよ、きみたちが義人たちの祈りの声を聞かされるその裁きの日、きみたちはいったいどうしようというのだ、どこへ逃げようというのか。お前らは罪人の仲間だった、という非難を受ける人間どもと同じ運命にきみたちはあうであろう。そのとき、義人たちの祈りは主にとどき、きみたちにはきみたちの裁きの日が到来するであろう。大いなる、聖なるお方の前できみたちの暴虐の記録がすっかり読みあげられ、きみたちは面目を失い、暴虐にもとづくいっさいの行為がしりぞけられるであろう。
災いなるかな、海の最中、乾いた大地の上に(住まい)悪事(しか)彼ら(海や大地)に記憶されていないきみたちは。
災いなるかな、銀と金を正当な手段によらず手に入れておきながら、我々は大いに富んだ、大変な物持ちになった、欲しいものは全部手に入れた、と豪語する君達は。(きみたちはまた言う、)「さて、かねて思い定めていたことをやるとするか。銀はかき集めたし、倉は満ち、家には宝がどっさり、水のようにあふれている」。だが君達は騙されたのだ。富は君達に残りはしない。またたくまに消え去る。全部よからぬ手段で手に入れたもの故。そして、君達は大いなる呪いに引き渡されるであろう。」》
(追加7.22.)

同 「第98章」
《「さて、私は君達賢者と愚者に誓う。君達は多くのことを地上で見るであろう。君達は男でありながら、女達よりも化粧に凝り、うら若い娘も顔負けするような長袖の衣を纏い、豪華、絢爛、権勢、金銀、紫、威厳などに(浸り)馳走を湯水のように浴びている。これが為に、彼らには教えも知恵もなく、その財産と名誉と栄華と共に一緒に滅びることは必定である。彼らの霊魂は、恥と殺戮と赤貧のうちに火の炉に投げこまれるであろう。
罪人たちよ、わたしはきみたちに誓った。山が(ひとりでに)婦人の腰元になったのでないのと同じように、罪も地上に送られてきたものではなく、人間が自分で生み出したものであり、これを犯すものは大いなる呪いを受ける。
女の不妊も生まれつきのものではなく、彼女の手のわざのゆえに、彼女は子なくして死ぬのである。
罪人たちよ、わたしはあなたがたに聖にして大いなる方によって誓った。きみたちの悪行は天上にことごとくさらけ出されてあり、きみたちの不法行為で、おおわれ隠されているものはない。すべての罪が日ごとに天上の至高者の前に記録されているなどとはわかりもしないし見えもしないなどとかってに思いなしたり、心中そうきめこんだりしてはならない。今よりのち、きみたちが犯す不法はいちいち、日ごとに、きみたちの裁きの日まで記録されているのだと心得るがよい。
災いなるかな、君達愚者は。君達は自らの愚かさの故に滅びる。君達は賢者の言う事を聞かない。君達には幸福は巡って来ないであろう。今こそ知るがよい。君達は滅びの日に備えられているのだ。
罪人たちよ、助かる望みはないと思え。お前たちは、大いなる裁きの日とお前たちの霊魂の患難となみなみならぬ困窮の日にそなえられたのであるから、あがないなどということもなく、この世を去り、死におもむくほかないのだ。
災いなるかな、君達心の頑なな者。君達は悪事を行ない、血をくらう。どこからうまいものを(見つけてきて)食らい、飲み、腹をみたそうというのか。至高者なる主が地上に豊かにそなえられたものの中からではないのか。君達に平安はない。
災いなるかな、暴虐の行ないを好む君達は。なにゆえしあわせなどを望むのか。君達は義人たちの手に引き渡され、情容赦もなく首をきられ、殺される運命にあると知るがよい。
災いなるかな、義人達の患難を嬉しがる君達は。君達の墓は掘られないであろう。
災いなるかな、義人達の言葉をないがしろにする君達は。君達には救いの望みはないのだから。
災いなるかな、偽りの言葉と不義の言葉を書き連ねる君達は。彼らは、人が愚かさを聞いて忘れないようにと偽りを書き連ねる。彼らに平安はない。否、突然死ぬであろう。」》


同 「第99章」
《「災いなるかな、不義を行い、偽りの言葉を褒めそやす君達は。君達は滅び、救いも幸福も得られない。
災いなるかな、真理の言葉をまげ、永遠の掟に悖り、自分は無罪だと思い込んでいる君達は。君達は地上で踏みにじられる定めにある。
義人たちよ、そのとき祈りをささげて要求するそなえをせよ。それ(祈り)を証言として天使たちの前に提出し、彼らに罪人たちの罪を至高者の前に提示して訴えてもらうがよい。そのときもろもろの民は動揺し、滅亡の日に民のやからはたちあがるであろう。
その時は、胎児が生まれ出て来るやいなや、人々は我が子なのにこれをひったくって放り投げ、そのお蔭で子は(自らの親の手にかかって)死ぬ。また、がんぜない乳呑児をも放り出したまま省みず、愛する(我が子)に哀れみをかけようともしない。
私は君達罪人に再び誓う。罪は留まることを知らない流血の日に向けて備えられている、と。石を拝む者、金銀、木、石、粘土の像を彫る者、汚れた霊、悪霊、その他各種の偶像を知識によらず拝む者は、これらから何の助けも得られないであろう。彼らは理性の愚かさの故に不敬虔になり、心の恐怖と夢に見た幻の故に目がかすむであろう。この故に彼らは不敬虔になり、恐怖にとりつかれるであろう。彼らの為すことすべて偽りに基づき、石を拝んだ故にたちどころに滅びるであろう。
その時、知恵の言葉を受け入れ、それを悟り、至高者の道を行い、彼の義の道を歩み、不敬虔な者に混じって不敬虔な人間にならない者は幸いである。彼らは救われるであろう。
災いなるかな、悪を隣人にまで広める君達は。君達は黄泉で殺されるであろう。
災いなるかな、罪と偽りの秤をこしらえる君達、また地上(の人々)に苦々しい思いをさせる者たちは。このゆえに彼らは抹殺されるであろう。
災いなるかな、他人の苦労で家を建てる君達は。その建築材はすべて罪の煉瓦と石ではないか。私は君達に言う。君達に平安はない、と。
災いなるかな、割り当てられた先祖代々の遺産を棄てて偶像を一心に追い求める者達は。彼らには心の休まる時がないであろう。
災いなるかな、暴虐を行い、不法を助け、隣人を殺して大いなる裁きの日に辿りつく者は。彼(神)は君達の名誉をこぼち、君達の胸中に苦悩を投じ、怒気を発し、剣をもって君らを全滅させられるであろう。また義人達、聖者達はみんな君達の罪を思い起こすであろう。」》


