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<転載開始>
<希代の政治家、斎藤隆夫氏の(近衛文麿への)非難(1)>
帝国憲法は日本臣民に向って結社の自由を許して居る。
此の由由は何ものの力を以てするも剥奪することは出
来ない。政党は此の難攻不落の城壁を有し、其の背後に
は政民両党共に三百余万の党員を控え、更に其の背後に
は国民も亦之を監視して居る。凡そ政治上に於て是れ程
強い力はなく、政党は実に此の強い力を握って居る。尚
其の上に此の戦争は前記幕末維新の戦争の如く、戦えば
江戸を焦土と化し、多数の人命、財産を損する如きもの
ではなく、是とは全然反対に、憲法上に与えられたる全
国民の自由擁護を目的とする堂々たる戦争である。
然るに此の政治上の戦いに当たりて、政民両党は何を
なしたか。戦えば必ず勝つ。而も其目的は国民の自由を
擁護すべき堂々たる聖戦であるに拘らず、敢然起って戦
うの意気なく、却って降伏に後れぎらんことを惧れて六
十年の歴史をなげうち、国民の失望を無視して我れ先き
にと政党の解消を急ぐに至りては、世界文明国に其の類
例を見ざる醜態である。
●大政翼賛会発足(昭和15年10月12日発会式)
政党が解消されて、戦争にたいする異論(反対論)が完全に封じ
られてしまった。
※ 「近衛の構想の新体制」は「政治性」が取り除かれ、
それに伴う近衛の変節とともに、国民精神動員運動を
主軸とする運動に変化して発展することになった。そ
こで新体制準備会で用意されていた「中核体」(総理
大臣への顧問組織であり、職能・文化組織推進機関)
は『大政翼賛会』、国民運動は「大政翼賛運動」と呼
ばれるようになった。
※ 「国民の歌」としての指定
『海行かば水づく屍山行かば草むす屍大君の辺にこ
そ死なめかえりみはせじ』
※ 陸軍は翼賛会の地方活動を支配するために、「中核
体」が持つ可能性に大きな期待をかけていた。また海
軍も他の諸集団(例えば日本青年党(橋本欣五郎)、
東方会(中野正剛)、青年団・壮年団(後藤隆之助)、
産業組合(有馬頼寧))も大政翼賛運動の中心的存在
になることを熱望した。(内務官僚と名望家の反発)
※ 内務省は翼賛会府県支部の設立にあたって、知事の
優越的役割を確保した。さらに内務省は町村にその官
僚的支配を伸張し翼賛会下部組織の確立によって部落
会や町内会の指導権を確保しようと躍起になった。
(陸軍と内務省の衝突)
※ 翼賛会議会局への参加を拒否したのは、鳩山派と
社会大衆党社民派のみであった。
※ 大政翼賛会は内閣・議会・軍部の関係に何の変化も
もたらさなかった。これは大政翼賛会に関して最も驚
くべき点である。
<希代の政治家、斎藤隆夫氏の(近衛文麿への)非難(2)>
次は大政翼賛会である。浅薄なる革新論から出発して、
理論も実際も全く辻褄の合わざる翼賛会を設立し、軍事
多端なる此の時代に多額の国費を投じて無職の浪人を収
容し、国家の実際には何等の実益なき空宣伝をなして、
国民を瞞着して居るのが今日の翼賛会であるが、之を設
立したる発起人は疑いもなく近衛公である。其の他のこ
とは言うに忍びないが、元来皇室に次ぐべき門閥に生れ、
世の中の苦労を嘗めた経験を有せない貴公子が自己の能
力を顧みず、一部の野心家等に取巻かれて国勢燮理(治
める)の大任に当るなど、実に思わぎるの甚だしきもの
である。是が為に国を誤り実毒をのこす。其の罪は極め
て大なるものがある。
<軍隊というのはカルト教団だ>
(古山高麗雄『人生、しょせん運不運』草思社)
あのみじめな思いは憶えています。軍隊では、人は人
間として扱われません。そこには権力者が決めた階級が
あるだけで、戦後は、人権がどうの差別がどうのと言う
ようになりましたが、そんなことを言ったら軍隊は成り
立たない。福沢論吉は、天は人の上に人を作らず、人の
下に人を作らず、と言いましたが、とんでもない、わが
国の権力者は天ではないから、人の上に人を作り、人の
下に人を作りました。
彼らは天皇を現人神と思うように国民を教育し、指導
しました。その言説に背く者は、不敬不忠の者、非国民
として罰しました。
階級や差別のない社会や国家はありません。天皇が日
本のトップの人であることは、それはそれでよく、私は
いわゆる天皇制を支持する国民の一人です。けれども、
