https://blog.goo.ne.jp/0345525onodera/e/af4990cb2da06a7cf4dec3633e15ffab
<転載開始>
「天皇機関説」
国家を法人とみなしたときに、その最高機関を天皇と
考えること。法人企業の最高機関を社長と考えることと
同じ。こののち、昭和10年3月国会で「国体明徴決議」
なるものが通り、天皇絶対主権説が日本の本当の国体と
され、天皇機関説は公式に国家異端の学説として排除さ
れた。
※天皇機関説は高度に抽象的な法学概念がかかわる問題
で、あまり一般人の関心をよぶ問題ではなかったのに、
浜口内閣時代、ロンドン軍縮条約が結ばれたとき、政
府が軍部の反対を押しきってそのような条約を結ぶ権
利があるかどうか(そういう権利は天皇大権=統帥権
に属するから、政府が勝手に軍備にかかわる条約を結
ぶと統帥権干犯になるのかどうか)の議論がおきたと
き、美濃部が天皇機関説をもとに政府の行動を支持し
たところから、天皇機関説はにわかに政治的な意味を
帯び、ロンドン条約に反対する軍部や国家主義者たち
から激しく攻撃されるようになった。(立花隆氏「日
本中を右傾化させた五・一五事件と神兵隊事件」文藝
春秋 2002;9月特別号:439ページより引用)
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<陸軍内部の派閥抗争(昭和7年頃より激化)>
○統制派:天皇機関説を奉じ、合法的に軍部が権力を
手に入れ、そして国家総動員体制(高度国
防体制)をつくってゆこうと主張するグル
ープで陸軍上層部に多かった。
エリート中心の近代化された国防国家を
目指し、官僚的だった。
(渡辺錠太郎教育総監(S11.2暗殺)、永田
鉄山陸軍省軍務局長(S10.8に暗殺)、林銑
十郎ら)
○皇道派:国体明徴運動(今の腐敗した国家は日本の
天皇の意に沿う国家ではないから、理想的
な国家をつくろう)に熱心で非合法によっ
てでも権力を握ろうとし、そして天皇親政
による国家を目指すグループで青年将校に
多かった。農民・労働者の窮状に深い同情
をもっていた。
(小畑敏四郎、荒木貞夫、真崎甚三郎ら)
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★農民は「富国強兵」の犠牲者だった。
農民は明治政府の重要政策であった「富国強兵」の犠牲者であった。
後進国が自らの原始的蓄積によってその資本主義を発展させる「富国」
のために農民は犠牲を求められた(地主金納、小作物納の租税体系と
地租の国税に占める割合をみても判る)。同時に「インド以下」とい
われた農民は「強兵」のためにはあたかもグルカ兵のように、馬車馬
的兵士として使われた。「富国」と「強兵」とは農民にとって本来結
合しない政策であった。この農民の二重苦にもかかわらず、隊附将校
は「富国」のために強兵を訓練し、「強兵」と生死をともにする立場
に立たされていた。そして幕僚は「富国」への体制に専念した。この
「富国強兵」策のもつ矛盾は、大正九年の経済恐慌、昭和二年の金融
恐慌、昭和五年の農業恐慌によって激化された。このことは、「武窓
に育って」社会ときりはなされていた青年将校に、軍の危機イコール
国の危機であるという彼ら特有の信念を、いよいよ自明のものとして
うけとらせるのに十分であった。(高橋正衛氏著『二・二六事件』中
公新書、p.148)
●二・二六事件(昭和11年2月26日):岡田内閣終焉
-->テロの恐怖
陸軍内部で国家改造運動をすすめていた皇道派青年将校
(栗原安秀、村中孝次、磯部浅市ら)たち約1500名が起こ
したクー・デタ未遂事件。
緊縮財政を推進し、軍事支出をできる限り押さえようと
した岡田内閣が軍部の標的にされ、高橋是清蔵相、内大臣
斉藤実、渡辺錠太郎教育総監らが暗殺された。
歩兵第一・三連隊、近衛兵第三連隊の20人余りの将校と
部下約1500名が参加し、約1時間ほどの間に日本の中枢を
手中に治めてしまった。皇道派の首魁は真崎甚三郎、決起
隊の中心人物は野中四郎(のち自決)だった。(歩兵第三