同 「第100章」
《「その時、或る所で、父が子と共に刺し殺され、兄弟が隣人と共に斃れ、その血が川のように流れるであろう。人は我が子、我が孫をすら平気で殺め、罪人は敬愛する自分の兄弟をすら平気で殺め、明け方から日暮れ時まで殺し合いが続くであろう。馬は胸まで罪人らの血にひたって進み、馬車は屋根まで(血に)没するであろう。
そのとき、み使いたちはひそかな所にくだり、罪を助ける者たちをみな一ヵ所に集めるであろう。
その日、至高者は、すべての罪人に対して大いなる裁きを執行すべく立ちあがられる。
彼は聖なるみ使いたちのなかから守護者を任命してすべての義人たちと聖人たちを瞳のように護らせられる。それはすべての悪、すべての罪がしまつされるときまでである。義人たちは長い眠りを経なくてはならないとしても、恐れることはなにもない。
そのとき賢者たちは見、地の子らはこの書のすべてのことばを悟り、彼らの罪がこぼたれるとき、彼らのもてる富は彼らを救いえないことを知るであろう。
災いなるかな、義人達を激しい難儀の日に苦しめ、彼らを火で焼く時の君達罪人は。君達は自分の行いに応じて報いられるであろう。
災いなるかな、君達心のひねくれた者。君達は悪事を企もうと窺っている。恐怖が君達に臨んでも、助けてくれる者はいない。
災いなるかな、君達罪人は。君達の口のことばのゆえに、また君達の手の不義の行ないのゆえに、君達は燃えさかる火の炎で焼かれるであろう。
いまや知るがよい。み使いたちは天上で太陽から、月から、また星から、きみたちの行状を、きみたちの罪について調べあげるであろう。きみたちは地上で義人たちに対して裁きを行なっているそうではないか。
彼はすべての雲、霧、露、雨を喚問してきみたちに対して証言を求められるであろう。なぜなら、これらすべてのものはさしとめられて、きみたちの上におりてこないであろう。
彼らがきみたちの罪を心にとめないとでも(思うのか)。さあ、雨に贈り物でもして、きみたちの上に降るのをやめないようにしてもらうがよい。きみたちから金銀を受け取った露はどうだ。ひんやりする霜と雪、さまざまな災難をもたらす吹雪がきみたちの上に臨むとき、そのときはきみたちはこれにとうてい耐えられないであろう」。》
(追加7.23.)

同 「第102章」
《彼がきみたちに火の苦しみをなげつけられるそのとき、きみたちはどこへのがれようというのか。どこに助けを求めようというのか。彼がきみたちにその(怒りの)ことばを投げつけられるとき、きみたちは恐れ、ふるえないだろうか。
すべての光は大いなる恐怖のゆえに揺らぎ、全地はぐらぐらと震動して大混乱におちいる。すべてのみ使いたちは命ぜられたことをなしとげ、栄光において大いなるお方から身を隠そうとするであろう。
地の子らは震えおののき、きみたち罪人は永久に呪われており、きみたちに平安はない。
きみたち義人の魂よ、恐れるな。義のうちに死ぬその日を望むがよい。
きみたちの魂が悲しみのうちに黄泉にくだったとて嘆くことはない。きみたちの肉体はこの世ではきみたちの善良さにふさわしい(報い)を受けなかった。それどころかきみたちが(この地上に)あった日々は、罪人たちとこの地上で呪われたものたちの日々であった。
きみたちが死ぬとき、罪人たちはきみたちについて言うだろう。「義人だっておれたちと同じように結局死んだじゃないか。彼らの(善き)行為の報いは何だったろうか。見ろ、やつらだっておれたちと同様、悲嘆と暗黒のうちに死んだではないか。むこうのほうがおれたちより何か得したとでも言うのか。これで勝ち負けなしだ。何を彼らは得、何を永遠に見るというのか。見ろ、彼らだって死んだ以上、これからけっして光を見ることはないのだ」と。
罪人たちよ、わたしはきみたちに言おう。飲み食いし、人の衣類をはぎとり、略奪し、罪を犯し、財産をつみ、人生を楽しむのもいいかげんにしたらどうだ。
きみたちは義人たちの最期がどうだったか、あの安らかさを見たか。死のその日まで彼らには不法のこれっぽちも見あたらなかった。(だがきみたちは言うだろう、)「しかし彼らは滅び、まるで(この世にはじめから)いなかった人間のようになり果て、彼らの魂は苦しみのうちに黄泉に下っていった」。》
(追加7.24.)

同 「第103章」
《さて、義人たちよ、わたしはその栄光と威光において大いなるかたによってきみたちに誓う。また、彼の支配の威光と彼の偉大さによってきみたちに誓う。わたしはこの奥義を知っている。わたしは天の書板を読み、聖者たちの書を見、そのなかに彼らについて書きしるしてあるのを見いだした。
ありとあらゆるしあわせと喜びと栄誉が彼らのためにそなえられており、義のうちに死んだ者たちの霊魂のために書きしるしてあり、きみたちには苦労の報いとしてしあわせが豊かに授けられるであろう。
きみたちのわけ前は生ける者たちの分け前よりも多い。義のうちに死んだきみたちの霊魂は救われて喜ぶ。
彼らの霊魂は滅びず、彼らは大いなるおかたの前に世々代々にわたっておぼえめでたい。
よって彼らの中傷を恐れるな。
災いなるかな、君達罪人は。君達が罪のうちに死ぬとき、きみたちの同類は君達のことを言うであろう。「さいわいなるかな罪人たち。彼らは天寿をまっとうした。いま彼らは幸福と富のうちに死に、存命中悲惨や殺戮を(わが身に)経験しなかった。また栄誉のうちに死に、存命中罰をこうむることもなかった」。
だが知るがよい。彼らの魂は黄泉にひきおろされ、たいへんみじめな悲惨なめにあうであろう。
きみの霊は暗闇と網と燃えさかる炎の裁きの中にはいり、大いなる裁きは永久に世々につづくであろう。
わざわいなるかな、きみたちは。きみたちに平安はない。
また存命中の義人たちと善人たちに向かって言うな、「難儀のときにはわれわれはさんざん苦労し、ありとあらゆる難儀を経、いくたびかつらいめにあい、精魂つきはて、数は減り、気力も衰えた。われわれは滅びた。ことばと行ないをもってわれわれを助けてくれるものはなかった。もうどうにもならなかった。なに(の方策)も見つからず、意気消沈し、これでおしまいだという気がし、(いつかまた)救われるなどという望みをもったことは一日だになかった。頭になるつもりだったのにしっぽになってしまい、難儀して働いたのに苦労の目的は達せられず、罪人の食いものにされ、乱暴者はわれわれのくびきを重くした。われわれを憎み、いじめる者にいばりちらされ、われわれを憎む者に頭をさげたが、彼らは情をかけてはくれなかった。
彼ら(の手)から逃げ出してほっとしたいと思ってはみたものの、彼ら(の手)を脱して逃げて行く先が見つからなかった。悲惨のなかから、われわれを食いものにしている者たちについて官憲に訴え、声を大にして叫んでみたが、彼らはわれわれの叫び声(による訴え)は無視し、われわれの声を聞いてくれる気配もなかった。
(かえって)彼らはわれわれ(のもの)をかすめ、われわれを食いものにし、われわれの数を減らした者たちを助け、彼らの不法をかばい、われわれにかけられたくびきをはずしてはくれず、われわれを食いものにし、ちりぢりに散らし、われわれを殺しておいてそのことをかくし、彼らがわれわれに手をふりあげたことを思ってもみてくれなかった」。》
(追加7.25.)

