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<転載開始>
●陸相の布告(アホ丸出し、S20.8.11読売新聞より)
全軍将兵に告ぐ
ソ聯遂に鋒を執つて皇国に寇す
名分如何に粉飾すと錐も大東亜を侵略制覇せんとする野望
歴然たり
事ここに至る又何をか言はん、断乎神洲護持の聖戦を戦ひ
抜かんのみ
仮令(たとへ)草を喰み土を噛り野に伏するとも断じて戦
ふところ死中自ら活あるを信ず
是即ち七生報国、「我れ一人生きてありせば」てふ楠公救
国の精神なると共に時宗の「莫煩悩」「驀直進前」以て
醜敵を撃滅せる闘魂なり
全軍将兵宜しく一人も余さず楠公精神を具現すべし、而し
て又時宗の闘魂を再現して驕敵撃滅に驀直進前すべし
昭和二十年八月十日 陸軍大臣
「何をか言はん」とは、全く何をか言わんやだ。国民の方で
指導側に言いたい言葉であって、指導側でいうべき言葉ではな
いだろう。かかる状態に至ったのは、何も敵のせいのみではな
い。指導側の無策無能からもきているのだ。しかるにその自ら
の無策無能を棚に挙げて「何をか言はん」とは。鳴呼かかる軍
部が国をこの破滅に陥れたのである。(高見順氏著『敗戦日記』
中公文庫、pp.294-295)
●「降伏文書」調印式(S20.9.2)
●スターリンの対日勝利宣言(S20.9.2)
敗戦当時まだ有効であった日ソ中立条約を無視して参戦し、
国後島を占拠したスターリンは対日勝利宣言を行った。
●731石井細菌部隊の残虐性、神風特攻隊、人間魚雷、
竹槍訓練・・・等々。
●敗戦後の特務団の山西省残留
9月9日、南京で中国における降伏調印式があった。
しかし蒋介石率いる国民党の司令長官閻錫山と北支派遣軍
司令官澄田懶四郎が密約をして当時の残留兵59000人を国
民党に協力させ八路軍(中国共産党)と戦わせようと図っ
た。
結果的には約2600人が山西省に残留し、敗戦後なお4年
間共産軍(毛沢東)と戦った。(奥村和一・酒井誠氏著
『私は「蟻の兵隊」だった』岩波ジュニア新書、pp.35-42)
●シベリア抑留:約57万5000人中約6万人が死亡。
スターリンは北海道占領をあきらめる代わりに、北方四島と日
本人捕虜を戦利品として獲得した。シベリア抑留の真相は敗戦処
理とその後の東西冷戦という政治的駆け引きのなかでスターリン
の思いつきから生まれた公算が大きい。
(保阪正康氏著『昭和陸軍の研究<下>』より)
★敗戦時、日本国籍の者は外地に629万702人いた。
旧満州国からの引き揚げにあたっては、関東軍将校が自らの家族を優先
させて帰国させてしまい、民間人を見捨てたという状態になった。中国残
留孤児問題はその結末の一つである。
<以下、順不同に悪魔の所業を書き出しておく>
※ 昭和15年頃、第一線部隊の師団長、旅団長、野戦病院長ま
でもが女と暮らしていたのには驚いた・・・。日米開戦当時
陸軍でも、海軍でも一部の幹部は陣中で兵の苦労をよそに着
物姿だった。
※ 激変する雨と川の関係は、さまざまな配慮を人間に要求す
る。サバのラナウーサンダカンの道路は、ボルネオを横断す
る唯一の道だが、それは川から遠く離れた高い固い地面を選
び選び走っている。バス旅行に慣れた今日の人間は、自然の
厳しさを忘れるようになっていく。
実際この知識と配慮がなかったために、ここを強行軍させ
られた日本軍兵士は、山中で無残に溺死した。水が引くとか
れらの死体は樹々の高みにひっかかっていた。(鶴見良行氏
著『マングローブの沼地で』朝日選書;1994:293)
※ サイパンの戦い(田中徳治氏『我ら降伏せず』(サイパン
玉砕戦の狂喜と現実)などより)
・・酒だ。ムラムラッと怒りがこみあげてきた。こん
な安全な洞窟の中で、酒を飲みながら、作戦指揮とは・
・・。この連中は一体全体、昨日の無謀な戦闘を知って
いるのだろうか。よくも酒など飲んでいられるものだ。
我々は部下も戦友も次々失い、空腹も忘れ、無我夢中で
戦っている。それにくらべ・・・と思うと、怒りと同時
に全身から力がガックリと抜けてしまった。我々を指揮