アラヒトガミだの、天皇の赤子だのというのを押しつけ
られるとうんざりします。・・・
軍隊というのは、人間の価値を階級以上に考えること
がなく、そうすることで組織を維持し、アラヒトガミだ
のセキシだのというカルト教団の教義のような考え方で
国民を統制して、陸海軍の最高幹部が天皇という絶対神
の名のもとにオノレの栄達を求めた大組織でした。(p80)
・・・
あのころ(鳥越注:昭和10年代)のわが国はカルト教
団のようなものでした。あの虚偽と狂信には、順応でき
ませんでした。思い出すだに情けなくなります。自分の
国を神国と言う、世界に冠たる日本と言う。いざという
ときには、神国だから、元寇のときのように神風が吹く
と言う。アラヒトガミだの、天皇の赤子だのと言う。祖
国のために一命を捧げた人の英霊だの、醜の御楯だのと
言う。今も、戦没者は、国を護るために命を捧げた英霊
といわれている。
しかし、何が神国ですか、世界に冠たる、ですか。神
風ですか。カルト教団の信者でもなければ、こんな馬鹿
げたことは言いませんよ。・・・
戦前(鳥越注:大東亜戦争前)は、軍人や政府のお偉
方が、狂信と出世のために多数の国民を殺して、国を護
るための死ということにした。日本の中国侵略がなぜ御
国を護ることになるのかは説明できないし、説明しない。
そこにあるのは上意下達だけで、それに反発する者は、
非国民なのです。
やむにやまれぬ大和魂、などと言いますやなにが、やむ
にやまれぬ、ですか。軍人の軍人による軍人のための美化
語、あるいは偽善語が、国民を統御し、誘導し、叱咤する
ためにやたらに作られ、使われました。八紘一字などとい
う言葉もそうです。中国に侵略して、なにが八紘一宇です
か。統計をとったわけではありませんから、その数や比率
はわかりませんが、心では苦々しく思いながら調子を合わ
せていた人も少なくなかったと思われますしかし、すすん
であのカルト教団のお先棒を担いで、私のような者を非国
民と呼び、排除した同胞の方が、おそらくは多かったので
はないか、と思われます。(p106)
★1941年(昭和16年)、大東亜戦争(太平洋戦争)勃発にいたるまで
●東条英機が軍内に「戦陣訓」を発する(昭和16年1月)。
東条は一国を指導する器ではなかった。それどころか関
東軍参謀長すらもまともに務まらない資質しかもっていな
かった。卑しく臆病で嫉妬心が強く、権威主義的な男であ
った。
戦陣訓
序
夫れ戦陣は、大命に基き、皇軍の神髄を發揮し、攻
むれば必ず取り、戦へば必ず勝ち、遍く皇道を宣布し、
敵をして仰いで御稜威の尊厳を感銘せしむる虞なり。
されば戦陣に臨む者は、深く皇國の使命を體し、堅く
皇軍の道義を持し、皇國の威徳を四海に宣揚せんこと
を期せざるべからず。
惟ふに軍人精紳の根本義は、畏くも軍人に賜はりた
る勅論に炳乎として明かなり。而して戦闘茲に訓練等
に關し準據すべき要綱は、又典令の綱領に教示せられ
たり。然るに戦陣の環境たる、兎もすれば眼前の事象
に捉はれて大本を逸し、時に共の行動軍人の本分に戻
るが如きことなしとせず。深く慎まざるべけんや。乃
ち既往の経験に鑑み、常に戦陣に於て勅論を仰ぎて之
が服行の完璧を期せむが為、具體的行動の憑據を示し、
以て皇軍道義の昂揚を圖らんとす。是戦陣訓の本旨と
する所なり。
「第七 死生観」
死生を貫くものは崇高なる献身奉公の精神なり。生
死を超越し一意任務の完遂に邁進すべし。身心一切の
力を盡くし、従容として悠久の大義に生くることを悦
びとすべし。
「第八 名を惜しむ」
恥を知る者は強し。常に郷党家門の面目を思ひ愈々
奮励して其の期待に答ふべし。生きて虜囚の辱を受け
ず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ。
※ 死を恐れるな、従容として死に赴く者は大義に生き
ることを喜びとすべきである、というのであった。日
本軍の兵士は、「大義に生きる」という死生観を理想
としたのである。しかしここでつけ加えておかなけれ
ばならないのは、陸軍の上層部や指導部に属していた
者のほうがこのような死生観をもっていなかったとい
うことだ。たとえば、この戦陣訓を軍内に示達した当
の東條英機は、戦争が終わったときも責任をとって自
決していないし、あろうことか昭和二十年九月十一日
