達人さんのサイトより
https://blog.goo.ne.jp/0345525onodera/e/db8afaecc22597dacf9e0452620a2454
<転載開始>
 ●開戦前の参謀本部:田中新一作戦部長、服部卓四郎作戦
  課長、辻政信班長(この3人の徹底した対米開戦派に牛耳
  られていた)。
   ○特に辻政信は「作戦の神様」と言われていた。
   ○服部卓四郎はおめおめと生き残って、あろうことか
   敗戦後もGHQ情報部ウィロビー将軍などと結びついて
   再軍備を画策した。性懲りのないアホウはいつの世
   も存在するものだ。
   ○このほかの腐敗卑怯狡猾悪魔軍人の典型例を掲げて
   おこう。
   荒木貞夫、真崎甚三郎、川島義之、山下奉文、
   福栄真平、富永恭次、寺内寿一、山田乙三、
   牟田口廉也
  ●一縷の望み:東郷茂徳外務大臣
   「外務省職員はこぞって、早期終戦に努力せよ」
   この東郷茂徳は1948年、極東軍事裁判でA級戦犯にされ、
  憤慨しつつ獄中で亡くなった。東郷外相は、外務省によっ
  て戦犯にされたという疑いが濃厚なのである。
 
  ★[無残な結果]
  真珠湾奇襲という卑怯で悪辣な行動は後に禍根を残した。
  南方戦線での兵の使い捨てと玉砕。他民族を差別・蹂躙。
  ●「言論出版集会結社等臨時取締法」発布(S16.12)
  完璧な言論統制
  ●マレー作戦(シンガポール攻略など、S16.12.8~S17.2.15)
   司令官山下奉文ほか、西村、松井、牟田口が関わった。
  シンガポールは昭南島と市名を変えられ軍政が敷かれ、
  日本軍は住民から言葉を奪った。
   山下奉文:「これから、お前らを天皇陛下の赤子にして
      やる。ありがたいと思え。・・・」
  ●比島攻略戦開始(S16.12)
   フィリピンではこの時から、レイテ沖海戦を経て敗戦
  までの3年8か月の間に約51万人の将兵、民間人が死亡した。
  ●マニラ陥落(S17.1)
  ●ダグラス・マッカーサー:"I shall return."
   フィリピンではこの時から、レイテ沖海戦を経て敗戦ま
   での3年8か月の間に約51万人の将兵、民間人が死亡した。
    ・マニラ陥落(S17.1)
    ・ダグラス・マッカーサー:"I shall return."
     フィリピン、コレヒドール島(S17.5陥落)を脱出
     (S17.3.12)。後には在オーストラリアの連合軍と
     密接に連絡する地下ゲリラ組織が残った(残置諜報)。
     (ミンダナオ島ダバオには、東南アジア最大の日本人
     コロニーがあった。日本人移民がほとんど政府の力を
    借りずに築いた町だった。戦争当時約2万人が住んでい
    たが戦争の被害者となった(鶴見良行氏著『マングロ
    ーブの沼地で』朝日選書;1994:165)。
  ●ドーリトル空襲:東京が初めて空襲される(S17.4.18)
   アメリカ空母ホーネットから発進したB25が東京、名古屋、
  関西方面を初空襲。(作戦名『シャングリラ』、S18年ルー
  ズベルトにより命名される)
  ●「翼賛選挙」(昭和17年4月30日)
   ○政府御用機関「翼賛政治体制協議会」が選定、推薦
   した候補者が大量に立候補し、県、大日本翼賛壮年
   団、学校長、警防団、町内会長など、官民あげて手
   厚い支援が行われ、臨時軍事費からも一人当たり
   5000円の選挙費用が渡された。推薦者は381人(定数
   466人)当選。
   ○東条英機曰く
   「内外の新情勢に応じ、大東亜戦争の完遂に向か
   って国内体制を強化、これを一分の隙もないものに
   するのが、今度の総選挙の持つ重大な意義だ。推薦
   制の活用が大いなる貢献と示唆をもたらすだろう」
   (身勝手で空虚な演説といわざるをえない)
   ○日本の政党政治は名実ともに消失した。
   ○国内は太平洋戦争緒戦の勝利で沸き立っていた。
  ●珊瑚海海戦(MO作戦、S17.5.7~8)
   空母対空母の初めての激突。翔鶴航行不能、ヨークタウ
  ン大破、祥鳳とレキシントン沈没で痛み分け。
  ●ミッドウェー海戦での惨敗(S17.6.5)
   正規空母四隻、重巡一隻を喪失。優秀なパイロットと整備
  員を失う。密閉型格納庫方式の採用が空母の命取りになった。
  さらに航空機損失322機、失った兵員3500名に達する壊滅的
  敗北を喫した。(作戦の責任者は順調に昇進した。お笑い種だ)。
   澤地久枝氏著『滄海よ眠れ(-)』(文春文庫)によれば、
  淵田(美津雄)戦史(淵田・奥宮共著『ミッドウェー』)の中
  の「運命の五分間」説が大ウソであって、現実は艦隊司令部
