達人さんのサイトより
https://blog.goo.ne.jp/0345525onodera/e/1132a4658071e43dbc6a47b0a06cdcb9
<転載開始>

日本人の敵は「日本人」だ

大本営情報参謀掘栄三氏は、これらの成果に懐疑的で、ただち
  に参謀本部所属部長に打電したが、当時の作戦参謀瀬島龍三が握
  り潰してしまった。瀬島は捷一号作戦の直接の起案者だった。大
  本営の作戦部は、情報を軽視するだけでなく、自分たちに都合の
  悪い情報はすべて「作戦主導」の名のもとににぎりつぶしていた
  のだ。(保阪正康氏著『昭和陸軍の研究<下>』より)
  ●レイテ決戦(捷一号作戦、S19.10.22~)
   比島決戦では日本人52万人以上が死亡したが、このうち8万4000
  人はレイテ島の攻防戦で死亡した。
   首謀者:服部卓四郎(敗戦後も復員省に籍をおき半ば公然と活
    動した)
  ●レイテ湾奇襲作戦 (S19.10.24~25)
   小沢囮艦隊の快挙あるも、栗田艦隊の突然の中途退却で失敗。
   西村艦隊壊滅。
   戦艦「武蔵」撃沈される(シブヤン海、S19.10.24 07:35)。
   日本の空母全滅。
   特攻開始(S19.10.25、海軍が一日早かった)。
  ●「フ号兵器作戦」(S19.11.3):鹿島灘より発進
   和紙で作った直径10mの巨大な風船に15キロ爆弾1個と焼夷弾2
  個を吊して、ジェット気流にまかせてアメリカを爆撃する。しか
  もいずれはこれにペスト菌やコレラ菌を乗せてばら撒こうという
  愚劣で卑劣極まる作戦。(もちろんコスト・ビニフィットは最悪
  だった)
  ●東南海大地震(S19.12.7)
    1944年12月7日の東南海地震の震源は紀伊半島沖の海底深さ約
   40kmで、三重県紀勢町では地震発生からわずか10分程度で6mの大
   津波が押し寄せたという記録もあります。最大震度6という揺れ
   と津波によって三重県、愛知県、静岡県を中心に死者・不明者は
   1223名にのぼるということですが、太平洋戦争の混乱期でもあっ
   たためにあまり詳しい記録は残っていない。
   (http://blog.goo.ne.jp/nan_1962/e
     /bec8cef008010403e54c26f14a432c4a より。H18.4.12)

  ●人肉食事件(S20.2.23~25):父島事件
    (秦郁彦氏著『昭和史の謎を追う<下>』、大岡昇平氏著
             『野火』などを参照)
   ●硫黄島全滅(S19.12.8~S20.3.26)
  陸海軍23000人全滅、米軍死傷者25000人
  栗林忠道中将 vs ホーランド M. スミス
  ※硫黄島の滑走路が敵にとられると、本土大空襲が可能になるの
  であった。
  <名将栗林忠道中将の最後の電文より>
  戦局、最後の関頭に直面せり。敵来攻以来、麾下将兵
  の敢闘は真に鬼神を哭しむるものあり。特に想像を越え
  たる物量的優勢を以てする陸海空よりの攻撃に対し、宛
  然徒手空拳を以て克く健闘を続けたるは、小職自ら聊か
  悦びとする所なり。
  然れども飽くなき敵の猛攻に相次で斃れ、為に御期待
  に反し此の要地を敵手に委ぬる外なきに至りしは、小職
  の誠に恐懼に堪へざる所にして幾重にも御託申上ぐ。今
  や弾丸尽き水涸れ、全員反撃し最後の敢闘を行はんとす
  るに方り、塾々皇恩を思ひ粉骨砕身も亦悔いず。
  特に本島を奪還せざる限り、皇土永遠に安からざるに
  思ひ至り、縦ひ魂魄となるも誓つて皇軍の捲土重来の魁
  たらんことを期す。
  茲に最後の関頭に立ち、重ねて衷情を披瀝すると共に、
  只管(ひたすら)皇国の必勝と安泰とを祈念しつつ永に
  御別れ申上ぐ。(後略)
  梯久美子氏著『散るぞ悲しき』新潮社、pp.18-19)
  ※ この電文に書き添えてあった、3首の辞世のうちの1首...
   国の為重きつとめを果たし得で
     矢弾尽き果て散るぞ悲しき
  は最後の句”散るぞ悲しき”が大本営により改ざんされ ”
    散るぞ口惜し”として新聞発表されていた。
   (梯久美子氏著『散るぞ悲しき』新潮社、p.23)
  ※ 硫黄島は、軍中央部の度重なる戦略方針の変化に翻弄され、
  最終的に孤立無援の状態で敵を迎え撃たねばならなかった戦場
  である。
  当初、大本営は硫黄島の価値を重視し、それゆえに2万の兵力
  を投入したはずだった。それが、まさに米軍上陸近しという時
  期になって、一転「価値なし」と切り捨てられたのである。そ
  の結果、硫黄島の日本軍は航空・海上戦力の支援をほとんど得
  られぬまま戦わざるをえなかった。
  防衛庁防衛研修所戦史室による戦史叢書(公刊戦史)『大本
  営陸軍部10 昭和二十年八月まで』は、硫黄島の陥落を大本営
  がどう受け止めたかについて、以下のように記述している。
 