する最高司令官がこれでは、と思うと情けなくなった、
不動の姿勢が保てなかった。気力をふりしぼってやっと
報告に立った。
田中:「以後、的確なる命令と、各部隊の密接なる戦闘
計画なくば敗戦の連続です」
斎藤:「バカ!的確な命令とは何事だ。命令を何と心得
とるか。大元帥陛下の命令なるぞ。軍人は死する
は本望だ。兵士は師団長の命令通り動き、死せば
よいのだ」
田中:「閣下、我々軍人は命令に従って死せば戦闘に勝
てるのですか。尊い生命を惜し気もなく、一片の
木の葉か、一塊の石の如く捨てれば勝てるのです
か」
(斎藤はこの後田中徳治氏に「無礼者」といい、軍扇で
頭を殴り、田中氏を狂人呼ばわりして司令部を追い出し
た)。
田中徳治氏の書にある兵士は、故郷を思い、父母の名
を叫び、そして絶望的な気持ちで死んでいっている。彼
らは司令官を、そして大本営作戦参謀を呪い、恨み、そ
して死んでいったことだけはまちがいあるまい。
(保阪正康氏著『昭和陸軍の研究<下>』より)
※ ガダルカナル最前線(元陸軍中尉、小尾靖夫の手記より)
「立つ事の出来る人間は・・寿命30日間。体を起こして座
れる人間は・・3週間。寝たきり、起きられない人間は・・
1週間。寝たまま小便をする者は・・3日間。もの言わなく
なった者は・・2日間。またたきしなくなった者は・・明日。
ああ、人生わずか五十年という言葉があるのに、俺は齢わず
かに二十二歳で終わるのであろうか」(昭和17年~18年)
※ ブーゲンビル島ブイン飛行場(昭和18年4月頃)
飛行場のまわりは、昼なお暗きジャングルである。マラリ
ア蚊が跳梁し毒蛇や鰐が横行している。こんな、とても人が
住めない密林のなかで、日本海軍の男たちは戦っていたのだ。
(星亮一氏著『戦艦「大和」に殉じた至誠の提督 伊藤整一』)
※ 馬を引いて前線に届けるのが任務である。「馬は軍にとっ
て大変大切だ。おまえらは一銭五厘の切手で召集できるが馬
はそうはいかぬ。おまえらより馬のほうが大切なのである」
「昭和15年召集、入隊してそこで待っていたのは、毎日
のようなしごきでした。教官はお前たちの命は九牛の一毛
より軽いということで兵隊の命なんか上の方では、人権な
んか余り考えてなかったような気がします」
(朝日新聞、H10.12.2朝刊より)
※ 絶叫でもなく、悲鳴でもない。動物の呷きにもにた男の声
が残った。暴れる男は太い幹にくくりつけられた。何が始ま
るのか初年兵全員が分かっていた。・・・「突け!」。剣のつ
いた小銃を持った初年兵が木に向けて走った。・・・約50人
の初年兵が次から次へと突いた。男の内蔵は裂け、ぼろぞう
きんのようになった。体はどす黒い血の塊となって木の下に
崩れた。(朝日新聞、H10.12.1日朝刊より)
※ 私は既に日本の勝利を信じていなかった。私は祖国をこん
な絶望的な戦いに引きり込んだ軍部を憎んでいたが、私がこ
れまで彼等を阻止すべく何事も賭さなかった以上、今更彼等
によって与えられた運命に抗議する権利はないと思われた。
一介の無力な市民と、一国の暴力を行使する組織とを対等に
おくこうした考え方に私は滑稽を感じたが、今無意味な死に
駆り出されて行く自己の愚劣を笑わないためにも、そう考え
る必要があったのである。
しかし夜、関門海峡に投錨した輸送船の甲板から、下の方
を動いて行くおもちゃのような連絡船の赤や青の灯を見て、
奴隷のように死に向かって積み出されて行く自分の惨めさが
肚にこたえた。(大岡昇平氏『俘虜記』より)
※ 師団長や参謀たちが何だというのだ。彼らは私にとって、
面と向かって反抗できない存在だ。その点では班長や下級将
校も同様だが、班長や下級将校は、私たちと同様に彼らに使
われているのだ。あいつらやあいつらよりもっと上の連中た
ちが、こんな馬鹿げた戦争をしているのだ。ああいう連中に
なりたがっている連中もいるわけだが、しかし、私は、結局
は、あいつらに使われる状態から逃れられないのだ。
私は、彼らに対して、そう思っていた。挙国一致だと。糞
食らえだ。尽忠報国だと。糞食らえだ。心中ひそかに悪態を