  の”敵空母出現せず”の思い込みからきた作戦ミスだった。
  淵田は中佐であり海軍指揮官であり、事実までねじ曲げる軍
  隊の恐ろしさが、ここにも首をだしている。
  ●ガダルカナルを中心とした陸海の攻防での惨敗
       (S17.8.8~S18.2)
   第一次ソロモン海戦。陸海軍兵隊約3万5000人のうち約2万
   5000人が無駄に死(大半が餓死、マラリアによる病死)んだ。
   多くの熟練パイロットの戦死により海軍航空隊の戦力が激減
   (893機の飛行機と2362名の搭乗員を失う)した。
    ※井本熊男(当時参謀本部作戦課)の回想
     「ガ島作戦で最も深く自省三思して責任を痛感し
     なければならぬのは、当時大本営にありて、この作
     戦を計画、指導した、洞察力のない、先の見えぬ、
     而も第一線の実情苦心を察する能力のない人間共
     (吾人もその一人)でなければならぬ」
    ※大本営発表
     「・・・ガダルカナル島に作戦中の部隊は・・其
     の目的を達成せるに依り二月上旬同島を撤し他に転
     進せしめられたり」(筆者注:あほか? 狂っとる)。
  ●横浜事件(S.17.9~10頃)
    太平洋戦争下の特高警察による、研究者や編集者に対する
   言論・思想弾圧事件。
    1942年、総合雑誌『改造』8、9月号に細川嘉六論文〈世
    界史の動向と日本〉が掲載されたが、発行1ヵ月後,大本営
    報道部長谷萩少将が細川論文は共産主義の宣伝であると非難
    し、これをきっかけとして神奈川県特高警察は、9月14日に
    細川嘉六を出版法違反で検挙し、知識人に影響力をもつ改造
    社弾圧の口実をデッチ上げようとした。しかし,細川論文は
    厳重な情報局の事前検閲を通過していたぐらいだから、共産
    主義宣伝の証拠に決め手を欠いていた。そこで特高は細川嘉
    六の知友をかたっぱしから検挙し始め、このときの家宅捜査
    で押収した証拠品の中から,細川嘉六の郷里の富山県泊町に
    『改造』『中央公論』編集者や研究者を招待したさい開いた
    宴会の1枚の写真を発見した。
    特高はこの会合を共産党再建の会議と決めつけ、改造社、
    中央公論社、日本評論社、岩波書店、朝日新聞社などの編集
    者を検挙し、拷問により自白を強要した(泊共産党再建事件)。
    このため44年7月、大正デモクラシー以来リベラルな伝統
    をもつ 『改造』『中央公論』両誌は廃刊させられた。一方、
    特高は弾圧の輪を広げ、細川嘉六の周辺にいた、アメリカ共
    産党と関係があったとされた労働問題研究家川田寿夫妻、世
    界経済調査会、満鉄調査部の調査員や研究者を検挙し、治安
    維持法で起訴した。
    拷問によって中央公論編集者2名が死亡、さらに出獄後2名
    が死亡した。その他の被告は、敗戦後の9月から10月にかけて
    一律に懲役2年、執行猶予3年という形で釈放され、『改造』
    『中央公論』も復刊された。拷問した3人の特高警察官は被告
    たちに人権蹂躙の罪で告訴され有罪となったが、投獄されな
    かった。(松浦総三(平凡社大百科事典より))
  ●「敵性語を使うな」とか「敵性音楽を聴くな」
   国民には強制的な言論統制がなされていた。この年(昭和
  18年)の初めから「敵性語を使うな」とか「敵性音楽を聴く
  な」という命令が内務省や情報局からだされた。カフェとか
  ダンスといった語はすでに使われず、野球のストライクもま
  た「よし一本」という具合に変わった。電車のなかで英語の
  教科書をもっていた学生が、公衆の面前で難詰されたり、警
  察に告げ口されたりもした。
   とにかく米英にかかわる文化や言語、教養などはすべて日
  常生活から追い払えというのだ。まさに末期的な心理状態が
  つくられていく予兆であった。指導者たちが自分たちに都合
  のいい情報のみを聞かせることで国民に奇妙な陶酔をつくっ
  ていき、それは国民の思考を放棄させる。つまり考えること
  を止めよという人間のロボット化だったのだ。
   ロボット化に抗して戦争に悲観的な意見を述べたり、指導
  者を批判したりすると、たちまちのうちに告げ口をする者に
  よって警察に連行されるという状態だった。(保阪正康氏著
  『あの戦争は何だったのか』新潮新書、pp.154-155より)
  ●ビスマルク海での日本軍輸送船団壊滅(S18.3.4)
   アメリカ空軍による新しい攻撃方法(スキップ爆撃)
  ●唖然とする100トン戦車構想
   どうやって持ち込み、何に使う? 実際機能するのか?