   軍中央部は、硫黄島の喪失についてはある程度予期して
  いたことでもあり、守備部隊の敢闘をたたえ栗林中将の統
  帥に感歎するものの、格別の反応を示していない。
 
  「喪失についてはある程度予期」していたから「格別の反応
  を示」さなかったという。2万の生命を、戦争指導者たちは何と
  簡単に見限っていたことか。
  実質を伴わぬ弥縫策を繰り返し、行き詰まってにっちもさっ
  ちもいかなくなったら「見込みなし」として放棄する大本営。
  その結果、見捨てられた戦場では、効果が少ないと知りながら
  バンザイ突撃で兵士たちが死んでいく。将軍は腹を切る。アッ
  ツでもタラワでも、サイパンでもグアムでもそうだった。その
  死を玉砕(=玉と砕ける)という美しい名で呼び、見通しの誤
  りと作戦の無謀を「美学」で覆い隠す欺瞞を、栗林は許せなか
  ったのではないか。
  合理主義者であり、また誰よりも兵士たちを愛した栗林は、
  生きて帰れぬ戦場ならば、せめて彼らに”甲斐ある死”を与え
  たかったに違いない。だから、バンザイ突撃はさせないという
  方針を最後まで貫いたのであろう。
  (梯久美子氏著『散るぞ悲しき』新潮社、pp.228-229)
  ●東京大空襲(S20.3.10):M69焼夷弾による首都壊滅。
  罹災者100万人以上、死者83793人、負傷者40918人(11万以上と
 の報告もある)を数えた。
   (荒井信一氏著『戦争責任論』岩波書店、p.165)
   日本は3月10日にはじまって4月16日までに12回も大空襲を受けた。
  その内訳は東京(3.10)、名古屋(3.12)、大阪(3.13)、神戸
  (3.17)、名古屋(3.19)、名古屋(3.25)、東京西部(4.2)、
  東京(4.4)、東京周辺・名古屋(4.7)、東京(4.12)、東京市街
  (4.13~14)、東京・横浜・川崎(4.15~16)で、消失戸数全71万戸、
  戦災者数全314万にのぼった。
      (清沢洌氏著『暗黒日記』岩波文庫、pp.337-338)
    --------------------------------------
  「何千何万という民家が、そして男も女も子どもも一緒に、焼
  かれ破壊された。夜、空は赤々と照り、昼、空は暗黒となった。
  東京攻囲戦はすでに始まっている。戦争とは何か、軍国主義とは
  何か。狂信の徒に牛耳られた政治とは何か、今こそすべての日本
  人は真に悟らねばならない」(昭和20年6月12日)
  「どの新聞を見ても、戦争終結を望む声一つだになし。皆が平
  和を望んでいる。そのくせ皆が戦争、戦いが嫌さに戦っている。
  すなわち誰も己の意思を表明できずにいる。戦争は雪崩のような
  ものだ。崩れおちるべきものが崩れ落ちぬかぎり終わらない」
       (7月6日)
  「首相曰く、<国民個人の生命は問題にあらず、我国体を護持
  せねばならぬ>と」(7月9日)
 
  「十時、外国文學科の会。集まるほどのこともなし。<外国を
  知らぬから負けたんだ>と諸教授申される。<外国を知らぬから
  こんな馬鹿な戦争を始めたのだ>と訂正すべきものであろう」
        (9月5日、敗戦後)
   (以上、串田孫一・二宮敬編『渡辺一夫 敗戦日記』 、博文館新社)
    --------------------------------------
   # ルメイは「すべての住民が飛行機や軍需品をつくる作業に
   携わり働いていた。男も女も子供も。街を焼いた時、たくさ
    んの女や子供を殺すことになることをわれわれは知っていた。
    それはやらなければならないことだった」とのちに弁明している。
   (荒井信一氏著『戦争責任論』岩波書店、p.166)
   # 戦争終結までに空襲は中小都市を含む206都市に及び、94
   の都市が焼き払われた。終戦直後に内務省の発表した数字に
    よれば、全国で死者26万人、負傷者42万人、その大部分が非
    戦闘員であった。このようにおびただしい民間人の犠牲をだ
    したにもかかわらず、爆撃が軍事目標に向けられたことを強
    調する一方、無差別爆撃は意図していなかったとすることが、
    この戦争の最終段階におけるアメリカ軍の公式態度であり、
    この態度を固執することが非人道的な空爆にたいする道徳的
    批判を回避する常套手段となった。
  (荒井信一氏著『戦争責任論』岩波書店、pp.166-167)
   ※ 何と東京・日本大空襲の指揮官ルメイには、戦後自衛隊を
   作ったことで勲章までくれてやったという。ここまでくると
    アホらしくて唖然としてグーの音も出ませんなぁ。
  ●「軍事特別措置法」(S20.3.28)
   国民の一切の権利を制限し、私有財産にまで強権介入し、国民
  は本土決戦に備えて、いかなる抗弁、抵抗もできなくなった。
  ●米軍が沖縄本島に上陸(S20.4.1)
  ●戦艦「大和」の最後の出撃(特攻)と撃沈(S20.4.7/14:23)
   「大和」:46センチ砲9門、1億6000万円、1941年完成。
    全長263m、72808屯、27.46ノット、153553馬力。
    乗員3332人中269人救助。
   ※ 連合艦隊参謀長、草鹿龍之介(中将)曰く
   「いずれ一億総特攻ということになるのであるから、
   その模範となるよう立派に死んでもらいたい」(アホウ
   な屁理屈である)
   ※ 戦艦「大和」乗員の発言
   「連合艦隊の作戦というのなら、なぜ参謀長は日吉の
   防空壕におられるのか。防空壕を出て、自ら特攻の指揮
   をとる気はないのか」
   ※ 伊藤整一提督
   「まぁ、我々は死に場所を与えられたのだ」
   ※ 戦艦大和の最期がせまり、動揺する戦艦の兵士たちに向
   かって、哨戒長・臼淵大尉(当時21歳)は、囁く様にこう
   言うのだ。
 