連隊安藤輝三大尉の決意と兵を想う気持ちを覚えておこう。
また真崎甚三郎の卑怯、狡猾さは忘れてはならない)。
○あてにもならぬ人の口を信じ、どうにもならぬ世の
中で飛び出して見たのは愚かであった。(竹島継夫
の遺書より)
○国民よ軍部を信頼するな。(渋川善助)
昭和史に造詣の深い高橋正衛氏によれば「二・二六事件
は真崎甚三郎の野心とかさなりあった青年将校の維新運動」
(『二・二六事件』、中公新書、p.175)と結論づけられる
が、真崎の卑しさとでたらめは粟屋憲太郎氏著『東京裁判
への道<下>』(講談社、pp.129-136)にも簡潔にまとめ
てある。日本ではいつもこういう卑怯で臆病なものどもが
はびこるのである。
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<蹶起趣意書>
謹んで惟るに我神洲たる所以は、万世一神たる天皇
陛下御統帥の下に、挙国一体生々化育を遂げ、終に八
紘一宇を完ふするの国体に存す。此の国体の尊厳秀絶
は天祖肇国神武建国より明治維新を経て益々体制を整
へ、今や方に万方に向って開顕進展を遂ぐべきの秋なり
然るに頃来遂に不逞凶悪の徒簇出して私心我欲を恣
にし、至尊絶体の尊厳を藐視し僭上之れ働き、万民の
生に化育を阻碍して塗炭の痛苦に呷吟せしめ、随って
外侮外患日を逐ふて激化す
所謂元老重臣軍閥官僚政党等は此の国体破壊の元凶
なり。倫敦海軍条約並に教育総監更迭に於ける統帥権
干犯、至尊兵馬大権の僭窃を図りたる三月事件或は学
匪共匪大逆教団等利害相結で陰謀至らざるなき等は最
も著しき事例にして、其の滔天の罪悪は流血憤怒真に
譬へ難き所なり。中岡、佐郷屋、血盟団の先駆捨身、
五・一五事件の噴騰、相沢中佐の閃発となる、寔に故
なきに非ず
而も幾度か頸血を濺ぎ来って今尚些も懺悔反省なく、
然も依然として私権自欲に居って苟且偸安を事とせり。
露支英米との間一触即発して祖宗遺垂の此の神洲を一
擲破滅に堕らしむるは火を睹るよりも明かなり
内外真に重大至急、今にして国体破壊の不義不臣を
誅戮して稜威を遮り御維新を阻止し来れる奸賊を芟除
するに非ずんば皇謨を一空せん。恰も第一師団出動の
大命煥発せられ、年来御維新翼賛を誓ひ殉国捨身の奉
公を期し来りし帝都衛戌の我等同志は、将に万里征途
に上らんとして而も顧みて内の世状に憂心転々禁ずる
能はず。君側の奸臣軍賊を斬除して、彼の中枢を粉砕
するは我等の任として能く為すべし。臣子たり股肱た
るの絶対道を今にして尽さざれば、破滅沈淪を翻へす
に由なし
茲に同憂同志機を一にして蹶起し、奸賊を誅滅して
大義を正し、国体の擁護開顕に肝脳を竭し、以て神洲
赤子の微衷を献ぜんとす
皇祖皇宗の神霊冀くば照覧冥助を垂れ給はんことを
昭和十一年二月二十六日
陸軍歩兵大尉 野中四郎
他同志一同
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※ 陸軍内部の派閥抗争(権力闘争)の極致
陸軍士官学校や陸軍大学校から軍の高級官僚が供給さ
れるようになって以来、彼等の人事権が確立し、外部の
干渉を排して自らの組織を編成するという、官僚機構独
特の行動が目立ちはじめた。ここに陸軍省と参謀本部の
内部で、陸軍の主導権をめぐって皇道派と統制派の対立
が生まれた。二・二六事件は権力闘争に敗れた皇道派の
青年将校のやぶれかぶれの行動であった。いつの時代も
官僚は白蟻のごとく国家に寄生しつつ権力闘争に明け暮
れている。結局依拠する基盤もろともに壊滅し、時には
国家の存亡を殆うくする。日本は21世紀に入っても相も
変わらず、全く懲りることなく同じ状況を呈している。
※ 軍人その本務を逸脱して余事に奔走すること、すでに
好ましくないが、さらに憂うべきことは、軍人が政治を
左右する結果は、もし一度戦争の危機に立った時、国民
の中には、戦争がはたして必至の運命によるか、あるい
は何らかのためにする結果かという疑惑を生ずるであろ
う。(河合栄治郎「二・二六事件について」、帝国大学
新聞(S11.3.9)より)
※ 私の見るところ、昭和初年代、十年代の初めに公然と