同 「第104章」
《「義人達よ、私はあなたがたに誓う。天上ではみ使いたちが大いなる方の栄光の前で君達のことを覚えていてくれ、君達の名は大いなる方の栄光の前に書き留められている。希望をもつがよい。かつては不幸や難儀で恥ずかしい思いをしたであろうが、これからは、君達は空の光のように輝き、姿を現わし、天の門は君達の為に開くであろう。君達の叫びは裁きを求める叫びとして続けよ。それはきっと実現する。
あの官憲ども及び君達を掠める者に手を貸したすべての者は、君達に難儀をかけた報いを受けるであろう。
希望をもて。希望をすてるな。君達はみ使い達のような大きな喜びに浸るであろう。君達は何を為すべきか。大いなる裁きの日には逃げ隠れする必要はない。また罪人扱いされることもないであろう。永久の裁きは永遠に渡って君達とは関わりがない。
さて、義人達よ、罪人達が威勢がよく、自分の好きなようにうまくやっているのを見ても恐れるのではない。彼らに組することなく、むしろ彼らの不法からは遠ざかれ。君達は天の軍勢にこそ組すべきなのである。
君達罪人は言うであろう、取り調べなど受けるものか、我々の罪がいちいち記録されたりしてたまるか、と。(しかし、事実)君達の罪は全部毎日記録されているのである。
今私は、光と闇、昼と夜が君達のすべての罪を目撃していることを君達に示そう。心の中で不義を犯すな、嘘をつくな、真理の言葉を変えるな、聖にして大いなるお方の言葉を虚偽だなどと言うな、君達の偶像を有り難がることをやめよ。君達の偽り、君達の不義は義に至るものでなく、大いなる罪に(至るものである)。
さて、私はこの奥義を知っている。多くの罪人達が真理の言葉を変えて道を踏み外し、善からぬことを口にし、嘘をつき、とんでもないことをでっち上げ、自分の教説について書を著すであろう。
しかし、彼らが私の言葉を彼らの言葉で全部正確に書き取り、私の言ったことを変えも削りもせず、私が先に彼らについて述べたことを全部正確に書き取った時には、私は別な奥義を知っている。即ち、義人達と賢者達には、書が与えられて、喜びと真理と豊かな知恵の基となろう。彼らに書が与えられ、彼らはそれを信じて、それを喜び、それによって真理の道を知るに至ったすべての義人は報いを得るであろう」。》


この104章は、エノクの名を借りた霊魂の主、ヤーウェ様による直々の伝言でありましょう。
印刷技術の無い時代では、書を正確に書き写して後世へ伝えることが携わる者の重要な仕事の一つでもありました。それでも誤写されたり改竄されたりした為に、そういうことが無いようヤーウェ様直々に釘を差したものと見られるのであります。
啓示の最初の書記者は、ヤーウェ様の啓示を受けて筆記した後、エノク書の中に加えたのです。そうした形で、この章に限らず、ヤーウェ神の伝言がいたるところの章に見られるのであります。
ここに幾つかの章を挙げてみましたが、その内容はいずれも厳しい内容で貫かれており、神の霊の語る言葉とは厳しいものであり、それは人類愛に裏打ちされているものであることから発せられるに他ならず、私達人間社会はそのことをなかなか理解しないのであります。章の中で、滅びるだろう、死ぬだろう、といった言葉が出て来るのは、世の終りが前提となっている為でしょう。(5.22.)

同 「第108章」
《エノクが、メトセラと、彼のあとにつづき終わりのときに掟を守る者たちのために著した別な書。
(この掟を)行ない、悪をなす者どもが消され、咎を犯す者たちの力が滅ぼされるときを待ち望むきみたちよ。罪が過ぎ去るまで待つがよい。
彼らの名はいずれ聖者たちの書からけずられ、彼らの子孫は永久に滅び、その霊魂は殺され[消滅され]、人里はなれた荒野で泣きわめき、この地上ならぬ火に焼かれるであろう。
わたしは、はっきりとではないが、雲らしきものをそこに見た。ただ、奥行きがあってよく見きわめられなかった。わたしはあかあかと燃えさかる火の炎を見た。それはきらきら光る山のようにぐるぐる回転し、また前後にゆらめいていた。
わたしは同行の聖なるみ使いのひとりに尋ねた。「この光り輝くものはなんですか。天ではなくて、燃えさかる火の炎にすぎないではありませんか。それと叫び声、泣き声、嘆きとはげしい苦悩の声」。
彼はわたしに言った。「あなたがごらんになっておられるこの場所に、罪人たち、冒涜者たち、および悪を行ない、来たるべき事柄について主が預言者たちの口を通して語られたことをまげる者たちの霊魂が投げ込まれるのです。
そのなかのあるものは天上に書きしるしてあり、み使いたちがそれを読んで、罪人たちと謙遜な者たち、自分の肉体をいためつけて神から報いを受け、悪人たちにはずかしめられた人たちの霊魂にどういうことが起こるかを知ることができるようになっています。
彼ら(後者)は神を愛して、金銀あるいはこの世のどんな良きものをも愛さず、自分の身体を拷問にゆだね、この世に生まれて以来、地上の食い物を慕い求めず、むしろおのれを過ぎ去る風と見なし、このよう(な生き方)に徹し、主は彼らをさまざまな試みにあわせられたが、彼らの霊魂の潔さは証明され、彼らが彼らの現世でのいのちよりも天を愛する者であることがわかったので、彼らに賞を授けられた」。
「悪人どもから足げにされ、悪口、冒涜のことばを聞かされ、はずかしめられながらも、彼らはわたし[ヤーウェ神を指す]をほめたたえた。
いまわたしは光の世代のなかから善人たちの霊魂をよび、暗闇のなかに生まれた者、肉の姿にあったときその信仰にふさわしい栄誉を受けなかった者たちを変えよう(光の中へ移そう)。
わたしの聖なる名を愛する者たちをわたしは輝く光の中へ導き出し、ひとりひとりをその栄誉の座にすわらせよう。彼らは、いついつまでも燦然と輝くであろう。
神のさばきは義であり、彼[聖ミカエルを指す]は正しい道の住まうところでは、真実な者には教えを賜わる。
彼らは、義人たちが燦然と輝く一方で、闇の中に生まれた者たちが闇の中に投げこまれるのを見るであろう。
罪人たちはわめきたて、彼らが輝くさまを見るであろう。そして、彼らの(処罰の)日と時とが書きしるされている場所へ立ち去るのである」。》
(追加7.26.)