   「進歩ノナイ者ハ決シテ勝タナイ 負ケテ目覚メル
  コトガ最上ノ道ダ 
   日本ハ進歩トイウコトヲ軽ンジ過ギタ 私的ナ潔癖
  ヤ徳義ニコダワッテ 本当ノ進歩ヲ忘レテイタ 敗レ
  テ目覚メル ソレ以外ニドウシテ日本ガ救ワレルカ 
  今目覚メズシテイツ救ワレルカ 俺タチハソノ先導ニ
  ナルノダ 日本ノ新生ニサキガケテ散ル マサニ本望
  ジャナイカ」
  (吉田満氏著『戦艦大和ノ最期』、哨戒長・臼淵大尉
   の言葉、講談社文芸文庫、p.46)
  
   戦艦大和の乗組員3332人のうち3063人が死亡、生存者は
  269人という。

   ※ 八杉康夫上等水兵(当時)が回想する最後の出撃
      「戦争がどんなにすさまじいか、酷いかを私が見たのは、
     あの沈没した日だった。血みどろの甲板や、吹きちぎれ、だ
     れのものか形さえとどめない肉片、重油を死ぬかと思うほど
     飲んだ海の中での漂流、我れ勝ちに駆逐艦のロープを奪い合
     う人々、私は、醜いと思った。このとき、帝国海軍軍人を自
     覚していた人が果たしてどれだけいただろうか。死ぬとは思
     わなかった。殺されると思った。『雪風』に拾い上げられた
     のは私が最後だった。それも、私と同じ年齢ぐらいの上等水
     兵が偶然見つけて救助してくれた。生きるか死ぬかのほんの
     一分にも満たない境だった。重油の海には、まだたくさんの
     人が、助けてくれッ、と叫んでいた。
      いったい何のための戦いだったのか、どうして、あんな酷
     い目に遭わねばならなかったのか、戦後、私が最初に知りた
     いと思ったのはそれだった。私が戦後を生きるという原点は、
     あの四月七日にあったと思っている」と、語っている。
     (辺見じゅん氏著『男たちの大和<下>』ハルキ文庫、p.197)
         --------------------------
       H18年現在、広島県福山市在住の八杉康夫氏(昭和2年
     生)は、H18.4.12日、筆者の住む岡山県井原市で講演さ
     れた。ストーリーは映画『男たちの大和』(辺見じゅん
     原作、佐藤純彌監督、2005年)に準ずるものであったが、
     帝国海軍は陸軍よりもはるかに人命を大事にしたらし
     く、「上官から『死ね』とは一度も言われなかったし、
     船が沈没して海上に放り出された時の生きる方法も軍
     事教練のなかで教えられた」ということだった。
         --------------------------
   ※ 「初霜」救助艇ニ拾ワレタル砲術士、洩ラシテ言ウ
      救助艇忽チニ漂流者ヲ満載、ナオモ追加スル一方ニテ、危
     険状態ニ陥ル 更ニ拾収セバ転覆避ケ難ク、全員空シク海ノ
     藻屑トナラン
      シカモ船べリニカカル手ハイヨイヨ多ク、ソノ力激シク、
     艇ノ傾斜、放置ヲ許サザル状況ニ至ル
     ココニ艇指揮オヨビ乗組下士官、用意ノ日本刀ノ鞘ヲ払イ、
     犇メク腕ヲ、手首ヨリバッサ、バッサト斬り捨テ、マタハ足
     蹴ニカケテ突キ落トス セメテ、スデニ救助艇ニアル者ヲ救
     ワントノ苦肉ノ策ナルモ、斬ラルルヤ敢エナクノケゾッテ堕
     チユク、ソノ顔、ソノ眼光、瞼ヨリ終生消エ難カラン
     剣ヲ揮ウ身モ、顔面蒼白、脂汗滴り、喘ギツツ船べリヲ走り
     廻ル 今生ノ地獄絵ナリ
     (吉田満氏著『戦艦大和ノ最期』講談社文芸文庫、p156)
   ※ 清水芳人少佐(当時)の戦闘詳報
      戦闘が終わると、どの艦でも戦闘詳報が書かれる。戦闘
     詳報 は、戦略・戦術を記載し、次の戦いへの教訓ともなる
     報告書で、連合艦隊司令部へ提出される。
      「戦況逼迫セル場合ニハ、兎角焦慮ノ感ニカラレ、計画
     準備二余裕ナキヲ常トスルモ、特攻兵器ハ別トシテ今後残
     存駆逐艦等ヲ以テ此ノ種ノ特攻作戦ニ成功ヲ期センガ為ニ
     ハ、慎重ニ計画ヲ進メ、事前ノ準備ヲ可及的綿密ニ行フノ
     要アリ。『思ヒ付キ』作戦ハ、精鋭部隊(艦船)ヲモ、ミ
     スミス徒死セシムルニ過ギズ」
      この「大和」戦闘詳報には、これまでの戦闘報告には類
     を見ない激烈な怒りがつらねられている。
      沖縄突入作戦が唐突に下令され、「大和」以下の出撃が、
     「思ヒ付キ」作戦であり「ミスミス徒死セシムル」ものだ
     ったという遺憾の思いで埋まっている。
     (辺見じゅん氏著『男たちの大和<下>』ハルキ文庫、p.202)
 