軍部に抵抗した言論人はこの桐生を含めて福岡日日新聞
の菊竹淳ではないかと思う。それだけにこのような言論
人は歴史上に名を刻んでおかなければならないと思うし、
またその言論から学ばなければならない。
その桐生(筆者注:桐生悠々)だが、二・二六事件か
ら十日ほど後の発行(三月五日の『他山の石』で「皇軍
を私兵化して国民の同情を失った軍部」という見出しの
もと、次のような批判を行った。
「だから言ったではないか。国体明徽よりも軍勅瀾徽
が先きであると。だから言ったではないか、五・一五事
件の犯人に対して一部国民が余りに盲目的、雷同的の讃
辞を呈すれば、これが模倣を防ぎ能わないと。だから、
言ったではないか。疾くに軍部の盲動を誡めなければ、
その害の及ぶところ実に測り知るべからざるものがある
と。だから、軍部と政府とに苦言を呈して、幾たびとな
く発禁の厄に遭ったではないか。国民はここに至って、
漸く目さめた。目さめたけれどももう遅い」。(保阪正
康氏著『昭和史の教訓』朝日新書、p.43)
※ 二・二六事件の本質は二つある、第一は一部少数のも
のが暴力の行使により政権を左右せんとしたことに於て、
それがファシズムの運動だということであり、第二はそ
の暴力行使した一部少数のものが、一般市民に非ずして
軍隊だということである。
二・二六事件は軍ファシズムによる「自ら善なりと確
信する変革を行うに何の悸る所があろうか」という根本
的な社会変革への誤りから出発した事件である。(河合
栄治郎、『中央公論』巻頭論文) (高橋正衛氏著
『二・二六事件』中公新書、p.23)
※ 石原莞爾:石原が中心になってこの事件を終息させた
といえる。
「この石原を殺したかったら、臆病なまねをするな。
直接自分の手で殺せ。兵隊の手を借りて殺すなど卑怯
千万である」(石原莞爾は統制派の指導者武藤章とと
もに、鎮圧に向いて動き始めていた)
「貴様らは、何だ、この様は。陛下の軍を私兵化し
おって。即座に解散し、原隊に復帰せよ。云う事をき
かないと、軍旗を奉じて、討伐するぞ!」
(事件後の陸軍を牽引したのは石原莞爾、梅津美治
郎、武藤章だったが、後二者は官僚色、統制色の強
い輩であり、精神的に皇道派的な石原莞爾は彼等
(幕僚派、東条英機も)との軋轢をもつことしばし
ばであった。結局このことが石原の軍人としての経
歴に終止符をうつことになった)。
※ 昭和天皇:
「朕ガ股肱ノ老臣ヲ殺戮ス、此ノ如キ凶暴ノ将校等、
其精神ニ於テモ何ノ恕スベキモノアリヤ」
「朕ガ最モ信頼セル老臣ヲ悉ク倒スハ真綿ニテ朕ガ
首ヲ締ムルニ等シキ行為ナリ」
※ 斎藤隆夫氏の粛軍演説(『粛軍に関する質問演説』)
については松本健一氏著『評伝 斎藤隆夫』、東洋経済、
pp。254-284を参照のこと。
ただし斎藤隆夫氏のこの憲政史上に残る名演説も、当
時の広田弘毅首相、寺内寿一陸相をして、軍部に対して
大した措置をとらせるには至らなかった。結局は皇道派
の首脳を退陣させただけで、残った統制派が、我が世の
春を謳歌することになっただけだった。
※ この重大な情勢下で日本には政治の指導者がいない。
すでに多年来、政府は内蔵する力も、また決意も持た
ない。軍部と官僚と財界と政党の諸勢力のまぜものに
すぎない。以前は強力であった政党も汚職と内部派閥
の闘争のため、政治的には全く退化し、国民の大多数
から軽蔑されている。(リヒアルト・ゾルゲ『日本の
軍部』より)
●日独防共協定(昭和11年11月)成立
大島浩中将とナチス・リッベントロップの交渉にはじ
まる。陸軍武官が大使館の外交ルートに侵食してきたケ
ースの典型例(--->昭和12年11月にはイタリアも参加)
★1937年(昭和12年)から1945年(昭和20年)までの短期間に、突然、
論理的に整合性があり、極めて効率的で、戦時中のみならず戦後日本
の奇跡の経済成長の礎石となった戦時経済システムができあがった。
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※国家の理想は”正義と平和”にあるという日本の良識の最高峰
であった東大教授・矢内原忠雄氏は、度重なる言論弾圧により