   貧弱な発想の典型。
  ●「い号作戦」(S18.4.7)
   零戦はじめ合計400機による航空部隊による、ニューギニア
  のアメリカ軍飛行場攻撃作戦(山本五十六自ら指揮)
  ●連合艦隊司令長官、山本五十六大将戦死(S18.4.18)
   暗号は完全に解読されていた。ミッドウェーの失敗に学ば
  ないバカ丸だしの軍部であった。
  ●御用哲学者田辺元の体制迎合的講義(1943.5.19)
    (林尹夫(1945年7月28日戦死、享年24歳)の日記より)
    19日のT(筆者注:田辺元)教授月曜講義「死生」を聴講。
   すなわち、死は自然現象であり、我々の本性意志のいかんと
   もしがたいものとみる、ストアを代表とする自然観的認識論
   と、これにたいして、死を現実の可能性とみて、それへの覚
   悟により蘇生の意義をみるハイデッガーを代表とする自覚存
   在論的態度を説明し、このいずれも現代の我々の死生の迷い
   を救うものでないとする。しからば我々を救う死の態度とは
   ”決死 ”という覚悟のなかにありとT教授は説く。つまり、
   死を可能性の問題として我々の生を考えるのではなく、我々
   はつねに死にとびこんでゆくことを前提に現在の生があると
   いう。この場合、死はSein(存在)ではなくしてSollen(当
   為)であるという。
    林は、「T教授の論理は、あきらかに今日の我が国の現状の
   必要性に即応することを考慮した考え方であろう」と鋭く見
   抜いていた。
   (大貫美恵子氏著『学徒兵の精神誌』岩波書店、p.124)
  ●アッツ島玉砕(S18.5.29)
   大東亜戦争下での初めての玉砕。傷病兵を安楽死させ、
  2576人全員死亡。(藤田嗣治画伯『アッツ島玉砕』を見よ!!)   
   山崎保代大佐:「傷病者は最後の覚悟を決め、非戦闘員た
    る軍属は各自兵器を執り、共に生きて捕虜
    の辱めを受けざるよう覚悟せしめたり。他
    に策なきにあらざるも、武人の最後を汚さ
    んことを虞る。英魂と共に突撃せん」。
    ※「玉砕」とは
     「玉砕」は、唐の時代に編まれた『北斉書』の一節
     「大丈夫寧可玉砕何能全」に由来すると言われる。大
     丈夫たる男子は、いたずらに生き長らえるよりは玉の
     ごとく美しく砕け散るほうがよいという意味だが、そ
     れを現代に復活させ神がかり的な殉国思想と結び付け
     たところに、大本営の詐術があった。国家および天皇
     のためにいさぎよく死ぬことは、生き延びることより
     も美しい。実際には戦場で無謀な突撃をして皆殺しに
     されることを、「玉砕」の二文字は美化し、そのよう
     な徒死に向かって国民の意識を誘導する役割をも果た
     した。(野村進氏著『日本領サイパン島の一万日』
            岩波書店、p.207)
    ※ 清沢洌氏『暗黒日記』(岩波文庫、p.39より)
     昨日(S18.5.29)アッツ島の日本軍が玉砕した旨の
     放送があった。午后五時大本営発表だ。今朝の新聞で
     みると、最後には百数十名しか残らず、負傷者は自決
     し、健康者は突撃して死んだという。これが軍関係で
     なければ、こうした疑問が起って社会の問題となった
     ろう。
     第一、谷萩報道部長の放送によると、同部隊長山崎
     保代大佐は一兵の援助をも乞わなかったという。しか
     らば何故に本部は進んでこれに援兵を送らなかったか。
     第二、敵の行動は分っていたはずだ。アラスカの完
     備の如きは特に然り。しからば何故にこれに対する善
     後処置をせず、孤立無援のままにして置いたか。
     第三、軍隊の勇壮無比なることが、世界に冠絶して
     いればいるほど、その全滅は作戦上の失敗になるので
     はないか。
     第四、作戦に対する批判が全くないことが、その反
     省が皆無になり、したがってあらゆる失敗が行われる
     わけではないか。
     第五、次にくるものはキスカだ。ここに一ケ師団ぐ
     らいのものがいるといわれる。玉砕主義は、この人々
     の生命をも奪うであろう。それが国家のためにいいの
     であるか。この点も今後必ず問題になろう。もっとも
     一般民衆にはそんな事は疑問にはならないかも知れぬ。
     ああ、暗愚なる大衆!