  ●沖縄戦と沖縄県民の悲劇(S20.4.1~6.23)
    昭和20年3月26日、硫黄島の戦いで栗林中将が戦死した、まさ
   にその早朝、硫黄島から西に1380km離れた沖縄・慶良間列島に
   陸軍第77師団が奇襲上陸。これが沖縄戦の始まりとなった。
   昭和20年4月1日アメリカ軍が沖縄本島の中西部海岸に上陸。
  5月15日は那覇周辺で戦闘激化。この沖縄戦は本土決戦そのも
  ので、時間稼ぎの意味をも持って、沖縄住民は「本土の盾」と
  して犠牲になった。満17歳から45歳未満の男子はみな戦争参加
  を強要され、軍に召集された。戦場では子どもや老人や婦人や
  負傷者といった弱い者から順に犠牲になった。彼等は邪魔物扱
  いにされ、あるいは自決やおとりを強要された。また泣き声で
  陣地が暴露されるという理由で日本軍兵士に殺された。兵士た
  ちは、与えられた戦場で、やみくもに戦って死んで行くという
  役割だけを押しつけられていた。沖縄県民の死者は15万人とも
  20万人ともいわれる。実に県民の3人に1人が亡くなったのであ
  る。
 
    # 海軍根拠地隊司令官・大田実少将(6.13に豊見城村の司
   令部濠で自決)からの海軍次官あて電報(S20.6.6)
   「若キ婦人ハ率先軍ニ身ヲ捧ケ 看護婦烹飯婦ハモト
   ヨリ 砲弾運ヒ 挺身斬込隊スラ申出ルモノアリ 所詮 
   敵来タリナハ老人子供ハ殺サレルヘク 婦女子ハ後方ニ運
   ヒ去ラレテ 毒牙ニ供セラレヘシトテ 親子生別レ 娘ヲ
   軍衛門ニ捨ツル親アリ 看護婦ニ至リテハ 軍移動ニ際シ
   衛生兵既ニ出発シ身寄リ無キ重傷者ヲ助ケテ・・・
   沖縄県民斯ク戦ヘリ 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜
   ランコトヲ・・・」(浅田次郎氏著『勇気凛凛ルリの色
   四十肩と恋愛』講談社文庫、p.60)
    # 「恐ろしきかな、あさましきかな、人類よ、猿の親類よ」
   (長谷川信、『きけわだつみのこえ』より)
    # 米軍は日本軍を評して兵は優秀、下級幹部は良好中級
   将校は凡庸、高級指揮官は愚劣といっているが、上は大本
   営より下は第一線軍の重要な地位を占める人々の多くが、
   用兵作戦の本質的知識と能力に欠けているのではないかと
   疑う。(理知的な作戦参謀八原博道の言葉、保阪正康氏著
   『昭和陸軍の研究<下>』より引用)
    # 沖縄戦の研究者である石原昌家沖縄国際大学教授は、
    『争点・沖縄戦の記憶』(社会評論社)の中で、沖縄戦の
    住民犠牲を、次の三つの類型に大別しています。1.米英両
    軍の砲爆撃死、2.日本軍(皇軍)による犠牲、3.戦争に起
    因する犠牲。
     石原氏はそれらをさらに細かく分けていますが、ここで
    は簡略化してまとめておきます。
    1. は米英軍の空襲や艦鞄射撃、地上戦での砲・銃撃、洞窟
    や壊への攻撃、虐殺、強姦による死などです。
    2. は日本軍(皇軍)による住民の死で、スパイの疑いをか
    けたり、食料や濠の提供を渋ったなど非協力的であった
    ことを理由とした殺害。濠の中で泣く乳幼児の殺害や軍
    による濠追い出しによって砲撃にさらされたり、強制退
    去でマラリアや栄養失調に追いやられたことによる死、
    日本軍の指示、強制による「集団死」などです。
    2. は非戦闘地域での衰弱死、病死、ソテツなどを食べた中
    毒死、収容所内での衰弱死、住民同士のスパイ視殺害、
    食料強奪死、米潜水艦による疎開船、引き揚げ船などの
    撃沈死などです。
     注意しなければいけないのは、牛島満司令官らが自決して
    日本軍が壊滅し、組織的戦闘が終わったとされる6月22日や、
    日本が無条件降伏した8月15日以降も、これらの類型の中の
    いくつかの死は続いていたということです。久米島での日本
    軍守備隊による仲村渠明勇さん一家の虐殺が起こつたのは8月
    13日だし、谷川昇さん一家が虐殺されたのは8月20日です。
    マラリアなどの病死、衰弱死は二、三年経っても続いていま
    した。(目取真俊氏『沖縄「戦後」ゼロ年』NHK出版、
    pp.60-61)
 