昭和12年12月2日、最終講義を終えて大学を去った。以下学ぶ事
の多い終講の辞より。
植民地領有の問題をとって考えてみても、種々の方面から
事をわけて考えねばならない。研究者は一定の目的を以て行
われている現実の政策をも学問的に見て、それが正しいかあ
るいは利益があるかを決すべきであり、実行者がやっている
の故を以てそれを当然に正しいとか利益があるとかいうこと
は出来ない。
・・・大学令第一条には大学の使命を規定して、学術の蘊
奥並びにその応用を研究し且つ教授すること、人格を陶冶す
ること、国家思想を涵養すること、の三を挙げている。その
中最も直接に大学の本質たるものは学問である。もちろん学
問の研究は実行家の実行を問題とし、殊に社会科学はそれ以
外の対象をもたない。また学問研究の結果を実行家の利用に
供すること、個々の問題について参考意見を述べること等も
もとより妨げない。しかしながら学問本来の使命は実行家の
実行に対する批判であり、常に現実政策に追随してチンドン
屋を勤めることではない。現在は具体的政策達成のためにあ
らゆる手段を動員している時世であるが、いやしくも学問の
権威、真理の権威がある限りは、実用と学問的の真実さは厳
重に区別されなければならない。ここに大学なるものの本質
があり、大学教授の任務があると確信する。大学令に「国家
思想を涵養し」云々とある如く、国家を軽視することが帝国
大学の趣旨にかなわぬことはもちろんである。しかしながら
実行者の現実の政策が本来の国家の理想に適うか否か、見分
け得ぬような人間は大学教授ではない。大学において国家思
想を涵養するというのは、学術的に涵養することである。浅
薄な俗流的な国家思想を排除して、学問的な国家思想を養成
することにある。時流によって動揺する如きものでなく、真
に学問の基礎の上に国家思想をよりねりかためて、把握しな
ければならない。学問的真実さ、真理に忠実にして真理のた
めには何者をも怖れぬ人格、しかして学術的鍛錬を経た深い
意味の国家思想、そのような頭の持主を教育するのが大学で
あると思う。国家が巨額の経費をかけて諸君を教育するのは、
通俗的な思想の水準を越えたところのかかる人間を養成する
趣旨であることを記憶せよ。学問の立場から考えれば戦争そ
のものも研究の対象となり、如何なる理由で、また如何なる
意味をそれが有つかが我々の問題となる。戦争論が何が故に
国家思想の涵養に反するか。戎る人々は言う、私の思想が学
生に影響を及ぼすが故によくないと。しかし私はあらゆる意
味において政治家ではない。私は不充分ながらとにかく学問
を愛し、学生を愛し、出来るだけ講義も休まず努力して来た
だけで、それ以外には学生に対して殆んど何もしなかった。
学生諸君の先頭に立つようなことは嫌いだった。しかし私が
こうして研究室と教室とに精勤したということがよくないと
いうなら、それは私の不徳の致すところだから仕方がない。
私は不充分ながら自分が大学教授としての職責をおろそか
にしたとは思わない。しかし私の考えている大学の本質、使
命、任務、国家思想の涵養などの認識について、同僚中の数
氏と意見が合わないことを今回明白に発見したのである。も
っとも、意見の異る人々の間にあってやって行けないわけで
はない。いろいろの人々、いろいろの傾向が一つの組織の中
に統一せられることは、大学として結構であり、学生に対し
ても善いのである。考えや思想が一色であることは、かえつ
て大学に取って致命的である。故に私は他の人々と意見が異
うからという理由で潔癖に出てゆくわけではない。私は何人
をも憎みまた恐れるわけではない。地位を惜しむものでもな
く、後足で砂をかけ唾を吐いて出てゆくのでもない。私は大
学とその学生とを愛する。私はゴルフをやるでなし芝居を見
るでなし、教室に来て諸君に講義し諸君と議論することが唯
一の楽しみであった。それも今日限りで、諸君と、また諸
君の次々に来る学生等と、相対することも出来なくなるのだ。
しかし私の思想が悪いというので大学に御迷惑になるとすれ
ば、私は進んで止める外はないのである。
私の望むところは、私が去った後で大学がファッショ化す