スラブ語エノク書
第二エノク書ともされるスラブ語訳(二種類あるといわれている)エノク書は23章から成り、スラブ語に翻訳される以前の原本は、今日失われています。成立は紀元一世紀頃と考えられています。
11世紀ころ、ギリシャ語から翻訳されたと推定されていますが、エチオピア語のエノク書ともども、ギリシャ語写本は残されていないのであります。当時、エノク書は、既に、ローマ教会によって典外書とされていたわけですが、その価値を認める人達もあって、キリスト教がスラブ地方へ布教されるに及び、スラブ語に翻訳され残されたのであります。
この第二エノク書も、やはりヤーウェ様によると思われる啓示が込められており、エノクに関してのテーマも大体同様であります。エノクに纏わる物語に、訓戒が述べられ、未来に関する予言が挿まれる。神の霊と人との関わりについて、新たに教えられるところもあります。ここに出て来るヤーウェ神は、やはり、霊魂の主と大自然とが引っ懸けられたもので、宇宙創造や自然事象と一体化された神となっています。

スラブ語エノク書「第1章」
《その時、とエノクは語った、即ち私が365年を経た時、第1月に、第1月のある定められた日のこと、私は一人家に居た。泣きながら、我が目を悲しませながら。私が寝台でまどろみつつ休んでいた時、地上で一度として見たこともない非常に大きな二人の男が私に現れた。二人の顔は輝く太陽、両眼は燃える灯明のようで、口からは火が迸り、衣服からは泡が広がり、両手は黄金の翼のようで、私の枕もとに立っていた。そして私の名を呼んだ。私は眠りから起きたが、実際に二人の男が私の近くに立っていた。私は急いで立ち上がり、二人にお辞宜をした。私の顔は恐怖から凍りついた。二人は私に言った。「エノクよ、しっかりしなさい。恐れることはない。永遠なる主が我々二人を汝の許に遣わされたのである。今日汝は我々と共に天に昇るのだ。汝の息子達と家の者達に、地上で彼らが為すべきことすべてを命じておきなさい。そして汝の家では、主が汝をお戻しになるまで、誰も汝を捜したりしないようにさせなさい」。私は彼らの言う事を聞くと出て行った。そして息子のメトセラとリギムを呼び、二人の男が言った事すべてを語って聞かせた。》

この章に、非常に大きな二人の男とあるように、ギリシャ神話にしても、ケルト神話にしても、神々の霊が、仮名の神名で物語に登場している場合、大概、巨人族であることが多いのです。

同 「第2章」
《「さて我が二人の息子よ、私は、私が何処へ行くのか、何が私を待ちうけているのか知らない。今や我が子よ、神から遠ざかってはならず、主の顔前を歩み、主の定めを守りなさい。お前達の救いの犠牲を切り詰めてはならない。そうすれば主もお前達の手の仕事を切り詰めたりされないであろう。主からの贈り物を奪ってはならない。そうすれば主もお前達の倉で獲得物を奪ったりされないであろう。羊の初子とお前達の牛をもって主を称えなさい。そうすればお前達は永遠に主に祝福される者となるであろう。主から遠ざからず、天も地も創造しなかった空虚の神々を拝んではならない。主がお前達の心を主への畏れの中に強められんことを。今や我が子よ、主が私をお前達の許にお戻しになるまでは、誰も私を捜したりしないように」。》

ここでのヤーウェ神は、霊魂の主と天地創造の大宇宙とが一体化された主とされていることが判りましょう。実在の神とは、霊魂の主であるヤーウェ神と、そして行動を共にされる神々である、従って、それ以外の実体の無い神々を拝んでも意味が無いということを言っているのであります。
そして、神への犠牲とは、本来、自己犠牲のことです。神に供え物を捧げるというのは、その自己犠牲を学び、得る為の初歩的な段階のものです。ですから、自己犠牲の心を学んだら、神に物を捧げることは必要ないのです。霊魂の主や神々は、物を食物として生きておられるのではないからです。
また、神を称えるということは、自分の意志を神に対して、明確に表明するということでもあります。ですから、神の誡め、定めも守らず、不法の道を歩みながら、主よ、主よ、と称えても、神々の側からすると、それは欺瞞の輩としか、受け取られないのであります。
この定めの中には、霊魂の主と天地創造が一体化された「主」を、「主」と呼ぶということも含まれるでありましょう。これは神々の間で定められたことでもありますから、神々もまたそれを守られたのであります。ですから、創造主や、創造神なるものは本来、存在しないということが改めていえます。そして、科学の発達した現代において、霊魂の神を、創造神、創造主と呼ぶのは現実的でありません。神とは本来、人間の霊魂の中でも、とりわけ高度に進化した霊魂を言うのであって、現代の私達は大自然は大自然、大宇宙は大宇宙として認識するのが適切なのであります。

同 「第3章」から抜粋
《私が息子達に語っていた時、かの男達が私を呼び、翼に私を乗せた。そして私を第一天に運び上げ、そこに降ろした。-略―次にそこで見せてくれたのは、地上の海より遥かに大きな海で、そこを天使達が翼で飛んでいた。-略―》

同 「第5章」から抜粋
《次にかの男達は私をそこから連れて、第三天に昇らせ、天国の中央に降ろした。その場所は景色の美しさからしてはかり知れないものであった。-略―木はどれも良い実を結ぶもので、実を結ばない木はそこにはなく、そこはすべて祝福された場所であった。そして、天国を守る天使達は常に輝かしく、間断なき声と甘美な歌で日々神に仕えていた。私は言った。「これは何と際立って良き場所であろうか」。
かの男達が私に答えた。「エノクよ、この場所は正しい人の為に設けられている。正しい人とは、生きているうちは苦悩に苦しみ、自分の魂を悩ませ、不正からは目をそらし、正しい判断を為し、飢える人にパンを与え、裸の人を衣服でおおい、また倒れた人を起こし、不正を蒙った人々を助ける人、さらに主の顔前を歩み、主のみに仕える人のことである。そのような人にこの場所は永遠に継がれるものとして設けられているのである」。男達はそこから私を連れて、天の北方に昇らせ、そこで実に恐ろしい場所を見せた。-略―私は言った。「これは何と際立って恐ろしい場所であろうか」。
かの男達が答えた。「エノクよ、この場所は地上で不敬のことを行った不信心者の為に設けられている。それは、魔法や呪術を行ったり、自分達の業を自慢したり、人の魂をこっそり盗んだり、結び付けられたくびきを解いたり、他人の財産で不正に富を得たり、飢えた人を満腹させることが出来るのに飢えで滅ぼしたり、裸の人に衣服を着せることが出来るのにそれを奪ったり、また自分の創造主(宇宙と一体化された霊魂の主)を認めず、虚無の神々を拝し、偶像を作り、手で作ったものを拝んでいる者のことである。こうした人すべてにこの場所は永遠に継がれるものとして設けられているのである」。》


主のみに仕える人とは、実際に存在し実在する神のみを求める人という意味であります。その主とは言うまでもなく、大自然の事ではなく、霊魂の主ヤーウェ神のことです。
結び付けられたくびきを解くとは、ヤーウェ神との強い繋がりを解除してしまうことです。
偶像崇拝とは、実在の神を無視しようとする意思表示の明確な表明を意味することになり、ヤーウェ神や他の神々に対する徹底した侮辱に該当するのであります。

同 「第8章」から抜粋
《次にかの男達は私をそこから連れて第六天に昇らせた。そこで私は集まっている七人の天使を見た。輝かしく、いと誉れ高く、その顔は太陽の光線のように輝いていた。-略―》