  ●ドイツ軍無条件降伏(S20.5.7)<---ヒトラー自殺(1945.4.30)
   ●日本本土無差別爆撃(最高指揮官カーティス・ルメイ)
    # 横浜大通り公園「平和祈念碑由来之記」より
     「一九四一年十二月八日、日本軍の米国真珠湾軍港に対
    する奇襲攻撃により、大日本帝国は連合国軍との間に戦端
    を開くに至った。その後一九四五年八月十五日に至り、わ
    が民族の滅亡を憂うご聖断により漸く敗戦の日を迎えた。
     その間、三年九ケ月余。政・軍・官の情報統制の下、一般
    庶民は戦争の実相を知らされることなく、ひたすら盲従を
    強いられた日々であった。戦線が次第に日本本土に近づく
    につれ、米軍機による空爆は職烈を極め、国内百数十の都
    市が軍事施設・民間施設の別なく攻撃を受け、非武装の一
    般民衆が多数犠牲となった。(後略)」
      (近藤信行氏著『炎の記憶』新潮社、p.49)
    # 「宇都宮平和記念館建設準備会」藤田勝春氏のノートより
     「非戦闘員と、その住まいに容しゃなく襲いかかった、
    この無差別爆撃は、”みな殺し”空襲であった。軍都の
    名にふさわしく、宇都宮には数多くの軍事施設があった。
    が、なぜか、その施設は何ら爆撃されていないのである。
    明らかに、米軍の目的は、一般市民を焼き殺す、いわば
    ”無差別絨椴爆撃”によるみな殺しにあったことは、こ
    れで理解されるところである。
     ところでどういうわけか宇都宮の歴史の中で最も大き
    な火災ともいうべきこの空襲の実態が市民に明かされて
    いなかった。あっても、それはほんの数字的なものばか
    りで味もそっ気もなかった。つまり市民の眼で、市民の
    心で編まれた総合的な記録というものがなかったのであ
    る。そして戦後三十年を迎える今危うく歴史のそとへ押
    し出され、忘却の彼方へ押しやられようとしていたこの
    空襲の”真実の糸”が、市民の手によって編まれるよう
    になった。痛々しい戦災の傷痕は、長い歳月の風化に耐
    え、やはり市民の心に静かに、しかも深く息づいていた
    のであった」(近藤信行氏著『炎の記憶』新潮社、p.63)
    # 戦時下の国民にとって、米国の撒いた”伝単(避難を促す
    警告ビラ)”は見てはならぬものだった。
     「あなたは自分や親兄弟友達の命を助けようとは思ひ
    ませんか助けたければこのビラをよく読んで下さい。
    数日の内に裏面の都市の内四つか五つの都市にある軍事
    施設を米空軍は爆撃します。この都市には軍事施設や軍
    需品を製造する工場があります。軍部がこの勝目のない
    戦争を長引かせる為に使ふ兵器を米空軍は全部破壊しま
    す。けれども爆弾には眼がありませんからどこに落ちる
    か分りません。御承知の様に人道主義のアメリカは罪の
    ない人達を傷つけたくはありません。ですから真に書い
    てある都市から避難して下さい。アメリカの敵はあなた
    方ではありません。あなた方を戦争に引っ張り込んでゐ
    る軍部こそ敵です。アメリカの考へてゐる平和といふの
    はたゞ軍部の庄迫からあなた方を解放する事です。さう
    すればもっとよい新日本が出来上るんです(中略)
     この裏に書いてある都市でなくても爆撃されるかも知
    れませんが少くともこの裏に書いてある都市の内必ず四
    つは爆撃します
     予め注意しておきますから裏に書いてある都市から避
    難して下さい」。
     裏には爆撃中のB29の写真に、攻撃目標の11都市が、
    日本の丸い印鑑のようなかたちで刷りこまれている。
    青森、西宮、大垣、一ノ宮、久留米、宇和島、長岡、函
    館、郡山、津、宇治山田だった。アメリカ軍資料による
    と、長岡には7月31日午後9時39分、8月1日午後9時27分の
    2回にわたってまかれている。
      (近藤信行氏著『炎の記憶』新潮社、p.75)
    # 長岡空襲で孤児になった原田新司氏の記憶
     「どこかへ避難しているとおもっていたんですね。しか
    し、知人に会って尋ねてみると、原田屋さん、見かけなか
    ったなあという返事がかえってきました。平潟神社にいく
    と、死体が山のようになっている。信濃川の土堤を探して
    もみあたりません。一日中探しまわって、疲れはてて、夕
    方、焼跡にかえると、火はどうにかおさまっていて、中に
    入ることができました。すると、瓦礫のなかから祖母や両
    親の持物が出てきました。箪笥の鍵、水晶の印鑑。両親の
    死はその持物でわかりました。遺体は焼けただれて俯せに
    なっていました。庭の奥のほうに井戸があったんですが、
    その近くから女学生のバックルが出てきた。しかし妹たち
    の姿はみあたりません。遺骨だけがありました……。祖母
    57歳、父37歳、母は38歳でした。上の妹は女学校1年生、
    12歳でした。そして9歳、6歳、3歳の妹たち……。みんな
    いっペんに死んでしまったんです。いまでも街で女の子の
    うしろ姿をみると、妹たちのことを想い出します。焼け死
    んだ妹たちのことが忘れられませんね」
     (近藤信行氏著『炎の記憶』新潮社、pp.89-90)
    # 富山は人口10万人、空襲の死者は2275人。大被害だった。
     神通川の河原では、多くの人が死んだ。その堤防と並行
    するように松川の流れている個所があるが、そこでも死屍
    累々だった。東のいたち川でもおなじだった。母と妹を失