ることを極力恐れる。大学が外部の情勢に刺戟されて動くこ
とはあり得ることであり、また或る程度必要でもあろうが、
流れのまにまに外部の動く通りに動くことを、私は大学殊に
経済学部のために衷心恐れる。もしそういうことであるなら、
学問は当然滅びるであろう。・・・現象の表面、言葉の表面
を越えたところの学問的真実さ、人格的真実さ、かかる真実
さを有つ学生を養成するのが大学の使命である。これが私の
信念である。諸君はこれを終生失うことなくして、進んで行
かれることを望む。私は大学と研究室と仲間と学生とに別れ
て、外へ出る。しかし私自身はこのことを何とも思っていな
い。私は身体を滅して魂を滅すことのできない者を恐れない。
私は誰をも恐れもしなければ、憎みも恨みもしない。ただし
身体ばかり太って魂の痩せた人間を軽蔑する。諸君はそのよ
うな人間にならないように……。(矢内原忠雄氏著『私の歩
んできた道』日本図書センター、pp.106-110)
★ここまで発展してきた医師会も日中戦争から、大東亜戦争へと続く戦
時体制の中で、戦争遂行のための国家総動員体制の中に組み込まれた。
※ 広田弘毅内閣への軍部の数々の嫌がらせや組閣僚人
への妨害工作
<寺内(お坊ちゃん)大将の横やり>
「これには(閣僚予定者)、民政・政友の両党
から二名ずつ大臣が入っている。これでは政党政
治に他ならない。政党出身者は各党一名に限ると、
軍からかねがね希望していたはずであり、一名ず
つに減らさぬ限り、軍は承知できない。陸軍大臣
を辞退する」
※ 平民宰相広田弘毅の苦悩(軍部大臣現役武官制の復帰<--最悪!!)
広田弘毅は二・二六事件に対して粛軍を断行した。
しかしこれは軍部内部の派閥争い(統制派による皇
道派締め出し)に利用され、軍部が全面的に反省の
意を示したことにはならなかった。そればかりか、
陸軍より「粛軍の一環として、軍部現役大臣(軍部
大臣現役武官制)への復帰」という提案が出され 、
広田弘毅は「現役将官のなかから総理が自由に選任
できる」ことを条件にそれを認めた。
しかし、たとえ条件つきでも軍部大臣現役武官制
のもとでは、どんなときにも陸軍主導の内閣を作る
ことができるようになってしまった。
(広田弘毅は、このことを軍部暴走の追随として
後の東京裁判で弾劾されることになった。さらに彼
は当時の悪名高い愛国主義団体”黒龍会(首領:頭
山満)”の親睦団体である”玄洋社”で、青年時に
教育されていた。この事実も彼の判決に不利に作用 した)。
※ 浜田国松による軍部政策批判(昭和12年1月21日)
政友会、浜田国松は第70議会(広田内閣、寺内陸
相)において、軍部の改革案と政策決定への軍の関
与に対して激しく批判した。
「独裁強化の政治的イデオロギーは、常に滔々
として軍の底を流れ、時に文武烙循の堤防を破壊
せんとする危険あることは国民の均しく顰蹙する
ところである」。(--->広田内閣は致命的な分裂へ)
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☆ 余談1
<昭和12年、三木清『学生の知能低下について』(文藝春秋5月号)>
昔の高等学校の生徒は青年らしい好奇心と、懐疑心と、そして
理想主義的熱情をもち、そのためにあらゆる書物を貪り読んだ。
・・・しかるに今日の高等学校の生徒においては、彼等の自然の、
生年らしい好奇心も、理想主義的感情も、彼等の前に控えている
大学の入学試験に対する配慮によって抑制されてゐるのみでなく、
一層根本的には学校の教育方針そのものによって圧殺されてゐる。
・・・或る大学生の話によると、事変後の高等学校生は殆ど何等
の社会的関心ものたずにただ学校を卒業しさへすれば好いといふ
やうな気持ちで大学へ入ってくる。それでも従来は、大学にはま
だ事変前の学生が残ってゐて、彼等によって新入生は教育され、
多少とも社会的関心をもつやうになり、学問や社会に就いて批判
的な見方をするやうになることができた。
しかるに事変前の学生が次第にすくなくなるにつれて、学生の
社会的関心も次第に乏しくなり、かやうにして所謂「キング学生」