にGHQ(連合国軍稔司令部)の将校が逮捕にきたときに
あわてて自決(未遂)を試みている。東條のこの自決
未遂は二重の意味で醜態であった。・・(中略)・・
「名を惜しむ」にあるのは、捕虜になって屈辱を受
けるようなことがあってはならない、生を惜しんでの
みっともない死に方はその恥をのこすことになるとい
う教えであり、故郷や家族の面子を考えるようにとの
威圧を含んでいた。これもまた兵士たちには強要して
いながら、指導部にいた軍人たちのなかには虜囚の辱
めを受けるどころか、敗戦後はGHQにすり寄り、その
戦史部に身を置き、食うや食わずにいる日本人の生活
のなかで並み外れた優雅な生活をすごした中堅幕僚た
ちもいた。
戦陣訓の内容は、兵士には強要されたが指導部は別
格であるというのが、昭和陸軍の実態でもあった。私
は、太平洋戦争は日本社会を兵舎に仕立てあげて戦わ
れてきたと考えているが、その伝でいうなら、この戦
陣訓は兵士だけでなく国民にも強要された軍事指導者
に都合のいい〈臣民の道〉であった。(保阪正康氏著
『昭和史の教訓』朝日新書、pp.199-203より抜粋)
●日ソ中立条約締結(昭和16年4月13日)
これによりソビエトは実質的には満州国を承認。スター
リンの中国軽視は毛沢東のスターリンへの不信感を高めた。
さらにアメリカも強い不快感を持ち、ソビエトとの経済交
流を中止し、ルーズベルトは重慶政府(蒋介石)へP-40戦
闘機100機を提供した。
●米大統領が国家非常事態宣言、アメリカが臨戦態勢に入る。
(昭和16年5月)
●独ソ戦開始(昭和16年6月22日)
独ソ戦は日ソ中立条約のみならず、日独伊三国同盟の意
義すらも、根本的に打ち砕くものであった。
●日本は関東軍特種演習(関特演)の名の下に約70万人の大
軍を満州に集結(昭和16年7月2日)。
●日本軍が南部仏印に進駐(昭和16年7月28日)
軍事的には無血占領であったが、政治的には陸軍の見通
しの甘さが浮き彫りになっただけで、ここですでに敗戦な
のだった。また日米開戦の「ポイント・オブ・ノーリター
ン」を形成したといえるだろう。
●アメリカ対日石油輸出全面禁止、在米の日本資産凍結。
(昭和16年8月1日)
<軍令部総長、永野修身の上奏>
こうした禁輸措置のあとに、南部仏印進駐の主導者たち
はすっかり混乱している。軍令部総長の永野修身は、アメ
リカが石油禁輸にふみきる日(八月一日)の前日に、天皇
に対米政策について恐るべき内容を伝えている。
「国交調整が不可能になり、石油の供給源を失う事態
となれば、二年の貯蔵量しかない。戦争となれば一年半
で消費しつくすから、むしろ、この際打って出るほかは
ない」と上奏しているのだ。天皇は木戸幸一に対して、
「つまり捨鉢の戦争をするということで、まことに危険
だ」と慨嘆している。(保阪正康氏著『昭和史の教訓』
朝日新書、p.215)
●中国、宜昌にて日本軍が大量の毒ガス攻撃
(昭和16年10月7日~11日)
催涙ガス(クロロピクリン、クロロアセトフェノン)、
嘔吐性ガス(アダムサイト)、イペリット、ルイサイト、
青酸ガス、ホスゲンなどを使った悪魔どもの悪あがきの
ヤケクソ攻撃だった。
(吉見義明氏著『毒ガス戦と日本軍』岩波書店、p.134-144)
●大本営政府連絡会議(昭和16年10月4日)
近衛文麿が内閣を投げ出した。
「軍人はそんなに戦争が好きなら、勝手にやればいい」。
(保阪正康氏著『あの戦争は何だったのか』新潮新書、p.85)
●「対米英蘭戦争終末促進ニ関スル腹案」(昭和16年11月16日
大本営政府連絡会議、石井秋穂・藤井茂原案):戦争終結へ
の発想はお粗末な現実認識とともに無責任で他力本願(ドイ
ツ・イタリア頼み)だった。
一 方針(略)
二 日独伊三国協力シテ先ツ英ノ屈伏ヲ図ル
(一)帝国ハ左ノ諸方策ヲ執ル
(イ)濠洲印度二対シ政略及通商破壊等ノ手段
二依り英本国トノ連鎖ヲ遮断シ其ノ離反
ヲ策ス
(ロ)「ビルマ」ノ独立ヲ促進シ其ノ成果ヲ利
導シテ印度ノ独立ヲ刺戟ス
(二)独伊ヲシテ左ノ諸方策ヲ執ラシムルニ勉ム
(イ)近東、北阿、「スエズ」作戦ヲ実施スル
ト共ニ印度二対シ施策ヲ行フ
(ロ)対英封鎖ヲ強化ス
(ハ)情勢之ヲ許スニ至ラハ英本土上陸作戦ヲ
実施ス
(三)三国ハ協力シテ左ノ諸方策ヲ執ル
