KNESTinc.(marisco)さんのサイトより
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<転載開始>

『精神文明と奇跡』
政木和三

 

著書装幀:横尾忠則

 

 

第3章 肉体と生命体

 

 

◎ 人間の転生の証明と記録

 

 

 

 生命は生命より生まれるものであることが定義されて、初めて生物学が確立されたように、生命は水たまりからわき出すものではなく、生あるものから次の生命は生じたものである。

 筆者は数年前まで神とか仏の存在を否定し、精神力等は考えたこともなかった。

 物理的に測定した結果のあるものは実在し、測定不可能な現象は存在しないものだと断定していた。

 そして、神のお告げと称される種々の神秘的な言葉も、本人の幻覚または幻聴によって話したものぐらいに思っていた。

 しかるに数年前に、天玉尊先生を知るにいたって、物理的には証明できない別の次元の現象の起きる事実を知って、自分が常識で判断できないことを、独断的に非科学的であると思っていた浅はかな自己に対して、深い恥ずかしさを感じた。

 それ以降、他人が真面目(まじめ)に語ることを、否定の気持ちで聞かず、一応肯定し、自分の中でよく吟味してから、その良否を決めるように気をつけるようになってきた。

 このように、自分自身の判断力の基準が変わってから、神秘の扉はどんどん開けてゆくようになった。

 昭和五十四年四月、A社の社員研修所が鹿児島に造られたのを見に行くことになった。

 第二日目にその海岸を散歩するうちに、石造りの遺跡を発見した。相当古い時代の住居らしく、泥岩を石器で平面に削りとった跡があり、その前方には石段と祭壇らしきものがあった。

 正面には直径二メーターと三メーターぐらいの二重の同心円が描かれている。

 また壁面には半月が鮮明に残されていた。

 岩石が、風化作用によって自然に造られたものであれば、このような幾何学的な図形が残るはずもなく、人工的なものであることは、その真円によって証明されるであろう。

 しかし相当に古いものらしく、地盤の変化によって、住居らしいものも、祭壇も傾き、見るかげもなくなっていた。

 この住居と祭壇は、いつごろ造られたものだろうかと考えているうちに、政木フーチパターンによって測定したい気持ちになった。

 マグネット製のペンジュラムを右手の人差指と親指ではさみ、精神統一すること数十秒、振り子は白色に光り輝き、運動を開始した。

 私の質問に対して、ペンジュラムはこの祭壇の作られたのは、二千年から二千三百年前のことことであり、その当時の領主は、いまここに居るA社長の前々世であると知らされた。

 A社長は、数年前に船で鹿児島に向かう途中、この付近を船中から眺め、何かひかれるものがあって、この場所を老後の自分の住まいにすることを決め、土地の手配を部下に命じたそうである。

 自分が二千年も前に住んでいたところに、何かひかれるものがあるらしい。

 それは肉体的な遺伝子か、生命体の記憶か、現在の科学では未知の部分であろう。

 六百五十年前のA社長の仁礼(にれ)頼仲は、新田義貞と親交があり、南北朝時代に後醍醐(ごだいご)天皇を助けるために共に戦い、後には畑時能(はたときよし)もそれに参加したしたことが史実によってわかった。

 さらに天玉尊先生によって、A社長は二千年前に鹿児島地方の王であったこともわかり、その名も

 『シブ』

 と告げられた。

 私とA社長は顔を見合わせた。

 それは今度遺跡の見つかった場所が志布志(しぶし)であったからである。

 天玉尊先生の神示によって明らかにされた、志布志町のA社長の前世の記録が、もしもあればとの希望によって、志布志町役場に郷土史を見せてほしいと願った。

 数日後に到着した郷土史により、A社長の六百五十年前の前世として、仁礼頼仲に関する記事が二十頁にもわたり、明細な記録があった。


『記録』

 町誌によれば、中央においては楠木正成(くすのきまさしげ)、新田義貞、北畠顕家(あきいえ)の諸将を相次いで失い、一三三九年には精神的支柱であった後醍醐天皇が崩御し、南朝方の勢力は次第に失われていたが、南九州では決定的な変化のないまま、両軍の戦闘は繰り返されていた。