ついてみたところで、もうどうなるものでもない、と思いな
がら、私は悪態をついていたのだ。
気力なし、体力なし、プライドなし、自信なし、希望なし。
悪態はついても、恨みも不平もなかった。私は、もう、なに
がどうでもいいような気持になっていたのだ。
龍陵の雨を、寒さを、漆黒の闇を、草を、木を、土を、空
を、星を、運を、思い出す。その中で、常時、死と体のつら
さに付き合っていたことを思い出す。歩けないのに歩かなけ
ればならないときの苦しさを思い出す。
(古山高麗雄氏『龍陵会戦』(文春文庫)p.52)
★特攻隊攻撃:扇動の欺瞞でなければ、おそるべき無責任(中野好夫)
軍部にみる残酷さと卑怯さの象徴(発案は服部卓四郎、源田実、大西瀧治
郎(直属部下:玉井浅市、猪口力平、中島正)、富永恭次ほかの悪魔ども)。
初めて行われたのは比島沖海戦の翌日の昭和19年10月25日で、敷島
隊がレイテ湾の米軍艦に体当たりを敢行。 敗戦までに実に2367機が
出撃した。(因に潜水「魚雷」は海軍大将黒木博司により別に考案さ
れ最初の出撃は昭和19年11月だった)。
青年達(海軍の飛行予科練習生と学徒兵)に下士官の軍服を着せて
飛行機に乗せ、未熟な操縦技術ながら敵に体当たりさせた。皮肉にも
この特攻隊攻撃が原爆投下を米英に決断させることになった。
※ おそるべき無責任(再掲)
英文学者の中野好夫は、特攻を命令した長官が、若いパイ
ロットたちに与えた訓辞を引用して、1952年にこう述べてい
る。
「日本はまさに危機である。しかもこの危機を救い得る
ものは、大臣でも大将でも軍令部総長でもない。勿論自分
のような長官でもない。それは諸子の如き純真にして気力
に満ちた若い人々のみである。(下略)」
この一節、大臣、大将、軍令部総長等々は、首相、外相、
政党、総裁、代議士、指導者-その他なんと置き換えても
よいであろう。
問題は、あの太平洋戦争へと導いた日本の運命の過程に
おいて、これら「若い人々」は、なんの発言も許されなか
った。軍部、政治家、指導者たちの声は一せいに、「君ら
はまだ思想未熟、万事は俺たちにまかせておけ」として、
その便々たる腹をたたいたものであった。しかもその彼等
が導いた祖国の危機に際しては、驚くべきことに、みずか
らその完全な無力さを告白しているのだ。
扇動の欺瞞でなければ、おそるべき無責任である。
(小熊英二氏著『<民主>と<愛国>』新曜社、pp61-62)
※ 死へのカウントダウン
学徒兵たちは、自分たちの政府に「殺される」出撃の最期の
瞬間まで読書と日記を続けた。どんな時代や国においても、死
とは孤独なものである。こうした若者は人生の早い段階で死刑
宣告を受けていたも同然で、ただでさえ短かった人生を、死の
影の中で生きねばならなかった。そのため、彼らの人生には常
にこのうえない淋しさが付きまとっていた。だが、潔く死ぬこ
とを当然祝された若き学徒兵たちは、こうした感情を公にする
ことはできなかった。残された手記は、自らの行為に納得のい
く意味を見出そうとするものの、最期の瞬間まで苦悩し続け、
悲壮なまでの孤独感に覆われた胸中をありありと見せている。
1940年11月の日記に、林尹夫は「死にたくない!… 生きたい!」
と書き連ねていた。中尾武徳は、1942年9月に「静寂」という
題の詩を書き、多くの若者たちが感じていた時間の経過に対す
る焦燥感を表現している。刻々と時を刻む時計の針の音は、彼
らにとって死へのカウントダウンの音でもあったのである。
中尾や他の学徒兵の手記は、人生そのものを含め、彼らが失
ったすべてのものへの嘆きの声で満ちている。
(大貫恵美子氏著『学徒兵の精神誌』岩波書店、pp.34-35)
※ 学徒兵は政府によって「殺された」。
戦争の最大の皮肉は、若者たちが最期の瞬間が近づくにつれ
て、ますます愛国心を失ってゆくという事実である。入隊後の
基地での生活を通じて、日本の軍国主義の真相を目のあたりに
した若者たちは、情熱も気力も失いながら、もうどうしようも
なく、死に突入して行った。・・・隊員やその遺族が証言する
ように、彼らは政府によって「殺された」のである。