    ※ 不愉快なのは徳富蘇峰、武藤貞一、斎藤忠といった鼠輩
    が威張り廻していることだ。(伊藤正徳)
      (清沢洌氏著『暗黒日記』、岩波文庫、p.46)
    ※ 開戦の責任四天王は・・・
    徳富蘇峰(文筆界)、本多熊太郎(外交界)、末次信正
     (軍界)、中野正剛(政界)
      (清沢洌氏著『暗黒日記』、岩波文庫、p.102)
  ●東条内閣「学徒戦時動員体制確立要綱」を閣議決定(S18.6.25)
   「大東亜戦争の現段階に対処し、教育練成内容の一環とし
  て、学徒の戦時動員体制を確立し学徒をして有事即応の態勢
  たらしむるとともに、これが勤労動員を強化して学徒尽忠の
  至誠を傾け、その総力を戦力増強に結集せしめんとす」。
   ●清沢洌氏の日記より(S18.7.31)
    毎朝のラジオを聞いて常に思う。世界の大国において、かく
   の如く貧弱にして無学なる指導者を有した国が類例ありや。国
   際政治の重要なる時代にあって国際政治を知らず。全く世界の
   情勢を知らざる者によって導かるる危険さ。
  ●イタリア無条件降伏(S18.9.8)
  ●学徒出陣(S18.10.21、最初の「壮行会」、25000人)
   東条英機:「御国の若人たる諸君が、勇躍学窓より征途に就
    き、祖先の遺風を昂揚し、仇なす敵を撃破して皇
    運を扶翼し奉る日はきたのである」。
   ○時まさに連戦連敗、戦争を知らない人間には、戦争をや
   める断固たる決意も持ち得なかったということだろう。
   あきれる他はない。
   ○特攻パイロットには意図的に学徒出陣組が徴用された。
   ○1943年12月にいまだに正確な数字はわかっていないが、
     全国で20~30万人の学生が学徒兵として徴兵された。
    (大貫美恵子氏著『学徒兵の精神誌』岩波書店、p.126)
   ○学徒兵として召集された朝鮮人は4385人、このうち640人
   が戦死 (大貫恵美子『ねじ曲げられた桜』岩波書店)
   ○林尹夫(1945年7月28日戦死、享年24歳)の場合
     1941年9月5日には、林は次のように記す。「日本よ、
     ぼくはなぜ、この国に敬愛の念を持ちえないのか」。
     さらに10月12日には、「国家、それは強力な支配権力
     の実体である。・・・ぼくは、もはや日本を賛美する
     こと、それすらできないのだ」と言いつつ、「戦争は、
     国体擁護のためではない。そうではなくして、日本の
     基本的性格と、そのあり方が、日本という国家に、戦
     争を不可欠な要素たらしめているのだ」と鋭い洞察を
     示す。日本は戦争なしでは一瞬たりとも存続しえない
     戦争機械のような存在である。戦争がなければ、自ら
     が生き延びるために無理やりにでも戦争を作り出すだ
     ろう-ーこの戦争不可欠という洞察からはどのような
     希望も導き出すことはできない。林はこの日、次のよ
     うにも述懐する。
      ・・・ぼくは、この戦争で死ぬことが、我ら世代
     の宿命として受けとらねばならぬような気がする。
     根本的な問題について、ぼくらは発言し、批判し、
     是非を論じ、そして決然たる態度で行動する。そう
     いう自主性と実践性を剥奪されたままの状況で戦場
     にでねばならぬためである。だから宿命と言うのだ。
     戦争で死ぬことを、国家の、かかる要求のなかで
     死ぬことを、讃えたいとは霜ほども思わぬ。その、
     あまりにもひどい悲劇のゆえに。(大貫美恵子氏著
     『学徒兵の精神誌』岩波書店、pp.120-121)
  ●東条英機を公然と批判した中野正剛は憲兵隊に引っ張られ10月
  27日自殺させられた。
   中野正剛:「国は経済によりて滅びず。敗戦によりてすら滅
    びず。指導者が自信を喪失し、国民が帰趨に迷う
    ことにより滅びる」(『戦時宰相論』)
  ●マキン、タラワ両島の守備隊が全滅(S18.11)
   柴崎恵次海軍少将他4500名全滅
  ●ブーゲンビル島沖海戦(S18.11)
   米艦のレーダーが大威力を発揮、絶対劣勢と思われた米艦隊
  が勝利した。日本海軍はブーゲンビル島突入に失敗。情報収集
  分析・活用を無視した結果であった。なおこの時の戦果は大本
  営発表の1/10だった。
  ●マーシャル諸島、クェゼリン本島、ルオット、ナムル壊滅
       (S19.1)
  ●フーコン死の行軍(S19.1)~メイクテーラ奪回(?)作戦(S20)
   <古山高麗雄氏『フーコン戦記』(文藝春秋社)より>
   俺たちが半月がかりであの道を踏破したのは、十九年の
   一月中旬から下旬にかけてであったという。泰緬鉄道が完
   成したのは、十八年の十月二十五日だという。すでに鉄道
   は開通していたのだが、俺たちは歩かされた。鉄道隊は、
   「歩兵を歩かせるな」を合言葉にして敷設を急いだという