    った政二俊子さん(三上在住)は、神通川手前の護国神社
    にはいったとたんに「ブスブスブスと土煙をあげる機銃掃
    射を浴びた」といい、「ふと土手に目をやると、黄燐焼夷
    弾や油脂焼夷弾が真っ赤な光の噴水を上げるように火花を
    ひろげ、その中を黒い影がうごめいているのがうつる。
     ……火炎に映えた真っ赤な敵機は、無防備の都市を悠々
    と飛翔し、物量に物を言わせて投下を続ける。こんな火の
    中では、猫の子一匹助かりっこないと思われた」と書いて
    いる。(近藤信行氏著『炎の記憶』新潮社、p.102)
    # 熊谷空襲、長島二三子氏の詩
     死者たちよ 戦争で死んだものたちよ
     赤児も 大人も 年寄りも
     黄色も 黒も 白瞥
     轟然と声をはなって泣け
     生きている者たちに その声を忘れさせるな
      (近藤信行氏著『炎の記憶』新潮社、p.183)
    # アメリカの詩人ジョン・チアルディ(日本爆撃に参加)
     「カーティス・ルメイがきて、作戦は全面的に変更され
    た。ルメイは第八空軍の司令官だったが、第20空軍を引き
    つげというわけで、ここへきたんだった。その第20空軍に
    私はいた。まず戦術に変更があった。ルメイは、夜間空襲
    せよ。5000フィートでやれ、銃撃なし、後部にふたりの
    チェックマンを配置せよ、といった。これで回転銃座と弾
    薬の重量が変わる。日本軍は戦闘機で夜間戦うことはしな
    い。レーダーもない。焼夷弾をおとせばいい、っていった
    んだ。家にすごい写真をもってるんだ。トーキョーが平坦
    な灰の面になっている。ところどころに立っているのは石
    造りのビルだけだ。注意深くその写真をみると、そのビル
    も内部は破壊されてる。この火炎をのがれようと川にとび
    こんだものもいたんだ。その数も多く、火にまかれて、み
    んな窒息してしまった。……
     私としては優秀戦士になろうなんて野心はなかった。私
    は自分に暗示をかけた。死んでもやむをえないんだってね。
    それには憎しみが必要だから、日本人ならだれもが死ねば
    いいとおもった。
     たしかにプロパガンダの影響もあったが、同時に、実際
    自分たちが耳にしたことも作用していた。なにしろ敵なん
    だ。その敵を潰滅させるためにここへきてるんだ。そんな
    兵隊特有の近視眼的発想があった」。
     (近藤信行氏著『炎の記憶』新潮社、p.201)
    # 帰り掛けの駄賃:日本最後の空爆、小田原空爆
      (近藤信行氏著『炎の記憶』新潮社、p.202-)
    # 島田豊治氏体験記(『東京被爆記』より)
     「ひとかたまりにうずくまり、降り注ぐ火の粉と飛んで
    来る物から身を守るため、トタン板をかぶっていた。弟の
    防空ずきんに火がついて燃え上がった。父が素手でもみ消
    していた。その間に母が見えなくなっているのに気がつか
    なかった。母を捜しに川岸近くまでにじりよってみたが、
    そこは魔のふちであった。男も女も、年寄りも子どもも、
    折重なって川に落ちころげていた。こうして、母を捜すこ
    ともできずに、長い悪夢の夜を過ごしたのだった。
     朝になり、恐ろしい光景があちこちにあった。地上の物
    はすべて燃え尽され、異様な臭気がただよっていた。それ
    からの毎日は、生死不明の母を捜すことに明け暮れた。焼
    けこげた死体のまわりに品物を求め、水死体を引寄せては
    顔をあらためて見たりした。あちこちにバラックが立つよ
    うになってからも、病院から病院へと足を棒にして歩き続
    けた。どんな姿になっていてでも生きてさえいたらそれだ
    けを祈って捜しまわったが、姿はもとより消息すらわから
    なかった」(近藤信行氏著『炎の記憶』新潮社、p.224)
  ●沖縄守備軍全滅(S20.6.23)
   "鉄の暴風"(砲撃)。戦死9万人、一般市民の死者10万人。
  ●国民義勇隊結成のすすめと法的枠付け(S20.6)
   15歳以上60歳までの男子と17歳以上40歳までの女子に義勇兵
  役を課す。これが国家総力戦構想のなれの果ての姿だった(国
  民総員特攻化)。
   日本陸軍は人間特攻として戦車やアメリカ軍に突入する玉砕
  要員が欲しかっただけのことである。
  ●国民義勇隊の兵器展示(S20.7)
   手りゅう弾、単発銃(元亀天正の銃)、竹ヤリ、弓、さす叉、
  鎌、鉈、玄翁、出刃包丁、とび口など。
   こういう発想を平気で行う軍人は狂人という他なく、呆れ果
  てるばかりである。
   結局、昭和陸軍は、あらゆる戦力が尽きつつあったときに、
  本土決戦という名の玉砕を目指していたのだ。
  ●満州への定住者約130万人
  ●敗戦時の海外の日本人
   軍人・軍属:約353万人、民間人:約306万人
    (昭和20年、『昭和 二万日の全記録』講談社)
  ●プルトニウムを用いた人類最初の原爆実験成功(1945.7.16)
  ●ソビエト軍の満州進攻(S20.8.8)
   ソビエト軍は将兵160万人、戦車等5000台余り、航空機4000機
  以上という圧倒的兵力で満州になだれ込んだ。ソビエト軍は、南
  へと逃れる開拓団の老若男女を殺戮し、ハルビンで、新京で、奉
  天で、破壊と略奪の限りを尽くした。満州国の充実した重工業の
  設備を肇、主要な機械や財貨などすべてがソビエトに持ち去られ
  た。そのなかには、何ら国際法上正当性にない仕方で連れ去られ
  、抑留された60万人の将兵や官吏らもいた。
 