(大貫美恵子氏著『学徒兵の精神誌』岩波書店、pp.35-36,49)
※ 驚くべきことに、悪魔らが特攻作戦を創設した際、陸海軍
兵学校出身の職業軍人の中から志願したものは一人もいなか
った。(大貫恵美子『ねじ曲げられた桜』岩波書店)
※ 関行男大尉(23歳、第一次神風特別攻撃隊、敷島隊)
「日本もおしまいだよ。僕のような優秀なパイロットを殺
すなんて。僕なら体当たりせずとも敵空母の飛行甲板に500
キロ爆弾を命中させて還る自信がある」。
※ 源田実はのうのうと生き続けて、戦後は自衛隊に入り、最
後には参議院議員にまでなった。つまり戦没した特攻隊員に
恥じることも殉ずることもなかったのである。
※ 上原良司特攻隊員(20年5月11日、沖縄嘉手納湾の米国機
動部隊に突入し戦死)
いわゆる軍人精神の入ったと称する愚者が、我々に対し
ても自由の滅却を強要し、肉体的苦痛もその督戦隊として
いる。しかしながら、激しい肉体的苦痛の鞭の下に頼って
も、常に自由は戦い、そして常に勝利者である。我々は一
部の愚者が、我々の自由を奪おうして、軍人精神という矛
盾の題目を唱えるたびに、何ものにも屈せぬ自由の偉大さ
を更めて感ずるのみである。
偉大なるは自由、汝は永久不滅にて、人間の本性、人類
の希望である。
※ 何が愛国だ? 何が祖国だ?(佐々木八郎、1945年特攻にて戦死、
享年22歳、1941.9.14の日記より)
戦時下重要産業へ全国民を動員するとか。全国民のこの
苦悩、人格の無視、ヒューマニティの軽視の中に甘い汁を
吸っている奴がいる。尊い意志を踏みにじって利を貪る不
埒な奴がいるの だ。何が愛国だ? 何が祖国だ? 掴み
所のない抽象概念のために幾百万の生命を害い、幾千万、
何億の人間の自由を奪うことを肯んずるのか。抽象概念の
かげに惷動する醜きものの姿を抉り出さねばならぬ。徒ら
に現状に理由づけをして諦めることはやめよう。
(大貫美恵子氏著『学徒兵の精神誌』岩波書店、p.83)
※ 特攻隊員たちの生活
一方、多くの士官は鬼のように振る舞った。職業軍人たち
は、自分より階級の低い学徒兵の些細な行動を不快に思う度、
それを行なった本人のみでなく、隊全員に苛酷な体罰を加え
た。色川(歴史家色川大吉氏、土浦基地元学徒兵)は、学徒
兵を待ち受けていた「生き地獄」について、まざまざと語っ
ている。
「土浦海軍航空隊の門をくぐってからは、顔の形が変
るほど撲られる「猛訓練」の日がつづいた。一九四五年
一月二日の朝は、金子という少尉に二十回も顔中を撲ら
れ、口の中がズタズタに切れ、楽しみにしていた雑煮が
たべられず、血を呑んですごした。二月の十四日は、同
じ隊のほとんど全員が、外出のさい農家で飢えを満たし
たという理由で、厳寒の夜七時間もコンクリートの床に
すわらされ、丸太棒で豚のように尻を撲りつけられると
いう事件が起こった。
私も長い時間呼出しを待ち、士官室に入ったとたん、
眼が見えなくなるほど張り倒され、投げ飛ばされ、起き
直ると棍棒をうけて「自白」を強いられた。頭から投げ
飛ばされた瞬間、床板がぬけて重態におちいり、そのま
ま病院に運ばれ、ついに帰らなかった友もあった。これ
をやったのは分隊長の筒井という中尉で、私たちは今で
もこの男のことをさがしている」。
学徒兵たちは、しばしば叩き上げの職業軍人の格好の的と
された。彼らは大学どころか高等学校にさえ在籍することの
叶わなかった自らと比較し、学生たちを、勉学に専心するこ
との許される特権階級の出身者として見ていたのも一つの理
由である。(大貫恵美子氏著『ねじ曲げられた桜』岩波書店)
※ 出撃前夜の様子
ガンルームでの別離の酒宴席設営。明日出撃の若き士官の
冷酒の酒盛り、一気飲み!! ガブ飲み!! 果ては遂に修羅場と
化して、暗幕下の電灯は刀で叩き落され、窓硝子は両手で持
ち上げられた椅子でガラガラと次ぎつぎに破られ、真白きテ
ーブル掛布も引き裂れて、軍歌は罵声の如く入り乱れ、灯火
管制下の軍隊でこゝガンルームでの酒席は、”別世界”。あ
る者は怒号、ある者は泣き喚き、今宵限りの命……。父母、