同 「第9章」から抜粋
《―略―そこで主は栄光の天使の一人ガブリエルを私に遣わし、ガブリエルは私に言った。「エノクよ、しっかりしなさい。恐れることはない。立って私と共に来なさい。主の顔前に永遠に立つのです」。私は彼に答えて言った。「ああ何たることでしょう。私の魂は恐怖のあまり私の身から離れてしまった。私をこの場所まで連れて来た男達を呼んで下さい。何故なら、私はあの二人を頼っていましたから。私はあの二人と主の顔前にまいります」。するとガブリエルは、あたかも風が木の葉を持ち上げるように、私を持ち上げ、連れて行き、主の顔前に置いた。-略―そこで主は御口自ら私を呼んだ。「エノクよ、しっかりしなさい。恐れることはない。起き上がり、私の顔前に永遠に立ちなさい」。すると主の偉大な大天使ミカエルが私を立たせ、主の顔前に導いた。主はご自分の僕達を試みて言われた。「エノクが永遠に私の顔前に立つために進むように」。すると栄光の天使達はお辞儀をして言った。「彼が進みますように」。主はミカエルに言われた。「エノクを連れて、地上の衣服を脱がせ、よき香油を塗り、栄光の衣服を着せなさい」。するとミカエルは私の衣服を脱がせ、私によき油を塗った。-略―》

この章は、神が選んだ者に対する執成しの順序について言っているのであります。まず最初に、大天使ガブリエルが、ヤーウェ神が選んだ者に啓示を与え、ヤーウェ神との間を執成し、ヤーウェ神がその者に現れる、そして大天使長ミカエルが紹介される、という手順で進められるのであります。
これは、モハメットや、ゾロアスターの場合もそうでありました。モハメットは大天使ジーブリイール(ガブリエル様)の啓示から始まり、ゾロアスターはヴォフマナフ(ガブリエル様)の執成しから始まったのです。
古代エジプトでは、その手順については、ケプリ(ガブリエル様)朝日、ラア(ヤーウェ様)昼天の太陽、アトゥム(ミカエル様)夕日、として表現されています。

同 「第10章」
《主は大天使の一人ウリエルを呼んだ。彼は主のあらゆる事績を記録するのに優れていた。主はウリエルに言われた。「倉から本を取って来て、エノクに葦ペンを渡し、彼に本を語りなさい」。するとウリエルは急いで行き、ミルラ樹の模様のある本を私に持って来て、手ずから私に葦ペンを渡した。そして私に語り出した。それは天と地と海のすべてのこと、あらゆる元素の運行と生成、年の移り変わりと日の運行と変化、命令と教えと甘美な歌声、雲の出現と風のおさまり、武装した軍勢の歌の言葉すべて等である。そして学ぶに適することすべてをウリエルは私に30日と30夜の間語り、彼の口は話すのを止めなかった。私も30日と30夜休むことなく、すべての記号を書いた。私が終えるとウリエルは私に言った。「座りなさい。私が語ったことを書き写しなさい」。そこで私は30日と30夜の倍の間座って正確に書き写し、360冊の本を書き上げた。》

訳文では、ウリエルはヴレヴェイルとなっておりますが、この章の元々はエノク伝承に習ったものですから、エノクに筆記を促す大天使ウリエルが正しいのであります。他言語の翻訳を重ねた結果、ヴレヴェイルとなったと見られます。(5.27.)

同 「第11章」から抜粋
《主は私をお呼びになり、ご自身の左、ガブリエルより近くに置かれた。―略―「今やエノクよ、私がお前に語ったことすべて、お前が天で見たことと地で見たことすべて、及びお前が本の中に書いたことすべては、私が叡智によってそのすべてを造り出そうと工夫したことである」。-略―「エノクよ、自分の心をそらさず、お前に語っている者(神の霊)を認識しなさい」。-略―》

この章では、主に、天地創造と一体化されたヤーウェ神が、この宇宙が創造されていく様を、天使の軍勢の創造と引っ懸けて語っていくのであります。そして、その一体化は、霊魂の主を畏れることはそのまま、大宇宙、大自然を畏れることに繋がる。ヤーウェ神を畏怖すると同時に宇宙や自然をも畏怖し、ヤーウェ神への畏敬は宇宙や自然への畏敬に繋げる。科学が発達していない時代における、言わば、宇宙や自然に対して深い関心を持ちなさいということの勧めなのであります。
章中にある「工夫したことである」とは、天地を創造するのに工夫したという意味と、神々の霊と自然事象とを引っ懸ける工夫をしたと、両方の意味に受け取れるのであります。

《「そしてお前の手で書いた本を息子達に与えなさい。すると彼らはそれを読んで、すべてのものの創造主を認識するであろう。そして彼らも私(天地創造と一体化されたヤーウェ神、さらには霊魂の主)以外に他のものが居ないことを悟るであろう。彼らはお前の手で書いた本を子孫に、また子孫はその子孫に、親から親へ、世代から世代へと伝えるであろう。エノクよ、私はお前に仲介者として私の天軍の長ミカエルを与えるだろう。何故ならば、お前の書き物と汝の父祖アダムとセツの書き物は最後の世まで破壊されないであろうから。私は地上において地上を守り、時在るものに命令するように私が置いた天使のアリエルマリエルに命じて、お前の父祖の書き物を保存し、私がお前の種族に齎す次の洪水においても滅びないようにさせよう。」》

これもまた、ノアの洪水という過去の話を基にした未来への予言であります。そして、エノクの子孫達へ向けて、ミカエル様という進化の高い霊が備えられる。真理の書物も天使達によって保存されるべく守られる、ということであります。
「時在るもの」とは、時間のある空間を意味することになりましょう。時間ある空間とはエネルギーのある空間、動きのある空間であり、霊魂を差します。つまり、アリエル、マリエルという天使は霊魂であることを示唆しているのであります。天使という霊体を、時間のある空間という宇宙的事象に引っ懸けて述べたものです。
二人の天使は、訳文では、アリオフ、マリオフとなっていますが、スラブ語への翻訳の過程でこうなったと考えられます。天使にはエルが付くので、アリエル、マリエルが正しいのです。そして、エルとは神の意味ですから、天使とはもともと神の霊であるのです。

《「私(天地創造と一体化されたヤーウェ)は人間の邪まさを知っている。彼らはくびきを負うことに耐えられず、私が与えた種を蒔かず、私のくびきを捨てて他のくびきを取り、実らぬ種を蒔き、空虚な神を礼拝し、私の権威を退けるであろう。そして地上全体は不正と不義と姦通と偶像崇拝に襲われるであろう。その時私は地上に洪水を齎し、大地そのものは大きな泥沼に沈むであろう。私はお前の部族から一人の義人を全家族共々残すであろう。その人は私の意思に従って振る舞い、その種から次に別の種族が起きるであろう。それは数多く、非常に大きな種族である。その時、その種族の中からお前とお前の父祖の手になる本が現れ、地の守り手達がそれを信の人々に示すが故に、その本はその種族に解き明かされ、最初の時以上に後の世において称えられるであろう。今やエノクよ、私は、お前がお前の家で過ごし、息子達と家人達に私の名において語る為に30日の猶予を与えよう。そして魂を保っている者誰もが、私以外存在しないということを読んで理解するように。-略―」主はこうしたことすべてをあたかも人が隣人に語るように私に語られた。》