 ところが一三四七年のころになって、この地方に新しい局面が生じ始めた。

 楡井(にれい)四郎頼仲の挙兵である。

 楡井氏は信濃源氏(しなのげんじ)の後裔(こうえい)で、信濃国楡邑(にれむら)の出身であると伝えられており、鹿児島外史に

 『楡井氏源頼義二弟(じてい)肥後守……中略……領信州楡井邑田為氏今仁礼鹿児島士族皆是裔也(このえいなり)』

 とあるとおりである。

 外に

 『高橋中将の族仁礼(にれ)と云者(いうもの)志布志と云処(いうところ)に有り』

 (群書類従合戦之部八十四)、

 『源為国の流に二柳姓あり二柳を楡井と書き後仁礼と改めし』

 (尊卑文脈)、

 『仁礼氏は梅北、肝付、北原と同族なり』

 (薩藩史談集)等の異説があるが、いずれも出典が明らかでなく、文献上これを明確にすることはできない。

 ただ、

 『爰(ここ)にしなの源氏に楡井頼長(仲)・畠山礼部・肝付八郎兼重、此三人三ヶ国を争し』

 (山田聖栄自記)とあり、当時より信濃源氏と称していたことに間違いないようである。

 この楡井氏が後年仁礼の姓に変わったと同じように、信濃における楡邑が、現在仁礼(長野県上高井郡高村仁礼)と呼ばれているのは興味のあることである。

 南北朝前期の楡井氏を中心とする年表では、一三五七年までに三度挙兵し、松尾城落城により自ら創建した大慈寺に入って割腹したとみられている。

 同寺開山堂には楡井頼仲の位牌が残され、前面に法名、年月をしるし、後面に頼仲の辞世と偈頌(げじゅ)が記されてあった。

 大事因縁 五十七年 遊戯自在 劒樹刀山

 『こしかたも又行く末も此(この)年の 此(この)月のけふ只(ただ)今にあり』

 辞世にあるように頼仲五十七年の戦乱の一生は、当時の諸豪族達の行動とすこし趣の違う点がある。

 南北朝争乱期における地方の武将達の行動は、前提として自身の領主権の確保と領地の拡張があり、一族の興隆を目的としている。

 しかし頼仲の場合は、南朝方として加担しており同じように三度挙兵し三度破れている。

 しかも三度目は孤軍死地に赴くような戦闘であり、結果として一族の滅亡があった。

 頼仲は先にのべたように大慈寺(志布志町の文化中心であった)の開基となっているが、開山として玉山玄提を招き、更に一三四八年には住職として剛中玄柔を招いている。

 玉山、剛中共に日本名僧伝にあげられる高僧であり、その一事だけでも単なる武将ではなく、知識人としての半面が推察される。

 頼仲は昭和三年正五位を贈位されており、同寺宝池庵の跡に小さな五輪の墓塔が今も残っている。(以上志布志町誌による)

 昭和五十五年の年末も迫ったころ、筆者が京都の仁和(にんな)寺で講和したことを聞き知ったA社長が、

 『私の最も近い前世が、一七七〇年に没した転法輪寺の関通上人であったと天玉尊先生に告げられた』

 と、言われた。

 天玉尊先生の神示は次の通りである。

 関通(一六九六~一七七〇)(元禄九~明和七)江戸中期の僧侶(浄土宗)尾張の人。

 字は無礙(むげ)、号は雲介、捨世派の僧祐天(ゆうてん)に師事し、一七五二(享保十)年から諸国を巡り、四八年の間に一六寺を開き、一、五〇〇余の僧尼を得度させたという。