兄弟、姉妹の顔、顔、姿。そして恋人の微笑の顔、婚約者と
の悲しき別れ。走馬灯の如く巡り来り去り来る想いはつきず
に。明日は愈々出撃、日本帝国の為、天皇陛下の御為にと、
若き尊い青春の身命を捧げる覚悟は決しているものの、散乱
のテーブルに伏す者、遺書を綴る者、両手を組みて瞑想する
者。荒れ果てた会場から去る者、何時までも黙々と何かを書
き続ける者、狂い踊りをしながら花壇を叩き毀す者。この凄
惨な出撃前のやり場の無い、学徒兵士の心境は余りにも知ら
されていません。……早朝飛行場に走り昨夜水盃ならぬ冷酒
の勇士は日の丸のはち巻も勇ましく爆音高く出撃!!
私は……英霊に成られし方々の日常を知り尽くしておりま
す。私同様激しい教練の後にお定まりの制裁のシゴキが続け
られていました。
(大貫美恵子氏著『学徒兵の精神誌』岩波書店、pp.15-16)
※ 特攻生き残り隊員への罵声
「貴様たちはなぜ、のめのめ帰ってきたのか、いかなる理
由があろうと、出撃の意思がないから帰ったことは明白であ
る。死んだ仲間に恥ずかしくないのか!」
「あの時の参謀の迎え方で、われわれは司令部の考え
ていたことがすべて分かりました。われわれは帰って来
てはいけなかったのです。無駄でもなんでもいい、死な
なければならなかったのです。生きていては困る存在だ
ったのです」(佐藤早苗氏著『特攻の町知覧』より)
日本人の敵は「日本人」だ

我々は故意に歪められた歴史と、その過程における 政治の役割に
もっと注意を払うべきである。特攻隊員 たちは自分たちで語ること
はもはやできない。もし、「死者でさえ敵から安全ではない」(ベン
ジャミン)ならば(この場合敵とは日本と欧米諸国のとの政治権力の
不平等、日本国内における政治への無関心である)、彼らはポール・
クレーの絵の中のような、青ざめた歴史の天使が彼らを目覚めさせ、
人間性と歴史の中に彼らの場所を確保してくれるのを待っているので
ある。
いかなる歴史的過程においても、全体主義政権の指導者のような歴
史的エージェントは、他の者よりはるかに大きな影響力を持っていた。
こういう者が人間性に対して犯した罪は決して許されるべきものでは
ない。
隊員たちの日記は、夢と理想に溢れた若者たちを死に追いやった日
本帝国主義の極悪非道の行為を証明するものである。
(大貫恵美子氏著『ねじ曲げられた桜』岩波書店)
★「玉砕戦法」
昭和20年8月8日夜、ソ連軍の参戦。本土防衛のため国境(ソ連-満州)
付近にいた精鋭部隊は帰国しており無防備状態。予備士官学校生も急
きょ防衛隊を編成したが満足な武器はなかった。塹濠から爆弾を抱えて
戦車に突進する以外に有効な手段はなかった。(「戦後50年『あの日
・・・どう語り継ぐ』」山陽新聞朝刊(H6.8.16)より)
★敗戦の真相、戦争の回想、戦争から学ぶべきことなど
●そのうえに日本にとって最も不幸だったことは、以上申し述べた
ような諸種の事情が、日本有史以来の大人物の端境期に起こった
ということでありまして、建国三千年最大の危難に直面しながら、
如何にこれを乗り切るかという確固不動の信念と周到なる思慮を
有する大黒柱の役割を演ずべき一人の中心人物がなく、ただ器用
に目先の雑務をごまかしていく式の官僚がたくさん集まって、わ
いわい騒ぎながら、あれよあれよという間に世界的大波瀾の中に
捲き込まれ、押し流されてしまったのであります。
これは必ずしも、北条時宗の故事に遡らずとも、〔明治〕維新
当時、日本の各地に雲のごとく現れた各藩の志士、例えば一人の
西郷隆盛、一人の木戸孝充、一人の大久保利通のごとき大人物が
現存しておったなら、否、それほどの人物でなくても、せめて日
清、日露の戦役当時の伊藤博文、山県有朋のごとき政治家、また
軍人とすれば陸軍の児玉源太郎、降って、せめて加藤高明、原敬、
あるいは一人の山本条太郎が今日おったならば、恐らく日本の歴
史は書き換えられておったろうと思われるのです。支那事変から
大東亜戦争を通じて、日本の代表的政治家は曰く近衛文麿、曰く
東条英機、曰く小磯国昭、曰くなにがしであり、これを米国のル