(イ)印度洋ヲ通スル三国間ノ連絡提携二勉ム
(ロ)海上作戦ヲ強化ス
(ハ)占領地資源ノ対英流出ヲ禁絶ス
三 日独伊ハ協力シテ対英措置卜並行シテ米ノ戦意ヲ喪
失セシムルニ勉ム
(一)帝国ハ左ノ諸方策ヲ執ル
(イ)比島ノ取扱ハ差シ当り現政権ヲ存続セシ
ムルコトトシ戦争終末促進二資スル如ク
考慮ス
(ロ)対米通商破壊戦ヲ徹底ス
(ハ)支那及南洋資源ノ対米流出ヲ禁絶ス
(ニ)対米宣伝謀略ヲ強化ス
其ノ重点ヲ米海軍主力ノ極東ヘノ誘致竝
米極東政策ノ反省卜日米戦無意義指摘ニ置
キ米国輿論ノ厭戦誘致二導ク
(ホ)米濠関係ノ離隔ヲ図ル
(二)独伊ヲシテ左ノ諸方策ヲ執ラシムルニ勉ム
(イ)大西洋及印度洋方面ニ於ケル対米海上攻
勢ヲ強化ス
(ロ)中南米ニ対スル軍事、経済、政治的攻勢
ヲ強化ス
(保阪正康氏著『昭和史の教訓』朝日新書、pp.226-227)
●東条内閣成立(昭和16年10月18日、第三次近衛内閣総辞職)
「生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪禍の汚名を残すこ
となかれ」(よくもこんな発想ができたものだ。悪魔の内
閣としか表現のしようがない)。
※ 中島昇大尉(BC級戦犯、死刑判決)の述懐
(昭和21年6月)
捕虜になると国賊扱いにする日本国家のあり方が、外
国捕虜の残虐へと発展したのではないでしょうか。捕虜
の虐待は日本民族全体の責任なのですから個人に罪をか
ぶせるのはまちがっていませんか。・・・私は国家を恨
んで死んで行きます」。
●通称「ハル・ノート」(平和解決要綱)が日本側に手渡さ
れた。(昭和16年11月26日)
中国や南方地方からの全面撤退、蒋介石政府の承認、汪
兆銘政府の不承認、三国同盟の形骸化が主たる項目で昭和
に入っての日本の歴史を全て白紙に戻すという内容だった。
(--->日米開戦へ)
●昭和16年12月1日、この年5回目の御前会議(日米開戦の
正式決定)
日米交渉を続けながら、戦備も整える。しかし11月29日
までに交渉が不成立なら、開戦を決意する。その際、武力
発動は12月初頭とする。
東条にとっては、国家とは連隊や師団と同じであり、国
民は兵舎にいる兵士と同じだった。
<重松譲(当時ワシントン駐在武官(海軍))の証言>
「あのバカな戦の原因はどこにあるか。それは陸軍が
ゴリ押しして結んだ三国同盟にある。さらに南部仏印進
駐にある。私は、日本が三国同盟を結んだ時、アメリカ
にいたのだが、アメリカ人が不倶戴天の敵に思っている
ヒトラーにすり寄った日本を、いかに軽蔑したか、よく
わかった。その日本がアメリカと外交交渉をしたところ
で、まとまるわけはなかったんだ」。
「陸軍にはつねに政策だけがあった。軍備はそのため
に利用されただけだ」
(保阪正康氏著『昭和陸軍の研究<上>』より孫引き)
<「木戸日記」の存在>
ともかく提出された日記は、天皇を頂点とした昭和政
治史の中枢を検証する第一級の政治資料であった。法廷
では、検察側の天皇免責の方針によって、天皇の言動に
関する記述は、いっさい活用されなかった。しかし素直
に日記を読めば、太平洋戦争開戦にいたる道は、天皇と、
木戸など天皇側近の主体的決断という要因を入れなけれ
ば、歴史的に説明がつかないことは明らかだ。
(粟屋憲太郎氏著『東京裁判への道<上>』講談社、p.113)
※腰ぬけ知識人だらけの国
戦中の知識人の多くは、飢えと暴力が支配する状況
下で、自分の身を守るために、迎合や密告、裏切りな
どに手を染めた。積極的に戦争賛美に加担しなかった
としても、ほとんどすべての知識人は、戦争への抗議
を公言する勇気を欠いていた。
こうした記憶は、「主体性」を求める戦後思想のバ
ネになったと同時に、強い自己嫌悪と悔恨を残した。
たとえば、法政大学教授だった本多顕彰は、戦中をこ
う回想している。
それにしても、あのころ、われわれ大学教授は、
どうしてあんなにまで腰ぬけだったのであろう。
なかには、緒戦の戦果に狂喜しているというような
単純な教授もいたし、神国日本の威力と正しさを信
じてうたがわない教授もいるにはいた。……けれど
も、われわれの仲間には戦争の謳歌者はそうたくさ
んにはいなかったはずである。だのに、われわれは、
学園を軍靴が蹂躙するにまかせた。……〔軍による〕
査察の日の、大学教授のみじめな姿はどうだったろ