過去の話を借りた未来の予言ではあっても、過去と同様の部分が語られるのは、人間社会も過去にあった同じ過ちを繰り返す。神の霊の側も地球規模の災害となり、人類存亡の瀬戸際となった時には、義人を選んで生き残らせる。そして、その子孫達から新たな人類社会が形成されていく、神と人類の関わりには、それがしばしば繰り返されるのであります。

同 「第13章」から抜粋
《我が子よ、今や父の声を聞きなさい。-略―さて我が子よ、今日汝らに語るのは私の口からではなく、私を汝らに遣わされた主(霊魂の主)の御口からである。汝らは私の言葉を、汝らに等しく造られた人間である私の口から聞くのであり、一方、私は主の火(霊魂)の御口から伺ったのである。というのは、主の御口は火の竈(エネルギー溢れる霊体)であり、主の御言葉はそこから出る火の炎(高い進化を遂げた霊体のエネルギー)であるから。―略―我が子よ、汝らは汝らに似て造られた人間である私の合図する右手を見るのであるが、一方、私は私に合図して天をも満たす主の御右手を拝したのである。汝らは汝らの体に似た私の体の広がりを見るのであるが、一方、私は際限なく比類なく終りのない主(終りなきことを意味する「フフ」と同一神)の広がりを拝したのである。汝らは私の口からの言葉を聞くのであるが、一方、私は絶え間ない嵐の雲の中の大きな雷のような主の御言葉を伺ったのである。―略―》

神の霊魂をここでは火と表現し、その心や霊によるエネルギーの伴う神からの言葉を炎と表現しているのであります。神の霊体とは霊によるエネルギーの豊富な竈に例えられていて、神の霊を巧みに表現しています。
そして、その声は時として、人間の魂全体を揺るがせるような雷のような音声なのです。この声は、特殊な霊能がなければ聴くことが出来ないのかというとそうではなく、神の霊の側にその意志があれば、誰でもが聴くことが出来るものです。
この章には、「右手」が二度程出てきますが、別の項で述べたように、この右手は双腕の右手、即ち、双子の神の兄の方の神を意味しているのであります。ヤーウェ神とは、オーディン神やトゥール神と同神なのであります。この主の右手は、旧約聖書の「詩篇」の中にも出てきますが、いずれも右手ばかりで、左手が出てこないのです。これは、オーディン神同様、双子の神の弟のダビデを、サタンとして失ったことを表現しているのであります。
そして、この13章の書記者は、ダビデではなくヤーウェ神から啓示を受けたことを、御右手を拝したとして、そのことを表明しているのであります。
英語のrightには、「右」と「正しい」の両方の意味があるのは、この双子の神に由来するものでしょう。

《そこから私は義人達の天国に昇った。-略―その時私が口に出した事を、我が子よ、汝らに言おう。「幸いなのは主(ヤーウェ)の名を畏れる者。-略―幸いなのは正しい裁きを為し、裸の人に衣服を着せ、飢えた人にパンを与える者。幸いなのは孤児と寡婦女に正しい裁きを行い、不正を蒙ったあらゆる人を助ける者。幸いなのは変化の道から身を逸らし、正しい道を行く者。幸いなのは正義の種を蒔く者、その人は七倍に刈り入れるであろうから。幸いなのは隣人に真理を語れるように真理を持つ者。幸いなのは唇に慈悲と柔和さを持つ者。幸いなのは主(ヤーウェ)の御業を理解し、それを誉め称え、御業から造り主(大自然と一体化されたヤーウェ神)を知るであろう者」。》

ここの部分は書記者を通しての、ヤーウェ様直々の霊示文であります。人間の側の立場に立って仰っておられるのです。

《-略―「それから主が私に命じられたように、あらゆるますとあらゆる正義の秤を計って試し、それらの中に差異を見出した。或る年は他の年より貴重であり、また或る日は他の日より、或る時間は他の時間より貴重である。そのように或る人は他の人より貴重である。それは大きな富の故であったり、または心の賢さの故であったり、または知恵と弁舌の巧みさと沈黙の故である。だが主を畏れる者より大いなる者はない。主を畏れる者は永遠に栄誉があるであろうから」。》

神を畏れ、そのくびきを解かないことが最も重要視されているのであります。

《「主(大宇宙大自然と一体化された主)は御手自ら人間を造られた。しかもそのお顔に似せて、小さき者も大きな者も造られた」。》

人間を造った主とは、この場合、大宇宙や大自然を指しています。当然、それ以外ではありません。そして、「そのお顔に似せて」とは、霊魂の主ヤーウェ神を表しており、霊魂の主が、肉体を持つ人間であった時の顔に似せて、という意味なのです。この霊魂の主と天地創造、または大自然との一体化という工夫は、古代の民を教導するうえで大変うまく出来ているわけです。その主とは、両方の意味を合わせ持っているからです。

《「人間の顔を侮辱する者は主のお顔を侮辱することになり、人間の顔を嫌悪する者は主のお顔を嫌悪することになり、人間の顔を軽蔑する者は主のお顔を軽蔑することになる。人間の顔につばする者には怒りと大きな裁きがある。幸いなのは、裁かれる者を助ける為に、傷付いた者を支える為に、困った者に与える為に、どんな人にも自分の心を向ける者。何故なら、大いなる裁きの日に人間の業すべては書き物によって新たにされるであろうから」。》

この20世紀日本に神々が最後の審判を行うべく霊媒を通して名乗り上げられた際、多くの事柄が明らかにされ、書物として出版されました。
人間の原罪なるものはもともと存在しないこと。
生物学的な意味で生まれ変わりということはなく、生まれ変わりといわれるものは他の霊魂が人間に合体すること。
カルマ(業)といった考え方、捉え方は最早現代には相応しくなく、私達の生活に取り入れるべきではない、等です。それぞれの民族にはそれぞれのカルマがあるとは言っておられましたが、それは言わばその民族の性向、くせのようなもので、そういうものはそれぞれが克服していかねばならないものとしておりました。
人間の業(わざ)すべては書き物によって新たにされる、とする予言は、この通り実現されたことになります。


《「幸いなのは正義の桝と正義の錘と正義の秤を持つ者。何故なら、大いなる裁きの日にはあらゆる桝と錘と秤が市場におけるように前の並べられ、各人は自分のますを知り、それによって自分の報酬を得るであろうから」。》


自分の中に、正義を入れておく桝と、正義から動じない錘、正義かそうでないかを量る秤を、多く備えた者が神からの報酬を得る。
神からの報酬とは、神の霊の力によるさらに重い錘と、神の霊の意識を通した秤、即ち、正邪善悪の判断力であり、各自が持つ桝によって受ける分は異なったのであります。
私達が神々の霊から与えられたものは、真理と全体から個を見る総合的な判断力であり、回り道をしなくても良い知識、真に建設的な方向へ向かわしめる力です。神々が私達にその知識を与え、最短距離を取らせようとするのは、神々の側も人類の進歩を急いでいるからに他なりません。
大事なのは、私達は近い将来起こるであろう人類社会を一変させる事態について、しかと認識しなければならないということです。そして、その事態に備えることなのです。