ーズベルト、英国のチャーチル、支那の蒋介石、ソ連のスターリ
ン、ドイツのヒトラー、イタリアのムッソリーニなど、いずれも
世界史的な傑物が百花繚乱の姿で並んでいることに思いを致して
みると、千両役者のオールスターキャストの一座の中に我が国の
指導者の顔ぶれの如何に大根役者然たるものであったかを痛感せ
ざるを得ないでしょう。
また、民間の代表的人物といいますと、三井財閥では住井某、
三菱財閥では船田某など、いずれも相当の人柄でしょうが、これ
を一昔前の渋沢栄一、井上準之助などに比べると、いかにも見劣
りせざるを得ない。その他、政党方面に誰がいるか、言論文化の
方面には誰がいるか、どの方面も非常な人物飢饉であり、そのた
めに本筋の大道を見損なって、とんでもない方面に日本国民を引
っ張っていく一つの大きな原因になったと思われます。
(昭和20年、永野護氏『敗戦真相記』、バジリコ.2002;p.27-28)
●日本のジャーナリズムには、戦争を客観的に見つめる目はなく、
あったとしても検閲が強化され、紙面に反映させることはできず、
各新聞は競って特攻を礼賛し、本土決戦を訴えた。
(星亮一氏著『戦艦「大和」に殉じた至誠の提督 伊藤整一』)
●古山高麗雄氏の回想(作家案内ーー「吉田満 寡言の人」より)
散華の世代の者の責任として、いや、人間として、戦後、自分
は何をしなければならないのか、どのように考えなければならな
いのか、を追究する。英霊を犬死ににさせてはならぬ、そのため
には、この国を誇りある社会にしなければならぬ、と吉田さん
(鳥越注:吉田満氏)は言う。
私も、この国が誇りある社会になれば、どんなにいいだろう、
とは思うのだが、けれども私には、英霊を犬死ににさせないため
身を粉にして、誇りある社会づくりに身を投じようという気はな
い。散華だの、犬死にだの、玉砕だの、英霊だの、という言葉が
私にはない。私は、戦死者も、生存者も、その自己犠牲も、善意
も、まったく報いられずに終わるかも知れぬ、と思っている。そ
れを、私たちはどうすることもできない、と言ったら吉田さんは、
またまた澱のようなものが溜まるような気持になるであろう。
(吉田満氏著『戦艦大和ノ最期』講談社文芸文庫、p198)
●国民は家畜並。軍隊というのは最低最悪の組織だ。
支那事変が拡大して、大東亜戦争になりますが、大東亜戦争で
も、まず集められ、使われたのは、甲種合格の現役兵です。人間
を甲だの乙だのにわけて、甲はガダルカナル島に送られて、大量
に死にました。
敗戦後、わが国民は、二言目には人権と言うようになりました
が、戦前の日本には、人権などというものはありませんでした。
国あっての国民、国民あっての国、昔も今も、そう言いますが、
藩政時代も、明治維新以降も、日本は民主の国ではありませんで
した。忠と孝が、人の倫理の基本として教育される。孝は肉親愛
に基づく人間の自然な情ですが、忠は為政者が、為政者の受益の
ために、人の性向を利用し誘導して作り上げた道徳です。自分の
国を護るための徴兵制だ、国民皆兵だと言われ、法律を作られ、
違反するものは官憲に揃えられて罰せられるということになると、
厭でも従わないわけには行きません。高位の軍人は政治家や実業
家と共に、国民を国のためという名目で、実は自分のために、家
畜並に使用しました。私の知る限り、軍隊ぐらい人間を家畜並に
してしまう組織はありません。貧しい農家の二男、三男の生活よ
り、下士官の生活の方がいい、ということで人の厭がる軍隊に志
願で入隊した人を、馬鹿とは言えません。しかし、国の為だ、天
皇への忠義だ、国民なら当然だ、と言われても、人間を家畜と変
わらないものにしてしまう組織は憂鬱な場所です。けれども、そ
こからのがれる術はありません。・・・
軍隊というのは、私には最低最悪の組織です。
(古山高麗雄『人生、しょせん運不運』草思社137-138)
●軍隊はpassionを殺し、machine(機械)の一歯車に変ずるところ
なのだ。(林尹夫(1945年7月28日戦死、享年24歳)の日記より)