   が、できると物資輪送が先になり、歩兵は後になった、と
   古賀中尉は書いている。
   歩兵は歩け、である。けれども歩兵だからと言って、歩
   かせて泰緬国境を越えていたのでは、大東亜戦争では勝て
   なかったのだ。歩兵は歩かせるものと考えていた軍隊は、
   歩兵は送るものと考えていた軍隊には勝てないのである。
   俺たちは日露戦争用の鉄砲、三八式歩兵銃を担がされ、自
   動小銃をかかえて輸送機で運ばれていた軍隊に、途方もな
   い長い道のりを、途方もない長い時間歩いて向かって行っ
   て、兵員が少なくても、食べる物がなくても、大和魂で戦
   えば勝てる、敵の兵員が十倍なら、一人が十人ずつ殺せば
   勝てる、俺たちはそんなことを言われながら戦い、やられ
   たのだ。・・・
   どれぐらい待っただろうか。やっと一行が現われた。
   徒歩であった。副官らしい将校と参謀を従えて、師団長も
   泥道を歩いた。前後に護衛兵らしいのがいた。
   師団長だの参謀だのというのは、物を食っているから元
   気である。着ているものも、汚れてなくて立派である。フ
   ーコンでは戦闘司令所が危険にさらされたこともあったと
   いうが、あいつらは、食糧にも、酒、タバコにも不自由し
   ないし、だから、元気なわけだ。しかもこうして、瀕死の
   兵士や、浮浪者のようになっている兵士は見せないように
   と部下たちがしつらえるのだから、白骨街道の飢餓街道の
   と聞いても、わからないのである。あるいは、わかっても
   意に介せぬ連中でもあるのだろうが、どうしてみんな、あ
   んなやつらに仕えたがるのか。
   いろいろ記憶が呆けていると言っても、あのとき、貴様
   ら浮浪者のような兵隊は、閣下には見せられん、と言った
   下士官の言葉も、あの姐虫と同じように、忘れることがで
   きないのである。
  ●海軍軍務局が呉海軍工廠魚雷実験部に対して人間魚雷(暗号名
  「○六」)の試作を命じた。
  ●米空母機動部隊トラック島攻撃~パラオ空襲(S19.2~3)
   日本海軍は燃料補給に致命的打撃を被った。
   トラック島(海軍最大の前進基地)の機能喪失とラバウルの
   孤立(S19.3)。このあと日本軍は全ての戦いで完敗を重ねた。
  ●中学生勤労動員大綱決定(S19.3.29)
  ●インパール死の行軍(S19.3月8日~7月)
   補給がなければ潰れるのは当然。稀にみる杜撰で愚劣な作戦だ
  った。司令官:牟田口廉也、10万人中7万人死亡)
        <インパール作戦での日本兵の敵>
   ○一番目:牟田口廉也(および日本の軍部)
    「インパール作戦」大敗後、作戦失敗を問わ
    れた牟田口は、こう弁明した。
   「この作戦は″援蒋ライン”を断ち切る重要
    な戦闘だった。この失敗はひとえに、師団の連
    中がだらしないせいである。戦闘意欲がなく、
    私に逆らって、敵前逃亡したのだ」
    部下に一切の責任を押し付けたのである。三
    人の師団長たちはそれぞれ罷免、更迭された。
    しかし、牟田口は責任を問われることはなく参
    謀本部付という名目で東京に戻っているのだか
    ら、開いた口がふさがらない。
    私はインパール作戦で辛うじて生きのこった
    兵士たちに取材を試みたことがある(昭和63年
    のこと)。彼らの大半は数珠をにぎりしめて私
    の取材に応じた。そして私がひとたび牟田口の
    名を口にするや、身体をふるわせ、「あんな軍
    人が畳の上で死んだことは許されない」と悪し
    ざまに罵ることでも共通していた。(保阪正康
    氏著『あの戦争は何だったのか』新潮新書、p.179)
   ○二番目:軍部に同調する日本人のものの考え方
   ○三番目:雨季とマラリア(蚊)
   ○四番目:飢餓
   ○五番目:英国・インド軍
 
   萩原の言うとおりなのかも知れない。確かに、軍隊では、将軍
  の一声で、何万人もの人間の運命が違って来る。参謀が無茶な作
  戦を作ると、大量の人間が死ぬことになる。無茶と言えば、あの
  戦争自体が、最初から無茶だったのかも知れない。ビルマくんだ
  りまで行って、糧秣も兵器弾薬もろくになく、十五倍、二十倍の
  敵と戦うなどというのは、どだい無茶である。あの頃は、不可能
  を可能にするのが大和魂だ、などと言われて尻を叩かれたが、将
  軍や参謀たちは、成算もないのに、ただやみくもに不可能を可能
  にしろと命令していたわけだろうか。泰緬鉄道を作ることが、ど
  れほどの難工事であるか、アラカンを越えてインパールを攻略す
  ることがどのようなものであるか、将軍や参謀たちには、まるで
  わかっていなかったのであろうか。
   (奴ら、一種の精神病患者なんやね、病人たい、病人、軍人病
  とでも言えばよかかね、この病気にかかると、ミイトキーナを死
  守せよ、などと平気で言えるようになる。玉砕なんて、自慢にも