う。自分の学生が突きとばされ、けられても、抗議
一ついえず、ただお追従笑いでそれを眺めるだけで
はなかったか。……
……心の底で戦争を否定しながら、教壇では、尽
忠報国を説く。それが学者の道だったろうか。真理
を愛するものは、かならず、それとはべつの道をあ
ゆまねばならなかったはずである。真に国をおもい、
真に人間を愛し、いや、もっとも手ぢかにいる学生
を真に愛する道は、べつにあったはずである。……
反戦を結集する知恵も、反戦を叫ぶ勇気も、ともに
欠けていたことが、われわれを不幸にし、終生の悔
いをのこしたのである。
こうした「悔恨」を告白していたのは、本多だけで
はなかった。
南原繁は、学徒出陣で大学を去っていった学生たち
を回想しながら、こう述べている。「私は彼らに『国
の命を拒んでも各自の良心に従って行動し給え』とは
言い兼ねた。いな、敢えて言わなかった。もし、それ
を言うならば、みずから先に、起って国家の戦争政策
に対して批判すべきべきであった筈である。私は自分
が怯懦で、勇気の足りなかったことを反省すると同時
に、今日に至るまで、なおそうした態度の当否につい
て迷うのである」。
(小熊英二氏著氏著『<民主>と<愛国>』新曜社、
pp177-178)
※ 歴史的意思の欠落
日本は真に戦争か和平かの論議を論議を行ったとい
えるだろうか。
・・・日本がアメリカとの戦争で「軍事的勝利」を
おさめるとはどういう事態をさすのか。その事態を指
導者たちはどう予測していたのだろうか。まさかホワ
イトハウスに日章旗を立てることが「勝利」を意味す
るわけではあるまい。・・・実際に戦争の結末をどう
考えていたかを示す文書は、真珠湾に行きつくまでの
プロセスでは見当たらない。
・・・強いていえば、11月15日の大本営政府連絡会
議で決まった「対米英蘭戦争終末促進ニ関スル腹案」
というのがこれにあたる。
・・・日本は極東のアメリカ、イギリスの根拠地を
覆滅して自存自衛体勢を確立し、そのうえで蒋介石政
府を屈服させるといい、イギリスはドイツとイタリア
で制圧してもらい、孤立したアメリカが「継戦の意思
なし」といったときが、この戦争の終わるときだとい
う。この腹案を読んだとき、私は、あまりの見通しの
甘さに目を回した。ここに流れている思想は、すべて
相手の意思にかかっているからだ。あるいは、軍事的
に制圧地域を広げれば、相手は屈服するとの思いこみ
だけがある。
日本がアジアに「自存自衛体勢を確立」するという
が、それは具体的にどういうことだろうか。自存自衛
体勢を確立したときとは一体どういうときか。アメリ
カ、イギリスがそれを認めず、半永久的に戦いを挑ん
できたならば日本はどう対応するつもりだろうか。蒋
介石政府を屈服させるというが、これはどのような事
態をさすのだろうか。ドイツとイタリアにイギリスを
制圧してもらうという他力本願の、その前提となるの
はどのようなことをいうのだろうか。しかし、最大の
問題はアメリカが「継戦の意思なし」という、そのこ
とは当のアメリカ政府と国民のまさに意思にかかって
いるということではないか。・・
私は、こういうあいまいなかたちで戦争に入ってい
った指導者の責任は重いと思う。こんなかたちで戦争
終結を考えていたから、3年8か月余の戦争も最後には
日本のみが「継戦」にこだわり、軍事指導者の面子の
みで戦うことになったのではないかと思えてならない
のだ。
・・・真珠湾に行きつくまでに、日本側にはあまり
にも拙劣な政策決定のプロセスがある。・・・戦争と
いう選択肢を選ぶなら、もっと高踏的に、もっと歴史
的な意義をもって戦ってほしかったと思わざるをえな
い。(保阪正康氏著『昭和陸軍の研究<上>』pp.334-)
※ そしてもう一つ押さえておかなければならないことがある。
実は、本当に太平洋戦争開戦に熱心だったのは、海
軍だったということである。
そこには、「ワシントン軍縮条約」体制のトラウマ
があった。1922(大正11)年、ワシントン会議におい
て軍艦の保有比率の大枠をアメリカ5、イギリス5、日
本3、と決められてしまった。その反発が海軍の中で
ずっと燻り続け、やがてアメリカ、イギリスを仮想敵
国と見なしていったのである。昭和9年に加藤寛治海
軍大将らの画策で、ワシントン条約の単独破棄を強引