「家に帰れなかったら、そして、この海兵団から足を洗えなか
ったら、気が狂ってしまいそうだ」と言う。「いまおれは、ゆっ
くり本が読みたい。このぶんでは、とても戦争に行けない。”死”
なぞいまのおれにとって思案の外の突発事)だ」、「…いまのおれ
にはそのようなパッションも気力もない。無関心、どうでもなれ
という自己喪失。そうだ、なにが苦しいといって、いまのような
自己喪失を強制された生活、一歩動くとすぐにぶつかってくると
いう障、なのだ。生のクライマックスで生が切断される。人生の
幕がおりる。 あるいは、それは実に素晴らしい。ましてクライ
マックスのあとに、静かなる無感覚がつづき、そのあと死の使者
がくる」、「それはなおすばらしい筋書だ。だが生活に自己を打
ち込めぬ、そして自己を表現する生活をなし得ぬままに死んでし
まうとしたら、こんな悲惨なことが、あろうか」と追いつめられ
た、極度に悲惨な心情を書き下す(1944年1月23日)。
この3日後の1944年1月26日には、海軍航空隊の飛行機搭乗員の
選抜発表を翌日に控え、選ばれることを願っている。そして林は、
飛行専修予備学生予定者に決定し、1944年1月28日に、兵士の待遇
の過酷なことで知られていた土浦海軍航空基地に配置されること
になった。
土浦に配属されて問もないころの日記には次のように書いている。
学校にいたときの、あのPatriotismus(祖国愛)の感激、
一歩一歩後退を余儀なくされているときの緊迫感、そういう
ものは、もういまは全然ない。だいたいpassionというものは、
もう消えてしまった。軍隊はそういうpassionを殺し、人間を
indifference(無関心)にし、惰性的に動く歯車に代えてしま
うところだ。
(大貫美恵子氏著『学徒兵の精神誌』岩波書店、pp.130-131)
●阿呆と家畜のオンパレード
それにしても、名誉の出征に、名誉の戦死。聖戦という言葉も
使われました。聖戦は鬼畜米英にホリーウォーと訳されて噂われ
ましたが、アラヒトガミだとか、いざというときには大昔の蒙古
襲来のときのように神風が吹く、なぜならわが国は神国だから、
だとか。よくもまあ国の指導者があれほど次から次に、阿呆を阿
呆と思わずに言い、国民もまた、その阿呆にあきれていた者まで、
とにかく、権力者たちに追従したのです。
あれは、全体主義国家の国民としては、やむを得ない生き方で
あり、世界に冠たる大和民族の性癖でもあるのでしょう。世界に
冠たる大和民族は、天皇を担ぐ権力者たちに押し付けられた言葉
や考え方を否でも応でも、とにかく受け入れ、追従する者も、便
乗して旗を振っている者も、みんな家畜になりました。
(古山高麗雄『人生、しょせん運不運』草思社、p.144)
●戦前の日本は、嘘八百の国であったが、嘘八百ということでは戦
後も同様である。
戦前の嘘の第一は、天皇陛下のため、御国のため、というやつ
だ。御国のために命を捧げる、というやつだ。本当に国を護るた
めに、命をかけて戦うというのならいいが、あの戦争で国民が、
国を護る戦争だと思い始めたのは、敗け始めてからである。本土
が空襲で焼かれ、沖縄が占領されたころになって大東亜戦争は、
侵略の戦争から、国を護る戦争に変わったのである。
国民は、徴兵を拒むことはできなかった。軍の敷いた法律から
逃れることはできず、軍の意のままに狩り出され、物品のように
どんなところにでも送られて、殺し合いをやらされた。
あの戦争は、米英仏蘭にはめられたということもあるだろうが、
日本軍は、国を護るために支那大陸を侵略したのではない。東亜
解放というのも、後追いの標語である。国民はそれを感じながら、
しかし、ロを揃えて、天皇陛下のため、国のため、と言った。口
先だけで言っていた者もいたが、そうだと思い込もうとした。そ
う思わなければ、軍の奴隷になってしまうからである。
フーコンでもインパールでも、おびただしい将兵が餓死した。
それを本人も、遺族も、軍の奴隷の餓死だとは思いたくないので
ある。国のための名誉の戦死だと思いたいのである。軍は、人の
そういう心につけ込んだ。