  何もならんよ、勝目のない喧嘩をして、ぶっ飛ばされたからと言
  うて、自慢にはならんじゃろう)。
    (古山高麗雄氏『断作戦』(文春文庫)pp.46-47)
     ※大本営発表(この頃は大ウソとボカしの連続)
      「コヒマ及インパール平地周辺に於て作戦中なりし
     我部隊は八月上旬印緬国境線付近に戦闘を整理し次期
     作戦準備中なり」
     ※桑原真一氏(日本-イギリス戦友会交流世話人)
      「あの作戦の目的について、私は今も知らない。ビル
     マ、インドからあなたたち(注:英軍)を追い出そうと
     したことだと思うが、しかしそれが目的ならあのような
     かたちの戦闘は必要でない。私は、あの作戦は高級指揮
     官の私利私欲のために利用されたと思っている。いや私
     だけではない。皆、そう思っている」
      (保阪正康氏著『昭和陸軍の研究<下>』より)
     ※インパールを含めてビルマに派遣された兵隊33万人中
     19万人以上が戦死した。
  ●帝国陸軍「一号作戦」(大陸打通作戦)を発令(S19.4)
   51万人の大兵力を投じ、北京ー漢口、広州ー漢口の鉄道線沿い
  の重要拠点全てを占領して大陸交通を完全に支配下におくととも
  に、アメリカ軍の航空隊基地を破壊するという、気宇壮大、前代
  未聞の作戦。斜陽日本も、この作戦では弱体の中国軍に大攻勢を
  かけた。(結局は中国との和解に至らなかったのだが)
  ●「湘桂作戦」(S19.5~11):支那派遣軍最終最大の作戦
   作戦担当の檜兵団は、野戦病院入院患者の死亡37%(三分の一
  強)、そのうち戦傷死13.9%に対し、脚気、腸炎、戦争栄養失調
  症等消化器病栄養病の死亡率は73.5%を占めた。
   入院患者中、「戦争栄養失調症」と診断された患者の97.7%が
  死亡したという。一人も助からなかったというにひとしい。
   前線から武漢地区病院に後送された患者の場合、栄養低下によ
  り、顔色はいちじるしく不良、弊衣破帽、被服(衣服)は汚れて
  不潔、「現地の乞食」以下であり、シラミのわいている者多く、
  「褌さえ持たぬ者もあった」と書かれている。全身むくみ、頭髪
  はまばらとなり、ヒゲは赤茶色、眼光無気力、動作鈍重、応答に
  活気がないなどと観察されている(19年9月下旬から10月中旬の
  こと)。
   日中戦争について論議は多いが、この種の臨場感ある専門家の
  文章に接するのははじめてのように思う。彼等もまた「皇軍」と
  いう名の軍隊の成員だったのだ。
   すべての戦線は母国からはるかに距離をへだてたところにある。
  しかし、中国戦線は「朝鮮」「満州」と地つづきである。海上だ
  けではなく、陸路の補給も絶え、飢餓線上で落命した多くの兵士
  がいたことを改めてつきつけられた。
  (澤地久枝氏著『わたしが生きた「昭和」』岩波現代文庫.p194)
  ●マリアナ沖海戦(あ号作戦、S19.6.19)
   日本海軍機動部隊消滅。新鋭空母「大鳳」(カタパルトなし)
  沈没。(作戦用Z文書は米軍の手に渡っていた)
   ○"マリアナの七面鳥狩り"(米国評)
   ○渾作戦(戦艦「大和」出動):宇垣纏(最後の特攻で戦死)
       司令官
   「蒼い海がサンゴ礁を覆う南溟の果てに、大艦隊が海を
   圧し、脾肉の嘆をかこっている。祖国の興廃が分かれる戦
   機を眼前にしながら、阿呆の作戦、ただ手をこまねいて芒
  っとしているだけ・・・」(吉田俊雄氏著『特攻戦艦大和』)
  ●サイパン陥落と玉砕(S19.7.7):「バンザイ・クリフ」
   米軍の皆殺し作戦(ナパーム弾使用)で軍人、民間人約60000人
   が全滅。南雲忠一中将自決。(この後よりB29の日本本土爆撃が本
   格的にはじまった)。南雲忠一はミッドウェー惨敗の責任を負わ
   されサイパンへの流刑状態(悪魔の上にも悪魔がいる)だった。
    ※南雲忠一「『サイパン』島ノ皇軍将兵ニ告グ」
     「今ヤ止マルモ死、進ムモ死、生死須ラクソノ時ヲ得テ帝国
    男児ノ真骨頂アリ。今米軍ニ一撃ヲ加エ、太平洋ノ防波堤トシ
    テ『サイパン』島ニ骨ヲ埋メントス。戦陣訓ニ日ク『生キテ虜
    囚ノ辱ヲ受ケズ』、『勇躍全力ヲ尽シ、従容トシテ悠久ノ大義
    ニ生クルコトヲ悦ビトスベシ』ト。茲ニ将兵卜共ニ聖寿ノ無窮、
    皇国ノ弥栄(いやさか)ヲ祈念スベク敵ヲ索メテ発進ス。続ケ」
   (野村進氏著『日本領サイパン島の一万日』岩波書店、p.273)
  ●東部ニューギニア戦線(アイタペ作戦など、S18~19)
   ここは地獄の戦場だった。約16万人が戦死、戦病死。(大本営
  発表では一言も触れられていない)
    ---------------<ある悲しいエピソード>--------------
    私たちはこの見張り所を占拠して、ここから敵の陣地を見る
    ことにしました。そこで私たちは一斉に銃を射って、彼らを倒