に決めて、その後、一気に「大艦巨砲」主義の道を突
き進んでいく経緯があった。対米英戦は、海軍の基本
的な存在理由となっていた。
またその後も、海軍の主流には対米英強硬論者が占
めていく。特に昭和初年代に、ちょうど陸軍で「統制
派」が幅を利かせていった頃、海軍でも同じように、
中堅クラスの幹部に多く対米英好戦派が就いていった
のだ。「三国同盟」に反対した米内光政や山本五十六
、井上成美などは、むしろ少数派であった。
私が見るところ、海軍での一番の首謀者は、海軍省
軍務局にいた石川信吾や岡敬純、あるいは軍令部作戦
課にいた富岡定俊、神重徳といった辺りの軍官僚たち
だと思う。
特に軍務局第二課長の石川は、まだ軍縮条約が守ら
れていた昭和8年に、「次期軍縮対策私見」なる意見
書で「アメリカはアジア太平洋への侵攻作戦を着々と
進めている。イギリス、ソ連も、陰に陽にアメリカを
支援している。それに対抗し、侵略の意図を不可能に
するには、日本は軍縮条約から脱退し、兵力の均等を
図ることが絶対条件」と説いていた。いわば対米英強
硬論の急先鋒であった。また弁が立ち、松岡洋右など
政治家とも懇意とするなど顔が広かった。その分、裏
工作も達者であった。
そして他の岡、富岡、神も、同じようにやり手の過
激な強硬論者であった。
昭和15年12月、及川古志郎海相の下、海軍内に軍令、
軍政の垣根を外して横断的に集まれる、「海軍国防政
策委員会」というものが作られた。会は4つに分けられ
ており、「第一委員会」が政策、戦争指導の方針を、
「第二委員会」は軍備、「第三委員会」は国民指導、
「第四委員会」は情報を担当するとされた。以後、海
軍内での政策決定は、この「海軍国防政策委員会」が
牛耳っていくことになる。中でも「第一委員会」が絶
大な力を持つようになつていった。この「第一委員会」
のリーダーの役を担っていたのが、石川と富岡の二人
であった。「第一委員会」が、巧妙に対米英戦に持っ
ていくよう画策していたのである。(保阪正康氏著
『あの戦争は何だったのか』新潮新書、pp.87-88)
★大東亜戦争勃発(太平洋戦争、昭和16(1941).12.8~20年(1945).8.15)
※開戦の原動力となった中心的悪魔ども
近衛文麿(東条の前の無責任首相)
東条英機、木戸幸一(「銀座の与太者」、東条を首
相に推薦)
# 東条英機の与太弁
・「戦争が終わるとは平和になったとき」
・「畢竟戦争とは精神力の戦いである。負
けたと思ったときが負けである」
(筆者注:H14年から5年の長きに亘って
首相の座にあり日本をさらにボロボロにし
た、小泉某によく似ているではないか)。
陸軍省軍務局(武藤章(局長)、佐藤賢了(軍事課長))
陸軍参謀本部(田中新一)
星野直樹(東条内閣書記官長)
岡敬純・長野修身(海軍)
石原広一郎(民間、南進運動に積極的)
(粟屋憲太郎氏著『東京裁判への道<上>』講談社、
pp.224-230)
※「大東亜の地域」:おおむねビルマ以東、北はバイカル
湖以東の東アジア大陸、並びにおおむね東経180度以西
すなわちマーシャル群島以西の西太平洋海域を示しイン
ド、豪州は含まれない。また「大東亜戦争」とは、単に
大東亜の地域において戦われる戦争という意味合いのも
のに過ぎなかった。(瀬島龍三『大東亜戦争の実相』よ
り)(筆者注:まったく、何と言う言い逃れであろうか)
<大東亜戦争の特徴>
1. 官僚化した軍部が彼我の国民の命を無駄に費やした戦争
日本陸軍は(1)その8割が旧式機で構成されている戦闘
機隊を主力とし(2)一度も実践に投入したことがない新
型戦闘機に頼って、欧米の航空先進国の空軍に立ち向か
った。
陸軍は(わずかに)隼40機で、対英、米戦争につっ走
った。(三野正洋氏著『日本軍の小失敗の研究』より)
2. 陸軍と海軍のばかばかしい対立(ほんの一部を紹介)
○20ミリ機関砲の弾丸が、規格が違っていて共用できな
い。
○空軍が独立せず。(陸軍航空部隊、海軍航空部隊)
○海軍向け、陸軍向け戦闘機。スロットル・レバーの
操作が真反対
○ドイツの航空機用エンジン(ベンツ社、DB601型)の
ライセンス料の二重払い。同じエンジンを別々の独立
した会社に依頼。
○陸軍の高射砲、海軍の高角砲
○陸軍の"センチ"、海軍の"サンチ"
("サンチ"はフランス流?)