《「今や我が子よ、汝らの心の内に理性を置きなさい。そして、汝らの父の言葉、即ち、私が主の御口から汝らに伝えるすべての事に耳を傾けなさい。-略―この本を分かち与えなさい。汝らの子に、また子はその子に、汝らのすべての親族に、汝らのすべての世代に、また思慮があって主を畏れる者に。そうすれば彼らはこの本を受け取り、それはあらゆる良き食物よりも彼らを喜ばせるであろう。そしてそれを読み、そのとりことなるであろう。他方、思慮がなく、主を知らない者はそれを受け入れず、退けるであろう。この本のくびきが重しとなるであろうから。幸いなのはそのくびきを担い、それを自分のものとする者。何故なら大いなる裁きの日に、そのくびきを見出すであろうから」。》

私は幸運にも、そのくびきを見出すことの出来た一人であり、そのくびきは解かれることなく今日まで来ています。

《「我が子よ、私(エノクの名を借りたヤーウェ神)は誓って言うが、人間が存在する以前にすら、その人に裁きの場が用意されており、そこではその人を試す桝と錘があらかじめ用意されているのである。また、私はあらゆる人間の業を書き物に留めるであろう。しかも誰もそれを逃れることは出来ない。だから、今や我が子よ、忍耐と柔和のうちに汝らの日々の数を過ごしなさい。汝らが来たるべき終りなき世を受け継ぐ為に。そしてもし主の故にあらゆる病気と傷と暑熱と悪口が降り掛かったなら、それに耐えなさい。またそれを返報出来る時でも隣人に返してはならない。何故なら、返報するのは主であって、大いなる裁きの日に主(主に大自然)が汝らにとって復讐者となるであろうから。兄弟の為に金と銀を失いなさい。汝らが裁きの日に肉の宝を受け取るためである。また孤児と寡婦女に汝らの手を差し伸べなさい。また力に応じて貧しい人を助けなさい。そうした人々が試練の時に防壁となるであろう。もし重く、苦しみとなるあらゆるくびきが主の故に汝らに現れたら、それを外しなさい。そうすれば裁きの日に汝らの報酬を見出すであろう」。》

兄弟の為に金銀を失えというのは、兄弟隣人の為に自分の財産を惜しみなく注ぎなさい、ということであります。そうする事によって、あなたは肉の宝を受け取ることが出来るだろう。肉の宝とは、肉体の命のことです。即ち、裁きの日における最終の裁きとなるであろう世の終りである地球規模の災害に際して、自分の命を救えと、ヤーウェ様は仰っておられるわけです。その為には自分の財産を出し惜しみするなと。何故なら、世の終りの後には、個人のそれらはすべて無に帰すからです。

《「幸いなのは賞賛に自分の心を開き、主(神の霊)を賞賛する者。呪いあるのは隣人への侮辱と中傷に自分の心を開く者。
幸いなのは主を祝福し、称えつつ自分の心を開く者。呪いあるのは主の顔前で呪詛と誹謗に自分の口を開く者。
幸いなのは主のすべての御業を称える者。呪いあるのは主の被造物を誹謗する者。
幸いなのは自分の手の労働を高める為にそれを眺める者。呪いあるのは他人の労働を損なう為にそれを眺める者。
幸いなのはいにしえの父祖の基盤を守る者。呪いあるのは自分の父祖の掟と境界を犯す者。
祝福あるのは平和を語り、そして平和を持つ者。呪いあるのは平和を語りながら、心の中に平和のない者。
こうしたすべては大いなる裁きの日に、桝の中と本の中で証明されるのである。だから、今や我が子よ、あらゆる不正から汝らの心を守りなさい」。―略―「汝らに与えた本(エノク書を指す)は隠してはならない。望む者すべてに語りなさい。彼らが主の御業を知るように」。》

同 「第15章」から抜粋
《「子らよ、聞きなさい。汝らの父祖アダムの時に、主(天地創造と一体化された霊魂の主)はご自身がお造りになった大地とあらゆる被造物を訪れるために(地球外人類として)地上にお降りになった」。―略―》

アダムの頃の話となりますと、天地創造と一体化されたヤーウェ神は、地球外人類とするのが妥当です。日本では、地球外からやって来られたことは、神々の霊によって、きちっと証言されました。

《「獣(動物)にこっそりと悪を為す者は不法があり、自分自身の魂について不法を犯すのである。
人間の魂に悪を為す者は自分自身の魂に悪を為すのであり、その者には永遠に癒しがない。
殺人を犯す者は自分自身の魂を殺すのであり、その者には永遠に癒しがない。
人間を網の中に押し入れる者は自分自身もその中に捕らわれるのであり、その者には永遠に癒しがない。
だが、人間を裁きに押し入れる者は、その者の裁きが永遠に欠けることはないであろう。
だから、今や我が子よ、主(霊魂の主)の嫌悪されるあらゆる不正から汝らの心を守りなさい。特に主(大自然)の造られたあらゆる生きた魂から」。》


無闇に動物を殺してはならないという戒めから、人間の行為と魂の関係について述べています。エノク書には、一貫してヤーウェ神による書記者を通して出した霊示と啓示が混在していて、どこまでがどうか、一見してそれとは判らないようになっています。「だから、今や」以後が書記者によるもの、その直前までは、ヤーウェ神による直接の霊示と見られます。

《「人間が自分の魂の為に主から求めること、その事通りに主(主に大自然)はあらゆる生きた魂に為して下さるであろう。何故なら、偉大なる世においては人間に多くの避難所が用意されており、また非常によい家と無数の悪い家が用意されているからである。
幸いなのは祝福された住まいに行く者、真に悪い住まいには転換がないのである。
また人間が主(主に霊魂の主)の顔前に贈り物を齎そう(自己犠牲)と心に言って、両手がそれを為さなかった時には、主は彼の手の仕事を背けられ、受領はない。また彼の両手がそれを行い、彼の心が不平を言い、彼の心の苦しみが止まない時には、その不平は無益である。
幸いなのは忍耐のうちに主の顔前に贈り物を齎す者、彼は(有形無形の)報酬を見出すであろうから。
また人間が主の顔前に贈り物を齎す為に自分の口から時間を定めて、それを行う時には、彼は報酬を見出すであろう。しかしもし定められた時間が過ぎて約束を果たすなら、彼の後悔は嘉納されないであろう。何故ならあらゆる遅れは罪だからである。
また人間が裸の人を被い、飢えた人にパンを与えるなら、報酬を見出すであろう。しかしもし彼の心が不平を言うなら、破滅を作ることになり受領はないであろう。そして彼の心が軽蔑していて、貧者が満腹している時には、彼のあらゆる善行は失われ、受領されないであろう。何故なら主(主に霊魂の主)は軽蔑するあらゆる人間を嫌悪されるからである」。》