    したのです。不意の攻撃ですから、彼らに反撃の余裕はありま
    せん。全員を射殺しました。そして、私たちはその見張り所に
    入りこんだのですが、私は大学を卒業していましたので、ある
    程度の英語の読み書きはできます。
    私は、なにげなく机の上のノートを見ました。その兵士はす
    でに死んでいたのですが、まだ二十歳を超えたような青年でし
    た。そのノートに書かれた英文を読むと、「ママ、僕は元気に
    戦場にいます。あと一週間で除隊になりますが、すぐに家に帰
    ります。それまで皆を集めておいて、私の帰りを待っていてく
    ださい。そのときが楽しみです。・・・」という文面でした。
    戦友の中で英語がわかるのは私だけでしたから、何が書いてあ
    るんだと尋ねられたときも、どうやら報告書のようなものらし
    いと答えて、最後のページを被り、私はポケットにしまいこん
    だのです。しかしこれをもっていると、何かのときに都合がわ
    るいと思って、後にこっそりと焼いてしまいました。
    (保阪正康氏著『昭和の空白を読み解く』講談社文庫、p.12)
  ●西部ニューギニア戦線(S19~S20)
    苛烈な爆撃と飢餓、マラリア、アメーバ赤痢、脚気などが次々
   と若者の命を奪っていった。司令部のお偉いさんは漁船を呼びつ
   けこっそり逃げようとした。指揮官は爆撃の際には防空壕の底に
   へばりついていた。
   --------------<三橋國民氏著『鳥の詩』より>--------------
    早朝、破壊されたサマテ飛行場滑走路の修復作業のため、私た
   ち仲間の少しでも動ける何人かが、それぞれスコップを肩にして
   陣地を出発した。陣地の草っ原を抜けると山径になり清原のいる
   砲分隊のニッパ小屋につきあたる。すると、その小屋の高床式に
   なっている隅の柱に、清原が両手でしがみつき、辛うじて腰を浮
   きあがらせた恰好でうめき声をあげていた。私は清原が何をやっ
   ているのか見当がつかず、小屋の中に入っていった。
    「きよはら!何やってるんだい。・・・どうしたんだい?」
    清原は私の声を聞くなり握っていた両の手を放した。とたんに、
   尻餅をついた。こちらを振り返った清原の目に悔しげな涙が滲ん
   でいる。それでも清原は口もとに笑みをつくりながら、
    「三橋、情けねぇよ、どうにもならねぇんだ。四十度もあった
   マラリアの熱が、下がったと思ったら、腰が抜けちゃって立てね
   ぇんだよなぁ。いまこの柱に掴まって何とかして立とうとしてた
   んだが・・・」    
    げっそりと痩せこけて毛髪が茶褐色になってしまい、ほんの幾
   日かで皺くちゃになった日の縁、手のひらの辺りなど老人めいた
   容貌に一変している。私はその時、ふっとそんな清原の状態が気
   になった。腰が抜けたあと、そのまま寝こんでしまい、余病を併
   発して亡くなっていくケースが意外に多かったからだ。高熱の引
   いたあと衰弱して、まるで老人そのもののようになってしまうの
   は、あまりいい経過とは言えないのだ。「アメーバ赤痢」「南方
   浮腫」などというのは、ほとんどがこんなふうになった体の弱点
   を衝いてくる命取りの病気のように思われ、誰からも恐れられて
   いた。軍医からは、-ーこれといって打つ手もなく、患者自身の
   体力に期待するだけーーといった絶望的な答えが返ってくるに過
   ぎなかったのである。(pp.250-251)
   **********   **********   **********   
    「こんちは、オッサン! どこから来られたんですか」
    「あぁ、兵隊さん、ご苦労さんだね、わしらは三崎漁港からだ
    よ」
    「えぇ! 三崎ですか、三浦半島の、神奈川県の・・・、よく
   こんなところまで・・・、どのくらいの日数をかけてこられたん
   ですか、すごいですねぇ、こんな小さな船で、五千キロも・・」
    いやぁ、これも軍の機密とかだけどね、もう三崎を発ってか
   ら4か月日なんだよ。来る途中は随分おっかなかったよ、でも兵
   隊さんたちのことを思えば比べものにはならねえがね」
    「これからどこへ?」
    「まあ聞きっこなしさ。うるせえんだよ、防諜とかでね。だが
   まあいいや、赤道直下のここで兵隊さんに話したからって、敵さ
   んに漏れるわけじゃあねえしな。この船はこれから二、三日後に
   司令部のお偉いさん方を乗せて、島伝いに内地まで脱出するんだ
   とか言ってるんだがね、果たしてご注文どおりにうまくいきます
   かってぇところだな。だいいち、わしらがここまでやってくるこ
   とだけでも精一杯だったんだからねぇ・・・。帰りの海にゃあ敵
   潜がうようよしてるのを知らねぇんだから、全くいい気なもんだ
   よ、偉い人たちはねぇ」