(三野正洋氏著『日本軍の小失敗の研究』より)
3. バカバカしい、教育といえぬ兵隊教育
「行きあたりばったり」とか「どろなわ」とかいった
言葉がある。しかし、以上の状態は、そういう言葉では
到底表現しきれない、何とも奇妙な状態である。なぜこ
ういう状態を現出したのか、どうしてこれほど現実性が
無視できるのか、これだけは何としても理解できなかっ
た。そしてそれが一種の言うに言われぬ「腹立たしさ」
の原因であった。
第二次世界大戦の主要交戦国には、みな、実に強烈
な性格をもつ指導者がいた。ルーズヴェルト、チャーチ
ル、スターリン、蒋介石、ヒトラーーたとえ彼らが、そ
の判断を誤ろうと方針を間違えようと、また常識人であ
ろうと狂的人物であろうと、少なくともそこには、優秀
なスタッフに命じて厳密な総合的計画を数案つくらせ、
自らの決断でその一つを採択して実行に移さす一人物が
いたわけである。
確かに計画には齟齬があり、判断にはあやまりはあっ
たであろう、しかし、いかなる文献を調べてみても、戦
争をはじめて二年近くたってから「ア号教育」(筆者注
:対米戦教育)をはじめたが、何を教えてよいやらだれ
にも的確にはわからない、などというアホウな話は出て
こない。確かにこれは、考えられぬほど奇妙なことなの
だ。だが、それでは一体なぜそういう事態を現出したか
になると、私はまだ納得いく説明を聞いていないー-
確かに、非難だけは、戦争直後から、あきあきするほど
聞かされたがー-。 (山本七平氏著『一下級将校のみた
帝国陸軍』文春文庫、pp.44-45)
4. 後方思想(兵站、補給)の完全なる欠乏
日本軍内部:「輜重輸卒が兵隊ならば、
蝶々トンボも鳥のうち」
兵站や補給のシステムがまず確立したうえで、戦闘を
行うというのが本来の意味だろうが、初めに戦闘ありき、
兵站や補給はその次というのでは、大本営で作戦指導に
あたる参謀たちは、兵士を人間とみなしていないという
ことであった。戦備品と捉えていたということになるだ
ろう。実際に、日本軍の戦闘はしだいに兵士を人間扱い
にしない作戦にと変わっていったのだ。
(保阪正康氏著『昭和陸軍の研究<下>』)
※ そもそも大東亜戦争について日本軍部の食糧方針は、
”現地自給”だった。熱帯ジャングルの豊かさという、
今日までつづくひとりよがりの妄想があったのだろう。
土地の農民さえ、戦争が始まると、商品として作ってい
た甘蔗やタバコを止めて、自分のための食品作物に切り
換えている。
食糧が問題であることにうすうす気づいた将校たちが
考え出したのは「自活自戦=永久抗戦」の戦略である。
格別に新しい思想ではない。山へ入って田畑を耕し折あ
らばたたかう。つまり屯田兵である。ある司令官の指導
要領は次の如く述べている。
「自活ハ現地物資ヲ利用シ、カツ甘藷、玉萄黍ナド
ヲ栽培シ、現地自活ニ努ムルモ衛生材料、調味品等ハ
後方ヨリ補給ス。ナホ自活ハ戦力アルモノノ戦力維持
向上ヲ主眼トス」
この作戦の虚妄なることは、実際の経過が朗らかにし
ているが、なおいくつか指摘すると、作物収穫までには
時がかかるが、その点についての配慮はいっさい見られ
ない。「戦力アルモノ」を中心とする自活は、すでにコ
レラ、マラリア、デング熱、栄養失調に陥った者を見捨
てていくことを意味する。こうして多くの人間が死んだ。
(鶴見良行氏著『マングローブの沼地で』
朝日選書;1994:168)
※ 井門満明氏(当時兵站参謀)の述懐
「兵站思想には戦争抑止力の意味があります。という
のは、冷静に現実を見つめることができるからです。冷
徹に数字の分析をして軍事を見つめることが、兵士を人