辰平はそう思っている。戦後は、天皇陛下のため、とは言わな
くなったが、平和のために戦争を語ろう、などという嘘に満ちた
国になった。戦争で最も苦しめられるのは、一番弱い女と子供だ、
などという、甘言が幅を利かす国になった。(古山高麗雄氏著
『フーコン戦記』、文藝春秋社)
●陸軍と海軍、足の引っ張りあい。大局観の喪失、ワンマン体制
挙句の果てが、「陸軍」と「海軍」の足の引っ張り合いであっ
た。……バカげたことに、それぞれが自分たちの情報を隠しあっ
てしまう。
「日本は太平洋戦争において、本当はアメリカと戦っていたの
ではない。陸軍と海軍が戦っていた、その合い間にアメリカと戦
っていた……」などと揶揄されてしまう所以である。
陸軍と海軍の意地の張り合いは、「大本営発表」が最もいい例
であろう。大本営「陸軍報道部」と「海軍報道部」が競い合って
国民によい戦果を報告しようと躍起になっていた。やがてそれが
エスカレートしていき、悪い情報は隠蔽されてしまう。そして虚
偽の情報が流されるようになっていく。
「大本営発表」のウソは、この時期からより肥大化が始まる。
仕方ないのかもしれない、この当時、東條に向かって「東條閣
下、この戦争は何のために戦っているのでしょうか」などと意見
するような者がいたら、たちまちのうちに反戦主義者として南方
の激戦地に転任させられてしまうのがオチである。
危機に陥った時こそもっとも必要なものは、大局を見た政略、
戦略であるはずだが、それがすっぼり抜け落ちてしまっていた。
大局を見ることができた人材は、すでに「二・二六事件」から三
国同盟締結のプロセスで、大体が要職から外されてしまい、視野
の狭いトップの下、彼らに逆らわない者だけが生き残って組織が
構成されていた。
昭和17年の頃の日本は、喩えていえば台風が来て屋根が飛んで
しまい、家の中に雨がザーザー降り込んできているのに、誰も何
もいわない、雨漏りしているのに、わざと見ないようにして、一
生懸命、玄関の鍵を閉めて戸締りなどに精をだしている……、そ
んなようなものだった。
だが、そうした組織の”体質”は、今を顧みても、実は、そう
変わらないのかもしれない。
昨今のNHKの、海老沢勝二元会長をめぐる一連の辞任騒動や西武
グループの総帥、堤義明の逮捕劇など見ていると、当時の軍の組
織構造と同じように見えてしまう。あれだけ大きな組織の中でワ
ンマン体制が敷かれ、誰も彼に意見できず、傲慢な裸の王様の下、
みな従順に飼い馴らされてきたのだ。そして、危機に直面すると、
何の具体策もない精神論をふりまわす。
(保阪正康氏著『あの戦争は何だったのか』新潮新書、pp.122-123)
●渡辺清氏著『砕かれた神』(岩波現代文庫)より
東条英機大将が自殺をはかり未遂(九月十一日)。・・・
それにしてもなんという醜態だろう。人の生死についてことさ
らなことは慎むべきだと思っているが、余人ならいざ知らず、東
条といえば開戦時の首相だった人ではないか。一時は総理大臣だ
けでなく、同時に陸軍大臣や参謀総長も兼任していたほどの権力
者だったではないか。そればかりではない。陸軍大臣だった当時、
自ら「戦陣訓」なるものを公布して全軍に戦陣の戒めをたれてい
たではないか。「生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を
残すこと勿れ」。これはその中の一節であるが、この訓令を破っ
ているのは、 ほかでもない当の本人ではないか。
軍人の最高位をきわめた陸軍大将が、商売道具のピストルを射
ちそこなって、敵の縄目にかかる。これではもう喜劇にもなるま
い。東条はこの失態によって、彼自身の恥だけでなく、日本人全
体の恥を内外にさらしたようなものだ。おれは東条大将だけは連
合軍から戦犯に指名される前に潔く自決してほしかった。あの阿
南陸相のように責任者なら責任者らしく、それにふさわしい最期
を遂げてほしかったと思う。(p.23-24)
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<転載終了>