 京都北野の転法輪寺に寂した。

 著書は三一部八〇余巻がある。

 そこで、仁和寺の方に

 『転法輪寺がどこにあるか聞いてほしい、そして私をその寺へ案内してほしい』

 との電話があった。

 お寺へ連絡すると、仁和寺のすぐ近くにあることがわかり、十二月二十二日に訪問した。

 A社長をはじめ私達一行が転法輪寺の前に立ったとき、一同がびっくりした声を出した。

 寺名の石碑の最上段に、

 『関通』

 の二文字が大きく書かれてあった。

 そして、その傍らの高札に、北野にあった当寺を、昭和四年にこの地に移転せりと記されてあった。

 また住職のご案内で、関通上人の像を見せて貰ったとき、またびっくりした声がとび出した。

 A社長と似ていることであった。

 A社長の六百五十年前は、戦いに破れ、九州の志布志で切腹しているが、人間の最大の罪は自殺であるとされている。

 自分の意志ではなくても、切腹に追いこまれて自殺することになったものの、その償いはしなくてはならない。

 その償いのため、次の世は僧侶となり、多くの人々に精神のやすらぎを与えている。

 二百八十年前の前世において、その償いが完全であったために、今世は社長となっている。

 A社長は、現在は東京に住んでいるが、京都が好きでよく京都へ泊りにくる。

 そして、京都のお菓子や、若狭のカレイを買いにゆく。

 これも二百八十年前の前世と同じことを無意識のうちにやっているものだろう。

 前世の記憶が、潜在意識の深部に残っており、前世の土地がなつかしく、そして好みも昔と同じであるらしい。

 現在A社長の周辺には、特に仲のよい友人が七人いるが、これらの人々が、すべて前世において深いつながりのあった人達である。

 住まいは各々遠くに離れている。

 不思議な縁によって知り合った人達であるが、これらの人々とは、親族以上のつき合いをしている。

 心の友とでもいうべきである。

 人々は、友人として一度おつき合いをしたとき、一生を仲よくしなければならない。

 絶対に仲たがいをしてはならない。

 次の世にも同じことが起きるから。




精神文明と奇跡
第三刷発行:昭和五七年九月二十日
著者:政木和三
発行者:後藤房子
発行所:日新社
    岡山市尾上二七七〇 電話〇八六二(八四)二一二一
印刷書:山陽印刷株式会社
    岡山市中山下二丁目五-五〇-一〇一

 

 

 

 政木先生とのご縁の始まりは、
令和元年七月一日に他界しました昭和五年生まれの私の実父が小学生時代の頃より電気のイロハを教わり、
(実際に、電気ギター制作等々、様々な電気技術のご教授を、家族ぐるみのご近所付き合いの中で個人的に無償で賜ったそうです)
その後、御晩年には、政木先生の素晴らしいご発明品の集大成のひとつとして
“世のため、人々のため”に御余生をかけ陰徳にご尽力なさいました
超強力 神経波磁力線発生器
(改名機器、インパルス磁力線、そして、Mリング。すべての御販売は㈲政木研究所、㈲ケントにて)
の製造に至るまで、数々のお仕事をお世話頂き、
政木先生がお亡くなりになる最後の最後まで、私も含め家族ぐるみのお付き合いを賜わり、
今も尚、心の底よりとても尊敬し、感謝している恩師・師匠です。

 

 

 政木和三先生の廃刊御著書

 

『精神文明と奇跡』

 

を掲載させていただいています。

 

 

 

 政木先生の御教えである

『目先の欲望を捨て去り、世のため、人々のために尽力せよ!』

との仰せを引き続き継承するため、

今後も少しずつではありますが、

何度も何度も繰り返す、日々の心の学びの礎として、

政木先生の御教えのすべてをこれからも紹介させて頂きますので、

皆様には引き続きのお付き合いの程、

何卒、宜しくお願い申し上げます。

 

深謝

m(__)m


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