、即ち学校の過程以外には「キング」程度のものしか読まない学
生の数は次第に増加しつつあると云はれる。(文藝春秋 2002年2
月号、坪内祐三『風呂敷雑誌』より)
☆ 余談2
<「少国民世代」>
「少国民世代」などとも呼ばれるこの世代は、敗戦時に10歳前
後から10代前半であった。敗戦時に31歳だった丸山(筆者注:丸山
眞男)など「戦前派」(この呼称は丸山らの世代が自称したもの
ではなかったが)はもちろん、敗戦時に25歳だった吉本など「戦
中派」よりも、いっそう戦争と皇国教育に塗りつぶされて育った
のが、この「少国民世代」だった。
1943年の『東京府中等学校入学案内』には、当時の中学校の面
接試験で出された口頭試問の事例として、以下のようなものが掲
載されている。
「いま日本軍はどの辺で戦っていますか。その中で一番寒い
所はどこですか。君はそこで戦っている兵隊さん方に対してど
んな感じがしますか。では、どうしなければなりませんか」。
「米英に勝つにはどうすればよいですか」。「君はどういう
ふうに節約をしていますか」。「日本の兵隊は何と言って戦死
しますか。何故ですか。いま貴方が恩を受けている人を言って
ごらんなさい。どうすれば恩を返す事ができますか」。
こうした質問は、児童一人ひとりに、君はどうするのかという
倫理的な問いを突きつけ、告白を迫るものだった。
(小熊英二氏著氏著『<民主>と<愛国>』新曜社、p.657)
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★この後広田内閣が倒れて、首相選びと組閣は混迷を極めた。軍人(幕
僚派)の横暴、横やり、いやがらせが続き、結局大命は林銑十郎に下
った。林銑十郎の組閣も陸軍、海軍、官僚が幕僚派、満州派(石原莞
爾、十河信二、板垣征四郎、池田成彬、津田信吾)に分かれて次々と
容喙し、「林銑十郎内閣は支那と戦争しないための内閣だ(石原莞爾)
」という言葉にこめられた対中融和政策が永遠に葬られた。
(昭和12年1~2月)
●文部省より『国体の本義』という精神教育本を発行(昭和12年
4月)
橋川文三はその著(『昭和ナショナリズムの諸相』)のなか
で興味深い指摘をしている。次のようにである。
「(ファシズムの)推進力となった団体といいますか、主
体ということと同時に、その主体のさまざまなアピールに応
える共鳴盤といいますか、そういったものを合わせて考えな
いと、推進力という問題はでてこないのではないかと思いま
す。ここで共鳴盤として考えたいのは、具体的に申しますと、
農村青年とか、一般知識人とか、学生という階層にあたるわ
けです。はじめから右翼的な団体があって、それがそのまま
ファシズムを作りあげたのではなく、それに共鳴する大衆の
側、あるいは中間層、その層にいろいろ問題があったわけで
す。だからこそファシズムという一つの統合形態を生みだし
えたと考えるほうが妥当ではないかということです」。
共鳴盤という言い方が示しているのだが、それは権力を動か
すグループと「臣民」化した国民がともに声を発し、それが山
彦のようにこだまして反応しあうその状態といっていいのでは
ないか。(保阪正康氏著『昭和史の教訓』朝日新書、
pp.126-127)
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「久しく個人主義の下にその社会・国家を発達せしめた欧米
が、今日の行詰りを如何に打開するかの問題は暫く措き、我が
国に関する限り、眞に我が国独自の立場に還り、萬古不易の国
体を闡明し、一切の追随を排して、よく本来の姿を現前せしめ、
而も固陋を棄てて益々欧米攝収醇化に努め、本を立てて末を生
かし、聡明にして宏量なる新日本を建設すベきである」
この訴えが、『国体の本義』(全百五十六頁)の全頁にあふ
れている。現在、この冊子を手にとって読んでもあまりにも抽
象的、精神的な表現に驚かされるのだが、なによりも天皇神格
化を軸にして、臣民は私を捨てて忠誠心を以て皇運を扶翼し奉
ることがひたすら要求されている。昭和十二年四月には、この