同 「第17章」から抜粋
《-略―「我が子よ、聞きなさい。万物が存在する前に、あらゆる被造物が現れる前に、主(天地創造と一体化されたヤーウェ神、この場合、主に天地創造)は創造の世を設定された。そしてその後、目に見えるものも見えないものもすべての被造物をお造りになり、そうしたことすべての後にご自分(主に霊魂の主)の姿に合わせて人間をお造りになり、人間に見る為に目を、聞く為に耳を、考える為に心を、判断する為に知力を付与された。その時主は人間の為に世を解き放たれ、それを時と時間に分けられた。それは人間が時間の移り変わりと終り、一年の初めと終り、月、日、時間を思い巡らし、自分の生命の死を数える為である」。》

天地創造の概念と一体化されたヤーウェ神。そして、人間の世を導いて来た霊魂の主として、人間世界への最後の裁き(世の終り)に関して次に述べられます。

《「主(主に霊魂の主)の為されるすべての創造が終りとなり、あらゆる人間が主の大いなる裁きに赴くであろう時、その時には時間が消滅し、最早年もなく、最早月も日も時間も数えられることなく、ただ世だけが立つであろう」。》

「年、月、日、時間も数えられることのない時」とは、世の終りの後の世界のことです。その人の周囲には、動くものが何一つ無くなり、静寂が辺りを包むので時間が消滅したかに感じられるということであります。
「ただ世だけが立つ」とは、地球世界だけがそこにあるということです。
「あらゆる人間が主の大いなる裁きに赴く時」とは世の終りに至る時のこと。
「主の為されるすべての創造が終りとなる」とは、ヤーウェ神によって導かれ創造された人類社会はそのことで終りとなるという意味です。
では、世の終りとは何か?それは別サイト『急変する地球』で述べたところの極移動のことであります。
それは自転速度より小さくも大きくもない速度で自転軌道を変える惑星の周期的イベントの事です。地球表面に地均し効果を生じます。
近々生じるであろうそれは、約7000万年に一度周期的に生じる自転公転軌道の同時転位という大イベントなのであります。
そこで、読者の中には、惑星地球の周期的イベントという自然災害であるのなら、何故、神の裁きだなどと言えるのか?といった疑問を持つ方も居られましょう。当然な疑問です。
ところが、今、現在既にこのイベントは、直ぐにでも起こり得る状況にあります。詳細は、『急変する地球』に譲りますが、地球へ極秘裡に訪れていた地球外人類の予測では、そのイベントの生じる時期、地球が現状を維持出来る限界は、2001年10月から翌年の1月でした。ところが周知のようにその時期が来ても何事も生じませんでした。
後に判明したことでは、この予測は地球に現在滞在している神々の霊の存在を度外視した上での予測であったことが判りました。つまり、神々の地球への滞在、存在がそのイベントの時期を遅らせているということなのです。
神々の滞在、存在は地球社会、人類社会の秩序安定を維持しています。ですから、神々の霊が一体残らず地球を離れるや、地球世界はほころびが始まり、人類社会は現在以上にほころびが拡大していきます。主に拡大を続ける過剰過密人口社会が災いして攻撃性過剰となり、人々の獣性が顕著になり制御不能になるからです。そして、地球は永年の眠りを醒まします。
神々が地球を離れるとは、現在の人類社会は神々から見離されるということに他なりません。即ち、そこには神の裁きという余地が残されているということです。

《「そして主の大いなる裁きを免れる義人すべては偉大な世と合体し、またその世は義人と共に合体し、彼らは永遠であるだろう。
しかも彼らには最早労苦も病気も悲しみも暴力の予期も、また夜のつらさも闇もなく、彼らにあるのは永遠に大いなる光と壊れない壁で、彼らには永遠の生活の防壁となる偉大な天国があるであろう。
幸いなのは主の大いなる裁きを免れる義人達、何故なら、彼らの顔は太陽のように輝くであろうから。
だから、今や我が子よ、汝らの心をあらゆる不正、主の嫌悪されるすべての事から守りなさい。-略―
長い忍耐と柔和さと汝らの苦悩の痛みのうちに、この苦しみの世を脱しなさい」。》


世の終りを迎えた後の世界、生き残った義人達の世界について述べたものであります。大いなる光、壊れない壁、永遠の生活の防壁となる天国、これらは、義人達の住む世界が神々の霊によって守護され、平安な日々があることを言ったものでしょう。

スラブ語エノク書は、第23章までありますが、第20.21.22.23章は、ダビデが書記者に随伴して書かせた章と考えられるので、割愛することにします。
ユダヤ教の思想には、エノク書の記述も根底にはあるにしても、エノク書そのものは、第一、第二、共に、ヤーウェ様の啓示が主要素を占めています。ですから、エノク書の内容そのものは、ユダヤ教そのものの思想ではないということを理解する必要があります。
主なる神ヤーウェとは、ユダヤ教の神ではありますが、ヤーウェ神ご自身はユダヤ教の為のみに存在したのではないということです。このことは重要なことです。
何故そう言えるのか?第一エノク書の中のミカエル大王即位の黙示予言が、ユダヤ教の国ではなく日本国で成就され実現されたからです。
日本におけるキリスト、メシアの証言は七大天使という名称で、最初に男性霊媒、二番目の女性霊媒二人を通して行われましたが、二人共、エノク書の存在すら知らず、それ以前にも七大天使の名前さえ知りませんでした。
ところが、二人共、七人の名前を間違わず、公の場や書物できちっと挙げたものでした。それは、神々の霊が自ら名乗り上げたのですから、当然のことと言えば当然の事でした。
最初の男性霊媒は七大天使の名前は聖書に載っているという事以外、聖書の何処に載っているのか明示しないまま他界しました。周知のように、聖書には、ミカエル、ガブリエルの御二方以外載っていません。エノク書とは七大天使全員の名が出揃った唯一の聖典なのです。
二番目の女性霊媒は、メシア、即ち、七大天使による証言集を、1977年に出版しましたが、彼女がエノク書の存在を知ったのは、1979年に入ってからです。つまり、二人共、七大天使との直接の接触からその名前を知ったのだということ以外に言いようがないのです。
第一エノク書は、ユダヤ教正典にも載っておらず、伝えられている古代アラム語の原本も、108章全て揃ったものではなく、エチオピア語に翻訳された写本のみが完本です。
第二エノク書は、原本はギリシャ語、一部はアラム語で書かれたと推定されていますが、原本は一切残っておらず、二種類のスラブ語訳が残されているのみであります。
つまり、二つのエノク書は、義人エノクの本流と思われる民族の言語とはまったく異なる言語で翻訳されることで残った書物なのだということです。これは不思議なことです。つまり、ユダヤ教もキリスト教も、この文書を後世に伝える意思は無かったというべきでしょう。
ところがいつの世にも心ある人々はいるもので、この書物の価値を見抜いた人々によって、外国語に翻訳する労力が払われたのです。ヤーウェ神直々の啓示の載った最も重要な二つの文書は隠滅の憂き目に遭い、外国語に翻訳されることによってのみその存在が確保されるという、実に数奇な命運を辿ったのであります。
つまり、霊魂の主ヤーウェ神とは私達人間と同じように、労苦に労苦を重ねられた神なのだということです。(6.1.)


<転載終了>