間としてみることになり、それが日本には欠けていたと
いうことになります」
(保阪正康氏著『昭和陸軍の研究<下>』より孫引き)
5. 死者約310万人
日本国民の実に1/25(しかも若者)が戦死した。戦場
での傷病により戦後亡くなった者を含めると500万人を越
えるかもしれない。
6. 「俘虜ノ待遇ニ関スル条約」への数々の違反
1) シンガポールでの抗日華僑義勇軍約5000人の殺害
(1942年2月、辻政信)
2) 「ラハ事件」:アンボン島侵攻作戦時豪州兵集団
虐殺(1942年2月、畠山耕一郎)
3) 米・比軍の約8万5000人の「死の行進」(フィリピ
ン、バターン半島、1942年4月。約120km。責任者は
本間正晴中将)。米兵1200人、フィリピン兵16000
人が死亡(虐殺、行方不明)。
4) オランダ領インドネシア、ボルネオ島を主とする
捕虜の虐待
5) タイ北西部、泰緬鉄道建設に関する多数の捕虜の
死亡(S18~S19)
6) その他何でもあり。
<古山高麗雄氏『断作戦』(文春文庫)pp.284-285>
帝国陸軍はシンガポールで、何千人もの市民を
虐殺したし、帝国海軍はマニラで、やはり何千人
もの市民を虐殺した。シンガポールでは、同市に
在住する華僑の十八歳から五十歳までの男子を指
定の場所に集めた。約二十万人を集めて、その中
から、日本側の戦後の発表では六千人、華僑側の
発表では四万人の処刑者を選んで、海岸に掘らせ
た穴に切ったり突いたりして殺した死体を蹴り込
み、あるいはそれでは手間がかかるので、船に積
んで沖に出て、数珠つなぎにしたまま海に突き落
とした。抗日分子を粛清するという名目で、無愛
想な者や姓名をアルファベットで書く者などを殺
したのだそうである。
日本軍はシンガポールでは、同市を占領した直
後にそれをしたが、マニラでは玉砕寸前の守備隊
が、女子供まで虐殺し、強姦もした。アメリカの
発表では、殺された市民の数は八千人である。こ
れには名目などない、狂乱の所行である。
7. 明治38年式歩兵銃でM1カービン機関銃に歯向かった
8. 前線の下士官の一人は「これは戦争とは言えなかった
な」と呟いた。
9. 日本陸軍は「機械力の不足は精神力で補うという一種
華麗で粋狂な夢想」に酔いつづけた。
10. 太平洋戦争のベルは、肉体をもたない煙のような「上
司」もしくはその「会議」というものが押したのであ
る。そのベルが押されたために幾百万の日本人が死ん
だか、しかしそれを押した実質的責任者はどこにもい
ない。東条英機という当時の首相は、単に「上司」と
いうきわめて抽象的な存在にすぎないのである。
(司馬遼太郎氏著『世に棲む日々<三>』)
11. まったく馬鹿な戦争をしたもんだと、黒い海を見つめ
ていた。それにしても腹がたつのは東京の馬鹿者たち
だった。何が一億総特攻だ。これが一億特攻か。話の
ほかだ。怒りがますます込み上げた。こうなったらな
にがなんでも日本に帰り、横浜の日吉台の防空壕に潜
んでいる連合艦隊の参謀たちに毒づいてやる。そうし
なければ、死んでいった者どもに、何といってわびれ
ばいいのだ。(巡洋艦『やはぎ』、原為一艦長)
<転載終了>
日本人の敵は被災者いじめ東朝鮮京!←⭕
日本人の敵は朝鮮カルト自由壺主党!←⭕
東朝鮮京生まれ李壺造の和名は晋三
三男でもないのになぜか晋三
李氏朝鮮の最後のプリンスは李垠
李垠の早世した長男は李晋=安倍晋太郎
晋三=李垠3世
ちなみに東朝鮮京にあるプリンスホテルは李垠の元邸宅跡地内にあるからプリンスホテル
genkimaru1
が
しました