   <日本人難民、棄民、捨駒以下、中学生の囮兵>
  軍および政府関係の日本人家族だけが、なぜ特別編成の列
  車で新京を離れられたのか。この年の秋までに日本へ帰りつ
  いた人びともある。生きのこったことを責めようとは思わな
  い。しかし、決定権をもち、いち早く情報をとらえ得た人た
  ち、その家族の敗戦は、一般の在満居留民とは異なった。身
  勝手な軍人たちの判断の詳細とその責任は、現在に至るまで
  あきらかにされていない。軍人たちにより、明白な「棄民」
  がおこなわれた。軍中央も政府も、承知していたはずである。
  切り棄てることがきまった土地へ、女学校と中学校の三年
  生が動員されている。たまたまわたしは、その動員学徒の一
  人として開拓団生活を体験している。それを小さな文章に書
  いた縁で、新京第一中学校三年生の「運命」を知った(英文
  学者の小田島雄志氏の同級生たち。小田島さんとわたしには、
  新京室町小学校の一年一学期、同級だった縁がある。知った
  のは何十年ものちのこと)。
  新京一中の三年生は三つのグループにわけられ、そのうち
  の126名が5月28日、「東寧隊」として東満国境近くの東寧報
  国農場に動員された。
  この日付は、大本営が「朝鮮方面対ソ作戦計画要領」を関
  東軍に示達する2日前。同要領によって、京図線の南・連京線
  の東という三角地帯が定まったのだが、南満と北朝鮮へ重点
  変更の作戦計画は、20年1月上旬にはじまっていた。さらに
  新京一中生の動員は、予定よりも1か月間延長になっている。
   8月9日未明、ソ連参戦。東寧は穆稜(ムリン)などと同様、
  国境にいた関東軍がほとんど全滅した一帯である。関東軍に
  あって、国境部隊は時間かせぎの捨駒以下だった。『人間の
  条件』の主人公は、穆稜の戦闘で奇蹟的に生きのこる。作者
  自身の体験が裏付けにある。東寧の陣地には、彫刻家の佐藤
  忠良氏もいて、「地獄」を体験、ソ連軍の捕虜となり、シベ
  リア送りとなった。
  現役部隊がほぼ全滅し、生きのこる成算のほとんどなくな
  る国境地帯へ、なぜ14か15の中学生を動員したのか。しかも、
  ソ連参戦まで動員は継続された。列車は不通となり、国境線
  の戦闘が終ったあと、中学生たちは歩いて新京の親もとまで
  帰る。大陸の広大さ、伝染病と餓え、北満のきびしい寒気、
  そしてソ連軍の銃火と中国人の憎悪。中学生たちは70余日の
  避難行をし、乞食姿の幽鬼のようになって新京へたどりつく
  が、四人が途中で亡くなった。
  体験者の一人谷口倍氏が『仔羊たちの戦場-ボクたち中
  学生は関東軍の囮兵だった』を出版するのは1988年。体験か
  ら40年以上経ってである。
   (澤地久枝氏著『わたしが生きた「昭和」』
      岩波現代文庫. p210-213)
  ●原爆投下:広島(S20.8.6=ウラン)
    長崎(S20.8.9=プルトニウム)
   トルーマンにとって必要だったのは、ソビエトを怯えさせるこ
  と、アメリカの優位をスターリンに認めさせ野放図な振る舞いを
  慎ませることだった。そのために「世界中を焼き尽くす業火」を、
  降伏する前の日本に対して、使用しなければならない。7月26日
  に発表された「ポツダム宣言」にたいして、アメリカはソビエト
  の署名を求めなかった。その炎が燃えさかった時、スターリンは
  新大統領(トルーマン)がなぜかくも強硬だったかを知るだろう。
   (福田和也氏著『地ひらく』文藝春秋より)
 