冊子は全国の尋常小学校、中学校、高校、専門学校、大学など
のほか、各地の図書館や官庁にも配布されたというのである。
この『国体の本義』は、前述の庶民の例の代表的な皇国史
『皇国二千六百年史』を誘いだす上部構造からの国益を前面に
打ちだしてのナショナリズム滴養の書であった。橋川文三がそ
の書(『昭和ナショナリズムの諸相』)で説いたように、まさ
に共鳴盤の役割を果たしていたといっていい。
(保阪正康氏著『昭和史の教訓』朝日新書、pp.128-129)
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「明き清き心は、主我的・利己的な心を去って、本源に生き、
道に生きる心である。即ち君民一体の肇国以来の道に生きる心
である。こゝにすべての私心の穢(けがれ)は去って、明き正
しき心持が生ずる。私を没して本源に生きる精神は、やがて義
勇奉公の心となって現れ、身を捨てて国に報ずる心となって現
れる。これに反して、己に執し、己がためにのみ計る心は、我
が国に於いては、昔より黒(きたなき)き心、穢れたる心とい
はれ、これを祓ひ、これを去ることに努めて来た」
こういう説得が、この『国体の本義』の骨格を成している。
(保阪正康氏著『昭和史の教訓』朝日新書、pp.139-140)
●支那事変(日中戦争、1937年、昭和12年7月7日~)
南京陥落(12月13日)
※ 盧溝橋事件(昭和12年7月8日未明)が発端となった。
北京郊外の盧溝橋に近い野原で、夜間演習中の第一連隊
第三大隊が、国民党軍から発砲を受けた。
当時の中国、特に華北情勢は、蒋介石の南京政府と共産
党、冀察政権(宋哲元政務委員長)三者のきわめて微妙な
バランスと相互作用の上に形成されていた。(なお国民党
はナチス・ドイツと極めて緊密な関係にあり、同時に日本
は日独伊防共協定の締結国として大事な政治上のパートナ
ーであって、日中が対立することはドイツの世界戦略にと
って頭痛の種となっていた)。
※ 支那事変は厳密には重慶に位置する蒋介石政権に対する
軍事行動だった。日本はあえて「支那事変」と称した。そ
れは「戦争」と宣言した場合主として米国が日本に対する
物資の輸出を禁絶するであろうと虞れたからである。(瀬
島龍三『大東亜戦争の実相』より)
※ 陸軍参謀本部作戦部長は石原莞爾だった。石原は作戦課
長の武藤章らの強硬論と対立し、期せずして日中戦争不拡
大派となっていた。
「自分は騙されていた。徹底していたはずの不拡大命
令が、いつも裏切られてばかりいた。面従腹背の徒にし
てやられたのだ」。
※ 国家至上主義の台頭(軍人の思い上がり)
「天皇の命令といえども、国家に益なき場合は従う
必要はない」。
※ 戦争拡大派:見よ!、ワルどものオン・パレードを!!
南次郎(朝鮮総督)、小磯国昭(朝鮮軍司令官)、
東条英機(関東軍参謀長)、富永恭次・辻政信(いず
れも東条英機の輩下)、寺内寿一、梅津美治郎、牟田
口廉也、陸軍省の大部分の阿呆ども(田中新一(陸軍
省軍務局軍事課)、武藤章(陸軍省軍務局作戦第三課
、この男は"悪魔の化身"といっていい)、陸軍大臣
杉山元、近衛文麿、広田弘毅など
※ 日本史上最悪の悪魔の歌の慫慂(「軍人も国民もみんな
死ね!!」)
『海行かば水づく屍山行かば草むす屍大君の辺にこそ
死なめかえりみはせじ』
どうだ!!、この国のばけものどもが、国家をあげ
て慫慂したこの歌の非人間性を、こころ行くまで味
わい給え!!。(当時の兵隊さんは、「海に河馬、み
みずく馬鹿ね・・」と揶揄していたが・・・)
※ 南京攻略戦を書いた石川達三氏著『生きている兵隊』は
1/4ほど伏字で昭和13年発表されたが翌日発禁となった。
●「通州事件」(昭和12年7月29日)
冀東政権(冀東防衛自治政府=日本の傀儡政権)の保安隊
が日本軍の誤爆(保安隊兵舎の誤爆)の報復として日本の
守備隊、特務機関、一般居留民を200人あまり虐殺した。当
時の「支那に膺懲を加える」というスローガンはこの事件
がきっかけだった。(川本三郎氏著『林芙美子の昭和』、
新書館より)
●中国、第二次国共合作成立(昭和12年8月)。