    脱出などという、いわば軍隊ではタブーとされている言葉を、
   私たちに平気でしゃべれるのも民間人の気軽さなのだろうか。そ
   れとも、このような最悪の戦場に取り残されてしまう私たちを前
   にして、気兼ねしての言いまわしなのだろうか。しかし、この船
   が軍幹部の脱出用なのだと聞かされたとき、その理由はどうであ
   れなんとも複雑な気持ちがした。(pp.100-101)
    **********   **********   **********   
    「あぁ、もういやだ、いやだ。三橋よぅ、このあいだの戦闘で
   の四人の死にざまはほんとに惨めだったなぁ。おっかねえなぁ、
   戦争は・・・。それにしても、あの戦闘中に中助のS(鳥越注:中
   隊長S中尉)が何をやっていたか知ってるかい。敵さんが空から
   しかけてきたとき、あの野郎はドラム缶の輪っばを三つも繋ぎ合
   わせた壕の底にへばりついて、終わるまで出てこずじまいだった
   んだぜ。高射砲は空に向かって射つんだからなあ! 地面の底に
   へばりついていたんじゃあ指揮なんてできる訳がねえよ。あとで、
   中助がぬかした訓示を聞いてたかい? 『貴様らはヤマトダマシイ
   をこめて射たんから当たらないんだ』とか言ってたなぁ。あれは
   たしか何処かにあった軍歌の文句じゃあねえの・・・。ひでえ野
   郎に俺たちは、くっついちまつたなぁ・・・。だのに、あんな中
   助にべたべたして、ご機嫌とりばかりをやっている中隊機関(幹
   部室のやつらも気にいらねえよ。俺も軍隊生活は長えけれど、こ
   んなひでえ中隊に配属されちまったのはどうみても百年目だよ。
   あぁ、いやだ、いやだ。これから先、この独立中隊はどうなって
   しまうのか、皆は分かってんのかなぁ・・・」
    佐地の言ってることは、ただ単に愚痴をこぼしているといった
   ものではなく、内容そのものが時宜を得、的確な指摘だった。
     (p.150)(三橋國民氏著『鳥の詩』角川文庫)
  ●東条内閣消滅--->小磯内閣(S19.7.18)
   「敵ノ決戦方面来攻ニ方リテハ空海陸ノ戦力ヲ極度ニ集中シ敵
  空母及輸送船ヲ所在ニ求メテ之ヲ必殺スルト共ニ敵上陸セハ之ヲ
  地上ニ必滅ス」(捷号作戦と称された)
   ○捷一号:比島決戦
   ○捷二号:台湾、南西諸島での迎撃戦
   ○捷三号:日本本土(北海道を除く)決戦
   ○捷四号:北東方面、千島列島での決戦
  ●グアム島10000人玉砕(S19.8)
   米軍がマリアナ諸島全域を制圧。
   ●沖縄から本土への疎開船「對島丸」が米潜水艦に攻撃され沈没。
   約1500人が死亡、生存者は227人(学童59人、一般168人)。
   「對島丸」へは護衛船がついていたが自分の身の安全のために救
   助活動を行わず。(外間守善氏著『私の沖縄戦記』角川書店、
   pp.19-27)
  ●満17歳以上兵役編入決定
  ●米軍のセブ島攻撃(S19.9~)
   米軍のセブ島空襲は十九年九月にはじまるが、二十年春、陣地
  を捨てて山中に逃げこむに至って、日本軍は民間人を邪魔もの扱
  いしはじめた。男は現地召集で軍隊にとられ、年寄りと女子供が
  のこっていた。
   「私は山で兄に会って、海軍の方へいったから命があったんで
  す。うちの義姉の弟嫁は、十一の男の子を頭に女の子四人連れて、
  陸軍の方にのこった。それを、子供がいると、ガヤガヤして敵に
  聞かれると言って、五人とも銃剣で殺してしまったんです。男の
  子は、『兵隊さん、泣きもしないし、なんでも言うこと聞きます
  から、殺さないで下さい』と言って逃げさまよっているのに、つ
  かまえて。四、五歳まで私が同じ家にいて育てた子です。そして
  妹たち四人も…。敵に知られると言って、鉄砲をうたないんです。
  銃剣で…。セブの話は一週間話してもつきないんです、あの残酷
  なやり方は。別行動をとりなさいと言ってくれればよかったんで
  すよ。殺す必要はなかったんです」。
   自決を強要され、手榴弾で死のうとして死にきれなかった人間
  を、日本兵が銃剣で刺し、出血多量で意識不明になっているのを、
  上陸してきた米兵が救い出し、レイテの野戦病院へ連れていって、
  輸血で助けた話も出る。「アメリカ兵は敵ながらあっぱれですね」。
   (澤地久枝氏著『滄海よ眠れ(-)』文春文庫、pp.149-150)
  ●神風特別攻撃隊の編成(S19.10、詳細は後記)
   戦争末期、いくらかの例外はあるが、日本軍の航空機使用は、
  青年の神風特攻と高級将校の逃亡という二つの機能に集中してい
  る。まことに無残という他はない。
  (鶴見良行氏著『マングローブの沼地で』朝日選書;1994:166)
  ●ハルゼイ機動部隊の沖縄「十・十空襲」(S19.10.10)
  ●台湾沖航空戦(S19.10.13~15)
   大本営発表では、日本は未曾有の大勝利をおさめたことになっ
  ている。(全くの虚報)

<転載終了>