   ※ 「そりゃもう目もあてられん状態じゃけェ、あっちにも
   こっちにも黒焦げになった人が転がっとるんよ。だれがだ
   れやら見分けがつかんのじゃ、むごいことじゃ。あっちこ
   っちで焼いとるんじゃけェ、たまらんのよその匂いがのう、
   赤ん坊を抱いたまま死んどってんよ、電車でも焼け死んど
   りんさる。腐って蛆がわいとりんさる。薬がないんよ、ヨ
   ードチンキを塗るぐらいじゃのう、死に水をとったげるた
   めにきたようなもんじゃよ」(新藤兼人氏の姉の話)
  (新藤兼人氏著『新藤兼人・原爆を撮る』新日本出版社、p.10)
    ************   ************   ************
   ※  6月6日にスチムソンは、5月31日の暫定委員会の決定を
    大統領に報告した。その時には、「大量の労働者を使用し、
    労働者住宅群にびっしり取り囲まれている重要な軍需工場」
    という投下目標が実際には住民の大量殺教を意味すること
    は知っていたのである。
     したがって、トルーマンが日記に書いている女、子供を
    投下目標にしないというスチムソンとの合意を額面通りに
    受け取ることは到底できない。
     実際にも原爆による直接の被害を受けたのは、軍人より
    も圧倒的に多数の民間人であった。広島の場合でいえば、
    軍人の被爆者は4万人以上、軍人以外の直接被爆者の数は31
    万から32万人であったと考えられている。
     また被爆者の意識には、「原爆によってもたらされたの
    は、一瞬にして人間や人間の生の条件そのものを壊滅させ
    炎上させる非人間的な世界、ホロコーストの世界にも匹敵
    できる地獄」としてとらえられている。
    そのような被爆のイメージをあらわしたものに深水経孝
    の絵物語『崎陽のあらし』がある。被爆した後中学教師と
    なった深水は、被爆体験を記録として後世に残すため、ま
    だ惨劇の記憶の生々しい1946年夏にこの絵物語を描いた。
    そこには天を仰いで路上に倒れる女、子供、母子、両眼
    を失い天に祈る乙女、火焔をあげるバスの中で倒れ這いだ
    そうとして力尽き焼け焦げる人、火中に退路を絶たれ防火
    用水に飛び込み悶絶する人々などが燃えさかる市街を背景
    に描かれ、心にやきついた被爆の原風景が如実に再現され
    ている。
     深水は絵に添えた文章のなかで、この原風景を「古の修
    羅もかくて」とか、「いずれも悲しきことながら、之の世
    の事とも思われず」、あるいは「されどこれ、地獄という
    も愚かなり。想え、外道、天日の晦きを」などと形容して
    いる。被爆直後の心象として刻まれた世界は「この世の外」
    、「地獄」、「外道」 の世界、まさに人間が非人間化
    されるこの世の終末、すなわちホロコーストの世界であっ
    た。 (荒井信一氏著『戦争責任論』岩波書店、pp.174-175)
    ************   ************   ************


<転載終了>