中国における排日抗日の気運の昂揚(「救国抗日統一戦線」)
●第二次上海事変(昭和12年8月13日)
中国空軍が上海の日本軍の戦艦出雲を空爆する。指揮官は
アメリカ軍人シェンノート(宋美齢の要請)。しかし中国空
軍は租界を誤爆(?)したり、着陸失敗など惨憺たる有様だっ
た。西欧諸国はこの誤爆を全て日本の責任として報道、日本
は不当にも西欧列強から手ひどく指弾され、英国はついに蒋
介石支援を決意した。
結局、この第二次上海事変では、蒋介石側の溢れる抗戦意
欲、ドイツの協力指導による焦土作戦の緻密さ、英米各国の
蒋介石政権への固い支持が明らかになった。しかし参謀本部
はこの脅威を一顧だにしなかった。
このとき日本では松井石根を司令官とする上海派遣軍が編
成され、昭和12年8月14日に派遣が下命された。蒋介石は15日
に総動員令を発動し、大本営を設置、陸海空軍の総司令官に
就任。これより日中衝突は全面戦争へと発展した。昭和12年
11月までに死傷者は4万余に達した。
★日中全面戦争に至り死傷者が急増した。「一撃膺懲」などという安易な
スローガンのもと、何の見通しもないまま激しい総力戦へと引きずりこ
まれていった国民が、憤激したのは当然だった。しかしこのような事態
にたいし、政府は国民の精神、気分自体を統制しようと試みはじめた。
近衛首相は上海事変たけなわの9月11日に、日比谷公会堂で国民精神総
動員演説大会を開催、事変への国民的な献身と集中を呼びかけた。9月
22日には、「国民精神総動員強調週間実施要綱」が閣議決定された。
10月半ばには、国民精神の昂揚週間が設けられ、政財界など民間の代表
を理事に迎え、各県知事を地方実行委員とする国民精神総動員中央連盟
が結成された。(福田和也氏著『地ひらく』文藝春秋より要約)
★戦争拡大派が2カ月で片付くと予想した戦闘は、中国軍の烈しい抵抗で
思いもかけない規模に拡大することになった。とくに上海に戦火が波及
してからの激戦で、日本軍の苦戦がつづき、次々に増援兵力を送らなけ
ればならなくなった。このため兵力も、弾薬や資材も、予想もしなかっ
た規模にふくれ上った。
もともと日本陸軍は、対ソ戦争を第一の目標としていた。中国との戦
争が拡大しても、対ソ戦の準備を怠るわけにはいかなかった。そして対
ソ用の現役師団をなるべく動かさないで中国に兵力を送るために、特設
師団を多数動員した。特設師団というのは現役2年、予備役5年半を終了
したあと、年間服する年齢の高い後備役兵を召集して臨時に編成する部
隊である。1937年後半から38年にかけて、多数の特設師団が中国に派遣
されることになった。現役を終ってから数年から十数年も経ってから召
集された兵士たちが、特設師団の主力を構成していたということになる。
また彼らの多くは、結婚して3人も4人も子供があるのが普通だった。
「後顧の憂い」の多い兵士たちだったといえる。上海の激戦で生じた数
万の戦死者の多くが、こうした後備兵だったのである。それだけに士気
の衰え、軍紀の弛緩が生じやすかったのである。軍隊の急速な拡大によ
る素質の低下、士気、軍紀の弛緩も、掠奪、暴行などの戦争犯罪を多発
させる原因を作ったといえる。(藤原彰氏著『天皇の軍隊と日中戦争』
大月書店、p.15)
★戦時体制下の思想弾圧
日中戦争の長期化は国内の戦時体制強化を促し、戦争に対して非協力
的であったり、軍部を批判する思想・言論・学問は弾圧・排除の対象と
なった。日中戦争勃発四カ月後の1937年11月には、ヨーロッパの反ファ
シズム人民戦線運動を紹介した中井正一らの『世界文化』グループが検
挙され、『世界文化』は廃刊となった。翌12月、コミンテルンの人民戦
線戦術に呼応して革命を企図しているとして、山川均、荒畑寒村、猪俣
津南雄、向坂逸郎ら約400名が一斉検挙され、日本無産党・日本労働組
合全国評議会は結社禁止となった(人民戦線事件)。次いで、翌38年2月
には、大内兵衛、有沢広巳、脇村義太郎ら教授グループが検挙され、治
安維持法違反で起訴された(教授グループ事件)。
(松井慎一郎氏著『戦闘的自由主義者 河合榮治郎』社会思想社、p.193)
<転載終了>